希望のない者たちのための希望。

ミカ書5章1節 (旧1454頁) マタイによる福音書2章1~12節 (新2頁) 1.アドベントとロウソクの意味。 私たちは今アドベントの期間を過ごしています。アドベントとはラテン語のアドバントゥスを英文に表現したもので「到来、出現」を意味します。つまり、イエスのご到来を記念し、待ち望むという意味です。このアドベントは漢字語では「待降節」または「待臨節」とも呼ばれますが、主が天から地上にご到来なさったという意味です。もともと初期カトリック教会でクリスマスではなく主顕祭(1月6日) つまり、今日の新約本文に出てくる「東方からの占星術の学者たち」が赤ちゃんイエスを訪問した時を、イエスの神聖が現れたと見なし、その日を主顕祭と呼び、それを準備するために4世紀から始まったと知られています。また6世紀からはイエスの初臨を記念するだけでなく、再臨をも記念する意味を持つ期間になったとも言われます。しかし改革教会はイエスのご誕生にもっと意味を与え、クリスマス前の4週間をアドベント期間として記念しています。アドベントの期間に教会は4本のロウソクに火を灯していますが、正確にいつから始まったのかはわかりません。しかし、この4本のロウソクの点灯にも意味があります。 第一週間目のロウソクは、待望と希望のロウソクです。キリストのご降臨を待ち望み、御国への希望を表すロウソクです。キリスト者が、疲れた者たち、貧しい者たち、闇の中にいる者たちを助けることを祈るロウソクなのです。第二週間目のロウソクは悔い改めとざんげのロウソクです。互いに傷つけあい、憎みあい、赦さず、主の民らしく生きてこなかった自分の罪を悔い改め、主の民らしく生きることを祈るロウソクなのです。第三週間目のロウソクは、愛と分かち合いのロウソクです。傷ついた隣人、貧しい隣人、独りぼっちとなった隣人を憶え、愛の実践を祈るロウソクなのです。貧しい隣人のために、志免教会は何ができますでしょうか? 第四週間目のロウソクは出会いと和解のロウソクです。イエスは神と罪人の和解のために、この世の私たちに来られ、共にいてくださいました。 どうすれば、私たちは隣人、家族、友人にイエスを紹介し、神と和解させることができますでしょうか? 私たちの伝道について考えさせるロウソクではないかと思います。 2.イエスを訪れた東方の学者たち。 イエスがお生まれになった夜、輝かしい星が空に現れました。そして、東方の国(おそらくペルシャ)で占星術を研究していた学者たちが、その星を見つけ、偉大な人物が生まれる良い兆しだと思い、星についてイスラエルの地まで来ました。彼らはエルサレムにたどり着き、ヘロデの王宮に向かいました。今日生まれた偉大な人物はきっとユダヤの王子だろうと思ったからです。しかし、彼らが王宮に到着したとき、そこには赤ちゃんがおらず、誰も偉大な人物が生まれたことを知っていなかったのです。それでは、その偉大な人物は一体どこに生まれたのでしょうか。ところで、当時のイスラエルには「神のメシア」が来ると永遠の王になり、この世を正しく統治するとのメシア信仰がありました。つまり、東方の学者たちの話を聞いたヘロデとユダヤの宗教指導者たちはメシアの出現だと気づき、たいへん動揺したでしょう。もし本物のメシアの生まれだったら、まもなく自分たちの政治権力や宗教権力は脅かされるに間違いなかったからです。 そのため、ヘロデは自分の権力を守るために東方の学者たちを利用してユダヤの王と呼ばれる赤ちゃんの位置を突き止めようとしました。ヘロデは、メシアがどこに生まれるのかを宗教指導者たちに調べさせました。そして、彼らは旧約のミカ書5章1節に記してある言葉から、その位置を推定しました。そこは小さい村ベツレヘムでした。「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で、決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。」(マタイ2:5-6) 東方の学者たちはその言葉を聞いてヘロデを離れ、メシアとして生まれた赤ちゃんのところを探し出すために、星についてベツレヘムに足を運びました。「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」(マタイ2:9-10) 結局、彼らはベツレヘムの小さい馬小屋で赤ちゃんとその両親に会うことになりました。 ベツレヘムはエルサレムから南の方に10キロも離れていない近場の町です。(志免町から天神ください) イエスの時代にも賑やかなエルサレムとは違って、貧しくて小さい村だったと言われます。現代でも、ベツレヘムはエルサレムと比べて素朴で、特にイスラエル人に迫害され、差別されるパレスチナ人の貧しい町です。そこにはイエス誕生教会というカトリック教会があります。その教会がイエスがお生まれになったところだと推定しています。驚くべきことに東方の学者たちがそこに到着した時、小さい赤ちゃんが飼い葉桶の中にいました。(飼い葉桶の話はルカによる福音書に出てくる。) そして、その赤ちゃんはイエスという名前の男の子でした。「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(マタイ2:11) ところが、偉大な人物メシアとして生まれた赤ちゃんは、予想とは裏腹に王子や名望のある貴族ではなく、貧しい没落王族の息子として生まれていました。 3。主がいちばん小さい村に来られた。 学者たちは、赤ちゃんに黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。黄金は王権を、乳香は神聖を、没薬は苦難を意味するという解釈もありますが、しかし、それより重要なことは占星術(当時は迷信というより科学に近い)を研究する東方の学者たちが、この貧しい家柄の赤ちゃんを真の偉大な人物、メシア、王として認め、上記の贈り物を献げたということです。つまり、神のメシアが王子ではなく貧しい家柄の息子として来られたということを確定する意味なのです。人間は罪によって神から離れた存在です。人間は一生、罪に束縛されて生きる、悲惨な存在です。人間は神に見捨てられても全くおかしいことのない存在なのです。しかし、神のメシア、神の独り子が肉体になり、しかも貧しくて弱い家柄の息子として生まれ、王宮ではなく飼い葉桶に生まれたということは、神が自ら、罪によって悲惨になった人間を守るために罪人のところに来られたという意味です。イエスのご誕生はまさにこの罪人たちへの神の愛を確証する恵みと希望の出来事なのです。 私は先ほど4つのアドベントのロウソクのうち、第一週間目のロウソクの意味が待望と希望であると申し上げました。数多くの旧約聖書の預言者たちが神のメシアを待ち望んでいました。イスラエルと人類が自分の罪のため、到底救われることの出来ない状態だったにも関わらず、神が必ず救い主メシアを送り、イスラエルと人類に希望の光を与えくださることを信じ、待ち望んだわけです。だから、イエスがこの世に来られたということは、まさにこの旧約の待ち望みと希望が成し遂げられたという意味なのです。イエスは最も小さい村、最も貧しい村、最も悲惨な村の中でも、最もむさ苦しく寒いところにお生まれになりました。今日も誰かを憎み、自分のことだけを考え、自分の罪から自由でない私たち罪人を救い、新たにしてくださるために、主イエスは天の最も明るく輝かしい王座を捨てて、罪人である、この私のために、地上に来られたのです。 締め括り 希望のない者たちのための希望 イエスと共に生きる私たちには絶対的な希望があります。自分自身を見る時は全く希望がないように見えるかもしれませんが、私たちの救いために来られた主イエスを通じて自分を見ると輝かしい希望が見えてくるのです。イエスがいらっしゃるからこそ、こんなに小さくてみすぼらしい私にも希望があるのです。だから、イエスのご誕生は他人事ではありません。希望のない私自身のための神の恵みなのです。クリスマスまであと2週間です。2週間、イエスが来られたということは私にとってどんな意味を持つのか、今日の言葉を通して考えてみることを願います。私みたいな罪人のために低くて寒くて汚いところに来られたイエス、そのイエスの御心に従って自ら謙虚にし、私たちもイエスのように他人を愛し、赦し、仕える者となることを願います。その恵みが皆さんの上に豊かに注がれますことを祈ります。 父と子と聖霊によって。アーメン。

最も重要な掟。

申命記6章4~5節 (旧291頁) マルコによる福音書12章28~34節 (新87頁) 1.掟が与えられた理由。 志免教会に赴任してから、掟あるいは戒めについて、何度も説教をした記憶があります。以前にはなかった十戒の朗読も月に一度、礼拝の儀式に組み入れました。なぜかというと十戒をはじめとする旧約の掟は、神の御言葉の要約であり、改革教会の礼拝伝統においても大事な意味を持っているからです。神は、なぜ私たちに十戒と様々な掟をくださったのでしょうか。「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」(申命記5:10) それは、神の民がその掟から学び、正しく生きるようにされ、神の祝福と恵みをいただくようにしてくださるためでした。しかし、ここで、私たちは誤解してはなりません。「掟を行い守る。」という「自分の行為」の代価として、神の恵みをいただくわけではないということです。イエスの時代のユダヤ人たちが「行いによって救われる。」と思っていたのも、掟の存在理由を誤解したためでした。神は、すでにご自分の民に恵みと祝福を与えてくださった方です。神は行いを通して掟を守り「自分の力で何かを成し遂げろ」という意味として、掟を与えられたわけではありません。むしろ、掟を通じて主の御言葉を憶え、その御言葉の意図に従って生きることを望まれ、掟をくださったわけです。すなわち、掟を行うより、掟の真の意味を知ることが、さらに大事であり、知るようになった掟を守りながら、主の民に相応しく生きる時に、神の恵みと祝福はより一層大きくなって私たちに与えられるのです。 ユダヤ人には、モーセ五書の言葉を縮約して掟の形にした「ミツボト」という掟集がありました。縮約と表現しましたが「しなければならない掟248個、してはならない掟365個、合計613個」のかなり膨大な量の掟を含んでいたのです。おそらく現代のエルサレムに住んでいる純粋なユダヤ人たちは、今でもこの「ミツボト」を守っているかもしれません。「ミツボト」とは、ヘブライ語で「戒め、掟」を意味する表現です。「ミツボト」の中の「しなければならない248個」は「人が生まれた時の骨節の数」に由来したと言われ「してはならない365個」は1年の日数に由来したと言われます。つまり、主の掟をよく守れば、骨と節が楽に一生を生きることができ、主の掟を破って生きれば、1年365日が辛くなるだろうとの意味だったそうです。おそらく、これらの物語は、昔のユダヤ人のラビによって作られたものだと思われます。しかしながら、それなりに深い意味があると思います。主は旧約聖書を通して、神の御言葉に聞き従い、主のみ旨にふさわしく生きる人には、幾千代まで慈しみをお与えになると言われました。最初の「ミツボト」は、このような神の御言葉を大切にすた、昔の人々がモーセ五書の言葉を厳選して整えた律法であるため、彼らがどれほど神の掟を重要視したのかが分かります。しかし、残念なことに、その子孫たちは掟を完全に誤解し、自分たちの行いによって救いを得るための人間的な道具、あるいは、掟をよく守れない人々を非難するための暴力の道具として使ってしまいました。 2.最も重要な掟 そして、その子孫たちが、まさにイエスと対立したユダヤの宗教指導者たちだったのです。彼らは普通の民より、掟に詳しい人々でした。しかし、彼らが理解していた掟は、神の御言葉に聞き従い、それを実践するためのものではなかったのです。彼らは数多くの掟をほとんど覚えているほどでした。また、覚えている掟を厳守しようとする熱心も持っていました。しかし、彼らは掟を覚えて機械的に行うだけで、その真の精神と意味を込めた実践はしていませんでした。主はご自分の民が神を愛し、その方のみ旨に適う人生(そのうち、隣人愛の実践)を生きるようにしてくださるために、掟を与えられたのです。なのに、彼らは掟を利用して自分たちの宗教的な欲望だけを満たし、自分たちの既得権だけを築き、掟をよく守れない人々を批判するために誤用してしまいました。神を愛するからこそ、掟を厳しく守るのだと言っていましたが、彼らは掟を利用して自分自身だけを愛していたのです。彼らは神も隣人も愛していない存在でした。ですから、神であるイエスが、彼らと会われた時、厳しく叱られたわけです。私たちは、教会に通い、説教を聞き、毎日祈り、聖書を読みます。しかし、それらによって自分自身の宗教的な欲望を満たそうとするだけなら、私たちの信仰は有名無実なものになってしまうのです。神の御言葉には、神の意図が含まれています。それは主の民が神を愛して生きるようにすることであり、さらに神の御心に従って生きるようにすることです。 今日の本文には、ある律法学者が登場します。彼は掟に精通した人です。彼は今までの論争を見ながら、イエスが御言葉によってユダヤ人の反対者たちの鼻を折られるのを目撃しました。彼はユダヤの宗教指導者たちにも屈しないイエスという人に興味ができたようでした。それで、彼は自分の専門である掟についてイエスに質問しました。「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」(12:28) もしかしたら、この律法学者はイエスを攻撃しようと来たのに、最後に心を変えたかもしれません。以後、イエスの御言葉を肯定する姿が出てくるからです。ひょっとしたら、彼はイエスの律法への理解し方に興味が出来たかもしれません。するとイエスは言われました。「イエスはお答えになった。第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(12:29-31) 掟の専門家である律法学者は、イエスが掟の精神を正確に見抜いておられるのを見て喜びました。「律法学者はイエスに言った。先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。」(12:32) 3。主が望んでおられる信仰生活。 神学を始めて以来、旧約には裁きの神が登場し、新約には愛の神が登場すると誤解する人が少なからずいました。しかし、神は新旧約を問わず、いつも愛の神であり、また、裁きの神であります。というのは、神は旧約においても、新約においても、全く移り変わりなく、いつも同一の方でおられるということです。ということで、神は新約の福音だけでなく、旧約の掟(律法)を通しても、愛について言われたのです。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:4-5) 神は旧約の掟(律法)によって、神への愛を教えてくださいました。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」(レビ記19:18)また、主は旧約の掟(律法)によって、隣人への愛をも忘れられず、教えてくださったのです。つまり、神は旧約の律法でも、神と隣人への愛を語っておられるのです。したがって、神の愛の掟は神と隣人に向けた主の命令であり、教えであるのです。613個の掟を別々に思ってはなりません。十戒を十の戒であると覚えてはなりません。掟そのものが一つの愛の命令だからです。ですから、神への愛と隣人への愛をも別扱いしてはなりません。神を愛する人なら、隣人をも愛するべきです。そうしてこそ、神にいただいた掟の中心である愛の実践が出来るようになるからです。 今日、本文に登場した律法学者は、もしかしたら、最初はイエスを嫌う人だったかもしれません。噂による偏見で、イエスが律法と掟を無視する人だと誤解していたかもしれません。しかし、主は掟(律法)の精神である、愛の実践を正確に見抜いておられる方ですので、若い頃から掟(律法)を研究してきた律法学者は、イエスが掟に精通でいらっしゃることに気づくことになったでしょう。「そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」(12:33) 彼はイエスが律法について、立派にお答えになったのを見て感心し、応用までしました。「神と隣人を愛することが、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れている。」律法学者は、神の御望みは掟を機械的に厳守しながら自身の宗教的な欲望を満たすことではなく、掟の最も中心的な内容である愛の実践、神の御言葉への従順さであることを悟りました。イエスがエルサレムに来られ、最初にされたのは、宗教的な欲望の場所になってしまった神殿を清められることでした。宗教行為としての神殿礼拝を否定されたわけです。むしろ律法と掟を通して、主の命令である神と隣人への愛を守ることを主はお望みになっておられたのです。 締め括り 私は、年に1~2回、家族関係で、主日礼拝を欠席しなければならない方に、積極的に家族との時間をお勧めします。主日に教会に出席しなくても良いという意味ではありません。日本キリスト教会の規則や改革教会の規則にも、主日の公的な礼拝は、とても大事にされています。しかし、主日礼拝に出席するために、家族の苦しみや隣人の悲しみを見逃すなら、私たちは、礼拝の意味を完全に誤解しているのかもしれませんので、主日に家族と一緒に苦しみと喜びの時間を過ごされるように勧めるわけです。つまり、皆さんが家族の苦しみを分かち合うために教会を欠席することは、ある意味で、教会での礼拝と同じように重要なことだということです。それは、ただの家族との時間ではありません。家族の魂を愛するという、また違う礼拝の時間なのです。宗教的な人間にならないように気をつけましょう。信仰者になっていきましょう。皆さんのいるところが愛の場になり、皆さんのいるところが礼拝の場になるように、信仰者になっていきましょう。そのような人生こそが、まさに掟の真の精神である、愛を実践する人生なのです。神と隣人への愛、いくら強調してもし過ぎることのない重要な信仰のあり方です。そのような愛を実践することで、神の掟を守っていく志免教会であることを祈ります。 父と子と聖霊によって。 アーメン。

