兄弟を裁いてはならない。―お互いに受け入れなさい。―

ローマの信徒への手紙14章1-12節 前置き ローマ書を通して、人間の堕落と神の愛、キリストによる御救いなど、キリスト教の教義への知識を幅広く教えたパウロは、後半に入っては、キリスト者の生きるべき生き方について勧めました。 12章ではキリスト者らしく、この世に倣わず、聖なる生ける生け贄となり、弁えのある生活をすることを勧め、13章では、国と団体の権威へのキリスト者の対応と在り方について述べました。今日の14章では教会の中での生活、とりわけ裁き、いわゆる、判断することについて語っています。前のローマ書2章の説教では、判断は神の固有の権限であり、正しい判断ができない人間は、判断を手控え、判断に謙虚さと慎重さを持つべきだと話しました。また、先週の創世記の説教では、神の固有の権限である判断することを貪った人間が、そのために堕落したとも話しました。判断は自分が正義であるという前提に基づいて始まることです。時々、教会内で信徒同士が自分の信念や判断により、相手を憎んだり、紛争が起こったりする場合があります。パウロはローマ教会の内部でも、このように判断による争いがあるのを知り、14章の言葉を通して判断に対する正しい知識と信徒同士の平和を望みました。今日は、その信徒の判断について話してみたいと思います。 1.ローマ教会の内部の争い。 まずは、ローマ教会があった1世紀のローマ地域の話を分かち合いたいと思います。ローマ教会では、ローマに住んでいるユダヤ人のキリスト者と、異邦人のキリスト者が共存していました。彼らは文化の違いと思想の違いを持っ​​ていましたが、イエス・キリストへの信仰を通して一つになり、教会を形成していました。しかし、当時は今のようにグローバル化された時代ではなかったため、同じ信仰と教会を持っているにもかかわらず、各々の思想の幅を狭めることは、非常に難しい問題でした。世の中がどんなにグローバル化された今でも、それぞれの思想と文化の距離を狭めることは依然として、そう簡単ではない問題です。隣国である日本と韓国の歴史観が異なることはもとより、米国と中国の世界観も全然異なります。東京都民と福岡県民の考え方も異なると思います。志免町民と須恵町民の考え方も異なるかもしれません。ましてや、2000年前の古代社会で、それぞれの思想や文化間にある隔たりは、今よりも遥かに狭めることが難しかったのでしょう。そのような条件の中で葛藤が生じるのは当然の結果だったのです。 ローマ教会の内部にも、そのような問題がありました。ローマ教会の問題については、大凡3つに分けて考えることが出来ます。1つ目は食べることに関する問題です。 「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。」(2)当時ローマ帝国で流通してい肉は全量皇帝のための生け贄として使用された肉です。当時の皇帝は神のような存在と扱われており、その皇帝のための異邦宗教の供物としての意味が込められていた肉の中で、残ったものを市場で販売していたものです。神様のみを信じようと告白したキリスト者の中で、ある人々は、その生け贄に使用された肉は、偶像への供物なので、食べてはならないと思いました。しかし、あるキリスト者たちは、すべてのものが神によって創造され、神様以外の偶像は存在しない無力なものなので、肉を食べても問題なんかないと信じていました。それで、彼らは互いに持つ考え方の違いにより、互いに非難し、争うことになりました。 二つ目に、日の問題です。「ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。」(5)これは、初期キリスト教会でのユダヤ人の安息日とキリスト教の聖日への認識の違いから生まれた問題でした。ユダヤ出身者たちは、安息日は守るべきだと思いました。しかし、異邦人たちは、イエスが復活された日である聖日が、さらに大事だと思いました。結局、礼拝する日への認識の違いによって葛藤が生じたということです。当時の、ある教会では、葛藤を抑えるために安息日と聖日、すなわち土曜日と日曜日の両日に礼拝を守ったとの記録も残っているそうです。三つ目に、ローマ書では出て来ませんが、当時の教会で頭痛の種だったと言われる割礼の問題があります。ユダヤ人は割礼を必ず守らなければならないと考えていましたが、異邦人は、あえて割礼を守る必要があるのかと思いました。実際に、イエス・キリストが受肉を通して律法のすべてを完成された後に、割礼は、あえて、守る必要のない儀式となりました。しかし、一生をユダヤ教の伝統を守りながら、生きてきた人々にそのような伝統を無視することは簡単なことではありませんでした。また、ユダヤ教から来た律法の儀式を強いた偽の教師たちのために、そのような割礼の問題は、教会内に大きな傷をつけるほどの深刻な問題となりました。このように、ローマ教会の中で、異なる考え方が衝突し、教会を分裂させる重大な恐れが生じたのです。 2.本当に大事なこと。 これらの問題は、現代の日本に住んでいる私たちにはあまり重要ではない問題と思われるかもしれません。しかし、現代の教会でも類似の出来事が起こったりします。私は日本に来て、まだ教会内の葛藤や問題を見たことがありませんので、挙げる例え話がありません。なので、私が韓国の教会で働いて経験した話をさせて頂きたいと思います。韓国教会の一部の人は、早天祈り会を大事に守っています。また一部の人は、早天祈り会は行ってもいいし、行かなくても構わないと思っています。誰かは早天祈り会を大切に扱っていますが、誰かは必ずしも守る必要はないものとして扱います。ところで、さてある日、信者の二人が早天祈り会への異見のため、論争しました。そんなことで争う必要があるのかと思われるかも知れませんが、2人には大事な問題だったのです。別の例としては、一部の人はキリスト者は酒を飲んではいけないとし、一部の人は酒を飲んでも構わないとして論争が始まりました。聖書には飲んでも良いというニュアンスと飲んではいけないというニュアンスの両方があるからです。正直、早天祈り会も、飲酒の問題もキリスト教の根本を損ねるほどの重要な事柄ではありません。しかし、それぞれの信仰や信念では、それが重要な問題となることもあり、重要ではない問題となる可能性があります。しかし、問題は皆が自分の主張だけを考え、相手のことを無視したことから生まれたのです。 このように重要ではない教会の問題をギリシャ語で「アディアポラ」と言います。その意味は、「本質的ではない問題」という意味です。やっても良いし、やらなくても構わないこと、つまり、信仰に大きな影響のない非本質的なことを意味します。キリスト教で決して疎かにしてはならない本質的な問題には何があるでしょうか?イエス・キリストは救い主、すべての人は罪人、神が世界を創造されたこと等のように決して変えてはならない重要な教義があります。しかし、他宗教の生け贄を食べてもいいか?どの日に礼拝を捧げるべきなのか?酒とタバコを楽しんでもいいか?等は教義にするに恥ずかしいほど本質的ではない問題です。これらのアディアポラが非常に盛んに行われていた中世カトリックでは、針の先の上に天使が何人まで立つことが出来るのかというとんでもない質問が神学的な問題になったりしたそうです。何の意味もなく、心配する必要もない問題でした。しかし、司祭同士は真剣に論争をしていたという話しを聞き、爆笑した記憶があります。今日、パウロが話しているのは、まさにこれです。 「教会の内に多くの問題が存在するが、それでも教会は、神に召された貴い共同体である。したがって、本質的ではないことのために兄弟姉妹を憎んではいけない、むしろ容認し受け入れなさい。」 「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。」(1)教会の内には、様々な人々が存在します。一部の人は、アディアポラを超える堅い信頼を、一部の人々は、アディアポラのために躓き、倒れてしまう弱い信仰を持っています。しかし、信仰の強い人にしろ、弱い人にしろ、彼らは皆主に愛される、神の子供なのです。したがって、信仰の強い人は、自分の知識や信念を持って強いて教えようとせず、信仰の弱い人を理解し、受け入れなければなりません。信仰の弱い人は、まだ自分が知らない信仰の考え方があるかも知れないと、謙虚に考える必要があります。「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(8)私たち皆は、自分自身の判断と考え方ではなく、ただ、主の御心に従って生きていきます。自分の考えと信念に合致していない物事が、教会の中にあるかも知れません。しかし、自分の気持ちだけを主張する前に、教会と兄弟姉妹の状況を考えなければなりません。キリストは、そのような神の民の平和と調和のために十字架で死に、復活なさったのです。 「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」(9) 私たちが自分の考えだけを貫くために兄弟と争い、憎み、判断すれば、そのすべてのことが、神様の御前で罪となります。そして終わりの日、神の前で、そのような判断の罪に対して厳重に裁かれるのでしょう。 「なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。」(10)私たちは皆、お互いの状況を察し、必要のない紛争が生じないように、自分自身を抑えつけなければなりません。信仰の強い人は、信仰の弱い人たちのために配慮し、信仰の弱い人も、自分の考えに誤りがあることを認め、皆がお互いに理解し合い、受け入れるために力を尽くすべきでしょう。 「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。」(13)、私たちに本当に大事なのは、私の信仰を持って他人を判断するのではなく、すべての弱さを理解し合い、お互いに受け入れ、愛することではないでしょうか? 締め括り 「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」(17)、神の国はどんなところでしょうか?おそらく、そこでは神の中で、皆が一つになり、憎しみも、争いも、妬みもない場所だと思います。また、この地上での生活とは違って、辛さも、惨めさも、悲しみも無い、常に喜びに満ちた所だと思います。そういう意味で、神の国は、私たちの生活の中にも、部分的に存在するということでしょう。皆がお互いに受け入れ合い、愛し合う所は、どこでも神の国になると言えるでしょう。今の世界は戦いに満ちています。日中韓が互いに警戒し、特に日韓は北朝鮮のミサイルを心配しています。日本国内でも与党と野党が政治的な異見で争いをしたりします。このように戦争で満ちている世界で、教会だけは、お互いに仕え合い、人を自分より優れた者と思い、尊重し、愛する生活を営んでいきたいと思います。この地上での神の国は、お互いの理解から始まります。そして、その理解は、キリストの愛に基づきます。人が嫌になったり、その人によって心の中に怒りが込み上げるときは、その人を愛して、彼のために死んで復活されたイエス・キリストを思い起こしましょう。そして、彼を理解し、愛するために祈りましょう。兄弟姉妹を憎まず愛して欲しいという、私たちの心と祈りの中で、神様は、義と平安と喜びで私たちを満たしてくださるでしょう。その時初めて、私たちは愛に満ち、地上での神の国を味わうことが出来るでしょう。愛に満ちて、誰も判断しない志免教会となり、この志免町に神の国を立てていく共同体になることを願います。神の恵みと平和を祈り願います。

