過越祭の小羊。

出エジプト記12章3―14節(旧111頁) コリントの信徒への手紙一5章7節(新305頁) 前置き 今日は、アドベント、つまり、今年の待降節の第一の主日です。待降節とは、イエス·キリストのご降臨を待ち望む期間という意味です。これから待降節の4週間、私たちは神でありながら人として、私たちの間に来られた救い主イエスのご誕生を記念し、また終わりの日に再び来られる再臨のイエスを記念してクリスマスを迎えます。今年の始まりから間もないような気がしますが、もう一年が終わりそうな時になっています。私たちと共におられるイエスは、今年も私たちを平安の中で守ってくださいました。イエス·キリストのご降臨と犠牲、愛、御言葉を憶えて、待降節の期間を過ごし、新しい一年を準備していく恵みの12月になることを祈ります。今日は旧約聖書の出エジプト記の言葉を学びますが、偶然にも待降節とよく合う本文ですので、感謝です。神が私たちにお遣わしくださった救いの小羊イエス·キリストの愛と犠牲とを、今日の本文を通じて考えてみる機会になることを祈ります。 1. 最後の災いはなぜ死だったのか? 出エジプト記に出てくる十の災いの最後の裁きは、エジプトの地のすべての初子が滅ぼされる死の災いでした。以前、九の災いが繰り広げられたにもかかわらず、最後まで悔い改めず、神に逆らい続けていたファラオへの神の最後の裁きは、結局死だったのです。死は古今東西を問わず恐ろしい存在です。この世の誰も、死という存在から、絶対に自由ではありません。聖書も死についてこう語っています。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ9:27) この世のどんな価値でも死の前では、その光を失ってしまいます。なぜなら、死はすべてを奪い取り、終わらせる、底なしの闇のようなものだからです。この世には恐ろしいことがたくさんあります。老化、病気、事故など、人間はそれらを恐れています。しかし、それらすべての恐怖の根源は、老化、病気、事故といった事柄の裏に隠れている死という一つの存在のためではないでしょうか。死が恐ろしい理由は、それが終わりだという人間の本能的な感覚があるからではないかと思います。存在の意味がなくなること、存在の価値が消えてしまうこと。それがまさに死の権能だからです。だから、主も死を十の災いの最後の災いとしておかれたかもしれません。最も悲惨で虚しいものが死にあるからです。最後の災いが持つ意味は、その死の圧倒的な権能の前で、人間は誰も自由ではないということを強調するものではなかったでしょうか。 2.死を乗り越える唯一の対策。 ところで、今日の本文では、そのような死の裁きのもとでも、ご自分の民に死を乗り越える希望を与えてくださる神の恵みが描かれます。「その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。」(出エジプト記12:12-13)今日の本文の夜、神はエジプトのすべての初子に死の裁きを下されましたが、その対象はエジプト人だけでなく、エジプト国内にあるすべての生命を持つ存在でした。つまり、イスラエル人でさえ、エジプトにいるなら、神の裁きの対象であったということです。しかし、主はイスラエルにはその死の裁きを免れる一つの対策を与えてくださいましたが、それは過越祭の小羊の血でした。「その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。用意するのは羊でも山羊でもよい。それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。」(出エジプト記12:5-7) 神は傷のない雄の小羊や小山羊を屠って、その血で家の入り口の二本の柱と鴨居に塗ることを命じられました。 過越祭という言葉の意味は「死が通り過ぎる日」です。エジプトにあるすべての初子がエジプトの罪によって神の呪いの下に死に滅ぼされなければならない悲惨な状況だったにもかかわらず、神はその死によって滅ぼされることなく、神のお助けによって生き残る対策をこの過越祭を通して見せてくださったのです。それは神に定められた小羊の血を家の入口に塗ることでした。神の怒りによる死の裁きを神ご自身が特定してくださった小羊の血を塗ることで避けることが出来る、神の恵みだったのです。審判する存在が審判される存在に審判を免れる唯一の対策を教えてくれたわけです。それがまさに過越祭の小羊の血が持つ特別な効果でした。そして、私たちはこの過越祭の小羊の血という旧約の概念から、罪を赦し、救いをくださる十字架のキリストの血という概念を見つけることが出来ます。つまり、死の呪いの中で、神はご自分の民たちに生命の希望を見せてくださったということです。神がお定めくださった小羊の血の痕跡があるところなら、そこは神の死の呪いが過ぎ去り、死を乗り越える恵みが許されます。これが過越祭を通して、私たちに与えられた神の救いの対策、過越祭の小羊の血の意味なのです。 3.過越祭の小羊、イエス·キリスト 私たちが信じるイエス·キリストの御救いは、この出エジプト記の過越祭の小羊の血と深くかかわっています。聖書の教えによると、世の中のすべての人間は自分の罪のため、最後には死ぬしかない悲惨な存在です。ここで言う死とは単純に肉体の命が終わるという意味を越えて、神からその存在を認められず、永遠に見捨てられることを意味します。しかし、神がお与えくださった、新約時代の過越祭の小羊、イエス·キリストの救いのもとにいるならば、人間は罪赦され、神の救いを受け、認められ、永遠の死から解放されるようになるのです。したがって、キリストの救いの血潮は、神と罪人を仲良くさせる和解の贈り物であり、神と罪人をつながせる関係の祝福です。 出エジプト記で過越祭の小羊の血がイスラエルの民を死の裁きから救う神と罪人の接点になったとすれば、今、私たちが生きている新約の時代には、まるで過越祭の小羊のようにご自分を犠牲にして罪人たちを救ってくださったイエス•キリストの血が神と罪人をつなげる接点になります。イエス・キリストが十字架で罪人のために死んでいかれた理由は、この新しい時代の過越祭の小羊としてご自分の生命(血)を贖いのいけにえにしてくださるためでした。世のすべての存在は、神に逆らう、悪の世のもとで結局永遠の死を避けず、人生を終えてしまうでしょう。しかし、キリストの血潮の権能と恵みを信じる者たちは、神から生命をいただき、肉体は死んでも終わりの日にキリストにあって復活し、永遠の生命を持って主と生きていくことになるでしょう。イエスがこの世に来られた理由も、そのような真の救いを罪人たちに与えてくださるためです。今日の過越祭の小羊の本文を通じて、キリストがこの時代の過越祭の小羊であり、その方の血潮によって、私たちが救われたこと憶え、生きていくことを願います。 キリストが私たちの救いになってくださり、私たちに死を避ける一本道を開いてくださったからです。 締め括り アドベントの期間が始まりました。クリスマスまでの何週間、私たちはキリストのご誕生を記念するでしょう。私たちはキリストが神の過越祭の小羊になり、ご自分の民を死の呪いから救い出してくださるために来られたことを憶え、それを最も大事に記念しなければなりません。キリストがおられる限り、私たちは神の呪いである死に吞み込まれず、死を乗り越えて、神の真の命へ入ることになるでしょう。キリストの血潮は呪いを祝福に替える恵みのお贈り物です。そのお贈り物のために、イエス・キリストはわたしたちのところに来られたのです。その方に感謝して過ごすアドベントを願います。 父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。

キリストによる勝利。

旧約の箇所はありません。 ローマの信徒への手紙8章17-39節(新284頁) ローマの信徒への手紙8章17節には、こう書いてあります。『もし、子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。』神の恵みによって罪人の身分から救われ、神の子供、正しい人と生まれ変わったキリスト者は、神の御国の相続人として認められた存在です。『神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。』(ローマ8:14)イエス・キリストの御救いと神のお愛によって、私たちに来られた聖霊が、私たちキリスト者の人生に共に歩まれ、神の子供、神の相続人という身分を与えてくださったからです。神を離れ、肉的な人生を生きていた私たちは、今や聖霊のお導きと恵みとによって、神と共に生きる霊的な存在、もはや罪人ではなく、神の子供であり、神の相続人となったのです。 ただし、だからといって、今後の人生に、いかなる苦しみも、悲しみもなく、ただただ、気楽で楽しさばかりの人生だけが残っているとは言えません。『キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。』(ローマ8:17)(新共同訳の翻訳は、原文と翻訳順番が違います。より原文に近い翻訳は『キリストと共に栄光を受けるなら、共にその苦しみをも受けるべきなのです。』の方が、本文に近い表現だと思います。)17節は、キリスト者の生活の両面性を語っています。『神の相続人として栄光を受ける者となったが、それと共に、相続人としての苦しみをも負うべきである。』ということです。ローマ書の5章では、これについてすでに記されています。『このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。私たちは知っているのです、苦難は忍耐を、 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。』(ローマ書5:2-4)神から栄光を受けるためには、主による苦難をも経験しなければならないということでしょう。 なぜ、栄光の主によって、神の相続人となったキリスト者に、このような苦難が襲ってくるのでしょうか?神の子供なら、祝福と平和いっぱいで生きるべきではないでしょうか?残念なことにその苦難の理由は、この世の罪にあります。『被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。』(22)ここでの被造物とは、人間世界のすべての物事を意味します。これは、自然環境のような物理的な世界と共に、人の間柄のような霊的、精神的な世界をも意味します。その中には人と人との関係、人と自然の調和のような、この世界のすべてが含まれています。しかし、最初の人の不義による罪は、人と人の対立、自然への人間の乱用などにつながってしまいました。人と人が憎み合い、国と国が戦争し合い、人間の貪欲のために自然が破壊されました。人間の罪は人間だけでなく、この世の物理的、精神的な被造物にも悪い影響を及ぼしたわけです。この憎しみと破壊の世界で神の子供として、御言葉に聞き従い、罪の世界に対抗して生きるというのは、汚れたこの世の方式とは全く反対側にいくことと同じものです。だから、この世に生きる神の子供は、当然、罪の世界から苦難を受けるようになるのです。キリスト者が受ける迫害と苦難は、こんな経緯から生まれたものです。 私たちが聖書に従って正しく生きようとして受ける苦しみは、神の民なら、受けるに決まっている苦難です。自分の敵を愛するための苦難であり、他国との平和を祈るための苦難であり、自然環境に優しくするための苦難であります。罪と不義に満ちた世界で、神の正義と愛とを宣べ伝えるために受ける苦難なのです。もし私たちが神を真の父と信じ、そのご意志に従って生きることを決心したなら、これらの苦難は避けられない、絶対的な課題です。しかし、これらの苦難は苦しみだけで終わるものではありません。それらには、より大きな御業を計画しておられる神の御心が隠れているからです。『神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています。』(28)、そのような神の御国の相続人としての苦難の中で、神を愛し、信頼して生きる際に、そのような苦難さえも、最終的には一つになって共に働き、神の御心を成し遂げる万事の益となるからです。 パウロは、イエスに出会って以来、神の支配による理想的な世界を夢見て働きました。私たちが御国と呼ぶ神の国、それは神のお導きとご統治に満たされた世界です。それは、ただの死後のユートピア、極楽、天国などを意味するものではありません。罪によって汚された、この世界で、神の真の愛とお導きのもとで成し遂げられる主の支配権が現れるすべてのところ(例:主の御心に聞き従って生きる私たちの人生)が、まさに御国なのです。神はそのためにキリストをお遣わしになったわけです。キリスト・イエスは、主を信じる者が、この地上で苦難に負けず、御国を望んで生きることが出来るように、先立って自ら苦難の模範を見せてくださいました。『神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。』(29) 罪によって歪んでしまった、この世で御国を成し遂げるということは、苦難をともなう難しいことです。しかし、神は口先だけの命令ばかりの方ではありませんでした。イエス・キリストという神の独り子が直接私たちのところに来られ、苦難を受け、私たちの進むべき道を開け、ご自分で先に進んで行かれたのです。聖書は、このようなイエス・キリストを長子と表現しています。私たちキリスト者は、そのイエスが切り開いた道に沿っていくことで、御国を建てていくことが許されたのです。 だから、神の子供とされた私たちは、苦難の背後に隠れている神の栄光を望まなければなりません。キリスト者がいくら頑張ろうとしても世界はそう簡単には変わりません。教会の規模と影響力は依然として小さく、世界は罪の道に走っています。これらの罪に満ちた世界で、世界を変えられない教会は、無力感を憶えやすいと思います。しかし、本質を見抜かなければなりません。教会の弱さが神の弱さを意味するわけではなく、教会が無力だから、神も無力な方であるというわけでもありません。卵で岩を打てば卵が割られますが、神が岩を壊し、その場に卵を置こうとされたら、神は成し遂げられます。神はお出来になる方です。私たちは、自分の状況ではなく、神の御腕を望むべきです。 『誰が神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。誰が私たちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成してくださるのです。』(33-34)御子イエスの命を犠牲になさってまで、主の民を呼び出され、導かれた神。この神が私たちと共に歩んでくださる限り、私たちは信徒の苦難の中でも希望を見つけることが出来ます。私たちの苦難は、すでにキリストがご経験なさった苦難であり、主は誰よりも私たちの苦難を知っておられる方であります。『私を殺せない苦難は、私をさらに強く鍛えさせる。』という言葉があります。このように、キリストと一緒に受ける苦難は、私たちをさらに強く鍛えるものであり、終わりの日、神の相続人として主に召された私たちは、その苦難によって輝かしい勝利を得るようになるでしょう。『誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。』(35)主なる神はキリスト・イエスの愛によって私たちを世の終わりまでお守りくださり、勝利を与えてくださるでしょう。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