ヨセフがエジプトの総理になる。

創世記41章32~44節 (旧72頁) ルカによる福音書9章23節 (新112頁) 前置き ヨセフは父親の愛を独り占めした大事な息子でした。神もヨセフに幼い頃から啓示の夢を見せてくださるなど、特別な人に成長させられるように見えました。しかし、神はある日突然、彼に不幸を許されました。ヨセフは身内の兄弟たちによってエジプトに売られ、10年以上奴隷生活をし、最後は無実に投獄され、囚人になってしまいました。大事な息子だったヨセフは、最も低くむさ苦しいところで卑しい人生を生きなければなりませんでした。しかし、ヨセフの不幸には理由がありました。神はこのヨセフを最も低いところで苦労させ、人の常識を超える方法によって彼を訓練させられたのです。年寄り子で物心もついていなかったヨセフは「苦難」という神の訓練を受け、立派な信仰の人物となり、謙遜を身につけるようになりました。信仰と謙遜の人物となったヨセフは、もはや自分ではなく神だけを高めつつ生きる真の信仰者になっていました。そして彼が神の御前に完全にひれ伏すようになった時、神はヨセフを、最も高い地位にまで引き上げてくださいました。今までのヨセフの苦難と経験は、彼が誰よりも聡明で知恵のある大帝国の総理になり、ものすごくひどい飢饉の中から大勢の命を救うようにする養分になったのです。ヨセフ一人の苦難が、大勢の命の救う結果となったということです。 1.主おひとりだけが、この世の真の統治者である。 長い間、苦難という訓練の人生を生きてきたヨセフは、もうこれ以上、幼い頃のように偉そうにする未熟な人物ではありませんでした。「ファラオはヨセフに言った。『わたしは夢を見たのだが、それを解き明かす者がいない。聞くところによれば、お前は夢の話を聞いて、解き明かすことができるそうだが。』ヨセフはファラオに答えた。『わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです。』」(創世記41:15-16) ファラオがヨセフを煽てたが、ヨセフは威張らずに、まず、主なる神のことから語りはじめました。ヨセフは神の訓練によって、自己中心的な人間から神中心的な人間に変わったのです。以後、今日の本文で読まなかった17節から24節を通してファラオはヨセフに自分の2つの夢について話します。その内容は「醜くやせた雌牛が、肥えた七頭の雌牛を食い尽くしてしまった。」「実の入っていない穂が、よく実った七つの穂をのみ込んでしまった。」でした。それに対し、25節から32節を通してヨセフはその二つの夢の意味についてファラオに解き明かしました。その内容は「7年間の大豊作の後、7年間の大飢饉が訪れ、エジプトが滅びることになる。夢を二度も重ねて見たのは、主なる神が既に決定しておられるからだ。」でした。古代エジプトの皇帝ファラオは「大きな家」という意味の名称でした。古代人はおそらくファラオがエジプトの神々が宿る特別な存在だと信じていたでしょう。 つまり、ファラオは神の代理者であり、神と同等の現人神として崇められたということです。エジプトでファラオは全知全能の神のような存在だったのです。今日の本文でもそのような表現が見つかります。「わたしはファラオである。お前の許しなしには、このエジプト全国で、だれも、手足を上げてはならない。」(創世記41:44) このように皇帝を神のように扱う模様は古代の帝国ではよくあることでした。古代人にとって王や皇帝は普通の人間ではなく、とても特別な存在だったのです。古代だけでなく19、20世紀の日本でも天皇を現人神と呼んだのですから、人間の世界で王や皇帝を神のように崇めることは珍しくないと思います。ところで、その全知全能の現人神であるファラオが、高が自分の悪夢一つも解釈できず不安に怯えていたのです。そして、その夢は小さな遊牧民族であるイスラエルの神から与えられたものであり、権力者でもない一介の奴隷囚人であるヨセフが神の知恵をいただいて解釈してしまったのです。私たちはこれを通じて、大帝国の皇帝のような権力者も結局、主の支配から自由ではなく、ひとえに主の御心によってのみ、真の救いを得ることができるという創世記の思想をかいま見ることができます。創世記から黙示録まで、聖書は常に私たちに力強く語っています。「真の王はただ主なる神だけだ。」「世の中のすべてのものは神のご統治の下にある。」私たちは主だけがこの世の真の主であることを忘れてはなりません。 2.聡明で知恵のある者を遣わしてくださる主。 「ファラオは今すぐ、聡明で知恵のある人物をお見つけになって、エジプトの国を治めさせ、」(創世記41:33) ファラオの難解な夢を解き明かしたヨセフはファラオに忠言をしました。聡明で知恵のある人物を登用し、今後の状況を切り開いていく必要があるとのことでした。ここで聡明と知恵について考えてみたいと思います。聡明はヘブライ語の「ビナ」という表現です。「考慮、識別、知識、理屈、注意」などの意味を持っています。知恵は「ホクマー」という表現で、言葉通りに「知恵、または賢明」を意味します。つまり、聡明で知恵のある人物とは、どちらが正しいのかを分別し、常に注意し、賢く自分に託されたことをやり遂げる人という意味です。しかし、世の中には神の民でなくても、分別があり、賢い人が数え切れないほど多いです。間違いなくファラオの魔術師たちも「聡明で知恵」のある人々だったでしょう。それでも、ヨセフは「聡明で知恵のある人物」を言いました。つまり、この「聡明で知恵のある」という表現には、一般的な意味とはひと味違う意味が含まれているということです。そして、私たちは次の言葉から真の「聡明で知恵のある人物」が、どのような意味なのかが分かります。「ファラオは家来たちに、『このように神の霊が宿っている人はほかにあるだろうか』と言い、ヨセフの方を向いてファラオは言った。『神がそういうことをみな示されたからには、お前ほど聡明で知恵のある者は、ほかにはいないであろう。』」(41:38-39) おそらく、ファラオが言った神の霊は「イスラエルの神の聖霊」を意味するものではないでしょう。彼は私たちが信じる神の存在もあり方も知らなかったからです。しかし、ファラオは知らないうちに神の存在について語ったのです。彼の言葉どおり「聡明で知恵のある人」は、まさに「神の霊が宿っている人」つまり、「聖霊なる神に導かれて生きる人」なのです。「その上に主の霊がとどまる。知恵(ホクマー)と識別(ビナ)の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。」(イザヤ11:2)そしてこれは神が遣わされるメシアを意味する表現でもあります。つまり、ヨセフは神に遣わされた「メシア」の旧約のモデルなのです。もちろん、ヨセフは真のメシアではありません。ただ、神の御子「イエス·キリスト」だけが真のメシアなのです。しかし、ヨセフは少なくとも、創世記に限っては神の約束である「アブラハムは祝福の源になる。」という神の契約を成し遂げたメシアのような存在でした。この世の悪が勝手に流れていくように見えても、すぐに世が滅びそうに見えても、神は主のメシア、聡明と知恵と聖霊に満ちたキリストを遣わして、この世を常に見守り、今もキリストの聖霊によってご統治なさる方なのです。また、必ず私たち一人一人の人生にもキリストを遣わしてくださる方です。いや、私たちはすでにキリストに出会い、導かれて生きる人なのです。神のメシア主イエス·キリストは、私たちの人生に常に一緒におられ、真の命の道を教えてくださる方です。 3。キリスト者の苦難は祝福の準備段階。 「ファラオはヨセフに向かって『見よ、わたしは今、お前をエジプト全国の上に立てる」と言い、印章のついた指輪を自分の指からはずしてヨセフの指にはめ、亜麻布の衣服を着せ、金の首飾りをヨセフの首にかけた。ヨセフを王の第二の車に乗せると、人々はヨセフの前で、『アブレク(敬礼)』と叫んだ。ファラオはこうして、ヨセフをエジプト全国の上に立て、ヨセフに言った。『わたしはファラオである。お前の許しなしには、このエジプト全国で、だれも、手足を上げてはならない。』」(創世記41:41-44) ヨセフはついに大帝国エジプトの総理になりました。印章の指輪と第二の車をもらったということは、皇帝のほかに、誰もヨセフをぞんざいに扱うことが出来ないほどの権力者になったという意味です。まるで、神であるキリストが人となられ、人間の弱さと苦しみと悲しみを全て経験し、最後には十字架で壮絶に亡くなられた後、復活して世界中を支配する真の王になられたような驚くべき変化でした。だから、聖書学者たちはヨセフが旧約に登場する「キリストのモデル」であると話しているというわけです。しかし、私たちは忘れてはなりません。ヨセフが何もせず、たまたま高い者となったのではないということです。10年以上最も低く苦しんで生きてきたヨセフは、それでも、苦難の中で神への信仰を諦めず、神だけを頼りとしました。そして、その信仰が実を結ぶ時に、彼は大帝国の総理になったのです。ヨセフが栄光を得る前に、苦難の時を過ごし、主にあって乗り越えてきたということを、私たちは絶対に覚えておくべきです。 説教を始めるとき、私はこう言いました。「しかし、神はある日突然、ヨセフに不幸を許されました。」この言葉は本当に恐ろしい言葉です。人間には、宗教を通して幸いだけを願う傾向があると思います。幸せになるために、慰められるために、平安を得るために、つまり自分の満足のために宗教を持とうとするのです。それが悪いとは言えません。それは本能だからです。しかし、私たちの主はそういう満足のための信仰の対象ではありません。自分の満足のためではなく、神の御心に聞き従って生きるために私たちは主を信じているのです。主イエスは言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」(ルカ9:23) 主を信じる者には、十字架が伴います。主イエスが公に言われたのです。自分の十字架とは、神への信仰を守るために遭う苦難のことです。骨身を削る痛さです。笑えず、喜べず、安らぎもなく、幸せでもない道です。人生最悪の不幸が訪れるかもしれません。同じ苦難がニ度、三度も来るかもしれません。信仰をやめたい状況が来るかもしれません。しかし、その苦難が自分に与えられた「十字架」であると信じ、絶えず神だけに頼り、いかなる苦難に遭っても神に信頼し、涙の中でも主だけを愛していく時に、主なる神は苦難を乗り切った民を復活されたキリストのように、総理となったヨセフのように高く持ち上げてくださるでしょう。苦難のない栄光はありません。 締め括り 今日は三つの点について説教しました。一つ目、神だけがこの世の真の支配者であり、主はご自分の民を通してお働きになる方。二つ目、神は聡明と知恵のある人であるイエス·キリストを通して、ご自分の御業を成し遂げていかれる方。三つ目、苦難なしには祝福もない。神は苦難を通してご自分の民を成長させ、最終的に必ず祝福してくださる方。神を信じるというのは本当に難しいことです。自分が自分の人生の主人ではなく、神が自分の人生の主人であることを認めるのが信仰の基礎です。主による人生なので、自分の思い通りに生きることはできないからです。ある意味で神を信じるということは損であるかもしれません。しかし、主なる神は必ず、主がご統治なさる、この世で私たちと共に歩んでくださるでしょう。私たちに苦難が迫ってきても、主は聡明と知恵に満ちたキリストを通して、私たちを導き、勝利するように助けてくださるでしょう。ただ神おひとりだけに信頼し、今週も生きていくことを願います。神の祝福が志免教会に連なる兄弟姉妹の上に豊に注がれますように。 父と子と聖霊の名によって。 アーメン。