人間の堕落と神の救い

前置き 神は天地創造を終えた後、御自分が造られた世界を御覧になり、極めて良かったと満足なさいました。とりわけ、その中で人間の創造は、すべての創造の画竜点睛のような、最も重要な出来事でした。人間が、そのすべての被造物を神に導く代表的な存在だったからです。神は、このような人間に全てのことを自由に選択する自由意志を与えられ、その自由意志をもって神に仕え、愛することをお望みになりました。神は、そのために人間が自由意志を正しく扱うか否かを判断する「善悪を知る木」を造り、人間に「その果実を絶対に食べてはいけない。」という厳重な命令を与えてくださいました。しかし、最初の人間は、神の、その命令を自分の自由意志で破り、その果実を取って食べてしまいました。神だけに仕えるために与えられた人間の自由意志が、人間自身の欲望に仕えるための自由意志となってしまったのです。人間は、そのように神の言葉に逆らってしまいました。それが、まさに人間の堕落なのです。その最初の人間のように、今日を生きる私たちの生活の中にも、常に犯罪と従順という、まるで善悪を知る木のような選択の分れ目が存在しています。先々週の説教では、このような善悪を知る木と私たちの生活の中で、まるで善悪を知る木のように存在している犯罪と従順の分れ目について分かち合いました。今日は創世記3章の残りの箇所を通して、堕落した人間と救われる神について語り合いたいと思います。 1.目が開けるということの意味。 エデンの園に現れた蛇は人間を惑わし、神が禁じられた善悪を知る木の実を食べさせました。ヘビは人間に「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(5)と言いました。人間は拒否することが出来るにもかかわらず、自分の意志で、その実を取って食べてしまいました。おそらく人間は「目が開け、神のようになる。」という言葉に魅力を感じたかもしれません。自分たちも神のように賛美と礼拝を受ける存在になるだろうと考えたのかもしれません。しかし、ここで「目が開ける。」という意味は、そんな意味ではありませんでした。それは「善悪を知るようになる」ということでした。善悪を知るということは、何かを「判断」するという意味です。今年の始めにローマ書を説教しながら、真の判断は神だけがお出来になるものだとお話しました。神は絶対者でいらっしゃいますので、何が善であるのか、何が悪であるのか正確な判断ができるとお話しました。それは、神様は歪みのない真実を知っておられるという意味だったのです。しかし、人間は絶対者ではないため、自分の考えや経験に頼って、何かを判断することになります。そして、その際に必ず歪みを伴います。人間は真実の前で状況や事情によって揺らぐ存在だからです。 自分で判断することになったというのは、神の言葉ではなく、自分の考えで世の中を眺めるようになったという意味です。つまり、人間は、もはや神を必要としなくなったということです。「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」(7)神は創造を終えて「それを見て極めて良かった。」と言われました。これは当時の人間が裸であっても、神の御前では自然な状態であったということです。創世記3章で言う裸とは、現代のような恥の象徴ではありませんでした。創造の純粋さと、神の前での正々堂々とした状態を意味するものでした。しかし、目が開け、自ら判断できるようになった人間は、神が良しとされたことを、自ら良くないと思ってしまいました。神の御判断を自分の判断で無視してしまったのです。結局、人間は、すぐ枯れて消えるイチジクの葉っぱを綴り合せて着ることにより、神の創造の摂理を無視し、自分たちの判断に従いました。このように、神のようになるために善悪の木の実を貪った人間は、自らを神のように考えようとする歪んだ判断力だけを持つことになってしまいました。そして、その結果、神の言葉に逆らう罪の性質を持つ存在に変わってしまいました。 2.罪の性質 人間の堕落後、神はエデンの園に現れ、人間をお呼びになりました。 「主なる神はアダムを呼ばれた。どこにいるのか。」(9)しかし、人間は、そのような神を避けて園の木の間に隠れてしまいました。ここでの、「呼ぶ。」という言葉は、「カラ」というヘブライ語の表現を翻訳したものです。これは「呼ぶ。言葉をかける。招待する。」などの意味を持っています。旧約聖書で、神は御自分の預言者たちを召し寄せるとき、この「カラ」という言葉を使いました。 「だれだれよ!お前は、どこにいるのか?」 その時、モーセとサムエル等の神の預言者たちは、「私はここにいます。」と答え、そのお召しを承りました。しかし、堕落した最初の人間は、神を避けて隠れてしまいました。ここで一つ目の罪の性質を見つけることが出来ます。罪は神と人間の間の招待と応答を断ち切ります。神の子供のような人間に、神を父と考えず、他人のように感じさせます。それによって当たり前に神の言葉の重要性を見落とさせ、その言葉に聞き従わないようにさせます。罪は神と人間を遠ざけ、関係の破壊をもたらします。預言者イザヤは、罪に対してこう言いました。 「お前たちの悪が神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」(イザヤ59:2) 神との関係が破れた人間に見られる二つ目の様子は、「アダムは答えた。あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」(12)との言葉から見つけることが出来ます。堕落したアダムは、自分の罪に対して自ら悔い改める姿を見せず、むしろ「あなたが私に与えた女が」「女に与えられたので」のように弁明し、神と隣人を責めることになりました。堕落した人間は、何よりも自分自身のことを最も大切にする性質を持つようになりました。このような姿は、私たちの中にも残っていると思います。自分の過ちより、他人の過ちがさらに大きく見え、他人は傷を受けても、自分だけは傷つきたくない心を持ちがちです。そんな自己中心的な心と行為は、最終的に人と人との関係の破壊をもたらします。人間が自分の罪を悔い改めるために、神の御前でありのままに立つということは、これらの堕落した人間の姿に立ち向かい、「神と隣人に仕える」神様に喜ばれる人間像の回復なのです。 なおまた、三つ目の罪の性質は、罪が移るということです。 「女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」(6)もし、堕落した一人のみが罪を犯し、それで終わることなら、その結果として、一人だけが滅びるでしょう。しかし、罪には伝染する性質があり、一人だけが滅びることではありません。女は果実を取って食べ、その果実を男にも渡しました。実際に歴史上で指導者の罪が全国民を煽り立て、皆が罪の中に置かれるようになったという話は数え切れないほどあります。ガラテヤ5章9節には、このような言葉があります。 「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。」これは神の真理に反する小さな誤りを犯せば、その小さな誤りが、ますます大きくなっていくことを警告する言葉です。パウロはそれを防ぐためには、「あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。」という特段の措置まで述べています。人間の堕落後に生じた恐ろしい結果は、この罪が人間の生活の中のあちこちで働き出したということです。罪の伝染を覚えつつ、生活の小さな部分から罪を退ける生き方が必要ではないかと思います。罪はコロナウイルスよりも、恐ろしい魂の感染症だからです。 3.それでも人間をお見捨てにならない神の愛。 その日、神は男と女、そして蛇に将来のことについて仰いました。人間の堕落がもたらした最も大きな影響は、不滅の存在である人間が、必滅の存在に格下げされたということです。 「主なる神は、…アダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」(24)、神は人間を永遠に生きる存在としてお造りになりましたが、神との約束を打ち破った人間は死ぬことで、その罪を償わなければならない存在となりました。神は命の主です。殺すために創造なさった方ではなく、生かすために創造なさった方なのです。しかし、人間は、自らその命の神を裏切り、離れてしまいました。命の道を捨て去った人間に残ったのは死ぬことに決まっていました。以降、アダムは939歳まで長生きしました。しかし、長生きしたからといって良いとは言えませんでした。 「千年といえども御目には昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。」(詩篇90:4)どうせ、神の御目に939年は、まるで一晩にもならないような、短い時間に過ぎないからです。 いくら1000年が長いといっても、永遠とは比較できません。神に1000年は一日のような短い時間に過ぎないですが、永遠は神にとっても永遠の時間だからです。結局、人間は永遠から外れ、有限に生きる死の存在となってしまいました。  「神が生かす方であるならば、堕落した人間であっても、生き残らせればよかったのではないだろうか。」と問い掛ける人もいます。しかし、罪なく永遠に生きることと、罪を持って永遠に生きるということは雲泥の差だと思います。罪のない永遠の命は神と永遠に一緒にいることを意味しますが、罪のある永遠の命は、神に見捨てられたままに地獄のように永遠に生きることだからです。おそらく神が人間の死を許され、永遠の命の木を守られた理由も、堕落した人間を救うための意味深い御心ではなかったのでしょうか?神は堕落した人間のために、蛇に呪いを下され、人間の子孫を通して蛇をお裁きになると言われました。たとい堕落した人間であっても、神の御救いは、その堕落した人間への御憐れみから始まりました。神は決して人間を見捨てられずに、最後まで彼らを回復させるためにお働きになることでしょう。また、人間の回復のために、蛇と表現された罪に取り組みつつ、人間を導いて行かれるでしょう。私たちキリスト者は、そのような神の約束を信じ、その約束の結果がイエス・キリストであるということを信じつつ生きています。キリストが罪に勝利されたように、私たちも神の御意志に基づいて、堕落に立ち向かい、罪を打ち破り、神につき従う人生を生きるべきでしょう。 結論 「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」(21)罪を犯し、神との関係が切れた人間はイチジクの葉っぱで、辛うじて自分らの恥を覆うしか出来ませんでした。しかし、イチジクの葉はすぐ枯れて消えてしまうはずでした。しかし、主は枯れたり、腐ったりすることのない皮の衣を作って人間の恥を隠してくださいました。そして、いつか蛇に惑わされて堕落した人間が、その蛇に勝利する日を約束してくださいました。神はそのように人間をお見捨てにならず、新しい道に導いてくださったのです。私たち人間は、罪と死の下にいる存在です。生まれた時から死に向かって生きる存在です。しかし、主はキリストをお遣わしくださり、私たちの罪を悟らせてくださり、その罪を解決する道をお示しくださる方でいらっしゃいます。自分の罪に対して自力で、何も出来ない、まるで「イチジクの葉っぱ」を着たような人間に、キリスト・イエスという永遠の罪の解決策をくださり、「皮の衣のような救いの服」を着せてくださる方です。創世記3章の言葉を通して、罪の中に生きていく私たちをお見捨てにならず、むしろ生きる道を教えてくださる神を覚えつつ生きてまいりましょう。自分の罪の前で自らのことを謙虚に弁え、避けるより認め、神の御助けを求める私たちになっていきましょう。神はそのような私たちにキリストを通じた御救いを持って喜んで答えてくださるでしょう。

支配者に対するキリスト者のあり方。

前置き これまでのローマ書の説教では、1章から11章までは福音と救いについての教義的な教えだとお話しました。そして、続く12章から16章まででは、その教義に対する実践に関しての教えだとお話しました。神の御言葉を聞くことだけにとどまらず、聞いた言葉を積極的に行いつつ生きなさいということでした。私たちは自分が正しいから、善を行なうわけではありません。神の正しさによって救われたため、その神の正しさに答える生活として、善を行なって生きるのです。それこそが神の御言葉への私たちの実践の根拠になるのです。今日の言葉は、私たち一人一人の日常生活で行うべき実践を深化し、国と権威、支配者への理解と実践についての言葉です。 『あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。』(ローマ12:2)この言葉のように、私たちには神によって遣わされた監視者になって、盲目的に世の権威に従うか、手放しで世の権威に抵抗するかではなく、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかを弁えて、この世界を導いて行く責任があります。それが権威と政治に対するキリスト者のあり方なのです。私たちは世の権威と政治にどのような姿勢をとって、生きるべきでしょうか?今日はそれについて分かち合いたいと思います。 1.権威とは何か? 今日の本文に出てくる権威という言葉は、ギリシャ語「エクスシア」を翻訳した表現です。これは「力、支配、統制、影響力」などを意味しますが、本文では「支配者、権威者の支配権、権威」などを意味すると理解すれば良いと思います。この世の中には、創造当時から「エクスシア」が存在して来ました。神様が創り主の権威、すなわち神の「エクサスシア」をもって世界をお造りになり、また被造物への支配の権威として人間にも「エクスシア」を与えてくださいました。なぜならば、神は神の秩序をもって世界を創造し、その被造物が権威と位階の中で保たれることを望んでおられたからです。なので、「権威」というのは、創り主である神から自然に生まれた一種の被造物だと理解しても構わないでしょう。つまり、「権威」そのものは悪いものではないということです。むしろ「権威」は、神が世界をお治めになるためには、必ずあるべき概念です。『イエスは、近寄って来て言われた。わたしは天と地の一切の権能を授かっている。』(マタイ28:18)キリストが十字架に死に、復活して昇天される直前に、父なる神がすべての権威を、すなわち、すべての「エクスシア」をご自分に与えられたと言われました。創造の神は、終末が来るまで、神による権威をもって、この世界を治めていかれるでしょう。権威は神の御支配の道具です。したがって、我々は権威について神のものだという認識を持つべきでしょう。 つまり、私たちは、この「権威」が神のものであるということに基づいて、今日の本文に取り組む必要があります。初めに世界を創造された神は人間に、このような命令を与えられました。 『神は彼らを祝福して言われた。産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』(創世記1:28 )神は、人間が世界で栄え、世界を導き、治めることをお望みになりました。神は人間に世界を支配する権威を与えてくださいましたが、それは、すなわち人間に与えられた神の「祝福」でした。ただし、人間は、その権威を身勝手に振るうことは出来ません。神は、人間がその権威を用いて、被造物を守り、愛し、正しく治めることをお望みになっただけで、その権威をもって他者を踏みつけ、苦しめ、破壊するために与えられたわけではないからです。そういうわけで、権威は支配者だけのための概念ではなく、支配者の権威を通して被支配者たちも祝福を得る、神の祝福の媒介になるべきです。神に望まれる真の支配者のあり方は自分、自民族、自国だけが、うまくいくのではなく、すべての存在が繁栄する世界を作っていくことです。聖書が提示する支配者はそのような存在です。 2.支配者への服従。 そういうわけで、私たちは、世の支配者たちがどのようなやり方で世界を支配しようとしているのか、警戒心を持つ必要があります。支配者が自分の利益と権力のために権威を扱っているのか、それとも、自分だけでなく、この世界の他の被造物、自由と平和、神の祝福の媒介として権威を扱っているのか、キリスト者なら、必ずその点を気に留めて支配者を判断すべきです。私たちの本当の支配者は、この地上の支配者ではありません。もっぱら、私たちを支配なさる方は、三位一体なる神であり、とりわけ、直接、神から権威を譲り渡されたイエス・キリストだけが、私たちの真の支配者、王でいらっしゃいます。そうであるならば、支配者への我らの服従も、その基は神とキリストへの服従から始まる必要があるのでしょう。もし支配者が自分の野望や権力ではなく、神に喜ばれるべき支配、すなわち世界の平和、自国の国民と世界中の市民の共栄のために権威を扱う場合、私たちはその権威に協力と服従をもって従っていくべきでしょう。しかし、支配者が自国だけの繁栄と自分の力だけのために権威を扱う場合、私たちは、真の王であるキリストの御意志に基づき、そのような邪悪な支配者に抵抗していかなければならないでしょう。 このように権威への服従は盲目的であってはなりません。支配者が神から与えられた、その権威を正しく使用する時にはじめて、私たちは神への服従の意味として、その支配者の権威にも服従するのです。しかし、支配者が自分の権力だけのために権威を利用しようとする場合、我々はそれに対して服従してはならず、服従することも出来ません。支配者の権威はあくまでも神によって与えられたものです。目に見える支配者の権威は、目に見えない神の権威を表す道具に過ぎません。したがって、我々は、支配者の武力と暴力に屈してはいけません。ただ支配者を通じ、神の権威が正しく示される時のみ、我々は彼らの権威を認めて従っていくべきです。私たちは、支配者への監視者の役割を持って世界を生きています。無条件的な国家権力への盲従は正しいあり方ではありません。いつも「私たちの真の支配者は、イエス・キリストだけである。」という基本的な前提をもって国や団体の権威に対応する必要があります。地上の一国家の国民という認識に先だって、神の国の国民という認識を、先にとる必要があるという意味でしょう。ひたすら服従の対象は神様だけであり、主に認められた権威だけが、私たちの服従すべき対象なのです。 3. 20世紀を顧みる。 – 邪悪な権威の世界 – 。 1945年、太平洋戦争の末期、アメリカは8月6日に広島にリトルボーイと、また、8月9日には長崎にはファットマンと呼ばれる核兵器を投下しました。それにより、約15万人から25万人の無辜の命が犠牲になってしまいました。 8月になると、日本では敗戦と、これらの核兵器による犠牲者のために記念式を催したりします。米国には、その多くの犠牲者を出さない選択があったにもかかわらず、支配者たちの誤った判断により、多くの犠牲者を生じさせてしまいました。しかし、当時の米国のほとんどの市民は、このような犠牲を当然だと思い、むしろ喜んでいました。これは明らかに米国の犯罪です。他方、帝国主義日本はアジアの周辺国を武力で征服し、アジアを戦場に追い立ててしまいました。中国では1000万人以上の人々が死亡し、朝鮮人の中にも神風特攻隊や徴用兵として死亡した人が少なくありません。ただし、当時の朝鮮人は日本人として分類されて詳細な人数は不明です。沖縄の無辜の民間人12万人が旧日本軍によって、皇国臣民としての自決を強いられ、あるいは弾除けに死ななければなりませんでした。当時沖縄市民に治療と救護を提供した当事者は、皮肉なことに敵国である米軍だったそうです。日本本土ではいかがでしょうか?戦争による日本人の犠牲者だけで約300万人を上回るのです。その中に日本籍の琉球人、台湾人、朝鮮人も含まれているでしょう。愛知県にお住まいの80代の知人は、戦争で亡くなった父親の顔が、思い出せないと言いました。戦場に3回も出て行かせられ、2回は帰還したものの、最終的には東南アジアで亡くなったそうです。今は靖国神社に合祀されているそうです。 20世紀は、悪魔の時代でした。まるで支配者たちが悪魔のようになり、罪のない者らを死に追いやったのです。その時、日本は国体という名目の下で、為政者の論理を正義としました。米国の支配者たちは、自分らの軍事力を見せつけるために、あえて日本に核兵器を落としました。しかし、日本もアメリカも、自分たちの支配者たちを支持しました。しかし、その支配者の中の誰も神の御心である「産めよ、増えよ、地に満ちよ、地を従わせよ。」という御命令に耳を傾けませんでした。既に自らが神のようになっていたからです。当時、日本の教会は、国体の一部として神社参拝をし、軍部に協力しました。悲しいことに、朝鮮の教会も同じく妥協し、偶像崇拝の罪を犯してしまいました。私たち日本と韓国の教会は邪悪な支配者のために、すでに神を裏切った存在です。これからも、絶対に忘れてはいけない我らの共同の悔い改めの課題なのです。もし、このような世が再び到来したら、私たちはどう行動すべきでしょうか?私は神の民として、そのような日が来れば、堂々と死を覚悟するつもりです。私たち教会は再び自分の一身のために邪悪な支配者の権威に服従するべきでしょうか?それとも「愛と平和、変わらない信仰」をお望みになる神の御意志を承り、神の御心のために命をかけるべきでしょうか?「あなたがたは、以前は…この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。」(エフェソ2:1-2)この世の支配者は神に反抗する空中に勢力を持つ者の性質を持っています。彼らは不従順の子になりがちで、不正と罪の存在になる可能性を持っています。このような世の中で、私たちはどのような権威に服従するべきでしょう?私たちは、神の民です。私たちのアイデンティティを深く考えて、命をかけて定めるべきだと思います。 締め括り 申命記16章20節には、支配者の穏当な在り方について教えています。 『ただ正しいことのみを追求しなさい。そうすれば命を得、あなたの神、主が与えられる土地を得ることができる。』 過ぎし2018年10月に来日して、もうすぐ2年になります。韓国にいる時は、漠然と知っていた日本の政治に少しずつ気付いている最中です。まだ、詳細にではないと思いますが、時々、今の日本の政治は、誰のための政治なのかという気がする時もありました。まるで、政治家は特権層であり、一般国民は彼らとは関係のない存在のように感じられるほど、違和感を感じたりしました。残念なことに韓国もそんなに違いがないと思い、これは万国共通の政治家たちの病気なのかという気持ちもあるほどでした。愛する志免教会の皆さんと、日本の兄弟姉妹たちのためにも、市民を愛し、正義の政治を貫く政治家たちが、特にキリスト者の政治家たちが立ち上がることを祈っています。支配者たちの権威はひたすら神のみから来るのです。支配者たちは、神の正義と愛を、この世に示さなければなりません。その時に初めて、私たちキリスト者は、彼らに完全に従うことができます。私たちは、この世に属している存在ではありません。私たちは、神の国に属している神の民です。したがって、誤った現実のために正しい怒りを発し、神に熱心に祈り、投票などの政治的行動に参加し、さらに正義に満ちた日本と世界になるように動いていきましょう。このような考え方を持って国の支配者と政治家のために祈り、生きていく私たち志免教会になることを祈り願います。

