生と死の支配者、キリスト。

列王記上17章17-24節(旧562頁)        マルコによる福音書5章35-43節(新70頁) 1.「会堂長ヤイロ」 今日の新約本文のヤイロはユダヤ教の会堂長でした。ところで、ヤイロが長として働いていた会堂とはどんな場所でしょうか? その由来を知るためには、旧約の歴史を探ってみる必要があります。旧約のイスラエルがバビロン帝国に滅ぼされた時、ソロモン王が建てた最初のエルサレム神殿は無残に破壊されました。イエスの時代のエルサレム神殿は、捕囚から解き放たれたイスラエルの民が建てた第2の神殿で、改築されたものでした。会堂は最初の神殿が破壊された後、無くなったエルサレム神殿に代わる場所として作られ、ユダヤ人の共同体を代表する建物でした。この会堂はイエスの時代に約300ヵ所が存在していたと言われていますが、ユダヤ人は会堂が神殿のように主のご臨在の場所だと信じていたそうです。そこではモーセ五書に関する研究、説教、教育などが行われ、時には民法、刑法、宗教法などを取り扱うこともあったと言われています。つまり、この会堂は宗教と社会をまとめるユダヤ社会の中心とされていたわけです。そして、ヤイロは、この会堂を指導する偉い身分の会堂長だったのです。私たちは今日の本文でイエスの御前に力なくひれ伏しているヤイロを見て、会堂長が持つ存在の重さを見落しがちかもしれませんが、当時の会堂長は相当な宗教的、社会的な権威を持っている者でした。 「会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。私の幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」(5:22-23)そんな会堂長ヤイロが働きを始めたばかりのイエスという若者にひれ伏したということは、自分のプライドを捨て去る、大きな勇気を伴う行為でした。ユダヤ教の指導者が、当時のユダヤ教において異端児のように見なされていたイエスに頭を下げるということは、会堂長の職を諦めようとするほどの覚悟があったからでしょう。ここまで自分のことを屈服させたヤイロは、イエスがすぐに自分の家に駆けつけて娘を治してくれると期待していたはずです。しかし、イエスは赴く途中、前回の説教の出血病の女に出会い、時間を使いました。一刻を争う状況でしたが、イエスには余裕があるように見えました。おそらく、ヤイロは、焦りと不安で辛かったことでしょう。その時、遠くから何人かの人々が駆けて来ました。「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」(5:35)彼らは、ヤイロの娘が、結局亡くなったという訃報を持って来た者らでした。イエスが到着する前に、ヤイロの娘は息を引き取ってしまったのです。 2.「信仰とは待ち望むこと」 しかし、主は依然としてお急ぎになりませんでした。「イエスはその話をそばで聞いて、恐れることはない。ただ信じなさいと会堂長に言われた。」イエスはヤイロに二つのことを求められました。それは「恐れるな。」と「ただ信じなさい。」でした。ここで、私たちはその前の表現にもっと目を注ぐべきだと思います。「イエスはその話をそばで聞いて。」この表現は「じっと聞いている。」というよりは、「それを聞いて気にしなかった。」というニュアンスで解釈したほうが、より正しいと思います。イエスは、「人々が何と言っても、あなたはそれに心を奪われるな。恐れずに、ただ私を信じなさい。」と求められたわけです。私たちの人生の中で自分の心を奪う自我からの声、社会からの声、この世からの声が、如何に多いことでしょうか。「私の知る限り、これは違うだろう。」「ニュースではそれは違うと言っただろう。」「この日本ではそうなるわけがないだろう。」など、数多くの声があります。しかし、主はそのすべての他の声を気にせず、ただ主のお声だけを聞くことを望んでおられます。私たちの信仰は、私たちの状況によって揺れるものになってはいけません。どんな状況であっても揺れることなく、ただ主の約束、御言葉だけを信じる信仰にならなければなりません。これを通して、キリスト者が追求すべき信仰の特徴が分かります。 我々の信仰を、真の信仰にする原動力は、イエス・キリストの存在そのものにあります。いつも揺れ動いてしまう私の「信じる。」という感情が、私の信仰を定めるわけではなく、私に信仰をくださり、その信仰を守り、保たせてくださる、移り変わりのない主イエスだけが私たちの信仰をお定めくださる方なのです。こんなイエスの御前で、「娘は死んだ。もう諦めよう。」という人々の声には、何の意味もありませんでした。イエスがヤイロの家に行かれることを、すでにお決めになり、その決定には「必ず、君の娘を治してあげる。」という主の約束が含まれていたからです。ヤイロに信仰と約束をくださった主は、ご自身が与えてくださった、その信仰と約束に答えくださるために、必ずヤイロの娘を生かしてくださるでしょう。大事なことは主の御心とご意志です。主の御心とご意志がある限り、必ず成し遂げられると信じるのが、真の信仰なのです。ですから信仰には待ち望むことが必要です。約束を必ず成し遂げてくださる主への待ち望みが必要なのです。神は高い確率で私たちが願っている時ではなく、神のお定めになった時に応えてくださる場合が多いです。ヤイロはその主の時を待ち望みました。切迫していましたが、出血病の女と共におられる主を待ち望んでおり、すでに娘の訃報を聞いたにも拘わらず、変わらず主を待ち望んでいました。主が死んだ娘のところに着かれるまで、彼は主を待ち望み続けていました。静かに主の時を待ち望むこと、それが、まさにヤイロの真の信仰の現れだったのです。 3.生と死を支配なさるイエス。 「一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。人々はイエスをあざ笑った。」(5:38-40)主がヤイロに堂々と「恐れることはない。ただ信じなさい。」と言われた理由は、主の御目に少女の死は死ではなく、ひと眠りから起き上がるための過程に過ぎなかったからです。ヤイロに娘を治してやると約束なさった主イエスにとって、娘の死は、間もなく目覚めるに決まっているひと眠りに過ぎませんでした。先駆けて、主はヤイロに信仰を与えてくださいました。そして娘の救いを約束してくださいました。待ち望みつつ主の約束を信じていたヤイロの信仰を通して、主は「君の娘は死んだのではなく、ただ寝ている。」という、この世の観点とは全く違う、新しい観点で世を見通す目を与えてくださいました。つまり、キリスト者に信仰が与えられたということは、この世を見直せる、新しい目が開かれたという意味なのです。ですから、私の自我からの声、社会からの声、この世からの声は何の力も持つことが出来ないのです。ただ主の約束の御言葉と主の約束を信じる我々の信仰があるだけです。人々は少女が寝ていると言われた主をあざ笑いましたが、主は彼女の手を取って実際に起き上がらせてくださいました。「タリタクム、少女よ、起きなさい。」ヤイロの信仰に応えてくださった主のご宣言によって、愛する娘の死という恐怖は、本当にひと眠りのようなものに変わってしまいました。 「タリタ、クム」という主のご宣言の中で、この世を虜にしていた死の権勢は、単なるひと眠りのように弱まってしまいました。 私たちがキリストの復活を信じ、そして、私たちもキリストのように終わりの日に新たなる存在として復活することを信じる理由は、このように主が死の権勢を弱めてくださったからです。主イエスはすべてを死に追いやる、ガリラヤ湖の嵐を静められました。ゲラサ人の地方で出会った悪霊に取り付かれていた者から、汚れた霊を追い払われました。12年間も出血病で苦しんでいた不浄な女を清めてくださいました。そして、今日の本文を通しては、既に死んでしまった少女を起き上がらせてくださいました。このすべての奇跡は、この世を支配していた邪悪な死の権勢へのキリストの勝利を意味します。主はすでに勝利を持って、この世に来られました。ですから、主はご自分を信じる者たちに信仰をお求めになるのです。「私はすでに勝利を持ってきた。私の勝利を受け入れるか否かは、あなたたちの信仰次第である。」主は聖書の御言葉を通して、私たちに、このように勝利なさった主への信仰を求めておられるのです。 私たちはすでに勝利を持ってこられ、主ご自身への信仰を求めておられる、キリストの御前にどのような生き方で生きるべきでしょうか? 締め括り 今日の旧約本文の言葉はアハブという悪い王が治めていたイスラエルの暗黒時代、神の預言者であったエリヤが、ある少年を蘇らせた話で、今日の新約の本文に非常に似ています。エリヤがある寡婦の息子を死から生き返らせた時、寡婦はエリヤに向かってこのように叫びました。「今私は分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」今日の新約本文は、おそらく、このような旧約のエリヤの物語と、ある程度、関りがあると思います。私たちは今日の旧約と新約の物語を通して、少女を生き返らせた主イエスが神から遣わされた方であり、その方を通して私たちに与えられる御言葉が、真実な神の御言葉であることが分かります。このように主は死を退け、生命をもたらす真の勝利者であり、その民に信仰をお求めになる信仰の主であります。私たちの生が、主による信仰に基づいた生であることを望みます。今日も主が私たちの間におられ、私たちの信仰の中で働いておられることを信じつつ生きることを願います。聖と死を支配される主、本当の勝利者イエスは、今日も我らの信仰を求めておられます。

ヤーウェ・イルエ(主が備えてくださる。)