生きている者の神。

創世記41章37~57節 (旧72頁) ヨハネの黙示録11章15節 (新465頁) 前置き 前回のマルコによる福音書の説教で、主は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われました。主のこのお答えは一見「この世とも、宗教とも、妥協して生きなさい」という中途半端な言葉のように感じられるかもしれません。しかし、実際、この言葉の本当の意味は「やむを得ず、この世の王に支配される現実にいても、しかし、あなたたちは真の王である神を追い求めて生きなさい。」でした。私たちは自分の信仰とは全く異なる世の中を生きています。しかし、私たちは自分自身が神に属している存在であることを忘れてはなりません。たとえ、この世に生きているといっても、私たちは神の所有です。私たちの一歩一歩が神のご統治の中にあるということを憶え、キリスト者らしさとは何かを自ら問いつつ生きる志免教会であることを望みます。 1.復活を信じない世。 今日の本文には、イエスのところにサドカイ派の人々が訪問する場面が出てきます。サドカイ派とは、ギリシャ語「サッドゥカイオス」をカタカナで表現したものですが、その語源はヘブライ語の「ツァドク(義)」です。ところで、ツァドクは義という意味ですが、ダビデの時代の祭司長の名前(サムエル記下8章)でもあります。ということで、サドカイ派は、その祭司長「ツァドク」の子孫祭司たちか、ツァドク家に追従する集団だった可能性が高いです。その起源が何であれ、彼らは名称の語源「義」とは違って、神殿を掌握した変質した集団でした。サドカイ派の人々は旧約聖書の中でも、もっぱらモーセ五書だけを聖書と認め、聖書の奥義を無視し、ただ文字的にだけ理解しようとしました。これは今日の本文とも関わりがあります。モーセ五書には「人が生き返る。」という復活の概念が記録されていませんが、おそらく、そのような理由からサドカイ派の人々は復活を信じなかったのでしょう。(旧約聖書には猫や猿の記録もありません。だからといって、この世に猫と猿がいないと言えないでしょう?) しかし、もしかしたら、モーセ五書に復活がないとのことで、復活を信じないというのは言い訳ではないでしょうか。サドカイ派の人々は非常に政治的で、世俗的で、現実的な集団だったと言われます。彼らはイスラエルの神殿を占め、宗教税の徴収を独占し、世俗的な政治権力への関心も多かったと言われます。もし、彼らが復活を信じる信仰的な存在として生きようとするなら、彼らはすべての既得権を諦めなければならなかったかもしれません。 もしかしたら、彼らは「復活を信じない。」ではなく、「復活を信じることを拒む。」だったのかもしれません。復活の精神を信じれば、自分たちの不浄な富と名誉を捨てなければならないからでしょう。今日、サドカイ派の人々がイエスのところに来て、「7人の兄弟と1人の兄嫁」が復活の時にどのようになるのかと質問したのは、基本的に復活を信じないという自分たちの思いを前提にして、イエスの復活観を嘲弄するための意地悪な挑発でした。「イエス、あなたは死者の復活を主張している。ならば、こういう場合にはどうなる?」という歪んだ心で、とんでもない質問をしたわけです。私たちは、このサドカイ派の人々の物語を通じて、信仰のない宗教人が、どこまで変質してしまうのかを知ることができます。キリスト教の復活が持つ概念は、ただ単純に「死んだ者が肉体的に生き返る。」という文字的な意味だけではありません。聖書が語る復活は基本的に「罪によって堕落した人が、神の救いによって新たにされる。」という意味を持っています。もちろん、私たちは死者の肉体的な復活という聖書の教義も信じています。しかし、聖書でいう生まれ変わり、つまり以前とは異なる、神がくださった新しい価値観によって生きる人生も復活の一側面でもあります。そのため、イエスを信じ、救われて神と隣人を愛することを誓った私たちも、すでに復活した存在であると言えるでしょう。しかし、この世の常識は復活なんてないから、ただ自分自身だけのために生きなさいと語っています。まるで、サドカイ派の人々のように、ただ、この地上での自分の安楽だけを追い求め、復活を否定して生きることを訴えているのです。 2.生きている者の神。 このように復活を信じないサドカイ派の人々に、イエスは復活の真の意味について語られました。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。」(マルコ12:24) サドカイ派の人々は祭司の集団です。当然、モーセ五書に限っては、詳しく知っているはずです。しかし、主は彼らが聖書をよく知らないと指摘されました。聖書に含まれている真の意味は無視し、ただ文字的な内容だけに捉われて聖書の教えを誤解していたからです。「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」(25)「めとったり、嫁いだりする。」という表現は、当時ユダヤの慣用句で、世の中に非常に執着する様を意味する言葉だったと言われます。(結婚自体を否定する意味ではない。) そういうわけで、主は他の福音書で次のように語られたのです。「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。」(ルカ17:27) つまり「めとったり、嫁いだりする。」という表現は、まるで、サドカイ派の人々のように神の救いと復活には無関心で、ひたすらこの地上のものだけに目を注いで生きるという意味として理解できるでしょう。しかし、復活した者はそういう地上の価値観から完全に自由になることを意味します。主イエスが再臨なさる日、私たちは真の復活を経験するでしょう。その日、私たちは、この地上での辛さと束縛と価値観から自由になり、創造の時に神にいただいた、最も健康で美しく、望ましい姿で主なる神の御前に立つことになるでしょう。 復活の時、私たちはまるで天使のように、いや天使よりも優れた存在として、罪もなく、死もなく、呪いもなく、神の傍らで至福を享受することになるでしょう。世俗的なサドカイ派の人々は、神が与えてくださる復活と御救いさえも自分たちのレベルに合わせて、世俗的に理解していたのです。その後、主はサドカイ派の人々たちを指摘され、彼らが最も自信を持っているモーセ五書の出エジプト記の言葉を取り上げて言われました。「死者が復活することについては、モーセの書の柴の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であるとあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」(26-27) 神は命を与えてくださる方です。創造の時にすべての被造物に命を与え、冬が終わり春が始まるたびに命を与えてくださいます。皆さんと私が生まれた時も命をくださいました。主なる神はすべての命の源です。そして、主はご自分によって救われた民の命をも永遠に保たせてくださる方です。したがって、主の民においては体は死んでも、その魂は常に主と共に生きているのです。そして、イエスが再臨なさる最後の日に、ホコリのように腐って無くなってしまった私たちの肉体が新しく復活し、神と共にいる魂と再び合わせられ、完全な復活を成し遂げることになるでしょう。だからキリスト者は死んでも生きている存在なのです。 主はあえて千年以上の前に亡くなったアブラハムとイサクとヤコブを言及されました。そして、彼らは生きている存在だと言われ、神の民は死んでも生きている者であることを教えてくださったのです。イエスを主と崇める私たちキリスト者は、この世に住んではいますが、この世に属していない聖別された存在です。この世に属する者であるなら、死ねばすべてが終わるかもしれませんが、キリスト者にとって死は終わりではなく、新しい始まり、永遠の命の始まりなのです。まるで母親の胎内で10ヶ月を過ごした赤ちゃんが、外の世界に何があるのか分からないことと同じように、私たちは死後に何があるのか分かりません。しかし、聖書は明らかに命の主が私たちを待っておられることを証言しています。この命の主は、先に話しましたように、イエスが再臨なさる日、最も完全な復活を私たちに与えてくださるでしょう。私たちはそれを待ち望みつつ生きる存在です。ですから、この地上の世俗的な価値観に心を奪われないようにしましょう。必要だけの富と名誉に満足し、それを用いて神と隣人に仕えながら生きていきましょう。 一日が千年のようで、千年が一日のような神の時間観念の前で、私たちは百年も生き延びられない小さな存在です。したがって、サドカイ派の人々のようにこの地上に束縛されて生きるのではなく、永遠の命の主の懐を待ち望んで生きていくことを願います。 3.すべての呪いを退けられる命の主。 ここで一つ話したいことがあります。それでは、命の主は、死後にだけ、私たちを助けてくださる方なのでしょうか。違います。私たちの現実の生活でも命の主は一緒におられ、助けてくださる方です。この度、丙午(ひのえうま)という迷信について聞きました。その年に生まれた女性は気性が激しく夫の命を縮めるという話でした。しかし、それはこの地上の世俗的な束縛による迷信に過ぎません。まるで、サドカイ派のように世の価値観に執着した昔の人々が作り出したとんでもないでたらめに過ぎないのです。命と復活の主を信じる私は断言します。神の命をいただいて生きる主の民に、この世の迷信は何の影響も及ぼすことができません。神社やお寺のお守りもいりません。吉日、凶日を気にして引越を延ばす必要もありません。キリスト者である私の親は、吉日凶日を一切気にせず、引越をしました。むしろ凶日は引越代が安くなってお得でした。そして、今まで何の呪いも、災いもなく暮らしています。これが神の命とキリストの復活の力なのです。キリストを信じて、すでに復活した命の存在となった私たちは、神の命の祝福の下に生きる存在です。主イエス・キリストが十字架ですべての呪いを打ち砕かれたからです。この世での毎日がキリストの贖いによって吉日となり、どの年に生まれたとしても復活の主に属した私たちは、この上ない祝福をいただいた存在です。私たちは主の命によってこの世の束縛から自由になった幸いな存在なのです。 締め括り 「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」(出エジプト記3章5-6節) 神はモーセに「足から履物を脱ぎなさい。」と言われました。この世への執着と束縛を捨て、素直に神の御前に出てきなさいという意味です。また、この世ではなく神に属した聖別された存在としていなさいという意味です。イエス·キリストは私たちの履物を脱がせてくださる方です。主が成就された命の復活によって私たちをこの世の執着と束縛から自由にしてくださったのです。この世のすべては死によって終わります。しかし、主の民は命によって始まります。アブラハム、イサク、ヤコブは、肉体は死にましたが、彼らは生きている者として認められました。神の命と主の復活を求めて生きる私たちは、今日の御言葉のように生きている者、神の所有として永遠に主と共に歩んでいく者となるでしょう。このような命の主を頼りにして生きる私たちであることを願います。主の恵みが命の主に属している皆さんの上に豊かに注がれますように。父と子と聖霊の名によって。 アーメン。