わたしの一番いいものを。

箴言 3章9-10節(旧993頁) マルコによる福音書 14章3-9節(新90頁) 前置き 先日、エフェソの信徒への手紙の説教が終わりました。今年、エフェソ書の説教をした理由は、エフェソ書が、志免教会の今年のテーマである「教会とは何か?」と深い関りがあるからでした。そのため、今年初までしていたマルコによる福音書の説教をしばらく休んで、エフェソ書について話してきたのです。私たちはエフェソ書を通じて、教会とは何かについて十分に考えることが出来たと思います。それでは、今週からは、また、マルコの福音書の残りの箇所を説教していきたいと思います。今日、探ってみようとしている箇所は「イエスの頭に香油を注ぎかけたベタニアの女」です。この本文を通して「私の一番良いものを」という題で話してみましょう。今日の本文を通して、主は私たちに何を教えてくださるでしょうか? 1。ベタニアにおられる主なる神。 「イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。」(マルコ14:3) イエスが十字架につけられる数日前、主はべタニアの重い皮膚病(ハンセン病)の人だったシモンの家に行き、食事の席に着かれました。名前からも分かるように、シモンはかつてハンセン病者だったようです。律法によると、ハンセン病者は必ずイスラエルから隔離しなければなりませんでした。しかし、それでも、純粋なユダヤ人だった主イエスは、彼の家に入り、一緒に食事されたのです。食事の席に着くというのは、一緒に飲み食いする人と深い関係を結ぶという意味です。もちろん、学者たちはシモンがすでにイエスによって癒され、正常になっていたと言います。そして、おそらく彼は本当に回復していたでしょう。もし、彼が依然としてハンセン病者だったら、律法のため、イエスを除いてみんなが彼の家に入ろうとしなかったはずだからです。ハンセン病から治ったとしても、人々は気軽に彼の家に入ろうとしなかったでしょう。しかし、イエスは全くお気になさらず、シモンの家に入り、彼と食事の交わりをなさいました。神の呪いのようなハンセン病によって隔離され、嫌われ、結局は寂しく死んでいくはずだったシモンは、イエスによって癒され、再び隣人と共に暮らせるようになったのです。 さて、このシモンの家はエルサレムから東へ約4-5km離れていた「べタニア」にありました。べタニアはアラム語(当時、エルサレム地域の人が主に使っていた言葉)で「貧しい者の家」という意味で、べタニアの近くには、ハンセン病者の隔離地域があったと言われます。イエス·キリストは、何のためらいもなくハンセン病にかかった者たちの地域から近いべタニアに行き、貧しい者たちを慰め、ハンセン病にかかった者たちを治してくださったのです。当時、ユダヤ教の人々はイエスを軽蔑して「徴税人や罪人の仲間だ。」と呼びました。ユダヤ人にとって、そのようなあだ名は呪いのようなものでした。しかし、イエス·キリストは、喜んで「徴税人や罪人の仲間」すなわち「疎外された者の友人」になってくださいました。イエスは華やかなエルサレムの王宮、あるいは、聖なるエルサレムの神殿ではなく、汚く、貧しく、疎外された「罪人のところ」におられたのです。神であるイエスは、寒くて汚くて臭いがする「飼い葉おけ」に生まれ、いつも低くて疎外されたところにおり、最後まで貧しいところ、罪人たちのところ、低いところにおられたのです。今日の本文のその日、神であるイエス·キリストは、べタニアにおられました。そして、貧しくて辛くて悲しい者たちと一緒にいてくださいました。私たちの主が生前初中いらっしゃった所、そこは、低くて貧しいところでした。 2.キリストに香油を注ぎかけた女。 「一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。」(マルコ14:3) 主がシモンの家で食事される時、一人の女がイエスのところに来て、300デナリオン以上のナルド香油をイエスの頭に注ぎかけました。ナルドとはイスラエル地域には育たない、現在のインド、ヒマラヤ山脈に育つ非常に貴重な植物だと言われます。当時、元気な男性労働者1人の一日労賃が1デナリオンだったということですから、300デナリオンなら、ほぼ1年の給料に当たる大きい金額だったでしょう。おそらく、そんなに富んでない彼女は、長い間、貯めてきたお金で高い香油を買ってイエスのためにささげたでしょう。低いところで貧しくて苦しい人々とおられた主のために、女は自分の一番良いものを差し上げたでしょう。「そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。そして、彼女を厳しくとがめた。」(4-5) すると、人々は驚いて憤慨しました。常識的に考えてみても、いっぺんに、値の高いものを使い切るよりは、それを売って他の貧しい者たちを助けたほうが、さらに有意義だったかもしれません。しかし、主は彼女をとがめる人々にこう言われました。 「イエスは言われた。するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。」(6) その理由は十字架にて、人類の罪を背負って亡くなられるイエス·キリストの犠牲を記念するために、彼女が自分の一番良いものを主にささげたと、主が知っておられたからです。「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」(8) そして、イエスに自分の最も良いものを差し上げた、この女の行為が、福音が宣べ伝えられるすべてのところに共に伝えられると言われました。「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(9) イスラエルの多くの人々はイエスに「してください。」と要求ばかりしていたでしょう。イエスの存在自体を讃美し、その方の御救いと犠牲を記念しようとする人は多くなかったと思います。主の弟子たちでさえ、各々の野望と必要のために、主に従ったからです。しかし、この女はいかなる条件も要求もなく、ただ、イエスとその犠牲とを記念するために、自分の大事なものをささげました。ある女が「油注がれた者メシア、イエス」に、実際に油を注ぎかけることで、イエスが自分の主であり、キリストであることを公に告白したのです。そして、主はこの女の行為が福音が宣べ伝えられるすべての場所で憶えられるようにしてくださいました。 3.私の一番良いものを。 今日の本文で重要なことは、主に高値のものをささげなさいということでも、自分のすべてを一つも残さず、すべてささげなさいということでもありません。べタニアの女の香油は高いものでしたが、それを文字通りにして、現実に適用しろという意味ではありません。時には異端団体、いや普通の教会でも度を越えた献金を要求することがあると思います。たくさんの献金を持ってきて神を喜ばせという望ましくない説教をする牧師もきっと世の中にはいると思います。しかし、今日の本文は、それとは違います。私は皆さんが自分の出来る範囲で日常生活に差支えのないくらい、主がくださる心に従って献金することを積極的にお勧めします。つまり、今日の本文は献金の大小の問題ではないということです。私たちが主をどれほど憶え、記念し、仕えているかという問題でしょう。主が私たちと一緒におられることを常に憶えているか? 主が私たちの命の主であることを認めているか? 主が私たちの罪を赦し救ってくださったことを信じているか? 私たちの心を主だけにささげているか? 私たちの命を尽くして主の御心と御言葉に聞き従って生きているか? 私たちの一番良いもの、私たちの心、私たちの生命、私たちの意志、私たちの愛を主にささげているかどうかとの問題なのです。 主は貧しい女に高い香油という重荷のような献物を求められたわけではありません。ただ、十字架で死んでいくご自分への愛、奉仕、女の信仰と心をお受けになったわけです。高値の物でなくても、主は神殿でレプトン銅貨二枚(極めてわずかな献金、マルコ12章)をささげた貧しい女や、五つのパン二匹の魚を出した少年(ヨハネ6章)の心も同じくお受け取りになったでしょう。私たちは主に私たちの心、愛、生命の主権、純粋な信仰をささげているでしょうか? 私たちの情熱的な教会での奉仕と多くの献金も、時には必要であるかもしれませんが、それよりさらに大事なもの、つまり、私たちの真心を主にささげていきたいと思います。大金、高価なもの、負担のかかる献物がすべてではありません。主への私たちの真心、私たちの一生をキリストの栄光のために生きると誓うこと、主が命じた御言葉に従順に生きること、神と隣人に仕えて生きること。そのような私たちの真心と愛が、今日、主に香油を注ぎかけた女のように、主の心を喜ばせる真の献物ではないでしょうか。 締め括り 「それぞれの収穫物の初物をささげ、豊かに持っている中からささげて主を敬え。そうすれば、主はあなたの倉に穀物を満たし、搾り場に新しい酒を溢れさせてくださる。」(箴言3:9‐10) 旧約は「初物」を非常に大事に扱います。神がくださった初めての恵みだと思うからです。つまり、一番良いもの、大事なものということです。私たちにとって最も大事なものを神にささげること、それもある意味で旧約のこのような「初物」に似ているのではないでしょうか? 私たちの一番良いものは高価のものでも、多くのお金でもありません。一番良いものは、神を最も愛しようとする私たちの心構えであり、何よりも神への私たちの真心ではないでしょうか。今日、香油を注ぎかけた女を見て、私たちの一番良いものとは何であり、神に何をささければいいだろうかと考えてみる機会であることを願います。神に一番良いものをささげることが出来る志免教会の兄弟姉妹であることを祈り願います。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