創世記22章1-19節(旧31頁) ヨハネの手紙一4章9-10節(新445頁) 前置き 世の中で一番偉大な愛とは何でしょうか。神が人類を愛する無条件的な愛、いわゆるアガペーの愛を除いて、最も崇高で偉大な愛は断然子供に向けた親の愛、ステルゴではないかと思います。(ギリシャ語、ステルゴは献身。家族、親、子、君主への愛)恋人への愛を意味するエロスは、最初は燃え上がりますが時間が経つにつれて冷めていき(夫婦の愛はエロスから始まってステルゴになる)友達や恩師への愛、つまりフィレオは愛の感情というより、友情あるいは尊敬、尊重に近いでしょう。しかし、子供への親の愛、つまりステルゴは子供のために喜んで命を懸ける、献身的な愛なのです。もしかしたら親の愛ステルゴは人間の愛の中で、神の愛であるアガペーに最も似ている愛なのかも知れません。いつか、こんな話を読んだことがあります。朝鮮戦争の時、南下してくる北朝鮮軍が撃った砲弾のかけらに当たった、ある若い母親が、自らは死に行きながらも子どもを生かすために乳を飲ませ、母親の犠牲によって生き残った子どもが米軍によって救助され、養子縁組されたという話です。実に涙ぐましい母の愛の物語です。このような物語は、どの文化圏にでもあり、人々に親の愛を悟らせます。それだけに親の愛は何よりも偉大な愛であり、民族と文化と国家を貫く真の愛なのでしょう。 1.アブラハムに与えられた試練。 母の日、父の日でもないのに、冒頭から親の愛を取り上げた理由は、今日の本文に世の中で何よりも大切な息子を生贄にしなさいと、ご命令なさる神と、それに応ずるアブラハムの物語が登場するからです。アブラハムは前の21章で、愛する息子であるイシュマエルを捨てなければなりませんでした。「このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。」(21:11)たとえ、本妻サラの圧力と神のご命令の故にイシュマエルを行かせてしまったとしても、父アブラハムはイシュマエルも愛していたはずでしょう。しかし、アブラハムは神の御言葉に聞き従い、薄情にも息子を去らせてしまいました。おそらくアブラハムは、イシュマエルを捨てたことに罪悪感と苦しみを覚えたことでしょう。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。私が命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」(22:2)ところで、神は今度は100歳で儲けた最も大切な息子であるイサクさえ、焼き尽くす献げ物としてささげなさいと命じられたわけです。長男を去らせ、また残った次男さえも、お求めになる神。アブラハムも一人の父親として、親の愛、即ちステルゴの愛を持っていたはずです。にも拘わらず、主はアブラハムに、その最も可愛い息子を自分の手で殺し、その肉体を切り裂いて、祭壇で焼き尽くせという恐ろしい命令を下されたのです。 もし、私がアブラハムでしたら、何日も思い煩っていたことでしょう。神に「代わりに私を死なせてください。」と乞い願ったかも知れません。しかし、神の御命令をいただいたアブラハムは、一言もなく神の御言葉に従いました。「次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。」(3)神学校に入学する前、ただ文字の上でだけ聖書を読んだ時の私は、到底、このアブラハムを理解することが出来ませんでした。いくら神の聖なる試練であるからと言っても、子どもを殺す仕打ちは、親として許せないと思ったからです。「三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えた。」(4)しかし、教師になって本文を研究する際に、アブラハムの苦しみと悲しみの感情に気付くことになりました。ある解説書によると、4節の「目を凝らすと。(直訳.目を上げて眺めると)」という表現には、聖書には記されていないアブラハムの苦悩が含まれているそうです。何気なく見えたアブラハムにとっても、息子の犠牲は、心が裂けるほどの痛みだったのです。しかし、アブラハムは、これまで自分の人生を正しく導いてくださった神が、この先もきっと正しく導いてくださると信じ込んでいたでしょう。しかし、それにもかかわらず、その神の本当の御心を知るためには、いちおう息子を神に捧げる、人間としては耐えられない試練を経験しなければなりませんでした。これはアブラハムの一生の試練だったのです。 2. 神への徹底した信頼が無ければ認められない。 一時、私はこの本文に対して、自分のすべてを捧げて、信仰を貫かなければ神に祝福されないという風に説教したりしました。ですが、今では登場人物の感情を無視しすぎたのではないかと反省しています。もし、聖書の登場人物ではなく、私の隣人に、このようなことが起こったら、私は気軽に「神を信じて家族を捧げましょう。神が祝福してくださるでしょう。」と言えるでしょうか?なぜ、神はこんなに無理やりにアブラハムに求められたのでしょうか? また、アブラハムは、なぜ無理やりな命令に従順に従ったのでしょうか。「イサクは言った。火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。アブラハムは答えた。私の子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。二人は一緒に歩いて行った。」(7-8)アブラハムは、神の約束を信じ込んでいました。「あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサクと名付けなさい。私は彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。」(17:19)神は、確かにイサクという、たった一人の息子を通して、契約を立て、民族を立ち上がらせてくださると、固く約束なさったのです。過ぐる数十年の間、神はアブラハムとの約束を覚えておられ、固く守ってくださいました。アブラハムは、長年、その約束の神を経験してきたのです。神へのアブラハムの信頼は絶対的なものだったのです。 新約のヘブライ人への手紙は、今日の場面をこう説明しています。「アブラハムは、試練を受けた時、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれると言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもお出来になると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。」(ヘブライ11:17-19)ヘブライ書の記録者はアブラハムが、「もし神がイサクをお受けになっても、既に結んでくださったアブラハムとの約束を守ってくださるために、イサクを死者の中から蘇らせてくださる。」と信じていたと証しています。その分、アブラハムは現在の目の前の状況より、神の御言葉にもっと重きを置いて、最後まで約束の神を信じ込んでいたわけです。「アブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。その時、天から主の御使いが、アブラハム、アブラハムと呼びかけた。彼が、はいと答えると、御使いは言った。その子に手を下すな。何もしてはならない。」(10-12) 神の御言葉への限りのない信仰、そして、もし、そうでなくても、神がそれに相当する他の方法で必ず約束を守ってくださるという信頼。過去、数十年の間、数多くの失敗と過ちの中で信仰の浮き沈みを経験してきたアブラハムでしたが、今回は成熟した堅い信仰を持って最後まで神を信じ込んだのです。そして、神は彼の堅い信仰をご覧になり、ついに彼の信仰を認めてくださいました。「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。」いよいよ彼は神に信仰の父と認められるようになったのです。 3.ヤーウェ・イルエ、主が備えてくださる。 そもそも神は人身御供、つまり人を生け贄にお受けになる方ではありません。旧約聖書のあちこちで、神は異邦人が神々に自分の息子を捧げる人身御供を禁じられました。つまり、神は異邦人のように人の命を軽んじる方ではないということです。神は当初からイサクを供え物にさせようと思っておられなかったのです。神はあくまでもアブラハムの信仰をお試しになるために息子を捧げるようにと言われたわけです。アブラハムが息子を捧げようとした時、神の御使いは、それを阻んで神へのアブラハムの絶対的な信仰を確かめました。これは過去、数十年間のアブラハムの信仰が、本物か偽物かを究め尽くす最終段階のテストだったのです。時々、神はご自分の民に試練をお許しになります。しかし、その試練は民を苦しめるための試練ではありません。より一層豊かな神のご恩寵に導くための、神の恵みの手立てなのです。過去の試練は厳しかったが、後々顧みると、その試練があって良かったと思われる場合が少なからずあるでしょう。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(コリント第一10:13) 実際に神は、この試験の後、より多くの祝福をくださり、イサクの将来を明るく輝かしてくださいました。我々は人生の試練に遭う時、神の祝福が目の前に来ていることに気づくべきです。もちろん試練が大変であることは当然のことです。それでも神への信仰だけは失わず、必ず報いてくださる神を信じていきたいと思います。 「アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行って、その雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。」(13)むしろ、神はこの出来事を通して、まるで鏡のように主の御業をお示しくださいました。数多くのキリスト教の聖書の解釈者たちは、今日の本文を通じて、神が御自身で成し遂げられる偉大な御業を予告してくださったと告白しています。アブラハムがイサクを捧げたように、御父は御子を生け贄にされたからです。神はアブラハムとイサクのために茂みに角をとられた雄羊を送ってくださいました。アブラハムはイサクの代わりに、その雄羊を捧げ、2人は無事に帰ることが出来ました。キリスト教の解釈者たちは、旧約のこの雄羊が、自分の民の身代わりに死んでくださる新約のキリストのモデルであると信じていました。主なる神は常にご自分の民を導き、民の道を開いてくださる方です。主は異邦の神々のように民を虐げる方ではありません。むしろ、主が先に苦しみと悲しみをお受けになり、後についてくる民を安全に守り、導いてくださる愛の神です。イエス・キリストは罪の故に裁かれなければならない、罪人のために神が御自身で備えてくださった贖いの生け贄です。アブラハムは息子を捧げようとする信仰を見せただけですが、神は実際に独り子イエスを犠牲になさり、ご自分の民への真実な愛を確証してくださいました。 締め括り 「アブラハムは、その場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも、主の山に備えありと言っている。」(14)今日、アブラハムが祭壇を築いたモリヤの地の語源は「ラアー」ですが、その言葉には「備える。」という意味があります。そして、この「ラアー」は今日の説教の題に出てくる「イルエ」の語源でもあります。同じ語源を持つモリヤとイルエ。これは偶然の一致なのでしょうか? 主は初めからイサクを生かす御計画だったのです。その代わり、主は遠い後日、ご自分の独り子を犠牲にして、民の犠牲ではなく、ご自分の犠牲によって彼らを赦し救ってくださいました。三位一体のお一人の御子が死ぬということは、絶対に有り得ないことでしたが、父なる神は、それをなさったのです。三位一体において、それは大きな苦しみでした。私はその神の痛みについて、よくこう説明したりしました。「御父が民のために御子を死に追い込んでくださったことは、人が自分の胸を切り裂いて心臓を取り出すことでも比べ物にならないほど、極限の苦しみである。」それだけに主なる神は民を愛しておられる方なのです。主はご自分の民のために、まるで心臓のように大事な息子を進んでお捨てになったわけです。そして復活させることによって、御子を信じるすべての者に、真の赦しと和解を与えてくださいました。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。私たちの罪を償う生け贄として、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネ第一4:9-10)神の愛には限りがありません。そのような神が与えてくださる試練は、私たちの信仰を養うための、もう一つの愛の表現なのです。試練を恐れず、常に私たちを愛し、共に歩んでくださる神への信仰と愛を持って生きることを願います。

あなたの信仰があなたを救った。

出エジプト記29章38-46節(旧143頁)         マルコによる福音書5章21-34節(新70頁) 前置き 前回の説教でイエスは、湖の向こう岸の異邦の地であるゲラサ人の地方に足を運ばれ、汚れた霊に取りつかれた人を治してくださいました。これはイエスが御自分の本来の民であるイスラエルだけでなく、異邦人までもご自分の民として受け入れてくださる宣教の出来事でした。ここで汚れた霊に取りつかれたという意味は、一個人が精神的に狂ったということを超えて、神に対抗する悪の権勢に支配される世の中と社会の不条理を意味する、社会的な意味をも持っていました。主は、ゲラサ人の地方で、そのような悪の権勢に苦しめられている人をお治しになることで、キリストの癒しと教えと宣教が、この地方でも始まったということを教えてくださったのです。「その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。」(20)ところで、主は悪霊に取りつかれていた人を治してくださった後、これ以上デカポリス地域には行かれず、またガリラヤに戻っていかれました。その代わりに主は、ご自分が治された悪霊に取り付かれていた人をデカポリス地域に遣わされました。主に治していただいた、その人は元々イエスと同行しようと思いましたが、主はむしろ彼を地元にお遣わしくださることで、主の御業を宣べ伝えさせられました。すなわち、主は彼を宣教師として派遣してくださったのです。この地上に宣教師として来られたイエスは、主の民を呼び出し、癒してくださり、教えてくださることで、彼らを再び宣教師として行かせる方です。このように宣教は神から始まり、その民、すなわち教会を通して行われるものなのです。 1.会堂長のヤイロと出血病の女性 「イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。」イエスがまた、向こう岸にお渡りになると、大勢の群衆が主のところに集まってきました。その時、一人の男が主を訪ねてきました。「会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。私の幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」(22-23)ヤイロという人は当時のユダヤ人の中でも宗教的な権威を持っている、いわゆる「偉い方」でした。彼は会堂長で、その村の宗教指導者だったのです。そしてある意味でイエスを最も警戒する反対側の一人でした。そんなヤイロが危篤な娘のために、警戒すべきイエスの御前に出てきて、高いプライドを捨て、ひれ伏したわけです。彼が大事にしたのは、自分の自尊心より死んでいく娘が救われることでした。23節の「助かり」という表現にはギリシャ語「ソーテーイ 」つまり、「救い」の意味が含まれています。彼にとって「救い」とは、死んでいく娘が全快することでした。彼は会堂長という自分の地位も、ユダヤ教という宗教も、いかなる医学も、娘を治せないことに気付き、最後にイエスを訪ねたのです。そして主は快く彼の家に足を運ばれました。 ところで、今日の本文は25節で突然、会堂長のヤイロの物語から12年間も出血の止まらない女(以下、出血病の女)へ眼差しを移します。ヤイロの娘は死にそうな状態で、すぐさま駆けつけねばならず忙しいところに、なぜ本文は、いきなり他の人に関心を注ぎ始めるのでしょうか。初め説教が長くなるかと思って、ヤイロと出血病の女の物語を2回に分けてお話しする予定でしたが、実はこの会堂長ヤイロと出血病の女の物語は、ひとつの話なのです。(21-43)ハンバーガーを食べる時、2枚のパンの間に具材を差し入れて食べることと同じように、この物語は2つに分けられているヤイロの物語の間に出血病の女の物語が挟まれている様です。まず、ヤイロが娘のために主と出会い、主が娘のところに赴く途中、出血病の女に出会って治され、また、主が、すでに死んでしまったヤイロの娘を生き返らせるという仕組みなのです。ハンバーガーを具材別にではなく、一口で一緒に食べることと同じように、この物語も、ひとつの話として受け止めるべきなのです。本文は会堂長ヤイロと出血病の女という二人の信仰を通して、主イエスの御業を示すために、このようなハンバーガーのような仕組みで話を展開しているのです。それでは今日は出血病の女の信仰について話してみましょう。 2.命をかけてイエスを求めた出血病の女。 本日、登場する出血病の女は、当時イスラエル社会において極めて不正な存在とされていました。そもそも旧約律法で女は不正な存在と考えられていましたが、その理由は女性が子供を産む存在だったからです。これを聞くと「出産は生命を生む神聖な行為なのに、なぜ不正に扱われるだろうか?」と疑問が生じるかもしれません。「神は女に向かって言われた。お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。」(創世記3:16)なぜなら、古代イスラエルでは、出産の苦しみが人間の罪に対する神の呪いであるという間違った信念があったからです。出産時の出血、生理、女性の出血なども、それと同じ脈絡で理解できるでしょう。そのため、女と出血は律法において不正なものの一つでした。現代にも女性差別がありますが、イスラエルの律法までもが女性を悲しませていたわけです。また、律法は病気も不正なものだと見なしていました。今日、登場する出血病の女が極めて不正とされた理由は「女、出血、病気」といった3つをすべて持っている存在だったからです。「さて、ここに十二年間も出血病の女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」(25-26)しかし、当時の社会は、彼女の癒しのために何も出来ない状態でした。彼女は12年間、辱めと苦しみの中に生きてきましたが、快方に向かうことなく、さらに悪化し、かえって世間は非難で苦しめるばかりでした。そんなある日、彼女にイエスという方の噂が聞こえてきました。 哀れな出血病の女、人々は彼女と服が擦れることさえ不正だと思っていました。そういうわけで彼女は出かけることも出来ませんでした。不正な女が町を歩き回る途中に発覚したら、石に打たれて死ぬのは決まっていることでした。しかし、イエスという存在の噂は彼女が家の中にじっとしているのを許しませんでした。彼女はイエスに会うために出かけようと決心しました。それは命懸けの挑戦であり、険しい冒険でした。しかし、彼女はひたすらイエスを最後の希望にしていました。それはまさに彼女の信仰の表れでした。「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。」(27)彼女は死も気にせず、群衆の中に紛れ込んでいきました。発覚した瞬間、無惨に殺されるはずでした。しかし、結局、彼女は群衆の中からイエスの服に触れることになりました。「この方の服にでも触れればいやしていただけると思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。」(28-29)彼女はイエスだけは自分を清くすることがお出来になると信じており、その信仰通りに命をかけてイエスの方へ進みました。そして、イエスの服に触れた時、彼女は自分の信仰どおりに12年間の病気から救われることになりました。「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、私の服に触れたのはだれかと言われた。」(30)その時、主は彼女が信仰を持って御自身のところに出てきて、また、その信仰によって治ったことをお知りになりました。 3.清めてくださる主イエスと出血病の女の信仰。 今日の本文が、ヤイロの家へ赴く途中、意図的に出血病の女性に目を注いだ理由は、当時の医師も、宗教も、社会も、治せなかった、この哀れな女を主イエスだけは治せるということを教えるためでした。旧約の律法には一つの法則があります。それは「清いものが不正なものに触れると不正になる。」ということです。イスラエル社会で不正な存在とされ、嫌われた、この女は人々の認識の中で、すべてを汚す、極めて忌まわしい存在でした。誰も彼女を清めることが出来ず、彼女を憎み、遠ざけるだけでした。しかし、イスラエルの中に彼女を清める、たった一つのものがありましたが、それは神殿の聖なる祭壇でした。「祭壇に触れるものはすべて、聖なるものとなる。私はその所でイスラエルの人々に会う。そこは、私の栄光によって聖別される。」(出29:37、43)私たちは旧約の律法を読む際に、聖と俗を分けて差別を煽っていると感じられるかも知れません。しかし、神は明らかに御自身からの祭壇を通して不正なものを聖なるものにする手立てをくださいました。律法では死んだ獣の肉が不正なものと記されていますが、なぜ、神に捧げる生け贄の肉は聖なるものと見なすのでしょうか?律法によると遺体はすべて不正なものではないでしょうか?色々解釈があるでしょうが、私は、肉そのものが聖なるものではなく、聖なる神の栄光によって祭壇が神聖になり、その祭壇を通して捧げる肉も主の栄光によって聖なるものに変わるためではないかと思います。 しかし、残念なことに、当時の不条理なイスラエル社会では、出血の故に嫌われ、迫害される彼女を祭壇まで連れて行く憐みも愛もありませんでした。ただ差別し、憎み、排除するだけでした。その時、真の神、祭壇を聖別される方、ご自分の民のために自らを犠牲になさる主イエスが、彼女の前に現われたのです。そして、彼女の信仰通りに、イエス·キリストは不正な女に服を触れられたにも関わらず、むしろ彼女を清く治してくださいました。社会は彼女を祭壇に連れても行かなかったのですが、主イエスは彼女の前に、神聖な祭壇より、もっと神聖な御自身を現わし、直接会ってくださったのです。「イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」(32~34)12年間、不正な存在とされ、隠れて過ごさざるを得なかった女性、彼女は「イエスだけが、自分の不正を清めてくださる。」という信仰を持って、命を懸けて主の服に触れ、 その信仰通りに清められました。世のすべての人々は彼女を汚い女性と評価しましたが、主は彼女を神の娘と認めてくださったわけです。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。」彼女を娘と呼ばれた主の宣言の中には、彼女の信仰に応えられる神の救いがありました。 締め括り。あなたの信仰があなたを救った。 聖書は、常に神への信仰を求めています。「あなたが信じた通りになる。」という言葉で、私たちの信仰を促しているのです。しかし、私たちの信仰とは、私の情熱と努力を意味するものではありません。 出血病の女は命をかけて、主を訪ねてくる信仰の行動を見せましたが、彼女の信仰を真の信仰にした原動力は、不正を清める主イエスの存在にありました。したがって、我々の信仰の前提条件はイエス·キリストという存在の完全さから始まるのです。私たちは、そのイエスが完全な方であること、その方だけが私たちを救ってくださることを信じる信仰によって本当の信仰者になるのです。つまり、自分の熱情的な信念によるのではなく、キリストの存在によって認められるのです。自分が罪人だと思われますか。自分はどうしようもない情けない者だと思われますか。もし、そうであれば、不正なものを聖なるものにしてくださる、主イエスに手を触れてください。その方だけは、自分を清められる方であるという信仰を持って、主の御前に進んでください。主は「娘よ、息子よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と宣言なさるでしょう。今日、出血病の女が救われる間に、会堂長ヤイロの娘は死んで、また他の不正な存在になってしまいました。しかし、完全な主イエスは、この後の出来事を通して、死んで不正になった娘を、蘇らせることで清めてくださるでしょう。ただ、主だけが私たちの信仰の対象であり、ただ、その方への信仰だけが、私たちを救いへと導くでしょう。その主の完全さを信じつつ生きる私たちになることを祈り願います。