祝福をもたらす者。

創世記41章1~16節 (旧70頁) ガラテヤの信徒への手紙3章29節 (新347頁) 前置き 理想的なキリスト者のあり方とはどういうものでしょうか。一国の首相になって権力を振るう人になることでしょうか。大企業の社長になって財力と名誉を享受すして生きることでしょうか。偉大な学者になってノーベル賞を受賞することでしょうか。キリスト者が首相、社長、学者のような偉い人になることには何の問題もありません。しかし、それらがキリスト者の理想的なあり方であるとは言えないでしょう。キリスト者は文字通り、キリストによる者です。イエスの御言葉と生き方にならい、主の御心を追求しながら生きることこそが、キリスト者の真のあり方ではないでしょうか。そういう意味で、今日の本文に出てくるヨセフの人生は真のキリスト者のあり方につながっていると思います。昔の彼は自己中心的で他人を配慮しない愚かな姿でしたが、主は苦難と孤独の中で彼と共におられ、神中心的で他人に仕える者として養ってくださいました。そして、ヨセフが神と共に歩み、神によって立派な信仰者になった時、彼の人生に、ファラオに続くエジプトの首相という権力と財力と名誉がついてきました。重要なのは、首相、社長、学者など、偉い人間になることではありません。まず、主と歩み、神と隣人への愛と信仰を身につけた信仰者になること、それこそが最も大事なことなのです。 1.神の秘密を知る人。 前回と今日の本文に共通して出てくるのは夢です。前回の説教には、二人の高官の夢が、今日はエジプトの王ファラオの夢が登場します。もう少し前の創世記37章には、ヨセフの夢が登場し、28章にもヤコブの夢が登場しています。このように創世記にはいくつかの夢の物語がありますが、上記の夢の物語の共通点は、すべて、夢を見た人や周辺の未来のことを示しているということです。ヨセフの時代には聖書がありませんでした。ユダヤ人の律法であるモーセ五書も、ヨセフから約400年後に記されたものです。つまり、旧約の神は夢を通してご自分の民に主の計画や啓示を見せてくださいました。 「聞け、わたしの言葉を。あなたたちの間に預言者がいれば、主なるわたしは幻によって自らを示し、夢によって彼に語る。」(民数記12:6) ところで、ファラオや2人の高官は、神の民ではなかったのに、なぜ主は彼らにも夢による啓示をくださったのでしょうか? 実は彼らが特別だからではありません。その夢の啓示を解き明かす人が、まさに神の民であるヨセフだったからです。だからといって、現代にも夢が神の啓示の手立てであるとは言えません。なぜならば、決定的に神は真の神の言であるキリストをすでに遣わしてくださり、旧約と新約という聖書を与えてくださり、聖書を悟らせてくださる聖霊なる神を送ってくださり、牧師や長老という聖書の教師を立ててくださったからです。ですから、不思議な夢を見て、神の啓示を受けたと、勝手に信じ込んだり、しゃべったりすることは、キリスト者として控えるべき姿です。 また、上記の4つの夢の物語にはもう一つの共通点があります。それは、夢を見た人が、その夢の意味をまったく解き明かせなかったということです。神の御言葉は、誰もが解釈できるものではありません。神と共に歩み、真の信仰者として生まれ変わった人だけが、神の御言葉の秘義を知るようになるのです。牧師だけが優越で、普通の信徒は劣等だという意味ではありません。牧師も罪人なので、神の御言葉に精通することは出来ません。誰一人も、キリストの御恵みと聖霊のお導きがなければ、主の御言葉の秘義を悟ることができません。神の御言葉は秘義、つまり秘密なのです。神の御言葉は、あえて人間が聞き取れるものではありません。耳に聞こえるという意味ではありません。神の御心とご計画、お赦しと御救いを含んだ福音の御言葉を意味するのです。今、街に出て、通りすがりの人にイエスの救いと恵み、すなわち福音について話せば、おそらく 9割は私たちを変な人間だと思ってしまうかもしれません。いくら「主があなたを愛しておられます。」と言っても、人々は悟れないでしょう。なぜかというと主の御言葉を聞く耳がないからです。皆さん、主の御言葉を聞き、反応が出来るということは、至高の恵みなのです。毎週の説教を聞いて、心に動きが生じるということは、神がご自分の秘密を皆さんには隠されなかったという意味です。誰もが神の御言葉の秘密をいただけるわけではありません。たったキリストによって救われた者、主によって選ばれた者だけに、主は御言葉の秘密、福音の意味を悟らせてくださるのです。主の御言葉は、主の真の民だけに与えられる秘密なのです。 2.自分ではなく、神が。 ファラオと二人の高官が見た夢は、誰もが解き明かせない神の秘密の啓示でした。そして、その秘密はただ一人、神に選ばれた者ヤコブだけが解くことができるものでした。「そこには、侍従長に仕えていたヘブライ人の若者がおりまして、彼に話をしたところ、わたしたちの夢を解き明かし、それぞれ、その夢に応じて解き明かしたのです。そしてまさしく、解き明かしたとおりになって、わたしは元の職務に復帰することを許され、彼は木にかけられました。」(創41:12-13) ある日、ファラオは恐ろしい夢を見ました。夢の内容は本文のままですので省略しましょう。正直、今日の説教で夢の内容は重要ではありません。その夢が何であれ、ヨセフには夢の解き明かしが出来る能力があったというのが重要です。「そこで、ファラオはヨセフを呼びにやった。ヨセフは直ちに牢屋から連れ出され、散髪をし着物を着替えてから、ファラオの前に出た。(創41:14)」ファラオが恐ろしい夢に思い煩った時、前回の本文でヨセフの解き明かしを聞いて生き残った給仕役長が、2年間すっかり忘れていたヨセフを思い起すようになりました。(彼がヨセフを忘れていたのは、エジプトの動乱の時代にヤコブを守るための神の導きであったという前回の説教の内容を覚えてください。) そして彼の話を聞いたファラオは急いで監獄のヨセフを呼びました。「わたしは夢を見たのだが、それを解き明かす者がいない。聞くところによれば、お前は夢の話を聞いて、解き明かすことができるそうだが。」(創41:15) 永い苦境に苦しめられてきたヤコブが、突然エジプトの君主であるファラオと出会うことになったのです。 ヨセフを呼び出したファラオは、自分の恐ろしい夢のため、相当、思い煩っている状態でしたので、ヨセフを手厚く扱いました。13年間最悪の生活を続けてきたヨセフは一夜にして帝国の最高権力者の前に立つことになったのです。そして、その最高権力者がヨセフに助けを求める様になっていました。例えば、皆さんが最悪の状況で13年間を過ごしてきたのに、ある日、突然アメリカの大統領が、この世の中で皆さん一人だけができる、あることを頼むために、皆さんを呼び出して「何々さん、どうか助けてくださいませんか。」と言ったら、皆さんはどんな気持ちになりますでしょうか? 「13年間、何一つ上手くいかなかったのに、私だけが出来ると?」と意気揚々になるのではないでしょうか? しかし、ヨセフの答えは違いました。「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです。」(創41:16) ヨセフはまず自分自身ではなく神のことを前面に出しました。「私ではなく神がなさるのです。」と自分を低め、神を高めて謙遜に対応したのです。これは謙遜なふりをしているわけではなく、本当に「神だけがお出来になる。」という確信に満ちた一種の「信仰の告白」でした。私たちがヨセフを偉大な信仰の人物と評価する理由は、まさにこのヨセフの信仰のためです。彼がエジプトの首相になったからではなく、彼にひたすら神だけを頼りにする信仰があったからです。私たちにも、このような信仰の告白があることを願います。「自分」ではなく「神」だけを高め、頼りとする信仰であることを祈ります。 3.祝福をもたらす者。 その後、ヨセフはファラオの夢を完璧に解き明かし、これによってエジプトの首相に推戴されることになりました。まるで、13年間の苦境がなかったかのように、一瞬にしてエジプトの最高権力者になりました。彼を推薦した給仕役長よりも高い身分になったのです。エジプトの奴隷であり、囚人だった彼が、エジプトの全国民を治めるファラオに次ぐ人物になったわけです。そして、エジプトは、ヨセフによって深刻な飢饉を徹底して備え、飢餓から自由になる祝福を得ました。エジプトだけでなくエジプト周辺の他の民族もヨセフの知恵によって蓄えた穀物を買い取ることが出来たのです。神が創世記12章でアブラハムに約束された「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」という御言葉が、アブラハムのひ孫であるヨセフによって一次的に成し遂げられることになったのです。(最終的にはイエス•キリストによって) いわば、ヨセフは祝福の源になったということです。私たちは前回の説教でヨセフが兄たちによってエジプトに売られた後、エジプトの侍従長ポティファルの家で約10年、そして無実に濡れ衣を着せられて監獄で約3年を過ごしたの話を聞きました。この約13年という年月の間、ヨセフは主人に主の祝福をもたらす人になりました。 「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた。主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は」(創39:2-3) また、彼は無実に投獄されたにもかかわらず、牢獄でさえ周りの人々に祝福がもたらされるようにしました。「主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手にゆだね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった。監守長は、ヨセフの手にゆだねたことには、一切目を配らなくてもよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。」(39:21-23) 神が共におられるという祝福を得たヨセフは、その祝福を自分一人だけで占めることではなく、周辺の人々にまで流し出しました。文字通り「祝福の源」となったのです。そして結局、このヨセフはエジプト全国と周辺民族にまで、神の祝福をもたらす祝福そのものとなりました。私たちはこのヨセフの物語によって示された祝福の人という概念を、私たちの主イエス•キリストを通じて、もう一度確かめることができます。主イエスは神の独り子ですが、罪人の死と苦難を見過ごされませんでした。自ら人間になられ、人間の罪と苦しみ、悲しみを背負ってくださいました。そして、人間の代わりに死に、復活して、罪人が救われる道を完成してくださいました。キリストこそが人間の根本的な問題である死と罪を打ち砕き、罪人が正しい人に生まれ変わって救いを得ることが出来る、真の祝福をもたらしてくださったのです。また、主の体なる私たち教会も、主によって神と隣人を愛し、周辺の人々に祝福を流し出す祝福の人として呼び集められたのです。この話を聞くとふとこの新約の言葉が思い起こされます。「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」 締め括り 今日は3つの点について学びました。一つ目に、神の御言葉は誰にでも与えられるものではなく、徹底的に隠されている秘密であるということです。しかし、キリストの民には、その秘密が明るみに出ているということです。二つ目に、キリスト者なら、自分のことではなく、神のことをまず誇りとするべきということです。真の信仰者になっていけばいくほど、「私」ではなく「神」を最優先にする人になっていかなければなりません。最後に、ヨセフが祝福をもたらす人になったように、私たちもまた、そのような人になって行きたいということです。私たちの主イエス·キリストが真の祝福をもたらす祝福の人としておいでになったので、主の体となった私たち教会も祝福の人としてのアイデンティティを持って生きるべきです。今日の本文を通じて学んだいくつかの教訓を憶えつつ、今週も恵みにあって過ごしていきましょう。父と子と聖霊によって、アーメン。

