神が人をお造りになった。

創世記2章7-8節 (旧2頁) コロサイの信徒への手紙 1章15-17節(新368頁) 前置き 神は世界をお造りになりました。神は6日の間に、この世界を創られたのです。その期間が実際に144時間を意味する6日なのか、何千年を6日と表現した象徴的な意味なのか、現代に生きている私たちは理解することが出来ません。しかし、明らかなことは、6日と表現される、その間、神が手ずから世界を創造し、最後にその世界に御自分に象った人間を造られたということです。神は世界を創造され、それを『良し。』とされました。神は最も完全な姿で、この世の創造を成し遂げられたのです。ところで、神は人をお造りになった6日目の創造の後に、『極めて良かった。』と言われました。なぜなら、その日、人が創造されたからです。神は人を愛されました。神は御自分の愛しい子供のような存在として、人間を造られました。なので、その人間に神が満足して造られた、この世界を任せられたのです。神が人間を創造し、世界を託された理由は、人がすべての被造物を導いて神を礼拝するようになさるためでした。したがって、人間は、神の創造において最も中心になる重要な存在です。今日はこの人の創造について話してみたいと思います。 1.土の塵で造り、命の息を吹き入れる。 『主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。』(7)神は世界を御言葉でお造りになりました。神の御言葉は、単に耳に聞こえる音としての言葉を意味するものではなく、神の御意志、御心、御計画などを意味するものです。神は御自分の御心を完全に込めて、世界のすべての被造物を造られました。これにより、世界のすべての被造物は、自然に生まれたものではなく、地面の小石さえも、神の御心と御計画によって造られたということが分かります。ところで、特異なことに、人を造られた時は、御言葉だけでなく、被造物の中で一番価値のない、土の塵で人間を造られたということです。最も取るに足りない、塵を持ってお造りになりましたが、他の被造物との決定的な違いが一つあります。それは、神が塵で造られた人間に命の息を吹き入れてくださったということです。命の息を吹き入れるという行為は、他の被造物には許されない、非常に特別な創造の仕方でした。一番価値のない存在を、最も重要で輝く存在としてくださった、神の創造。神の支配下にある人間は、このような創造の秘密を通して、完全ではなくても、特別な存在として、神に愛されて生きていきます。 ここでの、塵の原文は『アパル』というヘブライ語です。アパルは塵、埃、灰などの何の価値のなく、地面に散らかっている土の塵を意味するものです。焼き物を作る泥や、レンガを作る赤土というより、なんの役にも立たない埃に近い存在です。そのような塵を集めて、体を造り、目を造り、人間をお造りになり、ほかの何にもお与えにならなかった、神から出てくる命の息を吹き込んでくださったのです。したがって、我々は一方では、塵のように無益な存在です。偉大な神の御前で何の価値もない弱い存在です。いつ命が奪われるのか、いつ消えてしまうのか、全く知らない有限な存在です。このように有限な存在にもかかわらず、永遠に生きるかのように、高慢と罪を抱いて生きる愚かな存在が、まさに人間なのです。しかし、他方では、人間は特別な存在です。特に、神の創造を信じるキリスト者は、自分の本質にしっかり気付いています。自分は塵のような者であり、埃のような存在であることを、確実に認識しています。そして、その塵のような自分をお選びくださり、愛と命をくださった方が、神であるということをも知っています。それを知る知恵があるから、特別なのです。したがって、私たちキリスト者は、謙虚に、そして感謝して生きるべきです。私に富と誉と力があっても、そのすべてのものが、神から来たものであることを謙虚に認め、生きていくべきです。偉大な神の御前で、私たち、人間はただの塵に過ぎない弱い存在だからです。 2.エデンの園 – 人間が当然に生きるべきところ。 『主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人を、そこに置かれた。』(8)歴史上、大勢の人々は、『エデンの園は実際に存在したのか?本物だったら、どこにあるのか?』