祈り

歴代誌下7章14節(旧679頁) マタイによる福音書6章5-8節(新9頁) 前置き  祈りとは何でしょうか。私たちは、祈りによって礼拝を始め、祈りによって礼拝を終わります。また、祈りたけのために水曜祈祷会を守り、常に個人の祈りをし、中会、大会の時も祈りによって始まります。そして、聖書も祈りについて、非常に大事に扱い、主イエスも生前に祈りの歩みを歩かれました。このように祈りはとても大事なキリスト者の信仰の行為なのです。今日は、聖書の御言葉を通して、この祈りというものについて一緒に考えてみたいと思います。 1.旧約時代の祈りの場-神殿 「あなたは天からその祈りと願いに耳を傾け、彼らを助けてください。(歴代誌下6:35)」歴代誌下6章にはソロモンの祈りが記してあります。エルサレムの神殿が完成された日、ソロモンは神殿で祈りました。彼は神がご自分の民を哀れみ助け、最後まで導いてくださることを願いました。ソロモンはイスラエルの神だけがイスラエルの主であり、助けてくださる全能者であると祈りました。すると、神はその夜にソロモンの夢に現れ、今日の旧約本文のように言われました。 『もし、私の名をもって呼ばれている私の民が、跪いて祈り、私の顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、私は天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす。』(歴代誌下7:14)神はソロモンが捧げた神殿をご自分の民の祈りを聞かれる場所にしてくださいました。「今後この所で捧げられる祈りに、私の目を向け、耳を傾ける。今後、私はこの神殿を選んで聖別し、そこに私の名をいつまでも留める。私は絶えずこれに目を向け、心を寄せる。」(歴代誌下7:15-16)イスラエルの神殿は特別な場所でした。神殿に当たる概念は出エジプト記の時代にもありました。その時は幕屋と呼ばれる仮小屋でしたが、それは主がくださった十戒の石板が入った契約の箱が置かれる場所でした。契約の箱は神の足台とも呼ばれましたが、それは神がこの地上に直接関わっておられるという意味でした。幕屋は人間の罪のゆえに神との関係が崩れたこの世に、神が積極的に関わられ、特に神に選ばれた民と一緒におられることを示す、神のご臨在の象徴でした。ところで、ソロモンはその幕屋をいっそう大きくアップグレードして、神が「主の名をもって呼ばれている神の民」と共におられることを望んだのです。しかし、それは単にイスラエルの民だけに限られることではありませんでした。他民族が神殿に来て主を認め、謙遜に祈る時、彼らも受け入れてくださる、異邦への主の救いの象徴としてもしようとしたのです。 神殿で祈る時、神は祈る者を助け、癒してくださると約束されました。しかし、残念なことに現代のエルサレムに神殿はありません。西暦70年にローマ軍によって破壊されました。それでは、神殿の新約時代に、私たちはどうすれば良いでしょうか?単刀直入に 旧約聖書の神殿は、新約のイエス・キリストを意味する重要な象徴であります。これは新約聖書からも知ることが出来ます。『イエスは答えて言われた。この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。』(ヨハネ2:19-21)旧約の神殿は、神がご自分の民と会ってくださる場所でした。神の民も、神を認める異邦人も、この神殿で神の御前で祈ることが許されたのです。そして、新約時代はキリストにあって神に会い、祈ることが出来ます。もちろん、イエス・キリストは建物ではありません。しかし、この旧約の神殿のようにイエスを通じて、私たちの祈りが神に捧げられるのです。神殿は祈りの家でした。そして、 現代においては、神が神殿として認めてくださったイエス・キリストの、御名によって祈ることが出来るようになりました。私たちが祈りを終える時、いつも「主イエス・キリストの御名によって祈ります。」と唱えることには、このような意味があるからです。昔の神の民は神殿で祈りました。つまり、私たちは新約の真の神殿であるイエス・キリストにあって祈るべきということです。別の名を通じては、私たちの祈りが父なる神に届くことが出来ません。神が「私の名をもって呼ばれている私の民」と言われた部分を記憶したいと思います。私たちが神にいただいたその名、イエス・キリストの名によって祈るとき、私たちの祈りは、あの旧約の神殿での神の民の祈りのように神にささげられるのです。 2.祈りは調律。 今日の新約本文は、イエスが弟子たちに「主の祈り」を教えてくださる前の物語です。「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(マタイ6:6)イエスの時代には、ラビや宗教指導者が広場や神殿の庭で他者に目立つように大声で祈る場合があったと言われます。そのような祈りを通して、「私はこんなに素晴らしい祈りをする。律法についてよく知らない君たちより、私の方がはるかに正しい人である。私は君たちとは違う。」ということを見せて、自分の義を自慢するためでした。しかし、イエスは、むしろ小部屋に入ってひそかに祈ることを命じられました。祈りは他者に見せるために、あるいは自分自身の欲望を満たすためのものではありません。 