ヤコブがファラオを祝福する。

創世記47章1-12節 (旧85頁) エフェソの信徒への手紙1章22-23節 (新353頁) 前置き 長い長い創世記の説教の終わりが近づいています。2020年6月に創世記の1章で説教を始めて以来、もう3年近になっています。その間、私たちは創世記の言葉を通して、神の創造と人類の堕落、人類への主の救い(創世記に現れる部分的な救い、完全な救いはイエス·キリストによって成し遂げられる。)について話してきました。創世記は人類への神の祝福の記録です。神は祝福をもって人類を創造されましたが、人類は自らの罪によって神との関係を失い、呪われた存在となってしまいました。しかし、神は人類をあきらめられず、アブラハムという人を召され、神と人類が和解する道を作り始められました。神はアブラハムと息子イサクと孫ヤコブを用いられ、罪に満ちていた人類に、神の救いの道を伝える、主の民、イスラエル民族(ヤコブ部族)を造られました。そして、そのイスラエル民族を空の星と海の砂のように繁栄させるために、ヤコブの息子ヨセフをエジプトの総理として遣わし、彼を通してヤコブの家族をエジプトに移されました。その結果、出エジプト記になっては、数万人の大民族に栄えます。今日はヤコブの家族がエジプトに到着して経験した出来事について話してみたいと思います。 1.ヤコブとヨセフの再会 「ヨセフはファラオのところへ行き、『わたしの父と兄弟たちが、羊や牛をはじめ、すべての財産を携えて、カナン地方からやって来て、今、ゴシェンの地におります』と報告した。」(創世記47:1) 今日の本文が始まると、私たちは一つの地名を聞くことになります。それはゴシェンです。なぜ、ヤコブの家族はゴシェンにいたのでしょうか? まず、今日の本文には含まれていませんが、本文の直前の46章28節から34節にはヤコブとイサクの再会の場面が出てきます。「ヨセフは車を用意させると、父イスラエルに会いにゴシェンへやって来た。ヨセフは父を見るやいなや、父の首に抱きつき、その首にすがったまま、しばらく泣き続けた。」(創世記46:29) 過去、息子たちの元気と羊の群れの無事を確認するために送った最愛の息子が、行方不明になって以来、十数年ぶりにエジプトの総理として帰ってきたました。過ぎ去った歳月、神としては、ヤコブの家族を飢饉から救い、大いなる民として繁栄させるために、ヨセフをエジプトに遣わされたわけでしょうが、前後の事情が分かるすべのないヤコブとしては、実に苛酷な試練の時間だったでしょう。毎日、涙とため息で過ごしてきたはずです。しかし、今この瞬間、ヤコブはこの上ない喜びを感じたのでしょう。 とういうことで、ヤコブは言います。 「わたしはもう死んでもよい。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることができたのだから。」(創世記46:30) 神はヤコブの試練の末に、この上ない喜びを与えたのです。 ヤコブの試練は近くから見ると悲劇ですが、遠くから見ると喜劇です。もし、ヨセフが兄たちに売られずに、そのまま、ヤコブと暮らしたとしたら、大飢饉の中でヤコブの家族はどうなったでしょうか? 現代人にとっての飢饉は、それほど大きな問題にならないかもしれません。スーパーに行くと、変わらず米を買うことができ、水も足りないことがありません。しかし、古代人にとっての飢饉は命がけの問題です。今すぐに飲む水も、食べる穀物もなくなるからです。もし、ヨセフがエジプトに売られなかったら、ヤコブはしばらくの幸せだけで、後には飢饉によって滅びてしまったかもしれません。ヨセフがいなくなってから、ヤコブは長い間、悲しみで過ごさなければならなかったが、皮肉なことに、その結果は大飢饉からヤコブの家族が皆救われ、以後、神の御言葉通りに大いなる民族となることでした。私たちの人生の中に到底理解できない試練が近づいてくる場合があります。あまりにも、つらくて神が恨めしい時もあるかもしれません。しかし、私たちは憶えなければなりません。キリスト者の人生において、意味のない苦難はありません。今の苦難は私たちを養われる神の計画の一部です。もちろん自分の過ちによってやって来る苦難は自業自得でしょうが、自分の過ちなしにやって来る苦難は、神の祝福のための準備段階である可能性が高いです。ヤコブとヨセフの再会を目の前にして、私たちはこのような信仰を持つべきではないかと思います。 2.流浪のヤコブ、ゴシェンに住む。 父親との涙ぐましい再会の後、ヨセフは兄たちに、このように頼みます。「ファラオがあなたたちをお召しになって、『仕事は何か』と言われたら『あなたの僕であるわたしどもは、先祖代々、幼い時から今日まで家畜の群れを飼う者でございます』と答えてください。そうすれば、あなたたちはゴシェンの地域に住むことができるでしょう。羊飼いはすべて、エジプト人のいとうものであったのである。」(創世記46:33-34)ゴシェンはナイル川河口の東側にある草原地帯と推測されます。今でもグーグルマップを見ると、他の地域は砂漠であるに対し、そこは緑の地域であることが分かります。47章では、ヨセフの頼みのように、兄弟たちがファラオに自分たちは牧畜をする者と言いました。「ファラオはヨセフの兄弟たちに言った。『お前たちの仕事は何か。』兄弟たちが『あなたの僕であるわたしどもは、先祖代々、羊飼いでございます』と答え」(47:3) 彼らの答えに対し、ファラオは彼らがゴシェンに住むことを許可します。ここで気になる表現があります。46節34節の「羊飼いは、いとうもの」という表現です。ここで、羊飼いとは流浪民のことだと思われます。中世ヨーロッパのジプシー、現代アメリカのヒッピーなど、人々には定着せず、さまよい続ける人々を避ける傾向があります。歴史上、流浪民族が周辺民族を略奪したという記録が残っていますが、おそらく、その影響もあったと思います。詳しい理由はわかりませんが、流浪民族は定着民族に嫌われる傾向がありました。 最初から、ヤコブの家族はカナンの定着民族ではなく、流浪民族でした。その流浪民族がエジプトに入ったわけです。エジプトの人々は、彼らが、もしかすると自分たちに被害を及ぼすのではないかと警戒していたかもしれません。ですから、牧畜に適していて、エジプト人と離れたゴシェンの草原地帯にヤコブ一家がいることが良いと思ったでしょう。流浪民としてエジプトに来たヤコブの家族は、ゴシェンの地でエジプト人と区別されて暮らしていましたが、400年後に再び流浪民として、エジプトから脱出することになります。ここで、私たちはキリスト者のあり方について考えさせられます。キリスト者は昔の流浪民族のように人々に被害を及ぼす存在ではありませんが、しかし、流浪民族のように、この世に定着することもない存在です。なぜなら、エジプトのような、この世はキリスト者の目的地ではないからです。キリスト者は、世の中とは区別されたゴシェンのような存在である教会として生きながら、いつか帰るべき、神の国を待ち望みつつ、人生を歩んでいく存在です。ですから、私たちはこの世に属した存在ではありません。私たちはこの世ではなく、神に属した主の民です。 つまり、私たちの故郷は神のふところなのです。キリスト者はこの世と区別された、この世の人々にいとうものとされる(彼らと違う)存在です。でも大丈夫です。私たちは主に従って神の国に入る、世の中とは区別されたゴシェンのイスラエルの民のような存在だからです。 3.ヤコブがファラオを祝福する。 「それから、ヨセフは父ヤコブを連れて来て、ファラオの前に立たせた。ヤコブはファラオに祝福の言葉を述べた。ファラオが『あなたは何歳におなりですか』とヤコブに語りかけると、ヤコブはファラオに答えた。『わたしの旅路の年月は百三十年です。わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません。』ヤコブは、別れの挨拶をして、ファラオの前から退出した。」(創世記47:7-10)以後、ヤコブはファラオを謁見しに、彼の前に立ちます。その時、ヤコブはファラオに祝福の言葉を述べます。私たちは、この世とは区別された存在ですが、この世へ神の祝福を宣べ伝える存在です。祝福は目上の人が目下の人にすることです。神がこの世を祝福なさるのです。ヤコブがファラオを祝福したのは、ヤコブという人間ではなく、神の代理人として、ファラオに治められるこの世に祝福したのです。しかし、ここで、この世とは罪に染まり、悪があふれる世の中を意味するものではありません。罪がより大きくなり、悪がより隆盛するよう祝福するわけではありません。神の創造の摂理によって、この世が神に立ち戻り、神の御心が、この地上で成し遂げられるように祝福するということです。おそらく、ヤコブはファラオがこの世をうまく治め、神の御心にふさわしく生きることを祝福したのではないかと思います。 ヤコブは、今まで生きてきながら、多くの苦難を経験しました。130年という年月、人生の疲れをしみじみと感じてきたでしょう。しかし、その歳月が積もれば積もるほど、ヤコブは神が共におられること、神の恵みを切実に経験してきたでしょう。キリスト者としてこの世を生きるということは、本当に大変なことです。とりわけ、キリスト教が大衆的でない日本ではなおさらでしょう。しかし、主の祝福は大きな教会、小さな教会を問わず、平等に与えられます。そして、私たちはその神の祝福を世の中と分かち合いながら生きていくべきなのです。私たちは罪に満ちた世の中で、神の祝福を所有している存在です。キリストの愛を私たちが伝えなければならないということです。創造主の祝福が教会に託されているということです。「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エヴェソ書1:22-23) 教会は万物を満たしている方が、満ちておられる所だからです。つまり、教会の使命は、主の祝福をこの世に伝えることです。私たちの人生において、主の恵みとお導きを通じていただいた、すべての物事を用いて、私たちは世の中に主なる神の祝福を伝える祝福の通り道にならなければなりません。私たちのそのような生き方は、神がアブラハムに約束された「君は祝福の源となる。」という言葉の継承になるでしょう。 締め括り 今日の話しをまとめます。第一、キリスト者の人生に理由のない苦難はありません。苦難は私たちを成長させる神の計画の一部です。私たちはいつか苦難さえも主による祝福の道具だったと感謝することになるでしょう。第二、私たちは世の中と区別された神に属する存在です。私たちの居場所はこの世ではなく、神の国であることを憶え、世の中の価値観に心を奪われないように気をつけて行きましょう。第三、教会は、この世に神の祝福を宣べ伝える祝福の通り道です。世の中と区別されるものの、世の中に絶えず祝福の主を伝える共同体として生きていきましょう。私たちは神に呼び出されたキリストの教会です。私たちのあり方が世の中のそれとは違うということを心に留め、主の御心と御言葉に従順に聞き従う群れとなりますように祈ります。 父と子と聖霊の名のもとに。 アーメン。

