神の創造2-世界の存在理由

前置き 創世記は、この世界の始まりとともに、信者の信仰の始まりについても教える書です。つまり、初めに、この世界が偶然に作られたものではなく、神と言われる絶対的な存在の計画によって、作られたことを教えてくれると同時に、また、その神への信者の信仰というのも偶然に生まれたものではなく、神様によって与えられたということを思い起こさせてくれる書なのです。神は世界をお造りになるために、そして、信者に信仰をくださるために、何も存在しない、混沌と無秩序の世界に生命と秩序をくださった方であります。神の創造は、無から有を造り、無秩序に秩序をくださり、無信仰に信仰をくださる、何から何まで、すべてのところにおいて、神の導きと計画によって、行われた神の偉大な御業です。今日は、神が、その創造をどのようになさったのか、その創造が持つ究極的な意味とは何かについて、分かち合いたいと思います。世界をお造りになり、信者をお呼びくださり、信仰を創ってくださって、礼拝に臨ませてくださる神について一緒に聞きましょう。 1.6日間の創造。 聖書によると、世界は6日間に創造されたといいます。 6日間に造られたという言葉に基づいて、一部の人々は、実際に6日、144時間の間に創造されたと主張したり、一部の人々は、一日が数千年だったかもしれないと主張したりします。また、一部の人々は、これは、ただの比喩に過ぎず、神はビッグバンのような科学的な手立てで、世界を創造されたかもしれないと言ったりします。その違いが、どうであれ、重要なのは、そのすべてが、神によって、この世界が創造されたということを前提とするということです。私たちは、世界の創造が本当に6日間なのか、何千年なのか、何億年でなのか、その詳しい期間は予測できません。しかし、明らかなことは、神が6日間と表現される、その間に綿密な御計画を持って、創造に取り組まれたということです。このような神の創造の計画は、聖書では、どのように示されているのでしょうか?これからの説明をよく聞いてくだされば、創世記は、神の創造について、繰り返して対称的な表現を使うことによって、神の創造が持つ釣り合いと調和を表現していることがお分かりになると思います。これにより、私たちは、神の創造が持つ綿密さと安定性、そして秩序を強調する創世記と出会えるでしょう。 創世記1章をよく読んでみると、神の創造に法則があるということが分かります。たとえば、初めの3日間は、世界の大きな枠組みを作り、後の3日間は、その枠内に生きる被造物を創られる方式です。神は1日目は、光、昼、夜をお造りになりました。2日目は、天と水をお造りになりました。3日目は、地と海、草、果樹などをお造りになりました。4日目は、太陽、月、星のような光る物をお造りになりました。ある注釈書によれば、それらの天体が造られたというのは、季節、時間の創造とも関係があるそうです。5日目は、空の鳥と水の生き物をお造りになりました。最後の6日目は、地の獣、家畜、土を這うものをお造りになりました。ここで、重要なことは、1日 – 4日、2日 – 5日、3日 – 6日が、互いに関連を持っているということです。1日目に、光、昼と夜を造られた主は、4日日に、その昼と夜を司る光る物である太陽と月と星を造り、2日目に、天と水を造られた神は、5日目に、天の鳥と水の生き物を造り。3日目に、地と、その地上の生き物が食う植物を造り、6日目に、その地に生きる動物を造ってくださいました。そして、最終的、総合的に、そのすべてを支配する人間を造られたのです。創世記は、これらの秩序のある手順を通して、神は決して偶発的に創造をなさらなかったということを示そうとしています。 私たちは、この創造の過程を見ながら、続けて繰り返される言葉をよく探ってみる必要があります。 『神は言われた。』『‐あれ。』『そのようになった。』『神はこれを見て、良しとされた。』以上の4つの語句です。ヨハネによる1章には、『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。』と記されています。 『神は言われた。』という言葉を通して、私たちは、神が、その御言葉で世界を造られたということが分かります。創造の神は、ただ、父なる神のみを意味するものではありません。父は御独りではなく、御言葉である子と、御霊との三位一体として世界を造られました。