主が約束された通り。

創世記21章1-8節(旧29頁)         ヘブライ人への手紙11章11-12節(新415頁) 前置き カルデアのウル地域を離れ、今のトルコ地域のハランに住んでいたアブラハムに主が現れ、彼を主の民とされてから25年が経ちました。長いといえば長く、短いといえば短い25年という年月の間、神はアブラハムに相続人をくださるという約束、アブラハムとその子孫をご自分の民にされ土地を与えるという約束を通して、彼と一緒にいてくださいました。アブラハムは、何度も挫折と絶望、失敗を経験し続けていましたが、それでも彼は神の約束を覚え、常に主に付き従っていました。アブラハムは、「自分はできないが、主はお出来になる。」という神への信仰を持って、最後まで主、神の約束を待ち望んでいたのです。それで神はアブラハムに不十分さと弱さがあるにもかかわらず、彼の信仰をご覧になり、約束を果たしてくださいました。結局、神の約束通りにアブラハムの相続人イサクが生まれたのです。まさに今日の本文のことです。25年の間成し遂げられないまま、続いてきた約束、相続人を与えるという約束がついに成就されたわけです。 1.主の御言葉のとおりに。 2019年インドで74歳のお婆さんが双子を産んだとのニュースがありました。夫は80代のお爺さんだったそうです。正常な方法ではなく、他人の卵子寄贈を受けて人工授精を行い、帝王切開で出産しましたが、赤ちゃんは無事に生まれたと言われています。現在、彼女は歴史上の最高齢の産婦として記録されているそうです。このように科学が発達した現代でも、70代の女性が子供を産んだら、人々はとても驚きます。ところで、今日の創世記ではアブラハムの妻サラが90歳で子どもを産んだという物語が出てきます。このサラは人工授精でも、帝王切開でもなく自然に子供を産んだのです。しかも今から約3500年前の話です。そのように子供を産んだことについて、今日本文はこのように語っています。「主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、 彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。」(創21:1-2)現代の未信者たちは創世記の話を神話だと思っているかも知れませんが、私たちはこのイサクの誕生を本当の出来事として信じています。 何故なら、神がそうおっしゃったからです。 信仰とは「神の御言葉どおりに成し遂げられると信じること」です。「神が私の思いのままに叶えてくださること」ではなく、「神の御言葉が神の御心のままに必ず成し遂げられること」を信じることが、真の信仰なのです。伝道師時代、私は子供会を担当していました。その時、子供達によくこのように問われました。「神様におもちゃが欲しいと祈っても聞いてくれないの。」それで、私はこう言い返したのです。「神様が本当におもちゃをくださると言われたの?」と聞いたら「いいえ」と照れ笑いして言っていました。もし、私たちが神の御言葉によるのではなく、自分の欲望によって、神を利用しようとするかのように祈ったら、私たちの祈りはまるで子供会の子供たちのおもちゃをせがむ祈りのように決して叶わないことでしょう。私たちは「神の御言葉」に基づいて祈らなければなりません。今日の本文では「主が約束されたとおり、さきに語られたとおり、神が約束されていた時期」という表現が登場しています。これらをヘブライ語風に翻訳すると、「神の御言葉どおりに」という一つの表現になります。神はご自身がおっしゃった御言葉どおりに成し遂げられる方です。そして、その御言葉による約束は、どんなことがあってもお守りになる方なのです。その神の御言葉を信じ込んだアブラハムとサラは、老年になって相続人を儲けることになったのです。 2.サラを顧みてくださった神。 サラはつらい人生を生きた女でした。かつてアブラハムと結婚しましたが、彼女には長年子供がいませんでした。現代は子どもがいないからといって、そんなに問題化するとは思えません。子供の有無よりも、夫婦が仲良く過ごすことが、より大切な時代になっているからです。しかし、アブラハムの時代の女性において、子どもがいないということは、死亡宣告のようなものでした。当時の女性は幼い時は父、結婚してからは夫、夫の死後は息子に頼って暮らすのが一般的でした。神が旧約の律法を通して「孤児と寡婦のために」と何度も言われた理由も頼れる男のいない子供たちや女性たちのための最小限度の社会的な配慮を促されるご命令だったからです。このように子どものいないサラは、生きていても生きた心地がしない状況でした。そんなある日、神が夫のアブラハムから生まれる息子を授けると約束してくださいました。その話を聞いた時、サラは小さな希望を見つけたかも知れません。しかし、神は直ぐにはその約束を果たしてはくださいませんでした。待ちくたびれたサラは自分の女奴隷を夫の側女にしました。相続人が夫から生まれると言われたから、自分の身でなくても構わないと思ったわけです。しかし、その結果、返ってきたのは、側女の反抗と蔑視でした。 