エルサレム神殿の崩壊。

アモス書 9章1-4節 (旧1440頁) マルコによる福音書13章1-13節 (新88頁) 前置き 今日の本文で、主は神殿の崩壊を予告されます。これまで、数回の説教を通して、主が神殿で経験された様々なエピソードをお話しましたが、結局、主はエルサレム神殿が本来の機能を失い、ただ、人の欲望だけを満たす有名無実の場所になっているのをご覧になり、裁きと滅びを予告されたわけです。神はなぜ、神殿をくださったのでしょうか。神殿は地上の民が、天の神と会う礼拝の場です。神は神殿の至聖所で大祭司を通して民と会ってくださいました。イザヤ書は、この神殿を祈りの家と呼びました。しかし、実状はどうだったでしょうか。 メシアを歓迎することも、貧しい隣人を愛することもない場所になっていました。そこには宗教的な見掛けが残っているだけで、神への真の信仰と隣人への奉仕が欠けていました。神殿は人間の欲望だけが沸き立つ強盗の巣になっていました。そういうわけで、主は神殿の滅びを予告されたのです。「わたしは祭壇の傍らに立っておられる主を見た。主は言われた。柱頭を打ち、敷石を揺り動かせ。すべての者の頭上で砕け。生き残った者は、わたしが剣で殺す。彼らのうちに逃れうる者はない。逃れて、生き延びる者はひとりもない。」(アモス9:1) 主は新約の神殿である教会を甘やかされません。教会の罪を見逃されません。ですから、私たちは常に自分のことを弁え、主の御心に適う教会として建てられていくべきです。 とういうことで、今日は神殿について考えてみたいと思います。 1.神殿の崩壊を予告される主。 まず、エルサレム神殿について話してみましょう。歴史上、社殿は3つの形であったと言われます。一番目は、ソロモン王が父ダビデの遺志を継ぎ、神のお許しをいただいて建てたソロモン神殿で、バビロンの侵略によって崩れました。二番目は偶像崇拝と多くの罪によってバビロンの捕囚となったイスラエルが、以後、ペルシャ帝国の許可を得てユダヤに戻り、再建したゼルバベル(当時総督ユダヤ王族)神殿です。そして、3番目は、ゼルバベル神殿を増築したと言われるイエス時代のヘロデ神殿です。このヘロデ神殿は西暦70年にローマ帝国とユダヤ人の戦争で粉々に崩れてしまいます。先ほど、申し上げたように、神は民との会いの場所として神殿をくださいました。この神殿は祈りと礼拝を通して神に会う聖なるべき場所でした。なのに、ユダヤの指導者たちはローマ帝国、そして商人たちと結託して神殿を商売の場にしてしまいました。また、彼らは神に遣わされたメシアイエスを見分けられず、むしろ迫害し、憎み、結局は殺そうとしたのです。主さえも見違えるほど、暗くなっていた彼らが隣人愛なんてしていたものでしょうか。 つまり、礼拝の場所が裏切りの場所になってしまったということです。だから、主は神殿の必要性がなくなったと判断され、その結果として神殿の崩壊を予告されたわけです。今日の本文1節で弟子たちはエルサレム神殿を見て感心します。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」 弟子たちは愚かにも、神殿の問題点を見抜くことができず、ただ素敵なうわべだけに圧倒されていたのです。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」しかし、主は弟子たちの考えとは裏腹に、決然と神殿の崩壊を予告されます。以後、神殿の反対側のオリーブ山に登った時、弟子たちはきまり悪く尋ねます。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」(13:4) 興奮してエルサレム神殿の威容を称えていた弟子たちは、主の御言葉に驚いたわけか、いつ神殿が崩れるのか、その時にどんな徴があるのか尋ねます。それに対して主は5-13節のことばで、神殿の崩壊の徴を言われます。何度も申し上げましたが、新約時代においての神殿とは、教会堂のような建物ではなく、主を頭とする教会共同体を成している私たちです。旧約の神殿が神殿としての機能を果たしていなかった時、主は惜しげもなく神殿の崩壊を宣言されました。主はまた、新約の神殿である教会が教会らしくない時「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」と警告される方なのです。人が多くなり、建て替えするからといって素晴らしい教会になるわけではありません。どんなに素晴らしい教会だと言っても、主の御心に適わなければ、その教会はまるで粉々に崩れてしまった旧約の神殿のように主の裁きを受けることになるでしょう。 2.霊的な神殿を崩す惑わす者 文脈を考えずに13章を読むと、その内容がまるで、この世の終末を示しているようです。もしかしたら、ヨハネの黙示録が思い出されるかもしれません。実際、13章の一部である14節以降の言葉は、世の中の終末の時を想定して読んでも構わないと言う学者もいます。しかし、私たちは今日、1節から13節の言葉について話しています。また冒頭に神殿の崩壊という表現もありますので、神殿の崩壊という脈絡で、この言葉を考える必要があります。「イエスは話し始められた。人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。」(5-6) 主は神殿の崩れの時について明確には言われませんでした。しかし、主の御名を名乗る者が現れる時について言われました。実際、当時のユダヤには、自称メシアが何人かいたと言われます。しかし、最大の自称メシア(キリスト、救い主)は、ローマ帝国の皇帝でした。ユダヤの指導者たちは、自分らの安寧のためにローマ帝国に屈服し、神より人の権力をさらに恐れていました。世の中には、すでに自称キリストが存在し、神殿は崩れる一歩手前の状況だったのです。私たちも、いつも惑わす者に注意しなければなりません。キリスト以外に他の救い主を強要するカルトなどに注意しなければなりません。しかし、最も注意すべきのは、私たち自身の心です。主の言葉より先立つ自己信念、教会の和合を乱す自己欲望に注意しなければなりません。 主イエスの福音ではなく、自分の思想を強要する牧師に注意しなければなりません。互いに対立して教会を分裂させる人にならないように注意しなければなりません。これら、すべてはキリストの御言葉より自分自身の思いを押し立てることによって生じるものです。「惑わす者」とはキリストのみ言葉に逆らい、それを広める者です。英語で「アンチ·キリスト」です。自分自身もアンチ・キリストになりうるということを用心して、常に信仰と生活を顧みて生きるべきです。自分の間違いによって新約の神殿である教会が崩れうるということをいつも心に留めて生きましょう。かつて日本帝国では、今とは比べ物にならないほど民族主義の勢いが強かったです。信徒たちの中にも自分の信念に陥ってしまい、キリストの上に天皇を置くというおかしい状況が起きました。その結果、教会はキリストを礼拝する共同体ではなく、日本帝国のための教会になってしまいました。礼拝の前に宮城遥拝がありました。日本の教会だけではありません。植民地の教会も同じだったのです。教会の指導者たちが教会を守るという名目で教会の頭であるキリストを裏切りました。御言葉の先に人が立ってしまったのです。その結果、主の教会はまるで旧約の神殿のように機能を失ってしまいました。これこそが教会の崩壊なのです。霊的な神殿の崩壊なのです。私たちは過去の先達が犯した間違いを二度と繰り返してはなりません。惑わす者を拒み、キリストのみに服従する教会になることこそ、霊的な神殿である教会を丈夫に建てていく一本道なのです。 3。 「自分」という古い神殿を崩せ。 今までは、神殿を教会のモデルとして適用して話していましたが、これからは見方を変えて、古い自分の信仰という見方から考えてみたいと思います。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(第一コリント3:16) 第一コリントは、信徒が神の霊の住い、神殿であると表現しています。キリストのからだとなった教会を成す私たち一人一人が神が住んでおられる神殿なのです。ところで、新約の神殿の一部となった私たちも、習慣的になった信仰のゆえに、まるでイエス時代のエルサレム神殿のように生気を失った習慣的な信仰者になっているのかもしれません。私が最も懸念している信仰の姿。それは定型化された宗教生活を信仰だと思い違える姿です。もし、私たちにそのような姿があるとすれば、私たちは「自分」という古い神殿を崩さなければなりません。 そして、主の恵みによって新たになった神殿として建てられなければなりません。その時に必要なのが、私たちに与えられる苦難なのです。神は信徒の苦難を用いられ、信徒を新たにしていかれる方からです。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。」(7-8) 戦争の騒ぎは、戦争そのもの、戦争のうわさは社会的な不安のことでしょう。 地震と飢饉は自然災害のことでしょう。このような恐ろしいことが神殿の崩壊の時に起きると、主は予言されました。実際にエルサレムの神殿が崩れた時の、ユダヤの状況は修羅場だったと言われます。ユダヤとローマの戦争があり、パレスチナの情勢は非常に不安定だったようです。また、地震や飢饉もあったと言われます。これは歴史的な背景です。しかし、 個人の信仰として「自分」という古い神殿が崩れる時も、心の中で、このようなことが起こることもあります。思い煩いと人間関係の試練、生活の困難による心細さ。しかし、このようなことがある時に漠然と恐れるより、自分の信仰を振り返り、神に目を向けるきっかけになれば幸いです。このようなすべての苦難は古い神殿のような私たちの信仰を崩し、新しく建てれた神殿、すなわち神の御前に健全な信仰者として生まれ変わる産みの苦しみ(産痛)の始まりだからです。旧約の神殿の没落は、主の教会を世界中に広める促進剤となりました。宗教の中心がもはやエルサレムではなくイエス·キリストに替わりました。そうして、教会は古い神殿を離れ、新しい神殿に生まれ変わったのです。このように私たちの信仰にも古い神殿の崩壊が必要です。そうしてこそ、主のからだと認められる教会の一員として新しい神殿として建てられるからです。 締め括り 今日は、時間の関係で、本文全体を説教することはできませんでした。残りの箇所は次の説教でまた話しましょう。今日の説教は多少抽象的な説教だったと思います。実際、13章自体が説教するに難しい本文です。しかし、その中でも、私たちの信仰生活に適用できる部分があったと思います。今日の説教で話した内容を、もう一度整理してみましょう。第一、神殿が神殿らしくない時、主は神殿を滅ぼされました。教会が教会らしくない時、教会も裁かれるでしょう。第二、霊的な神殿である教会は、キリストの御言葉より人間の思いを先立てる時に崩れるでしょう。第三、「自分」という古い神殿が崩れてこそ、キリストのからだという新しい神殿、真の教会に生まれ変わることができるでしょう。だから、苦難は私自身を新たにする産みの苦しみの始まりでしょう。私たちは、主のからだ、新約の神殿としてどう生きているでしょうか。今週も私たち自身が神の住い、神殿であることを憶え、神の神殿として正しく生きているかどうか振り返って生きていきたいと思います。主の恵みが志免教会をなす皆さんの上に豊か注がれますように。 父と子と聖霊の名によって。アーメン。

