幸いである。(4)

イザヤ書32章17節 (旧1112頁) マタイによる福音書5章3~12節(新6頁) 前置き 今日は「幸いである。」の最後の説教を話してみましょう。 私たちはここ 4 週間「幸い」について学んでいます。日本語の聖書には「幸い」と書いてありますが、中国語や韓国語の聖書を見ると、この幸いが「福」と書いてあります。原文に近い表現は「幸い」より「福」のほうが正しいと思います。私たちは、この「福」という漢字語を見ながら、どんなイメージが思い浮かんでくるでしょうか? 幸福、祝福など「幸せ」としての意味が真っ先に思い浮かぶのではないでしょうか。しかし、前の3回の説教を通して神がくださる福は、単純にこの世での幸せだけを意味するものではないということが分かりました。私は山上の垂訓でイエスが語られた幸いが「神が私たちを離れならないで永遠に共におられ、私たちを導いてくださること」だとお話ししました。神の幸いは、世の幸いとは異なります。この世だけでなく、来るべき新しい世(天の国、再臨の日)でも、神が私たちの主になってくださり、私たちと共におられ、守ってくださるのです。財力でも、権力でも、死でも切ることのできない、神と私たちの永遠の関係、イエス·キリストが語られた幸いとは、私たちがいつどこにいても私たちに与えられる、主なる神との永遠な付き合いと歩みの幸いであるのです。 1. 平和を実現する者は幸いである 七つ目の幸いは、平和を実現する者に与えられる幸いです。私たちは戦争と破壊、葛藤と対立の世界を生きています。日本も約80年前は戦争をしていました。戦争と破壊は依然として私たちの近場にあり、大勢の人々が苦しんでいます。このような世の中で私たちは真の平和を念願するようになります。ところで、平和とは何でしょうか? 明らかなことは、平和とは、単純に戦争と破壊、葛藤と対立がない状態だけを意味するものではないということです。ヘブライ語で平和を意味する「シャローム」は「安全である。満ちている。完全である」などを意味する『サラーム』に由来した言葉です。私はそれらの中で最も大事な言葉が「完全である」だと思います。完全な時にはじめて、安全になり、満たされることができるからです。それでは、完全さとは何でしょうか。私は、その原型を、神の創造から見つけたいと思います。真の完全さ「シャローム」は、神の創造世界が、まだ人間の罪によって汚されていない創造直後の姿に現れます。しかし、人間の罪が世の中に入ってき、それによって神の創造の世界に戦争と破壊、葛藤と対立とが生まれました。 神が世界の創造を終えられた時、この世をご覧になって「極めて良かった」(創1:31)と喜ばれました。すべてが完全であり、苦しみも悲しみも戦いも嘆きもない、この上ない完全な世界だったのです。神はその完全な世界を治めさせるために人間を造られました。人間は創造の世界で、神との平和(シャローム)の内に生きるだけで結構だったのです。しかし、人間はその平和に満足せず、神の玉座を貪ってしまいました。結局、人間は神の命令に逆らって、自ら神になろうとしました。その背反が人間の罪となり、その罪によって、完全な創造の世界に罪が入ってくるようになりました。そうして始まった人間の罪は葛藤と対立をもたらし、それによってこの世には戦争と破壊が満ち溢れるようになったのです。誰も戦わず、憎まず、殺さなくても、みんなが幸せに生きられるはずの神の創造の世界は、人間の罪によって平和が消え去り、阿鼻叫喚の世界になってしまったのです。真の平和とは、単に戦わずに仲良く過ごすことだけを意味するものではありません。神が創造を終えられた、その時の神による完全さ、恵みに満ちている状態、神のみ言葉通りにすべてが成し遂げられる状態こそが、真の平和の状態なのです。そんな状態では、戦争、苦しみ、悲しみがありえないからです。 平和を実現する者とは、神の創造の摂理がありのままに成し遂げられることを望む人を意味します。神が創世記で「極めて良かった」と言われた堕落していない人間の姿のように、罪を拒否し、神と隣人を愛し、神の御言葉に従い、神の御心が成し遂げられることを望みつつ生きる生き方から、私たち平和は始まるのです。主イエスが敵をも愛しなさいと言われたように、自分の嫌いな人でさえ、愛し、主が互いに助けあいなさいと言われたように、互に力になりあって生き、主が忍耐しなさいと言われたように、怒らず忍耐し、相手を理解しようとする生き方から、私たちの小さな平和は始まるのです。キリスト者一人一人の小さい平和の実践から、世界が変わっていくのです。聖書は、イエスこそ平和であると語っています。なぜなら、イエスは神の御言葉に反抗せず、完全に聞き従い、神の御心が成し遂げられることを願い、ご自分のすべてを捧げたからです。そのイエスの犠牲により、互いに赦しあわせる聖霊の導きがもたらされたからです。そのような主イエスの生き方にならおうとする時に、私たちにも小さな平和が生まれてくるでしょう。今日の本文は、平和を実現する者が、神の子と呼ばれるだろうと語っています。私たちが本当に神の子と呼ばれる存在なら、私たちは、まず神の御言葉に従うことで、私たちの中にキリスト・イエスによってよみがえった創造の完全さが生き生きと動いていることを証明すべきです。 2. 義のために迫害される者は幸いである。 「幸いである」の2回目の説教で、私はすでに6節の「義に飢え渇く者は幸いである」について話しました。その時、私は聖書が語る「義、正しさ」について、このように定義しました。「神が約束されたことを忠実に成し遂げてくださること。」つまり、聖書が語る義とは「神の約束どおりにご自分の御心を成し遂げていかれること」を意味します。聖書が語る義は、神という主語によって生まれるものです。神の義でなければ、この世に本当の「義」はないということです。今日の本文の言葉は、このように言い換えることができると思います。「神がご自分の約束どおりに主の御心を成し遂げられることのために迫害を受ける者は幸いである。」神はアブラハムの子孫を通して、この世に救いをくださると約束されました。そして、私たちはその子孫がイエス・キリストであると信じています。この世は罪に満ちており、神に逆らう人々が大多数の状態です。そんな世界であるにも関わらず、聖書に記録された主の言葉(約束)が、主の御心のままに成し遂げられることを願って、主イエスを愛し、主イエスだけに仕えながら生きて迫害を受けようとする者たちは幸いであるということです。朝鮮が日本帝国の植民地だった時代、韓国には「チュ·ギチョル」という牧師がいました。彼は朝鮮長老派の牧師で、日本帝国の弾圧にも屈せず、最後まで神社参拝に反対し、イエス・キリストへの信仰を堅く守ることで、投獄され、殉教しました。 彼は、神の約束の実現である「救い主イエス」だけが自分の王であると告白し、絶対に神社参拝をしませんでした。神の約束を信じたため、迫害の中でも自分の信仰を捨てなかったわけです。そして、その結果は、獄中の殉教でした。残念なことは、その時代に日本と朝鮮に神社参拝に加担して主を裏切った牧師たちがあまりにも多かったということです。ところが、その当時の牧師たちが悪かったと悪口する必要はありません。彼らではなく、私たち自身を顧みるべきです。そんな時代を生きていたら、自分自身は神社参拝に反対して殉教することが出来るだろうかと考えてみましょう。正直に言って、私は簡単に自信があるとは言えません。皆さんはいかがでしょうか? 神との約束の実現、イエス·キリストへの信仰のために、皆さんは自分の命をあきらめることができますでしょうか? 私たちに与えられた最も大事な「義」とは、まさにイエス·キリストを自分の主として何があっても信じることです。そして、私たちに求められる迫害への対応は、イエスのために自分自身の生命をも惜しまないことです。世の人々がローマ皇帝を、天皇を王としても、私たちだけは主への信仰により「私の唯一の王はただおひとりイエス·キリストだけだ。」と死ななければならないのなら、死ぬ覚悟で主に従うのです。それが義のために迫害を受ける者のあり方なのです。 私たちの信仰が銃と剣に屈して、倒れやすい砂の上に建てられた家のようなものでないことを願います。キリスト・イエスという岩の上に建てられた家のように、神への信仰を堅く守っていくことを願います。今日の本文は、そのような人が「天の国を所有する」と語っています。そして、天の国とは、前の説教でも申し上げたように、私たちがどこにいようとも、主が私たちと永遠に歩んでくださり、私たちを助けて導いてくださることです。(場所ではなく、状態)私たちは果たして義のために迫害を受ける人生を生きているでしょうか? 近所の人の目が気になって、キリスト者であることを隠したり、家族の顔色をうかがって消極的に信仰生活をしているのではないでしょうか? もちろん、伝道を強いることは控えた方が良いと思います。しかし、自分の信仰を恥じ、隠すことは望ましくありません。神もそんな者を喜ばれないからです。志免教会の兄弟姉妹が、主イエス·キリストへの恥じのない信仰により、義のために受ける迫害を恐れない方々であることを願います。そのような者たちが幸いな者であり、天の国を所有する者であると本文は教えています。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(11-12) 締め括り 今日は、八つの幸いの中の最後の二つの幸い、平和を実現する者、義のために迫害を受ける者の幸いについて、お話しました。平和と義は非常に密接な関係です。イザヤ書にこんな言葉があります。「正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものはとこしえに安らかな信頼である。」(イザヤ32:17) 神の義が守られなければ、真の平和も到来しないとのことです。平和と義が八つの幸いの最後に一緒に書いてある理由は、平和と義との密接な関係を表すためだと思います。神の義でおられるイエス·キリストを堅く信じる時、真の平和が私たちにもたらされることを信じて生きることを願います。今日で八つの幸いの説教は終わりです。ご帰宅なさって、お時間のよろしい時に、八つの幸いの言葉をお一人で静かに読んでいただければ幸いです。 キリストにならい、神に幸いをいただく志免教会であることを祈り願います。

幸いである(3)