イサクとイシュマエル

創世記21章9-13節(旧29頁)         ガラテヤの信徒への手紙4章21-31節(新348頁) 前置き 前回の説教では、神の約束通りに成し遂げられた、アブラハムの相続人の誕生についてお話しました。神とアブラハムが初めて出会った時、神は「アブラハムが祝福の源となり、彼を通して生まれる相続人が神の祝福の民になるだろう。」と約束してくださいました。アブラハムは、その約束を信じ、神は彼の信仰をご覧になり、義としてくださいました。それから、アブラハムは25年間、神による相続人の約束の成就を信じ、待ち望んで生きて来ました。その間、アブラハムの不信仰によって様々な紆余曲折がありましたが、それでも神は彼と同道されつつ、彼の信仰を保たせて、アブラハムとの約束を準備して行かれました。そのおかげでアブラハムも主のお導きの下に神への信仰を諦めずに暮すことが出来ました。その結果、神は子供が持てないほどに老いてしまった100歳のアブラハムと90歳の妻サラを通して、真の信仰の子孫であるイサクを与えられました。このように、イサクは神の約束と、その方へのアブラハムの信仰がもたらした神からのお贈り物でした。このすべては、神の語られた約束どおり、その約束された時に、正確に成就されました。 1.イシュマエルがイサクをからかう。 「やがて、子供は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に盛大な祝宴を開いた。」前回の創世記の説教の本文である8節には、イサクの乳離れと、それを祝うためにアブラハムが開いた宴に関する物語が出ていました。アブラハムは、なぜイサクの乳離れを記念して盛大な祝宴を開いたのでしょうか。現代には赤ちゃん向けの粉ミルクなどが、ちゃんと備えられているので、比較的早めに乳離れをする場合が多いと知っています。世界保健機関は、まる2歳までは母乳を勧めていますが、最近は普通1歳になる前に粉ミルクなどに変える場合が多いでしょう。それでは、アブラハムが生きていた紀元前18世紀頃は、どうだったでしょうか。創世記の解説書を参考にすると、学者たちは3~4歳ぐらいに乳離れしたと考えてきたようです。おそらく現代と違って赤ん坊のための食物が豊かでなかったわけでしょう。そのように3~4年が経ち、乳離れすると、家族はそれを祝って宴を開いたことでしょう。たぶん、古代には乳児の生存率が非常に低かった故であると推測されます。古代の資料が無くて、西暦1350年代の中世イギリスの乳児死亡率を確かめてみたところ、生まれて1年足らずで亡くなる赤ん坊の割合、すなわち乳児死亡率が約22%に達していました。(イギリス 2015年 0%)出生後1年の内に10人に2人が亡くなったということです。それからすると、古代の乳児死亡率は1350年より高かったはずで、低くはなかったはずでしょう。 そういうわけで、古代人は赤ん坊が3-4歳まで生き残り、乳離れしたことを良い兆しと考えていたことでしょう。特にイサクの場合は、年寄の親から生まれ、元気に育ち、無事に乳離れまでしたので、めでたいことだったでしょう。でも、家族の中には、そんなに喜ばしくない人もいたようです。「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた。」(9-10)アブラハムの長男イシュマエルがイサクをからかう出来事が起こったからです。なぜイシュマエルはイサクをからかったのでしょうか。ただ、子供たちのいたずらではないかと思いがちですが、たぶん、それよりはイシュマエルの嫉妬によることではなかったのかと思われます。イサクより14歳も年上のイシュマエルは、すでに成人式を終えた年だったはずです。今やっと3-4歳になった弟とは、いたずらをする年ではなかったでしょう。もし弟さえいなかったら、父アブラハムの相続人は自分になるはずだったのに弟が生まれたわけです。そうじゃなくても、本妻の息子イサクは、側女の息子であるイシュマエルにとっては目の上のこぶのような存在だったでしょう。イシュマエルの行為を目撃したサラは憤り、アブラハムにイシュマエルと、その母親ハガルを追い出すことを要求しました。「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、私の子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。」(10)結局、イサクをからかったイシュマエルは母ハガルと共に追い出されてしまいました。 2.肉によって生まれた者と約束の子。 今日の説教では、本妻サラとイサク、側女ハガルとイシュマエルという2つの親子の違いを通して、キリスト教の重要な教理について語ってみたいと思います。それで、かわいそうにも追い出されたハガルとイシュマエルの物語は思い切って省きたいと思います。(創世記21章13-21節参照要望)「このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。神はアブラハムに言われた。あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。(11-12)私たちは今日の出来事を通して、ハガルとイシュマエルを追い出したサラにがっかりするかもしれません。強く妬んでおり、非人道的に見えるからです。しかし、サラの行為は当時の法律に基づく行為でした。当時、カルデアには「リピト·イシュタル」という法典がありましたが、その中には、このような条項がありました。「男性が妻と結婚し、彼女が彼に子供を産み、それらの子供が生きていて、奴隷も彼女の主人のために子供を産んだが、父親が奴隷と彼女の子供たちに自由を与えた場合、奴隷の子供たちは元主人の子供たちと財産を分割してはならない。」また、サラは妬み半分であるかも知れないが、主の御言葉に基づいた主張もしています。「あの女の息子は、私の子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。」 もちろん、サラの肩を持とうとするわけではありません。確かにサラは人間としてしてはならないことをしています。しかし、彼女の主張は当時の法律上問題無いことであり、ある程度、神の御旨にも合致することでした。「あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサクと名付けなさい。私は彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。」(創世記17:19)神は、なぜイシュマエルとハガルが追い出されるように放っておかれたのでしょうか? それは神の約束の相続人は、ひたすらイサクだけだったからです。イシュマエルはアブラハム夫婦が、神との約束を疎かにし、自分たちの独断で女奴隷に産ませた子です。神ははっきりと相続人を約束してくださいましたが、その御言葉を信頼せず、自分たちのやり方で生んだ、いわば約束の外の子でした。その反面、イサクは神の約束によって一方的な恵みで生まれた約束の成就の子だったのです。すでに生殖機能を失った年寄の夫婦に、すべての障害を乗り越えさせてくださった神との約束の子なのです。これについて、今日の新約本文はこのように語っています。「アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。」(ガラテヤ4:22-23)もちろん、イシュマエルとハガルの立場は、とても気の毒だと思います。サラも薄情すぎです。それにもかかわらず、神はひとえにサラから生まれたイサクという約束の子だけを通して、神の約束を成し遂げようとなさったのです。 3.行いと信仰の結果 一見、現代人の感覚からすると、今日の出来事はとても理不尽に感じられます。サラもアブラハムも神さえも、あまりにも薄情に感じられます。イシュマエルとハガルを追い出すことを許された神を見て、「神は本当に愛の神なのか?」という懐疑が感じられるほどです。しかし、今日の本文は人間の倫理道徳のために記録されたものではありません。以後、神がイシュマエルとハガルを見捨てられず、導いてくださり、二人の人生のために確実に責任を負ってくださったことを見落としてはならないでしょう。したがって、今日の本文については、現代的な感覚の倫理道徳にではなく、本文に含まれている教理的な意味に集中して解釈すべきです。今日の本文の教理的な解釈は、新約本文のガラテヤの信徒への手紙4章を通して見ることが出来ます。「私に答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。」(ガラテヤ4:21)ガラテヤとは、現代のトルコ中部内陸地方を意味します。そこには多くの教会があったと言われますが、当時の教会でも、こんにちのように「キリストへの信仰によってのみ救われる。」という教理が通用していました。ところで、いつからか「キリストへの信仰だけじゃ物足りなく律法の行いが加わってからこそ真の救いに至る。」と言う律法主義者たちが教会に入ってきて間違った教理を教え始めました。そのため使徒パウロは、彼らを偽りの教師と呼びつつ、ガラテヤの教会に対して、律法の行いではなく、もっぱらキリストへの信仰によってのみ救われることを力強く教えるために、ガラテヤ信徒への手紙を書いたわけです。 「こうして律法は、私たちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。私たちが信仰によって義とされるためです。」(ガラテヤ3:24)ここで養育係とは、ローマ時代の貴族の子供たちが学校に入るまで養育を担当する家庭教師奴隷のことです。つまり、パウロは「律法とはキリストを紹介する補助にすぎない。」と思っていたわけです。旧約の律法は神が、民たちにくださった生活の指針でした。しかし、それは人間が守りきれないものでした。律法には613の条項がありましたが、もし誰かが612の条項をすべて守っても、一つを守れなかったら、すべてが無駄になるシステムでした。つまり、神は人間が律法をすべて守ることではなく、律法を通して自分の不完全さに気付き、キリストを信じて救いに至ることを望んでおられたのです。なのに、ガラテヤの偽りの教師たちは、この律法の行いで救われると教えていたわけです。パウロはアブラハムとサラが、神の約束を無視し、自分たちの判断でハガルを通してイシュマエルを産ませたことを行いの結果、つまり律法主義に似ていると見なしていました。「約束への信仰ではなく、自分の力でやってみよう。」と思った結果だったということです。以後、生殖機能が尽きた二人が、すべてを諦め、神への信仰だけで生きた時、はじめて神の約束どおりにイサクが生まれたことを信仰の結果だと見なしていました。ひたすらキリストへの信仰によってのみ救われる福音に似ていると考えたわけです。サラがイシュマエルとハガルを追い出したことは本当に気の毒です。しかし、私たちはその出来事を通して、神が人間の行いではなく、ひとえに神の約束と、それに対するアブラハムの信仰によって生まれたイサクだけを真の信仰による結果として認めてくださったことを覚えるべきです。そして、このことを通して、現在の私たちも自分の行いではなく、キリストへの信仰によってのみ、自分に救いがもたらされるということを信じるべきでしょう。 締め括り 「しかし、聖書に何と書いてありますか。女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからであると書いてあります。」(ガラテヤ4:30)イシュマエルはアブラハムとサラの独断のもとで、女奴隷によって生まれた結果です。彼らが神との約束を破り、独断で振舞ったことは行いによって救われるという律法主義と似ています。しかし、行いによる救いは決して神に認められません。しかし、先が見えない真っ暗な時に神だけを信じることでもうけたイサクは信仰の結果でした。ただキリストを信じて救いを得るという信仰による救いと非常に似ています。行いの結果である女奴隷の子は追い出され、信仰の結果である自由な身の女から生まれた子は真の相続人となりました。繰り返しますが、ハガルとイシュマエルの事情は本当に残念です。しかし、彼らのことを憐れむだけでは、到底、今日本文の結論を下すことが出来ません。つまり、今日の本文は結局、教理の側面から見るべきでしょう。律法の行いによって救いを追求すべきか。それとも、キリストへの信仰によって救いを追求すべきか。私たちはイシュマエルの側に立っているのか、イサクの側に立っているのか、考える機会になると幸いです。神の約束への信頼だけが、また、キリストへの信仰だけが、私たちを真の救いへと導きます。その点を改めて考えつつ生きる志免教会になることを願います。