祈りは調律です。演奏者は、演奏の前に基準音に合わせて調律をします。オーケストラの公演に行くと、公演を始める前に、オーボエ奏者が『ラ音』を出すそうです。この音に合わせて全ての楽器は調律します。これが基準音です。祈りは、神の基準音、すなわち、神の御心に信徒が自分の基準を合わせる行為です。祈りを通して神の御心を基準音とし、それに従って生きていくということです。ですので、私たちは、調律の祈りをするべきです。自分自身の欲望と罪を神の御前で抑え切って、神の御心に沿って行くことを求める行為です。だから、自分の願いを叶えようとする意図だけでは、完全な祈りを捧げることは出来ません。もちろん、私たちは、経済、子供、健康、人間関係のために祈る必要があると思います。しかし、その祈りは私たちの弱さを告白する祈りとなる必要があります。自分が金持ちになり、権力者になって、欲を満たす祈りではなく、自分の祈りを通して、経済、子供、健康、人間関係への自分の弱さを告白するということです。叶えてくださるにせよ、拒まれるにせよ、神に自分の事情を打ち明けることが大事だということです。そして、神が与えられるお答えに応じて、願いが叶っても感謝し、叶わなくても感謝することが重要です。そして、そのような祈りの中で最も重要なことは、神の御心とは何かを悟り、それに自分の心を共に重ねていくことです。イエスはこのような調律としての祈りを強調されたのです。 3.主イエスの御名によって祈る。 神はイエス・キリストを現代の神殿にしてくださいました。私たちが主イエスの名によって祈る時、その祈りを聞いてくださいます。この会堂は神殿ではありません。ただ建物に過ぎないのです。この会堂が無くても、私たちは公園で礼拝することが出来ます。志免教会の始まりは、この会堂ではなく、家庭礼拝からでした。誰かの家での集いも主イエスによって教会になるということでしょう。主の御名によって集まる所が教会そのものだからです。しかし、神がくださった真の神殿であるイエスの御名がなければ、私たちの祈りは、御父に届くことが出来ません。また祈りは神の御心に自分の心を合わせていく行動です。主イエスが父なる神の御心に合わせて、ご自分の命を捧げられたように、祈りは自分のことを神の御心に合わせる行為なのです。神が望んでおられることを自分の基準にし、それに合わせることです。その基準に合わせて、神は私たちの願いを叶えられるか拒まれるのです。しかし、その神の御心に従って叶っても感謝、叶わなくても感謝する成熟した信仰を持っている私たちになりましょう。 イエス・キリストの名によって祈りましょう。そして、その祈りを自分の欲望と必要だけのためにではなく、神の御心とは何か?自分がどのように神の御心に気づいて行くべきだろうかのために祈りましょう。『あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。』(マタイ6:8)神は、すでに私たちの必要を知っておられる方です。神の御心に合わせて、私たちに必要な祈りを聞かれ、その願いを叶えてくださると信じます。しかし、時には、自分の思いが神の御心に合わない場合、拒まれるかも知れません。それでも絶望せず、神の正しさを信じて従って行きましょう。神は、主の民を愛しておられます。神は、主の民が最も良い道に行くことを望んでおられます。私たちに良いものを与えてくださる神を信じて、何のために祈って行くべきかについて、毎日、主に伺って行きましょう。その時、神は私たちに最も必要なものを喜んで答えてくださるのでしょう。 締め括り 今後の祈りを通して、私たちの人生を通して、神が許されたイエス・キリストの御名によって、神に自分を捧げて、神の御心に自分を合わせて、へりくだって真実な祈りを捧げる志免教会になっていきましょう。常に神の御心に聞き従い、その御心を私たちの基準として生きていく志免教会になることを祈り願います。

ベトザタの奇跡

イザヤ書 49章10節(旧1143頁) ヨハネによる福音書 5章1-18節(新171頁) 1.慈しみの家 – ベトザタ。 ベトザタとはイエスの時代、当時のユダヤ人たちが使っていた大規模の貯水槽で、このベトザタには、病院のような施設がありました。その意味は「慈しみの家」でした。病人の治療にきれいな水が必要だったので、大きい貯水槽があったわけです。そのベトザタには不思議な噂がありました。今日の本文を読むと3節の次に4節がありません。ヨハネの福音書の最後に、その4節の言葉があります。『彼らは、水が動くのを待っていた。それは主の使いが時々、池に降りてきて、水が動くことがあり、水が動いた時、真っ先に水に入る者はどんな病気にかかっていても、癒されたからである。』これは、最初に記されたヨハネによる福音書には無かったのですが、後で加えられたと知られています。「後で」といっても、大昔のことですので、聖書としての権威はあります。 ベトザタには主の御使いが、時々水を動かすという噂があり、その水が動いた直後に入る人には、どのような病気でも癒される奇跡があったようです。これが本当か噂かは分かりませんが、大勢の人々が自分の病気を癒すために、そこに集まっていたのは事実でした。その中には、今日の本文の38年間の病人もいました。この話を聞くと、欠けた箇所の 『主の使い』という表現が気になります。