支配者に対するキリスト者のあり方。

前置き これまでのローマ書の説教では、1章から11章までは福音と救いについての教義的な教えだとお話しました。そして、続く12章から16章まででは、その教義に対する実践に関しての教えだとお話しました。神の御言葉を聞くことだけにとどまらず、聞いた言葉を積極的に行いつつ生きなさいということでした。私たちは自分が正しいから、善を行なうわけではありません。神の正しさによって救われたため、その神の正しさに答える生活として、善を行なって生きるのです。それこそが神の御言葉への私たちの実践の根拠になるのです。今日の言葉は、私たち一人一人の日常生活で行うべき実践を深化し、国と権威、支配者への理解と実践についての言葉です。 『あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。』(ローマ12:2)この言葉のように、私たちには神によって遣わされた監視者になって、盲目的に世の権威に従うか、手放しで世の権威に抵抗するかではなく、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかを弁えて、この世界を導いて行く責任があります。それが権威と政治に対するキリスト者のあり方なのです。私たちは世の権威と政治にどのような姿勢をとって、生きるべきでしょうか?今日はそれについて分かち合いたいと思います。 1.権威とは何か? 今日の本文に出てくる権威という言葉は、ギリシャ語「エクスシア」を翻訳した表現です。これは「力、支配、統制、影響力」などを意味しますが、本文では「支配者、権威者の支配権、権威」などを意味すると理解すれば良いと思います。この世の中には、創造当時から「エクスシア」が存在して来ました。神様が創り主の権威、すなわち神の「エクサスシア」をもって世界をお造りになり、また被造物への支配の権威として人間にも「エクスシア」を与えてくださいました。なぜならば、神は神の秩序をもって世界を創造し、その被造物が権威と位階の中で保たれることを望んでおられたからです。なので、「権威」というのは、創り主である神から自然に生まれた一種の被造物だと理解しても構わないでしょう。つまり、「権威」そのものは悪いものではないということです。むしろ「権威」は、神が世界をお治めになるためには、必ずあるべき概念です。『イエスは、近寄って来て言われた。わたしは天と地の一切の権能を授かっている。』(マタイ28:18)キリストが十字架に死に、復活して昇天される直前に、父なる神がすべての権威を、すなわち、すべての「エクスシア」をご自分に与えられたと言われました。創造の神は、終末が来るまで、神による権威をもって、この世界を治めていかれるでしょう。権威は神の御支配の道具です。したがって、我々は権威について神のものだという認識を持つべきでしょう。 つまり、私たちは、この「権威」が神のものであるということに基づいて、今日の本文に取り組む必要があります。初めに世界を創造された神は人間に、このような命令を与えられました。 『神は彼らを祝福して言われた。産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』(創世記1:28 )神は、人間が世界で栄え、世界を導き、治めることをお望みになりました。神は人間に世界を支配する権威を与えてくださいましたが、それは、すなわち人間に与えられた神の「祝福」でした。ただし、人間は、その権威を身勝手に振るうことは出来ません。神は、人間がその権威を用いて、被造物を守り、愛し、正しく治めることをお望みになっただけで、その権威をもって他者を踏みつけ、苦しめ、破壊するために与えられたわけではないからです。そういうわけで、権威は支配者だけのための概念ではなく、支配者の権威を通して被支配者たちも祝福を得る、神の祝福の媒介になるべきです。神に望まれる真の支配者のあり方は自分、自民族、自国だけが、うまくいくのではなく、すべての存在が繁栄する世界を作っていくことです。聖書が提示する支配者はそのような存在です。 2.支配者への服従。 そういうわけで、私たちは、世の支配者たちがどのようなやり方で世界を支配しようとしているのか、警戒心を持つ必要があります。支配者が自分の利益と権力のために権威を扱っているのか、それとも、自分だけでなく、この世界の他の被造物、自由と平和、神の祝福の媒介として権威を扱っているのか、キリスト者なら、必ずその点を気に留めて支配者を判断すべきです。私たちの本当の支配者は、この地上の支配者ではありません。もっぱら、私たちを支配なさる方は、三位一体なる神であり、とりわけ、直接、神から権威を譲り渡されたイエス・キリストだけが、私たちの真の支配者、王でいらっしゃいます。そうであるならば、支配者への我らの服従も、その基は神とキリストへの服従から始まる必要があるのでしょう。もし支配者が自分の野望や権力ではなく、神に喜ばれるべき支配、すなわち世界の平和、自国の国民と世界中の市民の共栄のために権威を扱う場合、私たちはその権威に協力と服従をもって従っていくべきでしょう。しかし、支配者が自国だけの繁栄と自分の力だけのために権威を扱う場合、私たちは、真の王であるキリストの御意志に基づき、そのような邪悪な支配者に抵抗していかなければならないでしょう。 このように権威への服従は盲目的であってはなりません。支配者が神から与えられた、その権威を正しく使用する時にはじめて、私たちは神への服従の意味として、その支配者の権威にも服従するのです。しかし、支配者が自分の権力だけのために権威を利用しようとする場合、我々はそれに対して服従してはならず、服従することも出来ません。支配者の権威はあくまでも神によって与えられたものです。目に見える支配者の権威は、目に見えない神の権威を表す道具に過ぎません。