選択すべき分かれ道に立つ人間。

前置き 神様は創造主でいらっしゃいます。神様は、この世に命と秩序をくださり、被造物と歩みを共になさるために、世界をお創りになりました。そして、最後に神の形を象った人間という存在を造り、被造物の代表としてくださいました。人は神様にあずかった被造物を導き、神様に栄光を帰す大事な役割のために造られた存在です。すなわち、人間は神と被造物とをつなぐ仲保者のような存在として、創造されたのです。しかし、人間はたちまち堕落してしまいます。被造物を導いて神に栄光を帰すべき存在が、自分の在り方を忘却し、かえって自分自身が神のようになろうとしたからです。今日の本文は、そのような人間の堕落の始発点になる『善悪の知識の木』をめぐる出来事を取り上げています。今日の言葉を通して、人間の堕落とは何か?私たちの人生で善悪の知識の木はどういう意味を持っているのか?について話してみたいと思います。 1.善悪の知識の木をお造りになった理由 日本語聖書で『善悪の知識の木』と翻訳されたヘブライ語は『ウメエツ・ハッダイト・トブバラ』と発音します。ウメエツは『 木の実 』、ハッダイトは『 知らせる』、トブバラは『善と悪 』という意味です。つまり、日本語聖書の『善悪の知識の木』の原文が持つ、本来の意味は『善と悪を区別させる木の実』という意味です。だから、聖書の他の箇所に記されている『知識の木の実 』は『善悪を知らせる木の実』と言い替えて使っても構わないと思います。それでは、ここでの『善と悪』は何を意味するのでしょうか?旧約聖書が語る善と悪の概念は現代の倫理道徳とは少し異なる意味を持っていました。善良に生きるだけが善ではなく、神様に聞き従うことが善であり、神様に逆らうのは悪であるという意味です。神様は創世記2:17の御言葉を通して、『善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』と明らかにお告げになりました。『善と悪の知識木の実』という境界線を引かれ、『お前たちは全てのことが可能である、ただし、善悪の知識の木の実だけは絶対に食べてはいけない。』と厳重な御命令を下されたのです。神が知識の知識の木をお造りになった理由は、人間が神に絶対的に服従する、善い存在として生きるように基準を立ててくださるためでした。 人間は神の形に象られて生まれた存在であるため、全ての被造物の中で、一番優れた存在です。人間には他の被造物には無い、言語、知識、文化、技術があります。如何なる動物も築くことが出来なかった素晴らしい文明を通して、世界を支配する力を手に入れた存在です。そういうわけで、人間は自らを特別に扱いがちな傾向を持っていると思います。そのような傾向があるため、歴史上大勢の人々が自分も神のようになることが出来ると勘違いしたりしました。遠くは古代ローマ帝国の皇帝たちが自分を神にしたり、近くは昭和天皇も敗戦の直前まで、現人神と呼ばれたりしました。このように人間が自らを神にすることが出来るという思いが、まさに堕落の兆しであり、堕落そのものなのです。自分も神のようになれるという荒唐無稽な思いを持つのです。しかし、その結果、人間は神から遠ざかり、最終的に破滅に繋がります。だから、神様は、そのような勘違いから人間を守ってくださるために『善悪の知識の木』という境界を造られたのです。神様は無限な方なのです。しかし、人間には限界があります。神様は人間を如何なる被造物よりも優れた存在としてお造りになりましたが、それでも、彼らが被造物に過ぎないということを忘れないように、『善悪の知識の木』という制限を置かれたのです。この『善悪の知識の木』に関する、より詳細な話は少し後で話しましょう。 2. 人間を惑わした蛇が持つ意味とは? そんなある日、蛇が現れ、人間に声をかけました。『園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。』実は神様は創世記2:16で『 園のすべての木から取って食べなさい。』と言われました。 善悪の知識の木の実を除く、全ての果実は食べても良いと言われたのです。しかし、蛇は巧みに言葉を変えました。すると、人間は『 わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。』神様は『決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』と仰ったのに、人間は『食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから』という、似ているけれど、全く違うことを言いました。ここでの『死んではいけないから。』は『死ぬかもしれない。』と翻訳が出来ます。人間は神の御言葉をありのままではなく 、自分の歪んだ解釈を加えて受け入れたのです。すると蛇は『 決して死ぬことはない。』と嘘をつきました。そして、『 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる。』偽りを通して、人間の無駄な思いを煽ったのです。結局、人間は蛇の誘惑に惑わされ、神様が立ててくださった基準を捨て、善悪の知識の木の実を貪ってしまいました。 この物語は、誰でも知っている有名な話です。一般的にこの物語を聞いた人たちは、蛇が人間を誘惑して、人間を堕落させたと思います。なので、蛇を悪魔と同一視したりします。ところが、昔のユダヤ人たちの聖書解釈では、この蛇も悪魔に用いられたと記されています。悪魔が蛇を訪れ、『わたしがお前の口にとどまってもいいのか?』と尋ねると、蛇がそれを許し、その悪魔が蛇の口を用いて人間を惑わしたという話しです。しかし、本当に人間は悪魔に利用された蛇のために堕落したのでしょうか?これを明らかにするために、私たちは、古代イスラエルの文化での『天使と悪魔』について、探ってみる必要があります。私たちが俗に言う『輝く天使』、『真っ黒な悪魔』みたいなイメージは、古代のペルシアの宗教文化に基づいたものです。そして、それが西洋の文化に影響を与えて、こんにちに至っているのです。つまり、バビロン捕囚の以前にイスラエル人が思っていた天使と悪魔のイメージは、現代とは異なっていたという意味でしょう。今日の本文で蛇を操った者と疑われている悪魔は、ヘブライ語で『サタン、シャタン』と言われます。このサタンという言葉は『逆らうもの』という意味です。その反面、天使は『マレク』と呼ばれましたが、それは『メッセンジャー』という意味でした。そして、両方、人間を示す言葉です。つまり、バビロン捕囚前のイスラエルの文化では、悪魔と天使は霊的なイメージよりは、『神に逆らう人』や『神の言葉を言い伝える人』のように人間を示す言葉だったという意味です。 つまり、人がどのような決心をするのかにつれて、その人は天使にも、悪魔にもなれるという意味でしょう。神様が御言葉で禁じられた『善悪の知識の木』の前に立っている人は、その果実を食べたいという『悪魔の意志』と食べてはいけないという『天使の意志』との二つの思いを持つようになります。そして、自分の選びに従って悪魔のようになったり、天使のようになったりします。しかし、神は明らかに『食べてはならない。』という言葉をくださいます。その時、人の心に葛藤が生じます。御言葉への逆らいと従順という別れ目が生じるのです。善悪の知識の木に現れた蛇は確かに悪魔の化身です。しかし、その悪魔はいったい何処から来るのでしょうか?神の言葉に聞き従うことも、逆らうことも、結局、人の心から始まります。私自身の欲望が神の御心を超えてしまったら、その日、私たちは神に不従順するようになります。昔のイスラエル人の考え方としては、神に逆らう人は『サタン』即ち悪魔あるいは蛇のような存在です。しかし、神の御言葉に従う人は、メッセンジャー、 即ち天使のような存在です。だから、創世記3章に現れた蛇は善悪の知識の木の前で、その果実を貪ろうとしていた人間の心の中に潜んでいた強い欲望ではなかったでしょうか?罪に向かう人間の本能を比喩的に表したものではないでしょうか?そうであれば、我ら、人間がどんな選びを決めるのかにつれて、私たちは悪魔にも、天使にもなるのでしょう。今を生きている私たちは悪魔に近い存在でしょうか?天使に近い存在でしょうか?考えてみるべきだと思います。 3.選択すべき分かれ道に立つ人間。 また、善悪の知識の木の話に戻って行きましょう。なぜ、神様は、敢えてそのような樹をお造りになり、人間の堕落と悪魔のようになる可能性を残されたのでしょうか?初めからその木がなかったら、人間は堕落を免れたのではないでしょうか?しかし、そのような思いより、遥かに深い意味が善悪の知識の木に隠れています。神は最も愛する被造物である人間が、自らの意志で神に喜ばれることを選んで生きることを望んでおられました。そのため、神は人形のように意志のない存在ではなく、自分の意志で人生を選んでいく存在として、人間を創造なさったのです。そのために神は人間に自由な意思をお与えになり、自ら選び、開拓していく神を象った存在に創ってくださったのです。しかし、自由意志には、自己抑制が必要です。際限のない自由は、すぐに放縦になってしまうからです。神は人間に自由をくださると同時に、自己抑制の道具として、善悪の知識の木をも造っておかれたのです。そして、『全ての物事をお前の自由に任せる。しかし、善悪の知識の木に限っては制限を置く。その制限を自分の意思で守ることを通して、わたしへの従順を証明しなさい。』という意味で、善悪の知識の木をくださったのです。しかし、残念なことに、初めの人間は、それに失敗してしまいました。神の御心に従うために、与えられた自由意志を、自分の欲望のために使い、従順のための果実を放縦のために犯してしまいました。 このように、初めの人間は、善悪の知識の木という分れ目の前で、神の命令ではなく、自分の欲望を選んでしまいました。聖書は、それが最初の人間の堕落だと語っているのです。実は善悪の知識の木の実に、特別な力があるわけではないと思います。ひょっとしたら、その木はリンゴやブドウのように、珍しくないものだったかも知れません。しかし、その木に掛かっている意味は特別でした。神に従順に生きなさいということです。人間は常に従順と不従順という善悪の知識の木の前での選びを要求される存在なのです。そして、その善悪の知識の木は、現代に生きる私たちにも、依然として選びを促しています。神様は聖書の御言葉を通して、我らに常に語っておられます。従順と不従順の基準を明らかに定めてくださいます。それを『守るか、無視するか』という選びの機会を与えてくださいます。私はこれが、我らの人生の中の善悪の知識の木だと思います。我らの心の中の欲望は蛇のように我らを誘惑します。その欲望に屈して生きれば、私たちは悪魔のような存在になり、その欲望を乗り切れば、私たちは天使のような存在になるのでしょう。我々は、果たしてどちらを選ぶべきでしょうか? 締め括り ローマの信徒への手紙でにはイエス・キリストの従順について、このように記されています。『一人の人の不従順によって、多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって、多くの人が正しい者とされるのです。』(ローマ5:19)新約聖書にはキリストが新しいアダムとして来られたというニュアンスの語句が何ヶ所かあります。アダムとイエスは両方、神様に試みを受けました。アダムは不従順を選び、イエスは死ぬまで従順をお選びになりました。その結果は、人間を悪魔のような罪人に導いたアダムと人間を罪から救い出したイエスに分けられ、罪人と義人の象徴となりました。我々は日常に中で、選択の分かれ道に立ち向かいます。聖書の言葉が勧めることと、禁じることとの間で、苦悩するようになります。そして、我らの欲望は、まるで蛇のように近づき、我々の正しい選びを妨げたりします。だから、私たちは、聖書の言葉に徹底的に聞く必要があります。神様が聖書を通してくださった言葉を通して、我らが当たり前に為すべき生き方を貫き、私たちに与えられた自由意志を持って、神に喜ばれるべきことを行って生きていきましょう。お祈りと言葉に力を尽くし、神と隣人を愛し、キリストの生き方に倣いましょう。来たる一週間、自分の前にある善悪の知識の木とは何か考えつつ、正しいことを選ぶ力をいただくために祈って行きましょう。神の恵みが我々の選びを助けてくれると信じます。主の御恵が志免教会の上に豊かにありますように。