神の教会

出エジプト記19章3-6節 (旧124頁) ペトロの手紙一2章9節 (新429頁) 前置き 今日は、2023年度の志免教会の総会の日です。私たちは今日の総会を通して、昨年の歩みを顧み、また今年の歩みを準備して、主の共同体である教会にうまく仕えていくために一緒に話し合います。そして、今年の志免教会の主題聖句は「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ書2:22)であります。主が打ち立ててくださった神の住まいである志免教会が、どういう存在なのかを学んでいく一年でありますように祈ります。そういう意味として、今日は「教会」という共同体について考えてみたいと思います。今年のテーマが「教会について学ぶ。」ですので、今年は時々、特に第5週目の日曜日には教会についての説教をしていきたいと思います。私たちは、なぜここに集って志免教会を成し、教会を私たちの人生の最も大事なものとして生きるのでしょうか? 今日の説教を通して教会の意味について聖霊なる神が教えてくださることを祈ります。 1.教会の原型 – 神に選ばれた祭司の王国。 教会はいつから存在してきたのでしょうか。まず、日本で呼ばれる教会という表現はあくまでも「漢字語」的な表現です。おそらく中国にキリスト教が伝えられた時に名付けられ、日本にも伝わったわけではないでしょうか? 私たちは「教会」という漢字語のゆえ、つい教会を「聖書を教えるところ、説教を聞くところ」という、何かを教え、学ぶところというイメージで認識しているかもしれません。しかし、「教会」と訳された本来の単語であるギリシャ語「エクレシア」は教えるところという意味ではなく「外に呼び出された者たち」という意味です。もともとエクレシアは、ヘレニズム文化圏での市民の集まりである世俗的な民会を意味する表現だったと言われますが、キリスト教が打ち立てられた後、キリスト者だちはエクレシアを教会を意味する表現として使い始めました。ところで、面白いことに、 旧約にも「エクレシア」とそっくりの表現があります。それは「カハル」です。このカハルも「呼ばれて集まった者たち」という表現ですが、旧約のイスラエル人の集まりを指す単語(集会)で、旧約聖書ギリシャ語訳ではカハルをエクレシアと訳しています。つまり、教会を意味する「エクレシア」という表現が使われたのはイエス以来ですが、旧約のヘブライ語にも教会(エクレシア)に相当する表現があったということです。とういうことで、教会の原型はイエスのご到来前にも、すでにあり、イスラエルの神の名のもとで、その民が集まったところは神の共同体(教会)として認識されていたことが推測できると思います。 ここで重要なのが「呼び出された者たち」という表現です。「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。」(出エジプト記19:5) 19章はエジプトから脱出し、神のご臨在の場所であるシナイ山に着いたイスラエルの民に、神が主の御言葉を与えてくださる場面です。5節で「私の宝となる」という表現は直訳です。意訳で表現すると「あなたたちはすべての民の中で、わたしだけの所有となる。」と言えます。つまり、主の宝物とは、神に呼び出され、選ばれた、神だけのものであるということです。神はなぜイスラエルをエジプトから脱出させ、主の所有として呼び出してくださったのでしょうか? その答えは次の節に出てきます。「あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」つまり、主は罪によって汚された、この世を意味するエジプトから主の民であるイスラエルを呼び出して、神を崇める祭司のような国(神に礼拝する存在)、この世から聖別された存在にするために、主の民を召されたのです。したがって、私たちは教会の原型を旧約聖書の出エジプト記から見つけることが出来ると思います。私たちはそれぞれ、違う国と民族に生まれ、互いに異なる文化と仕来りの中で生きてきましたが、神の民という同じアイデンティティをいただき、神の民となった共同体、すなわち教会として集いました。私たちが集まるようになった理由は、神に礼拝を捧げる祭司のような共同体、世の中から聖別された神の民の共同体として神に呼び出されたからです。 2.教会の存在理由 – 主の福音を宣べ伝える存在。 そのため、使徒言行録7章37、38節で、執事ステファノはこう述べているのではないかと思います。「このモーセがまた、イスラエルの子らにこう言いました。『神は、あなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。』この人が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです。」ここで荒れ野の集会という表現の中で「集会」が、まさにギリシャ語で教会を意味する「エクレシア」と表現されます。もちろん、エクレアには民会という非宗教的なニュアンスもありますが、使徒言行録の著者の神学に基づくと、旧約の教会という認識が込められて書いてあるわけではないでしょうか。さて、主の教会は、ただ神への礼拝だけのために呼ばれた共同体なのでしょうか? 神は宗教儀式としての礼拝だけのために教会を打ち立ててくださったでしょうか。つまり、私たちは教会という共同体の存在理由について考える必要があるということです。使徒ペトロは上記の出エジプト記19章5節、6節の言葉を引用して、自分の手紙にこのように書きました。「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」(第一ペトロ2:9) ペトロは、前の出エジプト記19章5-6節の言葉のように、新約時代の教会が主に選ばれた王のような祭司であり、聖なる国民であり、主のものとなった民であると言いながら、その存在理由も一緒に述べました。それは「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるため」だったのです。 「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」という、この言葉はどういう意味なのでしょうか?複雑に解説書を参考にしたり、原文を分析したりしなくても、読むだけで「暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れ」という表現が、罪によって堕落した罪人を救うという意味であることはお分かりだと思います。また、ヨハネによる福音書に、こんな言葉がありますが、「初めに言があった。…言は神であった。…言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(ヨハネ福音書1:1-4一部)これを参考にして光とは何かについて推し量ることが出来ると思います。つまり、真の光であるイエス·キリストへの「導き入れ」すなわち、その方に属するように神が導いてくださったという意味ではないでしょうか? ペトロはそれが、まさに神の力ある御業であり、教会にはそれを宣べ伝える務めがあるということを語ったわけです。光であるイエスによって罪人を救い、主イエスのものとしてくださったのが、まさに神の力ある御業であるということであり、それを宣べ伝えるのが教会の務めであるということでしょう。とういうことで、この言葉は福音伝道を示す言葉だと思います。それでは説教の始めに語った話と、この話を合わせるとどうなるでしょうか。「第一、教会は神に礼拝するために呼び出された共同体である。 第二、神に呼び出された教会はイエス·キリストの福音を宣べ伝える共同体である。」のようにまとめることができると思います。 締め括り 神学校の科目の中に、組織神学という学問があります。キリスト教の信仰内容を現代の文脈に即して捉え直し、理解を深めて行く学問です。そして、その中には教会論という分野もあります。それだけにキリスト教は教会を大事なものとして扱っています。教会論の全体を話すと、おそらく何日もかかるかもしれませんので、今日はすべての話をすることができません。ただ、今日は教会という共同体が 如何なる経緯で存在するようになったのか、また何のために存在するのかについてお話しました。教会は神に礼拝する共同体です。つまり、神への愛を主日の礼拝において表し、その礼拝を始めにして、一週間の日常そのものを礼拝にしていくことで神への愛を再び表します。また、教会は教会の外の存在にキリストの愛と救いの福音を宣べ伝える存在です。「イエスを信じなさい。」という言葉だけを伝えるわけではなく、イエスに属した主のものとして、主の愛を私たちの生活の中で実践し、隣人にキリストの福音を伝えることです。ですから、教会は、この会堂を指すわけではなく、ここに集い、神と隣人を愛する私たち自身のことなのです。今日、私たちは人の価値基準と考えではなく、神への礼拝によって愛を示し、隣人への愛によって、主の福音を宣べ伝えるという、教会のアイデンティティに基づいて、総会に臨みたいと思います。今日の説教は短いですが、教会の存在理由と務めについて、顧みる機会となれば幸いです。主に礼拝する共同体、福音と愛をもって隣人に仕える共同体、志免教会が追い求めるべきあり方ではないでしょうか。そのような志免教会として歩んでいくことを心より祈り願います。 父と子と聖霊の名によって。アーメン。

神の変わらない約束。

創世記46章1-7節 (旧83頁) ローマの信徒への手紙8章33-35節 (新285頁) 前置き ヤコブの最愛の息子ヨセフは、兄たちに憎まれ、エジプトに売られてしまいました。しかし、神のお導きによって祝福され、あらゆる困難を乗り越えて、最終的にエジプトの総理になりました。また、彼は神からの知恵により、ひどい大飢饉を見抜き、あらかじめ徹底して備えました。彼が治めるエジプトは大飢饉でも、食糧を売ることが出来るほど、豊かになりました。そんなある日、皮肉なことに、そのひどい大飢饉によってヨセフは家族と再会することになります。食糧が底をついたヤコブの家族が穀物を買うためにエジプトに来たからです。神と長い間、歩んできたヨセフは、信仰によって兄たちへの恨みを振り払い、自分は兄たちに売られたわけではなく、イスラエルを救うために神に先立って遣わされたと告白しつつ彼らを赦しました。そして、父と家族全員をエジプトに呼び入れました。神はヤコブの家族の悲劇を用いられ、むしろヤコブの家族に生きる道を備えてくださったのです。近くから見ると悲劇だったことが、遠くから見ると恵みであったわけです。人知を超える神のお導きがヤコブの家族を大飢饉から救ったのです。 1.エジプトへ呼び入れ、しかし、先にベエル・シェバへ。 キリスト者は、主のお導きの恵みを信じて生きる存在です。今、自分の人生が、たとえ自分の予想とはまったく違うようになってしまっても、その中に主の御心が必ずあるということを信じ、主のお導きを待ち望んで生きるということです。そのお導きを待ち望むのが、まさに信仰なのです。時には、自分が乗り切れないほどの、悲しみと苦しみが襲ってくる場合もあります。そのような時、私たちは絶対に信仰を諦めてはなりません。神が必ず導いておられ、最も善い道を備えておられることを信じるべきです。私たちの人生のすべての経験が、結局、神のご計画によって最も善いものとして戻ってくると信じたいです。神のお導きの恵みへの信仰で生きていくことを願います。キリスト者の喜怒哀楽が一つになって、結局は神の祝福として戻ってくるということ、それがヨセフの物語から学ぶ大事な教訓ではないでしょうか。さて、すでに死んだはずの最愛の息子ヨセフが生きているという知らせを聞いたヤコブは驚きました。おそらく彼は夢を見ている気持ちだったでしょう。一日も早くエジプトに行って出世した息子との再会を願望していたはずです。 いや、ヤコブが出世できず、依然として奴隷だったとしても、ヤコブは一息にエジプトに駆けつけて、全財産を払ってでも息子を救おうとしたでしょう。それが父の愛だからです。なのに、その息子が大帝国の総理だなんて、信じられなかったでしょう。「イスラエルは、一家を挙げて旅立った。そして、ベエル・シェバに着くと、父イサクの神にいけにえをささげた。」(創世記46:1) しかし、ヤコブはすぐにエジプトへ足を運びませんでした。彼はまずベエル・シェバに着き、アブラハムとイサクの神にいけにえを捧げました。ベエル・シェバはアブラハムとイサクの信仰の場所でした。かつてアブラハムとイサクがそこで神の名を呼び、いけにえを捧げると、神は彼らに現れて言われました。ヤコブもエジプトに向かう前にいけにえを捧げ、神はヤコブにも現れて主の御言葉をくださいました。新約聖書マタイによる福音書6章33節でイエスはこう言われました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」 神の国を求めるというのは、神の御心によって治められる神の国の国民として、神に従順に聞き従いなさいという意味であり、義を求めるというのは、キリストによって神の義をいただいた者として、民らしく生きなさいという意味です。そうすれば、神がご自分の民のすべてのことを導かれるということです。昔、かかとをつかむ者、すなわち、だます者というあだ名で呼ばれたヤコブでしたが、その人生の中に共におられた神は、ヤコブを信仰へと導き、生まれ変わらせてくださいました。若き日のヤコブだったら、おそらく権力者になった息子を通して、利益を得ようと神の御心とは関係なく、自分勝手に動いたでしょうが、一生の間、数多くの苦しみと思い煩いを信仰によって乗り越えてきたヤコブは、もはや、神の民としてのアイデンティティを身につけ、自分の思いではなく、神の御心を問うようになっていたのです。 「その夜、幻の中で神がイスラエルに、ヤコブ、ヤコブと呼びかけた。」(創世記46:2) キリスト者である私たちも、自分の思いのまま、動く前に神の御心とは何か、主に問うて生きべきなのです。自分の思いの前に神の御心を先に聞こうとすること、キリスト者の信仰生活の基本なのです。 2。 神がエジプト行きをお許しになった理由。 「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。」(創世記46:3) ここでしばらくエジプトについて考えてみたいと思います。創世記の説教の序盤、アブラハムについて取り上げた時、私たちはアブラハムが神の御心を問わずに、勝手にエジプトへ下った出来事について話しました。 当時、神はアブラハムのエジプト行きを喜ばれませんでした。また、出エジプト記でも、エジプトをイスラエルを迫害する絶対的な悪のように描いています。旧約聖書では、時々エジプトを「罪」の象徴として描く場合があります。なのに、なぜ神はヤコブの家族のエジプト行きを許されたでしょうか? ある神学者は、ヤコブの息子たちのカナンでの偶像信仰を根絶するために、神がヤコブ家をエジプトに行かしたとも言いました。しかし、エジプトも代表的な罪の象徴なので、説得力が弱いと思います。それで、私はこう解釈したいと思います。エジプトがたとえ「罪」を象徴する場所だったとしても、神にはその罪を圧倒する力があったからではないでしょうか。 たとえば、ある意味で、私たちは「世の中」という霊的なエジプトに住んでいる存在であるかもしれません。この世は罪に支配される汚された場所だからです。しかし、神はそのような世の中でも、イエス•キリストを通してご自分の民を選び、呼び出して、主の共同体である教会にしてくださいました。 主イエスの血によって清められ、神の民というアイデンティティを持って生きるようにしてくださったのです。世の中がいくら罪によって汚されたといっても、神は全くお気になさらず、この世にこられ、民を救ってくださったのです。神には罪に勝利する力があり、罪によって汚されない至高の神聖さがあるからです。神であるイエス•キリストが人になり、罪人の代わりに死に、復活されたのも、まさにこの罪に勝利する主の力のためではないでしょうか。神は罪の象徴として描かれるエジプトでも、ご自分の民を育てられ、御心によって呼び出すことが出来るお方です。いかなる罪にも妨げられず、私たちを清め守ってくださる神、私たちは、そのような偉大な神を信じているのです。 3。 変わらない神の約束。 「わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう。」(創世記46:4) このように神は罪を象徴するエジプトでも、常にイスラエルと共におられ、時がくれば必ず連れ戻すと予言されました。実際、神はアブラハムにも、似たようなことを言われました。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。」(創世記15:13-14)、神がヤコブのエジプト行きをご自身で命じた理由は、アブラハムとの約束を成し遂げられるためでした。彼らがエジプトに行っても、神は必ず彼らを無事に戻すと約束されたからです。神にはそのような力があるからです。神の約束は絶対に変わりません。主の約束は必ず成就します。その約束は神の存在のように永遠に変わらないのです。 締め括り このアブラハムとヤコブへの神の約束は出エジプト記で一部成就します。そして、主の御言葉通りに、アブラハムとイサクとヤコブの子孫は空の星のように、海の砂のように繁盛します。また、新約時代になってはイエス•キリストを通じてもう一度その約束が完全に成就します。罪に支配される霊的なエジプトである、この世の中で、神はまるで出エジプト記のモーセのようなイエス•キリストを通して罪の支配下で、奴隷のようになった私たちを救ってくださいました。そして、乳と蜜の流れるカナンのような神の国の国民として私たちを召されたのです。私たちの教会は、その神の国の影のようなものです。今後とも、その神の約束は変わりません。これに対して使徒パウロはローマ書で、こう言いました。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」(ローマ書8:35) 神がアブラハムとイサクとヤコブになさった、いつまでも共におられるという約束は、イエス•キリストによって私たちにも適用されます。今日、ヤコブは罪を象徴するエジプトに入ります。私たちも罪が支配するこの世に生きています。しかし、主はその約束に基づいてヤコブとその子孫を守り、また、その霊的な子孫である私たちも守ってくださるでしょう。それを信じる私たち志免教会であることを祈り願います。