カエサルのもの、神のもの。

レビ記19章1~2節 (旧191頁) マルコによる福音書12章13~17節 (新86頁) 前置き 前回のマルコによる福音書の説教で取り上げた、主な話は「真の権威とは何か?」でした。宗教指導者たちがエルサレム神殿の境内でイエスに会った時、彼らはイエスに「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」と問い詰めました。これは「お前はどの団体の所属か?」という意味としての 世俗的な質問でした。宗教指導者たちは人による権威、つまり人の基準によって所属のないイエスを判断し、彼ら自身の権威がイエスよりも優れていると威張るために、こういう質問をしたのです。しかし、イエスは全く予想外の返事をされました。「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」イエスは、この質問を通して、彼らのような、人による基準ではなく、神による基準を通して権威についてお話しになりました。人は目に見える基準で自分の地位や権威を前面に出そうとする傾向があります。しかし、主は外なる人ではなく、内なる人をご覧になり、その信仰の純粋さをお試みになります。真の権威とは、神のみ旨に適う人に与えられる主の賜物です。この世の権威は、社会的な地位、学閥、財産の有無から生まれるかもしれませんが、神からの権威は神と隣人への愛、神の御言葉への従順さ、真の信仰で、神から民に与えられるものです。 1.人の言葉について。 「人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。」(マルコ12:13)前回の本文で、自分たちの権威を前面に出し、イエスとの論争で優位を占めようとした宗教指導者たちは、イエスのこの言葉に何の答えもできず、顔が潰れることになりました。 しかし、彼らはあきらめず、別の計略を編み出しました。それはファリサイ派とヘロデ派の人々を同時に送り、主に困った質問をさせることでした。ファリサイ派の人々は旧約聖書の専門家でした。つまり、彼らは宗教と法律の専門家だったということです。(旧約聖書にはユダヤ人の宗教法と刑法、民法があまねく含まれている。) そしてヘロデ派の人々はヘロデ王を熱烈に支持する政治的な人々でした。この両者は、普段互いに仲が良くなかったのですが、ユダヤの伝統を大事にするファリサイ派と異邦出身の王の権力にしがみついたヘロデ派が仲が良いわけにはいかなかったからです。しかし、彼らは自分たちの不条理を指摘されるイエスを共同の敵として狙ったため、宗教指導者たちの要請に応じてイエスを困らせるために協力したわけです。イエスのところに来た彼らは言い出しました。 「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」(マルコ12:14)彼らはイエスのところへ来るやいなや、きれいな言葉でイエスをたたえました。しかし、その言葉は真心をこめた言葉ではありませんでした。イエスを苦境に陥れるために試し、さらに自分たちの必要を満たすための偽善でした。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」(マルコ12:15) しかし、イエスは彼らの偽りを全て知っておられました。言葉は実に大事なものです。「時宜にかなって語られる言葉は銀細工に付けられた金のりんご。」(箴言25:11) 旧約聖書の箴言にもこのような言葉があるほどです。しかし、主は話し手の心を何よりも大切に思われる方です。私たちがいくら立派な言い方、丁寧な言葉遣い、綺麗な言葉で祈るといっても、真心がこもっていなければ、その祈りは神に拒まれ、無駄になるでしょう。言葉で人を騙し、心と言葉が違う生き方に注意しましょう。いつも神が私たちの言葉と心を見ておられることを憶えていきましょう。 2。カエサルのものはカエサルに、神のものは神に。 「イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。彼らがそれを持って来ると、イエスは、これは、だれの肖像と銘かと言われた。彼らが、皇帝のものですと言うと」(マルコ12:15-16) 宗教指導者たちに送られたファリサイ派とヘロデ派の人々は、丁寧な言葉遣いとは反対にイエスを困らせようとしました。「ローマ皇帝であるカエサルに税金を払うのは律法に適いますか。」との質問でした。つまり、ユダヤ人としてローマ皇帝に税金を払うべきかどうかのことでした。デナリオン銀貨は当時ローマ帝国の貨幣で、労働者の一日分の労賃でした。ユダヤ人は、このデナリオンに2つの反発心を持っていたと言われます。一つ目は祖国を侵略して支配する異邦のローマ帝国への政治的な反発心、二つ目はデナリオンに刻まれたローマ皇帝の肖像を偶像と見なした宗教的な反発心でした。ファリサイ派とヘロデ派の人々が税金について質問した理由は簡単でした。税金を払うべきと言えば政治、宗教的にユダヤ人を背くことになり、税金を払ってはいけないと言えばローマ帝国を反対する政治犯として指し示されることになるからです。 しかし、主はローマの法律を破らない範囲で、ユダヤの律法をも犯さないお答えを言われました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」しかし、この答えは、かなり曖昧な言い方であるかもしれません。聞き方によっては「皇帝に税金を払いなさい。そして、神にも捧げるべきものを捧げなさい。」という優柔不断な言葉に聞こえる可能性もあります。しかし、本文では「彼らは、イエスの答えに驚き入った。」と記録されています。この言葉は驚き入るくらいですか。現代人である私たちにはそう感じられないと思います。しかし、当時の人々は私たちとは違う反応をしました。なぜでしょうか?その理由は日本語聖書には翻訳されていない「しかし」という表現にあると思います。日本語聖書には記録されていませんが、ギリシャ語原文の解釈は、こうなります。「カエサルのものはカエサルに返せ、しかし、デオのものはデオに返せ。」(マルコ12:17) つまり、この言葉は「皇帝にも税金を払い、そして神にも献金を捧げなさい」という優柔不断な言葉ではなく「皇帝に義務を果たしなさい。 しかし、神へのあなたたちのとるべき在り方を忘れないようにしなさい。」という表現とも解釈できるからです。つまり、この主のお答には、主の質問が含まれているのです。 主は、神を信じているが、仕方なく皇帝の支配の下で生きていかなければならない当時のユダヤの人々に「このような状況の中で、あなたがたは、どのように生きており、どのように生きていくべきなのか。」と質問をされたのです。イエスを困らせるための意地悪な質問が、イエスのお答えによって、質問した者たちと周辺の群衆への質問となって返されたのです。皇帝のものが別にあり、神のものが別にあるのですか? 律法は、この世のすべてが神のものであると述べています。しかし、ユダヤ人は世の中の権力に屈し、神の民らしい人生を生きていませんでした。律法は大事だと思ってはいましたが、まともに律法に適う生き方をとることができず、宗教と社会の不条理を見てもあえて指摘することをしなかったのです。「皇帝のものは皇帝に、しかし、神のものは神に返しなさい。」イエスの、この言葉はローマ帝国の支配を否定しない範囲で、神に仕えるユダヤ人の在り方について問うているのです。これはまた、私たちキリスト者にも、この世での生き方についての質問をしているのです。 3.政治をどのように理解すべきなのか? 私たちは、主イエスの民である教会ですが、世俗的な世の中に生きています。そして、私たちの考えとは異なる指導者を迎えなければならない場合が多いです。特に日本は議院内閣制国家であるため、一般市民による直接選挙ではなく、国会議員の中から選出された与党第一党の代表が「内閣総理大臣」となる方式の政治システムをとっています。つまり、もしかしたら、私たちは自分の意向とは、まったく異なる政治状況の下で生きているのかもしれません。そういえば、私たちは、ローマ帝国の支配下に生きていたユダヤ人の状況と似たような状況であるかもしれません。日本に住んでいますが、自分の意向とは違う指導者の下にいる可能性があるからです。しかし、このような状況も、主がお許しになったものであることを認め、このような政治の下でも、キリスト者なら、どのように神の民らしく生きていくべきか、この社会の中でどのようにして、神を表わしつつ生きることが出来るだろうかを常に考えながら生きていくべきでしょう。 私たちは「皇帝」の世界に生きる「神」の民です。そして、イエスは今日の言葉を通して、私たちにご質問なさいます。「この日本の社会に生きている我が民よ、しかし、あなたたちは神のものを神に返して生きているのか。」 締め括り 「皇帝のものは皇帝に、しかし、神のものは神に返しなさい。」というイエスの御言葉を、常に念頭に置いて生きていきたいです。世の中の政治と状況に流されないで、にもかかわらず、キリスト者である私たちが、どのように生きていけば、神に神のものを返すことができるだろうか、私たちの在り方について常に思い巡らしながら生きていきましょう。 明らかなのは、この世のすべては神のものであるということです。世の中の権力と政治はキリストが再臨され、この世の終わりの日に全て消えてしまうでしょう。しかし、神は永遠におられるでしょう。私たちは、この世の価値観を超越する神の価値観を追い求めながら生きなければなりません。皆さんは日本人、ニュージーランド人、そして韓国人という国籍を持っておられますが、皆さんの本質は天国、つまり神の国の民なのです。「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。」(レビ19:2) 聖なるもの、すなわち神によって区別された存在、私たちはまさにこの区別された神の民というアイデンティティを持った存在であります。私たちのこのような本質を、ぜひ憶えてください。皇帝の世界の中に生きていますが、神に従う人生を過ごす志免教会になりましょう。