十の災い。

出エジプト記 7章4-5節(旧103頁) ヨハネの黙示録 20章11-12節(新477頁) 前置き モーセは失敗者でした。40代の若い頃、エジプト王女の養子だったモーセは、自分の政治的な力でイスラエルを解放しようとしました。しかし、彼は血気によって同胞を苦しめるエジプト人を殺してしまい、そんなモーセへのイスラエル人の支持もなかったので、結局エジプトから逃げてしまいました。40年後、彼は神に呼び出され、再びイスラエルの解放のためにファラオの前に立つことになりました。しかし、彼はまた失敗します。ファラオはイスラエルの解放を承認するどころか、むしろさらに苦しめるだけでした。モーセは解放の成就も、周りからの歓呼もなく、同胞に恨まれるようになってしまいました。若い頃の失敗と今の失敗、二回の失敗を経験したモーセには、もはや人間的な野望もやる気もなくなりました。そのようにモーセが最も落ち込んだ時、神は彼にイスラエルの解放を必ず成し遂げると約束されました。神の民が最も弱くなった時、神の御業は始まります。私たちの失敗は、主による私たちの勝利をさらに輝かせる絶好の機会です。失敗と絶望の時こそ、主なる神が私たちの人生に最も積極的に介入してくださる時です。私たちが最もみすぼらしくなった時、その時が神のお導きに一番近い時です。 1.神の災いへの理解。 イスラエルの解放のために、主なる神がご計画なさったのはエジプトへの十の災い(裁き)でした。「わたしはエジプトに手を下し、大いなる審判によって、わたしの部隊、わたしの民イスラエルの人々をエジプトの国から導き出す。」(出エジプト7:4)、そして、その裁き(審判)の方式はエジプトへの十の災いでした。十の災いの詳細については、後ほど話すことにして、まずは神と災いについて話してみたいと思います。私は先ほど、イスラエルの解放のために、主なる神がご計画なさったのはエジプトへの十の災い(裁き)だったと言いました。ここで私たちは、神の裁きと災いが誰に向けたものであるかを理解する必要があります。最近、水曜祈祷会でヨハネの黙示録を学んでいますが、私たちは黙示録を思い出すと、ふと恐怖を感じます。恐ろしい災いと神の裁きが記された書だからです。しかし、詳しく読んでみると黙示録の災いと裁きが神の民に向けられているものではなく、神に逆らう悪へのものであることが分かります。その災いは恐ろしいでしょうが、災いの対象が、主の民ではなく、神の敵に対する裁きであるということです。さて、黙示録は多くの部分、出エジプト記の影響を受けました。そのため、黙示録の災いは出エジプト記の十の災いとも関りがあるということです。イスラエルは神の民、すなわち教会を反映し、エジプト帝国は神に逆らう悪の勢力を反映するのです。 したがって、私たちは出エジプト記の十の災いが、神に逆らう悪への裁きであることを憶えなければなりません。それは私たちへの裁きではなく、滅びるべき悪への裁きなのです。罪によって歪んでしまった世界は、死、悲しみ、苦しみに満ちています。時には私たちの人生にも災いのような苦しみが襲ってき、神を恨むようになる場合もあります。神を信じるといっても、依然としての私たちの人生の辛さはよくあることです。しかし、神は決して私たちに災いを与えられる方ではありません。神は独り子を犠牲になさるだけに、私たちを愛してくださる方です。ただし、私たちが生きるこの世の罪と悪によって、私たちが感じる苦しみを神による災いであると誤解するのです。私たちはやむを得ず、この悪の世界に生き、苦しみを経験しなければならない時もあります。しかし、その苦しみは神からの災いでも、裁きでもありません。むしろ、神は罪と悪を裁かれる方です。そして、主なる神は災いのような苦しみの中でも、私たちを絶対に諦めず、見守ってくださる方です。終わりの日、私たちが主なる神の前に立つ時、神は私たちを慰め、永遠の喜びによって報いてくださるでしょう。ですから、神を誤解しないようにしましょう。神は悪の世界を裁かれる方であり、むしろ、その裁きの炎からご自分の民を守ってくださる方であることを忘れてはなりません。 2.十の災いと裁き 神は、ご自分の民であるイスラエル(教会)を邪悪なエジプト(罪)から救ってくださるために、災いを伴う裁きを下されました。十の災いについての出エジプト記の記録は、7章から12章まで非常に長いです。したがって、これらのすべての災いを一度に説教するのは無理であり、何度に分けて説教するのも、内容が重なるため、かなり退屈になると思います。ですから、今日の一度の説教で手短に取り上げ、詳細な内容は皆さんに本文を読んでいただくことで振替したいと思います。それでは、十の災いについて考えてみましょう。①川の水が血に変わる災い(7:14-25)、生命の根源であるナイル川(水)を司る神ハピへの裁き ②蛙の災い(8:1-15)、富と多産の女神ヘケトへの裁き、自分の偶像に苦しめられる裁き。 ③ぶよ(蚋)の災い(8:16-19)、大地の神ゲブへの裁き。エジプト全土の塵がぶよになる。これからはエジプトの魔術師でも真似できない。神だけの権能  ④あぶ(虻)の災い(8:20-32)、日の出の神ケプリへの審判。時間を司る神。(カエル、ぶよ、あぶへの裁きは、水、地、空の神々の無力化を象徴) ⑤疫病の災い(9:1-7)、農業を助ける家畜の神アピスへの裁き ⑥はれ物の災い(9:8-12)、癒しの神ネフェルトゥムへの裁き、真の癒しは主なる神だけにある。 ⑦雹の災い(9:13-35)、天空の神ホルスへの裁き、エジプト人が死んだ最初の裁き。予告があり、御言葉を恐れた人は生き、無視した人は死んだ。 ⑧イナゴの災い(10:1-20)、農作物を荒れ果てさせるイナゴの群れの襲来。雹の害を免れた残りのものを食い荒らした。戦争の神セトへの裁き。(戦争とイナゴの関係は不明)⑨暗闇の災い(10:21-29)、太陽の神を主神とあがめるエジプトから太陽が消えた。エジプトの偶像の無力さを示す災い。太陽の神ラ-への裁き ⑩死の災い。人間、家畜を問わず、初産は死んだ。王位を継承するべきファラオの子も死んだ。エジプトの賢人神であったファラオも神の権能に無力だった。地上の太陽神と呼ばれたファラオへの裁き。以上が十の災いの持つ意味です。この意味は、神に逆らうエジプトと共に、彼らがあがめていた数多くの偶像への災いであり、ただイスラエルの神だけが真の神、絶対者であることを示す出来事でした。これらにより、エジプトはイスラエルの神が真の神であることを認めざるを得なくなりました。特別な点は、これらの災いの中で、イスラエルも恐ろしい裁きを目撃したが、イスラエル人の地域は、これらの災いを避けたということです。神が恐ろしい災いの裁きから、主の民を守ってくださったからです。 3.神の裁きへの教会の理解。 私たちは、神という存在を考える時、ひたすら、愛ばかりでいっぱいの方だと誤解しやすいです。しかし、聖書は神は愛の神でもあるが、裁きの神でもあると述べています。主なる神に自分の罪を告げ、聞き従う者には愛の神ですが、逆らって罪を犯し続ける者には、裁きの神であるのです。「ファラオはあなたたちの言うことを聞かない。わたしはエジプトに手を下し、大いなる審判によって、わたしの部隊、わたしの民イスラエルの人々をエジプトの国から導き出す。わたしがエジプトに対して手を伸ばし、イスラエルの人々をその中から導き出すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」(出7:4-5) 神はこのように、裁きによって、神に逆らうすべての存在に神が真の主であると教えてくださるのです。したがって、主の民である私たちは神の裁きに恐怖を感じるより、この裁きがあるからこそ、主の民である私たちの救いがより明確になり、神の偉大さをより一層知るようになるということを憶えるべきです。今日の新約の本文を読んでみます。「わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。」(黙示録20:11-12) すべての存在は、いつか神の御前に立ち、裁きを受けることになるでしょう。身分の高い者、低い者、白人、黒人、東洋人、信者、未信者を問わず、すべての存在は神の御前に立つことになります。その時、私たちはキリストによって神の民であることが証明され、神に受け入れられるようになるでしょう。ですから、裁きは恐ろしさばかりのことではありません。主の民にとっては、自分の身分を証明する救いの道具となるのです。しかし、神に逆らった存在には滅びの道具になるでしょう。エジプトにとっては、恐ろしい裁きだった災いが、イスラエルにとっては、エジプトからの解放の道具だったことを憶えてください。そのような裁きの両面性を理解する私たちにならなければなりません。神は裁きの時に各人の行いを測られるでしょう。ここで行いとは、救いを得るために私たちの努力を意味するわけではありません。救いは、たったキリストの恵みだけによって与えられるからです。ただ、キリストに寄りかかり、神に聞き従う者とキリストを拒否し、神に逆らう者を見分けて裁くという意味です。 それによって、永遠の命の者と永遠の死の者が分けられるでしょう。 締め括り 今は終末の時代です。キリストの到来以来、終末の時代は長く続いてきました。神は一人でも多くの命を救われるために、こんなに長い終末の時代を許されたのです。そして、いつかは必ずこの世を裁くために再臨なさるでしょう。その裁きの日の後、神は新しい天と新しい地で、主の民に真の喜びと幸せをくださるでしょう。このような終末の時代に、私たちは神の裁きの意味を正しく知り、神の御旨に適う存在として生きていくべきでしょう。最後に、日本キリスト教会の大信仰問答に書いてある裁きの項目を読んで説教を終わりたいと思います。「問283 終わりの日は、罪びとにとっては、恐ろしい審判の日ですか。」「答 そうです。聖霊の執り成しをしりぞけ、あくまでも神に従わない者には、呪いと永遠の刑罰とが宣告される日です。しかし、主イエス・キリストの十字架の贖いを信じる者には待望の日です。なぜなら、私たちの罪に対する呪いと刑罰とは、キリストによって負われ、赦されているからです。」 父と子と聖霊の御名によって、アーメン。