キリスト者の生活。

前置き 今まで、パウロはローマ書1-11章を通して、キリスト教の重要な教えについて、長い時間を割き、説明してきました。それを手短に整理してみると、『人間は皆、罪人として生まれた。人間は自力で罪を解決することが出来ない。神様は、その罪の解決のためにキリストを遣わしてくださったのだ。キリストは手ずから、その人間の罪の問題を解決してくださった。このキリストを信じる人は、彼のお蔭で罪から自由になり、神との和解が可能になる。』だと言えるでしょう。このような1-11章の内容を通して、我々はキリストの福音が持つ役割と恵みを悟ることが出来ます。それは救われる資格のない者が救いを得るために導いてくださる神様の愛のことです。今日の12章は、このような1-11章を通して、神の民となったキリスト者が、どのような生き方で生きるべきかということについて話すことから始まります。 1.神の憐れみによる生活。 『こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。』ローマ書は、凡そ、1-11章と12-16章に分けることが出来ます。この中で、1-11章は『罪とは何か?裁きとは何か?福音とは何か?キリストとは誰か?』などの教義的な説明で成されています。なので、その部分は理論的な言説が多かったです。しかし、12章の以下からは、その教義の実践に関する言説が主となっています。つまり、1章から11章にわたって出て来た数多くの教えに悟りを得、キリストの弟子となった者ならば、もうこれ以上、じっとしておらず、世の中に出て、その悟ったことを行いを通して実践していきなさいという意味でしょう。そのためなのか、12-16章には命令語が、頻繁に出て来ます。つまり、12章1節の『こういうわけで』という表現は、1-11章の内容をまとめて、その結果としての実践を促す、後半を開く表現なのです。『こういうわけで、皆さんが今まで、神の福音、御恵、キリストの愛と御救いについて、学んできたならば、そのような神の御心に相応しい者として、実践して生きていきなさい。』という意味でしょう。福音を聞くだけで終わらず、聞いた福音を積極的に行って生きなさいという意味です。 ところで、パウロは、その実践の根拠を人間の力ではなく、神様の御憐みから見つけようとしました。神様の憐みとは、1-11章に継続に出たように、人間の貢献ではなく、神の愛を通して人間を救ってくださったことを意味します。全ての人間は罪人であるゆえに、自らの罪を解決できない存在です。キリストに出会って罪の赦しを得ない限り、人は罪から自由になることが出来ません。そのような罪人をお選びくださり、主権的に、その罪を贖ってくださるのが、まさに神様の御憐みなのです。蟻を例に挙げて比喩してみましょう。蟻の社会では女王蟻がおり、兵隊蟻がおり、働き蟻がおります。蟻の社会では彼らは各々の地位と役割を持っています。しかし、人の目には、彼らは全て、虫に過ぎません。人間にとっては女王蟻にせよ、働き蟻にせよ、蟻は蟻に過ぎないでしょう。神様にとっても同じです。相手が罪人であるならば、東大出身にしろ、政治家にしろ、財閥にしろ、特別な扱いはありません。罪人は、ただ罪人に過ぎないのです。皆が不義によって、堕落した罪人であるだけです。神様にとって罪人は、人が蟻を見ることよりも、さらに小さくて弱い存在なのです。しかし、憐れみ深い神様は、そのような罪人らが、罪から抜け出し、救いを得ることをお望みになり、ご自分の慈悲を持って、救い主キリストをお送りくださいました。人間は自力で救いを得たわけではありません。ひたすら、神の御憐みを通して救われたのです。 我々の行いや実践も同様だと思います。パウロは12章からはじめ、数多くの行いと実践について語り続けていきます。しかし、この行いや実践は、かつてユダヤ人が追い求めていた『行為で救いを得る行い』とは異なります。神様の御憐れみによって、キリストを信じて救われた者らが、神のその憐れみに応じるために行わなければならない行為であり、実践であるのです。神の憐れみによる救いが前提とされなければ、私たちが、この世で行うキリスト者としての行いと実践は、如何なる意味もなくなるでしょう。つまり、私たちの行いと実践は神の御憐みへの答えであるとき、ようやく価値を持つことが出来るという意味です。神様が御憐みをもって、私を救ってくださったので、それに対する変化の証として、我らの行いと実践がもたらされるという意味です。だから、私たちはパウロが勧めている私たちの行いや実践が私たちから出る善行や力ではなく、ひとえに神からくる力によることであるということを確認するべきです。私たちはもっぱら、神の御慈悲への誠実な答えとして善行を行い、実践して信仰を貫くべきです。私たちの善行は結局、神様の御憐みに基づくものだからです。 2.聖なる生ける生け贄としての生活。 『自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。 これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。』神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして、自分の体を献げるということは、どんな意味なのでしょうか?先立って、パウロは神様の御慈悲に基づく生き方として、私たちの実践的な生活を勧めました。我らの善行の実践は、私たちを救ってくださった憐れみ深い神様の、その慈悲を私たちの生活を通して、代わりに現わす実践にならなければなりません。マタイ福音書には、これと似合う語句があります。『 あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。』(マタイ5:16)そのような生き方は、単純に『主を信じる。』と口だけで告白する形式的な信仰の生き方ではありません。この世での生の中で、自分の体を神様に捧げる生ける生け贄としての実践が伴う生き方であります。すなわち、この地上で神の御憐みを示すために、自身の『命をかけるほど、善を行って生きていくという覚悟』を意味するものです。我々はキリストが律法の目標になられたという言葉を学びました。律法の目標となったということは、キリストが自らの体を十字架の生け贄として捧げられ、過去、旧約時代に行われた全ての律法の祭祀を完成させたという意味です。私たちはキリストのような完全な献身は出来ないかも知れません。しかし、主がなさった、その献身の御意志を受け継いで、主イエスのように神と隣人への愛を実践する人生を生きていくために力を尽くすべきでしょう。 旧約のイスラエルの神殿では、毎日祭祀がありました。司祭たちは、自分と民の罪を贖うために獣をとり、その血を神に捧げました。しかし、その生け贄の血だけでは、永遠の贖いをもたらすことが出来ませんでした。人間の内面に潜んでいる罪は、永遠に消えない罪であって、獣の生け贄で捧げる祭祀としては、限界があったからです。なので、皮肉なことに人々は、獣の生け贄を捧げる祭祀に尚更執着するようになりました。ですが、神様が望んでおられる祭祀は、そのような多くの生け贄ではありませんでした。祭祀は、ただの形式にすぎないものであっただけで、神様はその中身である精神を求めておられたのです。今日の旧約本文であるミカ書に、それと関わりのある話が出て来ます。預言者ミカは、このように問い掛けます。『何をもって、わたしは主の御前に出で、いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として当歳の子牛をもって御前に出るべきか。主は喜ばれるだろうか。幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を自分の罪のために胎の実をささげるべきか。』(ミカ6:6-7)ミカは、単純に神殿で 献げ物をさし上げることだけでは、神の喜びとされないということを悟り、このように自答しました。『 人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、隣人を愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。 』(ミカ6:8)神様が望んでおられる、真の献げ物は、華麗な礼拝ではありません。主が望んでおられる礼拝は、御言葉を通して学んだ悟りを、日常の中で実践し、正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むことなのです。だから、主日の礼拝と共に日常の生としての礼拝が相和される時に初めて、我々の生は、聖なる生ける生け贄の生き方になるのであり、それこそが、神に捧げる真のなすべき礼拝になるのでしょう。 イエスは、獣の生け贄で捧げた旧約の祭祀を、もうこれ以上、守らなくても構わないほど、完璧な生け贄として、ご自分の全てを神様にお捧げになりました。そのお蔭で、私たちが捧げるべき祭祀は主イエスを通して、既に完成されました。そういうわけで、私たちは獣の生け贄を捧げなくても良いのです。代わりに私たちは、私たち教会の頭なるキリストの肢体としてのアイデンティティを持って、キリストが神様にご自分を捧げられたように、彼の体なる私たちも、我らの人生を神様に捧げるべきです。それこそが私たちが神様に捧げる、私たちのなすべき礼拝なのです。私たちの真の祭祀、つまり礼拝は主日だけに守るものではなく、我らの生活の中で我ら自身を 献げ物として、神様に喜ばれる人生を生きることを意味します。真の礼拝は、決して容易なものではありません。我らを救ってくださった神の御慈悲と、神の慈悲そのものであるイエス・キリストの十字架での贖いに感謝を持って答える生き方。その神の恵みに答える私たちの献身的な生活こそが我らの真の礼拝になるのです。我々は自分の体、つまり、自分の生を神に捧げる時に真の礼拝をなすことが出来ます。自分の体を聖なる生ける生け贄として捧げるという言葉の意味は、キリストを模範として、この世での生活の中で神から頂いた福音の言葉を実践して生きる人生なのです。 3.キリスト者の生活。 それでは、前の内容を再び整理してみましょう。『①我らの善行と実践は、自分が正しい者であるから行うことではありません。それは神の御憐みへの答えとして行うものです。②自分の体を聖なる生ける生け贄として捧げるということは、神の御憐みへの答えとしての善行と実践を行いつつ、生きていくという意味です。そのような生き方がある時こそ、私たちの礼拝は、真のなすべき礼拝となるのでしょう。』使徒パウロは、このような1節が勧める生き方を基として、2節のように生きていくことを促しています。『あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。』(2) ここで、『この世に倣ってはなりません。』という言葉の意味は何でしょうか?人間は基本的に神様を憎む存在です。神様を自分の主と認めれば、自分が自身の主になれないからです。そのように自分が自分の神のようになりたがっているのが、人間の本能なのです。人間の歴史は、そのような本能の軌跡を書き残したものです。『この世を倣う。』という言葉は、このような人間の本能的な『神への反抗』を意味します。これはパウロの時代、あるいは2020年という一つの時点だけを意味するものではありません。人間が生きて来た全ての歴史と世代を意味するものです。代々に自らが神のようになろうとしている人間の本能を意味するものです。しかし、パウロは神様に自分を捧げる生き方を通して、それを乗り越えていくことを勧めています。 そのためには、心を新たにして神に自分を変えていただくように祈る必要があります。この変化は、たった一度で成し遂げられる変化ではないと思います。『この世』という表現が人間の歴史と共に長く繋がってきた、神に反抗する人間の姿を意味するように、心を新たにして変わることも、短時間で成し遂げられることではないという意味です。完全に新しくなる変化ではなく、繰り返して新たになる変化だからです。私たちはキリストに恵みを与えていただき、御言葉を学び、善行を実践して、絶えず悔い改めることを通して、日々新たになって行くべきです。毎日の生活の中で、世の誘惑と自分の欲望が追い迫ってくるのは決まっていることですが、キリストに依り頼み、休まず、戦って行くべきです。そのような生活の中で、我々は、キリストによる聖霊のお導きを通して、徐々に聖化していくのでしょう。そのように聖化していく生活の中で、我々は『何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかを弁えるようになる』のでしょう。憐れみ深い神様は、そのような我らの人生にキリストによる悟りと力を与えてくださるでしょう。私たち人間は、この世に生きていく限り、その罪の本能のため、完全な義人になることは出来ません。今日の本文を通して聞いていただいた御言葉も、正直、完全に実践できないでしょう。しかし、神の御慈悲は、そのような弱い我らを、絶え間なく助けてくださるでしょう。だから、我々の出来る範囲で、行うべき善行を為していきましょう。我らの人生を聖なる生ける生け贄として、捧げるために頑張ってまいりましょう。そのような生き方を貫く際に、神は主の御心を弁えることができる知識を注いでくださると信じます。 締め括り キリスト者の生活とは、神の御憐みに答えて生きていく生であります。また、自分を聖なる生ける生け贄として神に捧げることを覚悟する生でもあります。そのような生の中で、神は日々私たちを新たにしてくださり、導いてくださるでしょう。そのように神様を仰いで生きていけば、我々は少しずつ、 何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかを教えられていくでしょう。しかし、我々は弱い存在ですので、そのような生き方を、何の失敗もせず、保つことは出来ないと思います。神様も私たちの弱さを良く知っておられますが、それでも、神様は決して私たちを諦められないでしょう。キリストを通して私たちをご自分の者としてくださったからです。だから、私たちも、自分の弱さに負けず、諦めることなく、神の憐れみと愛を隣の人々に伝えて行きましょう。我らの出来るだけの善行を実践して行きましょう。憐れみ深い神様が、来る一週間も志免教会の歩みを御守り、御導きくださると信じます。主の豊かな恵みを祈り願います。