『‐あれ。』という言葉を通しては、主権的に命じられる神様を見ることが出来ます。その御命令の結果は、『そのようになった。』です。神の創造の命令は、すべての被造物が聞き従うしかない全能の命令でした。誰も侵害できない、神の絶対的な力から、された創造なのです。そして、最後に、神は、その創造をご覧になり、『神はこれを見て、良しとされた。』です。神は、ご自分の創造を満足されたということでしょう。それから、私たちは神の創造が完璧だったことが分かります。神の創造は本当に完璧なものでした。創造は、このように仕上がりました。 2.神はこれを見て、良しとされた。 私は、その4つの語句の中で、一番意味深いものは、『神はこれを見て、良しとされた。』と思っています。皆さんが、ご覧になっておられる、この世界はいかがですか?本当に『見て良しとする価値のある世界』ですか?たぶん、そう思っておられないと思います。今の世界は全地が罪によって堕落し、神の御前でも、人の目にも決して、お見事な状態ではないと思います。人間の不義による、多くの犯罪、偶像崇拝、戦争、憎しみ、嫌悪に満ちた世界になっているのではないでしょうか。なぜ、神はこの世界を創造して、良しとされたのでしょうか?それは罪によって世界が歪められる前の世界の美しさをご覧になったからです。初めに神が人を造らたとき、神は人を意志のない人形のように、造られませんでした。人が、自分の意思で神の御心に従うことを望んでおられたからです。他のすべての被造物は意志なく、本能的に従っても、人間だけは、自らの意志を持って聞き従うことを望まれたのです。なぜなら、人は神の単なる被造物ではなく、愛しい子供だったからです。したがって、神は人には本能ではなく、理性を持って生きることが出来るように自由な意志を与えてくださいました。しかし、人間は神に与えられた、その自由意志を、神に従うことより、自分の欲望を満たすために間違って使ってしまいました。それは人間を信頼した、神への裏切りでした。その出来事によって、生まれたのが、まさにこの罪なのです。 罪は、その人間本人だけを台無しにしただけでなく、その人間が支配していた、すべての被造物にも悪い影響を及ぼしました。そのため、『神の御目に良しとされた世界』は、人間の罪のゆえに、もはや、『良くない状態』になってしまいました。しかし、そのように罪のために汚れた世界であるにも拘わらず、その創造の本質、『見て良しとする価値のある世界』であることは変わりません。人間の罪が、どんなに厳重なものであっても、その罪の影響が、全能なる神の創造の偉大さを完全に覆うことは出来ないからです。罪の力が、どんなに強くても、神の絶対性は損なわれません。なので、パウロは、ローマの信徒への手紙を通して、このように語ったのです。『世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。』(ローマ1:20)また、被造物は、依然として、その罪からの解放を待ち望んでいます。 『被造物は虚無に服していますが、同時に希望も持っています。 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。』(ローマ8:20-21)人間の罪が、どんなに汚くて強くても、決して神の創造の力と美しさ、そして、神の摂理を消滅させることは出来ません。そこに我らの希望があるのでしょう。 神に命と秩序をいただいて、造られた、この被造物の世界は、今は罪のゆえに苦しんでいますが、その罪から解放されれば、初めの善さと美しさを再び回復することになるでしょう。神が造られた、この世界の本質は相変わらず『良しとする価値のある世界』です。罪に汚されて、その初めの善さは覆われてしまいましたが、キリストが再び来られる、その再臨の日、この世界は、罪から完全に解放されて、最初の『神に良しとされる。』その状態を回復するでしょう。その時まで、完全には成れないと思いますが、少なくとも、この世界で、その良さと美しさを保たせるために、神は教会を立てられたのです。したがって、キリストによって、罪から解放された私たち教会は、主の力にあずかり、毎日毎日、世界に残っている、初めの善さを保つために生きていくべきだと思います。不義による犯罪、偶像崇拝、戦争、憎しみ、嫌悪を拒否し、私たちに委ねられた被造物を守り、神が望んでおられる良い世界のために力を尽くして生きていくべきです。