まことの信仰。

サムエル記上15章22節 (旧452頁) マルコによる福音書12章35-44節 (新87頁) 前置き 久しぶりにマルコによる福音書を説教することになりました。約1ヶ月半ぶりです。それで、説教を始める前に前回の説教について手短に触れてから、今日の本文に入りたいと思います。11章12章の本文の主な内容はユダヤの宗教指導者たちの挑発的な質問に対する主イエスのお答えでした。権威についての論争、ローマ皇帝に税金を払うべきかどうかについての論争、復活についての論争、最も重要な掟は何かについての質問など。当時のユダヤの宗教指導者たちがどれほど聖書と信仰を誤解していたのか、現実を赤裸々に明かす内容でした。今日の本文も、そのような宗教指導者の間違いを告発する内容です。今日の本文を通して、主は私たちに何を教えてくださるでしょうか? 一緒に考えてみましょう。 1.主の御言葉への理解 今日の本文に入る前に、まず知っておくべきことは、35から44節までの言葉が互いにつながっているということです。一見、ダビデとメシアについての話、律法学者の間違いへの糾弾、貧しいやもめの献金へのイエスの好評など、別々に分けられた関係のない話のように見えるかもしれませんが、それらは一つの主題のためにつながる話で、当時の宗教指導者たちの間違った信仰が、ユダヤ社会にどのような悪い影響を及ぼしたのかを示す、いわば告発なのです。11章で主イエスが十字架のためにエルサレムに到着し、一番最初になさったのは、ユダヤ社会の中心地である神殿への訪問でした。主が神殿に訪問された理由は、イエスの時代のユダヤが果たして神の御言葉に従順に従い、主の民らしく生きているのかをお確かめになるためでした。つまり、神殿はユダヤの信仰状態を現す象徴だったのです。しかし、皆さんもご存知のように当時の神殿は本来の機能を失い、まるで「強盗の巣」のように、宗教指導者の懐を満たす所になっていました。そういうわけで、主は神殿から商人たちを追い出されたのです。(マルコ11:15-17) 堕落した宗教指導者たちが治めるユダヤは、神の御言葉を正しく理解していませんでした。宗教指導者たちは熱心に宗教行為を行っていましたが、それは主の御心とは関係ない虚しい熱心でした。今日の本文35-37節も宗教指導者たちが、いかに旧約の言葉に無知だったのかを示す主の指摘だと言えます。 「どうして律法学者たちは、メシアはダビデの子だと言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。主は、わたしの主にお告げになった。わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまでと。このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」(マルコ12:35-37)当時のユダヤには「昔の人の言伝」と呼ばれる伝統が旧約聖書に次ぐほど、大事にされたと言われます。これは旧約聖書を解釈した「タルムード」の中で「ミシュナ」という解釈集であると推定されます。人による聖書の解釈が聖書と同じくらいに大事にされたということです。ところが、「ミシュナ」を現代神学の観点から見ると、とんでもないでたらめのような場合が多いです。例えば、「安息日に働いてはならないから、くぼみに落ちた隣人の牛を救ってはならない。」「妻が(隣の妻よりきれいでない、料理がおいしくない)気に入らなかったら離婚状を書いて離婚しろ。」といった、愚にも付かぬことが聖書くらいに大事にされたということです。ユダヤ人が、この「昔の人の言伝」を大事にすることによって生まれた最も大きな問題は、聖書を本来の意味と全く違うように理解してしまうことでした。というわけで、今日の本文に書いてあるように、ダビデの子、つまり、かつて隆盛したユダヤ王朝の子孫ということで、メシアをダビデ王を受け継ぐ政治的、あるいは世俗的な人物として認識する風潮がユダヤに広がっていたようです。 したがって、今日の本文を通して、当時のユダヤ社会がどれほど主の御言葉に無理解だったのかが分かります。「メシアはダビデ王の子孫なので、政治的な自由をもたらす軍事的な指導者として来るだろう。だから、ダビデの時、征服した昔のイスラエルを再建し、ローマ帝国から解放し、ユダヤ民族に富と力を与えるだろう。」と誤解していたわけです。聖書が語るメシアのあり方は、主の民を罪から救い、神と和解させ、全人類を束縛から解放する、使命を持っている救い主です。しかし、ユダヤの指導者たちは聖書への無理解で、メシアをダビデ王の子孫、ユダヤ民族だけのための救い主という、小さな箱の中に閉じ込めてしまったのです。35-37節はダビデのメシア詩である、詩篇110編の言葉を引用した言葉です。メシアの先祖であるダビデ王自らがメシアを主として崇めているのです。主がこのダビデの詩篇を引用してメシアがダビデ王より優れた存在だと教えてくださった理由は、ユダヤの宗教指導者たちから始まったメシアへの無理解を、御言葉に基づいて正されたものと思われます。現代の教会にも御言葉の本来の意味とは関係ない、人の価値基準が、御言葉の座を脅かしているかもしれません。教会の伝統という名目に落ち込まれて、御言葉と関係ない基準で教会を運営している場合があるかもしれません。御言葉の本来の意味を正しく学び、まともに従っているかどうか、常に御言葉を通して顧みるべきだと思います。 2.御言葉による正しい信仰のために。 私たちは以上の35-37節の理解をもとにして後に出てくる38-44節の言葉を理解しなければなりません。主は前の言葉を通してユダヤ社会、特に宗教指導者たちが御言葉に無理解であることを指摘されました。続いて、主は具体的な二つの出来事でそれを教えてくださいます。「イエスは教えの中でこう言われた。律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」(38-40) 主はまず、最も代表的なユダヤの宗教指導者である律法学者について指摘されます。律法学者は文字通りに、旧約の律法、つまりモーセ五書を研究し、教える務めを持っています。彼らは聖書への優れた知識を備え、民に御言葉を正しく教えなければならない人々でした。しかし、誰よりも優れた信仰を持つべきだった彼らの生き方はどうだったでしょうか? 「長い衣」は宗教指導者が着ていた、普通の人には許されなかった高価な服だったと言われます。自分は他人とは違うと威張り、虚栄心が強かったと解釈できるでしょう。「歩き回る」は他の人々に注目され、特権層と付き合うためだったと解釈できるでしょう。「広場で挨拶されること、会堂で上席、宴会で上座」は宗教を利用して自らを高めることと解釈できるでしょう。 つまり、旧約聖書を研究する使命を持っていた、当時の宗教指導者たちが、民の魂には興味がなく、自分の名誉と富のために動いていたことを証言するのです。「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。」律法によると、寄留者、孤児、寡婦はユダヤ社会において積極的に守られるべき存在でした。律法学者は、それを民に教え、民が寄留者、孤児、寡婦を守る社会を作っていくように導かなければならない者だったのです。そんな彼らがやもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをして、律法を悪用していたということです。これが当時のユダヤ社会の宗教指導者たちの現実だったのです。それらは正しい信仰のあり方ではありません。神の御言葉を間違って理解した程度ではなく、御言葉を悪用して神の民を貶める積極的な悪だったのです。次は寡婦についての主の御言葉です。「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。」(41-42) 時々、この本文を、「乏しい中から自分の持っている物のすべてを献金した寡婦の信仰」と説教する場合があります。この本文だけを別に置いて見たら、そのような解釈も問題ないかもしれません。しかし、文脈的に考えれば、この本文は献金についての教えではありません。 なぜ、貧しい寡婦が自分のすべてを持って、辛うじて献金が出来たのかを、私たちは考えてみる必要があります。ここでクァドランスとは、ローマ帝国の貨幣の最小単位で、現在でいうと「100円」程度の価値でした。レプトン銅貨はギリシャの貨幣だったと言われます。「イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(43-44)つまり、どれだけ、ユダヤの社会がこの寡婦の世話をしていなかったのか、わずか100円だけが彼女のすべての所有だったのか、考えてみるべきです。人々は有り余りの中で宗教行為として神殿に献金しましたが、100円しかない寡婦のために何をしていたのでしょうか? ユダヤの律法学者たちは、神の御言葉を教え、ユダヤ社会が寡婦のために救済させなければならなかったにもかかわらず、むしろ彼らは寡婦のへの世話を教えるより、自分の名誉と富だけに気を遣い、彼らに指導されるべきだったユダヤの社会は無知によって堕落し、100円が全財産であった寡婦を傍観していたわけです。イエスは、彼女が乏しい中で献金をしたことをお褒めになったわけではなく、その困難の中でも主への信仰をあきらめなかった寡婦を慰められたわけではないでしょうか。 締め括り 皆さん、一体、まことの信仰とは何でしょうか? 教会に出席して、礼拝に参加し、説教を週一度聴くのが信仰なのでしょうか? 教会で行う徹底した宗教儀式が私たちの信仰なのでしょうか。真の信仰について私はこう言いたいと思います。「神の御言葉を正しく学び、それを信じ、聞き従い、実践して生きること。」旧約の預言者サムエルは、こう言いました。「主が喜ばれるのは焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」(サムエル上15:22) 預言者ホセアはこう言いました。「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない。」(ホセア6:6) 間違った信仰の理解によって汚されたユダヤの社会、そして御言葉に背いた民たち。それらがまさにイエスの時代のユダヤの現実でした。私たちは今日の本文を通して自分自身を顧みる必要があると思います。私たちは御言葉を正しく学んでいるでしょうか? そのような意味として、今日の説教は皆さんより、牧師にさらに厳重な教訓ではないかと思います。志免教会が真の信仰の共同体であることを祈ります。主の御言葉を正しく学び、従順に聞き従い、実践しつつ生きていきたいと思います。主がユダヤの社会と宗教指導者たちに言われた警告の言葉を、今の私たちは自分自身に適用し、常に心に留めていくべきだと思います。主なる神のお導きを求めます。 父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。