信仰の戦い。

旧約本文はありません。 エフェソの信徒への手紙6章10-20節(新359頁) 前置き 今日は、エフェソ書の最後の説教です。今年、私が考える一番大事なテーマは「教会とは何か?」です。エフェソ書は、教会の意義について明確に教えてくれます。「天地創造の前から神にあらかじめ定めされ、キリストによって救われ、その御旨に適って生きるキリストの体なる共同体。」これが教会の意義です。したがって、教会は神の御心によってキリストの民となった、キリストと共に歩まなければならない存在です。この世の思想、生き方ではなく、キリストの御心と生き方に聞き従わなければならない存在です。私たちは、この日本の地に住んでいますが、実は主の御国に属する存在です。この地にいるが、実は天に属している存在、それがキリストの体なる共同体、教会のアイデンティティなのです。今日の本文は、その教会を成すキリスト者の信仰生活について、特に「信仰の戦い」について語ります。最近、多くの兄弟姉妹が体や心の疲れと痛みを感じています。今日の本文を通じて、このような状況を乗り越え、また進んでいけるエネルギーを主なる神に与えていただくことを祈ります。 1. 血肉の戦いではなく、霊の戦いを。 「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エフェソ6:12) 戦いは良くないというのが常識です。聖書も隣人への愛、さらに自分の敵への愛までも命じます。できるだけ、忍耐してどんな形でも戦わないことが望ましいです。しかし、聖書が勧める戦いがあります。それは霊の戦いです。今日の本文6章11節は、その戦いが血と肉の戦いではなく、悪の霊たちを相手にすることだと語ります。天にいる悪の諸霊、つまり悪魔を意味します。しかし、聖書が語る悪魔は、映画に登場する怪物のような存在のことではありません。昔のヘブライ人のある文献には、これらの悪魔は堕落した天使であると記してあります。そして、彼らは神に逆らう存在です。彼らは神の座を奪い取るために神を裏切り、神の罰を受けた堕落天使、すなわち悪魔になったとあります。このような悪魔の働きは創世記のアダムとエヴァを誘惑した蛇、ヨブ記のサタンのような存在から現れます。新約聖書にも悪魔についての言及があるほどです。実に悪魔はいると思います。しかし、私たちは悪魔が私たちの人生を操り、強制的に私たちを罪に追い込む存在だと考えてはなりません。「悪魔の誘惑」という言葉があるように、確かに神に逆らう者、悪魔は人間を罪へと誘惑します。しかし、その罪を選ぶのは悪魔ではなく、人間そのものです。 古代のヘブライ人たちは、天使と悪魔が本当にいる霊的な存在ではあるが、それと共に人間も、神に従う者が即ち天使のような者であり、神に逆らう者が即ち悪魔のような者だと考えました。第3の存在である天使や悪魔に自分の責任を転嫁してはならず、人間そのものが、生き方によって天使にもなれ、悪魔にもなれるという見解だったと思います。 ですので、霊の戦いとは、ある意味、悪魔という霊的な存在との戦いだけでなく、悪と罪によって誘惑され、神に逆らうようになり得る、人間自分自身との戦いとも言えると思います。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ福音書16:33) イエス•キリストは「わたしは既に世に勝っている。(悪の権勢に勝利している。)」と言われました。つまり、主と悪の戦いは、すでに終わり、結果は決まっています。主イエスが勝利され、この世はそのイエスの支配下にあるのです。つまり、すでに勝利した戦場です。したがって、主の民である私たちも、主によって、すでに勝利したのです。しかし、聖書は私たちにまだ残っている悪と罪の本性に躓かないよう、それと戦って勝つことを命じます。勝利者として、勝利者にふさわしい人生を勧めているのです。だから、霊の戦いは自分自身の罪との戦いです。誘惑と勝利の中で、私たちが取るべき生き方を選んで生き続けること。それがまさに霊の戦い、信仰の戦いなのです。 2. 神の武具を身に着けなさい。 「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」(エフェソ書6:11,13) 今日の本文は、霊の戦いに勝利する人生のために「神の武具」を身に着けることを命じます。「真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」(14-17)、その神の武具は次の通りです。真理の帯、正義を胸当て、平和の福音の履物、信仰の盾、救いの兜、そして最も重要な(聖)霊の剣、すなわち神の御言葉なのです。このような武具は、古代ローマの兵隊の姿と似ています。①真理とは変わらない主の御心を意味します。ひとえに神だけが勝利者であり、真の主であるという変わらない事実のことです。ローマ軍兵の帯は現代のものとは異なります。それは腰を支えて強い力で武器を振るうようにする武具です。真理に立って主の御心に頼る時、強い信頼の力を発するようになるということです。 ②正義(義、正しさ)とは、キリストによる、天地創造の摂理に忠実な模様です。つまり、神に属している欠けることのない完全さを意味します。人間はたとえ罪によって不完全であっても、主イエスの義によって完全な者と見なされ、神に認められるという意味です。胸当ては心臓を守る鎧のことです。私たちは生まれつき罪人ですが、キリストの義は私たちを正しい者と認めさせます。私自身は自分を義にすることが出来ないが、キリストの義は、私たちを罪人ではなく正しい者とさせる唯一の原動力になります。 ③平和とは、神と隣人との和解を意味します。平和の福音の履物は、キリストの福音によって、神と隣人を愛し、真の和解を成し遂げていけるようにします。隣人を憎むということは、血肉の戦いを意味します。しかし、キリストの平和が私たちと共にあり、それを私たちの履物とする時、私たちは隣人を愛することで血肉の戦いを避け、霊の戦いだけに集中できる人生を生きていけるようになります。 ④そして、また大事な私たちの武具は信仰の盾です。盾は矢と刃物を防ぐ防具です。世は私たちに否定的で不信心の思想を絶えず伝えます。悪魔は私たちに死と堕落の生き方と思想をそそのかします。しかし、主への堅い信仰の盾があるなら、私たちは決して欺かれずに、主の御心だけに従って生きるようになるでしょう。 ⑤救いの兜、兜は勝利を象徴します。ローマ時代、戦争に勝利した将軍は、月桂冠をかぶって行進しました。キリストの救いによって、私たちはすでに勝利した存在です。時々、人生の辛さや試練によって自分自身が負け犬のように感じられる時もあります。しかし、主による私たちの勝利を忘れてはなりません。自分の状態を見る前に、主がどんな状態でおられるかを憶えましょう。主イエス•キリストはすでに勝利した方です。⑥最後に最も大事な武具は、私たちの武器、聖霊の剣です。今日の本文は、聖霊の剣が、神の言葉であると語ります。神の言葉は力が強いです。この世は私たちが敗北者だと非難していますが、主の言葉は、私たちが勝利者だと応援しています。この世は私たちが失敗したと言いますが、主の言葉は私たちが成功していると言います。この世は皆が私たちを憎んでいると語りますが、主の御言葉は私たちが神に愛されていると語ります。自分の考え、世の考えに呑みこまれて迷っている時に、主の御言葉は、私たちの考えを新たにし、神の御心どおりに進むように導きます。したがって、神の御言葉は私たちの唯一の信仰の武器、聖霊の武器なのです。自分の考えを盲信しないでください。ひたすら、主の御言葉だけを信じるのです。以上、6つの神の武具を通して、私たちはすでに勝利された、主に従ってこの世を生きていくのです。 3. 祈りによって生きる勝利の人生。 そして、本文は、その神の武具による信仰の人生に、祈りが伴うと語ります。祈りは神と私たちのコミュニケーションです。ひざまずいて両手を合わせて敬虔にすることも祈りですが、私たちの人生のすべてにおいて、神に助けを求め、神の御心を待ち望み、主の御言葉通りに生きようとすることも祈りです。神とつながり、神の後をついていくことが、まさに祈りの人生なのです。このような人生を通してキリスト者は勝利を保ち、その共同体である教会も勝利することになるでしょう。「また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。」(19) 最後に本文は、つまりパウロは自分のためにも祈ってくれと求めます。神と私たちのコミュニケーションとしての祈りだけでなく、私たちの兄弟姉妹のための祈りも大事です。それによって主の教会を健全に立てていくのです。神の武具によって信仰を守り、神の言葉の剣で罪と悪に勝ち、祈りによって神とつながり、祈りによって兄弟姉妹を助ける人生。それがエフェソ書が勧める教会の望ましい生き方ではないでしょうか? それがまさに勝利の人生ではないでしょうか? 締め括り この頃、体と心の痛みと疲れで苦しんでいる兄弟姉妹がおられます。 入院、体調不良、心の試練、家族の病気、自分の病気で思い煩いの方がおられます。しかし、そのような時、主に寄りかかり、躓かず、あきらめず、再び立ち上がって前に進むことを、聖書は勧めています。 私たちは弱くても、私たちの主であるキリストは永遠に変わらないからです。自分の状況ではなく、神の導きを憶え、自分は弱くても、神は変わることなく勝利者であることを憶えて、信仰の人生を生きていきたいと思います。そのような人生のために、今日の本文は神の武具と祈りの人生を話しているのです。私たちはすでにキリストによって勝利した者です。それが教会という共同体の意義なのです。したがって、最後までキリストの勝利を信じ、主に従って生きる私たちであることを祈ります。 父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。

