選択すべき分かれ道に立つ人間。

前置き 神様は創造主でいらっしゃいます。神様は、この世に命と秩序をくださり、被造物と歩みを共になさるために、世界をお創りになりました。そして、最後に神の形を象った人間という存在を造り、被造物の代表としてくださいました。人は神様にあずかった被造物を導き、神様に栄光を帰す大事な役割のために造られた存在です。すなわち、人間は神と被造物とをつなぐ仲保者のような存在として、創造されたのです。しかし、人間はたちまち堕落してしまいます。被造物を導いて神に栄光を帰すべき存在が、自分の在り方を忘却し、かえって自分自身が神のようになろうとしたからです。今日の本文は、そのような人間の堕落の始発点になる『善悪の知識の木』をめぐる出来事を取り上げています。今日の言葉を通して、人間の堕落とは何か?私たちの人生で善悪の知識の木はどういう意味を持っているのか?について話してみたいと思います。 1.善悪の知識の木をお造りになった理由 日本語聖書で『善悪の知識の木』と翻訳されたヘブライ語は『ウメエツ・ハッダイト・トブバラ』と発音します。ウメエツは『 木の実 』、ハッダイトは『 知らせる』、トブバラは『善と悪 』という意味です。つまり、日本語聖書の『善悪の知識の木』の原文が持つ、本来の意味は『善と悪を区別させる木の実』という意味です。だから、聖書の他の箇所に記されている『知識の木の実 』は『善悪を知らせる木の実』と言い替えて使っても構わないと思います。それでは、ここでの『善と悪』は何を意味するのでしょうか?旧約聖書が語る善と悪の概念は現代の倫理道徳とは少し異なる意味を持っていました。善良に生きるだけが善ではなく、神様に聞き従うことが善であり、神様に逆らうのは悪であるという意味です。神様は創世記2:17の御言葉を通して、『善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』と明らかにお告げになりました。『善と悪の知識木の実』という境界線を引かれ、『お前たちは全てのことが可能である、ただし、善悪の知識の木の実だけは絶対に食べてはいけない。』と厳重な御命令を下されたのです。神が知識の知識の木をお造りになった理由は、人間が神に絶対的に服従する、善い存在として生きるように基準を立ててくださるためでした。 人間は神の形に象られて生まれた存在であるため、全ての被造物の中で、一番優れた存在です。人間には他の被造物には無い、言語、知識、文化、技術があります。如何なる動物も築くことが出来なかった素晴らしい文明を通して、世界を支配する力を手に入れた存在です。そういうわけで、人間は自らを特別に扱いがちな傾向を持っていると思います。そのような傾向があるため、歴史上大勢の人々が自分も神のようになることが出来ると勘違いしたりしました。遠くは古代ローマ帝国の皇帝たちが自分を神にしたり、近くは昭和天皇も敗戦の直前まで、現人神と呼ばれたりしました。このように人間が自らを神にすることが出来るという思いが、まさに堕落の兆しであり、堕落そのものなのです。自分も神のようになれるという荒唐無稽な思いを持つのです。しかし、その結果、人間は神から遠ざかり、最終的に破滅に繋がります。だから、神様は、そのような勘違いから人間を守ってくださるために『善悪の知識の木』という境界を造られたのです。神様は無限な方なのです。しかし、人間には限界があります。神様は人間を如何なる被造物よりも優れた存在としてお造りになりましたが、それでも、彼らが被造物に過ぎないということを忘れないように、『善悪の知識の木』という制限を置かれたのです。この『善悪の知識の木』に関する、より詳細な話は少し後で話しましょう。 2. 人間を惑わした蛇が持つ意味とは? そんなある日、蛇が現れ、人間に声をかけました。『園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。』実は神様は創世記2:16で『 園のすべての木から取って食べなさい。』と言われました。 善悪の知識の木の実を除く、全ての果実は食べても良いと言われたのです。しかし、蛇は巧みに言葉を変えました。