神が先にお遣わしになった。

創世記45章3-13節 (旧81頁) ローマの信徒への手紙8章28節 (新285頁) 前置き 前回の説教は、約1ヶ月半前でしたので、復習としてヨセフの人生をもう一度話し、今日の本文に入りたいと思います。主はヨセフの幼い頃から、神の啓示の夢を見せてくださいました。それはヨセフが父親にも、兄弟にもひれ伏される偉大な人物になる夢でした。しかし、まだ物心のついていないヨセフは、父親と兄弟を配慮せずにその夢を話し、彼らの怒りを買ってしまいました。結局、ヨセフは兄たちに裏切られ、エジプトの奴隷として売られることになりました。エジプトに運ばれたヨセフは、長年、奴隷として暮らし、濡れ衣で投獄されました。しかし、そのような辛い状況の中でも、聖書は神がヨセフと共におられたと述べています。ヨセフは自分に迫った不幸の中でも、自分と共におられる神への信仰を育てていきました。そして、彼は最終的に神の絶対的な導きによって、エジプトの総理になりました。毎日が苦しみと悔しさの連続だったかもしれませんが、それでも、ヨセフは自分と共におられる神に信頼し、神はご自分のみ旨に最も適う時に、昔、ヨセフにくださった啓示の夢のように、彼を偉大な人物にしてくださいました。ヨセフの人生の苦難は彼を成長させる、主なる神の恵みの道具だったのです。 1.総理になったヨセフ、しかし創世記が終わらない理由。 前回の説教で、ヨセフはエジプト帝国の総理になり、家族ができ、ファラオと民に愛される偉い存在になりました。人間の基準では、この上ないハッピーエンドではないでしょうか。しかし、創世記はまだ終わっていません。ヨセフの人生がこんなにうまくいくことになったのに、なぜ創世記は終わらないのでしょうか? まず、創世記37章2節を読んでみましょう。「ヤコブの家族の由来は次のとおりである。ヨセフは十七歳のとき、兄たちと羊の群れを飼っていた。」聖書は「ヤコブの家族の由来(系図)は次のとおりである。」と語ったのに、その次の内容は「ヨセフは17歳…」でした。ヤコブの物語が急にヨセフの物語に変わります。旧約聖書で系図と言えば「誰が誰をもうけた。」というのが普通ですが、ここでは由来(系図)と言ってから、すぐにヨセフの話しを始めているのです。今まで私たちが話してきたヨセフの物語は、実はヨセフ一人の生涯ではありません。長いヨセフの人生の物語を通して、以後ヤコブの人生がどうなるかを話すための土台だったのです。つまり、ヨセフの物語はヤコブの物語の一部であり、その物語の結論はヤコブの家族(イスラエル)が飢饉を避けてエジプトに入ることで終わります。そういうわけで、創世記はヨセフの立身出世で終わりません。ヨセフの物語の本当の主人公は、ヨセフの父ヤコブ(イスラエル)だったからです。 2.創世記42、43、44章のあらすじ。 したがって、今日の説教はヨセフの物語からヤコブの物語に創世記の流れが移る重要な岐路です。前回の本文は41章でしたが、今日の本文は創世記45章です。42-44章の本文は45章のための長い背景作りの物語ですので、詳しい説教は省略します。けれども、42-44章の重要なあらすじだけは手短に話してみたいと思います。「ヨセフが言ったとおり、七年の飢饉が始まった。その飢饉はすべての国々を襲ったが、エジプトには、全国どこにでも食物があった。また、世界各地の人々も、穀物を買いにエジプトのヨセフのもとにやって来るようになった。世界各地の飢饉も激しくなったからである。」(創世記41:54、57)創世記41章で総理になったヨセフは、神からの知恵によって、大飢饉を徹底して備えました。その結果、エジプトには他国の人たちにも販売できるほどの食料が十分にあったのです。「ヤコブは、エジプトに穀物があると知って、息子たちに…エジプトへ下って行って穀物を買ってきなさい。…と言った。…そこでヨセフの十人の兄たちは、エジプトから穀物を買うために下って行った。ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄たちに同行させなかった。」(創世記42:1-4一部)ヤコブはエジプトの食糧の噂を聞き、息子たちにエジプトの食糧を買ってこいと指示しました。しかし、末息子のベニャミンだけは送りませんでした。ベニャミンもヨセフのように害を受けるか恐れたからです。 「ところで、ヨセフはエジプトの司政者として、国民に穀物を販売する監督をしていた。ヨセフの兄たちは来て、地面にひれ伏し、ヨセフを拝した」(創世記42:6)ヨセフの兄弟たちがエジプトに来て穀物を買うために総理ヨセフの前にひれ伏しました。ヨセフは彼らが自分の兄弟であることを一目でわかりましたが、兄弟たちはヤコブに気づきませんでした。ヨセフは彼らに、家族事項などを詳しく問い、弟が一緒に来ていないことに気づきました。そして、ヨセフは彼らをそのまま送らず、回し者だと追い詰めるふりをして、兄弟の中一人を人質に取り、彼が自由になるためには末の弟を連れて来なければならないと脅しをかけました。しかし、それは自分の家族をエジプトに連れてくるためのヨセフの計略でした。ヨセフの兄弟たちは総理の正体が分からなかったので、すごく戸惑って互いに、昔、弟ヨセフを苦しめたことへの報いだと嘆きました。その話を盗み聞きした総理ヨセフは心が痛くなり、遠ざかって泣きました。結局、シメオンが人質に取られ、他の兄弟は送り返されました。 しかし、ヨセフは彼らの穀物袋に穀物の値段を戻しました。 帰り道で、これを見つけた兄弟たちは恐怖に震えました。そしてヤコブに戻ってエジプトでの出来事を詳しく告げました。末っ子のベニャミンを連れてくるようにという総理の話を伝えた時、ヤコブは絶望して絶対に送れないと言いました。 「あの子のことはわたしが保障します。その責任をわたしに負わせてください。もしも、あの子をお父さんのもとに連れ帰らず、無事な姿をお目にかけられないようなことにでもなれば、わたしがあなたに対して生涯その罪を負い続けます。」(創世記43:9) すると、ユダは自分の命をかけて弟を守ると誓い、父親を安心させました。多くの学者が、このユダの行動を、以後彼の子孫から出られる、民のために命をかけられたキリストのモデルだと見なしています。「どうか、全能の神がその人の前でお前たちに憐れみを施し、もう一人の兄弟と、このベニヤミンを返してくださいますように。このわたしがどうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい。」(創世記43:14) それに対してヤコブは神の御心を信じ、ベニヤミンを送ることを決心します。ベニヤミンを連れてヨセフのところに戻った兄弟たちは、懸念していたのとは違って、手厚いもてなしを受けました。人質だったシメオンも自由になったのです。ヨセフは弟のベニヤミンへの弟懐かしさで急いで席を外し、泣きました。後、ヨセフは兄弟たちと食事をしながら楽しい時間を過ごしました。しかし、兄弟たちは、まだまだ、ヨセフに全く気づいていませんでした。時間が経ち、兄弟たちが帰る時になると、ヨセフは彼らをそのまま送ることができず、こっそりとベニヤミンの穀物の袋に銀の杯と銀を入れておき、彼らに泥棒扱いをし、逮捕しました。兄弟たちは故郷で父親のヤコブが待っており、ベニヤミンを連れて行かなければ、父親が死んでしまうかもしれないと嘆願しながら44章も終わります。 3。神が先にお遣わしになった。 「何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください。この子を一緒に連れずに、どうしてわたしは父のもとへ帰ることができましょう。父に襲いかかる苦悶を見るに忍びません。」(創世記43:33-34)、もう一度ユダは父との約束のために、自分の命をかけて弟を守ろうとします。そして父親への心をヨセフに打ち明けます。ここでも私たちはユダの行動を通じて、御父の御心を成し遂げるためにご自分の命を捧げ、民を救おうとなさったキリストのモデルをもう一度見つけることができます。イエスがユダの子孫として来られた理由を、この言葉でわかるような気がします。「ヨセフは、…もはや平静を装っていることができなくなり…兄弟たちに自分の身を明かした。ヨセフは、声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、ファラオの宮廷にも伝わった。」(創世記45:1-2一部) ユダの嘆願を聞いていたヨセフは結局、自分の心を抑えられず、号泣することになりました。そして、ついに自分の正体を明かします。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」(創世記45:3)兄弟たちはエジプトの総理が自分たちに売られた弟ヨセフであることを知り、衝撃を受けたに違いありません。しかし、ヨセフの次の一言によって、彼らは救われたでしょう。 「…わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。…神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。…」(創世記45:5-8) 過去の人生、苦しみと悲しさの中に生きてきたはずのヨセフは、神への信仰によって、そのすべての恨を振り払い、むしろ、その苦難の年月が父と家族を救うための神のご恩寵であったことを告白しました。その後、兄弟たちと和解した彼はファラオにすべてを告げました。すると、ファラオは大喜びし、素晴らしい馬車を送り、ヤコブとその家族全員をエジプトに呼び入れました。それによってヤコブの家族、つまりイスラエルは神の恵みのもとで大飢饉から抜け出し、エジプトに入ることになったのです。今日の説教は説教というより聖書の物語だったかもしれません。しかし、その結論は説教以上に明確です。「神がご自分の民の命を救われるために、一人を先にお遣わしになった。」ということです。そして、それはお独りの救い主、イエス・キリストのことを思い起こさせます。もしヨセフが信仰者でなかったら、その兄弟たちはヨセフの報復によって、ひどい目にあい、ヤコブも悲しさの中で死んでしまったかもしれません。しかし、神の摂理と導きを信じたヨセフは復讐の心を愛の心に変え、赦し、むしろ命の道を作り出しました。イエス·キリストの罪人を赦し、愛してくださった姿が今日のヨセフの姿を通じて重なって見えてきます。 締め括り 「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ書8:28) 今までヨセフは耐え難い苦難の年月を生きてきました。幼い頃、自分の分別のない行動への兄たちの報いは苛酷であり、エジプトでの経験は大きな傷だったでしょう。しかし、真の信仰を持ったヨセフは、そのすべてを神のご計画であり、ご恩寵だったと告白しました。兄弟を赦したことは言うまでもありません。ヨセフは信仰者の全生涯においての喜怒哀楽が、結局は一つになって神の恵みになることを信じたのです。ヨセフが苦難を経験している間、兄弟たちも変わりました。特に、兄弟の中で最もずるがしこいユダは、自分の命をかけて兄弟を助けようとする信仰者になっていました。あまりにも苦しくて惨めだった経験が、神のご計画を成し遂げる養分となったのです。その結果、ヤコブの家族は飢饉を乗り越え、さらにイスラエルという民族を打ち立てることになったのです。これがまさに信仰の結果ではないでしょうか。今の私たちの状況に絶望してあきらめてしまうと、奇跡は起こりません。神が私たちの裏で、万事が益となるように導いておられるということを信じ任せること、その結果は私たちが思いがけなかった大きな喜びと感謝として戻ってくるしょう。すべては主の御心とお導きのもとにあります。ヨセフのようにそれを信じ、神に信頼して生きる私たち、志免教会であるを祈り願います。 父と子と聖霊の御名によって、アーメン。