それから、10年以上経って神がまた現われて今度はサラ自身を通して子供をくださると約束されました。「わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。」(創17:16)しかし、サラはすでにかなり老いている状態でした。初めて神に出会った時のサラは65歳でした。その時、身ごもっても、産めるかどうかの状態だったのに、25年が過ぎた90歳に神が子供をくださると言われたわけです。サラはそれが信じられませんでした。しかし、しばらくして神は再び主の御使いを送って、確とお知らせになりました。「主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」(創18:14)そして結局、神は今日の御言葉通りにサラとの約束を守ってくださったのです。神の約束は特別な存在にのみ、与えられるものではありません。神はアブラハムだけに主役を与えられたことでもありません。神は年寄、弱者、女性のサラにも、神の御救いの歴史を成し遂げる主人公としての役割を与えてくださいました。確かにアブラハムとサラは完全無欠な信仰者ではありませんでした。創世記には彼らの数多くの失敗が記されています。しかし、神は一方的なご恩寵を通して、不完全な二人を導いてくださいました。弱くて老いた女性、子どもへの希望が見えなかったサラは、最終的に神の一方的な恵みによって神の栄光に満ちた存在として生まれ変わりました。 3.変わらない神の約束と成就。 私たちの信仰は、私たち自身の行いにかかっているものではありません。もちろん、私たちも自分なりの信仰の熱情を持って生きるべきであることは確かです。毎日御言葉に耳を傾け、毎日信仰を持って祈り、毎日主の御旨に頼って待ち望んで生きるべきです。しかし、本当に神が望んでおられることは信徒自身の努力、行為ではなく、神の御言葉、つまり主の約束通りに成し遂げられる神への信徒の信頼と愛なのです。ご自分の民の信頼と愛の中で、神はご自身の御業を、主の御言葉に基づいて完全に成し遂げられ、主が成就なさった、その栄光を民に分け与えてくださるのです。神の約束、すなわちアブラハムとサラを通して相続人を与え、その相続人から生まれたイスラエルの民に土地を与えるという旧約の約束は、キリストを通して神の国を建て、この世を救ってくださるという新約の約束の第一歩なのです。アブラハムにイサクをくださったことは、このアブラハムとイサク、そして彼の息子ヤコブの子孫を通して私たちのところに来られる、救い主イエス·キリストの到来の予告であり、約束なのです。そして神はそのキリストを通して、この世を罪から救ってくださるのです。 神は聖書の御言葉を通して、私たちに仰せになります。神と隣人への愛という最も基本的な御言葉からはじめ、いろいろな約束をくださいます。私たちはその御言葉に基づいて神の約束の成就を期待しつつ生きるべきでしょう。しかし、その約束が私たち自身の望む時点に成されるとは言えません。神の時と人間の時は違うからです。私が志免教会に赴任したばかりのある日、どなたかにこう言われました。「先生、心配しないでください。志免教会には何度も危機がありましたが、神様はその度に志免教会を守ってくださいました。」私はその話を聞いて大きな感動を受けました。それは神への一点非の打ち所のない完璧な信仰告白だったからです。神は私たちが教師を必要としていた時には待っておられました。そして、私達がもうダメかと思った時、教師を送ってくださいました。もちろん他国からの宣教師ですので文化的に、言語的に多少の違いはあるでしょうが、少なくとも主は教会を守り、御言葉を分かち合う道を開いてくださいました。そして、その宣教師の伝道を通して、立派な日本人の牧師を立ち上がらせてくださるかも知れないでしょう。人間の時と神の時は違います。神はご自分の教会を最後まで守り、導いてくださるという約束の言葉をくださいました。私たちは信頼、愛、そして忍耐で、その御言葉の成就を待ち望むべきです。主の御言葉ですので、主が必ず成し遂げてくださるでしょう。 締め括り 「信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。」(ヘブライ11:11)アブラハムの年齢100歳、これには数字としての意味と共に「ほぼ死んだ者」としての意味もあります。90歳の女性サラも同じです。しかし、神は御言葉に基づいてほぼ死んだ者から息子を産ませてくださいました。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。」(創21:6)何の希望もない中でも、神は希望をくださる方です。イサクという息子の名前は「彼が笑うだろう」という意味です。ほぼ死んだ者であったアブラハムとサラは神への信仰によって力を得、神の約束を信頼し、終わりに笑う人になりました。神は今日も私たちに信仰を求めておられます。「私はできないが、私の主は約束に基づいて成し遂げてくださるだろう。」という信仰を持って生きていきましょう。神は約束の言葉を必ず成し遂げてくださる方です。その神を堅く信じ、感謝と喜びで生きる志免教会になることを祈り願います。