箴言11章1節 (旧1004頁) マタイによる福音書5章3~11節(新6頁) 前置き 今日の説教は「幸いである」の3回目の説教です。私たちは前回の説教で、山上の垂訓の序盤に出てくる八つの幸いが神と隣人への私たちの姿勢と関りがあると学びました。前半の四つの幸いは、神への私たちの姿勢と、その中で私たちに与えられる幸いを、後半の四つの幸いは、隣人への私たちの姿勢と、その中で私たちに与えられる幸いを含んでいると話しました。心の貧しい者、悲しむ者、柔和な者、義に飢え渇く者。以上が神への姿勢と関りのある八つの幸いの中の四つの幸いです。そして、今日からは、隣人に向けたキリスト者の姿勢と関りのある後半の四つの幸いを学んでいきたいと思います。 1. 私たちは主の御前に立っている。 イエスが山上の垂訓のすべての言葉を語り終えられたマタイによる福音書7章の最後尾にはこう書いてあります。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」(マタイ7:28~29) イエスの長い説教を聴いた群衆は、イエスのお教えにユダヤ人の律法学者たちと違う何かがあることを感じました。彼らはイエスのお教えが「権威ある者」の教えのようだと考えました。説明が長くなりそうで単刀直入に言えば、権威のある者とは、ユダヤ人が尊敬してやまない律法の記録者であるモーセのことだと思います。つまり、人々はイエス·キリストの御言葉から、主なる神から律法をいただいたモーセのような特別さを見つけた意味ではないでしょうか? 彼らにとって、モーセは最高の預言者だったからです。しかし、イエスはそれ以上の方です。山上の垂訓の八つの幸いの言葉が終わると、イエスは「言っておく」という表現をよく使われます。「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(マタイ5:18) 神に律法(御言葉)をいただいた者なら、権威ある者モーセでも、律法学者でも、御言葉を教える時に自分の話(話し手の思想)をしてはなりません。ひたすら、御言葉の主である神の御言葉そのものを語り伝えなければなりません。しかし、イエスはそれとは異なり、直接ご自分の言葉を言われました。モーセや律法学者たちのように「主がこう言われた。」ではなく「わたしがあなたたちに言う。」と主は言われるのです。すなわち、イエスはモーセと律法学者たちを、はるかに越える神の御言葉の源、つまり神ご自身なのです。そして、その神ご自身であるイエスは山の上に集まっている群衆の前で、他人からの言葉ではなく、神であるご自身の言葉を言われたのです。したがって、山上の垂訓の言葉を聞いたその昔の群衆も、今日の礼拝で、その言葉をいただいている私たちも、自分がどなたの前に立っているのか憶えなければなりません。私たちは今、神であるイエス·キリストの御前に立ち、主の御言葉をいただいています。山上の垂訓の言葉は他の誰の言葉でもない神であるキリストの御言葉であり、主は御前に立っている私たちにその御言葉を与えておられます。 2. 憐れみ深い人々は幸いである。 「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」(マタイ5:7) 主の祈りには、印象的な表現があります。「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」「主が私たちをお赦しくださったように、私たちも自分に罪を犯した者を赦すように導いてください。」ではなく、「私たちに罪を犯した者を赦したように、主が私たちをお赦しください」と、主語が反対になっているような文章です。これは一体どういう意味でしょうか? 結論的な意味は同じだと思います。赦しには垂直的な赦しと水平的な赦しがあります。垂直的な赦しとは、イエス·キリストの十字架の贖いによって、罪人の過去と現在と未来のすべての罪が赦されることを意味します。永遠の赦しとも言えるでしょう。水平的な赦しとは、キリストによって垂直的な赦しを受けた罪人が、主のその赦しに力づけられ、日常で、自分に罪を犯した人々を赦し、積極的に愛することを言います。つまり、主語の順序を変えることにより、垂直的に赦された人なら、必ず水平的に赦さなければならないことを表しているのです。 これは、キリスト者にとって、赦しが選択肢の一つではなく、必ず求められる生き方であるということです。私たちは、主によって赦されているからです。今日の本文は、この主の祈りの表現と似ています。「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」私たちは自分の優れた人格のゆえに、他人を赦したり、憐れんだりするわけではありません。すでに垂直的な赦しを受けたので、必然的に水平的な赦しをするものです。だから、自分は信仰が弱いから赦せないという言い方は、言い訳にすぎません。神が私たちを憐れんで、主の民にしてくださったので、私たちも必然的に主のお憐れみに支えられて他人を憐れむべきなのです。私たちが他人を憐れむ時、主なる神は私たちが本当に赦された者であることをご確認なさるでしょう。主イエスが、そのように私たちを憐れんでくださり、ご自分を犠牲にされたからです。他人への赦しと憐れみは、神への最高の愛の表現です。垂直的な赦しと憐れみ、水平的な赦しと憐れみの関係を忘れない私たちであることを祈ります。 3. 心の清い人々は、幸いである。 「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」(マタイ5:8) 「清い」という表現のギリシャ語は「誠実、一途、一貫的」などの意味を持つ言葉です。つまり、善良や綺麗という意味より、神と人を欺かない、表と裏が違わない、偽りのない人のことです。この世は偽りに満ちています。自分の利益のために他人を騙す詐欺師のような人間が、少なくありません。表は立派な人格の人なのに、裏では邪悪なことをたくらむ人もいます。しかし、そういう人たちだけが心が清くないとは言えません。日常で表では微笑みながら、裏では陰口をたたく、時々私たちからも見られる姿も、ある意味で心の清くない人の姿ではないかと思います。心の清い者とは「然りは然り、否は否」と率直に言う、誠実で、一途で、一貫な人を意味します。もちろん、だからといって心の中に憎んでいるから隠さずに憎んでも良いという意味ではありません。主のお憐れみにならい、他人を憐れむ生き方の上に清い心を持つべきということです。 箴言はこう語ります。「偽りの天秤を主はいとい、十全なおもり石を喜ばれる。」(箴言11:1) また、ヤコブの手紙は、こう語ります。「罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち(二つの心を持つ者)、心を清めなさい。」(ヤコブ書4:8) 神の愛によって力づけられ、表と裏が違う人生を生きないで、すべてのことにおいて誠実、一途、一貫的に生きること。そのような人は、神を見ることでしょう。もちろん、神を目で見るというわけではありません。「神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方」(1テモテ6:15~16) 神は肉体の目ではなく、心の目で見ることができる方だからです。心の清い者は、この世と私たちの人生に働いておられる神の存在を見つけることができるでしょう。神を知らない偽りの世の中で偽りのない人生を生きるから当然の結果でしょう。清い心はキリスト者の必須的な生き方なのです。 締め括り 他人を憐れむ者は、神が憐れんでくださいます。心の清い者は神を見るようになります。私たちは、神であるキリストの御前に立っている者です。深い憐れみと誠実さで、この地上の人生を送られたイエス、私たちが一生求めるべき生き方ではないかと思います。罪に満ちている、この世を生きる私たちは、罪から完全に自由になることが出来ません。だから、八つの幸いに現れる生き方は到底無理だと思いやすいです。しかし、私たちの前におられる主イエスが、私たちの力になって助けてくださるでしょう。完璧ではなくても良いです。主に倣っていきたいとの心が大事です。主に頼って神の民にふさわしい人生を生き、八つの幸いに現れる人生を生きる私たちであることを祈り願います。

幸いである(2)