異邦のための宣教。

イザヤ書61章1-4節(旧1162頁)       マルコによる福音書5章1-20節(新69頁) 前置き イエスはマルコ福音書1章で弟子たちをお呼び出しになった後、ガリラヤのカファルナウムという村にて本格的にお働きを始められました。イエスはガリラヤ全域からご自身を訪ねてくる、あらゆる哀れな民を拒絶なさらず、彼らを癒し、教え、宣教してくださいました。身と心をお尽くしになったイエスの御業を通して、ガリラヤの哀れな民は癒しと慰め、そして自由を得、自分たちを変わらず愛してくださる神を発見しました。「先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(イザヤ8:23後‐9:1)旧約のイザヤ書は、このように罪によって神に見捨てられ、辱めを受けるガリラヤ(旧約時代のゼブルンとナフタリ族の地。)の哀れな民たちが、真の栄光を受けるだろうと予言しています。主がエルサレムの指導者やローマの支配者ではなく、このガリラヤ地域に先に臨まれ、貧しい民からお訪ねになった理由は、まさに、このような旧約の予言がイエスによって成就されていることを示してくださるためでした。貧しいガリラヤの民は、まるで異邦人のような扱いと差別の中に生きてきました。しかし、主は彼らに一番先に仕えてくださることで、差別なく人間を愛することを示してくださったのです。そして主のその愛は、本日の言葉を通して本当の異邦にまで広がり始めます。 1.宣教とは何か? まずは宣教について話してみましょう。日本最初のキリスト教宣教師はスペインのカトリック教会の司祭であったフランシスコ·ザビエルでした。彼はこんにちのマレーシアで偶然出会った弥次郎という日本人から日本について聞き、1549年に鹿児島に上陸し、日本での宣教を始めました。その後、戦国時代が終わり、江戸幕府が立つと、日本のカトリック教会は激しい迫害を受けて、ほとんど無くなりましたが、残された者たちはカクレキリシタンという名で、その命脈を保ちました。最初のキリスト教宣教師ザビエルの上陸から約300年後、1858年の日米修好通商条約によって日本は開港し、その翌年からアメリカからの宣教師たちが日本に上陸することになりました。それから日本でのプロテスタント教会の宣教が始まり、今に至っています。カトリックのザビエル、プロテスタントの宣教師たち、彼らは出身地も、所属教派も、時代も異なりましたが、そのすべてを超える共通の教えを持っていました。それは「イエス·キリストは救い主である。」という唯一無二の神の福音でした。ところで、新約聖書はいろいろな箇所で、このような福音を伝える行為を「ケリュソ」というギリシャ語で表現しています。「ケリュソ」には、「王のご命令を公布する。」という意味があり、創り主でいらっしゃる神の厳重なご命令を世に宣べ伝えるという、強力な神の権威を含む表現です。 私は前のマルコ福音説教でイエスが、この地上に来られ、おもに行われた御業が「癒し、教え、宣教」の三つだったと申し上げました。主は神の厳重なご命令に聞き従い、癒しと教えと宣教を通して哀れな民を神に導いてくださいましたが、まさにそれが「ケリュソ(宣教)」だったのです。ここで重要なことは癒しと教えと宣教が、それぞれ別のものではなく、そのすべてが一つになって宣教を成すということです。宣教とは、神の厳重なご命令を宣べ伝える行為です。「イエス・キリストは救い主である。」という創り主、神の最も重要な御言葉を信者の口の言葉と生活での実践を通して、世に宣べ伝える行為なのです。イエスは御言葉だけを宣べ伝えた方ではありません。民の癒しのために眠れず、福音の教えのために食事も忘れ、宣教のために十字架に自らを犠牲になられた方です。主は神のご命令に従い、民の救いを成し遂げられるために身と心とを進んで捧げられた方なのです。そういう意味で、イエスは真の最初の宣教師でした。そして復活されたイエスは、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」(マ28:18-20)という新しい命令を下されることで、「ケリュソ(宣教)」の務めを私たち教会にもお委ねになってくださいました。したがって、我々は自分が宣教師であることを自覚し、隣人に仕え、福音を伝える人生を生きるべきです。ザビエルと明治時代の宣教師たちだけが宣教師ではなく、私たち皆が共通の福音にあずかっている主に遣わされた宣教師であることを忘れてはなりません。 2.悪霊に取り付かれた者を癒されるイエス。 「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。 2イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。」(1-2)ガリラヤでの宣教に一段落つけられたイエスは、湖の向こう岸のゲラサ人の地域に足を運ばれました。主はそこで悪霊に取り付かれたある人に出会われました。マルコ福音書1章でイエスが初めてガリラヤでの御業に取り掛かられた時、主は会堂にいた悪霊に取り付かれた人を一番先に直してくださいました。ところで、湖の向こう岸でも一番先に悪霊に取り付かれた人と出会われたというわけです。これは偶然の一致でしょうか? 「悪霊に取り付かれた。」という表現は、単に「ある人が悪霊の故に狂ってしまった。」という個人的な事項だけの意味ではありません。確かにその人は、実際に悪霊に取り付かれ、苦しんでいたはずでしょう。ですが、マルコ福音書は彼のことを通じて両義的に当時の異常な状況を私たちに教えているのです。イエスが到着された場所が神の正しい統治ではなく、悪霊に表現される邪悪な世の支配の下にあるという、当時の社会的な状況を示しているのです。正義と愛ではなく、不正と憎しみが溢れる病んでいる社会を表現することです。つまり、ガリラヤ全域と国境地域が、このような状況下にあったことを表しているのです。したがって、イエスが悪霊を追い払われたということは、神の統治のない場所に神の統治をもたらす、イエスの霊的な癒しを意味する表現しています。救い主イエスのおいでになる場所では不正がなくなり、膨大な罪の影響が力を失うからです。 「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。イエスが、汚れた霊、この人から出て行けと言われたからである。」(6-8)まるで悪霊に取り付かれたような、この世はイエス・キリストの権能によってのみ癒されるものです。世界を支配している悪は、主の権威の下では、如何なる反抗もできません。私たちはこれをはっきりと認識するべきです。世の巨大な悪に跪くことなく、主がそれより、はるかに大きな方であり、十分にこの世の悪を裁かれる方であることを信じなければなりません。「そこで、イエスが、名は何というのかとお尋ねになると、名はレギオン。大勢だからと言った。」(9) 悪霊に取り付かれた者に付いていた汚れた霊は軍団を意味するレギオンという名の存在でした。当時のローマ軍の一つの軍団が約6000人だったことに照らすと、その人を苦しめていた悪霊が如何に強かったのかが分かります。主イエスは一言でこの悪霊どもを豚の大群に送り込んで裁かれました。ユダヤ教の代表的な不正な獣の一つであった豚に、悪霊が追い出されたことから、この世を支配する悪の勢力の性質がはっきり示されます。このように主は御言葉を持って強力な悪を裁かれ、悪霊に取り付かれた哀れな者を救ってくださることで、異邦への宣教をお始めになりました。 3.疎外される者への主の宣教。 ゲラサ人の地方は当時のイスラエルとデカポリスの国境地域でした。デカとは10、ポリスとは町を意味しており、ローマ以前のギリシャ帝国時代に建てられたイスラエルの東側の10の町のことでした。ゲラサはその一つの町だったそうです。当時のイスラエル民族は徹底した民族主義を唱え、異邦人を否定的に考えていました。ユダヤ人のある記録によると、異邦人は「神に裁かれるべき地獄の焚き物」と思われていたそうです。このように、ゲラサ地域はユダヤ人に嫌がれる所でした。しかし、主はそこを素通りされずお訪ねになったのです。神は最も疎外される所、最も不正な所を決して見落とされる方ではありません。そんな所こそ、主の愛と癒しを最も切実に必要とする所だからです。極東の島国、地の果てにあった日本に、主の御言葉を持ってきたザビエル、厳しい鎖国の江戸時代を経て、何とかキリストの福音を持ってきた宣教師たち、主はご自分の僕たちを通して、この国に福音を届けてくださいました。しかし、相変わらず日本は福音が必要な国です。日本に来た最初宣教師から500年経っています。プロテスタントの伝道開始から160年経っています。ですが、日本の福音率はごくわずかで、悪の支配は相変わらず健在です。しかし、神様は移り変わりなく、この日本という国を愛しておられます。 数日前、コロナに感染したある妊婦が入院できず、自宅出産のあげく、子どもを亡くした事件がありました。数多くの市民たちが病床がなくて自宅で療養中だそうです。朝日、東京新聞などの比較的に進歩的なマスコミによると、政治的関係によって、無理やりにオリンピックを開催し、また、そのための緩いコロナ対策によって、日本の弱い市民たちが苦しんでいると評価していました。また、相次ぐ緊急事態宣言により、多くの自営業者たちが廃業などに苦しんでいるそうです。しかし、政治家たちは自分たちの権力のために、今でも自分たちの安全だけを考えています。これはただ日本だけの問題ではありません。アメリカ、中国、韓国、ヨーロッパなど、全世界がまるで汚れた霊に取り付かれているかのように、権力者に操られ、弱い一般市民が真っ先に苦しんでいます。神の御目は、まさにそこを向いています。彼らと共に歩むこと、彼らのために祈ること、彼らの苦しみを分かち合うこと、それが神が望んでおられる、また違う意味としての宣教ではないでしょうか?このような状況の中での教会の役目は何でしょうか。イエスはこの世を、どう考えておられるでしょうか。世の中の理不尽をじっと眺めると、この世が依然として悪霊に取り付かれていることが分かります。本当の意味での宣教、教会はそのために何をしていくべきでしょうか? 結論 私は主の身体なる教会の外にいる、すべての人が、私たちが仕えるべき異邦だと思います。日本には0.4%のキリスト教系の人口がいると言われています。プロテスタント、カトリック、異端を含めて、その程度だそうです。もしかしたら、この日本の99.9%の人口がイエス様には異邦人に見えるかもしれません。しかし、神は彼らを変わらず愛しておられ、彼らに主の福音を宣べ伝える宣教を望んでおられます。「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由をつながれている人には解放を告知させるために。」(イザヤ61:1)旧約イザヤ書にはメシアの到来時の、その役目について予言されています。メシア主イエスはこのように良い知らせをお伝えになるために真の宣教師として来られました。そして、その役目をご自分の身体なる教会の私たちにも分け与えてくださいました。まるで汚れた霊に取り付かれているかような、この世を眺めながら、我が教会の在り方について思い巡らしていくべきだと思います。主は主の肢である教会を通して宣教をなさいます。私たちは志免教会という共同体の中で、自分だけの救いに満足しているのではないでしょうか? 私たちの助けを求めている隣人のために何が出来るだろうかという悩んでいるでしょうか?確かに私たちは小さな群れで、社会的な影響力も弱いです。しかし、だからこそ、もっと教会の外の異邦の隣人のために祈り、仕え、私たちの在り方について思い悩んでいくべきです。その中に主の宣教が始まるのです。私たち志免教会にそういう正しい悩みがありますように祈ります。