神が人をお造りになった。

創世記2章7-8節 (旧2頁) コロサイの信徒への手紙 1章15-17節(新368頁) 前置き 神は世界をお造りになりました。神は6日の間に、この世界を創られたのです。その期間が実際に144時間を意味する6日なのか、何千年を6日と表現した象徴的な意味なのか、現代に生きている私たちは理解することが出来ません。しかし、明らかなことは、6日と表現される、その間、神が手ずから世界を創造し、最後にその世界に御自分に象った人間を造られたということです。神は世界を創造され、それを『良し。』とされました。神は最も完全な姿で、この世の創造を成し遂げられたのです。ところで、神は人をお造りになった6日目の創造の後に、『極めて良かった。』と言われました。なぜなら、その日、人が創造されたからです。神は人を愛されました。神は御自分の愛しい子供のような存在として、人間を造られました。なので、その人間に神が満足して造られた、この世界を任せられたのです。神が人間を創造し、世界を託された理由は、人がすべての被造物を導いて神を礼拝するようになさるためでした。したがって、人間は、神の創造において最も中心になる重要な存在です。今日はこの人の創造について話してみたいと思います。 1.土の塵で造り、命の息を吹き入れる。 『主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。』(7)神は世界を御言葉でお造りになりました。神の御言葉は、単に耳に聞こえる音としての言葉を意味するものではなく、神の御意志、御心、御計画などを意味するものです。神は御自分の御心を完全に込めて、世界のすべての被造物を造られました。これにより、世界のすべての被造物は、自然に生まれたものではなく、地面の小石さえも、神の御心と御計画によって造られたということが分かります。ところで、特異なことに、人を造られた時は、御言葉だけでなく、被造物の中で一番価値のない、土の塵で人間を造られたということです。最も取るに足りない、塵を持ってお造りになりましたが、他の被造物との決定的な違いが一つあります。それは、神が塵で造られた人間に命の息を吹き入れてくださったということです。命の息を吹き入れるという行為は、他の被造物には許されない、非常に特別な創造の仕方でした。一番価値のない存在を、最も重要で輝く存在としてくださった、神の創造。神の支配下にある人間は、このような創造の秘密を通して、完全ではなくても、特別な存在として、神に愛されて生きていきます。 ここでの、塵の原文は『アパル』というヘブライ語です。アパルは塵、埃、灰などの何の価値のなく、地面に散らかっている土の塵を意味するものです。焼き物を作る泥や、レンガを作る赤土というより、なんの役にも立たない埃に近い存在です。そのような塵を集めて、体を造り、目を造り、人間をお造りになり、ほかの何にもお与えにならなかった、神から出てくる命の息を吹き込んでくださったのです。したがって、我々は一方では、塵のように無益な存在です。偉大な神の御前で何の価値もない弱い存在です。いつ命が奪われるのか、いつ消えてしまうのか、全く知らない有限な存在です。このように有限な存在にもかかわらず、永遠に生きるかのように、高慢と罪を抱いて生きる愚かな存在が、まさに人間なのです。しかし、他方では、人間は特別な存在です。特に、神の創造を信じるキリスト者は、自分の本質にしっかり気付いています。自分は塵のような者であり、埃のような存在であることを、確実に認識しています。そして、その塵のような自分をお選びくださり、愛と命をくださった方が、神であるということをも知っています。それを知る知恵があるから、特別なのです。したがって、私たちキリスト者は、謙虚に、そして感謝して生きるべきです。私に富と誉と力があっても、そのすべてのものが、神から来たものであることを謙虚に認め、生きていくべきです。偉大な神の御前で、私たち、人間はただの塵に過ぎない弱い存在だからです。 2.エデンの園 – 人間が当然に生きるべきところ。 『主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人を、そこに置かれた。』(8)歴史上、大勢の人々は、『エデンの園は実際に存在したのか?本物だったら、どこにあるのか?』みたいな好奇心のため、エデンの園への研究と探査に挑戦したりしました。しかし、今まで誰もエデンの園について、証明することは出来ませんでした。例えば、聖書には、エデンから4つの川が流れ出ていたと記されていますが、ピションとギホンとチグリとス、ユーフラテスとのことです。この中でチグリスとユーフラテス川は、実際に存在している川でありましたが、ピションとギホンは存在の有無が知られていない川です。また、ある人々はユーフラテス川流域にエデンと似ている地名のエディーヌという地域があり、そこがエデンの園だったかも知れないという仮説を立てたりしました。しかし、後にエディーヌとエデンは語源が異なるという研究結果が出て、その仮説の虛構も明らかになりました。つまり、それらのような、幾つかの理由から、エデンの園が実存した所なのか否か、善悪の知識の木の実があったかどうか、現代人は、その有無を知ることが出来ません。ひょっとしたら、このエデンの園は創造の6日が実際の6日なのか、それ以上のシンボルとしての表現なのか、分からないように、それと同じく実存していた場所である可能性もあり、神の楽園を象徴する、ただ象徴的な地名であったかも知れません。エデンの園は、果たしてどんなところだったのでしょう? 重要なのは、神は『エデンの園が持つ価値』を確かに実現なさるために、この世界を創造されたということです。それでは、エデンの園の価値とは、果たして何でしょうか?エデンはヘブライ語で『喜び』という意味の言葉です。神の支配の下で感じることが出来る、至高の喜びを含んでいる言葉だと考えても構わないでしょう。しかし、私はエデンに付いている『園』という言葉に関心を持って勉強してみました。私たちは常に、エデンの園を考える時、エデンのみを重んじて、園はただ修飾語くらいに見做したりする傾向があります。しかし、この園には、エデンに釣り合うほどの大事な意味が隠れています。園という言葉は、ヘブライ語の原文で『ガン』と言います。なので、エデンの園のヘブライ語の発音は、『ガン・エデン』なのです。『ガン』は、もともとヘブライ語ではなく、ペルシア語から借用した表現で、その意味は『水が湧き出る宮殿の庭』を意味します。日本は水の足りない国ではないので、どこでも河川が流れ、貯水池があり、田畑に水を供給することが難しくない国でしょう。だから、水の重要性を感じにくい国だと思います。しかし、聖書が記された中東地域は、いかがでしょうか?雨もあまり降らないし、降っても水が溜まらず、すぐに消えてしまいます。このような砂漠気候の中東で『水が湧き出る宮殿の庭』とは、命のような大きな祝福を意味するものでしょう。 エデンの園は砂漠の真ん中に建てられた、『爽やかな水が流れる喜びの庭』のような所です。つまり、神に創造された被造物が当たり前に追い求めるべき神の愛と支配が満ち溢れる場所を意味します。ここにエデンの園の真の価値があります。被造物が、そのような生の中にある時こそ、エデンの意味のように、喜びに満ちた生を享受できるからです。エデンの園は、神の最高の被造物である人が、当然追い求めるべき、神の支配を意味すると考えても、間違いではないでしょう。『わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』(ヨハネ7:38)新約聖書でイエス様が言われたように、エデンの園は、主の恵みによって、生きた水の川が流れ出る、信徒が必ず守るべき居場所を意味するものではないでしょうか。私たちは、創世記のエデンの園の話を通して、『昔、本当に存在した所なのか?』という好奇心より、『今私はエデンの園のような神の豊かな恵みの中で生きているのか?』という質問に自問自答してみる必要があるのではないでしょうか。エデンの園での生活とは、創り主、神の支配下で生きていく理想的な生を意味します。神の律法に反応する生活、キリストの福音につき従う人生、律法と福音による恵みの中で生きていく人生、これが、まさに現代に生きている私たちが追求すべきエデンの園での生活ではないかと思います。私たちは、そのような律法と福音の下での生活を追求し、日々の生活がエデンの園に適う生き方なのか、常に悩んで生きていくべきでしょう。 3.男と女をお造りになった。 『主なる神は言われた。人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』(18)、神は人を創造する時、男だけをお造りにはなりませんでした。主は男性と女性を、共に造ってくださいました。私たちは、神の人間創造を考える際に、主が男と女という複数の存在を造られたことを忘れてはいけません。男と女、両方をまとめて人と呼ぶのでしょう。つまり、男性と女性は、どちらも一方的に優劣をつけることが出来ない平等な存在なのです。古今東西を問わず、世界各国では、男性を女性よりも優位に置く傾向があると思います。聖書でも『彼に合う助ける者』として女性が造られたと記されているので、男が先に造られ、後で彼のために女性が造られたという印象を与えたりします。最近、日本で『愛の不時着』という韓流ドラマが大人気だというニュースを見たことがあります。そこに出てきた女性の出演者が、『男主人公が女主人公のためにエプロンをして、そばを作ってくれるのを見て、とても新鮮で、優しく感じられた。』と話しました。日本や韓国では男は家の外で働き、女は家事労働をするという観念が残っているようです。なので家内、奥さんという言葉を使うのでしょう? しかし、聖書が意味するところは、それではないでしょう。中世ユダヤ教の有名なラビであるラシという人は、この語句について、男性と女性として、近づかず、人と人の協力と助力として解釈しました。彼はこのように話しました。 『』この世の中で関係を結ばなくても、構わない存在は、たった神様御独りだけである。神を除く、すべての被造物は共同体との関係を結んで生きなければならない。」つまり、創世記が語る『彼に合う助ける者』とは、男性が女性よりも優れた存在であるという意味ではなく、女性が男性に属しているという話でもなく、男性と女性の結婚だけを強調する意味でもありません。むしろ、人と人は均等に互いに関係しあって生きていくべきだということを意味する解釈でしょう。これはユダヤ教の教えですので、キリスト者が如何なる批判もせず、受け入れかねる部分はあると思いますが、その中に私たちが教えてもらうべき部分もあると思います。それでは、よりキリスト教的に話してみましょう。 正直、キリスト教では、神は独りではありません。もちろん、神という存在は御独りですが、父と子と聖霊との三位一体という特別な形で存在し、独りの中で多様性を持って、世界を支配しておられるからです。教会はいかがでしょうか?私たちは、キリストと呼ばれる教会の頭を中心として、一人一人が教会の肢体となる共同体です。世界で誰も1人で生きることが出来ず、1人では生活も出来ません。神は人と人が助け合いながら、主に中で協力して生きなさいという意味で、男性と女性を創造されたのです。そして、その両方を合わせて人の創造としてくださいました。したがって、我々は、この言葉を男女差別の根拠として用いてはいけません。むしろ、神が異なる存在が力を合わせて、神の御心のために協力し合う生を望んでおられるという意味で理解すべきなのでしょう。私たちは決して一人で生きることが出来ません。キリストを中心に教会共同体を成して、お互いに大事にし、愛して生きるべきでしょう。『互いに相手を自分よりも優れた者と考え、 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。』(フィリピ2:3-4) 結論 今日、我々は人の創造について話しました。人は塵のように微々たる存在でしたが、神の命の息を受けて特別に生まれた存在です。したがって、私たち人間の本質には、塵のような虚しさもあり、神の命のような特別なものもあります。私たちの中にある特別なものは、自分からではなく、神から来たものであるということを覚え、高慢にならず、へりくだって神に仕えるべきでしょう。そして、私たちは神の支配の中で生きて行くべきです。キリストの福音に聞き従い、律法の言葉のように、神と隣人を愛して生きなければなりません。そのような人生こそが、私たちに許されたエデンの園での真の生き方ではないでしょうか。最後に人は、互いに助け合いつつ生きていくべきです。一人で特別になったり、一人で豊かになったりするのではなく、互いに分かち合って助け合い、愛して生きるべきです。神は神が創造された人間に、このような在り方を期待しておられるのではないでしょうか?神の特別な恵みによる創造に感謝し、神の言葉に従順にしたがい、神の喜びとなる志免教会になることを願います。主の祝福が来る一週間も豊かにありますように。