愛の主がなぜ、こんなにけちをしていたでしょうか。ベトザタは「慈しみの家」なのに、なぜ皆を治してくれず、一番だけを治したのでしょうか、人々に虚しい希望を与える主なんて、本当に神だったでしょうか。それでギリシャ語聖書5冊、英語聖書3冊を比べてみました。ギリシャ語の聖書では『主の』の部分が一冊も無く、英語聖書ではあるのもあり、ないものもありました。おそらく、『主の』という表現は原文を翻訳する時の誤解によるものだったかもしれません。 イエスの時代のエルサレムはローマ帝国の植民地としてギリシャ、ローマの宗教と文化も混ざっている場所でした。イエスの当時のミシュナーというユダヤの文献によると、このべトザタはローマの神々のための場所だったと言われます。古代のアスクレピオスという神はギリシャ、ローマの医術の神でした。ところで、近代の考古学者たちによって、このアスクレピオスと思われる像が、べトザタの跡で見つけられたのです。べトザタは慈しみの家でしたが、その慈しみは、私たちが信じる三位一体の神の慈しみではなく、ローマの神々の慈しみだったかもしれません。病人たちは、この異邦の神の使いが、水を動かしてくれると信じていたわけです。慈しみの家という名の場所で、わずか一人のみに施されるケチな慈しみを待ち望みつつ、一生を過ごした病人たち。実際にローマの神の使いが来て、水を動かしたかどうかは分かりませんが、人々は病気からの自由を望んで、一生偽りの神を待っていました。その偽りの神による自由は、非常に限定的で、競争的だったのです。それは一番だけへの慈しみでした。 2.ベトザタの束縛された者。 ベトザタの病人たちは、イエスの時代の最もどん底に束縛されている弱者でした。その時、イスラエルの政治は純粋ではありませんでした。ダビデの子孫、ユダ系列の人ではなく、異民族出身のヘロデ王家に支配されており、彼らの権力でさえも、ローマ帝国によるものでした。宗教も純粋さを失っていました。イスラエルの神からの託宣は現れず、ユダヤ教の宗教指導者たちの富と力と誉れのための宗教でした。社会も、純粋ではなかったのです。お金持ちはさらに富み、貧乏者はますます貧しくなりました。イスラエルは孤児や寡婦のようになっていました。それだけに病人や障害者は、さらに疎外され、呪われたと蔑視されていました。そんな彼らには真の慰めと自由と慈しみが必要でした。権力者が彼らに興味がなかったことは言うまでもありません。極めて弱い彼らに何の助けもありませんでした。彼らは死ぬまで病人、弱者として生きるに決まっていました。 彼らは二つの束縛に置かれていました。一つは一番でない限り、抜け出せない社会的な束縛でした。病気によって苦しんでいる者が治るためには、まず水に入らなければならないという前提がありました。スリを働く途中、けがをした人が足早に水に入ると治されたということです。暴力を振ってけがをした人も、先に入ると癒されたということです。しかし、生まれつき足が不自由な人、気の毒な事故によって盲人になった本当の弱い者は治されなかったということです。いくら悪人でも一番なら、治されるシステムでした。社会は本当の弱者のために何もしてくれませんでした。ただ噂を信じろという傍観と、偽りの神への信仰の強要だけで、何の希望も与えなかったのです。 また、宗教的、文化的な束縛もありました。38年もなった病人が、イエスに癒されても、ユダヤ人たちは祝いませんでした。神に感謝もしなかったのです。彼らは自分たちの教理を突きつけ、『今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。』と無慈悲な対応だけでした。彼らにとっては、病人の回復、希望、幸せは何の意味もなかったのです。苦しむ病人の回復なんて大事ではなく、ただ彼らに重要なのは、自分たちの既得権だけでした。彼らはむしろ、弱者を助け、治されたイエスを迫害しました。正しくない世で、何の慰めも得られなかった弱者の命を、誰も大切に扱っていなかったということです。ベトザタの束縛は、ただの個人の問題ではなく、社会の問題であり、束縛でありました。ベトザタの病人は、そのような束縛から絶対に逃れない存在でした。 3.ベトザタの解放者。 そんなに地獄のような現実、一番だけに機会が与えられるベトザタの池、そして、そのべトザタの池の不条理から目をそらした指導者たち、そこから抜け出しても、情けの無い基準をあげて判断し、非難した宗教人たち。もはやベトザタは慈しみの家ではなく、イスラエルの政治、社会、宗教、文化の地獄のような所だったかも知れません。誰にも歓迎されない弱者をゴミのように見捨て、神話みたいな噂を希望とさせ、死ぬまで閉じ込めておくゴミ箱だったかも知れません。そこは慈しみも、公平さも、希望も無い墓のような所でした。しかし、そこに神の御子が臨まれました。皆が高い所、明るい所に憧れたとき、主イエスは、誰も注目しない最も低い所、暗い所、ベトザタおられたのです。 そして、どうしても一番になれない38年の病人に手を差し出されました。『イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、良くなりたいかと言われた。』(ヨハネ5:6)イスラエルのゴミ箱のような低いところに臨まれたイエスは、その中でも一番弱い者に注目されたのです。