主が約束された通り。

創世記21章1-8節(旧29頁)         ヘブライ人への手紙11章11-12節(新415頁) 前置き カルデアのウル地域を離れ、今のトルコ地域のハランに住んでいたアブラハムに主が現れ、彼を主の民とされてから25年が経ちました。長いといえば長く、短いといえば短い25年という年月の間、神はアブラハムに相続人をくださるという約束、アブラハムとその子孫をご自分の民にされ土地を与えるという約束を通して、彼と一緒にいてくださいました。アブラハムは、何度も挫折と絶望、失敗を経験し続けていましたが、それでも彼は神の約束を覚え、常に主に付き従っていました。アブラハムは、「自分はできないが、主はお出来になる。」という神への信仰を持って、最後まで主、神の約束を待ち望んでいたのです。それで神はアブラハムに不十分さと弱さがあるにもかかわらず、彼の信仰をご覧になり、約束を果たしてくださいました。結局、神の約束通りにアブラハムの相続人イサクが生まれたのです。まさに今日の本文のことです。25年の間成し遂げられないまま、続いてきた約束、相続人を与えるという約束がついに成就されたわけです。 1.主の御言葉のとおりに。 2019年インドで74歳のお婆さんが双子を産んだとのニュースがありました。夫は80代のお爺さんだったそうです。正常な方法ではなく、他人の卵子寄贈を受けて人工授精を行い、帝王切開で出産しましたが、赤ちゃんは無事に生まれたと言われています。現在、彼女は歴史上の最高齢の産婦として記録されているそうです。このように科学が発達した現代でも、70代の女性が子供を産んだら、人々はとても驚きます。ところで、今日の創世記ではアブラハムの妻サラが90歳で子どもを産んだという物語が出てきます。このサラは人工授精でも、帝王切開でもなく自然に子供を産んだのです。しかも今から約3500年前の話です。そのように子供を産んだことについて、今日本文はこのように語っています。「主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、 彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。」(創21:1-2)現代の未信者たちは創世記の話を神話だと思っているかも知れませんが、私たちはこのイサクの誕生を本当の出来事として信じています。 何故なら、神がそうおっしゃったからです。 信仰とは「神の御言葉どおりに成し遂げられると信じること」です。「神が私の思いのままに叶えてくださること」ではなく、「神の御言葉が神の御心のままに必ず成し遂げられること」を信じることが、真の信仰なのです。伝道師時代、私は子供会を担当していました。その時、子供達によくこのように問われました。「神様におもちゃが欲しいと祈っても聞いてくれないの。」それで、私はこう言い返したのです。「神様が本当におもちゃをくださると言われたの?」と聞いたら「いいえ」と照れ笑いして言っていました。もし、私たちが神の御言葉によるのではなく、自分の欲望によって、神を利用しようとするかのように祈ったら、私たちの祈りはまるで子供会の子供たちのおもちゃをせがむ祈りのように決して叶わないことでしょう。私たちは「神の御言葉」に基づいて祈らなければなりません。今日の本文では「主が約束されたとおり、さきに語られたとおり、神が約束されていた時期」という表現が登場しています。これらをヘブライ語風に翻訳すると、「神の御言葉どおりに」という一つの表現になります。神はご自身がおっしゃった御言葉どおりに成し遂げられる方です。そして、その御言葉による約束は、どんなことがあってもお守りになる方なのです。その神の御言葉を信じ込んだアブラハムとサラは、老年になって相続人を儲けることになったのです。 2.サラを顧みてくださった神。 サラはつらい人生を生きた女でした。かつてアブラハムと結婚しましたが、彼女には長年子供がいませんでした。現代は子どもがいないからといって、そんなに問題化するとは思えません。子供の有無よりも、夫婦が仲良く過ごすことが、より大切な時代になっているからです。しかし、アブラハムの時代の女性において、子どもがいないということは、死亡宣告のようなものでした。当時の女性は幼い時は父、結婚してからは夫、夫の死後は息子に頼って暮らすのが一般的でした。神が旧約の律法を通して「孤児と寡婦のために」と何度も言われた理由も頼れる男のいない子供たちや女性たちのための最小限度の社会的な配慮を促されるご命令だったからです。このように子どものいないサラは、生きていても生きた心地がしない状況でした。そんなある日、神が夫のアブラハムから生まれる息子を授けると約束してくださいました。その話を聞いた時、サラは小さな希望を見つけたかも知れません。しかし、神は直ぐにはその約束を果たしてはくださいませんでした。待ちくたびれたサラは自分の女奴隷を夫の側女にしました。相続人が夫から生まれると言われたから、自分の身でなくても構わないと思ったわけです。しかし、その結果、返ってきたのは、側女の反抗と蔑視でした。 それから、10年以上経って神がまた現われて今度はサラ自身を通して子供をくださると約束されました。「わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。」(創17:16)しかし、サラはすでにかなり老いている状態でした。初めて神に出会った時のサラは65歳でした。その時、身ごもっても、産めるかどうかの状態だったのに、25年が過ぎた90歳に神が子供をくださると言われたわけです。サラはそれが信じられませんでした。しかし、しばらくして神は再び主の御使いを送って、確とお知らせになりました。「主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」(創18:14)そして結局、神は今日の御言葉通りにサラとの約束を守ってくださったのです。神の約束は特別な存在にのみ、与えられるものではありません。神はアブラハムだけに主役を与えられたことでもありません。神は年寄、弱者、女性のサラにも、神の御救いの歴史を成し遂げる主人公としての役割を与えてくださいました。確かにアブラハムとサラは完全無欠な信仰者ではありませんでした。創世記には彼らの数多くの失敗が記されています。しかし、神は一方的なご恩寵を通して、不完全な二人を導いてくださいました。弱くて老いた女性、子どもへの希望が見えなかったサラは、最終的に神の一方的な恵みによって神の栄光に満ちた存在として生まれ変わりました。 3.変わらない神の約束と成就。 私たちの信仰は、私たち自身の行いにかかっているものではありません。もちろん、私たちも自分なりの信仰の熱情を持って生きるべきであることは確かです。毎日御言葉に耳を傾け、毎日信仰を持って祈り、毎日主の御旨に頼って待ち望んで生きるべきです。しかし、本当に神が望んでおられることは信徒自身の努力、行為ではなく、神の御言葉、つまり主の約束通りに成し遂げられる神への信徒の信頼と愛なのです。ご自分の民の信頼と愛の中で、神はご自身の御業を、主の御言葉に基づいて完全に成し遂げられ、主が成就なさった、その栄光を民に分け与えてくださるのです。神の約束、すなわちアブラハムとサラを通して相続人を与え、その相続人から生まれたイスラエルの民に土地を与えるという旧約の約束は、キリストを通して神の国を建て、この世を救ってくださるという新約の約束の第一歩なのです。アブラハムにイサクをくださったことは、このアブラハムとイサク、そして彼の息子ヤコブの子孫を通して私たちのところに来られる、救い主イエス·キリストの到来の予告であり、約束なのです。そして神はそのキリストを通して、この世を罪から救ってくださるのです。 神は聖書の御言葉を通して、私たちに仰せになります。神と隣人への愛という最も基本的な御言葉からはじめ、いろいろな約束をくださいます。私たちはその御言葉に基づいて神の約束の成就を期待しつつ生きるべきでしょう。しかし、その約束が私たち自身の望む時点に成されるとは言えません。神の時と人間の時は違うからです。私が志免教会に赴任したばかりのある日、どなたかにこう言われました。「先生、心配しないでください。志免教会には何度も危機がありましたが、神様はその度に志免教会を守ってくださいました。」私はその話を聞いて大きな感動を受けました。それは神への一点非の打ち所のない完璧な信仰告白だったからです。神は私たちが教師を必要としていた時には待っておられました。そして、私達がもうダメかと思った時、教師を送ってくださいました。もちろん他国からの宣教師ですので文化的に、言語的に多少の違いはあるでしょうが、少なくとも主は教会を守り、御言葉を分かち合う道を開いてくださいました。そして、その宣教師の伝道を通して、立派な日本人の牧師を立ち上がらせてくださるかも知れないでしょう。人間の時と神の時は違います。神はご自分の教会を最後まで守り、導いてくださるという約束の言葉をくださいました。私たちは信頼、愛、そして忍耐で、その御言葉の成就を待ち望むべきです。主の御言葉ですので、主が必ず成し遂げてくださるでしょう。 締め括り 「信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。」(ヘブライ11:11)アブラハムの年齢100歳、これには数字としての意味と共に「ほぼ死んだ者」としての意味もあります。90歳の女性サラも同じです。しかし、神は御言葉に基づいてほぼ死んだ者から息子を産ませてくださいました。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。」(創21:6)何の希望もない中でも、神は希望をくださる方です。イサクという息子の名前は「彼が笑うだろう」という意味です。ほぼ死んだ者であったアブラハムとサラは神への信仰によって力を得、神の約束を信頼し、終わりに笑う人になりました。神は今日も私たちに信仰を求めておられます。「私はできないが、私の主は約束に基づいて成し遂げてくださるだろう。」という信仰を持って生きていきましょう。神は約束の言葉を必ず成し遂げてくださる方です。その神を堅く信じ、感謝と喜びで生きる志免教会になることを祈り願います。