これがキリストによって罪から自由になったキリスト者が、一生の間に追い求めるべき、キリスト者の在り方ではないでしょうか?キリストが再び来られる、その日、この世界は神に完全に良しとされた、その本質を回復するでしょう。キリスト者は、そのような良い世界を作っていくために、苦闘して生きていく義務を持っています。 3.創造の理由 – 礼拝 ある本で、このような内容を読んだことがあります。だいぶ、前に読みましたので、著者と本のタイトルは忘れてしまいましたが、かなり印象深い内容でした。神が創造された、この世界のまことの意味についての内容でした。要約すると『天は神の玉座、地は神の足台である。世界は神に礼拝をささげるための場所であり、人間はその場所で神に礼拝を主管する祭司、すなわち礼拝者である。』との内容でした。神が世界を創造し、最後に特別な存在である人間を造られた理由、神があれほど、世界を神の御目に良く造られた理由。そのすべての理由は、神が被造物を通して礼拝を捧げられるためです。特に、その中でも一番最後に造られた存在である人間は、自由な意志を持って、他の被造物を導き、神に礼拝を捧げる祭司の役割を持って生まれた存在です。なので、罪によって、その本当の姿から離れた人間を、赦してくださり、祭司として回復させてくださるイエス・キリストの役割は、特に重要なことでしょう。 したがって、人が神ではなく、その神が造られた他の被造物を拝むことは、神の創造の摂理を無視する不敬なことであり、神への礼拝を妨げ、冒瀆する行為なのです。私たちは、今も志免町と須恵町のあちこちで石の地蔵尊や宗教的な構造物を見ることが出来ます。太陽を神格化した天照大神の話を日本神話という名目で聴く時もあります。知らず知らずに太陽をお天道さまという尊称で呼んだりします。まだ、日本での生活が長くありませんので、私の知らない偶像が、たくさんあるかと思います。これらには、日本特有の文化としての意味をも持っているだろうと思い、盲目的に偶像崇拝だと言うのは難しいかもしれないと思う時もあります。私も時々、太宰府天満宮の庭で散歩を楽しんだりします。しかし、過去から受け継がれてきた、その文化の中に隠れている宗教的な、偶像崇拝的な意味に対しては、常に注意する必要があると思います。神は太陽、石、木、自然などのすべてのものを、ひとえに神への礼拝のための被造物として造られました。しかし、罪によって堕落した人間は、本当の礼拝の対象である神に向かわず、被造物を神格化して崇めてきたのです。世界が創造された理由は、神が被造物を通して、礼拝されるためでした。そして、人間は、その被造物の代表として、祭司の役割を尽くすために、神に仕えるために造られた存在です。私たちは、決して、それを忘れてはならないでしょう。 締め括り 2回の説教を通して、神の創造について探ってみました。神に愛された旧約のダビデ王は詩篇8篇で、このような美しい詩を残しました。 『主よ、わたしたちの主よ。あなたの御名は、いかに力強く全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます。そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ。主よ、わたしたちの主よ。あなたの御名は、いかに力強く全地に満ちていることでしょう。』(詩篇8篇中)神は、この世界を創造、神様の威光を照らしてくださいました。その栄光は依然として、この世界に満ちています。なお、その中で、特に人を選んでくださり、被造物の栄光になるようにしてくださいました。私たちは、そのような存在として、神が造られた、この世界で生きています。私たちは、何の理由もなく、この世に来ていません。神の生命と秩序をいただき、神に礼拝する礼拝者の使命を持って、この地に生まれました。したがって、当然に礼拝を受けるにふさわしい神のみを礼拝し、当然に守るべき私たちの礼拝者としての在り方を守りつつ、この被造物の世界に生きていくべきでしょう。創造の神は礼拝を受けるにふさわしい方です。その創造の法則に合致するキリスト者としての生活を生きていきましょう。そのような生き方こそ、私たちの主キリストが夢見ておられる生であり、私たちに求めておられる美しい生ではないでしょうか?