創世記 15章5~6節 (旧922頁) マタイによる福音書5章3~12節(新6頁) 前置き 今年は「幸いである」というマタイによる福音書の説教から一年を始めています。  私たちは先週の説教でマタイによる福音書5章のイエス・キリストの「山上の垂訓」に現れる「幸い」という言葉の意味について話しました。この言葉は新約聖書の言語である古代ギリシャ語の「マカリオス」を翻訳したものでした。その意味は、神から与えられる一方的な恵みとしての幸い(福)でした。ある人がまた別の人に与える物質的な幸い、あるいは自分の努力と幸運による幸いではなく、主なる神が、ご自分の民を祝福し、お交わりくださるために与えられる、この世の価値観とは全く違う幸いでした。キリストによって、神の民となったキリスト者は、神からの幸いのもとに生きなければならない存在です。しかし、その幸いは、この世が追い求める世俗的な幸せではなく、ひとえに神の恵みによってのみ与えられる霊的な幸いなのです。そして、その幸いはこの世に生きる時だけでなく、死後にもキリストによって永遠に私たちに与えてくださる限りのない恵みです。今日も先週に続き、キリスト者の幸いについて話してみましょう。 1.八つの幸いはキリスト者の生き方についての話しである。 まず、前回の説教で取り上げなかった話しがあり、その話しから始めたいと思います。八つの幸いには、主から与えられる、いくつかの幸い(福)だけでなく、キリスト者が求めるべき生き方についての教訓も含まれています。八つの幸いの「幸い」そのものも大事ですが、どんな人にその幸いが与えられるだろうかも大事だということです。だから、私たちは八つの幸いを通じて、キリスト者の望ましい生き方についても考えることができます。ある解説書を読むと、こんな言葉がありました。「八つの幸いの前半の四つの幸いは、主と民(教会)の関係からもたらされる幸いである。また、後半の四つの幸いは、主の民(教会)と隣人の関係からもたらされる幸いである。」つまり、私たちに与えられる神からの幸いは、神と私自身、私自身と隣人の関係から始まるということです。先週、私たちは心の貧しい人々、悲しむ人々には、主からの幸いがあると学びました。心の貧しい者とは、自分の罪と無力さに気づき、謙虚に主に寄りかかる者を意味しました。マタイによる福音書は、天の国が彼らのものであると語ります。また、悲しむ者とは、人生のすべての悲しみと苦しみへの助けを、ただ神おひとりのみに願い、主の慈しみを求める者を意味します。彼らは神によって慰められるとマタイによる福音書は語ります。神は心の貧しい者、悲しむ者を放っておかれず、彼らを助けてくださるということです。このような見方から、今日の本文も考えてみたいと思います。 2. 柔和な人々は、幸いである。 「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」(5) 前回の説教に続いて、今日の一つ目の「幸い」は「柔和な者に与えられる幸い」です。「柔和」という表現は、日常生活で時々使う言葉なので、親しみのある表現だと思います。辞書を引いてみると、柔和の意味は「性質や態度がものやわらかなさま」でした。何か穏やかな性格を意味するような言葉でした。しかし、私たちは、この文章の一次的な読み手が、現代の日本人ではなく、ローマ時代のイスラエル地域の人々だったということに注意する必要があります。つまり、聖書に記された「柔和」と現代日本人が理解する「柔和」の間には、言語、文化、歴史などの違いがあることを理解しなければなりません。マタイによる福音書に記された「柔和」の原文はギリシャ語「プラウス」ですが、その意味は「へりくだった態度から生まれるしなやかさ」です。ただの「ものやわらかさ」ではなく「謙虚さから生まれる落ち着いたさま」を意味します。辞書だけでは説明がもの足りないと思いますので、例を挙げてみましょう。野生馬は、その性格がものすごく荒いので、背中に人が乗ることを許しません。野生馬の足蹴りに打たれたら、クマやオオカミも大怪我をしてしまうかもしれません。 しかし、飼い慣らされた馬は、人を乗せるのを拒否しません。人より体も大きく、力も強いですが、自分の性格をコントロールして、人を自分の上として認めます。マタイによる福音書が語る「柔和、プラウス」には、飼い慣らされた馬のようなニュアンスがあります。自分の性格ではなく主人の意志に従順に従う馬から、そのイメージをかいま見ることが出来るのです。つまり、柔和な者とは、自分の意志、性格、環境を超えて、謙遜に主のお導きを求める者のことです。自分の性格、考え方があっても、神が望んおられることが何かを、先に考える人です。世の中に自分の性格と考え方のない人はいません。しかし、皆が自分の考えを貫こうとしたら、教会は成り立てないかもしれません。神の御心が何であるかを先に考え、自分の考えと行動を節制すること。聖書に記してある柔和は、そのようなものです。 聖書は、そのような者たちは、地を受け継ぐと語ります。ここで言う地は土地を意味するものではなりません。神が旧約聖書で、イスラエルにカナンの土地をお与えになった出来事は、神のご支配のもとにイスラエルを招かれる意味を持っていました。「この地に入る君たちは、わたしの民である。」という意味なのです。 したがって、地を受け継ぐという言葉の意味は、神の民として認められ、永遠に主の民として生きることとして理解しましょう。 3. 義に飢え渇く人々は、幸いである。 「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」(6)「義」とは何でしょうか?「義」という漢字を、日本人が分かりやすく言い換えれば「正しい」になると思います。「正しい」とはどういう意味でしょうか? 辞書には「理論、理屈に見合っている。 計算かあう。」と記されています。しかし、これは人間社会的な価値観で理解する概念です。もちろん、聖書が語る「義、正しさ」にも部分的に以上のような意味が含まれていますが、それより大事な意味は「神が約束されたことを忠実に成し遂げてくださること。」です。創世記にはこんな言葉があります。「主は彼を外に連れ出して言われた。天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。そして言われた。あなたの子孫はこのようになる。アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15:5-6) 生物学的に老人になって、到底男の子をもうけることが出来ないアブラハムに、神は子孫が生まれると約束されました。常識的に到底ありえないことでしたが、アブラハムは神の約束だから、それを信じたのです。神がご自分の約束を忠実に行われること、すなわち神の義を信じたのです。アブラハムの主導的な行動としての「信じる」ではなく「神がご自分の約束を必ず、忠実に成し遂げてくださること」を信じたことが義となったのです。アブラハムは神の義を信じ、それがアブラハムの義となったのです。 キリスト者は、キリストによる神の義を信じ、正しい者と見なされました。私自身が主を信じること、私自身の意志と行動が私の義になったわけではなく「キリストが神の約束どおり忠実に、必ずわたしを導き、救ってくださるだろう」と神の約束を信じたので、私たちは正しい人として認められたのです。「神を信じる」という私たち自身の行動によって義となったわけではなく、神がご自分の約束どおり必ず忠実に成し遂げてくださること、そのものがすなわち義なのです。そのような背景から6節を理解する必要があると思います。「義に飢え渇く」という言葉は、その神の約束が成し遂げられることを、待ち望んでいるイメージを持っています。イエスが主の祈りで言われた「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」こそ、義に飢え渇いた者が、追い求めるべき最高の祈りです。自分の意志ではなく、神の義、主の御心が成し遂げられることを願う人生こそが、まさに義に飢え渇いた者の生き方なのです。その神の義を待ち望んで生きる人は、永遠に共におられる神との交わりによって満足して生きるでしょう。私たちと永遠に一緒におられ、私たちを助け、導いてくださることによって、主は私たちの魂の泉になってくださるでしょう。 締め括り 今日は、柔和な者の幸いと義に飢え渇く者の幸いについて話してみました。説教を準備しながら、私は自分自身に問うてみました。私は柔和な者なのか? 私は義に飢え渇いている者なのか? 答えは「自信がない」でした。率直に言うと、私はまったくそのような人間ではないかも知れません。皆さんはいかがでしょうか? もしかしたら、この世には、実際に柔和な者と義に飢え渇いている者はいないかも知れません。しかし、私たちが完全に神の御心のままに生きることができないということを主はご存知です。ですので、父なる神はイエス·キリストを遣わされ、私たちの代わりに私たちの弱さを担当させられたのではないでしょうか。そして、キリストは聖霊なる神を遣わされ、昨日も今日も明日も、私たちと共に私たちの弱さを助けておられるのではないでしょうか? だとえ、自分にはできないと思っていても決して諦めてはなりません。御父と御子と聖霊が協力され、今でも私たちを助けて導いてくださるからです。そういう意味として、私たちは「幸いな者」です。数多くの困難が私たちの人生にあっても、私たちを助けて祝福してくださる神に信頼していきましょう。それこそが幸いな者の生き方ではないでしょうか。

幸いである。(1)

詩編 84編6~8節 (旧922頁) マタイによる福音書5章3~11節(新6頁) 前置き 今年は、説教の方式を変えてみようとしています。今までは、新旧約聖書から各々一つの聖書を決め、2週間に一つずつ、連続的に説教をしてきました。連続して聖書を取り上げたので、一つの聖書を詳細に探ってみることができる長所がありましたが、目立った教訓のない箇所も無理やりに説教したため、分かりにくくなる短所もあったと思います。今年からは、今まで通りに連続説教もしますが、時には聖書のあちこちから独立したテーマを取り上げて説教をしてみたいと思います。どんな方法で説教しても、私たちの魂の糧となる良い言葉を主にいただくことを祈ります。今後、何週間、私はマタイによる福音書5章「山上の垂訓」の冒頭に出てくる   「八つの幸い」について話してみたいと思います。私たちが考える幸いと聖書が語る幸いにはどんな違いがあるでしょうか? 一緒に考えてみましょう。 1.「幸い」とは何か? 「幸い」とは何でしょうか? 聖書には「幸いである」という表現が新旧約を問わず、数回出てきます。「幸い」は単に、この世で享受する幸せのことでしょうか? 新約聖書の言語である「ギリシャ語」には、3つの「幸い」に関する表現があると言われんす。一つ目は「ユーロゲトス」です。これは基本的に「高める、ほめたたえる」という意味を持っています。ユーロゲトスという表現は、神と人間の相互的な行動に使用できます。神が人間を「ユーロゲトス」してくださるというのは、罪人を赦し、祝福してくださるのを意味します。人間が神を「ユーロゲトス」するというのは、偉大な神を讃美するのを意味します。二つ目は「ユーダイモニア」です。これはアリストテレスが使った表現ですが、人間が自分の存在目的に合わせて生きる時に感じる感情、「幸福感」のことです。しかし、神との関係からの幸福感ではないため、聖書では使われません。三つ目に「マカリオス」があります。マカリオスは、神からいただく一方的な幸いであって、神が与えて、人間が受ける、神の恩寵による人間の内的、外的の幸いを意味します。今日のマタイによる福音書5章の本文に出てくる「幸い」は、以上の3つの幸いの中で三つ目の「マカリオス」に当該します。イエスが語られた八つの幸いが、徹底的に神から与えられる一方的な恵みとして、私たちに与えられているということです。 2. 心の貧しい人々は、幸いである。 では、神が信仰者に与えてくださる八つの幸いには何がありますでしょうか?八つの幸いをいっぺんに取り上げるには時間が足りないので、何回の説教にわたって 考えてみたいと思います。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(3) イエスは地上での御業を始められる時「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と宣言されました。天の国といえば、死後に行く幸せな楽園を思い出しやすいです。きっと神が備えられた天の国は悲しみも苦しみもない、幸いに満ちたところでしょう。ところで、イエスは「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(ルカ11:20)と言われることで、ご自身がこの世に来られた時、すでに神の国(天の国)が到来したのだとおっしゃいました。つまり、天の国は主を信じる者が死後に安息する場所でもありますが、イエスが私たちと共におられる、すべての場所が天の国であるという2つの意味を持っているのです。しかし、私たちの人生の中に苦しみと悲しみが依然としてあるのに、どうして私たちの人生が天の国になると言えるでしょうか。 皆さんの日常は、天の国のように幸せですか? 私たちは、聖書が語る「幸い」の意味について顧みる必要があります。私たちが考える「幸い」は、この世の価値としての富、すべてがうまくいく幸運、感情的な幸せのことではないでしょうか。聖書が語る幸いとはそれらと違うものです。それらは、先に申し上げたアリストテレスの「ユーダイモイナ」的な幸いでしょう。しかし、その幸いは神とは関係ない人間の幸せです。ただ自分自身の満足であり、徹底的に自分が中心となるものです。 マタイによる福音書5章が語る幸いは、神が私たちに一方的にくださる恵みを意味します。つまり、苦しい時も、悲しい時も、イエスが私といつも共におられ、決して私から離れないということ。それが恵みであり、神からの真の幸いです。お金がなくても、力がなくても、地位の高低を問わず、主が永遠に共におられる幸いを祈り願います。心が貧しいということは、どこにも頼るところがなく、心の分かち合う人もない時、神でなければ到底助けがなく、どん底にいるさまを言います。すなわち、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」という言葉の意味は、何の希望もなく神しか頼るところがない失敗した者にくださる主の一方的な恵みのことです。そのような心で謙虚に主の恵みを求める時、主は、私たちから永遠に離れられない主イエスを通して、私たちを見守ってくださるでしょう。聖書はそれこそが、真の幸いであると語っているのです。 3.悲しむ人々は、幸いである。 「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」(5:4)二つ目は悲しむ者の幸いについてです。悲しむという言葉は文字通りに人間の悲しみのことです。しかし、何のための悲しみか、聖書には正確に記されていません。悲しむと翻訳された、ギリシャ語も、単純な意味としての「悲しみ、悔やみ、号泣」などを意味するからです。とにかく、マタイによる福音書は、悲しむ者には、主によって慰められる幸いがあると語っています。ある学者たちは非常に信仰的に「自分の罪を悔い改める霊的な悲しみ」と解釈しました。しかし、それも良いですが、すなおに、神は誰であれ、悲しむ者なら慰めてくださる方であると解釈しても良いのではないでしょうか? 信仰的に自分の罪に気づいて、悲しむ人もいるでしょうが、世の中の心配と苦しみ、悲しみによって悲しむ人もいるからです。時々、私たちは神という、誰よりも人格的で愛に満ちておられる方を教理という枠組みに閉じ込めているかもしれません。未来への不安で悲しむ人、家族との別れで悲しむ人、自分の罪のために苦しむ人、一人ぼっちで苦しむ人、世の中には数多くの悲しむ人々がいます。 愛に満ちておられる、主なる神は悲しむ者の人生を他人事にように見過ごす方ではありません。キリスト者であろうが、未信者であろうが、関係ありません。世の中のすべての存在が神の被造物であり、神の愛のもとにあります。神はすべての者の悲しみを聞いておられます。ただ、悲しむ者が誰の前に立っているのかが大事でしょう。人の前で悲しんでいるか?、偶像の前で悲しんでいるか、唯一の真の神の前で悲しんでいるか。もし主なる神に向かって悲しんでいる者なら、主は彼を知らないふりされず、慰めてくださるでしょう。だから、「慰められる」という言葉が重要です。この表現の原文的な意味は「自分のそばに呼び寄せる」だからです。神を探し求める者に必ず会ってくださる神のことです。本当の慰めは私から離れられない神ご自身です。そういう意味として、先ほどお話ししました「天の国はその人たちのものである。」という言葉とも一脈通じるものがあります。神に向かって悲しむ者たちを見過ごされない神は、主を求める者をご自分のそばにお呼び寄せくださり、信仰を与え、イエス·キリストを通して、永遠に共に歩んでくださるでしょう。他の誰でもない、主なる神を探し求める者、主はその人を絶対に見捨てられません。それが、主がくださる幸いなのです。 締め括り ここ一週間、信仰とは何かについて考えてみました。私は教師として働いて13年目を迎えています。この 13 年間、信仰のために感情的に幸せだった時は 3 ヵ月にも至りません。悩み、悲しみ、苦しみながら生きてきました。しかし、明らかなことは、神は一度も私から離れたことがないということです。それを信じて今も苦しみながらも希望を持って生きています。神からの幸い、つまりマカリオスは、神の一方的な恵みです。そして、それは絶対に私たちを離れません。信仰は苦しくて悲しい道です。しかし、苦しみと悲しみの中で、神はキリストを通して、いつも私たちと共におられます。それがキリスト者にとっての最高の幸いです。感情の幸せと霊の幸い、私たちはこの二つを混沌してはなりません。両方の違いをはっきり理解して生きるべきです。神の幸いは、この世が語る幸せと違うからです。最後に幸いについての旧約の言葉一ヶ所を読んで説教を終わりたいと思います。「いかに幸いなことでしょう。あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。彼らはいよいよ力を増して進み、ついに、シオンで神にまみえるでしょう。」(詩編84:6-8)