イスラエルをお捨てにならない神。

列王記上19章18節(旧566頁) ローマの信徒への手紙11章1-5節(新289頁) 前置き 前のローマ書の説教では、二つの義についてお話しました。神による義と人間が自ら得ようとする義についての話でした。多くの人々は、自分の努力と行いによって、義とされると考える傾向があると思います。これは、神の旧約の民であるイスラエルにも当たる話しでした。行いによって自らの義を成していくと、義とされるという思いは、イエスの時代のユダヤ人たちにもあまねく広がっていた義への観念でした。しかし、ローマ書によると、真の義とは、人間の行いからではなく、唯一の完全な神からのみ出るということが分かります。人間がいくら努力しても、自らが自分の行いを通しては、義とされることは出来ません。義とされる道はもっぱら、神が許してくださったキリストを信じることによってのみ、得ることが出来るのです。パウロは、イスラエルが神に捨てられたかのようになった理由が、神の義ではなく、自分の義を追い求めることにあったと主張しました。しかし、パウロは、今日の言葉によって、そのようなイスラエルも、実際は神に捨てられたのではなく、依然として、神の恵みの中にあることを話しています。人間の目には捨てられたかのようになった存在ですが、神の御心の中では、救いの計画の中にあるということでしょう。今日は、イスラエルをお見捨てにならず、彼らの救いを望んでおられる神について話してみましょう。 1.イスラエルは本当に、神に捨てられたのか。 歴史的にキリスト教徒は、ユダヤ人を敵視する場合が多かったようです。特に、中世ヨーロッパの十字軍はイスラム教徒との戦争を繰り広げながら、イスラム教徒だけでなく、多くのユダヤ人も殺しました。イエスを迫害したユダヤ人の子孫であるという名目で虐殺を犯したからです。歴史上、ヨーロッパのキリスト教徒は、過去のユダヤ人がイエスを迫害したということに加えて、ユダヤ人は神に呪われているという観念をも持っていました。あの有名な宗教改革者であるマーティン・ルーサーさえも、ユダヤ人は嘘つきだと非難し、以後、このようなルーサーの書は、ナチスに悪用され、ホロコーストを擁護する背景となったりしました。そのためか、私たちは、なんとなくユダヤ人は神に捨てられたと思いがちです。一体なぜ、我々はイスラエルが神に捨てられたという思いを持つようにされたのでしょうか?おそらく、福音書に現れるイエスへのユダヤ人の迫害と対立などの記録のためではないでしょうか? パウロはローマ書を通して、続けてユダヤ人の誤解と過ちについて告発しました。律法の行いを大事にする彼ら、イスラエルという選民思想に拘る彼ら、律法を完全に守ることが出来ると主張する彼らの過ちへの反論で一貫したのです。しかし、パウロは、決して彼らが神に捨てられたとは信じていませんでした。むしろ、イスラエルのためなら、自分が神から見捨てられた者となっても良いとさえ、思っているほど、イスラエルを愛し、彼らの救いを願ったのです。神はイザヤ書の言葉を通して、このように仰いました。『わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。』(イザヤ55:8)神は、いつも人の思いを超える、全く違う道を提示される場合が多いのです。神は決して、イスラエルを捨てられませんでした。むしろ神は、イスラエルが捨てられたような姿になるまでに、イスラエルを低められ、彼らが受け取るべき祝福を異邦人にも、分け与えてくださいました。そして、キリストを通して、必ず、イスラエルにも救いを与えてくださるでしょう。イスラエルの救いは、まだ現在進行中なのです。 2.神は反逆したイスラエルに7,000人を残して置かれた。 ローマ書10章21節では、イスラエルに対する神の御心を覗き見ることが出来ます。『わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた。』イスラエルはどんな民族ですか?神はイスラエルを救われるために、当時の超大国であるエジプトを滅ぼすまで、巨大な奇跡を起こされました。以降、イスラエルを神の山に導き、十戒の石板で代表される律法をくださり、40年という長い間にわたって、彼らをカナンまで導かれました。その間、彼らの不従順と堕落を見過ごし、お赦しくださりながら、まともな国家として養ってくださいました。そればかりか、敵に襲われ、泣き叫ぶたびに、イスラエルを救ってくださいました。それにも拘わらず、イスラエルは変わりませんでした。継続して、神の御旨に聞き従わず、勝手に振舞いました。偶像崇拝と背反は民族代々の大きな罪でした。しかし、神は不従順と反抗に一貫するイスラエルの民を完全には滅ぼされませんでした。むしろ『一日中手を差し伸べ』、新たな機会を与えてくださいました。そのためか、神様は、いくら罪によって、暗くなった時代にも、義人を残してくださいました。今日のローマ書は、これについて『バアルに跪かなかった7000人を自分のために残しておいた。』と表現しています。 ここで、7,000人の話は、なぜ出てくるのでしょうか?これは列王記上17章-19章に登場する話のことです。イスラエルのアハブ王と女王イゼベルは偶像に仕える指導者でした。当時、神は偶像崇拝に満ち溢れていたイスラエルの罪を罰せられるために、預言者エリヤの口を通して『数年の間、露も降りず、雨も降らない。』と宣言なさいました。以降、イスラエルに酷い飢饉が生じました。飢饉のため、辛い3年が経った後、エリヤはアハブ王に足を運びました。しかし、アハブとイゼベルは、相変わらず悔い改めず、依然として罪を犯していました。そこで、エリヤは真のイスラエルの神は、誰なのかを証明するために、対決を申し込みました。アハブとイゼベルが仕えるバアルとアシェラの預言者850人と、真の神様に仕える預言者エリヤ1人の対決でした。各自が自分の神に祈り、雨を降らせる神が本物の神であるというのが対決の主な内容でした。バアルとアシェラの850人の預言者は、自らを傷つけながら長い時間、祈りました。ですが、空からは一滴の雨も降りませんでした。時間が経ち、エリヤの番になって、切に祈ると、空は雲に覆われ、すぐに雨が降り出しました。神様はエリヤの味方になってくださったのです。エリヤは、そこで850人の偶像崇拝者を打ち破り、イスラエルの神様だけが、真の神であることを証明しました。エリヤが勝利したので、その後、イスラエルは、神を畏れ、偶像崇拝から抜け出し、悔い改めて、すぐに神のみに仕えるように変わるはずでした。 しかし、世の中はちっとも変わりませんでした。かえって、アハブとイゼベルは激しく怒り、エリヤを殺そうとしました。巨大な神のしるしがあったにも拘わらず、全く変わらないイスラエルを見て、エリヤは絶望してしまいました。エリヤは荒野に逃げ出し、変わらないイスラエルを見て、このように告白しました。『主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。』(列王記上19:4)しかし、神は彼に食物と慰めを与え、彼を神の山に導き出されました。神の山に辿り着いたエリヤは3つの巨大なしるしを目撃することになりました。 『主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。 地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。』(列王記上19:11-12)風と地震と火との巨大なしるしに神はおられませんでした。むしろ、神は静かに囁く声におられ、エリヤにお声をかけられました。そして言われました。『わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。』(列王記上19:18) 神は巨大なしるしのように、華麗な姿では訪れませんでした。むしろ静かに囁く音のように来られたのです。『静かに囁く声』を意味するヘブライ語には『鑿で石を穿つ小さな音。』という意味もあるそうです。聖書で石を穿つ模様は、どの箇所で登場するのでしょうか?何ヶ所かあると思いますが、私はエリヤが風と地震と火とを目撃した、その場所と関わりがあるのではないかと思います。そこはどこでしょうか?まさに神の山です。出エジプト後、神の山で十戒石板をくださった神が、その十戒の石板をお造りになった、その時と関係のある表現ではないでしょうか?つまり、静かに囁く声とは、神様の偉大な御言葉を意味するものではないでしょうか?それらをまとめてみると、神は大きなしるし、激しい移り変わりではなく、神の小さな言葉としてエリヤに来られたのではないでしょうか。神は華麗で大きな移り変わりより、小さくても、忠実な神の御言葉をもって、世界を導いていかれる方です。大きな力を持っておられる神様が、あえて大きなしるしや、奇跡などの移り変わりに頼る必要はないからです。静かに囁く音のような小さな形であっても、神がおられるだけで歴史は成し遂げられていくのです。エリヤはイスラエルの変革は失敗だったと思ったかも知れませんが、むしろ、神は囁く声で、新しい歴史を始められました。そして、その歴史は、変わらず神のみに仕える、信者7,000人から始まりました。 3.決して諦めることのない神。 神はローマ書10章21節の言葉のように、依然としてイスラエルに向かって「一日中手を差し伸べておられる方」でいらっしゃいます。また、5節のように『現に今も、恵みによって選ばれた者』(5)を残して置かれる方です。神様はイスラエル民族の中にも、そのような選ばれた者らを残してくださるでしょう。なぜなら、神様の救いの選びは、ユダヤ人にしろ、異邦人にしろ、差別なく適用されるからです。実に、神の救いは、人種、国家、身分を問わず、すべての人類に同じように適用される、大きな恵みです。極めて堕落したイスラエルの中でもバアルとアシェラに屈せず、跪かなかった7000人の正しい者を残しておかれたように、神は如何なる民族も差別なく、キリストへの信仰をご覧になり、神の御心に従って救ってくださるでしょう。キリストが十字架の上で成し遂げられた恵みは、それほど深くて大きいものだからです。ローマ書11章では、イスラエルの民は神の『栽培されているオリーブの木』であり、異邦の民は『接ぎ木された野生のオリーブの木』であると表現しています。神様が、依然として大切に思われるイスラエルは、神にしばらく捨てられたかのように見えますが、いつか必ず救われるのでしょう。神は彼らを決して諦められないでしょう。 それでは、今日の言葉について、日本のキリスト者はどのように理解すべきでしょうか? 2000年前のイスラエル人の救いと現代に生きる私たちと、果たして何の関係があるのでしょうか?まずは、イスラエルを決して、諦められない神様が、私たちもまた、諦められないという信頼が得られると思います。『教会は霊的なイスラエル』という言葉のように、神は教会をも大切に思われるからです。また、イスラエルに罪が溢れた時代にも拘わらず、7,000人の信者を残して置かれたという言葉のように、小さな群れで成長も遅い日本の教会にも、神に選ばれた者たちが確かにいるということに希望を置きたいと思います。今日の言葉を通して、日本の教会の将来を守ってくださる神を期待することができます。最後にイスラエル民族の苦難がキリスト教会と呼ばれる新しい共同体が生まれる機会になったように、私たちの教会の苦難の中で、新しい命を造ってくださる神様に期待したいと思います。私たちの生活で起こる、すべてのことに、神の深い御心があることを信じ、神の御導きに付き従う我らになりましょう。 締め括り 今日の言葉は、見方によっては、私たちと時間も、空間も遠く離れている、イスラエルという民族の救いの話だと感じやすいと思います。実際に、今日の本文が持つ意味そのものも、イスラエルの救いについての内容を含んでいます。しかし、神の旧約の民であるイスラエルを見捨てられず、再び救うことを望んでおられる主の愛を見て、すでに自分の民として救ってくださった私たちに向かっての神の愛についても、もう一度考えてみる機会になれば幸いと思います。神はイスラエルを諦められなかったように、私たちを、諦められないでしょう。現在、私たちの世界に存在する理解できない理不尽や苦難、将来が全く見えない現状の中でも、神がそのすべてを知っておられ、私たちの間におられることを、もう一度覚えていく時間になることを願います。イスラエルの話を通して、私達が分かるのは、神は決して私たちを捨てられないということでしょう。私たちと永遠に共におられる神に期待し、喜びを持って一週間を過ごす志免教会になることを祈り願います。