そして言われました。「あなたは良くなりたいですか?」その時、病人は治されることを求めませんでした。ただ、自分の惨めさを告白するだけでした。誰も自分を助けてくれなかったことを話しています。すると、イエスは彼の話をお聞きになり、最も低いところで苦しんでいた彼を治してくださいました。その時、彼は38年の長くて苦い病気から自由、ベトザタという一番だけを覚える地獄から解放されました。政治、社会、宗教、文化から見捨てられた人が、イエス・キリストの慈しみによって新しい人生を始めるようになったのです。  しかし、彼の回復を、人々は喜んでくれなかったのです。むしろ安息日に律法を犯したと叱りました。誰が安息日にそのようにしたのかと問いただしてイエスを迫害し、殺そうとします。しかし、イエスは言われました。『わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。』(ヨハネ5:17)いくら世の不条理と悪が暴れても、イエスは堂々と言われました。「君たちがいくら暴れても、私は私の父が今もなお働かれるように働く。」イエス・キリストは、束縛と抑圧の下で苦しんでいる人を、ご自分の名誉、権力、富とは関係なく、ただ治してくださいました。そして、ご自分の命までも投げ出されました。偽りの慈しみに束縛されている者を、喜んで回復させたイエス・キリストを通して、神の真の慈しみが、その日、ベトザタに臨んだのです。最も低いところで、いつも働いておられた神の豊かな恵みが主イエスを通して、その地に臨んだのです。 締め括り 今日の旧約本文はメシアの働きを示す箇所です。国を失って束縛の中で苦難を受けたイスラエルに神は言われました。『彼らは飢えることなく、渇くこともない。太陽も熱風も彼らを打つことはない。憐れみ深い方が彼らを導き、湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。』(イザヤ49:10)神のメシアが臨まれれば、ご自分の民を正しい道、湧き出る水のほとりのような自由へ導かれるということです。そういう意味で、メシアとして来られるイエス・キリストは解放者です。イエスは、罪による差別と偏見と嫌悪に満ちている束縛の世界に自由を与えてくださる、真の解放者です。ですから、イエス・キリストのおられるところには自由があります。その自由は差別、偏見、嫌悪からの自由であり、誰もが人間らしく生きることが出来る真の自由です。そのような人間らしい生活を施すために、イエス・キリストは遣わされたのです。このイエスを信じる私たちの在り方について、どう生きるべきなのかについて今日の本文は問うているのです。

なぜ、ベテルなのか

創世記35章1-7節(旧59頁) ヨハネの黙示録2章4-5節(新453頁) 前置き ヤコブは創世記32章で、神にイスラエルという新しい名前をいただきました。それによって、彼はもはや過去のような、騙して奪いとる存在ではなく、神と共に歩む人生を生きなければならない存在となりました。しかし、彼の人生はそう簡単には変わりませんでした。神の恵みによって兄エサウとの問題が解決されるやいなや、ヤコブは神の望まれるところではなく、自分の目で見て好むところに行ってしまったからです。兄との問題で恐れ戦いていた時は、神に寄りかかって離さなかったのに、神が問題を解決してくださると、彼は神の御心ではなく再び自分の思いのままに振舞ってしまったのです。前回の説教では、それをイスラエル的な人生ではなく、ヤコブ的な人生に戻ってしまったと表現しました。そしてその結果、創世記34章で、ヤコブはあまりにも悲惨な状況に置かれてしまいます。そんな彼に神は再び現れ「さあ、ベテルに上り、そこに住みなさい。」と言われました。なぜ、神はヤコブをベテルに呼び出されたのでしょうか?今日の物語を通じて、キリスト者の人生と神の導きについて話してみたいと思います。 1.34章のあらすじ-惨めで残酷な人間たちの物語。 まず、33章後半と34章全体のあらすじを話してみましょう。33章で兄と再会したヤコブは、幸いにも兄と円満に和解することができました。エサウはヤコブの家族と群をエスコートして自分の場所であるセイルに一緒に行こうとしましたが、ヤコブはいろいろな言い訳をし、嘘までついて兄をセイルに行かせました。(33:12-16) そして彼は兄の家とまったく違う方向であるシケムの町に向かいました。(ヤコブとエサウが再会した場所からセイルは南、シケムは西)当時シケムは、その地域の商業、宗教、政治の中心地である大きな町でした。ヤコブは、その近くに自分の天幕を張って、その土地の一部をシケムの父ハモルの息子たちから買い取りました。ここで、土地を買い取ったのは、そこに長く留まるつもりだったという意味です。ヤコブは若い頃、パダン・アラムに向かう時、神に誓願を立てたのに(28:20-22) ベテルに帰らず、自分の目に良く映ったシケムの町に長く留まるために土地を買ったのです。そして自分勝手に祭壇を築き、「神はイスラエルの神」という意味の「エル・エロヘ・イスラエル」と呼びました。(33:17-20) 絶体絶命の瞬間にしばらく神に頼るようになっていたヤコブは、危機が消えると、すべて忘れたかのように、神の御心ではなく、自分の思い通りに生き始めたのです。