喜び、祈り、感謝。

エレミヤ書 29章11節 (旧1230頁) テサロニケの信徒への手紙一5章16~18節(新379頁) 前置き 2024年が明けました。今年も主のお導きの中で、神に信頼し、隣人を愛し、正しい信仰に立っていく志免教会になることを祈り願います。今年の主題聖句は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケの信徒への手紙一 5:16-18)です。主の体なる教会である私たちが、日頃に主にあって生き、信仰によって喜びと祈りと感謝をもって生きていきたい希望で、この主題を決めました。使徒パウロは信仰者が常に喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝して生きることこそ、神が望んでおられること、つまり「神の御心」だと明確に語りました。今年、志免教会が神の御心に従って、常に喜び、絶えず祈り、すべてにおいて感謝して歩む教会であることを願います。今日の本文を通じて、私たちが追い求めるべき信仰について考えてみましょう。 1. テサロニケ教会についての手短な知識。 使徒言行録15章でパウロはいわゆる「第2次伝道旅行」と呼ばれる宣教の旅を始めます。パウロは以前にもイエス·キリストの福音を宣べ伝えるためにエルサレムを離れ、小アジア地域(現在のトルコ)のあっちこっちに行巡り、イエス·キリストが神の子であり、人間を罪から救うために来られた唯一の救い主であると伝道しました。その宣教の旅の後、エルサレムに帰った彼は、また、福音伝道のために小アジアの方に2回目の旅行を始めたわけでした。パウロは、今のトルコ地域での宣教に特に意を注いでいたようです。そんなある日「トロアス」(トロイの木馬で有名な場所)という町に滞在していたパウロは、夜に主からの幻をいただくことになりました。それはマケドニア人、つまり現在のギリシャ北部の人が「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」という幻でした。小アジア地域での伝道に尽力していたパウロは、自分の関心と意志が小アジアにあったにもかかわらず、神がくださった幻に従って自分のすべての計画を撤回し、マケドニア州フィリピに向かうことになりました。 パウロは律法学者として相当の知識を持つ、現在日本でいえば「前途有望な東大出身博士」のようなエリートでした。イエスに出会う前、彼は頑固な信念で、ユダヤ教思想に傾倒し、キリスト者の絶滅を願っていた情熱的なユダヤ人でした。そうだった彼が、自分が気を遣っていた小アジアの宣教を一夜の幻で止め、神のご命令に従って他の地域に渡っていったわけです。そして彼はそこでの福音伝道によって大きな迫害と苦難を受けます。主の御心の前でパウロは自分のすべての計画とこだわりを止め、主に聞き従い、迫害までも覚悟したのです。そんな中、パウロはテサロニケという町に着き、そこでテサロニケ教会が打ち立てられる種になります。しかし、パウロはそこでも「イエス·キリストだけが真の王」と伝道し、敵対なユダヤ人たちとテサロニケの人々の脅威を受けて身を避けることになります。パウロはテサロニケを離れて命を救いましたが、生まれたばかりのテサロニケ教会はどうなるか分からない状態でした。それ以来、パウロにとってテサロニケ教会は、特に心に引っかかる教会になったに違いないでしょう。果たして、テサロニケ教会は迫害の中で生き残ったでしょうか? 2. 迫害と苦難の中でも勝利する教会。 ところで、テサロニケ人への手紙第一1章6、7節には、こう書いてあります。「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。」パウロは脅威を避けて離れなければならなかったが、彼の伝道によって生まれたテサロニケ教会は、パウロの不在、すなわち指導者の不在にもかかわらず、主の御言葉を大事にし、堅く信仰を守ったのです。テサロニケ教会のために心を痛めていたパウロにとって、テサロニケからの良い知らせは、大きな喜びであったに違いないでしょう。キリスト教の歴史上、教会が最も純粋だった時は迫害と苦難の時代でした。迫害と苦難があればあるほど、教会は信仰の上に立ち、純粋になりました。むしろ教会が帝国の国教となり、多くの財産と権力を手に入れた時、主の御言葉から離れて腐敗し始めました。神は、たとえ地上の教会がなくなるとしても信仰的に腐敗することは望んでおられません。今、志免教会の状況を考えてみると、高齢化の会員も多く、経済的にも豊かではありません。皆さんが神に召されたら、志免教会はすぐになくなるかもしれません。しかし、志免教会の存廃よりも重要なことがあります。それは、志免教会の純粋な信仰です。 「なくなると言われても純粋な信仰を守るか。」「世の中の価値観に妥協して生き残るか。」という分かれ道の前で、神への純粋な信仰を守るのが正解です。そのような信念で生きる時、主の御旨によって教会の存廃は定めされるでしょう。信仰者の真の勝利は、ただの生き残りではありません。志免教会の存廃はあくまでも主の計画と選びにかかっています。私たちにとって重要なことは、今この瞬間、主を愛し、その方の御言葉に従順に従い、伝道し、隣人を愛して生きることです。もしかしたら、私たちは今、私たちが信仰の上に正しく立っているより、将来に私たちの教会が無くなるのではないかというおそれに心を奪われ、必要以上に心配しているかもしれません。 私は志免教会が、これからも長く、この地域で礼拝と伝道をし、隣人を愛する共同体として残ることを願います。しかし「生き残り」に執着してしまい、人数、予算などに心を奪われ、一喜一憂することはなかったらと思います。苦難と言っても過言ではない、今の日本の教会の現実の中でも、最後まで主への信仰を守り、すべてを主にお委ねして従うことを願います。すぐになくなってもおかしくなかった無牧教会だったテサロニケ教会は、それにもかかわらず信仰を守り、主によって守られました。それが主が望んでおられる本当の勝利ではなかったでしょうか? 3.喜び、祈り、感謝 2024年1月現在、聖書に記されているテサロニケ教会はありません。現在のテサロニケには、その昔の古代テサロニケ教会の跡が残っているだけです。主に褒められた教会だったにもかかわらず、歴史の移り変わりの中で消えていったのです。しかし、その昔、テサロニケ教会が追い求めていた主イエスの福音、信仰、神と隣人への愛はいまだに生き残り、今の他の国と他の民族のまた別の教会で続いています。テサロニケ教会はなくなりましたが、テサロニケ教会の信仰は生き残って続いているということです。今日の本文は語ります。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」喜ぶことがあまりなく、祈りをしても変わることがそんなにないように見え、感謝することより感謝しにくいことが、はるかに多いこの世の中で、キリスト者は、どのように喜びと祈りと感謝を保って生きればいいでしょうか? 教会は建物を意味しません。本当の教会は目に見えません。もちろん一つの地域の目に見える教会も教会と呼ばれますが、それよりも大きな意味としての教会は、イエス·キリストを主とあがめる全世界の神の民の集まりを意味します。そして、主はそのすべての教会の頭として、今も目に見えない大きい教会を導いておられます。 私たち自身の大変な状況に捕らえられ、喜べず、祈りへの確信もなく、感謝もできない教会になるより、私たちの現在の状況と事情がどうであれ、それらを乗り越えて、この世のすべての教会を見守っておられる主に信頼して生きることを望みます。喜べない時も、信仰によってあらかじめ喜び、祈りが早く叶わない時も、最後まで主のお導きを待ち望み、感謝することが、あまりないような状況でも、神への信頼によって感謝を作り出す私たちであることを願います。「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(18)今日の本文は、それこそがキリスト・イエスにおいて、私たちに求められる神の御心であると証ししているのです。長くても100年前後の短い人生の心配にとらわれて苦しむ私たちではなく、すべての結果を主に任せて決然と信仰を守って喜び、祈り、感謝しながら生きる私たちであることを願います。このような私たちの人生をご覧になり、主はご自分の御心に従って私たちの歩みを導いてくださるでしょう。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」という聖書の御言葉(ヘブライ人への手紙11:1)があります。自分の目に映る現実のために絶望せず、見えない主のお導きを信じて生きる2024年であることを願います。 締め括り 「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」(エレミヤ29:11)旧約時代、神はご自分を背反し、偶像を崇拝し、悪事を犯して、結局滅ぼされていまったイスラエル民族にこのように言われました。そして、70年後、主は彼らを赦してくださいました。旧約の犯罪した民にもこのような計画を持っておられた神が、ご自分のひとり子の贖いによって救われた新約の教会に、いかに大きな計画を持っておられるでしょうか? 神の御心は主の民の平和であり、将来と希望であることを私たちは旧約の本文から知ることができます。このような主の御心を憶え、今日の新約聖書の本文のように神への信頼によって、常に喜び、祈り、感謝しつつ、今年を生きる私たちであることを祈り願います。 父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。