すると、人間は『 わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。』神様は『決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』と仰ったのに、人間は『食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから』という、似ているけれど、全く違うことを言いました。ここでの『死んではいけないから。』は『死ぬかもしれない。』と翻訳が出来ます。人間は神の御言葉をありのままではなく 、自分の歪んだ解釈を加えて受け入れたのです。すると蛇は『 決して死ぬことはない。』と嘘をつきました。そして、『 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる。』偽りを通して、人間の無駄な思いを煽ったのです。結局、人間は蛇の誘惑に惑わされ、神様が立ててくださった基準を捨て、善悪の知識の木の実を貪ってしまいました。 この物語は、誰でも知っている有名な話です。一般的にこの物語を聞いた人たちは、蛇が人間を誘惑して、人間を堕落させたと思います。なので、蛇を悪魔と同一視したりします。ところが、昔のユダヤ人たちの聖書解釈では、この蛇も悪魔に用いられたと記されています。悪魔が蛇を訪れ、『わたしがお前の口にとどまってもいいのか?』と尋ねると、蛇がそれを許し、その悪魔が蛇の口を用いて人間を惑わしたという話しです。しかし、本当に人間は悪魔に利用された蛇のために堕落したのでしょうか?これを明らかにするために、私たちは、古代イスラエルの文化での『天使と悪魔』について、探ってみる必要があります。私たちが俗に言う『輝く天使』、『真っ黒な悪魔』みたいなイメージは、古代のペルシアの宗教文化に基づいたものです。そして、それが西洋の文化に影響を与えて、こんにちに至っているのです。つまり、バビロン捕囚の以前にイスラエル人が思っていた天使と悪魔のイメージは、現代とは異なっていたという意味でしょう。今日の本文で蛇を操った者と疑われている悪魔は、ヘブライ語で『サタン、シャタン』と言われます。このサタンという言葉は『逆らうもの』という意味です。その反面、天使は『マレク』と呼ばれましたが、それは『メッセンジャー』という意味でした。そして、両方、人間を示す言葉です。つまり、バビロン捕囚前のイスラエルの文化では、悪魔と天使は霊的なイメージよりは、『神に逆らう人』や『神の言葉を言い伝える人』のように人間を示す言葉だったという意味です。 つまり、人がどのような決心をするのかにつれて、その人は天使にも、悪魔にもなれるという意味でしょう。神様が御言葉で禁じられた『善悪の知識の木』の前に立っている人は、その果実を食べたいという『悪魔の意志』と食べてはいけないという『天使の意志』との二つの思いを持つようになります。そして、自分の選びに従って悪魔のようになったり、天使のようになったりします。しかし、神は明らかに『食べてはならない。』という言葉をくださいます。その時、人の心に葛藤が生じます。御言葉への逆らいと従順という別れ目が生じるのです。善悪の知識の木に現れた蛇は確かに悪魔の化身です。しかし、その悪魔はいったい何処から来るのでしょうか?神の言葉に聞き従うことも、逆らうことも、結局、人の心から始まります。私自身の欲望が神の御心を超えてしまったら、その日、私たちは神に不従順するようになります。昔のイスラエル人の考え方としては、神に逆らう人は『サタン』即ち悪魔あるいは蛇のような存在です。しかし、神の御言葉に従う人は、メッセンジャー、 即ち天使のような存在です。だから、創世記3章に現れた蛇は善悪の知識の木の前で、その果実を貪ろうとしていた人間の心の中に潜んでいた強い欲望ではなかったでしょうか?罪に向かう人間の本能を比喩的に表したものではないでしょうか?そうであれば、我ら、人間がどんな選びを決めるのかにつれて、私たちは悪魔にも、天使にもなるのでしょう。今を生きている私たちは悪魔に近い存在でしょうか?天使に近い存在でしょうか?考えてみるべきだと思います。 3.