神の創造2-世界の存在理由

前置き 創世記は、この世界の始まりとともに、信者の信仰の始まりについても教える書です。つまり、初めに、この世界が偶然に作られたものではなく、神と言われる絶対的な存在の計画によって、作られたことを教えてくれると同時に、また、その神への信者の信仰というのも偶然に生まれたものではなく、神様によって与えられたということを思い起こさせてくれる書なのです。神は世界をお造りになるために、そして、信者に信仰をくださるために、何も存在しない、混沌と無秩序の世界に生命と秩序をくださった方であります。神の創造は、無から有を造り、無秩序に秩序をくださり、無信仰に信仰をくださる、何から何まで、すべてのところにおいて、神の導きと計画によって、行われた神の偉大な御業です。今日は、神が、その創造をどのようになさったのか、その創造が持つ究極的な意味とは何かについて、分かち合いたいと思います。世界をお造りになり、信者をお呼びくださり、信仰を創ってくださって、礼拝に臨ませてくださる神について一緒に聞きましょう。 1.6日間の創造。 聖書によると、世界は6日間に創造されたといいます。 6日間に造られたという言葉に基づいて、一部の人々は、実際に6日、144時間の間に創造されたと主張したり、一部の人々は、一日が数千年だったかもしれないと主張したりします。また、一部の人々は、これは、ただの比喩に過ぎず、神はビッグバンのような科学的な手立てで、世界を創造されたかもしれないと言ったりします。その違いが、どうであれ、重要なのは、そのすべてが、神によって、この世界が創造されたということを前提とするということです。私たちは、世界の創造が本当に6日間なのか、何千年なのか、何億年でなのか、その詳しい期間は予測できません。しかし、明らかなことは、神が6日間と表現される、その間に綿密な御計画を持って、創造に取り組まれたということです。このような神の創造の計画は、聖書では、どのように示されているのでしょうか?これからの説明をよく聞いてくだされば、創世記は、神の創造について、繰り返して対称的な表現を使うことによって、神の創造が持つ釣り合いと調和を表現していることがお分かりになると思います。これにより、私たちは、神の創造が持つ綿密さと安定性、そして秩序を強調する創世記と出会えるでしょう。 創世記1章をよく読んでみると、神の創造に法則があるということが分かります。たとえば、初めの3日間は、世界の大きな枠組みを作り、後の3日間は、その枠内に生きる被造物を創られる方式です。神は1日目は、光、昼、夜をお造りになりました。2日目は、天と水をお造りになりました。3日目は、地と海、草、果樹などをお造りになりました。4日目は、太陽、月、星のような光る物をお造りになりました。ある注釈書によれば、それらの天体が造られたというのは、季節、時間の創造とも関係があるそうです。5日目は、空の鳥と水の生き物をお造りになりました。最後の6日目は、地の獣、家畜、土を這うものをお造りになりました。ここで、重要なことは、1日 – 4日、2日 – 5日、3日 – 6日が、互いに関連を持っているということです。1日目に、光、昼と夜を造られた主は、4日日に、その昼と夜を司る光る物である太陽と月と星を造り、2日目に、天と水を造られた神は、5日目に、天の鳥と水の生き物を造り。3日目に、地と、その地上の生き物が食う植物を造り、6日目に、その地に生きる動物を造ってくださいました。そして、最終的、総合的に、そのすべてを支配する人間を造られたのです。創世記は、これらの秩序のある手順を通して、神は決して偶発的に創造をなさらなかったということを示そうとしています。 私たちは、この創造の過程を見ながら、続けて繰り返される言葉をよく探ってみる必要があります。 『神は言われた。』『‐あれ。』『そのようになった。』『神はこれを見て、良しとされた。』以上の4つの語句です。ヨハネによる1章には、『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。』と記されています。 『神は言われた。』という言葉を通して、私たちは、神が、その御言葉で世界を造られたということが分かります。創造の神は、ただ、父なる神のみを意味するものではありません。父は御独りではなく、御言葉である子と、御霊との三位一体として世界を造られました。『‐あれ。』という言葉を通しては、主権的に命じられる神様を見ることが出来ます。その御命令の結果は、『そのようになった。』です。神の創造の命令は、すべての被造物が聞き従うしかない全能の命令でした。誰も侵害できない、神の絶対的な力から、された創造なのです。そして、最後に、神は、その創造をご覧になり、『神はこれを見て、良しとされた。』です。神は、ご自分の創造を満足されたということでしょう。それから、私たちは神の創造が完璧だったことが分かります。神の創造は本当に完璧なものでした。創造は、このように仕上がりました。 2.神はこれを見て、良しとされた。 私は、その4つの語句の中で、一番意味深いものは、『神はこれを見て、良しとされた。』と思っています。皆さんが、ご覧になっておられる、この世界はいかがですか?本当に『見て良しとする価値のある世界』ですか?たぶん、そう思っておられないと思います。今の世界は全地が罪によって堕落し、神の御前でも、人の目にも決して、お見事な状態ではないと思います。人間の不義による、多くの犯罪、偶像崇拝、戦争、憎しみ、嫌悪に満ちた世界になっているのではないでしょうか。なぜ、神はこの世界を創造して、良しとされたのでしょうか?それは罪によって世界が歪められる前の世界の美しさをご覧になったからです。初めに神が人を造らたとき、神は人を意志のない人形のように、造られませんでした。人が、自分の意思で神の御心に従うことを望んでおられたからです。他のすべての被造物は意志なく、本能的に従っても、人間だけは、自らの意志を持って聞き従うことを望まれたのです。なぜなら、人は神の単なる被造物ではなく、愛しい子供だったからです。したがって、神は人には本能ではなく、理性を持って生きることが出来るように自由な意志を与えてくださいました。しかし、人間は神に与えられた、その自由意志を、神に従うことより、自分の欲望を満たすために間違って使ってしまいました。それは人間を信頼した、神への裏切りでした。その出来事によって、生まれたのが、まさにこの罪なのです。 罪は、その人間本人だけを台無しにしただけでなく、その人間が支配していた、すべての被造物にも悪い影響を及ぼしました。そのため、『神の御目に良しとされた世界』は、人間の罪のゆえに、もはや、『良くない状態』になってしまいました。しかし、そのように罪のために汚れた世界であるにも拘わらず、その創造の本質、『見て良しとする価値のある世界』であることは変わりません。人間の罪が、どんなに厳重なものであっても、その罪の影響が、全能なる神の創造の偉大さを完全に覆うことは出来ないからです。罪の力が、どんなに強くても、神の絶対性は損なわれません。なので、パウロは、ローマの信徒への手紙を通して、このように語ったのです。『世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。』(ローマ1:20)また、被造物は、依然として、その罪からの解放を待ち望んでいます。 『被造物は虚無に服していますが、同時に希望も持っています。 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。』(ローマ8:20-21)人間の罪が、どんなに汚くて強くても、決して神の創造の力と美しさ、そして、神の摂理を消滅させることは出来ません。そこに我らの希望があるのでしょう。 神に命と秩序をいただいて、造られた、この被造物の世界は、今は罪のゆえに苦しんでいますが、その罪から解放されれば、初めの善さと美しさを再び回復することになるでしょう。神が造られた、この世界の本質は相変わらず『良しとする価値のある世界』です。罪に汚されて、その初めの善さは覆われてしまいましたが、キリストが再び来られる、その再臨の日、この世界は、罪から完全に解放されて、最初の『神に良しとされる。』その状態を回復するでしょう。その時まで、完全には成れないと思いますが、少なくとも、この世界で、その良さと美しさを保たせるために、神は教会を立てられたのです。したがって、キリストによって、罪から解放された私たち教会は、主の力にあずかり、毎日毎日、世界に残っている、初めの善さを保つために生きていくべきだと思います。不義による犯罪、偶像崇拝、戦争、憎しみ、嫌悪を拒否し、私たちに委ねられた被造物を守り、神が望んでおられる良い世界のために力を尽くして生きていくべきです。これがキリストによって罪から自由になったキリスト者が、一生の間に追い求めるべき、キリスト者の在り方ではないでしょうか?キリストが再び来られる、その日、この世界は神に完全に良しとされた、その本質を回復するでしょう。キリスト者は、そのような良い世界を作っていくために、苦闘して生きていく義務を持っています。 3.創造の理由 – 礼拝 ある本で、このような内容を読んだことがあります。だいぶ、前に読みましたので、著者と本のタイトルは忘れてしまいましたが、かなり印象深い内容でした。神が創造された、この世界のまことの意味についての内容でした。要約すると『天は神の玉座、地は神の足台である。世界は神に礼拝をささげるための場所であり、人間はその場所で神に礼拝を主管する祭司、すなわち礼拝者である。』との内容でした。神が世界を創造し、最後に特別な存在である人間を造られた理由、神があれほど、世界を神の御目に良く造られた理由。そのすべての理由は、神が被造物を通して礼拝を捧げられるためです。特に、その中でも一番最後に造られた存在である人間は、自由な意志を持って、他の被造物を導き、神に礼拝を捧げる祭司の役割を持って生まれた存在です。なので、罪によって、その本当の姿から離れた人間を、赦してくださり、祭司として回復させてくださるイエス・キリストの役割は、特に重要なことでしょう。 したがって、人が神ではなく、その神が造られた他の被造物を拝むことは、神の創造の摂理を無視する不敬なことであり、神への礼拝を妨げ、冒瀆する行為なのです。私たちは、今も志免町と須恵町のあちこちで石の地蔵尊や宗教的な構造物を見ることが出来ます。太陽を神格化した天照大神の話を日本神話という名目で聴く時もあります。知らず知らずに太陽をお天道さまという尊称で呼んだりします。まだ、日本での生活が長くありませんので、私の知らない偶像が、たくさんあるかと思います。これらには、日本特有の文化としての意味をも持っているだろうと思い、盲目的に偶像崇拝だと言うのは難しいかもしれないと思う時もあります。私も時々、太宰府天満宮の庭で散歩を楽しんだりします。しかし、過去から受け継がれてきた、その文化の中に隠れている宗教的な、偶像崇拝的な意味に対しては、常に注意する必要があると思います。神は太陽、石、木、自然などのすべてのものを、ひとえに神への礼拝のための被造物として造られました。しかし、罪によって堕落した人間は、本当の礼拝の対象である神に向かわず、被造物を神格化して崇めてきたのです。世界が創造された理由は、神が被造物を通して、礼拝されるためでした。そして、人間は、その被造物の代表として、祭司の役割を尽くすために、神に仕えるために造られた存在です。私たちは、決して、それを忘れてはならないでしょう。 締め括り 2回の説教を通して、神の創造について探ってみました。神に愛された旧約のダビデ王は詩篇8篇で、このような美しい詩を残しました。 『主よ、わたしたちの主よ。あなたの御名は、いかに力強く全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます。そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ。主よ、わたしたちの主よ。あなたの御名は、いかに力強く全地に満ちていることでしょう。』(詩篇8篇中)神は、この世界を創造、神様の威光を照らしてくださいました。その栄光は依然として、この世界に満ちています。なお、その中で、特に人を選んでくださり、被造物の栄光になるようにしてくださいました。私たちは、そのような存在として、神が造られた、この世界で生きています。私たちは、何の理由もなく、この世に来ていません。神の生命と秩序をいただき、神に礼拝する礼拝者の使命を持って、この地に生まれました。したがって、当然に礼拝を受けるにふさわしい神のみを礼拝し、当然に守るべき私たちの礼拝者としての在り方を守りつつ、この被造物の世界に生きていくべきでしょう。創造の神は礼拝を受けるにふさわしい方です。その創造の法則に合致するキリスト者としての生活を生きていきましょう。そのような生き方こそ、私たちの主キリストが夢見ておられる生であり、私たちに求めておられる美しい生ではないでしょうか?

二つの義。

ハバクク2章4節 (旧1465頁)・ローマの信徒への手紙10章1-4節(新288頁) 前置き 前々週のローマ書の説教では、救いの選びと滅びの選びを司る絶対者、神様についてお話しました。加えて、神のその絶対的な選びへの私たちの在り方についても話しました。神は絶対者であられるので、ご自分の御心に基づいて、すべてのものを選び、治めておられます。ローマ書が、このような神の選びについて語る理由は、神がすべてを選ばれる絶対主権と権威を持っておられ、それを通して全世界を治めておられることを説明するためです。私たちは、そのような神の絶対的な主権により、神の子として選ばれました。そして救われて、クリスチャンという名を持って生きています。実際、私たちには、神の絶対主権を満足させる、いかなる資格も、義もありません。すべての人間は、罪と不義を持って生まれたからです。しかし、神はご自分がお遣わしになったキリストを通して、資格のない者を選び、信仰を与えてくださり、その絶対主権を通して義人という資格を与えてくださいました。したがって、私たちは、神の絶対的な選びの前で、自分の行為ではなく、神の主権によって義を得、救いを得たということを認めなければなりません。今日のテーマは、まさにこの「義」ということについての話しです。今日は 神様が認めてくださる『義』と、そうでない『義』とは何かについて分かち合う時間になることを願います。 1.義に対するユダヤ人の誤解。 使徒言行録によると、パウロは自分の民族、イスラエルを誰よりも愛する人でした。『わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。』(使徒22:3)パウロは、何よりも自分の民族の文化と宗教を大事にする民族主義者でした。さらに、ユダヤ人の中でも、特に権威のある学者であるガマリエルの弟子として、誰よりもユダヤ教の教えに徹底する人でした。『また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。』(ガラテヤ1:14)ですが、キリストに出会った後のパウロは『熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。』(フィリピ3:6-9)という言葉を通して、自分が悟った、真の義であるイエスについて証ししました。 私たちは、聖書を読みながら、ユダヤ人への良くないイメージを持つようになったりします。しかし、ユダヤ教が生れたとき、それは神への純粋な信仰から始まったものということは忘れてはいけないと思います。神を裏切り、偶像に仕えるなどの悪行のために、イスラエルは異邦の帝国に滅ぼされました。しかし、預言者エレミヤの言葉のように、イスラエルは、イスラエルの地に帰り、再び神の民となる機会を得るようになります。バビロン捕囚当時、イスラエル民族は罪を悔い改め、神への信仰を回復して行き、解放された後には、祭司エズラを中心とし、さらに健全なユダヤ教を成立させました。ユダヤ人は、もうこれ以上、偶像を崇拝するのではではなく、律法と神殿を中心とし、神に仕えて生きる生き方を決意します。そのためにユダヤ教は、神の言葉、すなわち、律法を重んじる姿を見せます。しかし、時間が経つにつれて、ユダヤ教に複数の宗派が生じ、競争的に律法の精神より、律法の行為を大事にしはじめました。ついには、律法の言葉以外に、人が作った規則も現れ、行為を通じて、より高い宗教的な水準を示そうとする姿に変わっていきました。これらの変質した姿は、福音書に詳しく現れています。 ローマ書の説教の序盤に律法について話す時にも説明しましたが、「ミツボト」という律法の613種類の掟と、そのほか、ユダヤ人たちが作った『昔の人の言い伝え』など、ユダヤ人たちは、時間が経つにつれて、これらのものを完全に守り、行なうことによって、義を成し遂げることが出来ると信じるようになりました。明らかに、イエスの時代のユダヤ人には熱心さがありました。律法を堅く守り、神を崇めるのに熱心でした。しかし、その熱心さは変質したものでした。 『誰が一番、祈りを長くするのか?誰が一番、聖書を多読したのか?誰が一番教義を多く知っているのか?誰が一番行為をよく守っているのか?』のように、他人との比較のための熱心さでした。時間が経つにつれ、そのような熱心さは、宗教的な狂気となり、『神と隣人を愛しなさい。』という律法の精神を守るより、誰もかれも目に見える律法の行為を守ることに血眼になりました。そして、それを自分の義として誇りとしました。パウロはこのようなユダヤ人の姿に対して『神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。』(2)と言いました。当時のユダヤ人の熱心さは、熱いだけで、方向が間違っていたのです。神の御心とは全く別の方向に走っていく、とんでもない熱心さだったのです。 しかし、私たちはユダヤ人の、このような姿を盲目的に非難するわけにはいかないと思います。確かに私たちも信仰の熱心さを持つことが必要だからです。祈らねばならず、黙想せねばならず、御言葉を行なわねばなりません。しかし、信仰の熱心さというのは熱意だけでは、物足りないでしょう。私たちは、神が聖書を通して教えてくださる正しい方向に進むべきです。ユダヤ人は徹底的に律法を守ることから、義を得ると思いました。しかし、聖書は神が教えてくださった正しい対象を信じることから、義を得ると語ります。私たちも、私たち自身が祈りを長くして、教会に頻繫に通って、献金をたくさんして、聖書を多く読むことなどの、宗教的な熱心さで、義を得ると考えてはいけません。信仰生活にそのような要素は、明らかに必要なのですが、それが私たちの義となるとは言えません。それらが、義だと信じるのは誤った信仰に基づくことです。私たちは、ひとえに神から与えられたキリストを信じる信仰を通してのみ、義とされることになります。私たちに必要なのは、如何なる宗教的な行為でも、熱心な行ないでもなく、我々が信じる対象であるイエス・キリストを正しく信じ、彼の言葉に聞き従い、神の御心に適う生き方なのです。キリストを信じる私たちは、過去のユダヤ人が持っていた、義に対する誤解から抜け出し、神様が意図なさった、真の義を追い求めて、生きていくべきでしょう。 2.真の義とは何か? それでは、聖書が語る、真の義とは何でしょうか?『なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。』(3)パウロは行いに基づく義に執着するユダヤ人の生き方について、自分が追い求める義のために、神の義に従わないものだと語りました。表向きでは神への熱心がありましたが、その熱心は神の義を追い求める熱心ではなく、神を崇めるという名目で自分の義を表そうとする熱心だったということです。このように純粋でない熱心さでは、どんなに努力しても、神に正しいとは認められません。それでは、パウロが言いたがっていた神の義とは、一体何でしょうか?『キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。』(4)神が認められる義とは、律法を完全に成し遂げられたキリストに頼って、律法を完成する生き方を意味するものです。ここで、私たちは4節の『キリストは律法の目標。』という言葉を探ってみる必要があります。 『律法の目標』という言葉での『目標』とは、ギリシャ語で「テロス」といいます。 4節の言葉で「テロス」には二つの意味があります。一つ目は「完成する。」です。家を建てていると仮定してみましょう。まず、土地を仕入れ、骨組みを作ります。壁を築き、屋根をつけます。しかし、それだけでは家が完成したとは言えません。壁紙を塗って、インテリアを飾る必要があります。それでも、まだ終わりではありません。家具を設置し、ガスと水道を繋げなければなりません。そして、最後に掃除をして、引越しをします。それから、やっと本格的な暮らしが始まるのでしょう。テロスは、このように完璧かつ総合的な完成を意味します。キリストは律法という家を完璧に建てられる、律法の完成者でいらっしゃいます。二つ目は、マラソンで比喩できると思います。試合の前にストレッチングをし、出発点に立ちます。そして、マラソンが始まります。約20キロメートルの折り返しを回ってゴールまで走っていきます。そして最後にフィニッシュ・ラインに到達します。テロスは、これ以上、加える必要のない完全な完成と目標の達成を意味するものです。このように家の建築とマラソン競技という二つの比喩で「テロス」を説明できます。完成と目標のために、すべての努力と貢献が果たされたという状態が、まさにこのテロスにある意味なのです。 今日の本文としては読みませんでしたが、5節から7節までの言葉は、申命記30章11節から14節までの言葉を引用したものです。申命記では、このように記されています。『わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。 海のかなたにあるものでもないから、「だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。 御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。』(申命記30)この申命記の言葉によると、神の御言葉。つまり律法は、人から遠くではなく、ごく近くにあるということが分かります。そして、その御言葉が神の民の近くにあるため、人が神の御言葉を行うことが出来ると示しました。これは、人が何かを行えるという意味ではありません。人の近くにある神の御言葉が、人が言葉を守れるように導いてくれるという意味でしょう。人そのものだけでは出来ないことが、御言葉と一緒にある時は、出来るようになるという意味でしょう。 それでは、前のテロスに戻りましょう。聖書は、キリストが神の言葉であると証言しました。『言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。』(ヨハネ1:14)その言葉が肉を持って、この地上で実体となった出来事が、まさにキリストのご降臨であります。そして、キリストは自ら人々のために、この地上で律法の完全な完成者、完全な目標点になってくださいました。神の義を完全に成し遂げ、つまり『テロス』されたということです。神の言葉として人々の間に実体を持って来られたイエスは、人のごく近くにおられ、人を助けてくださる方です。そして、キリストは、もは​​や人々の努力ではなく、神の言葉であるキリストへの信仰から義を与える方です。キリストは、すでに神がお求めになる義を完全に達成され、キリストご本人が、まさに律法の完成になってくださったからです。だから、義を成し遂げるというのは、神が遣わされた神の言葉であるキリストを信じ、彼の御導きの下で、神の力に寄り掛かって生きていくことを意味します。人間には、律法を完全に守り、義を成し遂げる、如何なる力もありません。ひたすら、義を完成された神の言葉、キリストが自分の義だと信じる時に、私たちは義と認められることが出来ます。このようなキリストによる義こそが、真の義であり、人を救う神の義なのです。 締め括り 『見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」』(ハバクク2:4)旧約聖書ハバクク書には、人間の悪に対する預言者の叫びが出てきます。『神様は正しい方でいらっしゃるのに、なぜ、世の中には悪人が、こんなに多いのでしょうか?』という預言者ハバククの問い掛けに対し、神は『いくら悪人が不義を働いても、正しい者は神への信仰によって生きる。』(日本語では、神に従う人だが、原文では義人を意味する。)と語られました。人がいくら、善いことをしても、善良に生きても、その根本は罪から始まります。人に罪があるからです。ある人は凶悪犯罪を犯したり、ある人は心の中だけで他人を憎んだりします。それらに対して人が感じる罪の大きさは、違いがあるだろうと思いますが、それでも、罪があるという事実には変わりがありません。神は、罪の大きさではなく、罪そのものをご覧になる方だからです。つまり、すべての人々は基本的に不義の中で罪を持って生きているということでしょう。しかし、神は、その罪人の中で信仰を持っている者を探しておられます。皆が不義に満ちているところで、果たして誰が正しい者と認められるでしょうか。不義な人間からでは義は生まれません。ただ、不義な人間の外から来る神の義であるキリストを通してのみ、人は義とされることが出来ます。私たちは、どこから義を得られるのでしょうか?私たちの努力と行いから、手に入れるのでしょうか?私たちの代わりに義を成し遂げられた、キリストから頂くのでしょうか?この質問への完全な答えを持って、いつもキリストに希望を置いて生きていく、私たちになることを願います。志免教会の上に主の恵みがありますように。