彼は神によってイスラエルと呼ばれる存在となりましたが、全くイスラエルらしく生きなかったのです。 ところで、34章からヤコブの家に問題が生じ始めます。ある日、ヤコブの一番目の妻であるレアから生まれた娘ディナが、その土地の娘たちを見に出かけました。(34:1会いに行くではなく、見に行くの方が原文に忠実)ここで「その土地の娘たち」という表現にも「見に行く」という表現にも、神とは関係ない存在、神の御心に適わない行為のニュアンスが含まれています。そして、彼女はシケムの町の族長ハモルの息子であるシケムに強制的に辱められました。(34:2) それを聞いたヤコブは、愛していないレアが生んだ娘だったからか、彼女のために真剣な対応をしませんでした。ただ牧畜をしている息子たちが帰ってくるのを待つだけでした。(34:5)その後、息子たちが帰ってきた時、彼らは非常に嘆き憤りました。(34:7) ディナを恋い慕うようになったシケムは、父ハモルを通じて、ヤコブの息子たちにディナを嫁としてくれと言いました。するとヤコブの息子たちは「割礼を受けていない男に、妹を妻として与えることはできません。そのようなことは我々の恥とするところです。」と言い、その提案を断りました。(34:14)すると、ハモルとシケムは町の人々と話し合い、割礼をすることにしました。しかし、シケムがディナと結婚しようとする理由も割り切れません。もちろん、シケムがディナを恋するようになったのは事実のようです。しかし、この結婚を通じて、ヤコブの家族と併合し、その財産を自分の部族に吸収しようとする純粋ではない思いもあったようです。(34:20-25) 三日後、シケムの男たちが割礼の痛さのため、何も出来ない時、ヤコブとレアの息子たちであり、ディナの実の兄たちであるシメオンとレビはめいめい剣を取ってセゲムを奇襲し、男たちをことごとく剣で殺し、シケムを略奪しました。神と民の聖なる契約を意味する割礼を敵を討つための殺人の手段として使ったのです。彼らは家畜と財物を奪い、子供と女性たちを捕らえました。(34:35以下)この話を聞いたヤコブは「困ったことをしてくれたものだ。わたしはこの土地に住むカナン人やペリジ人の憎まれ者になり、のけ者になってしまった。こちらは少人数なのだから、彼らが集まって攻撃してきたら、わたしも家族も滅ぼされてしまうではないか」と言いました。ヤコブはこのような状況の中でも息子たちの罪と、娘の傷には一切触れずに、ただ自分と家族(おそらく、ラケルとヨセフ)の安全だけを心配していたのです。結局、このすべての残酷な出来事は、ヤコブがシケムに行って生じたことであり、ヤコブがエサウのために感じた恐怖よりも、はるかに深刻な結果として襲ってきました。34章をよく読んでみると、「神、主」などの表現が一つもないことが分かります。つまり、34章は神と全く関係のない人生を生きていたヤコブと、その家の問題、そして神のない人生の罪と悲惨さをよく示しているのです。もし、ヤコブが神との約束を記憶してベテルに行ったとすれば、イスラエルになったヤコブが家族を信仰の道にただしく導いたとすれば、こういうことはなかったでしょう。神の民が、神なき人生を生きる時、彼の人生には悲惨さと残酷さが残るだけです。 2.ベテル-お待ちくださり、お呼びくださる神 35章に入って、神はヤコブが直面している最悪の状況をご覧になり、すぐヤコブに仰せになりました。「さあ、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてその地に、あなたが兄エサウを避けて逃げて行ったとき、あなたに現れた神のための祭壇を造りなさい。」(35:1) ベテルという場所は、神が祖父アブラハムと父イサクの神ではなく、ヤコブ自身の神としてヤコブと出会ってくださったところなのです。彼にとって自分の家族の神、自分の知り合いの神ではなく、まさに自分自身の神になってくださったところだったということです。「彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。 13見よ、主が傍らに立って言われた。」(創世記28:12-13) ヤコブがどんな人生を生きてきたのか、どんな性格の人間なのか、そのような条件による選びではなく、全能なる神が一方的な恵みでヤコブに現れ、彼と一緒に歩むヤコブの神になってくださった場所です。そして、そこはヤコブ自身が神への誓願のために再び戻ってくると約束したところでもあります。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」(創世記28:20-22) たとえ、当時のヤコブが「主がわたしの神となられるなら」という条件的な表現で話したとしても、すでに祖父アブラハムの時からヤコブをお選びくださった神は、ベテルでのヤコブの誓願を記憶され、ヤコブの神として彼の全生涯の中でいつも一緒にいてくださったのです。創世記34章では、神という表現が一度も出てこなかったように、創世記34章でのヤコブは神のない人生の極みを見せてくれました。神にイスラエルと呼ばれるようになったにもかかわらず、彼の人生は依然として神のない人生だったのです。