ある日、突然。

創世記40章1~23節 (旧69頁) テサロニケの信徒への手紙第二3章3節 (新382頁) 前置き 前回の創世記39章の説教で、私たちは「主がうまく計らってくださった。」という言葉の意味について話しました。兄たちに裏切られ、エジプトに売られてしまったヨセフ、彼はエジプトの侍従長の奴隷となりました。ヤコブという大金持ちの最愛の息子だったヨセフが一夜にして他国の奴隷となってしまったのです。それでも、彼は絶望せず、熱心に主人に仕え、まじめに生きました。しかし、彼は淫らな女主人の偽りによって無実に濡れ衣を着せられ、投獄されることになりました。そして、長い間、監獄から出られず、悔しい時間を過ごさなければなりませんでした。ところが、聖書はヨセフの人生を、決して失敗だとは評価していません。むしろ、主がヨセフを守られ、彼の人生をうまく計らわれたと語っています。人間の目には失敗に見えるヨセフの人生でしたが、聖書は神が彼と共におられたと評価しています。これらを通して私たちは神の祝福とは、この世が語る祝福と異なるということが分かります。キリスト者にとって、真の祝福とは、私たちがいくら失敗と苦しみにさらされていても、神が私たちのことをあきらめられず、いつも共におられることを意味します。主がご自分の民を見捨てられない限り、その民には真の希望があるからです。以上が前回の説教の主な内容でした。 1。キリスト者を成長させる苦難と孤独の時間。 人間は有限な存在です。そのため、比較的に短い時間を生きます。ですので、人間は時間という概念に執着する傾向があります。その反面、永遠におられる主において、時間という概念は特別な意味を持ちません。短い生涯を生きる人間にとって、あまりにも大きなことが、永遠におられる主にとっては、非常に小さなことになってしまうということです。そういうわけで、人間にとっては大失敗のようだったヨセフの人生が、主にとっては失敗として評価されなかったのです。むしろヨセフの失敗はより明るい未来のための神の祝福と見なされました。したがって、キリスト者の人生においての失敗と苦難は、より明るい未来のための神の計画の過程だと言えるでしょう。神は人間の目には見えない、すべての物事をご覧になり、今現在、主の民の人生が失敗の中にあろうが、成功の中にあろうが、その人生全体は祝福であると評価してくださいます。残念なことに、このような神の時間観念は、人間に大きな苦しみを与える時もあります。私たちには耐えられないほどの失敗と苦難の時間なのに、神は何もしておられないように感じられ、恨む時もあるでしょう。しかし、私たちにどう感じられても、神の祝福、その本質は決して変わることがありません。私たちが人生の中で苦しみを感じるからといって、神の祝福が消えてしまうことはあり得ません。失敗と苦難の時が終わると祝福の時は必ず来ます。神と人が感じる時間の違いはあるかもしれませんが、神のご計画が破れたり取り消されたりすることはないからです。主は必ずその計画を成し遂げられる方なのです。 今日のヨセフの人生も同じだと思います。ある学者は、ヨセフが17歳から約10年間、エジプトで奴隷として暮らし、その後30歳までの3年間、牢獄にいたと主張しました。つまり、ヨセフは13年間、自由の身ではなかったということです。しかし、その13年間、ヨセフは神のお導きによって成長していきました。分別なく父親と兄たちに自分の夢を偉そうにしゃべっていた未熟なヨセフが、他国での奴隷暮らしを経て謙遜を身につけました。無実に投獄されて孤独な時間を過ごしたが、その経験を通して忍耐を学びました。13年という苦難と孤独の時間は、果たしてヨセフに無駄な時間に過ぎなかったのでしょうか? 最近、このような文章を読んだことがあります。「真の孤独とは、ただひとりでいることではない。自らの真の自由と自己の尊厳を自覚し、それを楽しむ高度な生き方の一つである。」信仰の文章ではありませんが、本当に有意義な言葉だと思いました。もしかしたら、孤独はこの世という束縛から自由を与え、自分のことを顧みさせる省察の機会であるかもしれません。また、苦難もその当時はつらい経験であるかもしれませんが、遠くから見ると弱い自身を強める成長の道具であるかもしれません。神はヨセフに苦難と孤独を与え、成長させ、一国の総理にふさわしく養っていかれました。そして時が満ち、ヨセフを一瞬にしてエジプト帝国の総理に引き上げてくださいました。 2.二人の宮廷の役人の夢とヨセフの解き明かし しかし、私は出来るだけ、皆さんが孤独と苦難に遭われないように祈っています。皆さんが神の祝福にあって常に平和と幸せであることを望んでいます。しかし、もし神がみ旨に従って孤独と苦難を許されるなら、皆さんが恐れられたり、絶望されたりせずに、神の善い計画を信じて、その信仰によって忍耐しつつ生きていかれることを願います。これ一つは確かです。神は苦難と孤独の後に必ず新しい始まりを与えてくださるということです。神の祝福にあって生きるキリスト者において、いちばん重要なことは、ただ苦難と孤独を乗り切ることだけではありません。その苦難と孤独の中に主が共におられるということ、すなわち苦難と孤独も結局は祝福という大前提の一部であるということを信じることです。「これらのことの後で、エジプト王の給仕役と料理役が主君であるエジプト王に過ちを犯した。ファラオは怒って、この二人の宮廷の役人、給仕役の長と料理役の長を、侍従長の家にある牢獄、つまりヨセフがつながれている監獄に引き渡した。」(創40:1-3)ヨセフが無実に獄中生活をしていた時、ニ人の高官がヨセフのいる牢獄に引き渡されることになりました。当時のエジプトはヒクソス人という異民族によって王朝が変わっていました。学説によるとヒクソス人は、もともとエジプト系の民族ではなく、北の地域から下ってきたセム族系の民族だったと言われますが、アブラハムの民族もセム族系で、彼らとは同じ祖先を共有していました。そして今日、牢獄に引き渡された2人の高官も、王に最も近いヒクソス人の権力者たちだったと推定されます。 給仕役、料理役と訳された原文は、お酒を造る者、パンを焼く者と翻訳できますが、単なる醸造人や料理人という意味ではありません。毒殺のおそれのため、ファラオに最も信頼される人だけが、この務めを引き受けることができると言われます。つまり、彼らはファラオに次ぐ権力者だったということです。歴史学者たちは、おそらく、この時期がエジプト帝国の政治的な混乱期だったと見なしています。これによって、その二人の投獄が権力闘争に負けた結果であることが分かります。さて、この出来事は無実に監獄暮らしをしていたヨセフに小さな機会を与えました。「我々は夢を見たのだが、それを解き明かしてくれる人がいないと二人は答えた。ヨセフは、解き明かしは神がなさることではありませんか。どうかわたしに話してみてくださいと言った。」(8) ヨセフが、この二人の高官と自然に出会い、夢を解き明かすことになったからです。ところで、10年以上、外国で奴隷として過ごし、監獄に閉じ込められていたヨセフに大きな変化が生じました。それは夢に対するヨセフの考え方が変わったということです。昔の彼は、神が将来の啓示のためにくださった夢を自分勝手に解き明かし、父と兄たちを怒らしました。自分のために神の啓示の夢を間違って利用したわけです。しかし、今の彼は夢の解き明かしが神にあると認め、過去とは違って謙虚に行いました。10年以上の苦難と孤独が、ヨセフの未熟さを成長させ、神おひとりだけを崇める信仰の人物に養ったのです。 3.神の御言葉をありのままに伝えるようになったヨセフ。 以後、給仕役と料理役の夢を聞いたヨセフは、完璧にその夢を解き明かしました。「三日たてば、ファラオがあなたの頭を上げて、元の職務に復帰させてくださいます。あなたは以前、給仕役であったときのように、ファラオに杯をささげる役目をするようになります。」(13)神がくださった夢の意味を、以前は自分の必要と自慢のために利用したヨセフでしたが、今回は違いました。彼は神がくださった夢の意味を正しく解き明かし、加減なく伝えました。「三日たてば、ファラオがあなたの頭を上げて切り離し、あなたを木にかけます。そして、鳥があなたの肉をついばみます。」(19) 神の御言葉なら、その相手が高官だといっても、その言葉が聞きづらいといっても、ヨセフはありのままに述べ伝えました。結局、ヨセフの解き明かしどおり、給仕役は復権し、料理役は処刑されてしまいました。神に御言葉を託された者は、その御言葉を加減なく伝えなければなりません。一点一画も人の耳に聞き良く、省いたり、加えたりしてはなりません。自分の欲望のために誤用してもいけません。主の御言葉がありのままに世に伝えられるように自分の命をかけてまで、そのまま伝えるべきです。それが御言葉をいただいたキリスト者の宿命です。約100年前、日本帝国時代のキリスト教殉教者の中には、こんなことを問われる場合もあったと言われます。 「天皇陛下が上か?イエスという者が上か?」聖書の言葉通り、当然イエスが上だと言った者たちは無残な拷問を受け、殉教されたと言われます。また、日本でも朝鮮でも、教会の指導者という者たちが「教会を守るためには仕方がない」という口実で、偶像崇拝を禁じる御言葉に背き、宮城腰背をすすめたとも言われます。私たちは聖書の御言葉を通じて「主なる神おひとりのほかに神などない」ということを学び信じています。もし、誰かが私たちに凶器を突きつけて偶像崇拝をさせたら、果たして私たちはどのように対応すべきでしょうか? 主の御言葉をいただいたキリスト者は、自分にいかなる被害があっても、その御言葉通りに行わなければなりません。この話が聞きづらく感じられる方がおられるかもしれません。しかし、牧師は正しい御言葉の説教の義務を託された者ですので、公に宣べ伝えるしかありません。今日の本文のヨセフがエジプトの高官の前で、主がくださった夢をありのままに解き明かした理由は、人間の権力より神の権勢をより畏れていたからでしょう。今までのヨセフの苦難と孤独は、このように彼を成長させ、神の御前で立派な信仰者として養いました。しかし、残念なことに、このように神の御言葉をありのままに伝えたにもかかわらず、ヨセフは再び忘れ去られます。給仕役が復権し、ヨセフとの出来事をすっかり忘れてしまったからです。 締め括り 忘れ去られたヨセフ、しかしある日突然。 その出来事以来、ヨセフはさらに2年間、余儀なく監獄暮らしを続けることになりました。しかし、神が計画された苦難と孤独の時間が終わると、ある日突然、ヨセフはファラオの前に召し出されました。神がファラオにも難解な夢を与え、ヨセフが活躍する機会をくださったからです。そしてヨセフはお見事にその夢を解き明かし、堂々とエジプトの総理になりました。主はなぜヨセフを給仕役と共に、直ちに解放させてくださらず、むしろ忘れ去られるようになさったのでしょうか? 一部の歴史神学者は、ヨセフが監獄にいた時期がエジプトの政治的な混乱期であったと推定しています。つまり、主は孤独と苦難という名の巣でご自分の民ヨセフが安全に孵化するまで、彼をこっそり守ってくださったのです。そして、政治的に落ち着いた、ある日突然、誰よりも偉い者にしてくださったのです。ヨセフからしては苦難と孤独の時間でしたが、神からしてはヨセフを安全に守ってくださる時間でした。この新約の言葉が思い起こされます。「主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。」(2テサロニケ3:3)苦難と孤独は辛いものです。それらによって神を恨むこともあり得るでしょう。ただし、苦難と孤独も、結局は神の計画の中にあるということ、主の時になれば、大きな祝福をもって報いてくださることを信て生きていきたいと思います。苦難と孤独は神の祝福の過程です。これを忘れずに、常に信仰に生きる私たちになることを祈ります。