神の国の主権者キリスト。

出エジプト記14章13-14節(旧116頁)マルコによる福音書4章35-41節(新68頁) 前置き マルコ福音書でイエス・キリストが最初に言われた言葉は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)でした。イエスはこの地上に神の国を成し遂げるためにおいでになった方です。初めの人の過ちによって生まれた罪は、この世を堕落させました。その堕落によって、人は自分だけのために生き、他人を憎み、殺し、苦しめる存在となりました。そして、その人の罪によって、この世の他の被造物も苦しむことになりました。イエスが罪によって堕落した、この世に神の国を成し遂げるということは、罪によって汚れている世を、神の愛と恵みを通して回復させる、新しい創造の意味を持っています。つまり、初めに世界を創造された三位一体なる神ご自身でいらっしゃるキリストが、十字架での贖いを通して、この世に創造の時の純粋さを取り戻させるために来られたわけです。マルコ福音書でイエスが悪霊を追い払い、病人を治し、貧しい者を助けられた理由は、まさにこの神の国の到来がご自身を通して成就することを示されるためでした。我々はマルコ福音書を読むとき、イエスの全ての御業の根拠が、この神の国の成就にあることに留意しつつ読むべきです。 1.神の国とは何か? 先々週の大信仰問答の学びでは「神の国」について考えてみました。「問8、神の国とはどういうものですか? 答 、神の国とは、神が世界と、その中のすべてのものを、御心のままに現に支配しておられる秩序と、終わりの日に成就される約束の国とを含めていうのです。」神の国とは、終わりの日のイエスの再臨に伴って完全に成し遂げられる新しい天と地を意味することです。また、それと共に、まだ完全ではないが、主の秩序によって治められる、地上のすべての物事を意味するものでもあります。なので、改革教会では、神の国が「すでに」と「まだ」の間にあると言われています。まだ、イエスの再臨の前なので、 神の国が完全に成就されていないが、主イエスに遣わされた聖霊が、すでに教会と共におられるので、この世に神の国が成し遂げられていく状況という意味です。だから、イエスを信じ、その御言葉に従順に生きる私たちキリスト者は、すでに神の国を生きている存在です。私たちは、時には苦しみや悲しみを感じたりします。この世での人生が天国どころか地獄のように感じられる時もあるはずです。しかし、神は私たちの状況を常に見守っておられ、私たちの人生の中において共に歩まれ、その苦しみと悲しみを共に担ってくださる方です。我々が神の国に生きているという意味は、まさにそういうことです。私たちと永遠に一緒におられるという御言葉を確信する限り、私たちは神の国の民としてこの世を生きていけるのです。 「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。」(4:11-12)ところで、主はこの神の国についての秘密を、この世のすべての人に与えたわけではないと言われました。前回のマルコ福音書の説教で主が「種をまく人の喩え」を言われた時、人々はその意味がまったく分かりませんでした。そこで、弟子たちは、主にその意味について尋ねました。その時、主は誰もが「神の国の秘密」を聞けるわけではないことを教え、弟子たちに本当の意味を教えてくださいました。その後、また他の喩えを聞かせてくださりながら(4:21-34)神の国の秘密は「聞く耳のある者だけが聞く」と言われました。ここで「聞く耳がある者」とは、誰を意味するのでしょうか?単刀直入に言うとアラン·コールという神学者は、自分のマルコ福音書の解説書を通して、「主の御言葉を聞き、受け入れ、実践する人」と語りました。つまり、主の御言葉を信じ、生活を通して真剣に答える者を意味するのです。このような人々は、いかなる苦難や逆境があっても、主の御言葉をしっかりと握り、最後まで主に付き従うことでしょう。そして、神の国はこのような者に許されるのでしょう。それではこのような神の国の性質を覚えつつ、今日の本文について取り上げてみましょう。 2.突風の中の主と弟子たち。 「その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。」(35-36)1章から4章まで、イエスは引き続き、カファルナウムにて、病人を癒し、悪霊を追い払い、福音を教えておられました。いよいよカファルナウムでの活動が終わった主は、船に乗ってガリラヤ湖の向こう岸に渡ろうと言われました。5章によると、その向こう岸にはゲラサという地域があったそうです。ゲラサには異邦人が住んでいました。それからイエスが向こう岸に行かれた理由が異邦人にも癒しと教えと宣教をくださるためであるということが分かります。ところで、イエスが「向こう岸に渡ろう」と言い終わるやいなや、弟子たちはイエスを舟に乗せたまま漕ぎ出しました。私達はここで「乗せたまま」という表現に注目する必要があります。確かに渡ろうと言われた方はイエスでしたが、イエスを乗せたまま、動いているのは弟子たちでした。この語句での主語がイエスではなく、弟子たちであることが気にかかります。ところで、しばらくして北の方から風が吹き出しました。ガリラヤ湖は普段は穏やかなほうですが、時々、北のヘルモン山から下りてくる冷たい空気と昼間に暖められた湖の暖かい空気が会い、2M超えの波が打つほどの大きな突風を起こしたりします。ところで、よりによって、イエスと弟子たちが乗った船が、その激しい風に巻き込まれてしまいました。 「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、先生、私たちが溺れても構わないのですかと言った。」(4:37-38)36節で主体的に行動していた弟子たちが、突然の突風に恐怖を感じ、イエスを探しました。その時、主は艫の方で眠っておられました。艫の方とは船の後尾との意味ですが、弟子たちが船首におり、主は後ろに静かにおられる様を描いている表現です。弟子たちは主を「乗せたまま」、まるで自分たちがイエスを連れていくかのように行動していました。しかし、突風が起こると、イエスを連れていくかのように振舞っていた弟子たちは、みんな怖がり、急いで艫で静かに眠っておられるイエスを起こしました。自分たちが死ぬようになったと言い、助けを求めて叫んだのです。「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、黙れ。静まれと言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。(4:39-40)その時、イエスは目を覚まして、風と湖を叱り、突風を静めてくださいました。そして、イエスと一緒にいるにもかかわらず、主を信じず、恐れていた弟子たちに「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と叱られました。それを見た弟子たちは「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」とイエスの権能に驚きました。 3.神の国の主権者イエス·キリスト 我々は今日の本文のことを単純に自然までも治めるイエスの武勇談とだけ見てはならないでしょう。先ほどお話ししました神の国という概念に基づいて理解すべきでしょう。神がご計画なさった堕落したこの世の回復、すなわち神の国の到来は徹底的にイエス・キリストを中心とする神の権能によってのみ現われるものです。「神の国」とは人間の能力、財力、手腕によって成されるものではなく、御父の計画と聖霊のお導き、とりわけ御子の権能によって成されるものです。今日、主と弟子たちが乗った船は、いわば教会の象徴のようなものです。神が計画され、お創りになった、この世は本来、突風のない穏やかな海のようなところであるべきです。しかし、人間の罪によって生まれた堕落は、この世をまるで突風の海のように無秩序で破壊的に作ってしまいました。イエスはこのような世の中に一筋の光を下さるために、ご自分の教会を打ち立てられたのです。しかし、この世の中で今日の本文の弟子たちのように自分が船、つまり教会を動かそうとすれば、結局、その教会は突風の海のようなこの世の激しさに堪えられず、滅びてしまうでしょう。また、これは教会に限ったことではありません。この突風の海のような世を静める方は、ひとえにイエスお独りです。しかし、イエスでない別の存在が世を静めようとするならば、結局、その存在は堕落した世という突風の海に巻き込まれ、滅びてしまうでしょう。 文明が生まれて以来、人間はいつも自ら世を導こうとしてきました。ところで、皮肉なことは、その度に戦乱があったということです。人間が自ら歴史を導こうとする時には、必ず戦争が起きて、多くの人が亡くなりました。かつて日本帝国は「大東亜共栄圏」という合言葉を掲げ、アジアの解放という口実で戦争を引き起こしました。しかし、その戦争で日本人だけで300万人、アジアでは数千万人が亡くなりました。アメリカ合衆国は、こうした日本を退けて平和をもたらすためにという名目で歴史上初めて核兵器を落としました。その結果、25万人余りが死に至りました。さて、歴史上の教会はどうだったでしょうか。教会が起こした十字軍戦争は200年にわたって数多くの虐殺をもたらしました。旧教と新教の戦争で多くの人が死んだこともあります。このすべてが人間がこの世や教会を導こうと起こしたことでした。真の繁栄と平和の神の国のような世界は人間の手では成し遂げられないものです。ひたすら主イエスの御言葉を信じ、聞き従って生きる時に、主が私たちの中で成し遂げてくださるものです。いつか、この世に真の平和の神の国が訪れるでしょう。突風が静まった穏やかな海のような真の神の国が臨むことでしょう。しかし、それはイエスが再臨されて完全にこの世を裁かれ、治められる日にはじめて成就されることなのです。その日まで私たちに出来ることは、イエスを待ち望むことと、その御言葉に従順に聞き従って生きることでしょう。そのような人生を通して私たちは主と共に「すでに」と「まだ」の間の神の国を味わいつつ生きていくことでしょう。 締め括り 今日の旧約本文は出エジプトの時、ファラオの騎兵たちがイスラエルを追い掛ける時のことでした。目の前には海が立ちはだかっており、後ろからは怒った騎兵たちが戦車に乗って迫ってきています。まるで、今日のガリラヤ湖の突風の中の弟子たちのように、危機一髪の状況でした。その時、神の御言葉をいただいたモーセは次のように叫びました。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」(14:13-14)イスラエルは死を目の前にしていましたが、そこには神がいました。目の前には海、背後には騎兵たちがいましたが、イスラエル民族には主の御守りがあったのです。神の御言葉に従った結果、彼らは無事に死から逃れることができました。真の神の国とは、主だけが成し遂げられます。私たちはただ、その主の御言葉を信じ、聞き従えばいいのです。毎日の人生の中に不可能なことがたくさん見えてきます。そして、それに我々は恐れを感じます。しかし、主権者キリストは、神の約束のように我々と共におられます。そして、その不可能に勝たせてくださいます。この主イエスの権能の中に生きることこそ、神の国を生きるあり方ではないでしょうか。主が私たちの人生を穏やかな湖のようにし、完全な神の国が成し遂げられるまで私たちを導いてくださると信じましょう。神の国の主は神の国を生きる私たちを決して諦めることなく、共に歩んでくださるでしょう。