しかし、それにもかかわらず神は彼の歩みを一瞬も見逃されず、彼に神が最も必要な時に現れ、最も正しくて安全な道に彼を導いてくださったのです。ヤコブの娘は神のない世の中の歓楽に憧れ、ヤコブの息子たちは世の中の人々でさえやらないような残酷な虐殺と略奪を犯してしまいました。ヤコブ自身も神の民という自分の立場を知っているにもかかわらず、神を無視して自分の思い通りに生きようとしました。もし神が当時のカナン人が崇拝していた異邦の神々のような存在だったら、ヤコブは悲惨に最後を迎えることになったでしょう。しかし、神は機会をくださり、ヤコブと家族が生きる道を教えてくださいました。それは「ベテルに上ること」でした。 「ヤコブは、家族の者や一緒にいるすべての人々に言った。「お前たちが身に着けている外国の神々を取り去り、身を清めて衣服を着替えなさい。さあ、これからベテルに上ろう。わたしはその地に、苦難の時わたしに答え、旅の間わたしと共にいてくださった神のために祭壇を造る。」(創世記35:2-3) その時やっとヤコブは神の御心に気づき、自分の家族が持っていた不浄な偶像崇拝の道具を捨てさせ、悔い改めさせて自分が若い頃に誓願したベテルの神に向かって進み始めました。ベテルに上るということは、神のない人生を辞めるという意味です。ベテルに上るということは、自分の罪を神に告白し悔い改めるという意味です。ベテルに上るということは、ひとえに神のみを自分の主と認め、お導きに自分の人生を委ねるという意味です。ベテルに上るということは、初めて神に出会った時、神にいただいた恵みを憶え、追い求めて生きていくという意味です。神はベテルという最初の約束の場所から、少しも離れられずにヤコブを守りつつずっと待っておられたのです。「こうして一同は出発したが、神が周囲の町々を恐れさせたので、ヤコブの息子たちを追跡する者はなかった。ヤコブはやがて、… ベテルに着き、そこに祭壇を築いて、その場所をエル・ベテルと名付けた。」(創世記35:5-7) そして、ヤコブがベテルに着くまで彼の道を守ってくださいました。 締め括り 「あなたは今シケムに立っているか?ベテルに立っているか?」今日の本文は私たちにこう問うています。個人の差があるでしょうが、神様は各々の民に相応しい方法で出会ってくださいます。ある人とは静かに、またある人とは激しく出会ってくださいます。しかし、共通点は神がイエス•キリストを通して私たちの神になってくださるということです。神との初めての出会い以後、世の中に出ると神と遠ざかったり、神を忘れたりする場合もしばしばあります。そのような人生を生きていれば、私たちは自然に神との初めての出会いを忘れて神のない人生を生きることになりえます。しかし、神は必ずご自分の選ばれた民を憶えられ、また会いに来られます。ただし、神のない人生の中で思いがけない困難に置かれる可能性もあります。そして、その困難によって私たちは神を再び憶え、帰っていくことになります。その時、私たちはシケムではなく、ベテルに足を運ばなければなりません。自分のことを振り返り、悔い改めつつ神に進まなければなりません。もし、そのようなことがあれば、神が待っておられるベテルに上りましょう。主イエスはヨハネの黙示録を通してこう言われました。「悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。」(黙示録2:5)現代を生きる私たちにとって、ベテルに上るということは悔い改めて主への信仰を回復するということです。自分勝手の生き方から、神の御言葉による生き方に立ち戻るということです。今の自分の人生がうまくいかないと思われるなら、自分の心や行いを顧みてください。自分がシケムに立っているか、ベテルに立っているか、反省しましょう。そして、主の御心とは何か推察しましょう。なぜベテルなのでしょうか。そこに私たちの主がいらっしゃるからです。

神が結び合わせてくださった。

申命記24章1-4節(旧318頁) マルコによる福音書10章1-12節(新80頁) 前置き イエスはマルコによる福音書9章で、神の国においての生き方について教えてくださいました。3人の弟子たちと山の上に登られ、変容した姿を見せられながら、神の御心が人の思いと違うことを示してくださいました。下山の後には弟子たちが追い出せなかった悪霊を追い出され、神の国は口先ではなく信仰の実践によって成り立つということを教えてくださいました。また、自分を低くして他人に仕える者こそ、神の国では本当に偉い者であることを教えてくださいました。最後に他人を排除せず、お互いに理解しあい、仕えあって生きることが神の国の法則であることをも教えてくださいました。神の国を生きるということは、この世の法則とは正反対に行うということを、主イエスは教えてくださったのです。そしてイエスは今日の本文で、この世のやり方とは反対に行く、神の国の法則を結婚という主題を通じて、もう一度教えてくださいました。 1。ファリサイ派の人々が離婚について質問した理由。 今日の本文の冒頭には、イエスを目の敵のように思っていたファリサイ派の人々が、再びイエスを訪ね、主を困らせようと試みる姿が描かれています。「ファリサイ派の人々が近寄って、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうかと尋ねた。