人の罪と主の赦し

イザヤ書59章1~ 2節 (旧1158頁) ローマ信徒への手紙 1章18 ~ 32節(新274頁) 前置き ある宣教師がいました。彼は長年宣教をしてきましたが、先住民の一人もイエスを信じていませんでした。人々は彼を友達と認めましたが、神を信じてはいなかったのです。そんなある日、近所の先住民が宣教師を訪問しました。二人はお茶を飲みながら、歓談をかわしました。その時、ふとイエスの生涯に話題が移りました。宣教師は人の罪とイエスの死と罪の赦しについて話しました。その日、先住民は自分の罪に気づき、衝撃を受け、悔い改めることになりました。それを皮切りに、その地域に本当の宣教が始まり、多くの先住民がイエスを救い主として信じることになりました。その宣教師の問題点は、先住民と親しくは過ごしたが、福音の核心である罪と赦しを教えなかったことにありました。その宣教師は、今までの自分の誤りについてやっと気づくことになりました。 1.罪の影響 キリスト教は幸せな来世のための宗教ではありません。出世のための宗教でも、瞑想や省察のための宗教でもありません。キリスト教はイエス・キリストによって天地万物を創造された真の神と和解し、一緒に生きる宗教なのです。そのように創り主である神と歩んで行きながら、時には神によって幸せを経験し、また時には神と逆境を乗り越えつつ、最後まで神と共に進む宗教が、まさにキリスト教なのです。その歩みの結果の一つが、死後、天国に入るということです。それは目標ではなく、ただ神の賜物の一つに過ぎないのです。創り主、神と共に生きることそのものが既に私たちの天国が始まったということであり、私たちの救いが成し遂げられはじめたという意味です。 ところで、その神に出会うことを妨げる深刻な問題があります。それは罪という問題です。今日の旧約聖書を見てみましょう。「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろ、お前たちの悪が神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」(イザヤ書59:1-2)罪によって、造り主から離れた人間が、真の救いを得るためには、絶対に造り主、神の御前にいなければなりません。御前にいるということは、神と共に歩むという意味です。しかし、罪がある限り、人間は神の御前にいることが出来ません。罪が神と人間の仲を隔てているからです。 実に神には人を救ってくださる十分な権能があります。しかし、人に罪がある限り、主は人を救うことが出来ません。主の手が短いわけでも、主の耳が鈍いわけでもありません。厳密に言って、できないわけではなく、しないのです。なぜなら、罪は神の正反対のものだからです。罪は神と人間の間の巨大な隔てをもたらします。罪は人間に恵みと哀れみをくださる神の御顔を隠すものです。罪は神の怒りと裁きをもたらす恐ろしいものです。罪の影響は、人間が神に救われることが出来ないようにする結果、人間が神に見捨てられるしかない悲惨な結果をもたらします。だから、人が自分の罪を解決していない以上、その人は絶対に救いを得ることも、神と共に歩むことも出来ないのです。 2.罪の悲惨さについて。 ソクラテスは「無知は罪なり。」と言いました。彼はキリスト者ではありませんが、彼のこの言葉は正しいと思います。罪から生まれた惨めさの一つは無知です。罪を持っている人は、自分にどんな罪があるのか、何が問題なのかが分かりません。分からないので、解決が出来ず、解決が出来ないので、救いに至ることも出来ません。今日の新約本文であるローマの信徒への手紙は罪人がどれだけ悲惨であるかを明らかに語っています。「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることが出来ます。従って、彼らには弁解の余地がありません。」(ローマ1:20)世界の創造の時、神はすべての被造物が神を知ることが出来るように神の神性を示してくださいました。だから、罪のない状態の被造物は、神の存在を感じ、知ることが出来ます。しかし、罪によって神とその神性に気づかないようになった人間は、自力では、神を知ることが出来なくなってしまいました。 「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」(ローマ1:23)しかし、人は神性を求める存在です。人間の本能がそれを証明します。『誰なのかはっきり分からないけど、きっと全能者はいるのだ。』という人の漠然とした感覚は、よくあるものです。そのため、宗教が生まれたのです。しかし、人間の罪のため、人は自分が勝手に願うものを神だと定めてしまいます。木を、石を、獣を、人を神にしてしまいます。日本はその名前どおり、古くから太陽を神と崇めて来た国です。それによって生まれた存在が天照大神でしょう。太陽をお天道様と呼ぶことにも、そのような文化が溶け込んでいるからではないかと思います。しかし、創世記1章は、きっぱりと太陽を含むすべてのものが、ただ神の被造物にすぎないと語っています。人間の罪は罪に気づかないようにするだけでなく、とんでもないものを神にする心を与え、真の神を冒瀆する偶像崇拝までもたらします。 「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。」(ローマ1:28)罪に生きる人への最も危険で、悲惨な神のお裁きは、神が彼らを自らの罪に放って置かれ、見捨てられることです。本文の「渡す」という表現はギリシャ語「パラディドミ」の翻訳ですが、「見捨てる。」という意味です。「してはならないことをするように。」すなわち、神がどのような形の憐みもくださらず、罪を犯し続けるように放っておかれ、赦されずにお裁きになるということです。これを神学的な用語で、神の遺棄と言います。「捨てるために残す。」という意味です。そのような人たちからは29-31節までの数多くの罪が現れます。罪が罪を産み出し、罪が罪を増やし、罪によって人が神から永遠に見捨てられるという意味です。これが罪の恐ろしい結果であり、最も悲惨な呪いであるのです。 3.罪を赦してくださるイエス・キリスト。 未信者が信仰を持とうとする時、一番難しいのは自分の罪を認めることだと思います。犯罪者なら、比較的に納得しやすいかもしれませんが、法律的に犯罪したことのない普通の人々は、自分が罪人であることを納得しにくいでしょう。しかし、聖書はこのように語っています。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。」(ローマ3:23)旧約聖書の創世記で人類を代表するアダムとエバが神を裏切って離れた後、人々は罪の中に生きることになってしまいました。アダムとエバの話は時空間の超えて私たちに教えてくれます。神を裏切って離れることから、罪が生まれるという最も基本的な罪の理由を。 罪とは矢と的との関係と似ています。矢が的に当たらない場合、スコアがないように、罪は人が神の基準から外れる時に生じます。したがって、神がお定めになった法則に従って「神の御心に聞き従うこと、神と一緒に歩むこと」を満足させない時、人生で、新しい罪が生じ続けるようになります。しかし、人は皆、すでに罪を持っているので、自力では、神の御心に適うことが出来ません。そして、赦してくださる神を知ることも出来ません。つまり、人間は自ら罪を解決することが出来ないということです。だから、人は自然に罪に生きるしかありません。そして、その罪は引き続き別の罪をもたらします。最終的に罪人は罪によって神に見捨てられ、永遠の死を迎えるしかありません。 イエス・キリストが私たちのところに来られた理由は、まさにこの罪の問題を解決してくださるためです。私たちが福音を福音と呼ぶ理由はこのためです。「自力で解決できない罪を解決できるお方がいらっしゃる」という良いニュースだからです。神から来られたイエスは、罪を赦してくださる方です。そして人が満たせない神の基準を代わりに満足させてくださる方です。私たちは、このイエスの罪を赦す力、神の基準を満たす力を、私たちを救ってくださる主の恵みとして信じる時に、神の赦しを得ることができます。私たちが果たせないことを、キリストが代わりに成し遂げてくださり、自分の赦しのために何も出来なかった私たちが、キリストによって赦されたということを信じる時、私たちは神に赦されることが出来ます。イエス・キリストは私たちの過去、現在、未来の全ての罪を解決するために、私たちに代わって十字架につけられ、死に、私たちを救い、私たちのために神から新しい命を受けてくださいました。罪の結果は恐ろしい悲惨さですが、その悲惨さから私たちを救ってくださる主がおられるため、私たちは希望を持つことが出来るのです。 締め括り パウロは今日の本文を通じて私たちにも罪があることを示します。私たちは、すでに救われ、主の中にいると存在ですが、罪ある人間ですので、誰かを憎み、悪い思いをし、神の御心に適わない時が、しばしばあるでしょう。しかし、私たちが悔い改める時、主は私たちの罪を赦してくださいます。私たちがイエス・キリストを知り、信じているからです。私たちは、キリストの罪の赦しによって日々新たにされる者です。そして、主を信じる私たちは、主のお導きにより、その罪から立ち返って、神の恵みに進むことが出来ます。罪は私たちを惨めにし、神に見捨てられるように働きますが、イエス・キリストは私たちが悔い改める時、その罪をいつも赦してくださり、私たちが神と一緒に生きるように導いてくださいます。この私たちの罪、そしてキリストの赦しを憶えつつ福音の本当の意味について顧みる志免教会であることを祈ります。

権威について。

ダニエル記7章13~14節 (旧1393頁) マルコによる福音書11章27~12章12節 (新85頁) 前置き イエスは3年間の公生涯、つまりキリストとしての地上での御業を終えてご自分の体を十字架での犠牲として神に捧げるためにエルサレムにお入りになりました。主はエルサレムに到着して、一番最初に神殿に足を運ばれました。神殿はイスラエルの信仰の中心地だったからです。エゼキエル書43章には「主の栄光は、東の方に向いている門から神殿の中に入った。」と記録されていますが、神の真の栄光であるイエスは、この言葉のように神殿に臨まれたのです。しかし、神殿では誰もイエスをお迎えしませんでした。祭司たちが一番先にイエスの到来を知り、主を迎え入れるべきだったのに、むしろ彼らはイエスが来たことも知らなかったかのように無視していたのです。いや、かえって彼らは自分たちの宗教的な既得権を否定するイエスを憎み、嫌がる存在でした。翌日、イエスはまた神殿に足を運ばれる途中、実はなく葉っぱだけが茂ったいちじくの木を呪われました。これは神殿の存在理由を失い、宗教的な偽善だけが残っていた神殿と宗教指導者たちへの主のお裁きを象徴する行為でした。また、イエスは神殿に入られ、祭司たちと結託して商売をしている商人たちを追い出し、叱られました。神の御心を成し遂げるために来られたイエスは「祈りの家」という本来の機能を失った神殿を清められたのです。そして、イエスはご自身が神と人との間を執り成してくださる真の神殿となるだろうと教えてくださいました。 1。イエスの時代の宗教指導者たちの実状。 「一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、言った。何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」(11:27-28) イエスが神殿の商人たちを追い出されると、彼らと結託して不正蓄財をしていたエルサレムの宗教指導者たちがイエスのところに来ました。そして「何の権威でこんなことをしているのか?」と問い詰めました。ある新約の学者は、彼らがイエスに「何の権威」と云々したのが「君はどの学派の所属なのか?」という意図の言い方だったと話しました。当時には様々なラビの学派があって、学風にそって学派も分かれていたそうです。そして、学派別にそれなりの正当性があったようです。つまり、宗教指導者たちはイエスの正当性を傷つけるために、どこの所属なのかと尋ねたということです。考えてみれば、牧師の世界にもこういう傾向があると思います。「私は00教派所属の牧師です。」「私はXX教派所属の牧師です。」など、相手がどんな神学を学び、どんな性向の牧師なのかを確かめるためです。そして、自分が属している教派を前面に出し、自分の神学的な正当性を密かに表すためです。今日の本文の宗教指導者たちも「何の権威で」という表現で、どこにも属しておられなかったイエスの権威を傷つけ、自分たちの正当性を高めようとしていたわけです。 前の説教を通して、何度もお話してきましたが、イエスの時代の宗教指導者たちは純粋ではありませんでした。祭司長たちは見た目は宗教家であるだけで、精神的には世俗的すぎで、神への真の信仰、復活への希望を失っていました。復活への信仰を失ったため、神の永遠のご統治と御導きも信じていませんでした。彼らはただただこの世での繁栄だけを大事にしていたのです。そういうわけで、彼らは政治、財物、権力に執着するようになってしまいました。律法学者たちは、律法の真の精神、つまり神と人への愛を失っていました。彼らは行いによる救いを信じ、人々の前で自分の宗教的な優越性、つまり自分の義を示すことを楽しんでいたのです。律法を通して民を正しく教え、愛の実践へと導かなければならなかったのに、彼らは律法を悪用して人々を判断し、他人を罪に定めたのです。長老たちは、民の模範にならなければならない人々でしたが、祭司長、律法学者たちとともに政治的、宗教的な権力を欲しがっているだけでした。祭司長、律法学者、長老、すなわち今日イエスの権威について問い詰めた人々は、サンヘドリン公会という当時のユダヤ最高の権力機関だったと推定されます。彼らはユダヤの民衆を神へと導き、聖書を正しく教え、指導しなければならない宗教、社会、民族の指導者たちでした。そんな彼らが神の神殿を用いて自分たちの私利私欲だけを満たそうとしていたということから、当時のユダヤ社会の問題点が明らかにされます。イエスはまさに神殿で、このような問題を見つけられ、叱られたのです。 2.主イエスの権威 宗教指導者たちが、イエスの前で権威について話した理由は、自分たちの宗教的な正当性を高め、イエスの正当性をおとしめ、困らせるためでした。しかし、主はその計略に巻き込まれず、むしろ問い返されました。「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」(11:30)ヘロデ·アンティパスの暴挙により、悲惨になくなった洗礼者ヨハネ、群衆は彼を神からの預言者だと信じていました。宗教指導者たちはイエスの前で自分たちの宗教的な正当性のために「権威」について問い詰めましたが、イエスは群衆が預言者として信じる者、そして、イエスに洗礼を授けた者であるヨハネと彼の洗礼が持つ権威について問い返されたのです。「ヨハネは神からの預言者としての権威を持って洗礼を授けた。そして、私は彼を通じて神が認められた権威ある正当な洗礼を受けた。だから、私の権威もヨハネのように神にいただいたのだ。あなたたちはこれについてどう思うのか?」と問われたわけです。イエスの出身を取り上げて脅迫し、自分たちの正当性を高めようとしていた宗教指導者たちは、イエスのご質問に困ってしまいました。洗礼者ヨハネの権威が天からのものだと言えば、彼を排斥した自分たちの正当性を自ら損ねるさまとなり、洗礼者ヨハネの権威が人からのものだと言えば、群衆を刺激することとなり、また自分たちの正当性が損なわれるため、いずれにしても困難な答えだったのです。 「そこで、彼らはイエスに、分からないと答えた。すると、イエスは言われた。それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」(11:33) イエスはご自分の権威を守りながら、宗教指導者たちを戸惑わせることで、彼らの質問から抜け出されました。そして、12章の「ぶどう園と農夫」のたとえを通じて、宗教指導者たちの問題点を暴かれました。たとえの中のぶどう園の農夫たちは、主人を本当に愛し、仕えていませんでした。彼らは主人のぶどう園を利用して自分たちのよこしまな利益だけをたくらみ、結局、主人のものを奪い取ろうとして、主人の僕とその息子まで殺そうとしました。まるで今日のぶどう園のたとえの中の農夫たちのように振舞っていた宗教指導者たち。彼らが権威を云々したのは、ぶどう園として表現された神殿を奪い取り、自分たちの歪んだ権威を用いて私利私欲を満たすための言い訳だったのです。彼らは権威を言い訳にし、神の栄光と神への信仰とは、まったく関係ない自分たちの利益と欲望のために神のもの(神殿)を悪用しているだけでした。だから、イエスは当時の宗教指導者たちの不信仰と悪を「ぶどう園のたとえ」を通して告発されたのです。ここで私たちは果たして「真の権威とは何か」について考える必要があります。ユダヤの宗教指導者たちが、あのように重要視していた権威。聖書が語る真の権威とは一体何でしょうか。 3.真の権威について。 今日の新約本文に記された権威という言葉は、ギリシャ語の「エクスシア」を翻訳した表現です。エクスシアは「権威」という意味とともに「権勢、権能、所属、源」などの意味をも持っていると言われます。つまり、エクスシアとは、上から押さえつける水平的な力のイメージを持っています。宗教指導者たちがイエスに「何の権威で」と尋ねた理由は、自分たちの世俗的なエクスシアを強調するためでした。「君の所属はどこか? 君は私たちが認めるべき者なのか。 私たちより上にいるのか。私たちより下にいる者ではないか」という意味で問うたわけです。彼らにとって権威とは、神に由来する権威という意味合いではなかったのです。主導権を握るための世俗的な上下の意味で聞いたのです。自分たちがイエスより上にいる優越な存在であるということをアピールするためでした。しかし、主は天からの権威について語られました。「私は神が洗礼者ヨハネに与えられた権威、それ以上の権威をいただいている」と暗黙的に示されたのです。今日の旧約の本文を見てみましょう。「夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない。」(ダニエル7:13-14) ダニエル書は、人の子のような者について神からエクスシア(権威)をいただいた者と語りました。つまり、メシアの権威は神がくださったということです。真の権威は、今日の宗教指導者たちが口にした世俗的な偉さを意味するものではありません。宗教指導者たちが考えた権威とイエスが言われた権威は、その性格が全く違うものだったからです。当時の宗教指導者たちの権威は、神が認めてくださらない、群衆が納得しない自分たちの欲望ための世俗的な権威でした。そのため、宗教指導者たちは群衆の反応を恐れていたのです。しかし、主イエスは神も群衆も認めることが出来る真の権威について語られ、イエスご自身がその神からの権威を持っておられたのです。権威とは、人間が作るものではありません。ある人が誰かに与えるものでもありません。権威はひたすら神に由来するものです。権威の真の主人は神おひとりだけだからです。したがって、私たちも自分に権威があると思うなら、それを前面に出して威張るより、果たして、自分は神に認められる権威を受けているのか、もし、そうであれば、自分は神からの権威を正しく取り扱っているのかを考えてみるべきだと思います。 締め括り 権威は神からいただくものです。私たちは、常に真の権威とは何かをわきまえて生きるべきです。教会に長く通っているからといって権威が高く、出席してわずかだからといって権威が低いわけではありません。主なる神の必要であれば、主は誰にでも権威を与えてくださり、権威をいただいた者は、謙虚にその神からの権威を正しく使うべきです。そうでなければ、今日の宗教指導者たちのように、権威を世俗的に悪用してしまうからです。現代の政治家たちを考えてみましょう。彼らは自らが権威者であると思い、国民を軽んじてしまう場合が多いでしょう。それは真の権威の使い方ではありません。皆さん、金牧師を志免教会の権威者だと思わないでください。牧師が持っている権威は、神がくださった御言葉の権威を述べ伝えるための道具にすぎません。牧師に権威があるわけではなく、神の御言葉に権威があり、牧師はそれを支えるだけです。長老、執事の皆さんも自らを志免教会の権威者だと思わないようにしましょう。皆さんの務めに神からの権威が置かれ、私たちはその権威のために仕えているだけです。将来、誰か志免教会の長老、執事になられれば、その権威が君臨のための権威ではなく、奉仕のための権威であることを忘れないでください。真の権威者でおられる主イエス·キリストが、ご自分の権威の責任を果たすために十字架にかけられ、自らを犠牲にされたことを憶えつつ生きましょう。真の権威の在り方について常に考え、心に留めて生きる志免教会の皆さんであることを願います。