聖餐について考える。

出エジプト記 24章1-11節(旧134頁) ルカによる福音書22章19-20節(新154頁) 前置き 「生きるために食べよ、食べるために生きてはならない。」古代ギリシャの哲学者であるソクラテスの言葉だと言われます。これは単純に何かを食べるという意味ではなく、食べるという言葉で象徴される人間の欲望について、その欲望にとらわれず、人間らしく生きなさいという意味だと思います。このように、食べるということは、人間の本能的な欲望を表す行為でもあります。人は食べなくては生きることが出来ない存在です。食べる行為は、人間の欲望と生存の間でハラハラする綱渡りのような、深い意味を持つ本能です。食べるという行為は、人間の生命と直結する問題です。ですから、私たちは、いつも食べることについて、深い関心を持って生きるべきです。食べることは、人間の善と悪を包括する善と悪の両面性を持つ行為です。私たちは、この食べるという行為を通して、神から祝福され、また、裁かれます。今日は教会の最も代表的な食べる行為である聖餐について考えてみたいと思います。なぜ、神は聖餐という食べる行為を通して、私たちの信仰を告白させ、教会を立てていかれるのでしょうか。 1.変質した『食べる』という行為。 神は人間の創造の時「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」と祝福されました。そして、まもなく「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。」と言われました。神が人間を造られた理由は、人間が栄え、地に満ちて、世界を支配し、それによって神に礼拝することを望んでおられたからです。神はそのような人間に「食べる」という行為を祝福としてくださったのです。人間にとって食事とは、他の被造物を支配し、神に仕える力を得るための祝福です。このような意味から考えてみれば、この食事という概念は、単に自分の欲望を満たす、ただの快楽だけのための行為でないことが分かります。食事は、人間が世界を正しく支配するために、神に与えられた祝福なのです。人間は世界の正しい支配によって、神を崇め、神に栄光を帰すために食べるのです。創世記1章28節の「支配する」という言葉は、暴力的な征服や抑圧とは違います。戦争して略奪するという意味でもありません。初めの人は罪のない存在で、一切不正な行為、罪を伴う行為を犯さない存在でした。 彼らの中に神の形が完全に残っており、罪から自由な状態でした。そのような状態の者の『支配』は、暴力や戦争のようなものではなく、神のように被造物を見守り、治めることだったのです。神は暴力や、抑圧ではなく、愛と正義とで被造物を支配されるからです。食事を通して力を得た最初の人間は愛と正義を持って他の被造物を守り、そのような行為を通して神に栄光を帰す存在でした。ということで、食べるということは、単に欲望を満たす行為ではありませんでした。善を行うための、神の賜物であり、正しい支配の原動力だったのです。しかし、この聖なる行為、食べる行為が、人間の罪によって変質しました。アダムは神の座を奪おうとの欲望で、神が禁じられた「知識の木の実」を取って食べてしまいました。愛と正義を行うために何かを食べたのではなく、もっぱら自分の欲望と必要のために食べたのです。その瞬間、この世に罪が入ってきたのです。食べることで罪を犯したわけです。神の栄光のために善を行うための食べるという行為ではなく、自分の欲望を満たすための行為としての『食べる』に変質したわけです。生命の行為が、死の行為に変わりました。祝福のための行為が、呪いをもたらす行為となってしまったのです。 2.食べることの大事さ。 というわけで、聖書に出て来る「飲み食い」とは、祝福と呪い、両面性を持つ言葉なのです。イエスはルカによる福音書17:27で「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。」と言われました。神の祝福のために人間に与えられた「食べる」という行為が罪のゆえに人間の邪悪な欲望の象徴となったのです。この食べるという人間の本能のため、この世には、多くの悲劇が起こりました。ローマのような古代の帝国も、最初は小さな村からでした。肥えた土地で平和に住んでいた小さな部族は、少しづつ人口の増加を経験し、食糧が足りなくなってきました。とういうことで、自分の部族を保たせるために、隣の村を攻め、人々を殺し、食糧を奪い取りました。そのように征服を重ねて、最初の小さな村は大きい帝国になっていきました。数多くの人々が帝国の食べ物のために殺され、多くの国々が略奪されたのです。これが帝国が生まれた過程なのです。神がエデンの園を造られ、最初になさったのは人間に食べ物をくださることでした。人が堕落して神を背いた時、最初に消えたのも食べ物でした。 「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。 お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる。 お前は顔に汗を流してパンを得る。塵にすぎないお前は塵に返る。」(創世記3:17-19) 食べ物は楽に得られるものではありません。食べるというのは神の祝福です。神が食べ物をくださらなければ、人間は食べるもののために、他者に害を及ぼす存在となるのです。神は呪われた人間に一生労して、食べ物を得よと命じられましたが、人間の罪はその労苦の代わりに他者への暴力による解決を選んだのです。食べるために他者を殺し、破壊したのです。これが帝国主義の始終です。このような世の中で、神はご自分の民イスラエルを呼び出されたのです。自分の食べ物のためにイスラエルを弾圧したエジプトからイスラエルを救い出されたのです。神は彼らにマナとウズラと水をくださいました。そして、乳と蜜の流れる土地にまで導かれたのです。神は主の正しい民を育てようとイスラエルに食べ物をくださったのです。今日の本文で神はモーセと祭司と70人の長老たちを呼び集められました。イスラエルは神と共に飲み食い、神の民として生まれ変わりました。他者の食べ物を奪い取る時代に神は真の食べ物をイスラエルにくださったのです。 3.聖餐 – 食べることによって、新たに始まる交わり。 私たちの聖餐は、食べ物をくださる神の恵みに似ています。神が許された食べるという行為を通して、民が主の恵みを憶える礼典です。罪によって汚れた食べるという行為から脱し、純粋に神と和解し、隣人と一緒に交わるようになる生命の行為です。イエスは十字架につけられる前夜、弟子たちを呼び集め、過越祭の晩餐を施されました。『主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、 感謝の祈りをささげてそれを裂き、これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさいと言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさいと言われました。』(コリント11:23-25)初めに人が食べて犯した罪を、新しく「食べる」ということによって解決されるため、イエスはご自分の血を象徴する杯と、ご自分の肉を象徴するパンとを弟子たちに食べ物としてくださいました。出エジプト記のモーセと長老たちが神から与えられた食べ物を飲み食いしながら、神と和解したように、イエスは、ご自分の血と肉とを通して人々を召され、契約を結ばれ、神と和解させられたのです。これらの契約の食事を通して神は人間との交わりを求められつつ、人間と人間の美しい交わりを望んでおらたのです。 私たちは、聖餐の時、杯とパンにあずかります。その食べるという行為を通して、神の民である私たちは、主の御前に立ちます。今もなお、この世の悪は自分の欲望を満たすために何かを食い尽くそうと探し回ります。その食べるということのために周りの人々を苦しめることも頻繁に起こります。自分自身と自分の家族と自分の共同体のために他の人々を苦しめることを当たり前に思う人が、依然として存在します。しかし、神は違う方です。御子イエス・キリストを犠牲にさせ、イエスの血と肉とを象徴するぶどう酒とパンを通して罪人に生命の食べ物を与えてくださいます。神が生命の食べ物をくださるという象徴、私たちも飲み食いして経験する象徴、その象徴が、私たちが行う聖餐なのです。この杯とパンに与かる私たちは、キリストの血と肉を分かち合い、キリストの体として生まれ変わります。そして、これからは自分の欲望のために悪を満たす生き方を捨てて、キリストの愛と正義を通して善を行うために生きていく人生を誓うのです。このような私たちに神は永遠の命の約束を与えられたのです。これらの聖餐の精神の中におられる聖霊が私達に生徒の交わりを味わう恵みを注いでくださるのです。 締め括り。 エデンの園には、知識の木の実のほか、命の木の実もあったと言われます。それは永遠の命を与える木の実だったのです。創世記に記された命の木の実は、真の救いと恵みを意味するシンボルです。無くなった神の園に永遠の命があったということです。しかし、罪によって追い出されたアダムはその命の木の実を食べることができなくなってしまいました。言い換えれば永遠の死にさらされたということです。しかし、神はイエス・キリストを通して、私たちが永遠の命を得ることが出来る機会を与えてくださいました。肉体は死んでも、魂は生き残って神と共におり、終わりの日には肉体の復活を通して、罪のない完全な体を取り戻して神の国で永遠に生きることです。その無くなった命の木の実として、私たちにイエス・キリストをくださったのです。私たちが、聖餐に与かり、主イエスの肉と血を飲み食いすることは、この失われた命の木の実を食べるのと同じことです。失った命の木の実を、イエス・キリストによって再び食べるということです。聖餐を食べる行為の意味を顧み、欲望のためではなく、善を行うために食べる人生であることを望みます。キリストの肉と血を分かち合う、私たちは正しくこの世を支配して神の愛と正義に満ちた世界を造るために聖餐に臨むべきであります。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