繰り返す失敗と溢れる恵み。

創世記20章1-18節(旧27頁)ヨハネによる福音書15章4-5節(新198頁) 前置き 信仰の父と呼ばれるアブラハムは波乱万丈の人生を生きました。主のご命令によってカナンに来るやいなや、酷い飢饉に襲われ、飢饉を避けてエジプトに下りました。エジプトに行ったら、政治的な問題のため、妻を妹だと騙さなければならない命の危機に遭いました。以降、神のお助けによってエジプトから無事に脱出しましたが、また、自分の相続人だと思っていた甥のロトと財産の問題で別れることになりました。その後、離れていた甥を救うために命をかけて、大きな戦いに参戦することにもなりました。神に約束された息子の誕生は時間が経っても兆し無しで、神のご意思とは関係なく迎えた側妻は家庭の不和をもたらし、彼女から生まれた息子も神に約束された相続人ではなかったのです。「神の民」という呼び名が形だけのものに思えるほど、アブラハムの人生は波乱万丈そのものでした。しかし、そのようなアブラハムの人生の中でも、全く変わりのなかったのは、神がアブラハムを見捨てられず、常に共に歩んでくださることでした。神はアブラハムと契約を結ばれ、その契約関係の中でアブラハムの間違いを罰されず、その間違いさえ抱え込み、彼の人生の道に、いつも一緒にいてくださいました。キリスト教信仰の最も重要な価値の一つは、神がご自分の民と永遠に一緒に歩んでくださるということです。私たちは今日の本文を通して、アブラハムの失敗を再び目撃することになるでしょう。しかし、それと共に、決してアブラハムのことをお見捨てにならない神の愛をも再び目撃することになるでしょう。 1.同じ罪を繰り返すアブラハム。 アブラハムは、最も偉大な聖書の人物の一人と評価される人です。「信仰の父アブラハム」「アブラハムとイサクとヤコブの神」「アブラハムとダビデの子孫イエス」という表現があるほど、聖書を基盤とするキリスト教信仰において、彼の存在感は非常に大きいです。それだけに聖書を神の御言葉だと信じているキリスト者にとっても、旧約のアブラハムという人の影響は、新約でのイエスに肩を並べるほど非常に大きいです。しかし、かつて私は、このアブラハムという人が非常に気に食わなかったです。その理由は、まさに今日の本文のことのためでした。「ゲラルに滞在していたとき、アブラハムは妻サラのことを、これは私の妹です。と言ったので、ゲラルの王アビメレクは使いをやってサラを召し入れた。」(1-2)今日の本文、創世記20章は、前の12章の「アブラハムがエジプトのファラオに妻を妹だと騙した物語」と非常に似ています。話の文脈から見ると、今日の本文の物語はアブラハムが神を信じてから、すでに24年が経った時点、つまり、かなり成熟した信仰者になったはずの時点のことです。しかし、彼はなぜか自分の妻をまた捨てるといった失敗を再び仕出かしてしまい、まったく成長していない様子を見せているのです。12章とあまり変わりのないアブラハムの繰り返される信仰の失敗に失望感を覚えた私は、彼を「妻を二度捨てた情けない人間だ。」と思うようになりました。そのため、アブラハムのことが気に入らなかったわけです。 創世記12章でアブラハムは神に何も問わず、飢饉を避けて身勝手にエジプトへ下りました。そして神にも、妻にも大変な無礼を犯してしまいました。しかし、その後、神に赦されたアブラハムは繰り返し失敗と回復を経験し、少しずつ成長していきました。しかし、アブラハムは、長年の信仰の成長を経験してきたにもかかわらず、今日の本文に至って、再び妻を捨てる、また同じ失敗を犯してしまったのです。彼の妻サラは、ただ、普通の人妻に過ぎない存在ではありません。アブラハムの相続人、つまり神の約束の息子を産む、神に選ばれたアブラハムと肩を並べるほどの大事な人物でした。約束の相続人イサクを産む妻サラを捨てるということは、神との約束を破る大きな犯罪であり、妻との信頼をも破ってしまう大きな裏切りでした。しかし、アブラハムが同じ間違いを犯す今日の本文を見ながら、「これが人間の本質なのか?」という気がしてきました。我々は信仰を持って以来、戦争も、命の脅威も、人権の抑圧もない平和の時代を生きてきました。個人的な苦難はあったはずでしょうが、わりと平和な世の中で信仰生活をしてきたのです。ところで、もし、私たちもアブラハムのような命の脅威を感じるほどの状況だったら、果たして私たちは信仰を守り抜くことが出来たのでしょうか。ひょっとしたら繰り返されるアブラハムの失敗は、私たちの姿を映す鏡のようなものなのかもしれません。もし、実際に命をかけなければならない日が来たら、我々はアブラハムと違う姿をとることが出来るでしょうか。 2.なぜ同じ話が繰り返されるのか? ところで、アブラハムは、なぜ同じ失敗を繰り返したのでしょうか? 過去、旧約学を勉強していた時、今日の本文についての面白い主張を読んだことがあります。それは、創世記12章と20章が、ひとつの言伝えから枝分かれされた物語だということでした。つまり、12章の「エジプトのファラオ」と20章の「ゲラルのアビメレク」が登場する、似ている物語が、地名と人名だけ違い、アブラハムが妻を妹だと騙したこと、神が現れてアブラハムを危機から救ってくださったことなど、同じ言伝えから派生したものだということでした。この主張は、かつて旧約学界に大きな響きを与えた「文書仮説」という学説によるものです。昔、創世記が記される、ずっと前から、アブラハムに関する断片的な、いくつかの物語はイスラエル民族の口から口に伝わり、こうした数多くの言伝えが数人の無名の記録者たちによってまとめ記されたという学説です。また、その学説の中には、長い時間、編集されてきた聖書に、その記録者たちが自分の神学に合わせて、似たような物語を意図的に加えた可能性もあるという主張もありました。つまり、もともとアブラハムが妻を捨てた話は、一度だけのことですが、以後、聖書を編集した記録者たちが、似たような物語を別の出来事のように追加し、それが創世記20章になったという仮説なのです。しかし、このような文書仮説は、あくまでも仮説ですので、定説として受け入れてはなりません。非常に注意すべき主張なのです。しかし、それでも私は文書仮説が主張する「意図的に加えた。」という文章を通して、小さいヒントを得ることが出来ました。12章と20章に繰り返されるアブラハムの失敗と神のお赦しの物語が、ひょっとしたら、神がご自分の移り変わりのない愛を示されるための意図的なしるしではないかということでした。創世記に記されているアブラハムの最初の罪と最後の罪が、仕組まれたように「妻を捨てる。」という非常に似た出来事だったからです。 現代の私たちは、創世記が一人によって記された書なのか、長い間、多くの人によって記された書なのかは分かりません。ただし、この創世記という聖書が記される際に、神が深く介入され、導いてくださったということ、そして、我々に主の御言葉として、この創世記をくださったということは否定できない事実なのです。なので、私たちは創世記 12章と 20章の繰り返されるアブラハムの失敗と神のお赦しの物語を通して、神が私たちに示しておられるしるしが、確かにあるということは信じるべきでしょう。いくら偉大な信仰者であるといっても失敗を経験することがあり、その偉大な信仰者でさえ、神のご恩寵がなければ、絶対に一人で立てないということを教えるための「失敗の繰り返し」それが創世記12章に似ている今日の本文の真の意味ではないでしょうか。「その夜、夢の中でアビメレクに神が現れて言われた。あなたは、召し入れた女のゆえに死ぬ。その女は夫のある身だ。」(3) 神は創世記12章でファラオを罰されたように、今回はアビメレクにご警告なさり、アブラハムを救ってくださいました。アブラハムは繰り返される罪による失敗を犯しましたが、神も同じく繰り返してアブラハムを救ってくださったのです。神の民にいくら信仰があるといっても、その自分の信仰だけで完全に立つことはできません。民と共におられる主の存在によってのみ、民の信仰は輝くものなのです。私たちはアブラハムの繰り返される失敗に失望するより、それでも絶対に諦められない神の愛への感謝を持つべきでしょう。もしかしたら、このアブラハムの失敗へのお赦しが、私たちの失敗へのお赦しを意味する鏡であるかもしれないからです。 3.繰り返す失敗と溢れる恵み。 「直ちに、あの人の妻を返しなさい。彼は預言者だから、あなたのために祈り、命を救ってくれるだろう。しかし、もし返さなければ、あなたもあなたの家来も皆、必ず死ぬことを覚悟せねばならない。」(7)正直、今日の本文を読んでみると、先に誤った人はアビメレクではなく、アブラハムのように見えます。古代に、一つの勢力が拠点を移す際に、他の勢力の暴力的な牽制を避けるために、家族を人質として差し出すという話もありますが、当時のアブラハムはカナンで力も、富もある結構有名な人で、妻サラはすでに100歳近くの年寄でした。ある学者たちは、神がサラに子供を産ませるため、彼女を若返らせてくださり、それによってアビメレクがサラを連れていったと解釈したりもしましたが、説得力は弱いと思います。いずれにせよ、当時のアブラハムは自分の妻を妹と騙す必要はなかったと思います。創世記12章では、勢力も弱く、妻も比較的若かったので、命のために騙したのかも知れませんが、創世記20章では財力も、権力も持っていたアブラハムが、あえて妻を渡す理由がなかったということです。なので、おそらくアブラハムが早のみ込みして怖がり、妻を渡したのではないかと思います。 いずれにせよ、今日のアブラハムは信仰の父と呼ばれるに恥ずかしいほどの、情けない姿をとっています。しかし、この情けないアブラハムへの神の御心は驚くべきことです。まさにアブラハムのことを「預言者」と呼んでおられるからです。神はアブラハムが信仰の父に相応しく行動していた時も、情けない信仰の失敗者のように振舞っていた時も、変わることなく「主の民」「神の預言者」と認めてくださいました。彼の行いではなく、神と結んだ契約を見ておられたからです。これはキリストの福音に非常に似ています。私たちキリスト者は、自分自身の義によって神の民となった存在ではありません。私たちもアブラハムのように、時には信仰に生きたり、時には不信仰に生きたりします。いや、むしろ信仰より不信仰に生きるほうが多いかも知れません。しかし、それでも神は、私たちを救ってくださったキリストの義をご覧になり、私たちをご自分の民として認めてくださいます。今日のアブラハムが犯した罪は、彼が最初に犯した罪と同じ罪、つまり妻を捨てる罪でした。しかし、神は最初の罪から最後の罪まで、いつも同じように彼を守ってくださいました。正しい道を教えてくださいました。同じくイエスは、人生の初めの罪から終わりの罪まで、すべての罪をお赦しくださり、我々を神への道に導いてくださるでしょう。繰り返される罪の中でも、主は満ち溢れる恵みを持って私たちの人生を導いてくださるでしょう。その主をほめたたえます。 締め括り 「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。葡萄の枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。私は葡萄の木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:4-5)イエスは十字架にかけられる前夜、ご自身は葡萄の木であり、弟子たちは枝であると言われました。枝は幹につながっている時にのみ実を結ぶことができ、自分では実を結ぶことができないものです。アブラハムは同じ失敗を繰り返しました。しかし、彼は偉大な信仰の人物として私たちの記憶に刻まれています。アブラハムが偉大な人物に覚えられる理由は、失敗にもかかわらず神を信じ、離れずつながっていたからです。我々キリスト者も依然として、とるに足りない存在です。しかし、神はキリストにつながっている私たちを見ておられます。私たちが繰り返して罪を犯しても、主は繰り返して赦してくださり、常に私たちを正しい道に導いてくださるでしょう。だから失敗を恐れないようにしましょう。失敗したら悔い改め、お赦しの神を最後まで信じ抜いていきましょう。私たちが神につながっている時に、神は私たちを実を結ぶ枝として養ってくださるでしょう。繰り返される失敗にも溢れる恵みによって応えてくださる神のご恩恵を覚え、神のもとにいる者として生きていきましょう。

福音の種と心の畑。

イザヤ書6章8-13節(旧1070頁) マルコによる福音書4章1-20節(新66頁) 前置き イエスの時代のイスラエルの民は、旧約の予言によって約束されたメシアが必ず来るだろうと信じていました。昔、神とアブラハムの契約によって約束された大いなる国民、モーセの導きによって民族の基礎を築いた選ばれた民族、偉大な王ダビデを通して築き上げられた強力な国家であることなどと。イスラエルは過去の栄光が再びもたらされると信じていました。メシアが現れ、かつてのアブラハムやモーセ、ダビデのような偉大な業を成し遂げるだろうと待ち望んでいたのです。つまり彼らが待っていたのは、当時イスラエルを支配していたローマ帝国と異民族出身のヘロデ王を追い出し、強力な国家を再建する政治的なメシアでした。しかし、ある日突然現れ、メシアと呼ばれたナザレの青年は、あまりにもみすぼらしい者でした。彼には軍隊も宮殿もありませんでした。いつも弱くて貧しい人々といる元大工にすぎなかったのです。そのため、マルコによる福音書3章ではイスラエルの指導者たちも、彼の家族たちも、彼を認めませんでした。しかし、彼の外見ではなく、真の価値を見抜いた人々には、人生が変わるほどの癒しと回復が与えられました。今日の言葉は、そのような3章の内容と深い関係を持っています。種を蒔く人の種として描かれた福音をどのように受け入れるかによって、その結果が変わるということを教えてくれるのです。 1.古代イスラエルの種まきの方法。 まずは、今日の本文に出てくる種を蒔く人の喩えが持つ背景から探ってみましょう。古代イスラエルでも基本的には現代の農業と同じような仕方で種まきをしていたそうです。つまり、種を蒔く前に土を耕して、その上に種を蒔き、覆うことです。「恵みの業をもたらす種を蒔け、愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を耕せ。」(ホセア10:12)旧約聖書は、それを「新しい土地を耕す。」と表現しています。このような種まきの仕方は、小麦や大麦の種まきに用いられたのですが、冬の間、固まった土地を耕し、種が深く根を下ろせるように春の農作業によく用いられる仕方でした。ところで、イスラエルでは日本の稲作のように丁寧に田植えをするのではなく、小麦や大麦などの種を適当に撒き散らす方法を取っていたそうです。イスラエル地域は年間降水量がそんなに多くなく、土地には塩分が多かったので、水田農業に不適合なところだったからです。つまり、稲が育たない環境だったのです。そのため、主な穀物は乾きや塩分に強い小麦や大麦などでした。これがイスラエルの主な春の農作業でした。小麦や大麦以降の夏の農業としては、ぶどう、いちじく、オリーブなどがほとんどだったそうです。なので、今日のイエスの喩えは、まさに春の耕しの後の小麦と大麦の農作業に関するお話でした。 ところで、イスラエルは石灰岩が多い地域で、畑を耕しても多量の石や砂利が畑に残っていました。そしてイスラエルは比較的に乾いた気候のため茨の藪などの雑草もたくさん生えていました。だから種をたくさん蒔くと言っても、すべての種がよく育つわけではなかったのです。そういう意味で、日本での農業は自然の特に恵まれていると思います。イスラエルの農夫が小麦や大麦の種を畑に蒔くと、ある種は畑と畑の間の道端の硬い地面に落ちたり、ある種は石灰岩の石だらけで土の少ない所に蒔かれたり、ある種は茨の中に落ちたりするのです。それらの種は、結局鳥に食われたり、日に焼けて枯れてしまったり、腐ってなくなったりするのです。 しかし、その中でも、良い土地に落ちた種は、たくさんの実を結びます。 イエス様はこのようなイスラエルの農業を喩えにして、主の御言葉、つまり福音という種が人々の心の中でどのように反応するのかを説明してくださるのです。主の福音は毎日、聖書を通して、説教を通して、様々な宣教を通して世に伝わっています。信じない者たちにも伝わっていますが、既に信じている私たちにも伝わっています。しかし、そのすべての福音が、いつも実を結んでいるとは言えません。聞く者の心の状態によって、最初から成長しない場合も、しばらく心を響かせてすぐに消える場合も、福音の言葉が深く根を下ろして生活の中に、その恵みが現れる場合もあります。 2.イエスが喩えを通して教えられる理由。 ところで、イエスはなぜ、このような喩えを通して福音の言葉を宣べ伝えられたのでしょうか? 「イエスがひとりになられたとき、十二人と、イエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。」(10)本文によると、イエスの喩えそのものは難しい内容ではなかったようです。ですが、その喩えの真の意味は分かりにくかったようです。 イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい。」(9)と言われ、喩えの本当の意味を悟れる者だけに聞かせてくださいました。 なぜだったでしょうか? 最初から分かりやすく伝え、一人でも多くの人が御言葉を聞いて悟ることが、より良いのではないでしょうか? しかし、我々は、すべての人々が福音を悟り、受け入れるわけではないことを知らなければなりません。確かに神はすべての人のために福音をくださいました。まるで今日、喩えの種を蒔く人のように、すべての人に福音が伝わるように、世界中に主の教会を建て、伝道させてくださったのです。だから、教会は神の御言葉を誠実に宣べ伝え、伝道しつつ生きるべきです。しかし、だからといって私たちの伝道のメッセージを聞いた、すべての人が神を信じるようになるわけではありません。ある人はとんでもない話だと無視したり、ある人ははむしろ反感を示したりします。人の心の畑の状態によって、ある人は道端のような心、ある人は茨の藪のような心、ある人は良い土地のような心を持って神の御言葉に反応するのです。 イエスをベルゼブルの手下だと考えていた律法学者たちは、モーセ五書の専門家でした。彼らはモーセ五書を完全に覚えており、律法書無しで朗読できるほどでした。しかし、彼らは律法の主であるイエスの福音が全く理解できず、むしろイエスを迫害しました。イエスの家族はどうだったでしょうか。イエス様と一生を一緒に暮してきた母親も、兄弟姉妹たちもイエスの福音が理解できなくて、気が変になっていると思っていました。 むしろ、イエスと何の繋がりもなかったイスラエルの貧しい者たち、弱い者たちがイエスの福音の真の価値に気づき、イエス様に付き従ったのです。今日の旧約本文はこう語っています。「主は言われた。行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。」(イサヤ6:9-10)主は真に自分の弱さを認め、神だけが自分を助けてくださる救い主であることを信じ、従順に聞き従う者に御言葉を悟らせてくださる方です。その反面、主を拒否し、自分自身を神のように高める傲慢な者には、むしろ悟りを塞がれる方でもあります。主の御言葉は目で読み、耳で聞くものではありません。主の御言葉は心で聞き、信仰で受け入れる、自らを省み、悔い改める謙遜な者に与えられる祝福なのです。 主の福音の実とは、自分のことを弁え、神の力に依り頼み、完全に聞き従おうとする者たちに与えられる主の恵みなのです。 3.「自分の心の畑を顧みさせる主」 そういう意味で、今日の言葉は私たちにくださる主の教訓でもあると言えるでしょう。教職者だといって皆が主の御言葉に適う人なのでしょうか? 聖書を数十回読み、ヨーロッパに留学し、聖書の原文を勉強し、多くの神学理論を知る牧師だと、果たして立派な信者なのでしょうか? 正直、私は教師としての自分のことを高く評価できません。毎週、説教していますが、自分の説教のように生きられない偽善的な姿が見えるからです。隣人愛を語りながら、隣人を愛していないことに反省させられます。伝道を語りながら、伝道していないことを省みさせられます。もしかしたら私は既に習得した神学理論と固定観念に閉じ籠り、毎日新しく与えられる主の御言葉に鈍く反応しているのかも知れません。そういう意味で、教職者こそ日々悔い改め、絶えず自らを振り返る場に立つべきだと思います。ひょっとしたら教職者が神の御言葉から最も遠ざかっている、まるでイエスの時代の律法学者のような存在かも知れないからです。それでは、私たちみんなはどうでしょうか? 日曜日に教会に出席し、一度、礼拝を守ることだけに満足しているのではないでしょうか? 主日の30分の説教に満足して、1週間ずっと主の御言葉から遠ざかって、御言葉から学んだ教えを実践もせず、道端、石だらけ、茨の藪のような心の畑を持って生きているのではないでしょうか? 伝道も、祈りも、隣人への愛も手放しで生きているのではないでしょうか? 我々は、自分の心の畑が本当に良い状態だと自負できるのでしょうか。今日の言葉を通して、私たち自身のことを顧みる時間になれば幸いだと思います。 主は毎日私たちに福音の御言葉をくださいます。主日の説教を通して、聖書の御言葉を通して、水曜祈祷会の聖書と教理の勉強を通して、絶えず御言葉をくださいます。しかし、その御言葉を受け入れる状態かどうかは私たち次第です。お祈りを通して自らを悔い改め、自分のことを弁え、自分の心の畑が道端ではないか、石だらけではないか、茨ではないか自分の状態をきちんと知り、改善して生きるべきです。改革派神学には「御霊の照明」という表現があります。つまり、主の民が御言葉を聞いたり、読んだりする時に聖霊なる神が悟りの光を照らしてくださるという意味です。キリスト者への御霊の照明は毎日照らされています。イエスは十字架の犠牲と復活を通して、御霊の照明が一分一秒も途絶えることなく私たちに照らされるように恵みを与えておられます。そして、神はそのキリストの恵みの中で、自らの心の畑を耕す務めを主の民に任せてくださいました。我々の心の畑は道端にも、石だらけにも、茨にも、良い土地にもなり得ます。したがって、我々は常に自分の心の状態を綺麗に磨き、主の御言葉にいつでも反応できるように自らの心の畑を立派に耕していくべきです。 締め括り 「イエスは言われた。あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがないようにするためである。」(11-12) 主イエス・キリストの福音は神の国の秘密です。つまり、誰もが理解できるものではないということでしょう。福音を聞いて、みんなが悟れるのであるなら、少なくとも日本の人口の4割はキリスト者になったはずでしょう。神はすべての人に向けて福音をくださいましたが、それを聞いて受け入れ、悟る人はごくわずかです。しかし、今日の新約本文の13-20節の言葉のように、主を信じるご自分の民たちには悟れる機会を与えてくださいます。だから、我々の心を綺麗に耕し、主の御教えを求めて生きていきましょう。毎日、悔い改めの人生を生き、神の御言葉を大事にし、実践できる力を求めて生きていきましょう。そのような私たちの人生の中に、主はご自分の御言葉による実を30倍、60倍、100倍も結べるよう導いてくださるでしょう。信仰は神と民の相互の契約です。主は悟りを与え、民はその悟りを得るために、聖霊のお導きの中で謙遜に生きるのです。そのような良い心の畑を持って生きていく志免教会になることを祈ります。