忠実なしもべ。

箴言 25章13節 (旧1024頁) マタイによる福音書24章45~47節(新49頁) 前置き あっという間に2023年が暮れてます。今日は12月31日、今年最後の日で、最後の主日です。主なる神が、今年も共にいてくださり、守ってくださったことに感謝します。今年の志免教会の主題聖句は「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:22)でした。これによって、教会という共同体の意義について学び、教会の一員としての私たちのあり方について顧みる機会になったと思います。今日は志免教会を成す私たちの望ましい生き方についてもう一度考え、新しい年を準備したいと思います。 1.教会の意味についての復習。 私たちは、夏から秋までの新約聖書の「エフェソ書」の説教を通して、教会共同体のあり方について学びました。今年のテーマが「教会とは何か?」だったので、今日はその復習をしたいと思います。ここに集っている私たちは、皆それぞれ違うところに生まれ、それぞれの人生を生きて、みんな違う理由で信仰を持ってキリスト者となりました。しかし、私たちの一つの共通点がありますが、皆が同じイエスを主とあがめ、同じ聖霊に導かれ、同じ信仰を告白するようになったということです。各自の信仰の経緯は違いますが、その信仰をくださった方がおひとりの主ですので、私たちも一つの信仰を持っておひとりの神を私たちの主として仕えているのです。私たち志免教会は、そのおひとりの主を信じる共同体です。 天地創造の前に、父なる神が私たち一人一人をあらかじめ定められ、イエス·キリストがご自分の肉体をささげ、十字架で血潮を流され、その贖いによって私たちを選び救ってくださいました。父と子によって、私たちのところに来られた聖霊は、父と子のご意志に従い、私たちといつも共におられ、志免教会という共同体を立ててくださいました。そして、この教会の頭であるイエスの御名の下に、思想、国籍、民族を問わず、私たちを主の体なる教会と呼ばれるようにしてくださったのです。イエスはまるでかなめ石のように私たちの中心となり、私たちは、その方によって主イエスの体なる教会と呼ばれるようになったのです。つまり、イエスは教会の頭であり、教会はイエスの体であるのです。したがって、私たちは神に大事にされている存在、キリストによって一つとなった存在という信仰を持って、教会を成していかなければなりません。このような教会への認識、その教会の一員である私たちという認識を持って今日の本文を考えてみましょう。 2.忠実なしもべとして生きなさい。 「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。」(マタイ福音24:45-46) 今日の本文の言葉は終末の時を生きる神の民、すなわち、教会のあり方を示すイエスの御言葉です。私たちは「終末」を考える時、遠い未来のことだと思い、現実と全く関係ないと誤解しやすいです。しかし、イエスは言われました。「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(マタイ12:28) 旧約では、終末が「メシアが神の国をもたらす時」と理解していました。マタイによる福音書はメシア・イエスがご自分の御業をお始めになった時から、すでに神の国が臨み、終末は始まったと証言します。つまり終末とは、すでにイエスが働き始められた、その時点から始まっているものです。私たちが生きている今が、まさに「終末の時」ということです。この終末の時代、主はご自分の民である教会が「忠誠で賢いしもべ」として生きることを望んでおられるのです。 本文の「忠実」とは、ギリシャ語の「ピストス」で、「信仰」あるいは「誠実さ」を意味する言葉です。すなわち、キリスト者が「信仰を持って誠実に」生きることが、神に対する「忠実」であるとも理解できるでしょう。この忠実が私たちキリスト者に必要な理由は何でしょうか? 世の中は戦争と不条理に病んでおり、多くの人々が喜びよりは悲しみの中で生きています。イエスが救い主として来られたと言われる、今の世界も、依然として苦しみと悲しみの中にあります。時々、「神などいない」と感じられる時があります。そんな時は挫折して信仰を諦めたいと思われる時もあるかもしれません。私は2018年に福岡に来て、もうまる5年が経ちました。もうすぐ志免教会への赴任も5年になります。ところで、前の5年を振り返ってみると、最初、私が思ったほど伝道が進んだり、目立った大きな変化があったりすているようには見えません。5年前と同様に、今もなお「これから志免教会はどうなるだろうか?」という心配があります。果たして神が志免教会を助けておられるかどうか、疑う時もありました。その一方で説教の時は「信仰に生きなさい」と皆さんに信仰を強調しなければならないので、その矛盾が私にとって困惑でした。 5年間、私が予想していた変化は起こらず、5年前にしていた志免教会の将来の心配は未だにしていました。宣教のための来日なのか、心配のための来日なのか、混乱の時もあります。そんな私に今日の聖書の本文は語ります。「主が来られる時まで、時間どおりに私の民らに食事(御言葉の正しい説教)を与える忠実で賢いしもべとして生きなさい。」私の周りの環境がどうであれ、私の思いと異なる現実が広がっても、必ずまた来ると約束された主イエスを信じ「信仰によって、誠実に」一日一日を生きて行くべきということです。多くの成功を遂げ、偉大な人になるのだけが、神の忠実なしもべのあり方ではありません。難しい状況の中でも神への一抹の信仰を捨てず、最後まで主の約束を待ち望み、一日一日誠実に生きることこそ、終末の時代を生きる私たちに求められる「神への忠実」なのです。今日の新約の本文を通じて、私は最近の不信仰と心配を反省することになりました。今日の本文は信仰を持って誠実に一日一日を生きていきたいと誓わせる言葉でした。 3. 神の子、神のしもべ。 今日の本文には神の民である教会が「神のしもべ」として描写されています。文字通りにすれば「しもべ(僕)」は下人のことです。しかし、聖書が語る「しもべ(僕)」は神の民を格下げして、奴隷のように扱う言葉ではありません。すでに聖書はキリスト者が、神の子供であり、キリストの友であり、神の国の相続人であると語っているからです。イエス·キリストは罪人を救うために、この地上に来られた時、神のひとり子であるにもかかわらず、ご自身のことを「神のしもべ」であると言われました。神ご自身であるイエスが、自ら神のしもべであると自任されたわけです。父なる神への愛によって、自らを低くされたためです。キリストの救いによって、すでに神の子供、キリストの友、神の国の相続人となったキリスト者は、主イエスの御心にならって、自分自身を進んで神のしもべとして献身する者とならなければならないと思います。天地創造の前に、すでに父なる神によって定められ、キリストによって救い選ばれ、聖霊によって信仰を持って教会となった私たちは、神への信仰と誠実さで、毎日を生き、神の子供ですが、神のしもべのような生き方で、へりくだって主に仕えて生きるべきではないかと思います。 締め括り 今日の旧約本文はこのように語っています。「忠実な使者は遣わす人にとって、刈り入れの日の冷たい雪。主人の魂を生き返らせる。」(箴言25:13) イスラエルの平原地域では4-5月には大麦、6-7月には小麦、9-10月には果物などの収穫があると言われます。6-10月のイスラエルの平原地域は福岡くらいの暑さだと思います。こんな暑い時期に冷たい雪があったら、大喜びになるでしょう。したがって、上記の言葉を少し変えて翻訳すると、このようにも言えると思います。「忠誠なしもべは、主人にとって、刈り入れの日の冷たい水一杯のように、主人の心を満足させる。」(実際、韓国の聖書ではこんなふうに翻訳されている。) 私たちが信仰と誠実さで主の御心に従って生きる時、主は私たちの生活によって喜ばれると信じます。2023年、私たちはどのように生きてきたでしょうか? また、2024年はどう生きるべきでしょうか。信仰と誠実さを持って主の御心に従って黙々と歩んでいく時、私たちの歩みは、主にとって刈り入れの日の冷たい雪のように、主の大喜びになると思います。それを誓って過ごす年末年始であることを祈り願います。