神と教会の協力。

出エジプト記7章1~7節(旧103頁) マタイによる福音書16章19節(新32頁) 前置き ヤコブの息子ヨセフがエジプト帝国の総理だった時代、ヤコブの家族(イスラエル)は大飢饉を避けてエジプトに入ることになります。最初70人余りだったイスラエルの家族は、主の恵みにより約400年間数十万以上の民族に成長しました。しかし、その間、エジプトの王朝が変わり、一時、総理の民族だったイスラエルは、エジプトの新しい王朝によって奴隷民族に成り果ててしまいました。彼らは毎日重労働の中でうめき声を上げました。そして、彼らのうめき声と嘆きがクライマックスに達した時、神はイスラエルを憶え、救おうと決心されました。そこで、神はイスラエルの救いのために一人を呼び出されますが、彼はモーセでした。最初、モーセは神のお呼び出しを断りましたが、結局、神のご意志に服従し、エジプトに行くことになりました。そして、ファラオの前に立ち、神からのイスラエル解放の命令を告げ知らせます。しかし、モーセはファラオに見事に断られ、追い出されることになります。それだけでなく、モーセによってイスラエルの労働はさらに加えられ、イスラエルはモーセを恨むようになります。そしてモーセもその結果に失望し、神に嘆きます。すると、主なる神は必ずイスラエルを解放し、モーセを助けると約束されます。 1.慰めてくださる神。 今日は、イスラエル解放のための神の新しい御業の始まりである7章から話してみたいと思います。「主はモーセに言われた。見よ、わたしは、あなたをファラオに対しては神の代わりとし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。わたしが命じるすべてのことをあなたが語れば、あなたの兄アロンが、イスラエルの人々を国から去らせるよう、ファラオに語るであろう。」(出7:1-2) 神は、挫折したモーセに「あなたをファラオに対して神の代わりとする。」と言われました。新共同訳聖書には「神の代わりとする」と書いてあるのですが、原文や英語の聖書から見ると「ファラオに対して必ず神のようにする。」という意味になります。今はたとえファラオに追い出され、無力感を憶えるモーセだとしても、神は必ずモーセをファラオに優れた者に立てて、用いられるという約束です。ファラオは自らがエジプトの神であると自負する存在でしたが、神はそのファラオを屈服させる大きな権威をモーセに与え、用いられると約束されたのです。モーセは前の5章で、このように言いました。 「わが主よ。あなたはなぜ、この民に災いをくだされるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。わたしがあなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません。」(出 5:22-23) モーセは神を恨むニュアンスで抗議しましたが、主はモーセの心を知り、彼を慰め、再び立ち上がることができるようにお励ましと約束をくださいました。私たちは「神を絶対に恨んではならず、いつも丁寧に接しなければならない」と考え、神を自分と遠い存在として距離感を置いているかもしれません。もちろん、絶対者と被造物の間の徹底した規律は確かに必要です。しかし、神は恨みや嘆きを抱いている者にむやみに罰を与える方、彼らを見捨てる厳しさだけの方ではありません。神は絶対者でありながら、私たちの父でもある方です。辛くて悲しい時に、私たちは父なる神に嘆き悲しんで祈ることができます。その嘆きをお聴きになる神は、私たちに無礼だと罰を与えられず、私たちの悩みと痛みを聴き、分かり、慰めてくださり、また別の道を親切に教えてくださるお父さまなのです。7章が始まってから、神はまずモーセを慰めてくださいました。そして、彼に親切に新しい道を教えてくださいます。神は慰めてくださる方です。そして、希望を与えてくださる方です。私たちはその神が私たちと共におられ、わたしたちの父であることを忘れてはなりません。 2.協力者をくださる神。 「あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。わたしが命じるすべてのことをあなたが語れば、あなたの兄アロンが…ファラオに語るであろう。」神はモーセの兄アロンが、モーセと一緒に活言われました。モーセ一人で孤独な戦いをするわけではなく、協力者が共に働くと言われたのです。ここで、私たちはキリスト教の大事な価値観について学ぶことができます。それは、主からいただく使命は一人ではなく、神による協力者と共に成し遂げていくべきであるということです。神は絶対に一人のキリスト者だけに多くの務めをお委ねになる方ではありません。キリストのもとで兄弟姉妹となった、すべての者が一緒に協力して、主にいただいた務めを全うしていくのです。私たちはキリストが教会の頭であり、私たちはその肢であることをよく知っています。そして、主はキリストにあって、肢と肢が互いに助け合い、愛し合い、協力し合うことを望んでおられます。一人の兄弟が弱くなると、他の兄弟姉妹が弱くなった兄弟を助け、また別の姉妹が困難にあうと、他の兄弟姉妹が祈りと助けで回復できるように助けていくのです。そのような助けと協力の中で、教会は一つになり、一緒に建てられていくのです。 そういうわけで、主は教会を建てられ、民を呼び出されたのです。長老派である日本キリスト教会には小会があります。しかし、小会員が他の兄弟姉妹より大きい権威を持っているわけではありません。牧師、長老、執事、そして教会のすべての兄弟姉妹がキリストの御名のもとで互いに協力しあって主の教会を健全に建てていくのです。小会員は奉仕のための務めに過ぎず、兄弟姉妹みんなが同じように神の民として召されていることを憶えてください。そして今日の説教のタイトルのように、主ご自身も民たちと協力してくださる方です。もちろん、主おひとりですべてを成し遂げることができます。  とりわけ、罪人の救いに限っては神は人間と絶対ご協力なさいません。しかし、主は民の生活においては、私たちをご自分の手と足と召され、主と一つになった体として、この世に仕えていくようになさいます。十数年前、ある牧師が私にこんな質問をしました。「私たちはキリストをどのように見ることができますか?」その質問の答えは次のようでした。「主は、ご自分の体なる教会を通してご自分のことを表されます。」主は全能者であるにもかかわらず、ご自分の民の人生を通してご自分のことを表されます。そのため、主は自ら弱い民と一つになってくださり、民と協力して教会を成していかれるのです。つまり、教会は偉大な主が私たちのような罪人を主の協力者として呼んでくださった栄光の証拠なのです。その光栄を私たちは忘れてはなりません。 3.教会は神の協力者。 「ファラオはあなたたちの言うことを聞かない。わたしはエジプトに手を下し、大いなる審判によって、わたしの部隊、わたしの民イスラエルの人々をエジプトの国から導き出す。わたしがエジプトに対して手を伸ばし、イスラエルの人々をその中から導き出すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。モーセとアロンは、主が命じられたとおりに行った。」(出7:4-6) 神はモーセを慰め、アロンと一緒に再びファラオに行くことを命じられました。そして二人は神の御言葉に聞き従い、再びファラオのところに行きます。神はこのように失望した者、挫折した者、躓きの者、傷ついた者を、そのまま放っておかれず、引き起こされ、再び進んでいく力をくださる方です。そして、その弱い民を用いて、主の権能を見せてくださる方です。神はご自分の御手を下してお裁きになる方ですが、その裁きを下されるまで、ご自分の民を通して、この世に介入されます。何の予告も、機会も与えず、むやみに裁かれるのではなく、ご自分の民の口と手と足によって、神の御言葉を伝えさせられるのです。まず教会を世の中に遣わされて神の御言葉を告げ知らせるようになさった後、御言葉通りに救いと裁きを下されるわけです。神はこのように教会をご自分の協力者として先に遣わされ、お働きになる方です。 私たちは、それぞれ異なる経緯で、キリストに出会い。主の民となったのですが、今では同じ志免教会に集って、主の肢となっています。 私たちは皆弱い存在ですが、主は私たち一人一人を召され、キリストの体として、この世に遣わされたのです。主は私たちの口と手と足を用いられ、主の御言葉を宣べ伝えさせられます。私たちには資格がありませんが、それにもかかわらず、キリストは、ご自分の体という資格を与えて主の御言葉を代わりに伝えるようになさるのです。ですから、私たち志免教会は神の協力者です。これは私たちの光栄なのです。私たちが主の御言葉を伝えなければ、私たちの隣人は御言葉を聞くことができず、私たちが神の御言葉を伝えれば、私たちの隣人は私たちによって、御言葉を聞くようになります。ですから、私たちは神の大事な協力者なのです。この世はやがてキリストが再臨する時に裁きを受けることになるでしょう。私たちの誰も神の御言葉を伝えなければ、私たちの近所の人々は、御言葉を聞く機会を失い、みじめに裁きを受けることになるでしょう。しかし、私たちが伝えた主の御言葉を聞けば、悔い改める機会を得るようになるでしょう。だから、私たちは御言葉を宣べ伝える主の大事な協力者なのです。私たちの伝道によって隣人に御言葉が伝わり、私たちの奉仕によって、隣人に主の愛が伝わるのです。だから、教会は主の大事な協力者であるのです。 締め括り 「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ16:19) 今日の説教を準備しながら思い出した新約聖書の言葉です。ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白した時、イエスは彼にこのように言われたのです。プロテスタント教会は、この言葉が、当時ペトロを中心とする新約の教会への言葉と解釈し、教会の権威を表す御言葉だと思っています。神は教会に主と共に働く栄光をくださいました。そして、今日も教会の活動を通して、この世にキリストの恵みと愛とを宣べ伝えることを望んでおられます。したがって、私たちは自らが神の大事な協力者であるというプライドを持って生きるべきです。主なる神はご自分ですべてのことを成し遂げることが出来る方ですが、わざわざ、主の民である教会に主の協力者としての栄光の資格をくださったのです。今日の本文で、神がモーセを主のメッセンジャーとして用いられたように、私たちの教会もまたこの時代のモーセのように神に用いられているということを憶えましょう。主の協力者として、この地域のために祈り、福音を宣べ伝える、大事な志免教会になることを祈り願います。父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。