逆説的な神の恵み

イザヤ書40章6-8節(旧1124頁) ルカによる福音書15章11-24節(新139頁) 前置き キリスト教でよく使われている言葉の中には、どんな表現があるでしょうか。 まずは「神の愛、隣人への愛」のように愛に関する表現をよく使っていると思います。また、キリスト教の主な教えの一つである「悔い改め」という表現も、よく使われているでしょう。そして、先にお話ししました二つの言葉と同じくらいの頻度で「恵み」という表現も少なからず使われていると思います。「主の恵みに満ちた教会になりますように。」「日本と全世界の教会に主の恵みを注いでください。」などの言葉は、お祈りや説教の時でもよく使われている表現でしょう。「愛、悔い改め、恵み」いずれも大事な表現かと思いますが、特に今日は「恵み」という表現について話してみたいと思います。私たちは何気なく、恵みという表現を口にしていますが、果たして、この「恵み」とは何を意味するものでしょうか。人間が抱いている漠然とした意味としての「恵み」ではなく、聖書が私たちに語っている恵みについて、探ってみたいと思います。 1.ご自分の民を滅ぼされる(?)神。 冒頭から「民を滅ぼす神」というかなり違和感のある表題語が書いてありますが、これは実際に民が神に滅ぼされるという意味ではありません。これは、私たちが漠然と考えている「復興、平和、喜び」ばかりのイメージとしての恵みだけではなく、時には「衰退、苦難、逆境」なども、神の恵みとなり得るということを強調するための表現なのです。恵みとは、ヘブライ語では「ヘセド」、ギリシャ語では「カリス」と言いますが、いずれも「契約に基づいた神の一方的な恩寵、慈悲、憐み、賜物」のことだと言われます。ここで重要なことは「契約に基づく」という表現でしょう。神の恵みとは「人間が身勝手に振舞っても関係せず放っておく。」という意味ではありません。神と人の「契約(旧約の神とイスラエルの契約、新約のキリストと教会の契約)」の中で、神が人を正しい方向に導いてくださるということを意味します。「契約」とは、神が主になって民を導き守り、民は主なる神だけにつき従って仕えるという相互約束としての意味を持っています。つまり、神の御心に従って生きるのが、神との約束に対する人のあり方であるということです。 神は主の恵みの中で、神とのこの契約を忠実に守る者たちを神との旅路にお招きくださいます。そして終わりの日、彼らが神に召され、神のもとへ帰るまで、神は彼らを導いてくださるのです。キリスト教が語る恵みとは、まさにそのようなものなです。天地万物をお創りになった神が、「私」という小さな存在を最後までお見捨てにならず、支えられ、御国に至るまで同道してくださるということです。自分がこの世で権力者になり、すべてのことがうまくいって成功し、お金をたくさん儲け、気楽に生きることが恵みではなく、神の御心に聞き従い、苦難の中でも神を拠り所にし、成功の中でも神を忘れず、主に召されるその日まで、いや死後でも、その神と共に歩むことこそが、まさに真の恵みなのです。だから、もし神の民と呼ばれる者が神の望んでおられる人生を生きていないなら、神の恵みに適う人生を生きていないなら、神は彼を恵みに連れ戻してくださるために、ご自分の民に試練と苦難とを与えてくださる時もあります。その時の試練と苦難は非常に苦しいものですが、結論的には神に帰るための「恵み」となるのです。 2.枯らす恵みの後爆風 私は2001年から2003年にかけて軍隊の炊事兵(調理兵)として生活をしました。ある人は戦闘兵、ある人は運転兵、また、ある人は行政兵として軍隊生活をしますが、私は行政兵に属する炊事兵だったのです。ところで、戦闘兵の中に迫撃砲兵という兵種もいました。迫撃砲とは地面に据え付けて使う武器で、拳サイズの砲弾を放つ武器です。ところで、その砲兵が訓練中に前方に迫撃砲を撃つと、後方の草や木が枯れてしまうことがよく見られるそうです。まさに迫撃砲が噴き出す後爆風のためです。後爆風とは、砲弾が放たれる時に生じる熱や衝撃を、迫撃砲の後尾に噴き出す強い熱風のことです。前方の敵に向かって迫撃砲が発射されますが、その砲の後爆風の故に後方の草が焼けて枯れてしまうのです。いきなり軍隊の武器の話を出して、ええっとされたかもしれませんが、私が神学校に通っていた時、私を指導した担当教授は、このような比喩をあげて神の恵みの特徴について説明したりしました。 神の恵みは、人間の罪によって汚れた世界を新たにする日まで(キリストの再臨の日)この世に生きるご自分の民を諦めない、神の変わりのない愛です。神は主の民を正しい道に導いてくださるために、神の恵みの反対側に向かう者たちを恵みの後爆風で枯らされる方です。主は「愛、信仰、救い、従順、奉仕」を求めておられますが、その反対側で「情欲、不信心、不従順、嫌悪」を追い求める主の民がいれば、彼に人生の試練と苦難を与え、その罪と情欲の生活を枯らし、主のもとに帰らせてくださる方です。たとえば、牧師や宣教師になるという誓願を破って、わがままに生きていた人々が、どうしようもない人生の逆境にあって、結局、神のもとに帰り、教会に仕える場合が、この恵みの後爆風による例の一つでしょう。ただ聖職者だけでなく、病気によって、ビジネスの失敗によってなどの様々な理由で神から遠ざかった人が倒れて帰ってくる場合が多いと思います。今日の新約本文の「放蕩息子」のたとえも一種の恵みの後爆風に関する物語だと思います。 3.逆説的な神の恵み。 ルカによる福音書15章の今日の本文は、キリスト者なら誰もが知っている有名な物語です。ある人の次男が、父の遺産をあらかじめもらって遠い国に旅立ち、放蕩の限りを尽くした挙句、結局、全ての財産を無駄遣いしてしまいました。豚の餌さえも食べられなくほど困窮した彼は、結局、我に返って父の家に帰ることになります。その時、父は彼を喜んで迎え入れてくれます。もし彼がすべてを失わなかったら、彼は決して父のもとに帰っていかなかったでしょう。彼の失敗と苦難が、かえって父のもとへ帰る理由になったわけです。その例え話の父親は父なる神の象徴です。このように神は愛する者の回復のために苦難も与えられる方です。愛するからこそ苦難を与えられるのです。まるで親が訓戒によって愛する子供を教えるように、神も戒めによってご自分の民を導いてくださるのです。神の御心に聞き従わない、とあるキリスト者がただ成功するばかりで、何の苦難も経験しないなら、むしろそれは神の祝福ではなく呪いであるかもしれません。神は罪と悪に陥っている愛するご自分の民を枯らしてでも必ず恵みの道へと導かれる方だからです。 このように神の恵みは、人間が漠然と理解している成功や祝福だけを意味するものではありません。最も重要なことは、神様は「民が欲望に満ちて、不正な豊や成功の中に生きるのではなく、神との契約の中で変わることなく共に生きることを望んでおられる。」ということです。その道のりで肉体的な豊や成功が与えられる場合もあるでしょうが、それが信仰の目標だとは言えません。 主の恵みは、この地上での肉体的な幸いだけでなく、死後の永遠の命まで、つながっていることを忘れてはなりません。その永遠の命と幸いのために、主は苦難という名の恵みを下されるのです。だから、苦難と逆境に直面した時の私たちは「神の恵みが切れた。」と考えるより、「神の恵みがより一層強く私たちに与えられている。」と考えるべきです。そのような試練と苦難の中で真の悔い改めを回復し、主のお助けを求めて生きるのが神の恵みへの正しい理解でしょう。 締め括り。 「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(イサヤ40:6-8)旧約のイスラエルの民は自分たちの豊と栄のために神を裏切りました。異邦の偶像を拝み、社会の弱者を苦しめました。強い国には弱者から奪い取った財物を貢ぎました。結局彼らは神に裁かれ、滅びてしまいました。しかし、主は今日の旧約本文であるイザヤ書40章全体を通して、神がイスラエルを滅ぼされても、主の御言葉を通して再び興すと約束してくださいました。この約束は真の主の御言葉でいらっしゃるイエス・キリストによって成就されました。しかし、罪に満ちた過去のイスラエルは草と花のように枯らされました。その代わりに神の御言葉による新しいイスラエル、教会を打ち立ててくださったのです。私たちはこのような逆説的な主の恵みを覚えつつ生きるべきです。ご自分の民を主の道へ導いてくださることこそが真の恵みなのです。欲望の満足が恵みではなく、神の御心通りに導かれるのが本当の恵みなのです。その点を心に留め、主の恵みへの正しい理解を持って生きる志免教会になることを祈り願います。