神の創造。

創世記1章1 -2節 (旧1頁)・ヨハネによる福音書1章1-4節(新163頁) 前置き 昨年の半ばからヨハネによる福音書、ローマの信徒への手紙の説教などの新約の説教をし始め、救い、福音、キリストについて、続けて取り上げてまいりました。二つの書は、キリストと福音についての学びに、これ以上ない聖書だと思いますが、半年以上、絶えず学んできましたので、少しく変化が必要だと思い、今週からは、一週間おきに、旧約聖書の創世記の言葉も分かち合おうとしております。今回の創世記の説教では、神の創造を描く1章から、アブラハムが登場する12章までの、原始の歴史について話してみたいと思います。それを通して、旧約から始まる神の御救いの歴史について分かち合う時間になることを願います。創世記1-12章を読みながら、私たちが必ず捕らえるべきことは、キリスト者の持つべき神中心的な世界観です。創造、堕落、贖いという聖書の大きなテーマは、すべてのものが神のご計画の中で成し遂げられることを前提とします。もちろん、人間の堕落という部分は、神の計画ではなく、人間の失敗に基づくものでありますが、そのような大きな変数である人間の堕落さえも、予測し、偉大な計画の下で、救いを成し遂げていかれる神が、この世界のすべての物事を強く支配しておられることが、まさに、この創世記の説教の主な内容であります。それを中心として、創世記を学んでまいりましょう。 1.創り主、神様。 『初めに、神は天地を創造された。』(1)これは、キリスト者ではなくても、多くの人が聞いたことのある、有名な聖書の言葉でしょう。聖書は、この世界が偶然に作られたものではなく、神という超越的な存在によって創造されたという言葉から始まります。この世界のすべてのものは神と呼ばれる唯一無二の存在により、設計、計画されて、作られました。この言葉には、非常に深い意味が含まれています。偶然に作られたものではなく、正確な計画によって、作られたので、その存在理由が明らかであるということです。この世の中に理由もなく作られたものは、何一つもありません。端的な例ですが、人間の認識に蚊は感染症の媒介となる不要な害虫のように見なされますが、もし、蚊がいなければ、動物がネズミ算式に増え、むしろ自然が壊れてしまい、人間も生き残れないようになるでしょう。バクテリアは、いかがでしょうか?バクテリアのない場合、生き物の遺体が腐敗せず、自然も円滑に働かないでしょう。津波は人間に大きな苦しみを与えますが、深海と浅海を掻き混ぜて、海の溶存酸素量を調節したりします。まして、人間として生まれた存在に、それ以上の大事な存在理由があるということは疑いの余地がないでしょう。神はすべての被造物に、それぞれの役割と、その存在理由を与えてくださいました。神の創造は、何から何まで、正確な計画と必要性を持っているのです。 今日の旧約の本文の一番前には『初めに』という言葉があります。この『初めに』という言葉は、どういう意味でしょうか?一つ目に、文字通り『世界が初めて造られる、その瞬間』という意味です。 『被造物が造られる前に、神のほか、何も存在しない時』という意味でも、解釈出来るでしょう。この解釈から、私たちが受けるのは、『無から有を創り出される神様。』への知識です。命も、光もない、ただの虚しさだけが存在している、何もない状態から、新しい存在、命、光、世界を創り出される、造り主、神様についての知識を得ることができます。神は無から有をお創りになる方ですので、すべてのものの決定権と支配権を持っておられます。造り主は、すべてのものの主となられる神様です。したがって、神は創造された、私たち人間の所有者でもあられます。ですので、神を知ること、神を信じることとは、この世の中に自分一人だけではなく、自分の始まりと終わりを知っておられる創造主が、自分と共におられるということを意味します。自分のすべてを知っておられる、造り主、神が、いつも一緒におられるのです。 二つ目に『初めに』という言葉は、解釈に従って『自己が神の創造に初めて気付いた、その瞬間』という意味にもなります。神を全く知らなかった人が、御言葉に接してから、初めて神への認識を持つようになると、以前には無かった、神への知識を持つようになります。その知識を通して、信仰が生まれ、神を真の造り主と信じるようになる際に、神は人の中に『神という存在を中心とする、新しい世界』を創ってくださいます。つまり、神中心的な世界観という新しい秩序を与えてくださるという意味です。したがって、『初めに、神は天地を創造された。』という言葉は、『自己が神に初めて出会ったとき、自分の中に神の世界が生まれた。』という意味でもあります。神は世界を創造なさるときに、無から有を造り出し、無秩序に秩序を与えてくださいました。ところで、そのような神の創造の御働きが、人が御言葉を通して、神様を信じようとする時に、その人の中でも起きるのです。信仰の無い心に信仰が生まれ、秩序の無い人生に神を中心とする秩序が生まれるのです。従って、『初めに、神は天地を創造された。』という言葉は『自己が神に初めて出会った時、自分の人生が神の中で新たに創られた。」とも解釈が出来るでしょう。神は創造の時に世界を照らされた栄光を、人の中にも照らされ、その栄光を通して神様を悟るようにしてくださいます。