罪人の友イエス·キリスト。

民数記 35章9~15節 (旧276頁) ヘブライ人への手紙4章14~16節(新405頁) 前置き 主イエス·キリストのご降誕を喜び祝います。この世のすべての罪のある者、貧しい者、弱い者の友になられ、彼らと共に歩んでくださるために来られた主イエスの愛と恵みを喜びたたえます。このクリスマスに、ここに集っておられる皆さまと、また我らの家族、友人、近所の方々にキリストによる、主なる神の愛と恵みとが豊かに注がれることを心より祈り願います。今日はクリスマスの本当の主人公である主イエス・キリストのことをお話ししたいと思います。 1. 罪人の大祭司となるイエス・キリスト。 今日は、クリスマス記念礼拝ですが、聖書の本文の言葉はクリスマスとあまり関係ないように見えるかもしれません。クリスマスといえば、ベツレヘム(イエスの生まれ故郷)の飼い葉おけに生まれたイエス、東の方からの占星術の学者たち、マリアとヨセフ、大きくて輝かしい星、野原の羊飼いたちと空の天使の讃美など、主イエスの誕生についての物語が多いからです。それでは、私がクリスマスと全く関係なさそうな本文を選んだ理由は何でしょうか。それは、なぜイエスがこの地上に人間として生まれなければならなかったのか? 東の方の学者たちがイエスを訪れた理由は何か? なぜ大きくて輝かしい星がベツレヘムに向かったのか? なぜ数多くの天使たちがイエスの生まれにあたって「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」と讃美したのか、というクリスマスの物語が持つ本当の意味について話したかったからです。なぜ、唯一の創造主のひとり子は人間となり、この地上にお生まれになったでしょうか? そして、その方がこの地上に来られたということは、私たちにとってどのような意味を持つのでしょうか? 私は今日の説教を通して、このように言いたいです。「イエスは今を生きる、この世のすべての罪人の友になってくださるためにこの地上においでになったのです」と。 聖書には、神がこの世のすべてを創造され、それらを見て喜ばれたと記してあります。そして、被造物の頭である人間を創造された後、彼らを見て最も喜ばれたと書いてあります。つまり、神は人間のために世界をお創りになったわけでした。しかし、やがて人間は神の座を欲しがって神を裏切ってしまいました。その罪のため、人間は神に罰を受け、みじめな存在になってしまいました。しかし、人間を完全には見捨てなかった創造主の神は、人間を愛したあげく、彼らと和解することを決定されました。それで、人間の代わりに罰を受けて死ぬ、罪のない存在を遣わそうと決心されました。しかし、神を裏切った最初の人間の子孫は、依然として最初の人間が犯した罪の支配の下にいるため、誰も他の人間の罪を赦すために、代わりに死ぬことができない状態でした。罪人が他の罪人の罪を赦すことはありえないからです。そこで、神が選ばれた方法は、まったく罪のないご自分の子を人間に生まれさせ、罪人に代わる贖いの献げ物にして、他の罪人たちを救う方法でした。それによって神は、いわゆる「三位一体」の御父と御子と御霊の中の御子なる神を人間に生まれさせ、この地上に遣わされたのです。そして、その御子なる方がまさに主イエス·キリストなのです。 今日の新約聖書の本文は、このように語ります。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブライ4:15) 本文は、このイエス·キリストが、罪人を罪から救ってくださる大祭司であると証ししているのです。イエスは、自ら(罪のない)人になって人間の弱さ、悲しみ、痛み、苦しみと(聖書には試練と書いてある) 私たち人間が感じる感情を同じように体験され、神でありながらも、人間になり、人間を理解し、主に頼る者たちを代表してくださる大祭司になってくださったのです。私たちがクリスマスにイエスのご降誕をお祝いする理由は、人間が、もうこれ以上ひとりぼっちで自分の罪、弱さ、悲しみ、痛み、苦しみに束縛されて挫折ばかりするのではなく、このイエス·キリストに出会うことによって、主と共に生きることができるようになったからです。いわば、私たちと永遠に離れない真の友が、天から地に来た日だからです。主イエスは、今日も私たちを見守っておられます。私たちの罪、私たちの悲しみ、私たちの痛み、私たちの弱さを同情してくださいます。そして、私たちが主の恵みを求める時、主イエスは必ずご自分を探す者たちを見捨てられず、出会ってくださるのです。 2. 私たちの逃れの町になってくださるイエス。 今日の旧約本文には「逃れの町」という言葉が出てきています。「ヨルダン川の東側に三つの町、カナンの土地に三つの町を定めて、逃れの町としなければならない。これらの六つの町は、イスラエルの人々とそのもとにいる寄留者と滞在者のための逃れの町であって、過って人を殺した者はだれでもそこに逃れることができる。」(民数記35:14-15)逃れの町とは、旧約時代、神がイスラエルに土地を与えてくださる時、イスラエル人、外国人を問わず、過って人を死なせた者、例えば、木を切る際に、斧の刃が勝手に飛んでしまって誰かが当たって死んだなどの場合、死んだ者の家族に無惨に復讐されないように避難できるような場所でした。もちろん意図的に殺人した人は必ずそれに相応する刑罰を受け、殺されるのが旧約の律法でした。ただし、過ちによる死のため、人々が互いに復讐しあって殺し合う悲劇がないように、神が、ご自分の律法で逃れの町を定めてくださったのです。もちろん、過ちで人を死なせた、その人は逃れの町で自分の過ちを認め、反省と悔い改めをするべきだったでしょう。このように神は盲目的に人を罰し、殺すのではなく、自分の罪を認める罪人を憐れみ赦してくださるために、逃れの町という制度をくださったわけです。 ところで、この逃れの町に避けた人は、いつ自由の身になれるのでしょうか? 一生、逃れの町に束縛されて死ぬ日を待つしかないのでしょうか。しかし、彼らも自由の身になる時がありました。「人を殺した者は、大祭司が死ぬまで、逃れの町のうちにとどまらねばならないからである。大祭司が死んだ後はじめて、人を殺した者は自分の所有地に帰ることができる。」(民数記35:28) 当時の大祭司が生を全うして死ぬ日、は逃れの町の罪人らは、その町から出て自由になることができました。神が大祭司の死によって、彼らの罪が贖われたと見なしてくださり、彼らの罪を赦してくださったからです。罪人のために罪のないイエスが死んで罪人を赦してくださるという概念は、まさに、このような逃れの町の大祭司の物語と深くかかわっています。神は罪人をすぐに罰せられず、見守り、大祭司の死ぬとき、贖罪して、新たな人生を生きるとこが出来るようにお待ちくださったのです。すなわち、私たちの大祭司であるイエスが罪と弱さで無力になっている罪人のために死んでくださった時に、人は罪から赦されるようになったのです。イエスが十字架で私たちの罪に代わって神の御前で刑罰を受けて死んでくださることで、私たちは自分の罪から自由になる手立てを得ることになりました。したがってイエスは旧約の逃れの町のように私たちを守り、大祭司のように、ご自分の命をかけて、私たちを罪から救ってくださる方です。イエスがこの地にお生まれになったことをお祝いする理由は、このようにイエスが人間の罪と弱さをご自分の体で背負ってくださった救い主だからです。 締め括り 今の世界で、クリスマスが持つ意味はどうなっているでしょうか。クリスマスは「キリストに礼拝する日」という意味のラテン語ですが、現実はイエス·キリストより、サンタクロースの方が有名になっている日であるかもしれません。罪人を赦し救い、友になってくださるイエス·キリストを記念すべき日ですが、むしろ、パーティー、デート、飲み会の日のように認識されているかもしれません。このようなクリスマスを、キリスト者は正しく憶え、感謝すべきではないでしょうか。主は罪人の友になってくださるために、私たちの逃れの町と大祭司になってくださるために、この地上にお生まれになりました。そして、私たちに真の平和と喜びを与えてくださるために十字架でご自分をささげ、死んでくださいました。そして、主は私たちの永遠の命のために復活し、真の救い主として今も私たちと共におられるのです。このようなイエス·キリストの愛と恵みを憶えるクリスマスになることを願います。メリークリスマス。主イエスのご降誕をおめでとうございます。 父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。 イメージファイル Freepik