人生、うまく行かない時

サムエル記上1章9~18節(旧428頁) 使徒言行録12章1~7節(新236頁) 今年の春、志免教会の有志たちは韓国を訪問されました。その時、水曜日もあり祈祷会 を開き、共に礼拝を守られたことを覚えています。その時、皆様に祈祷会の勧告をするこ とが許され、感謝でありました。その時、私はサムエル上1章1−8節の御言葉を通して、「自 分の目に正しいとするところを行う時代に生き抜く方法」という題で、皆様と恵みを分かち 合ったと思います。その時の記憶が生々しく思い出されます。日本に帰国されるとき、天気 のせいで、少し困難を覚えられたということを聞いております。とにかく、皆んとこんな形で もう一度お目にかかることができ嬉しく思います。 その時、私はこんな話を致しました。サムエルの著者がいうこの世とは、各自、自分の目 に正しいことを行う、自分の方法で、自分の考えて生きれるところだということでした。ある 意味では自由に生きるところだと言えるし、またある意味では放縦に生きるところであると も言えます。  間違ったことでも、よくないことでも、悪いことでも、みんな勝手にするから、いい。問題な 1い。皆んなが過ちを犯せば、なんともないと思ってしまうところがこの世です。ことわざの 中に、皆んなで渡れば怖くないという言葉があるように、間違っても集団ですれば平気で できるのがこの世の方式です。人はよく言います。「みなん、そうやってるよ」。皆んながや るから私もやる。 しかし、ここに自分の目に正しいとするところに従って生きるのではなく、神に祈りつつ、神 によって生きることを求めてもがいている一人の女がいます。この世と妥協することなく、 神の導きに合わせて生きていきたいと願う人です。世渡り上手に生きることをやめて、祈り をもって生きようとする女です。毎度、神殿に上って祈るハンナという女です。 彼女の人生は普通の人ではありません。彼女は本当に、轗軻崎嶇たる人生の行路を旅す る人でした。なぜなら、6節にありますように「主が子供をお授けにならなかった」からで す。口語訳はもっとはっきりと「主がその胎を閉ざされた」と訳します。 神が人を不幸にされるとは、一体どういうことでしょうか?いつくしみ深い主であるはずなのに、最初から胎を閉ざしてしまうなんて、あり得るのでしょうか?理解できるのでしょうか?本当に、なんという惨めなことでしょう。何で?私だけこんな目に遭わなければならないのかと、祈る度に、問い立てて、問い詰めたと思います。本当に、なげかわしい人生でした。祈っても、ただ涙だけがポタポタと流れ落ちるのみだったと思います。 立ち上がる こういう状況の中で、今日の本文である9節が始まるのです。「シロでのいけにえの食事が終わり、ハンナは立ち上がった」とあります。食事の後とありますが、8節にありますように、多分彼女は食べるのも、飲むのもしなかったと思います。断食をして祈ったのです。嘆き、悲しみ、崩れ落ちる心をもって立ち上がりました。 しかし、ここで著者は「立ち上がった」というヘブライ語をとても特別な形を使っています。立ち上がるとは、いつもと同じように毎度椅子から立ち上がるという平常的な意味ではなく、一回限りの出来事として立ち上がるという意味の形をしている動詞が使われています。 今まで準備してきたものを全て吐き出して、よしやるぞう!立ち上がれ!思い切ってやり出す。もう一かばちかやってみよう!最後の挑戦かのように、彼女は立ち上がったのです。何とは決断して、兵士たちが総攻撃のために立ち上がるように、立ち上がったのです。 7節にありますように、「毎年、ペニナのことで、彼女は苦しみ、泣いたのです。」ストレス一杯でした。もうこれ以上、我慢できなかったでしょう。ただ座り込んで祈るだけで、自分の人生を嘆くばかりの消極的な姿勢から、主に向かって立ち上がったのです。 実は、新共同訳はただ「立ち上がった」とありますが、ヘブライ語の聖書をギリシャ語の聖書に翻訳したものである70人訳を見ると「主の前に立ち上がった」と訳しています。 そうです。彼女は立ち上がったのですが、意地を張るために立ち上がったのではなく、主の前に立ったのです。とにかく立ち上がってみようという意味ではなく、主の前に立ち上がってみようと、彼女は決断したのです。 サムエル上の1章を読みながら一つのキーワードのようなものは「立ち上がる」という用語ではないかと思います。ヘブライ語で「クーム」という言葉ですが、1章で2回、使われます。もう一回は23節です。「主がそのことを成就してくださるように」。「成就する」と訳されたのもクームです。言い換えると、主の前に信仰を持って立ち上がるのであれば、主はそれを成就なさる、成し遂げてくださるという信仰的な繋がりがそこにあるということです。 ハンナは信仰の女でした。信仰を持って主の前に立ち上がるのであれば、主は契約を立てるかのように、それを約束なさり、成し遂げてくださると、彼女は信じたのです。 私たちは腰が重いです。なかなか、新しいことへの立ち上がりができないのです。前例がないとやらない。誰がやる時まで待つ。結局、誰もやらない。立ち上がらない。 しかしハンナは立ち上がりました。主が胎を閉じたから、諦めるしかない。祈っても意味なし。人生とは、主の予定に導かれるのみですと、諦めて断念する人ではなかったのです。主よ、あなたが閉じたのであれば、あなたがそれを解くこともできるでしょう。だから、あなたのみ前に立ち上がりました。聖書が言う予定とは運命ではありません。私たちキリスト者は決定論者ではありません。祈りによって変えられる可能性のある予定が聖書の予定です。 主との交わり そしてハンナはどうしましたか?10節です。「悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた」とあります。主の前に立ち上がり、主のいのり、そして11節では「万軍の主よ」と叫びます。 聖書を読むと、神、主という言葉を使います。神に対する用語は大きく二つあります。神と主です。神はエロヒムの訳語で、主はヤーヴェです。聖書はこのように言葉を使い分けるのはそこにある意味があるからです。一般的に言われるのはヤーヴェは人格的な神を言い表す時に、用いられると言われます。だから人と交わり、人と契約を立てるなどのことが言われるのです。創世記1章と2章を読めばその違いがはっきり見えてきます。2章では、主 は世界を創造され、人にそれを委ねて行くこと、契約を立てていくことが記されています。被造物を信じてくださる主の暖かさを感じ取れるのです。 ハンナはこのヤーヴェなる主と深い交わりを持っていたのです。人格的な交わりという祈りを捧げることができたのです。彼女は主を思うと激しく泣くばかりでした。泣いて泣いていたということです。なぜ、私たちが子供を避けられなかったのか?恨みもあったでしょう。主が嫌になった時もあったでしょう。それでも、彼女は諦めずに祈ります。 その最初の言葉は「万軍の主よ」という呼びかけです。まさに全てがお出来になる全知全能の神よ !と呼びかけているのです。“万軍の主よ、はしための苦しみをご覧ください。はしためにみ心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら。” 彼女は神のみを信じたのです。主との深い交わりを通して、ハンナは主が万軍の主であることをはっきりと告白したのです。だから、彼女は主を信頼しきったのです。「戰車を誇るもあり、馬を誇る 者もあるが、我らは、我らの神、主の御名を唱える。彼らは力を失って倒れるが、我らは力に滿ちて立ち上がる」(詩編20:7,8)。 主を誇るもの、主を信頼する者は、立ち上がれると、彼女は信じていたのです。人間の力を信じるものは結局、力を失って倒れるが、主を信頼する者は、立ち上がれるのです。 そして祈り続けます。 「男の子をお授けくださいますなら、その子の一生をおささげし、その子の頭には決してカミソリを当てません」。 これは士師記の13章5節にありますマムソンのお母さんに対する主の御使の話と似ています。「身ごもって 男の 子を 産むであろうその 子は 胎􁀻にいるときから,…

互いに助け合いなさい。

申命記5章16節(旧289頁) エフェソの信徒への手紙6章1~9節(新359頁) 前置き 今年の志免教会の主題聖句は「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:22)です。この言葉は、教会の本義について教える言葉です。 私たちは、エフェソ書を通じて、教会とは何かについて学んできました。教会は天地創造の前にあらかじめ定められた主の民がイエス·キリストによって救われ、召し出され、主の体として一つになった共同体です。したがって、教会はこの世の価値観ではなく、キリストの御心に適う生き方で生きなければならない存在です。聖書によると、キリストの御心に適う存在は、神と隣人を愛して生きる者です。したがって、エフェソ書の1-3章ではキリストと教会の関係について神学的に説明し、4-6章ではキリスト者の実質的で実践的な生き方(奉仕と愛の生き方)について説明しているのです。今日の教えも4~6章に属する実践的な話です。今日の本文では、親子の関係、そして主従関係について話していますが、親子と主従関係だけでなく、普遍的なキリスト者の生き方についても学ぶことができます。今日の本文から主なる神の尊いお教えを学ぶことを祈ります。 1.親と子供たちに。 「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。父と母を敬いなさい。これは約束を伴う最初の掟です。 そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができるという約束です。」(1-3) 今日の本文はまず子供たちへの勧めから始まります。それは、自分の親を敬うべきということです。「約束を伴う最初の掟」とは、基本的に神がモーセに与えてくださった「十戒」を意味するものであり、より広く考えると、十戒で代表される「律法の精神」を意味するものでもあるでしょう。つまり、旧約の律法も、新約の福音も親への尊敬を何より大切にしていたということです。 「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」(4) また、エフェソ書は子供たちだけでなく、親にも子供たちを大事に育てることを勧めています。子供たちを軽んじて扱うことではなく、怒らせないで尊重の気持ちで大切にしつけ諭しなさいということです。これらによって、私たちは親子の関係が、主にあって、互いに尊敬と尊重で成り立つべき関係であることが分かります。親それぞれ違いますが、一般的に親は幼い子供を自分に属する存在として考えがちだと思います。それがやりすぎて、保護者という名目で自分が望むことを強いる場合も少なからずあります。愛と執着を勘違いして子供を牛耳ってしまうのです。しかし、子供は親の所有ではありません。自分の思い通りに操れない自我を持った独立の存在です。 子供たちは、親を通して生まれたのですが、親と同じように神の被造物です。つまり、主なる神の所有なのです。したがって、私たちは子供たちを愛するとともに、個人として尊重し、神に託された存在として大事に養っていかなければなりません。子供たちも同じです。生まれた時から親の懐で育ってきたため、親を当たり前な存在と考えがちだと思います。礼儀作法をよく教えた家庭もあるでしょうが、成長するにつれて親を軽んじて、大事にしない子供たちも少なからずいます。しかし、聖書は語ります。「何よりも親を敬いなさい。」 今日の本文にはこんな言葉があります。「主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。(ディカイオス)」ここで正しいという言葉は「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」あるいは「キリストによって義とされた。」の「義、正しさ」と同じ表現です。つまり、主イエスに救われた、正しい者は「当たり前に親を敬う者」ということです。親子の関係は複雑微妙です。しかし、聖書ははっきり言い切っています。互いに敬い尊重し、愛し合って生きていきなさいということです。親だからといって、むやみに権威を強いてはならず、子供だからといって親を軽んじてはならないということです。親も子も皆神の被造物であり、キリストのものです。キリスト者なら近ければ近いほど、お互いを大切に助けあう存在として親子に接しなければなりません。 2.主人と下部たちへ。 今日の本文は親子の関係だけでなく、主人と下部(本文では奴隷)の関係についても話しています。「奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。」(5) エフェソ書が記された時代のローマには奴隷制度がありました。ところがローマの奴隷制度は、東洋やアメリカの奴隷制度とは、少し違う概念でした。呼称は奴隷でしたが、彼らは主人に属し給料をもらい、能力によって自由民のように扱われる者もいました。たとえば、貴族の家庭教師の中に奴隷の身分を持った者が少なくありませんでした。時には、主人の助けで奴隷の身分を清算して自由を得、ローマ帝国の市民になる者もいたと言われます。そういう意味として、今日の本文に出てくる奴隷は、現在の会社員とも、ある程度重なっているかもしれません。とにかく聖書はこの下部たちに「人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。」と勧めています。現代的に再解釈して言うと、会社員が会社のために誠実に働き、キリストに仕えるように自分の上司に仕えるという意味でも理解できるでしょう。ただし、間違って理解してはなりません。これは、社長や人事管理者に賄賂を渡したり、法律以上に激務したりしなさいという意味ではありません。上司が自分に親切であれ、不親切であれ、自分のすべてのことを神が見守っておられるからという気持ちで誠実に生きていきなさいという意味です。 キリスト者は、神が自分の生活を見守っておられるという前提を持って生きる存在です。他人の目を意識せずに、ひとえに神の御前でキリストの肢として誠実に生きるのです。人生のすべてをキリストに仕えるかのように生きるのです。また、今日の本文は主人(上司)にも勧めています。「主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。」(9) ローマ帝国の奴隷が、他文化圏の奴隷とやや違ったからといって、彼らの生殺与奪権が主人たちになかったというわけではありません。ローマの奴隷たちも主人の扱い次第で、他の文化圏の奴隷たちのように悲惨に最期を迎える場合もあったでしょう。しかし、聖書はキリスト者なら無慈悲な主人になってはならず、自分と下部の真の主人である神の前に畏れをもって行うことを勧めます。「彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。」神の前ですべての人間は同等です。この地に主人と奴隷として生まれただけで、すべての人間が、神にかたどって創造されたのは同じです。神において主人と下部はありません。皆が神の形で造られた大事な存在だからです。ですから、キリスト者の上司なら、地位の上下を問わず、人を人として扱う慈愛と奉仕の心で部下に接しなければなりません。自分が主人ではなく、神が真の主人でおられるという認識を持って、下の人々を配慮しつつ生きるべきです。 3.キリスト者の普遍的な生き方 今日の言葉を通して、私たちは親子の関係、主従の関係について学びました。そして、この2つの例は共通点を持っています。相手の高低を問わず、互いに大事に扱いあうべきということです。親は子供を尊重し、子供は親を敬わなければなりません。上司は下部を慈愛で接し、下部は主人に誠実に仕えるべきです。地位の上下を問わず、キリスト者なら相手に丁寧に接するべきです。そのような人生こそが神と隣人に仕え、愛するキリスト者の望ましい生き方ではないでしょうか。ですから、今日の説教の題を「互いに仕えあいなさい」と決めたわけです。親子に対する例話は親と子供だけでなく、教会内の信仰の先輩と後輩の間にも適用できる話でしょう。親が子供を愛し尊重するように、信仰の成熟した先輩キリスト者が、まだ信仰の弱い後輩キリスト者を愛するものです。子供が親を敬うように後輩キリスト者も先輩キリスト者を尊敬し、彼の信仰から良いことを教えてもらうのです。主人と下部の関係は、教会の牧師と信徒にも適用できる話でしょう。(もちろん牧師が下部の立場に立っていると私は力強く主張したいです。)牧師は主に仕えるように、差別なく教会員に仕え、教会員たちは牧師を尊重するのです。このように今日の本文を私たちの教会生活にも適用できるでしょう。 締め括り エフェソ書が、繰り返して、互いに仕えあい、愛し合うことを強調する理由は、教会が主イエス·キリストの体だからです。三位一体なる神には、一つの位格が他の位格より優れているという概念がありません。御父、御子、御霊が同じ権能と同等の権威を持っておられます。ただし、御子と聖霊がへりくだり、進んで御父の御心に聞き従われるのです。教会員の生活も同じです。牧師、長老、執事が優れているわけではなく、新しい信者が劣っているわけでもありません。皆が主のもとで同等のキリストの体して存在するのです。したがって、聖書は互いに自分より兄弟姉妹を優れた者とし、互いに仕えあうことを勧めているのです。自分自身を低くし、兄弟と姉妹を高め、互いに愛し合い、誠実に仕え合うこと。それが教会として召された私たちキリスト者がとるべき望ましい生き方ではないでしょうか? 天地創造の前に招かれたキリストの体なる共同体。このようにキリストの体と呼ばれる私たちは、世の価値観ではなく、キリストの価値観、謙虚と愛と奉仕の価値観をもって、この世を生きていかなければなりません。志免教会もそうであることを祈り願います。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