みたいな好奇心のため、エデンの園への研究と探査に挑戦したりしました。しかし、今まで誰もエデンの園について、証明することは出来ませんでした。例えば、聖書には、エデンから4つの川が流れ出ていたと記されていますが、ピションとギホンとチグリとス、ユーフラテスとのことです。この中でチグリスとユーフラテス川は、実際に存在している川でありましたが、ピションとギホンは存在の有無が知られていない川です。また、ある人々はユーフラテス川流域にエデンと似ている地名のエディーヌという地域があり、そこがエデンの園だったかも知れないという仮説を立てたりしました。しかし、後にエディーヌとエデンは語源が異なるという研究結果が出て、その仮説の虛構も明らかになりました。つまり、それらのような、幾つかの理由から、エデンの園が実存した所なのか否か、善悪の知識の木の実があったかどうか、現代人は、その有無を知ることが出来ません。ひょっとしたら、このエデンの園は創造の6日が実際の6日なのか、それ以上のシンボルとしての表現なのか、分からないように、それと同じく実存していた場所である可能性もあり、神の楽園を象徴する、ただ象徴的な地名であったかも知れません。エデンの園は、果たしてどんなところだったのでしょう? 重要なのは、神は『エデンの園が持つ価値』を確かに実現なさるために、この世界を創造されたということです。それでは、エデンの園の価値とは、果たして何でしょうか?エデンはヘブライ語で『喜び』という意味の言葉です。神の支配の下で感じることが出来る、至高の喜びを含んでいる言葉だと考えても構わないでしょう。しかし、私はエデンに付いている『園』という言葉に関心を持って勉強してみました。私たちは常に、エデンの園を考える時、エデンのみを重んじて、園はただ修飾語くらいに見做したりする傾向があります。しかし、この園には、エデンに釣り合うほどの大事な意味が隠れています。園という言葉は、ヘブライ語の原文で『ガン』と言います。なので、エデンの園のヘブライ語の発音は、『ガン・エデン』なのです。『ガン』は、もともとヘブライ語ではなく、ペルシア語から借用した表現で、その意味は『水が湧き出る宮殿の庭』を意味します。日本は水の足りない国ではないので、どこでも河川が流れ、貯水池があり、田畑に水を供給することが難しくない国でしょう。だから、水の重要性を感じにくい国だと思います。しかし、聖書が記された中東地域は、いかがでしょうか?雨もあまり降らないし、降っても水が溜まらず、すぐに消えてしまいます。このような砂漠気候の中東で『水が湧き出る宮殿の庭』とは、命のような大きな祝福を意味するものでしょう。 エデンの園は砂漠の真ん中に建てられた、『爽やかな水が流れる喜びの庭』のような所です。つまり、神に創造された被造物が当たり前に追い求めるべき神の愛と支配が満ち溢れる場所を意味します。ここにエデンの園の真の価値があります。被造物が、そのような生の中にある時こそ、エデンの意味のように、喜びに満ちた生を享受できるからです。エデンの園は、神の最高の被造物である人が、当然追い求めるべき、神の支配を意味すると考えても、間違いではないでしょう。『わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』(ヨハネ7:38)新約聖書でイエス様が言われたように、エデンの園は、主の恵みによって、生きた水の川が流れ出る、信徒が必ず守るべき居場所を意味するものではないでしょうか。私たちは、創世記のエデンの園の話を通して、『昔、本当に存在した所なのか?』という好奇心より、『今私はエデンの園のような神の豊かな恵みの中で生きているのか?』という質問に自問自答してみる必要があるのではないでしょうか。エデンの園での生活とは、創り主、神の支配下で生きていく理想的な生を意味します。神の律法に反応する生活、キリストの福音につき従う人生、律法と福音による恵みの中で生きていく人生、これが、まさに現代に生きている私たちが追求すべきエデンの園での生活ではないかと思います。私たちは、そのような律法と福音の下での生活を追求し、日々の生活がエデンの園に適う生き方なのか、常に悩んで生きていくべきでしょう。 3.男と女をお造りになった。 『主なる神は言われた。人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』(18)、神は人を創造する時、男だけをお造りにはなりませんでした。