主がうまく計らってくださった。

創世記39章1~23節 (旧68頁) マタイによる福音書28章20下節 (新60頁) 前置き 前回の創世記37章で、ヨセフは兄たちに憎まれ、エジプトに売られてしまいました。彼は父親のヤコブの最愛の息子でしたが、神からいただいた将来を啓示する夢を偉そうにしゃべってしまい、それによって兄たちの憎しみを買い、エジプトに売られることになったのです。人間的な視座から見れば、この物語はヨセフの悲惨な失敗の話のように見えるかもしれません。彼は兄弟たちに裏切られ、他国の奴隷となってしまったからです。しかし、神の視座から見れば、この物語は、神の御心を成し遂げるための、一つの過程にすぎません。この段階があるからこそ、ヨセフはエジプトの総理の席に近づいていくからです。つまり、「ヨセフはエジプトに売られ、彼の人生は悲惨に終わった。」ではなく、これからが「ヨセフの人生の全盛期の始まり」ということです。ですので、今日の本文の冒頭と末尾に、「主がヨセフと共におられた。」という表現が2度も出てきているのです。今日の本文は、たとえヨセフが失敗を経験していても、神はヨセフのすべてのことをうまく計らっておられるという希望のメッセージを伝えています。人間には「もう終わりだ」と感じられるかもしれませんが、神にとっては「御心を成し遂げられるための過程」に過ぎないということです。ここにキリスト者の希望があります。今日は創世記39章を通じて人間の失敗さえも主の祝福の過程として用いてくださる主なる神のお導きについて話してみたいと思います。 1。主がヨセフのすべてのことを計らってくださった。 今日の本文は、ヨセフがファラオの侍従長ポティファルに売られ、彼の召使い(奴隷)となったという話から始まります。「ヨセフはエジプトに連れて来られた。ヨセフをエジプトへ連れて来たイシュマエル人の手から彼を買い取ったのは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長のエジプト人ポティファルであった。」(39:1)以前、神がヨセフにくださった夢によれば、彼は大勢の人の上に君臨する偉い人物になるべきでした。なのに、むしろ彼はエジプト人の奴隷となってしまったのです。彼の夢は、ただ、つまらない空夢だったでしょうか。ところで、2~3節の言葉を読むと、おかしい点が見つかります。「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ(主がうまく計らわれたと同じ原文)。彼はエジプト人の主人の家にいた。主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は」(39:2-3)ヨセフはヤコブの最愛の息子に生まれ、当時の王族たちだけが着られる華麗な服を着て育ってきました。そんなヨセフがエジプトの奴隷として売られ、他人の召使いになっていたのに、聖書は彼がまるで神の祝福を受けているかのように描写しています。この世の常識から見ると、今のヨセフの状況は肯定的だとは絶対に言えないでしょう。しかし、聖書は、この世の常識とは、まったく違う観点からヨセフの状況を解釈しているのです。まるで予想していたことを平気で話しているかのようです。その中で最も理解できない表現は、神がヨセフと共におられ、彼のすべてのことを「うまく計らわれた。」ということです。「計らわれた。」という表現を英文聖書的に表現すると「繁栄させてくださった。」「成功させてくださった。」となります。つまり、ヨセフが奴隷となっていたにも関わらず、聖書はその状況さえも神の祝福として述べているということです。 ヨセフは兄弟たちに裏切られ、他国に売られ、異邦人の召使いとなっていたのに、なぜ聖書は彼の人生についてこれほど平気に、神によってうまく計らわれていると描写しているのでしょうか? 神が彼と共におられ、彼のすべてのことが成功的に導かれているという聖書の評価を、私たちはどう受け入れるべきでしょうか。アブラハムから、イサク、ヤコブ、ヨセフの人生まで、神の祝福は、人の考えとは全く違う姿で彼らに現れました。最初、神の祝福を約束されたアブラハムは、挫折を重ねた末に、100歳にもなってやっと相続人を儲け、イサクは息子たちの葛藤により、家庭の破綻を経験しなければなりませんでした。ヤコブは叔父であり、義父であるラバンの家で苦労し、故郷に帰る時も兄の仕返しを恐れなければなりませんでした。そして晩年には、愛する妻と息子まで失わなければなりませんでした。いくら考えてもアブラハム、イサク、ヤコブは人間的な観点から見れば、祝福された人だとは考えられないほど肉体的、精神的に苦難を経験しつつ生きてきました。しかし、聖書の評価はいかがでしょうか。彼らは神の祝福を受けた者として語られています。彼らには共通の事実がありました。それは神が彼らの人生の道に共におられ、彼らが成功をしようが、失敗をしようが、彼らから離れられず、いつも共におられたということです。 2。神の祝福への正しい理解。 今日の本文での「うまく事を運ぶ。」「うまく計らう。」という言葉のヘブライ語は「ツァラッハ」という表現です。「良い。平坦だ。 有益だ。繁栄する。」などの意味を持っています。ところで、旧約聖書の他の箇所では、この表現が、主の霊が「ご臨在なさる。」という風にも使われます。「主の霊があなたに激しく降り(ツァラッハ)、あなたも彼らと共に預言する状態になり、あなたは別人のようになるでしょう。」(サムエル記上10:6) ある人にとって「良い時、有益な時、繁栄する時」は主の霊が臨まれ、その人と共におられる時を意味するということでしょう。つまり、神が、ある人と一緒におられる、その瞬間が、その人の人生において真の祝福の時であるという意味でしょう。そのような観点から見ると、キリスト者の人生において、真の祝福の時は、神が一緒にいらっしゃることとも言えるでしょう。しかし、神の祝福を受けた者にも、相変わらず苦難は存在し、試練を経験しなければならない時もあります。今日の本文で、ヨセフは熱心に主人の家に仕えてきましたが、淫らな女主人の偽りによって濡れ衣を着せられ、監獄に閉じ込められてしまいました。しかし、そのような危機の中でも、神はご自分の選ばれた者ヨセフを絶対に見捨てられなかったのです。むしろ、主は監獄にいるヨセフと変わらず一緒にいてくださいました。常にご自分の民と一緒におられ「主の御旨にかなう方向に、導いていかれること」聖書はそれを祝福だと語っているのです。 今まで教師として働いてきながら、数多くの苦しむキリスト者と出会う機会がありました。彼らにはこんな疑問がありました。「なぜ、主は主を信じる自分に、こんなに苦難を与えられるのか?」事業がつぶれてしまい、一寸先も見えない人、不意の事故によってひどく怪我をしたり、家族を失った人、いくら努力しても人生がうまくいかない人。数多くの人々が「主はどこにいらっしゃるのか?」 「主はなぜ自分にこんな苦難を与えられるのか」という疑問を抱いていたのです。そして、その中には神への信仰を諦めてしまう人々もいました。しかし、その苦難の瞬間を信仰を持って最後まで乗り切った人々は、一様にこう告白しました。「当時は死にたいほど辛かったが、今になって考えてみると、その都度、神は私と一緒におられた。」神の祝福は盲目的にすべての苦難を防いでくれる盾のようなものではありません。偉い親は、無条件に子供の苦難を防ぎ、弱虫に育てる人ではありません。子供が苦難に立ち向かって進んでいけるように導き、一緒にその苦難を乗り越えていく親こそが、本当に偉い親ではないでしょうか。神もそのように無条件に苦難を防いでくださる方ではなく、乗り越えていけるよう背後におられ、諦めることなく導いてくださる方なのです。神の祝福に生きる民も苦難を経験し得ると思います。今日の本文のヨセフも確かにすべてがうまくいく状況ではありませんでした。他国に来て他人の召使となり、淫らな女主人の誘惑を断って、誤解されて監獄に閉じ込められることになってしまいました。しかし、そのような状況下でも、神は常に彼の苦難の時に一緒におられ、彼の人生をうまく計らって導いてくださったのです。それがまさにヨセフへの神の祝福だったのです。そして、その苦難を伴う祝福の道の終わりに、ヨセフはエジプトの総理となり、その昔、神がくださった夢のように、すべての人の上に君臨し、飢饉から数多くの民族を救う真の成功を成し遂げることになったのです。 締め括り 今日の説教の主題はとても簡単です。神が一緒におられることこそが、真の祝福であるということです。もちろん、神は私たちに経済的な豊、心の安らぎ、家族の成功のような、この世が語る祝福も許してくださると信じます。人生において苦難だけを受けつつ生きることはできず、主もそれを知っておられるからです。しかし、それらだけが祝福のすべてではないでしょう。私たちは聖書が語る祝福の真の意味について常に念頭に置いて生きなければなりません。私たちにいくら辛いことがあるといっても、神が私たちと共にいらっしゃるということ、私たちのすべての人生に介入しておられるということ、それこそが真の神の祝福であることを憶えなければならないでしょう。イエス・キリストが昇天される前に私たちに聖霊を約束してくださった理由も、ペンテコステに聖霊を送ってくださった理由も、私たちがこの聖霊によって神と常に一緒にいるようにしてくださるためでした。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20) 新約時代を生きていく私たちに主は聖霊を通して常に一緒におられ、私たちに祝福しておられることを忘れてはなりません。神が苦難を受けるヨセフの人生に常に一緒におられ、彼の人生をうまく計らって導いてくださったことを記憶し、現在を生きている私たちに与えられた真の祝福とは何かについて顧みる時間になることを願います。そして、私たちを見捨てられず、常に一緒にいてくださる主の豊かな恵みに感謝しつつ生きていく私たちになることを願います。