キリストによる平和

イザヤ書52章7節 (旧1148頁) ルカによる福音書2章8-21節(新103頁) 前置き 子供の頃、私はメリークリスマスという言葉が大好きでした。クリスマスが、どういう意味かは分かりませんでしたが、クリスマスの雰囲気がすごく良かったためです。1980年代、日本のバブル時代、韓国もソウルオリンピックを前後にして、本格的な経済の発展を期待する時代でした。あの頃は日本も韓国も、裕福だったと思います。当時、幼稚園に通っていた私は、クリスマス・イブに枕もとに小さな靴下をかけて、今夜サンタクロースが来て、オモチャのプレゼントをくれるだろうと楽しみにして、熱心に祈ったりしました。私は、その時代に育ったわけで、今でもクリスマスといえば平和という言葉が一番先に思い浮かびます。ところで、クリスマスと平和に何の関りがありますでしょうか?今日は、クリスマスとは何か?そして、クリスマスの真の平和とは何かについて、一緒に話してみたいと思います。 1.クリスマスとは? クリスマスとはどういう日でしょうか?数年前、日本の、ある宣教団体が作った日本宣教関連の動画を見て、驚いたことがあります。クリスマス・イブの夜、新宿で通りすがりの人々とインタビューをする場面でした。「クリスマスが何を記念する日なのか知っていますか?」「西洋からのパーティーの日じゃないですか?」「よくわかりません。」「ケーキを食べる日です。」など、さまざまな答えがありましたが、衝撃的にもクリスマスがイエスの誕生を記念する日であることを知らない人が多かったのです。恐らく、クリスマスを知らない人を中心に編集したかとは思いましたが、他国に比べてクリスマスのこと、分からない人が多いとの内容でした。最後に動画はこう話して終わりました。「日本のキリスト教は盛んでいません。クリスマスを楽しんでいながらも、クリスマスの意味が分からない人が多いです。日本の人々が、救い主イエスと、その誕生を記念するクリスマスを正しく知るようになることを切に祈ります。」日本でキリスト教は、全人口のわずか0.4%にしか至らないマイナーの宗教です。それだけにクリスマスへの人々の認識も薄いです。クリスマスはパーティーする日でも、ケーキを食べる日でもありません。クリスマスは私たちが主とあがめるイエス・キリストの到来を記念する日です。 クリスマスは、イエスを意味するギリシャ語「キリスト」に、礼拝を意味するラテン語「マス」が付いて出来た合成語です。カトリック教会の「ミサ」という言葉をよく耳にしますが、そのミサの語源が、この「マス」なのです。つまり、クリスマスとは、ご降誕のイエスを礼拝する日という意味です。また、この「マス」には、別の意味もあります。「ミッション」というアメリカの映画がありますが、有名な俳優、ジェレミーアイアンズが「ネッラファンタジア」という曲をオーボエで吹きながら、南米の原住民と出会う場面が印象的な映画です。映画のタイトルであるミッションという言葉は、宣教という意味の英語ですが、その語源が、この「マス」というラテン語なのです。つまり、クリスマスはイエスが、この地に福音宣教をするために来られた日という意味でもあるのです。したがって、クリスマスを日本語で説き明かすと、「ご降誕のイエスを礼拝する日。」または「イエスがこの地に神の福音を宣べ伝えるために来られた日。」と解釈することができます。このように、クリスマスはイエスで始まり、イエスで終わる、イエスの、イエスによる、イエスのための日なのです。だからイエスを忘れて、単にパーティー、ケーキ、お酒、デートの日などと、クリスマスを誤解すれば、このクリスマスに隠れた意味があまりにも多いと言えるでしょう。 日本では、クリスマスが祝日ではありません。ほとんどの欧米の国々、また韓国でも、クリスマスはキリスト教の非常に重要な日として大事に扱われています。国家的にも祝日と指定された、1年の中で最も盛大に守るキリスト教の記念日です。だから、それらの国々では、教会に通っていない未信者でも、その意味をかすかにでも知り、その意味の中でクリスマスを楽しみます。しかし、日本では祝日でもなく、ただの平日であり、イエスの誕生を記念する日という事実を知らない人も、他国に比べて多くと言われ、とても残念だと思います。神が日本の教会のを憐れんでくださり、多くの人々がイエスを知り、良い影響を及ぼす教会共同体になること祈り願います。クリスマスはイエス・キリストの日です。イエスが礼拝される日であり、イエスの福音伝道ためのお生まれを記念する日なのです。このクリスマスにイエスの愛が日本中のすべての人々に満ち溢れますように祈ります。 2.イエス・キリストによる平和を願う日。 ローマの平和(Pax Romana)という言葉があります。古代ローマ帝国は、軍事力で地中海世界を掌握、支配し、周辺のヨーロッパと中東とアフリカ北部を征服した強力な国家でした。ローマの平和とは、ローマが帝国の征服戦争にけりを付け、地中海を完全に掌握した西暦1世紀前後、ローマ帝国による秩序と支配で、世界が平和であるという意味で用いられた言葉でした。しかし、このローマの平和という言葉について、よく考えてみる必要があります。ローマの平和とは、すべての人が平等で平和になるという意味ではありません。この平和は、ローマ皇帝を中心としたローマ人だけの平和でした。ローマ帝国に属する植民地の人々は、ローマ市民として認められませんでした。彼らがローマ市民になるためには、ローマの市民社会で認められたり、あるいは植民地の指導層が自国を裏切ってローマ帝国の側に立ったり、ローマの軍隊に入り、多くの戦争を経て得ることができるものでした。つまり、この平和とは、皆のための平和ではなかったということです。誰かがローマの平和を享受するためには、他の誰かが死ぬか、奴隷にならなければなりませんでした。ローマの平和とは、あくまでも、権力ある者のための、彼らだけの平和だったのです。ローマの平和は暴力と殺人の別の名だったのです。 そのローマの平和が唱えられた時代、ローマ帝国の辺境の、小さくて力のない植民地、イスラエルでは、ユダヤ民族から、真の王が生まれるといううわさがありました。大きくて輝かしい星が現れ、イスラエル地方に、王たちの上に君臨する、真の王が生まれるといううわさでした。これはユダヤ人の預言に基づいた話で、聖書はその王が、主イエス・キリストであると明らかに示しています。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(11-12)今日の本文では、この王たちの王が生まれるという良い知らせを、地上の人々に伝える天使の物語が出てきます。彼はイスラエルの歴代最高の王であったダビデの出身地であるベツレヘムで、ダビデの子孫である、新しい王が生まれると話しています。ところで、ここで 使われた言葉が気になります。聖書は、単に王という言葉の代わりに「救い主、主」という言葉を使っています。この言葉は、単に偉大な人を高めるための表現ではありませんでした。この言葉は非常に政治的で、社会的な言葉です。ローマ帝国で「救い主、主」という言葉は唯一、ローマ皇帝一人しかなかったからです。 つまり、ユダヤ地域で生まれた主イエス・キリストという名前は、単にイスラエルと呼ばれる小さな民族の指導者としての意味ではなく、ローマという大帝国の皇帝までも屈服させる強力な存在としての名称だったのです。イエス・キリストが生まれた理由は、単に小さな一つの民族だけに限らず、ローマ帝国を超える全世界を治めるためでした。神は帝国を超えて全世界を支配する本当の王が来ることを天使を通して教えてくださったのです。しかし、イエスの支配のしかたは、ローマ帝国のそれとは、全く違うことでした。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(14)天使は王や皇帝を訪れて主の到来を知らせたわけではありません。彼はイスラエルで最も低い階級である羊飼いたちに行き、主のご降臨を知らせたのです。そして、彼らに平和の王が臨むことを教えてくれました。主イエスの誕生は、ローマ帝国の皇帝が求めていた自分たちだけの平和ではなく、イエスを通して全世界のすべての人々が、共に享受することができる、真の平和をもたらす出来事です。主のご誕生の知らせは、ローマによる権力者のための暴力に染まった平和ではなく、キリストを通して最も低い階級も味わえる、真の平和の到来のお知らせ、つまり福音でした。 締め括り 人間の赤ん坊に生まれたイエス・キリストは、神ご自身でいらっしゃいます。神と人との間には、人とアリの違いよりも、はるかに大きな隔たりがあります。しかし、人間を愛された神は、自らを低くされ、人になってくださいました。また、みすぼらしい飼い葉桶に生まれ、誰にも尊重されない羊飼いたちでさえも、会うことができる低い所に来られたのです。イエスは権力、財産、強い人だけでなく、疎外される弱い人にも、喜んで会ってくださる、真の偉大な王です。誰でも主を求めれば、 会ってくださる真の平和と愛の王でいらっしゃいます。私たちが生きている、この世は弱い者に厳しいところです。目に見えない壁と隔たりがあり、支配層と一般の人々の人生が違う場所です。しかし、主イエスは、そのような壁と隔たりを突き崩して、すべての人に公平に神の愛と恵みをお伝えになった方です。この主が、弱くて罪深い人類のために地上に来られ、人間の罪を赦してくださるために、ご自分の命を掛けて救ってくださいました。私たちを支配しようとする王、私たちに仕えようとする王、私たちにとって真の王は果たしてどちらでしょうか?主は仕え守ってくださる平和の王として、今日、私たちの間におられます。アドベントの期間、またクリスマスを迎えて、この主イエス・キリストのことを憶えていきたいと思います。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

我が民を慰めよ。

イザヤ書40章1~11節(旧1123頁) マルコによる福音書1章1~8節(新61頁) 前置き この世は病んでいます。今日でも世の中には戦争が絶えず、人と人の間柄に憎しみが絶えず、社会には不条理があふれています。この世の多くの人々が苦しみと不安を感じながら生きています。なぜ、この世はこんなに良くないものでいっぱいになったのでしょうか? 聖書は、これらすべての不幸が人間の罪から生まれたと語っています。そして、その罪を解決することから真の回復と慰めが与えられると語ります。このような世の中を見守られまがら、主は今日もこの世の罪を赦し、すべての人々が神の救いを得て平和と慰めのある人生を生きることを望んでおられます。私たちが主と崇めるイエス·キリストは、この世を傷つける罪の問題を解決し、神の真の赦しと慰めの成就のために、この世においでになりました。キリストによる罪の赦しと回復。神は自分の力で罪の問題を解決できない、病んでいるこの世を慰め回復させるために、ご自分のひとり子を遣わしてくださったのです。 1. 喜んで赦してくださる主。 イザヤ書40章は、かつて主なる神への背反、偶像崇拝といった罪のために、神の裁きを受けた旧約のイスラエル民族の回復を予言する言葉です。神は国々の中でイスラエルを特別に選び、神の栄光をあらわす祭司の国として打ち立てられました。しかし、時間が経つにつれ、イスラエルは主の御旨に背き、自分たちの欲望に従って主の御言葉を無視し、他の神々に仕え、主と遠ざかってしまいました。主なる神は彼らに悔い改め、立ち返りを呼びかけられましたが、彼らは変わらず、自分の欲望を神として主の御心に逆らってしまいました。そして、その結果はアッシリアとバビロンといった大帝国によるイスラエル王国の滅びでした。しかし、その滅びはイスラエルへの神の無慈悲な仕返しとしての滅びではなく、イスラエルを悔い改めさせ、主に立ち戻らせる戒めとしての滅びでした。そのため、神は約70年後にイスラエルを再び回復させ、故郷に帰らせることを決心されました。今日の旧約の本文は、そのイスラエルへの神の赦しと慰めと回復を宣言する言葉です。 「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。」(イサヤ40:1-2)主なる神は、ご自分の民を愛される方です。彼らがたとえ神を裏切る罪を犯したとしても、神はご自分の民イスラエルを完全には見捨てられず、再び回復させ、神のふところに抱くことを望まれる方です。だから、神はまるで親が子供を戒めるかのように、イスラエルを戒め、彼らを完全に滅ぼされず、悔い改めへと導いてくださいます。主なる神は破滅と審判より、赦しと慰めをさらに望まれる方です。主の民が罪によって堕落したとしても、主は彼らを見守り、赦し、愛をもって正してくださることを望まれる方です。主は民が罪を悔い改め、立ち返るなら、必ず彼らを受け入れてくださる方です。神の民が悔い改めつつ、神の御前に出てくる時、主なる神はわたしの民よと喜んで呼ばれ、赦してくださる方なのです。 2. 変わることのない主のご意志。 「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。」(40:3-5) 神はご自分の民イスラエルが滅びと捕囚の状態から回復し、再び彼らの故郷であるイスラエルに帰還すると預言されます。そして、その嬉しい便りを公に宣言されます。主がご自分の民イスラエルを回復させる時、荒れ野には神の道が備わり、谷と山、丘、険しい道は平らになるという比喩によって、誰も神の民の回復を妨げることができないことを宣言されたのです。 そして、その民と共に進まれる神の御業を「主の栄光」であると語ります。神は誰よりもご自分の民の回復を喜び、望まれる方です。主はその民の回復のためのご自分の御業がすなわち主の栄光であると公に言い現わされたのです。 「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(40:6-8) 神は世の中のすべての肉なる者は草と花のように枯れてしまうが、イスラエルを必ず回復させるという神の言葉だけは永遠に変わらないという言葉を通して、ご自分の民の回復への神のご意志(御言葉)は、世のすべてが変わっても絶対に変わらず、成し遂げられることを宣言されます。イスラエルは滅びて無力な存在となっていますが、主は必ずご自分の民を回復させ、新たにするという希望の約束をくださったのです。一度失敗した存在を見捨てず、起こして新たにするという神の希望のメッセージ。これは罪人たちをあきらめられない主なる神の積極的な愛を表します。「あなたたち罪人は失敗の存在だが、わたしはあなたたちを決してあきらめない。」この主のご意志が罪人たちへの救いにまでつながるのです。 そして、そのような神のご意志は新約時代に入ってイエス·キリストという救い主の登場につながります。 3. キリストの到来の意味。 今日の新約の本文は、イエスの公生涯(イエスの地上での御業3年)の始まりを告げ知らせる言葉です。そして、その言葉には今日の旧約本文イザヤ40章の言葉が引用されています。「神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」(マルコ1:1-3)、このようなマルコ福音書とイザヤ書の言葉の関りを通して、ご自分の民を回復へと導かれる主の御業(栄光)が、まさにこのイエス•キリストの到来を意味するものであり、このイエスによって、神のお赦しとお慰めが、この世に伝わり、罪によって苦しむ存在が赦され慰められることが推測できます。世の中のすべての肉なる者は、草と花のように枯れてしまうが、神の御言葉と呼ばれるイエス•キリストのご恩寵は絶対に妨げられず、必ず成就することを今日の新約と旧約の本文を通して知ることができるのです。 神は、旧約で罪によって堕落し、滅びてしまったイスラエルの回復と救いを宣言されました。しかし、神は、新約聖書を通しては、メシア、イエス•キリストを遣わされ、イスラエルに限られた回復と救いではなく、全人類が罪から赦される究極的な回復と救いを宣言されたのです。イザヤ書を通して伝わった主の民のための神の慰めはキリストによって、さらに拡大し、全人類を対象に広がっていくことになったのです。イエス・キリストがこの地上に来られたということは、神の慰めと救いの恵みがイスラエルという一民族を超えて、人類という世界中のすべての民族に広げられたということを意味します。この世は、罪によって依然として病んでおり、戦争も絶えないが、そのすべての痛みと苦しみを主なる神は知っておられ、キリストを通して、共に痛がっておられます。 そして、いつか主はイエス•キリストを通して、その罪の痛みと苦しみから主の民を回復させ、慰めてくださるでしょう。 締め括り クリスマスのシーズンになると、天神の街はクリスマスの飾りで輝き、大勢の人々はクリスマスケーキやお酒などを飲み食いしながら、クリスマスを楽しみます。しかし、多くの人はクリスマスの本当の意味も分からず、ただ雰囲気に流されて楽しむようになる場合が多いです。そんな時こそ、私たちキリスト者は罪を赦し、真の慰めを与え、回復と救いを与えるために来られた主イエス・キリストのご到来を記念し、憶えなければなりません。キリストが来られたということは、この世への神の愛と慰めが、近くに来ていることを意味します。このような神の愛を記憶し、アドベントの期間とクリスマスを過ごしていきたいと思います。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