イエスを試そうとしたのである。」(マルコ10:2) 当時、結婚と離婚の問題はイスラエル社会において、非常に敏感なことでした。昨年、マルコによる福音書6章の説教でお話ししましたように「ヘロデ・アンティパスとヘロディア」の不正な結婚を戒めた結果、斬首刑で殺された洗礼者ヨハネに関する問題が、世間で話題になっていたからです。ヘロデ・アンティパスは、当時ガリラヤ地域の支配者で、彼はヤコブの兄エサウの子孫でした。そのため、彼はユダヤ系の血を引いた女、つまり兄弟の妻であり、自分の姪であるヘロディアと無理やりに結婚しました。その過程で二人は元の配偶者との離婚を押し切りました。そういうわけで、彼の離婚と結婚について一言でも発言すると、洗礼者ヨハネのように殺される可能性がありました。だから、皆が言動に非常に注意していたはずです。ファリサイ派の人々は、その点を用いて、イエスの見解を悪用しようとしたのかもしれません。今日のファリサイ派の人々の質問は、単なる宗教的な質問ではなかったのです。 ところで、主はファリサイ派の人々が尊敬している、ある人の名前を取り上げられ、彼らの計略に陥れられずに主の見解を示してくださいました。その尊敬する人とは、律法の重要な人物である「モーセ」でした。「イエスは、モーセはあなたたちに何と命じたかと問い返された。」(マルコ10:3) このモーセという名前が出てくるだけで、ファリサイ派の人々はイエスを告発することが出来なくなってしまいました。モーセという名前が出た以上、これは政治の問題ではなく、ユダヤ教の宗教的な問題になるからです。「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました。」(マルコ10:4) 主がモーセの命令について問いかけられた時、彼らは申命記24章1-4節の言葉を思い起こしたでしょう。今日の旧約の本文、申命記24章1節をお読みします。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」ここで「恥」とは何でしょうか?ヘブライ語の直訳としては「裸、脱いだ下半身」という意味で、象徴的には「汚れ、恥」を意味します。(創世記9:21裸のノアに使われた表現)つまり、妻にこのような「汚れ、恥」がある場合、律法では「離縁状を書いて、妻を捨てることができる」と記されていたのです。 2。結婚を軽んじる世。 「イエスは言われた。あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。」(マルコ10:5) しかし、主はこの旧約の言葉の本当の意味について改めて語られました。それは「恥ずべきことを理由に、勝手に妻を捨てても良いという意味ではない。むしろ男たちの頑固さにより、女たちが無分別に捨てられないように、また、女性が新しく嫁げるように、神が特別に配慮してくださったのだ。」という意味なのです。なぜなら、ユダヤ人が考えた「恥ずべきこと」にはとんでもないことが多かったからです。保守的な解釈で、この「恥」という言葉は「妻の性的な堕落」を意味する表現でしょう。しかし、その場合、ユダヤでは石に打たれて死ぬに決まっていました。家から追い出されるくらいの恥は、性的な堕落以外のことだったということです。「ヒレル派」というラビの学派では、この「恥」について、こう解釈したと言われます。「妻との関係で満足がないこと」「妻の料理がおいしくないこと」「妻が隣の妻よりきれいでないこと」つまり、恥ずべきことというのが、夫の気に入らないすべてのことだったという意味です。このように、当時イスラエル社会では、あまりにも簡単に妻が離縁されることが多かったようです。そして追い出された妻たちは、日常生活が不可能になり、結局は本当に堕落して売春につながったりあるいは乞食となったりしたのです。しかし、離縁状がある場合は、また別の人と結婚ができたようです。 それだけでなく、特別な場合は、妻が夫を離れることもあったようです。この場合は権力と財産のある富裕層の女性たちにあったと言われます。ローマの詩人であるデキムス・ユニウス・ユウェナリスという人のある詩には、このような語句があると言われます。「前々に合意したでしょう。あなたはあなたの好きなことを、私は私の好きなことをしても良いと。」ここで、好きなこととは自由な性生活のことです。このように、ローマの裕福な女性たちの間では、自由な婚外の性関係、夫の浮気に合わせて自分も浮気をすることが少なくなかったと言われます。おそらく、ヘロデ・アンティパスと再婚するために元夫と離婚したヘロディアも、このようなローマの文化の影響を受けたのかもしれません。いずれにせよ、ローマ時代にも現代人の考えを超える奇想天外なことがあったようです。男が妻を追い出そうが、裕福な女が不倫をしようが、このような姿は主イエスにおいて、神の創造の摂理と合わないものでした。「しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(マルコ10:6-9) 神は離婚を許されなかったのですが、世の中は結婚と離婚をあまりにも軽んじていたのです。 3。離婚が問題ではなく、離婚をもたらす人の罪が問題だ。 人生において、結婚の重要性は、言うまでもないことです。