キリストにおいて一つとなる。

申命記7章6-8節 (旧292頁) エフェソの信徒への手紙2章11-22節 (新354頁) 前置き 2023年が明けました。2022年にも、志免教会を守ってくださった神に感謝します。一年間、志免教会に仕えてくださった兄弟姉妹の皆さんにも感謝いたします。今年も主の恵みと平和と愛の志免教会であることを祈ります。今年の中心聖句は「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:22)です。この言葉はキリストの教会のあり方についての代表的な言葉です。今日は新年を迎え、教会という存在について、そして教会を成すキリスト者のあり方について話してみたいと思います。 1.神がご自分の民をお選びになった理由。 今日の旧約の本文は、出エジプト以後40年間、荒野をさまよっていたイスラエルの民が、長い旅を終え、カナンに入る直前、イスラエルの指導者であるモーセを通して語られた神の御言葉です。そして、この言葉は旧約の民だけでなく、現在を生きる新約の民にも適用できる言葉でもあります。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。」(申命記7:6) 主の民(旧約のイスラエル、新約の教会)は主ご自身に選ばれた宝物のような存在です。主の教会である私たちは、それぞれ生まれは違いますが、この志免教会に集まってキリストにおいて一つとなった主の大切な民です。それぞれ異なる背景と人生を経てきましたが、主の時に呼び出され、今は主の教会の一員となった主のものなのです。しかし、主は偶然私たちを選ばれたわけではありません。主は、生まれる前から私たちを知っておられ、私たちの喜怒哀楽の中に共におられ、ここ志免教会に導かれ、一つにしてくださったのです。したがって、私たちは自分の意志によって神の民となった存在ではありません。主なる神が主権的にキリストの福音を聴かせ、信じさせ、聖霊によって信仰を与え、主のご意志に従って、私たちをご自分の民、志免教会にしてくださったのです。 それでは、主はなぜ私たちを選んでくださったのでしょうか? 「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。」(申命記7:7) 主は私たちが偉い存在だから、選ばれたわけではありません。むしろ、歴史上、主の民、つまり教会は貧弱な場合がもっと多かったのです。主は私たちを強弱に従って選ばれたわけではありません。「ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し…救い出されたのである。」(申命記7:8) 主は誰かとの約束を守るために私たちをお選びになったのです。旧約のイスラエルは先祖であるアブラハムとイサクとヤコブとの契約を、新約の教会は救い主イエスとの契約を守るためにお選びになったのです。神は主イエスを信じる者を必ず救ってくださるとの契約によって、罪人を愛し、ご自分の民とし、宝物のような大切な存在としてお選びくださったのです。 2。 教会のアイデンティティ。 それが私たち、志免教会のアイデンティティです。 私たちはこの日本で誰よりも弱い存在であるかもしれませんが、誰よりも偉大な神に愛される共同体です。キリストが十字架でご自分の命をかけて、私たちを救い、主の教会として呼び出してくださいました。父なる神は最愛の独り子の命を身代金とし、私たちをご自分の所有とされました。ですから、神は御子イエスの教会を、御子のように愛しておられます。これが教会のアイデンティティなのです。教会は親睦団体でも、営利団体でも、欲望を実現するための団体でもありません。教会はご自分の血潮によって主ご自身が選ばれたキリストの体です。神はキリストを教会の頭にし、教会はキリストを頭として一つになった主の民の集まりなのです。今日の新約の本文を読んでみましょう。「だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々(ユダヤ人)からは、割礼のない者と呼ばれていました。」(エフェソ2:11-12) 私たちは皆、もともと神と何の関係もない異邦人でした。クリスチャンホーム出身といっても、結局ユダヤ人ではないので、その根本は異邦人です。旧約のユダヤ人は、異邦人を地獄の炎の焚き物と扱っていました。異邦人はいつ滅びても構わない見捨てられた存在だったのです。 しかし、神はその異邦人さえもキリストの御救いによって、ご自分の民と受け入れてくださいました。「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」(エフェソ2:13-14) 神はキリストの血によってユダヤ人と異邦人を隔てる壁を取り壊してくださいました。イエスの中ですべての人種と民族と国の違いが意味を失いました。キリストの中にいるなら、誰でも神の民になり、神の子供になるからです。志免教会には日本人、外国人の区別がありません。ただキリスト者がいるだけです。言葉、文化、思想が多少違っても構いません。キリストだけが自分の主であり、自分はキリストの民であり、神の聖なる民であることを信じるなら、私たちは一つなのです。主が私たちの和平であるからです。「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソ2:16) また、キリストの十字架の恵みによって、私たちは神と和解しました。私たちは神の御前で罪人としての重荷から自由になったのです。これらすべてがキリストが教会の頭になってくださった恵みによるものです。 3.教会を考える。 以上の旧約と新約の言葉から、私たちは2つのことが分かります。一つ、神はキリストとの契約によって、私たちを愛し、呼び出され、主の民、志免教会にしてくださいました。二つ、神はキリストを志免教会の頭としてくださり、私たちと和解し、平和を与え、私たちをキリストの体と呼び、一つにしてくださいました。「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族である。」(エフェソ2:19) だから、エフェソの信徒への手紙は、私たちが外国人でも、寄留者でもない、神の国の民であり、神の家族だと証言しているのです。それでは、主の教会として召された私たちは、どのような心構えで生きるべきでしょうか。「使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エヴェソ2:20-22)、私たちは使徒たちと預言者たちという土台、すなわち主の御言葉の上に建てられた存在です。私たちは主の御言葉を私たちの基準にして生きなければなりません。自分の考えや思想ではなく、主の御言葉が指し示す方向に進まなければなりません。主の御言葉を謙遜にいただき、それを私たちの羅針盤として生きていかなければなりません。 また、私たちは主を教会のかなめ石として生きるべきです。つまり、教会の頭であるキリストの御心に従って生きるべきです。主の御心は世の中の常識とは全く違います。この地上で主がどのように生きられたか、主が何を追い求められたか、私たちは常に主のみ言葉によって、主の御心に耳を傾けて生きるべきです。かなめ石は、一つの建物が倒れないようにする支えの石です。どのようなかなめ石かによって、その建物の価値が変わるのです。つまり、かなめ石は基礎なのです。教会のかなめ石であるイエスは神への愛と隣人への愛という最も基礎的な生き方を私たちに教えてくださいました。教会もまた、そのような最も基礎的なキリストの教えに従って生きる義務を持っています。教会は主の体だからです。私たちは個人の思想、個人の意思、個人のやり方ではなく、主の御望みを追い求め、主の御心をわきまえつつ、教会を健全に建てていく義務を持っています。最も低いところに来られたイエスのように最も低いところを追求し、お互いに愛しあいなさいとおっしゃったように愛し合って生きるべきです。そのような主の御心の中で、教会の一人一人がお互いに赦しあい、愛しあい、助けあいながら生きていくべきです。ヨハネによる福音書で主は言われました。「イエスは答えて言われた。この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。」(ヨハネ2:19,21) 私たちはかなめ石イエスの御救いによって真の神殿となった共同体です。一緒に組み合わされていく存在です。主の教会はキリスト・イエスにおいて一つとなり、一緒に建てられていく、新約時代の神殿そのものだからです。 締め括り 今年は教会とは何かについて深く学んでいきたいと思います。教会はこの世にありますが、この世とは区別された存在です。私たちの思いではなく、主の御心によって建てられていくべき存在です。それこそが健全な教会のあり方なのです。この一年、志免教会の主であるキリストを、そして、キリストが私たちに求めておられることとは何かについて深く考えつつ生きていきたいと思います。主の言葉を常に身近に置き、祈りの生活を続けていきましょう。神と隣人を愛して過ごしましょう。どんな困難があっても、ひとえに主イエスだけを頼りにして生きていきましょう。私たちが誰なのかを主の言葉によって自覚して生きていきましょう。2023年は教会について深く悟り、志免教会という主の体に、どのように仕えていくべきだろうかと思いながら生きたいと思います。これからの一年、主なる神が志免教会に豊かな祝福を与えてくださることを祈り願います。父と子と聖霊によって。アーメン。