神の創造。

創世記1章1 -2節 (旧1頁)・ヨハネによる福音書1章1-4節(新163頁) 前置き 昨年の半ばからヨハネによる福音書、ローマの信徒への手紙の説教などの新約の説教をし始め、救い、福音、キリストについて、続けて取り上げてまいりました。二つの書は、キリストと福音についての学びに、これ以上ない聖書だと思いますが、半年以上、絶えず学んできましたので、少しく変化が必要だと思い、今週からは、一週間おきに、旧約聖書の創世記の言葉も分かち合おうとしております。今回の創世記の説教では、神の創造を描く1章から、アブラハムが登場する12章までの、原始の歴史について話してみたいと思います。それを通して、旧約から始まる神の御救いの歴史について分かち合う時間になることを願います。創世記1-12章を読みながら、私たちが必ず捕らえるべきことは、キリスト者の持つべき神中心的な世界観です。創造、堕落、贖いという聖書の大きなテーマは、すべてのものが神のご計画の中で成し遂げられることを前提とします。もちろん、人間の堕落という部分は、神の計画ではなく、人間の失敗に基づくものでありますが、そのような大きな変数である人間の堕落さえも、予測し、偉大な計画の下で、救いを成し遂げていかれる神が、この世界のすべての物事を強く支配しておられることが、まさに、この創世記の説教の主な内容であります。それを中心として、創世記を学んでまいりましょう。 1.創り主、神様。 『初めに、神は天地を創造された。』(1)これは、キリスト者ではなくても、多くの人が聞いたことのある、有名な聖書の言葉でしょう。聖書は、この世界が偶然に作られたものではなく、神という超越的な存在によって創造されたという言葉から始まります。この世界のすべてのものは神と呼ばれる唯一無二の存在により、設計、計画されて、作られました。この言葉には、非常に深い意味が含まれています。偶然に作られたものではなく、正確な計画によって、作られたので、その存在理由が明らかであるということです。この世の中に理由もなく作られたものは、何一つもありません。端的な例ですが、人間の認識に蚊は感染症の媒介となる不要な害虫のように見なされますが、もし、蚊がいなければ、動物がネズミ算式に増え、むしろ自然が壊れてしまい、人間も生き残れないようになるでしょう。バクテリアは、いかがでしょうか?バクテリアのない場合、生き物の遺体が腐敗せず、自然も円滑に働かないでしょう。津波は人間に大きな苦しみを与えますが、深海と浅海を掻き混ぜて、海の溶存酸素量を調節したりします。まして、人間として生まれた存在に、それ以上の大事な存在理由があるということは疑いの余地がないでしょう。神はすべての被造物に、それぞれの役割と、その存在理由を与えてくださいました。神の創造は、何から何まで、正確な計画と必要性を持っているのです。 今日の旧約の本文の一番前には『初めに』という言葉があります。この『初めに』という言葉は、どういう意味でしょうか?一つ目に、文字通り『世界が初めて造られる、その瞬間』という意味です。 『被造物が造られる前に、神のほか、何も存在しない時』という意味でも、解釈出来るでしょう。この解釈から、私たちが受けるのは、『無から有を創り出される神様。』への知識です。命も、光もない、ただの虚しさだけが存在している、何もない状態から、新しい存在、命、光、世界を創り出される、造り主、神様についての知識を得ることができます。神は無から有をお創りになる方ですので、すべてのものの決定権と支配権を持っておられます。造り主は、すべてのものの主となられる神様です。したがって、神は創造された、私たち人間の所有者でもあられます。ですので、神を知ること、神を信じることとは、この世の中に自分一人だけではなく、自分の始まりと終わりを知っておられる創造主が、自分と共におられるということを意味します。自分のすべてを知っておられる、造り主、神が、いつも一緒におられるのです。 二つ目に『初めに』という言葉は、解釈に従って『自己が神の創造に初めて気付いた、その瞬間』という意味にもなります。神を全く知らなかった人が、御言葉に接してから、初めて神への認識を持つようになると、以前には無かった、神への知識を持つようになります。その知識を通して、信仰が生まれ、神を真の造り主と信じるようになる際に、神は人の中に『神という存在を中心とする、新しい世界』を創ってくださいます。つまり、神中心的な世界観という新しい秩序を与えてくださるという意味です。したがって、『初めに、神は天地を創造された。』という言葉は、『自己が神に初めて出会ったとき、自分の中に神の世界が生まれた。』という意味でもあります。神は世界を創造なさるときに、無から有を造り出し、無秩序に秩序を与えてくださいました。ところで、そのような神の創造の御働きが、人が御言葉を通して、神様を信じようとする時に、その人の中でも起きるのです。信仰の無い心に信仰が生まれ、秩序の無い人生に神を中心とする秩序が生まれるのです。従って、『初めに、神は天地を創造された。』という言葉は『自己が神に初めて出会った時、自分の人生が神の中で新たに創られた。」とも解釈が出来るでしょう。神は創造の時に世界を照らされた栄光を、人の中にも照らされ、その栄光を通して神様を悟るようにしてくださいます。このように『初めに』という言葉は世界を造られた神への信仰告白であると同時に、人を新たに生まれ変わらせる神への信仰告白でもあります。神によって新たにされた存在が最初に認めるべきことは、まさに神が、この世界を創造された創り主であり、自分を新たにされた、創り主でもあるという事実です。 2.支配しておられる神。 したがって、創造は信者、未信者、自然を問わず、すべての存在に適用できる概念です。神は目に見える物理的な世界だけでなく、目に見えない霊的な世界をも造り、それらに神を中心とする秩序を与えられた方です。この秩序は、神を知らない人々が、どんなに否定しようとしても、否定できない明白な事実です。また、神は、神を信じる人の中に、神を中心とする世界観、すなわち、キリスト者らしく世界を見る目と、神の支配を信じる心をくださり、神の秩序の中で生きようとする意志をくださいます。私たちは、これを『信仰』と呼びます。したがって、神は、神を知らないこの世と神を知る教会、両者すべてを治められる方です。神の支配は信者、未信者を区切りません。今日の聖書の本文である創世記は、このように創り主としての神の絶対主権を最も前に置き、聖書を始められます。このような神の絶対主権は、聖書66巻が終わる黙示録まで終わらないでしょう。神は天地万物を支配しておられる神様です。そして、その神を崇める私たちはその支配を認め、その支配を世に広めなければならないキリスト者なのです。 2節の言葉をもう一度、お読みいたします。『地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。』(2)ある人たちは、『神の創造が始まってもいないのに、いかにして地があり、混沌と闇があり、深淵と水があり得るのか?』と問い掛けてきます。確かに創造の前には、何もなかったのに、一体どうしたのでしょうか?私たちは、聖書を読む際に、単なる歴史的な感覚で、ただの事実の記録だと思ってはいけません。聖書は歴史というより聖書記録者の信仰告白の記録であるからです。だから、信仰告白の側面から、聖書を読む必要があります。もちろん、聖書に歴史的な事実も含まれているのは、変わらない事実でしょう。しかし、聖書は、古代の文学形式に応じて書かれた記録ですので、文字、そのままではなく、文字に含まれている意味を読み取る必要があります。混沌、闇、深淵、水などは『神が世界を創られる前には、この世に秩序も、何もなかった。』という文学的な表現です。当時の人々が持っていた漠然とした不安と虚しさの表現が、まさに、この『混沌、闇、深淵、水』なのです。 アブラハムの故郷、ウルは古代の代表的な都市でした。そこは異邦の神に仕える巨大宗教都市でした。当時、ウルには大きい川があり、時々、豪雨が降れば、水が増して、洪水が出たりしました。この洪水は田んぼ、畑、建物、生物を問わず、すべてのものを飲み込む恐ろしい存在でした。古代に、洪水、すなわち、水は、命と直結しているものでした。水によって喉を潤し、農作物を栽培し、生命を保ちました。ですが、また、水による洪水に覆われ、友人、家族、財産を失ったりしました。水は生と死を司る、絶対的な存在でした。ところが、このような洪水さえも、最終的には、アラビア海に飲みこまれました。なので、古代世界で海というのは、洪水さえも支配する恐るべき存在でした。今日の本文の混沌、闇、深淵、水などは、全部、洪水、海などと関わりがあるのです。ところが、そのような混沌、闇、深淵を象徴する水の面を動いておられる神、それらに秩序を与え、新しいものを生み出される神という存在がおられるというのは、神様の絶対性を端的に表現することでした。今日の創世記の言葉は世界を造られた神が、死と虚しささえも支配しておられる方であることを宣言しているのです。つまり、神様が生と死、秩序と無秩序、すべての物事を支配しておられる絶対者であることを明らかにしているのです。 締め括り 『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。』(ヨハネ1:1)ヨハネによる福音書は、初めに世界を創られ、秩序を与えてくださった神が、他のものではなく、神の御言葉を通して、その創造の歴史を成し遂げられたと示してくれます。いつか、お話したと思いますが、『神の言葉』とは、神の御意志、御心、御計画などを意味します。神の創造は、ほんの出来心、または無秩序な行為ではなく、徹底的に神の計画と意志によって行われたものです。したがって、神は、この創造を通して、神の意志を世界に示されます。ただし、人間の罪のゆえに創造の世界に大きな傷が生じる出来事はありましたが、真の神の言葉、すなわち世界への神の善い御心、そのものである『イエス・キリスト』を通して、罪の問題は、すでに解決され、終わりの日の神様の裁きだけが残っているのです。したがって、私たちは世界を創造し、秩序を与えてくださる神、最後まで支配なさる神を待ち望み、その神の御心に適う生活を続けるべきでしょう。神の創造とは、すでに、この世界のすべてのものが神の導きの中にあることを意味するものであり、最後まで私たちが付き従って行かなければならない絶対的な価値であります。このような創造の本当の意味を覚えつつ、キリストの中で神の御心に聞き従う私たち志免教会になることを願います。