選択すべき分かれ道に立つ人間。 また、善悪の知識の木の話に戻って行きましょう。なぜ、神様は、敢えてそのような樹をお造りになり、人間の堕落と悪魔のようになる可能性を残されたのでしょうか?初めからその木がなかったら、人間は堕落を免れたのではないでしょうか?しかし、そのような思いより、遥かに深い意味が善悪の知識の木に隠れています。神は最も愛する被造物である人間が、自らの意志で神に喜ばれることを選んで生きることを望んでおられました。そのため、神は人形のように意志のない存在ではなく、自分の意志で人生を選んでいく存在として、人間を創造なさったのです。そのために神は人間に自由な意思をお与えになり、自ら選び、開拓していく神を象った存在に創ってくださったのです。しかし、自由意志には、自己抑制が必要です。際限のない自由は、すぐに放縦になってしまうからです。神は人間に自由をくださると同時に、自己抑制の道具として、善悪の知識の木をも造っておかれたのです。そして、『全ての物事をお前の自由に任せる。しかし、善悪の知識の木に限っては制限を置く。その制限を自分の意思で守ることを通して、わたしへの従順を証明しなさい。』という意味で、善悪の知識の木をくださったのです。しかし、残念なことに、初めの人間は、それに失敗してしまいました。神の御心に従うために、与えられた自由意志を、自分の欲望のために使い、従順のための果実を放縦のために犯してしまいました。 このように、初めの人間は、善悪の知識の木という分れ目の前で、神の命令ではなく、自分の欲望を選んでしまいました。聖書は、それが最初の人間の堕落だと語っているのです。実は善悪の知識の木の実に、特別な力があるわけではないと思います。ひょっとしたら、その木はリンゴやブドウのように、珍しくないものだったかも知れません。しかし、その木に掛かっている意味は特別でした。神に従順に生きなさいということです。人間は常に従順と不従順という善悪の知識の木の前での選びを要求される存在なのです。そして、その善悪の知識の木は、現代に生きる私たちにも、依然として選びを促しています。神様は聖書の御言葉を通して、我らに常に語っておられます。従順と不従順の基準を明らかに定めてくださいます。それを『守るか、無視するか』という選びの機会を与えてくださいます。私はこれが、我らの人生の中の善悪の知識の木だと思います。我らの心の中の欲望は蛇のように我らを誘惑します。その欲望に屈して生きれば、私たちは悪魔のような存在になり、その欲望を乗り切れば、私たちは天使のような存在になるのでしょう。我々は、果たしてどちらを選ぶべきでしょうか? 締め括り ローマの信徒への手紙でにはイエス・キリストの従順について、このように記されています。『一人の人の不従順によって、多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって、多くの人が正しい者とされるのです。』(ローマ5:19)新約聖書にはキリストが新しいアダムとして来られたというニュアンスの語句が何ヶ所かあります。アダムとイエスは両方、神様に試みを受けました。アダムは不従順を選び、イエスは死ぬまで従順をお選びになりました。その結果は、人間を悪魔のような罪人に導いたアダムと人間を罪から救い出したイエスに分けられ、罪人と義人の象徴となりました。我々は日常に中で、選択の分かれ道に立ち向かいます。聖書の言葉が勧めることと、禁じることとの間で、苦悩するようになります。そして、我らの欲望は、まるで蛇のように近づき、我々の正しい選びを妨げたりします。だから、私たちは、聖書の言葉に徹底的に聞く必要があります。神様が聖書を通してくださった言葉を通して、我らが当たり前に為すべき生き方を貫き、私たちに与えられた自由意志を持って、神に喜ばれるべきことを行って生きていきましょう。お祈りと言葉に力を尽くし、神と隣人を愛し、キリストの生き方に倣いましょう。来たる一週間、自分の前にある善悪の知識の木とは何か考えつつ、正しいことを選ぶ力をいただくために祈って行きましょう。神の恵みが我々の選びを助けてくれると信じます。主の御恵が志免教会の上に豊かにありますように。