異邦人を照らす光、イスラエルの誉れ。

イザヤ書42章1-7節 (旧1128頁) ルカによる福音書2章22~32節 (新103頁) クリスマスツリーの由来 昔、ドイツのある小さい村にマルティン・ルターという神父さんが住んでいました。ある冬の夜、彼はクリスマス・イブのミサを終え、家路につきました。昼間に雪が降り積り、夜には明るいお月様が昇って、夢みたいな真っ白な夜でした。ところで、帰り道の途中に、小さいモミの森がありました。マルティン・ルターはいつもの通り、通り過ぎようと森の中に入りました。森を半分くらい歩いた彼は素晴らしい光景を見つけて驚きました。普段、真っ暗だと思っていた森の真ん中に、まるでスポットライトのような明るい光が一本の小さいモミの木を照らしていたからです。どこからの光か、マルティン・ルターが上を向いて目を上げたら、そこには美しい夜空のお月様と星々がありました。雪が積もったモミの木の枝の間に月明かりと星明かりが降り注いでいたのです。誰もいない、真っ暗な森の中に、創り主が施された光の宴が開かれていたわけです。マルティン・ルターは、それを見て大事なことを悟りました。 「人も、あの小さいモミの木と同じではないか。罪人は暗闇の中にいるみすぼらしい存在であるけど、救い主の栄光が照らされれば、暗闇から自由になり、輝かしい人生を過ごすことになるのではないか。」マルティン・ルターは、それを人々に教えようとして、小さい一本のモミの木を家に持ってきました。そして、そのモミの木に雪のような綿、星々のような飾り、キラキラする玉をつけました。みすぼらしくて小さいモミの木に照らされた光を表現するためにモミの木に飾り付けをしたわけです。一説によると、それがクリスマスツリーの由来とだったと言われます。この話が本当か創作かは分かりませんが、とても大事な教訓が含まれていると思います。それは、キリストの栄光によって、暗闇の中の罪人が輝かしい存在に生まれ変わるということです。つまり、イエスは暗闇にいる罪人に、ご自分の栄光を照らしてくださるためにお生まれになったということです。 1.ご自分の民のために来られたイエス。 聖書によると、人間は自分の罪のために、いつか死に、必ず神の裁きを受ける悲惨な存在だそうです。豊かであろうが、貧乏であろうが、有名であろうが、無名であろうが、人が死んで神に裁かれるのは決まっているとのことです。そういうわけで、聖書は、生まれつき罪を持った、すべての人間は滅びる存在、暗闇の中にいる存在だと述べているのです。しかし、聖書はまた、その暗闇の中に光を照らしてくれる存在が、罪人のところに与えられたとも証言しています。その存在が、まさに罪のない神の独り子イエス·キリストなのです。この世の創り主である神は、罪によって惨めになった人間に、贖いの恵みを与えてくださるためにイエス·キリストを送ってくださいました。その方のご恩寵によって罪人は、再び神の御前に立ち、赦されるのです。したがって、イエス·キリストは暗闇の中に置かれている人類に与えられた一筋の光のような存在です。クリスマスは、そのイエス·キリストが人間としてお生まれになったたことを記念する、キリスト教において、最も重要な日なのです。今日は、このイエス·キリストについて話してみましょう。今日の新約本文は、イエス·キリストのお生まれから何十日後、主の両親が赤ちゃんイエスを連れて律法に記された清めの儀式のためにエルサレムの神殿に上った出来事から始まります。「モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。」(ルカ2:22-23) 律法によると男の子の産後から40日が経つと、産婦はエルサレムの神殿で清めの儀式を行わなければならないと言われます。子供が生まれた後に清めの儀式を行うということは、産婦も子供も罪の中にいるということを示唆するものです。しかし、神の子イエスは人間の父親ではなく、聖霊によってお生まれになった罪のない方です。それにもかかわらず、赤ちゃんイエスはご自分の民たちと同じように神殿で清めの儀式をお受けになったのです。罪のない神としての本質を持っているにも関わらず、民たちの罪人の本質を、罪のない方が体験されたわけです。つまり、生まれた瞬間からイエスは罪人の側におられ、彼らと共に歩んでくださったということです。「また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。」(ルカ2:24)また、産後の女は普通は一歳の雄羊一匹で贖罪のいけにえを献げますが、イエスの両親はあまりにも貧しくて、鳩で贖罪のいけにえを献げなければなりませんでした。いと高き神の子イエスは、人間としての人生が始まった時から貧しさと惨めさに自分自身を投げつけられたということです。これはイエスがご自分のためではなく、この世の哀れな民たちを救われるために来られたことを顕かに示す証拠でした。イエスはご自分の富貴栄華のために来られた方ではありません。その方は、ひとえに罪人の救いと贖いのために最も低い所に来られた救い主であったのです。 2.異邦人を照らす光、イスラエルの誉れ。 その後、イエスの両親は神殿でシメオンという老人と出会うことになりました。「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。」(ルカ2:25) シメオンは預言者ではありませんでしたが、旧約の真の預言者たちと同じ心を持った「正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰めを待ち望む」者でした。神は彼に聖霊を遣わされ、神の心を知る信仰の人生を生きるようにされました。そのため、ヘロデ王や宗教指導者たちにはなかった、メシアを見分ける目をくださったのです。シメオンは赤ちゃんイエスに会うやいなや、赤ちゃんを腕に抱いて神に感謝の讃美を捧げました。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」(ルカ2:29-32)神はシメオンにメシアが来るまで死なないとの特別な使命をくださいました。そして、彼は神の御言葉に従って、年を取って老いるまでメシアを待ち望む自分の使命に忠実に生きてきたのです。そして時が満ち、神殿で両親と一緒に清めの儀式のために来られたメシア・イエスと出会うことになったのです。そして彼はメシア・イエスを一目で見分け、讃美したのです。 旧約の正しい預言者たちは、このシメオンと同じ心で生きました。エリヤが、イザヤが、エレミヤが、そして数多くの預言者たちが神の救いと慰めを待ち望みつつ生きていきたのです。彼らは切実に神による真の救いと慰めであるメシアを待ち望んでいましたが、結局その成就を見ることができず、死んでいったのです。しかし、神は旧約の偉大な預言者よりはるかに至らない人、一介の老人シメオンに異邦人の光であり、イスラエルの誉れであるメシアの到来を見せてくださったのです。新約時代は、そのような恵みの時代です。旧約の偉大な預言者たちさえも、拝見することが出来なかったメシアを、老いて体力も弱るシメオンが会うようになったのです。ということは、私たちのような金持ちでない人も、権力者でない人も、有名でない人も、ごく平凡な人も、このメシアに会えるようになったということです。私たちにシメオンのような信仰さえあれば、神の救いと慰めを信じる心さえあれば、私たちは、いつでもどこでも真の救い主であるメシア·イエスと会えるようになったということです。今日、シメオンの言葉のように「異邦人を照らす啓示の光、主の民イスラエルの誉れ」であるイエスに、何の代価もなく信仰だけによって会えるようになったということです。クリスマスが祝福された日である理由は、神がこの栄光の主イエスを私たちに何の代価もなく与えてくださったからです。私たちにとって日常のようなイエス·キリストへの信仰が、旧約の預言者たちには決して許されなかった非常に特別な恩寵であることを私たちは忘れてはならないと思います。 締め括り 「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。」(イサヤ42:1) かつて、主なる神は、旧約の預言者たちを通して必ず、神のメシアが来ると預言されました。そして、メシアがご到来なされば、主は真の恵みを、この世に与えてくださると約束してくださいました。私たちが生きる新約の時代は、まさにこのイエスがすでに私たちのところに来ておられる時代です。私たちは、このメシアが私たちの主として私たちの間にすでに来ておられることを喜びと感謝を持って生きるべきです。今年も私たちは、この主の恵みにあって生きてきました。教会は依然として小さく、日本は全然変わらず、世界はますます悪くなっています。しかし、私たちは目に見える現実に心を奪われて絶望してはなりません。2000年前、神のメシアが罪に満ちたこの世に来て以来、神は、ご自分のメシア、イエス・キリストによって、いつもご自分の民と一緒に歩んでこられました。そして、今も私たちを正しい道に導いてくださるのです。それを信じてクリスマスを過ごし、また、来年を迎えたいと思います。異邦人の光、イスラエルの誉れ、神である主イエスが私たちと常に一緒におられることを感謝しつつ今年と来年も生きていきたいと思います。 主の豊かな恵みがここに集っている兄弟姉妹たちの上に注がれますように。 父と子と聖霊で。アーメン。

わたしの父、あなたがたの父。

イザヤ書49章13-15節 (旧1143頁) ヨハネによる福音書20章15~18節 (新209頁) 前置き 今日の説教の本文は、クリスマスよりイースターにふさわしい言葉であるかもしれません。人間の罪をあがない、神のみもとで新たにされた者としてくださるために、十字架にかけられ、亡くなったイエスが3日後、復活された朝の出来事だからです。しかし、私たちはイエスのご誕生と地上での生と死と復活を別々に区切って考えてはいけません。真の神であるイエスが人間として生まれ、人間として生き、人間として死に、真の神であり、真の人間として復活された一連の出来事は、罪人を救おうとされた神の御心の中で、すでに完璧に計画された一つの出来事だったからです。 神であるキリストが人として来られなかったら、人間の弱さを体験されることが出来ず、人間の弱さを体験されることが出来なかったら、主イエスは人間の代表になることも出来ず、人間の代表になることが出来なかったら、罪を持った人間の代わりに死ぬことも出来ず、人間の代わりに死ぬことが出来なかったら、人間のために復活し、彼らを罪から自由にしてくださることも出来なかったからです。したがって、イエスのご誕生はすなわち復活と救いの前提条件になるのです。主のご誕生は、神の御救いの始まりなのです。今日はキリストがご自分の民を、主の御父の子供にしてくださった恵みの出来事、そして、その始まりであるキリストのご誕生の意味について話してみたいと思います。今日の説教は多少神学的な表現があるかもしれませんので、後、原稿が必要な方はお声がけください。 1.なぜ、神を父と呼ぶのか。 今日の説教は、水曜祈祷会で学んだ日本キリスト教会の小信仰問答からヒントを得て作成しました。小信仰問答 問31にはこういう質問があります。「問31:どうして神を父と呼ぶのですか?」「答:創造主はキリストの父ですから、キリストを信じて神の子とされている私たちも、父と呼ぶことを許されるのです。」私たちは、なぜ神を父と呼んでいるのでしょうか? この世を創造された創り主だからでしょうか。自分に命をくださった方だからでしょうか。自分が神を父親として決めたからでしょうか? ある意味で、以上の質問は全部正解であるかもしれません。しかし、だからといって、それらが私たちが神を父と呼べる根本的で、決定的な理由だとは言えないと思います。私たちが神を父と呼べる、最も根本的かつ決定的な理由は、神が私たちの救い主であるイエス·キリストの父でいらっしゃるからです。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、アッバ、父よと叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。」(ガラテヤ4:4-6) もちろん人間も神の被造物だから、広い意味で神を父だと見なすことができます。しかし、問題は、人間という存在が「すでに神に呪われ、見捨てられた存在」であるということです。 「こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」(創3:24) 初めに神を裏切った人間は、取り返しのつかない死の呪いを受けました。そして、自力では二度と真の命を手に入れることが出来ない、惨めな存在となってしまったのです。しかし、神は一つの希望の約束をくださいました。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」(創3:15) 先ほど読みましたガラテヤ書の言葉には「神は、その御子を女から…お遣わしになりました。」という言葉がありました。この言葉は創世記3章15節を引用した表現です。「エデンの園の東のケルビムと剣の炎」は象徴的に人間が自力では死に勝つ命を得ることが出来なくなったという意味です。しかし、ケルビムと剣の炎をお創りになった神ご自身が人間のところに来られ、その人間を連れて命の木に進まれるとすれば、話は違います。イエス·キリストは罪人を救い、命の木、つまり神による真の命に、私たちを導いてくださるために来られた救い主です。そして、このキリストと一緒にいる時、私たちは真の命に進むことができるようになるのです。私たちが神を父と呼ぶ理由は、まさにこのためです。私たちが神を父と呼べるようにしてくださるキリストが、私たちの代表者になって、ご自分の父の御前へと導いてくださるからです。 2.「キリストと父との関係」 それでは、キリストと御父はどのような関係を結んでおられるでしょうか。日本キリスト教会 大信仰問答「問38 父なる神と子なる神と…の関係はどういうものでありますか。(一部抜書)」「答:…父は何ものよりも成らず、造られず、生まれざる永遠の子孫者、子は父より永遠において生まれたもの。(一部抜書)」以前、大信仰問答の問38を学びつつ、御子の永遠の生まれについて話しました。ここでいう生まれとは、創造や出生とは違う概念です。ギリシャ語には「ギノマイ」という語彙があります。その本来の意味は「存在するようにする。創造する。なる。」などです。しかし、文法的に使って「創造するようにする原因、ある存在を存在するようにする原因、あるものの発生的な根源」などを含む奥深い表現です。つまり「御父から御子が永遠において生まれた。」という表現は、創造されたり、生まれたりした、という意味ではなく、御子の存在性が永遠において御父の中にあるという意味で、創造された存在ではなく、御父と共に永遠において存在してこられた方であるという意味で解釈するのが正しいと思います。用語が本当に難しいですが、イエスは時空間が出来る、ずっと前から父と一緒に存在してこられた真の神であるという意味です。ヨハネによる福音書はこう言います。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」(ヨハネ1:1-2) つまり、イエスは神によって造られた普通の被造物とは異なる、最初から神の子として存在しておられた真の神の子であるということです。最初から父とおられ、父と創造も共になさった存在であるということです。私たちのような人間は神の被造物として神とは本質的に全く違う、創造された存在です。しかし、主イエスは父と永遠に一緒におられ、最初から御子として存在された方です。そのため、キリスト教の神学では、イエスのことを神の唯一の真の実子であり、キリスト者はキリストによって神に養子縁組された養子だと表現しているのです。これを通じてキリスト者が神の被造物であるため、神を父と呼ぶのではないということが分かります。真の神の実子であるキリストによって神の子とみなされた存在であるということです。真の神の子キリストの犠牲と御救いによって、神を父と呼べない者たちが、神を父と呼べるようになったわけです。もちろん旧約にも神はご自分の民を父親、あるいは母親の観点から扱われることもあります。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。」(イザヤ49:15) しかし、ここでは神がイスラエルの民の創造者として彼らを子供のように考えておられるということであって、イエスのように存在そのものが完全な実子であるという意味ではありません。旧約においての神の子の概念と新約においての神の子の概念は、まったく違う意味を持っていることを忘れないようにしましょう。 3.堂々と神を父と呼べる者たち。 ですから、主は言われたのです。「言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」(ルカ7:28) 洗礼者ヨハネは旧約最後の預言者でした。イエスのご到来からは、新約の時代であり、イエスを主と崇める私たちは新約の民です。私たちの中で最も小さな者でも、神はイエス·キリストによって、旧約最後の偉大な預言者である洗礼者ヨハネより、さらに優れた存在として認めてくださるという意味です。ヨハネの時代、すなわち旧約時代には、キリストによって神の養子となったという概念がありませんでした。しかし、新約の民はイエス·キリストによって神の子と認められたのです。養子だからといって、神が私たちのことをニセ息子として思っておられるわけではありません。私たちはよく「キリストは教会の頭、教会はキリストの体」という表現を口にします。つまり、私たちはキリストのものとなった存在です。神は御子イエスを愛されるように、その体となった教会と教会に連なる一人一人をも愛しておられます。まるで、神がキリストを愛しておられるように、キリストの民をも愛しておられるのです。言葉だけ養子であって、実際はキリストに負けないほど私たちは愛されているのです。そんなに愛されていなかったら、父なる神は、独り子を十字架のいけにえとして犠牲されなかったでしょう。私たちはキリストによって、キリストのように神に愛される神の本当の子供になったのです。したがって、私たちは、いつでもどこでも神の子として堂々と立つのが出来るのです。 締め括り コラムデオという言葉をご存知ですか。この言葉はラテン語で「神の前で」という意味です。罪を持った人間は神の御前に立つ瞬間、神聖によって滅ぼされます。しかし、このコラムデオという言葉の裏には「キリストと共に神の前で」という意味が含まれています。神の真の子イエス·キリストによって、主の体となった私たちは、主と共に神の御前に堂々と立つことが出来ます。主イエスを通じて、神の子として生きることが出来るのです。イエスが、この地上に肉となって来られた理由は、まさに私たちを神の子にして神の前に堂々と立たせてくださるためです。そして、私たちは、そのキリストを信じて神の子、キリスト者と呼ばれるようになったのです。「イエスは言われた。…わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る。」(ヨハネ20:17) イエスが復活された朝、以上のように主は言われました。主のご誕生は、まさに私たちに真の父をくださるためです。なぜ神であるキリストが、この地上に来られたのだろうか、なぜ、私たちは神を父と呼べるのだろうか、今日の言葉を通じて、もう一度考えてみる機会になることを願います。 父と子と聖霊によって、アーメン。