過越祭の小羊。

出エジプト記12章3―14節(旧111頁) コリントの信徒への手紙一5章7節(新305頁) 前置き 今日は、アドベント、つまり、今年の待降節の第一の主日です。待降節とは、イエス·キリストのご降臨を待ち望む期間という意味です。これから待降節の4週間、私たちは神でありながら人として、私たちの間に来られた救い主イエスのご誕生を記念し、また終わりの日に再び来られる再臨のイエスを記念してクリスマスを迎えます。今年の始まりから間もないような気がしますが、もう一年が終わりそうな時になっています。私たちと共におられるイエスは、今年も私たちを平安の中で守ってくださいました。イエス·キリストのご降臨と犠牲、愛、御言葉を憶えて、待降節の期間を過ごし、新しい一年を準備していく恵みの12月になることを祈ります。今日は旧約聖書の出エジプト記の言葉を学びますが、偶然にも待降節とよく合う本文ですので、感謝です。神が私たちにお遣わしくださった救いの小羊イエス·キリストの愛と犠牲とを、今日の本文を通じて考えてみる機会になることを祈ります。 1. 最後の災いはなぜ死だったのか? 出エジプト記に出てくる十の災いの最後の裁きは、エジプトの地のすべての初子が滅ぼされる死の災いでした。以前、九の災いが繰り広げられたにもかかわらず、最後まで悔い改めず、神に逆らい続けていたファラオへの神の最後の裁きは、結局死だったのです。死は古今東西を問わず恐ろしい存在です。この世の誰も、死という存在から、絶対に自由ではありません。聖書も死についてこう語っています。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ9:27) この世のどんな価値でも死の前では、その光を失ってしまいます。なぜなら、死はすべてを奪い取り、終わらせる、底なしの闇のようなものだからです。この世には恐ろしいことがたくさんあります。老化、病気、事故など、人間はそれらを恐れています。しかし、それらすべての恐怖の根源は、老化、病気、事故といった事柄の裏に隠れている死という一つの存在のためではないでしょうか。死が恐ろしい理由は、それが終わりだという人間の本能的な感覚があるからではないかと思います。存在の意味がなくなること、存在の価値が消えてしまうこと。それがまさに死の権能だからです。だから、主も死を十の災いの最後の災いとしておかれたかもしれません。最も悲惨で虚しいものが死にあるからです。最後の災いが持つ意味は、その死の圧倒的な権能の前で、人間は誰も自由ではないということを強調するものではなかったでしょうか。 2.死を乗り越える唯一の対策。 ところで、今日の本文では、そのような死の裁きのもとでも、ご自分の民に死を乗り越える希望を与えてくださる神の恵みが描かれます。「その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。」(出エジプト記12:12-13)今日の本文の夜、神はエジプトのすべての初子に死の裁きを下されましたが、その対象はエジプト人だけでなく、エジプト国内にあるすべての生命を持つ存在でした。つまり、イスラエル人でさえ、エジプトにいるなら、神の裁きの対象であったということです。しかし、主はイスラエルにはその死の裁きを免れる一つの対策を与えてくださいましたが、それは過越祭の小羊の血でした。「その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。用意するのは羊でも山羊でもよい。それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。」(出エジプト記12:5-7) 神は傷のない雄の小羊や小山羊を屠って、その血で家の入り口の二本の柱と鴨居に塗ることを命じられました。 過越祭という言葉の意味は「死が通り過ぎる日」です。エジプトにあるすべての初子がエジプトの罪によって神の呪いの下に死に滅ぼされなければならない悲惨な状況だったにもかかわらず、神はその死によって滅ぼされることなく、神のお助けによって生き残る対策をこの過越祭を通して見せてくださったのです。それは神に定められた小羊の血を家の入口に塗ることでした。神の怒りによる死の裁きを神ご自身が特定してくださった小羊の血を塗ることで避けることが出来る、神の恵みだったのです。審判する存在が審判される存在に審判を免れる唯一の対策を教えてくれたわけです。それがまさに過越祭の小羊の血が持つ特別な効果でした。そして、私たちはこの過越祭の小羊の血という旧約の概念から、罪を赦し、救いをくださる十字架のキリストの血という概念を見つけることが出来ます。つまり、死の呪いの中で、神はご自分の民たちに生命の希望を見せてくださったということです。神がお定めくださった小羊の血の痕跡があるところなら、そこは神の死の呪いが過ぎ去り、死を乗り越える恵みが許されます。これが過越祭を通して、私たちに与えられた神の救いの対策、過越祭の小羊の血の意味なのです。 3.過越祭の小羊、イエス·キリスト 私たちが信じるイエス·キリストの御救いは、この出エジプト記の過越祭の小羊の血と深くかかわっています。聖書の教えによると、世の中のすべての人間は自分の罪のため、最後には死ぬしかない悲惨な存在です。ここで言う死とは単純に肉体の命が終わるという意味を越えて、神からその存在を認められず、永遠に見捨てられることを意味します。しかし、神がお与えくださった、新約時代の過越祭の小羊、イエス·キリストの救いのもとにいるならば、人間は罪赦され、神の救いを受け、認められ、永遠の死から解放されるようになるのです。したがって、キリストの救いの血潮は、神と罪人を仲良くさせる和解の贈り物であり、神と罪人をつながせる関係の祝福です。 出エジプト記で過越祭の小羊の血がイスラエルの民を死の裁きから救う神と罪人の接点になったとすれば、今、私たちが生きている新約の時代には、まるで過越祭の小羊のようにご自分を犠牲にして罪人たちを救ってくださったイエス•キリストの血が神と罪人をつなげる接点になります。イエス・キリストが十字架で罪人のために死んでいかれた理由は、この新しい時代の過越祭の小羊としてご自分の生命(血)を贖いのいけにえにしてくださるためでした。世のすべての存在は、神に逆らう、悪の世のもとで結局永遠の死を避けず、人生を終えてしまうでしょう。しかし、キリストの血潮の権能と恵みを信じる者たちは、神から生命をいただき、肉体は死んでも終わりの日にキリストにあって復活し、永遠の生命を持って主と生きていくことになるでしょう。イエスがこの世に来られた理由も、そのような真の救いを罪人たちに与えてくださるためです。今日の過越祭の小羊の本文を通じて、キリストがこの時代の過越祭の小羊であり、その方の血潮によって、私たちが救われたこと憶え、生きていくことを願います。 キリストが私たちの救いになってくださり、私たちに死を避ける一本道を開いてくださったからです。 締め括り アドベントの期間が始まりました。クリスマスまでの何週間、私たちはキリストのご誕生を記念するでしょう。私たちはキリストが神の過越祭の小羊になり、ご自分の民を死の呪いから救い出してくださるために来られたことを憶え、それを最も大事に記念しなければなりません。キリストがおられる限り、私たちは神の呪いである死に吞み込まれず、死を乗り越えて、神の真の命へ入ることになるでしょう。キリストの血潮は呪いを祝福に替える恵みのお贈り物です。そのお贈り物のために、イエス・キリストはわたしたちのところに来られたのです。その方に感謝して過ごすアドベントを願います。 父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。