したがって、我々は、支配者の武力と暴力に屈してはいけません。ただ支配者を通じ、神の権威が正しく示される時のみ、我々は彼らの権威を認めて従っていくべきです。私たちは、支配者への監視者の役割を持って世界を生きています。無条件的な国家権力への盲従は正しいあり方ではありません。いつも「私たちの真の支配者は、イエス・キリストだけである。」という基本的な前提をもって国や団体の権威に対応する必要があります。地上の一国家の国民という認識に先だって、神の国の国民という認識を、先にとる必要があるという意味でしょう。ひたすら服従の対象は神様だけであり、主に認められた権威だけが、私たちの服従すべき対象なのです。 3. 20世紀を顧みる。 – 邪悪な権威の世界 – 。 1945年、太平洋戦争の末期、アメリカは8月6日に広島にリトルボーイと、また、8月9日には長崎にはファットマンと呼ばれる核兵器を投下しました。それにより、約15万人から25万人の無辜の命が犠牲になってしまいました。 8月になると、日本では敗戦と、これらの核兵器による犠牲者のために記念式を催したりします。米国には、その多くの犠牲者を出さない選択があったにもかかわらず、支配者たちの誤った判断により、多くの犠牲者を生じさせてしまいました。しかし、当時の米国のほとんどの市民は、このような犠牲を当然だと思い、むしろ喜んでいました。これは明らかに米国の犯罪です。他方、帝国主義日本はアジアの周辺国を武力で征服し、アジアを戦場に追い立ててしまいました。中国では1000万人以上の人々が死亡し、朝鮮人の中にも神風特攻隊や徴用兵として死亡した人が少なくありません。ただし、当時の朝鮮人は日本人として分類されて詳細な人数は不明です。沖縄の無辜の民間人12万人が旧日本軍によって、皇国臣民としての自決を強いられ、あるいは弾除けに死ななければなりませんでした。当時沖縄市民に治療と救護を提供した当事者は、皮肉なことに敵国である米軍だったそうです。日本本土ではいかがでしょうか?戦争による日本人の犠牲者だけで約300万人を上回るのです。その中に日本籍の琉球人、台湾人、朝鮮人も含まれているでしょう。愛知県にお住まいの80代の知人は、戦争で亡くなった父親の顔が、思い出せないと言いました。戦場に3回も出て行かせられ、2回は帰還したものの、最終的には東南アジアで亡くなったそうです。今は靖国神社に合祀されているそうです。 20世紀は、悪魔の時代でした。まるで支配者たちが悪魔のようになり、罪のない者らを死に追いやったのです。その時、日本は国体という名目の下で、為政者の論理を正義としました。米国の支配者たちは、自分らの軍事力を見せつけるために、あえて日本に核兵器を落としました。しかし、日本もアメリカも、自分たちの支配者たちを支持しました。しかし、その支配者の中の誰も神の御心である「産めよ、増えよ、地に満ちよ、地を従わせよ。」という御命令に耳を傾けませんでした。既に自らが神のようになっていたからです。当時、日本の教会は、国体の一部として神社参拝をし、軍部に協力しました。悲しいことに、朝鮮の教会も同じく妥協し、偶像崇拝の罪を犯してしまいました。私たち日本と韓国の教会は邪悪な支配者のために、すでに神を裏切った存在です。これからも、絶対に忘れてはいけない我らの共同の悔い改めの課題なのです。もし、このような世が再び到来したら、私たちはどう行動すべきでしょうか?私は神の民として、そのような日が来れば、堂々と死を覚悟するつもりです。私たち教会は再び自分の一身のために邪悪な支配者の権威に服従するべきでしょうか?それとも「愛と平和、変わらない信仰」をお望みになる神の御意志を承り、神の御心のために命をかけるべきでしょうか?「あなたがたは、以前は…この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。」(エフェソ2:1-2)この世の支配者は神に反抗する空中に勢力を持つ者の性質を持っています。彼らは不従順の子になりがちで、不正と罪の存在になる可能性を持っています。このような世の中で、私たちはどのような権威に服従するべきでしょう?私たちは、神の民です。私たちのアイデンティティを深く考えて、命をかけて定めるべきだと思います。 締め括り 申命記16章20節には、支配者の穏当な在り方について教えています。 『ただ正しいことのみを追求しなさい。そうすれば命を得、あなたの神、主が与えられる土地を得ることができる。』 過ぎし2018年10月に来日して、もうすぐ2年になります。韓国にいる時は、漠然と知っていた日本の政治に少しずつ気付いている最中です。まだ、詳細にではないと思いますが、時々、今の日本の政治は、誰のための政治なのかという気がする時もありました。まるで、政治家は特権層であり、一般国民は彼らとは関係のない存在のように感じられるほど、違和感を感じたりしました。残念なことに韓国もそんなに違いがないと思い、これは万国共通の政治家たちの病気なのかという気持ちもあるほどでした。愛する志免教会の皆さんと、日本の兄弟姉妹たちのためにも、市民を愛し、正義の政治を貫く政治家たちが、特にキリスト者の政治家たちが立ち上がることを祈っています。支配者たちの権威はひたすら神のみから来るのです。支配者たちは、神の正義と愛を、この世に示さなければなりません。その時に初めて、私たちキリスト者は、彼らに完全に従うことができます。私たちは、この世に属している存在ではありません。私たちは、神の国に属している神の民です。したがって、誤った現実のために正しい怒りを発し、神に熱心に祈り、投票などの政治的行動に参加し、さらに正義に満ちた日本と世界になるように動いていきましょう。このような考え方を持って国の支配者と政治家のために祈り、生きていく私たち志免教会になることを祈り願います。