希望のない者たちのための希望。

ミカ書5章1節 (旧1454頁) マタイによる福音書2章1~12節 (新2頁) 1.アドベントとロウソクの意味。 私たちは今アドベントの期間を過ごしています。アドベントとはラテン語のアドバントゥスを英文に表現したもので「到来、出現」を意味します。つまり、イエスのご到来を記念し、待ち望むという意味です。このアドベントは漢字語では「待降節」または「待臨節」とも呼ばれますが、主が天から地上にご到来なさったという意味です。もともと初期カトリック教会でクリスマスではなく主顕祭(1月6日) つまり、今日の新約本文に出てくる「東方からの占星術の学者たち」が赤ちゃんイエスを訪問した時を、イエスの神聖が現れたと見なし、その日を主顕祭と呼び、それを準備するために4世紀から始まったと知られています。また6世紀からはイエスの初臨を記念するだけでなく、再臨をも記念する意味を持つ期間になったとも言われます。しかし改革教会はイエスのご誕生にもっと意味を与え、クリスマス前の4週間をアドベント期間として記念しています。アドベントの期間に教会は4本のロウソクに火を灯していますが、正確にいつから始まったのかはわかりません。しかし、この4本のロウソクの点灯にも意味があります。 第一週間目のロウソクは、待望と希望のロウソクです。キリストのご降臨を待ち望み、御国への希望を表すロウソクです。キリスト者が、疲れた者たち、貧しい者たち、闇の中にいる者たちを助けることを祈るロウソクなのです。第二週間目のロウソクは悔い改めとざんげのロウソクです。互いに傷つけあい、憎みあい、赦さず、主の民らしく生きてこなかった自分の罪を悔い改め、主の民らしく生きることを祈るロウソクなのです。第三週間目のロウソクは、愛と分かち合いのロウソクです。傷ついた隣人、貧しい隣人、独りぼっちとなった隣人を憶え、愛の実践を祈るロウソクなのです。貧しい隣人のために、志免教会は何ができますでしょうか? 第四週間目のロウソクは出会いと和解のロウソクです。イエスは神と罪人の和解のために、この世の私たちに来られ、共にいてくださいました。 どうすれば、私たちは隣人、家族、友人にイエスを紹介し、神と和解させることができますでしょうか? 私たちの伝道について考えさせるロウソクではないかと思います。 2.イエスを訪れた東方の学者たち。 イエスがお生まれになった夜、輝かしい星が空に現れました。そして、東方の国(おそらくペルシャ)で占星術を研究していた学者たちが、その星を見つけ、偉大な人物が生まれる良い兆しだと思い、星についてイスラエルの地まで来ました。彼らはエルサレムにたどり着き、ヘロデの王宮に向かいました。今日生まれた偉大な人物はきっとユダヤの王子だろうと思ったからです。しかし、彼らが王宮に到着したとき、そこには赤ちゃんがおらず、誰も偉大な人物が生まれたことを知っていなかったのです。それでは、その偉大な人物は一体どこに生まれたのでしょうか。ところで、当時のイスラエルには「神のメシア」が来ると永遠の王になり、この世を正しく統治するとのメシア信仰がありました。つまり、東方の学者たちの話を聞いたヘロデとユダヤの宗教指導者たちはメシアの出現だと気づき、たいへん動揺したでしょう。もし本物のメシアの生まれだったら、まもなく自分たちの政治権力や宗教権力は脅かされるに間違いなかったからです。 そのため、ヘロデは自分の権力を守るために東方の学者たちを利用してユダヤの王と呼ばれる赤ちゃんの位置を突き止めようとしました。ヘロデは、メシアがどこに生まれるのかを宗教指導者たちに調べさせました。そして、彼らは旧約のミカ書5章1節に記してある言葉から、その位置を推定しました。そこは小さい村ベツレヘムでした。「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で、決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。」(マタイ2:5-6) 東方の学者たちはその言葉を聞いてヘロデを離れ、メシアとして生まれた赤ちゃんのところを探し出すために、星についてベツレヘムに足を運びました。「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」(マタイ2:9-10) 結局、彼らはベツレヘムの小さい馬小屋で赤ちゃんとその両親に会うことになりました。 ベツレヘムはエルサレムから南の方に10キロも離れていない近場の町です。(志免町から天神ください) イエスの時代にも賑やかなエルサレムとは違って、貧しくて小さい村だったと言われます。現代でも、ベツレヘムはエルサレムと比べて素朴で、特にイスラエル人に迫害され、差別されるパレスチナ人の貧しい町です。そこにはイエス誕生教会というカトリック教会があります。その教会がイエスがお生まれになったところだと推定しています。驚くべきことに東方の学者たちがそこに到着した時、小さい赤ちゃんが飼い葉桶の中にいました。(飼い葉桶の話はルカによる福音書に出てくる。) そして、その赤ちゃんはイエスという名前の男の子でした。「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(マタイ2:11) ところが、偉大な人物メシアとして生まれた赤ちゃんは、予想とは裏腹に王子や名望のある貴族ではなく、貧しい没落王族の息子として生まれていました。 3。主がいちばん小さい村に来られた。 学者たちは、赤ちゃんに黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。黄金は王権を、乳香は神聖を、没薬は苦難を意味するという解釈もありますが、しかし、それより重要なことは占星術(当時は迷信というより科学に近い)を研究する東方の学者たちが、この貧しい家柄の赤ちゃんを真の偉大な人物、メシア、王として認め、上記の贈り物を献げたということです。つまり、神のメシアが王子ではなく貧しい家柄の息子として来られたということを確定する意味なのです。人間は罪によって神から離れた存在です。人間は一生、罪に束縛されて生きる、悲惨な存在です。人間は神に見捨てられても全くおかしいことのない存在なのです。しかし、神のメシア、神の独り子が肉体になり、しかも貧しくて弱い家柄の息子として生まれ、王宮ではなく飼い葉桶に生まれたということは、神が自ら、罪によって悲惨になった人間を守るために罪人のところに来られたという意味です。イエスのご誕生はまさにこの罪人たちへの神の愛を確証する恵みと希望の出来事なのです。 私は先ほど4つのアドベントのロウソクのうち、第一週間目のロウソクの意味が待望と希望であると申し上げました。数多くの旧約聖書の預言者たちが神のメシアを待ち望んでいました。イスラエルと人類が自分の罪のため、到底救われることの出来ない状態だったにも関わらず、神が必ず救い主メシアを送り、イスラエルと人類に希望の光を与えくださることを信じ、待ち望んだわけです。だから、イエスがこの世に来られたということは、まさにこの旧約の待ち望みと希望が成し遂げられたという意味なのです。イエスは最も小さい村、最も貧しい村、最も悲惨な村の中でも、最もむさ苦しく寒いところにお生まれになりました。今日も誰かを憎み、自分のことだけを考え、自分の罪から自由でない私たち罪人を救い、新たにしてくださるために、主イエスは天の最も明るく輝かしい王座を捨てて、罪人である、この私のために、地上に来られたのです。 締め括り 希望のない者たちのための希望 イエスと共に生きる私たちには絶対的な希望があります。自分自身を見る時は全く希望がないように見えるかもしれませんが、私たちの救いために来られた主イエスを通じて自分を見ると輝かしい希望が見えてくるのです。イエスがいらっしゃるからこそ、こんなに小さくてみすぼらしい私にも希望があるのです。だから、イエスのご誕生は他人事ではありません。希望のない私自身のための神の恵みなのです。クリスマスまであと2週間です。2週間、イエスが来られたということは私にとってどんな意味を持つのか、今日の言葉を通して考えてみることを願います。私みたいな罪人のために低くて寒くて汚いところに来られたイエス、そのイエスの御心に従って自ら謙虚にし、私たちもイエスのように他人を愛し、赦し、仕える者となることを願います。その恵みが皆さんの上に豊かに注がれますことを祈ります。 父と子と聖霊によって。アーメン。