このように『初めに』という言葉は世界を造られた神への信仰告白であると同時に、人を新たに生まれ変わらせる神への信仰告白でもあります。神によって新たにされた存在が最初に認めるべきことは、まさに神が、この世界を創造された創り主であり、自分を新たにされた、創り主でもあるという事実です。 2.支配しておられる神。 したがって、創造は信者、未信者、自然を問わず、すべての存在に適用できる概念です。神は目に見える物理的な世界だけでなく、目に見えない霊的な世界をも造り、それらに神を中心とする秩序を与えられた方です。この秩序は、神を知らない人々が、どんなに否定しようとしても、否定できない明白な事実です。また、神は、神を信じる人の中に、神を中心とする世界観、すなわち、キリスト者らしく世界を見る目と、神の支配を信じる心をくださり、神の秩序の中で生きようとする意志をくださいます。私たちは、これを『信仰』と呼びます。したがって、神は、神を知らないこの世と神を知る教会、両者すべてを治められる方です。神の支配は信者、未信者を区切りません。今日の聖書の本文である創世記は、このように創り主としての神の絶対主権を最も前に置き、聖書を始められます。このような神の絶対主権は、聖書66巻が終わる黙示録まで終わらないでしょう。神は天地万物を支配しておられる神様です。そして、その神を崇める私たちはその支配を認め、その支配を世に広めなければならないキリスト者なのです。 2節の言葉をもう一度、お読みいたします。『地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。』(2)ある人たちは、『神の創造が始まってもいないのに、いかにして地があり、混沌と闇があり、深淵と水があり得るのか?』と問い掛けてきます。確かに創造の前には、何もなかったのに、一体どうしたのでしょうか?私たちは、聖書を読む際に、単なる歴史的な感覚で、ただの事実の記録だと思ってはいけません。聖書は歴史というより聖書記録者の信仰告白の記録であるからです。だから、信仰告白の側面から、聖書を読む必要があります。もちろん、聖書に歴史的な事実も含まれているのは、変わらない事実でしょう。しかし、聖書は、古代の文学形式に応じて書かれた記録ですので、文字、そのままではなく、文字に含まれている意味を読み取る必要があります。混沌、闇、深淵、水などは『神が世界を創られる前には、この世に秩序も、何もなかった。』という文学的な表現です。当時の人々が持っていた漠然とした不安と虚しさの表現が、まさに、この『混沌、闇、深淵、水』なのです。 アブラハムの故郷、ウルは古代の代表的な都市でした。そこは異邦の神に仕える巨大宗教都市でした。当時、ウルには大きい川があり、時々、豪雨が降れば、水が増して、洪水が出たりしました。この洪水は田んぼ、畑、建物、生物を問わず、すべてのものを飲み込む恐ろしい存在でした。古代に、洪水、すなわち、水は、命と直結しているものでした。水によって喉を潤し、農作物を栽培し、生命を保ちました。ですが、また、水による洪水に覆われ、友人、家族、財産を失ったりしました。水は生と死を司る、絶対的な存在でした。ところが、このような洪水さえも、最終的には、アラビア海に飲みこまれました。なので、古代世界で海というのは、洪水さえも支配する恐るべき存在でした。今日の本文の混沌、闇、深淵、水などは、全部、洪水、海などと関わりがあるのです。ところが、そのような混沌、闇、深淵を象徴する水の面を動いておられる神、それらに秩序を与え、新しいものを生み出される神という存在がおられるというのは、神様の絶対性を端的に表現することでした。今日の創世記の言葉は世界を造られた神が、死と虚しささえも支配しておられる方であることを宣言しているのです。つまり、神様が生と死、秩序と無秩序、すべての物事を支配しておられる絶対者であることを明らかにしているのです。 締め括り 『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。』(ヨハネ1:1)ヨハネによる福音書は、初めに世界を創られ、秩序を与えてくださった神が、他のものではなく、神の御言葉を通して、その創造の歴史を成し遂げられたと示してくれます。いつか、お話したと思いますが、『神の言葉』とは、神の御意志、御心、御計画などを意味します。神の創造は、ほんの出来心、または無秩序な行為ではなく、徹底的に神の計画と意志によって行われたものです。したがって、神は、この創造を通して、神の意志を世界に示されます。ただし、人間の罪のゆえに創造の世界に大きな傷が生じる出来事はありましたが、真の神の言葉、すなわち世界への神の善い御心、そのものである『イエス・キリスト』を通して、罪の問題は、すでに解決され、終わりの日の神様の裁きだけが残っているのです。したがって、私たちは世界を創造し、秩序を与えてくださる神、最後まで支配なさる神を待ち望み、その神の御心に適う生活を続けるべきでしょう。神の創造とは、すでに、この世界のすべてのものが神の導きの中にあることを意味するものであり、最後まで私たちが付き従って行かなければならない絶対的な価値であります。このような創造の本当の意味を覚えつつ、キリストの中で神の御心に聞き従う私たち志免教会になることを願います。