主は男性と女性を、共に造ってくださいました。私たちは、神の人間創造を考える際に、主が男と女という複数の存在を造られたことを忘れてはいけません。男と女、両方をまとめて人と呼ぶのでしょう。つまり、男性と女性は、どちらも一方的に優劣をつけることが出来ない平等な存在なのです。古今東西を問わず、世界各国では、男性を女性よりも優位に置く傾向があると思います。聖書でも『彼に合う助ける者』として女性が造られたと記されているので、男が先に造られ、後で彼のために女性が造られたという印象を与えたりします。最近、日本で『愛の不時着』という韓流ドラマが大人気だというニュースを見たことがあります。そこに出てきた女性の出演者が、『男主人公が女主人公のためにエプロンをして、そばを作ってくれるのを見て、とても新鮮で、優しく感じられた。』と話しました。日本や韓国では男は家の外で働き、女は家事労働をするという観念が残っているようです。なので家内、奥さんという言葉を使うのでしょう? しかし、聖書が意味するところは、それではないでしょう。中世ユダヤ教の有名なラビであるラシという人は、この語句について、男性と女性として、近づかず、人と人の協力と助力として解釈しました。彼はこのように話しました。 『』この世の中で関係を結ばなくても、構わない存在は、たった神様御独りだけである。神を除く、すべての被造物は共同体との関係を結んで生きなければならない。」つまり、創世記が語る『彼に合う助ける者』とは、男性が女性よりも優れた存在であるという意味ではなく、女性が男性に属しているという話でもなく、男性と女性の結婚だけを強調する意味でもありません。むしろ、人と人は均等に互いに関係しあって生きていくべきだということを意味する解釈でしょう。これはユダヤ教の教えですので、キリスト者が如何なる批判もせず、受け入れかねる部分はあると思いますが、その中に私たちが教えてもらうべき部分もあると思います。それでは、よりキリスト教的に話してみましょう。 正直、キリスト教では、神は独りではありません。もちろん、神という存在は御独りですが、父と子と聖霊との三位一体という特別な形で存在し、独りの中で多様性を持って、世界を支配しておられるからです。教会はいかがでしょうか?私たちは、キリストと呼ばれる教会の頭を中心として、一人一人が教会の肢体となる共同体です。世界で誰も1人で生きることが出来ず、1人では生活も出来ません。神は人と人が助け合いながら、主に中で協力して生きなさいという意味で、男性と女性を創造されたのです。そして、その両方を合わせて人の創造としてくださいました。したがって、我々は、この言葉を男女差別の根拠として用いてはいけません。むしろ、神が異なる存在が力を合わせて、神の御心のために協力し合う生を望んでおられるという意味で理解すべきなのでしょう。私たちは決して一人で生きることが出来ません。キリストを中心に教会共同体を成して、お互いに大事にし、愛して生きるべきでしょう。『互いに相手を自分よりも優れた者と考え、 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。』(フィリピ2:3-4) 結論 今日、我々は人の創造について話しました。人は塵のように微々たる存在でしたが、神の命の息を受けて特別に生まれた存在です。したがって、私たち人間の本質には、塵のような虚しさもあり、神の命のような特別なものもあります。私たちの中にある特別なものは、自分からではなく、神から来たものであるということを覚え、高慢にならず、へりくだって神に仕えるべきでしょう。そして、私たちは神の支配の中で生きて行くべきです。キリストの福音に聞き従い、律法の言葉のように、神と隣人を愛して生きなければなりません。そのような人生こそが、私たちに許されたエデンの園での真の生き方ではないでしょうか。最後に人は、互いに助け合いつつ生きていくべきです。一人で特別になったり、一人で豊かになったりするのではなく、互いに分かち合って助け合い、愛して生きるべきです。神は神が創造された人間に、このような在り方を期待しておられるのではないでしょうか?神の特別な恵みによる創造に感謝し、神の言葉に従順にしたがい、神の喜びとなる志免教会になることを願います。主の祝福が来る一週間も豊かにありますように。