キリストと新しい出発を。

イザヤ書43章18~19節(旧1131頁) コリントの信徒への手紙二5章17節(新331頁) むかしむかしあるところに、善い羊飼いがいました。彼には100匹の愛する羊がいました。そんなある日、突然、空に黒い雲が垂れ込め、激しい雨風が吹き出しました。彼は急いで野原の羊の群れを呼び集め、羊小屋に入らせました。羊の数を数えた後、自分も家に入ろうとしたのですが、何度数えても1匹の羊がいませんでした。心細くなった彼は急いで上着を着て、雨風の中に走っていきました。風雨が強すぎて、見失った羊を見つけることは出来なさそうでした。それにもかかわらず、彼はあきらめず、野原へ、森へ、また川沿いへ、その羊1匹のために探し回りました。99匹の羊がいるから、あきらめれば良かったのに、彼は羊1匹のために探し続けたのです。結局、彼は川に溺れてもがいている羊を見つけました。川の水が増えて危険だったのに、彼はあきらめずに命をかけて羊を助け救いました。彼はすごく疲れてしまったのですが、救い出された羊を見て、疲れを忘れ、笑顔満面になりました。いつの間にか雨風はおさまり、晴間が見えてきました。羊を担いで家に帰ってきた羊飼いは大喜びで、友達や近所の人々を呼び集めて祝宴を張りました。 1. 新しい始まりを語る聖書。 以上の物語は、新約聖書のルカによる福音書15章に出てくる短い話を脚色したものです。キリスト教の神が、このように見失った一人の魂のために、ご自分のすべてを惜しげもなく、喜んで犠牲になさり、ご自分の愛する民を救い出してくださることを示す例え話なのです。聖書は、神が見失った民を愛されたあまり、ご自分の子イエス·キリストを十字架の犠牲にし、その代わりに見失った民を救われる神の愛の物語です。そして、神はこのように見失った民たちがキリストによって救われ、神と和解することを誰よりも望んでおられます。ですから、神は世のすべての人々がキリストを知り、もう一度、新しく始まる機会を与えてくださることを望んでおられる方なのです。キリスト教は、実に新しい始まりのための宗教であると言っても過言ではないほど、回復と和解と再出発を信仰の大事な価値にしているのです。「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。」(イザヤ43:18-19) 新約聖書でもない旧約聖書の預言者に、神の御言葉をこのように宣べ伝えさせるほど、神はご自分の民の過去の罪を赦され、新しく始まることが出来るように、御心を遣っておられる方なのです。 新しい始まりは、本当に感激的で喜ばしいことであり、私たちの人生にとってかけがえのない祝福であります。私たちは人生を歩みながら、一度以上「あの時、ああしてたら、その時、こうしてたら」のような後悔をしがちです。しかし、誰かはこのように言いました。「歴史にもしもはない。」 実際、歴史にもしもはありません。すでに起こったことを元に戻すことは、映画でしか見られないことだからです。しかし、聖書は語ります。「過去のことは後ろにして、イエス·キリストによって、今から新しく進みなさい。」歴史の巻き戻しはありえないことですが、過去の生き方を反省し、新しく生き始めることは出来るということです。たとえ失敗、挫折、悲しみ、そして後悔が、私たちの人生の進みをさえぎっているとしても、聖書はそれにもかかわらず、神はあなたと一緒におられ、あなたが新しい出発をして幸せに生きることを望んでおられると声を限りに訴えているのです。過去のことに足を引っ張られて座り込んでいませんか? 昔の罪により、二度と前に進めないと悩んでいませんか? 世の中の皆が、君にはできないと指差ししていると思い、つまづていませんか? しかし、そのような世のささやきに騙されないようにしましょう。この世を創造し、あなたを知り、誰よりもあなたを愛しておられる、造り主なる神は、今日もあなたに語っておられます。「昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。」これが、あなたに向けた神の本当の御心なのです。 2. キリストによる新しい出発。 ところで、聖書は真の新しい出発のために、一つ先にしなければならないことがあると語ります。それはキリストの贖いによって、罪赦されることです。聖書の教えによると、世のすべての良くない物事が、人間の罪から生まれるので、その罪への解決が絶対に必要であります。聖書が語る新しい始まりは、その罪の解決の後、有効になるのです。名称からも分かるように、キリスト教はイエス·キリストを信じる宗教です。しかし、キリスト教が、他宗教と異なる点は、天国に入るため、あるいは欲望の実現のため、それとも自分の有益のために信仰を持つことではないということです。(他宗教を非難するわけではありません。違いを話しているだけです。) キリスト教の目標は、キリストによって自分の罪が赦され、神と和解し、主と一緒に生きることなのです。それによる神のお贈り物(おまけ)が死後の楽園、人生の有益などなのです。夫婦が互いの財産を狙って結婚するわけではなく、愛しているから結婚すると同じように、キリスト教も他の理由ではなく、神と和解し、共に生きるためにイエスを信じ、信仰を持つということです。したがって、キリスト教の最も重要な信仰の姿はまさに「キリストによって、自分の罪を赦され、神と和解する新しい人生。」なのです。旧約聖書の創世記には、神の天地創造以後、人間が自分の意志で堕落する姿が描かれています。蛇に誘惑されたアダムとエヴァが、すすんで知識の木の実を取って食べ、神を裏切って呪いを受けるという物語は、皆さんも聞いたことがあると思います。 これは、人間は悪の影響を受けやすく、その結果、罪を犯し、結局は滅びに至りやすい存在であるということを意味する物語です。そういうことで、神は自分の罪に束縛され、自ら真の善を行うことが出来ない人間のために、一つの計画を立てられましたが、それは人間の罪を赦し、真の善へと導く完全な存在を、この世に遣わしてくださることでした。そして、聖書は、その完全な存在が、「イエス·キリスト」であると証言しています。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ローマ6:23) 聖書が語る罪とは、殺人、暴力、詐欺などの凶悪な犯罪だけを意味するわけではありません。隣人を愛しないこと、心の中に憎しみと怒りがあること、怠惰と貪欲、淫らな行為と暴言、造り主を知ろうともせず、拒否することなど、人間が行うべき善を行わない、すべてのことも罪であると語っているのです。しかし、聖書は神に遣わされた存在、イエス·キリストによって、それらの罪が赦されると力強く証しています。そして、その罪の赦しによって、もう一度新しい人生を始める力を得ることができると述べています。そういうわけで、今日の新約本文は「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(2コリント5:17)と語っているのです。つまり、聖書は新しい始まりへの第一歩はキリストとの出会いに基づくと教えているのです。 締め括り 最後に、ある日本人の牧師の話をして、説教を終わりたいと思います。前科7犯のヤクザ出身の進藤龍也牧師は、高校中退後、18歳にヤクザになりました。悪いことばかり犯しながら生きていた彼は、28歳の時、暴力組織の組長代行となりましたが、覚醒剤中毒が原因で破門になり、組織から退出されました。彼は3度目の刑務所服役中に前妻が差し入れた聖書を読み、イエスを信じ、回心することになりました。彼の人生は完全に壊れていたのですが、聖書に記された神の御言葉は、彼の罪を悟らせ、神の赦しを得る方法を教えたのです。そして、彼は結局イエス·キリストに出会い、信仰者になりました。それから、彼は昔の生き方をきれいに清算し、牧師としての新しい人生を始めることになりました。彼は出所後、2005年に神学校を卒業し、同時に開拓伝道を始め、現在は埼玉県川口市の単立教会「罪人の友、主イエス・キリスト教会」の牧師として働いています。今では、日本各地の刑務所の収監者との手紙連絡および面会を通して、キリストの福音を宣べ伝えています。 彼は後日書いた著書でこう語りました。「人生が計画通りにうまく行かず、絶望して間違った人生を生きてきたと後悔と挫折に陥る時、一人の命を大切にしてくださる神は決して、あなたのことを諦められないことを覚えてください。」神は、あなたの新しい始まりを応援しておられます。神はあなたを絶対に諦められません。イエス・キリストの恵みにより、この神と出会いがありますように切に祈り願います。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。