しかし、生きながらやむを得ず、離婚しなければならない場合もあります。結婚10年目に、自分が同性愛者だと打ち明けた夫に離婚された人、妻の不倫によって離婚された人、配偶者の過度なかけ事や株式投資、事業拡張による金銭的な問題のため離婚した人、配偶者の暴力によって離婚した人など、実際に残念な事情を持った人が少なくありません。このように配偶者の過ちによって離婚される場合まで、罪に定めることは現実的に無理だと思います。しかし、家庭をまともに守らない者、浮気で配偶者を捨てる者、配偶者に暴力を振るう者、結婚を軽んじる者、自身の欲望を理由に家庭を壊し、離婚にまで至らせる者は、明らかに罪を犯した者で、神に判断されるでしょう。結婚は大事なものです。神はこの世での人間の歴史をアダムとエヴァという男と女の結婚から始められました。神は夫婦を一心同体として召されました。だから、主はこう言われたわけです。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」 厳密に言えば、今日の主題は離縁についての話ではありません。離婚をもたらす人の罪に対する警告の言葉なのです。わたしたちの教会の場合、50年近くの結婚生活を続けてきた方々がおられます。今までのように、これからも配偶者を愛し、幸せに過ごしてください。やむなく独身でおられる方々も、今後の神の計画がどうなるか分からないので、まず今の周りの人々を大事にして過ごしていきましょう。いつも配偶者の立場から考えて生きましょう。配偶者は神がくださった最も近い隣人です。「あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。」(Ⅱコリント11:2) パウロはコリント教会への自身の伝道について、純潔な花嫁を花婿であるキリストに婚約させたことと表現しました。つまり教会は妻であり、キリストは夫であるということです。主イエスはご自分の花嫁である教会のために命を捧げられました。また、歴史上の教会は時々堕落したとしても、必ず夫であるキリストに立ち戻りました。このような主と教会の関係に照らして、夫婦は最後まで互いを見捨ててはならず、愛によって生きるべきです。それがまさに夫婦に向けた神の御心なのです。 教師の働きを始めてから10年が経ちました。この10年間、未信者の主人と結婚した女性信徒さんたちと数多く会ってきました。志免教会にもご主人が教会に通っていない方がおられます。しかし、クリスチャン・ホームでないからといって、あまり失望しないでください。実はその結婚も神が結び合わせてくださった関係だからです。その中で、配偶者に仕え、信仰を守って生きる皆さんの姿を、神はきっと喜ばれるでしょう。自分に許された結婚を大事にして、配偶者を愛することが主の御心であることを忘れないようにしましょう。今日の主題は簡単明瞭です。主がお許しになった結婚を自分の使命と考え、大事にして生きる時、主は褒めてくださるでしょう。そのような生活の中で教会をご自分の花嫁のように守ってくださるイエス•キリストの愛を見つけたいと思います。そして、そのような人生が、この地上において神の国を生きる聖徒の人生の一部分であると信じます。今週も神様の恩恵が志免教会の歩みと共にあることを祈ります。

イスラエルとなったヤコブ、しかし

創世記33章1-20節(旧56頁) 前置き 前回の創世記32章の説教では、故郷に帰るヤコブの姿が描かれました。 20年間の奴隷のような生活を終えたヤコブは、神の恵みによって老獪(ろうかい)なラバンに財産を奪われることなく無事に故郷に帰ることができました。しかし、ヤコブには依然として心配がありました。それは20年前、兄に犯した過ちに対する恐怖でした。全能なる神がすべてを備えられて故郷に帰れと命令されたのに、ヤコブは神の導きより、兄の報復をより恐れていたわけです。神はそのようなヤコブにご自分の御使いを遣わされ、夜通し格闘をさせられました。つまり、神がヤコブと格闘されたということです。夜明け頃、神はヤコブを祝福し、これからヤコブではなくイスラエルであると新たに名付けてくださいました。その出来事を通じてヤコブは神が自分と一緒におられることを悟ったのです。ヤコブはその出来事を「主の顔を見たこと」のように思い、神と闘った場所を「ペヌエル」すなわち「神の顔」と名付けました。 1.神との格闘-祈り 前回の説教の内容について、もう少し話してから、今日の本文に入りたいと思います。「ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。」(創世記32:24) 神は民と格闘をされる方です。前回の説教で格闘と訳されたヘブライ語は「レスリング」のような力比べのイメージを持っていると話しました。倒れそうで倒れない、互いに制圧しあい、力を競うかのような模様が、まさにヤコブと神の御使いがした格闘のイメージなのです。これによって、私たちは神がご自分の民と力比べをする方であることが分かります。現代のキリスト者にとって、神との力比べとはどういう意味でしょうか。それは単刀直入に言えば祈りです。なぜ全能なる神が、まるで力比べをするかのように民と祈りという格闘をされるのでしょうか。ヤコブが兄のゆえに思い煩う時、御使いを遣わされ「すべてのことを私に任せ。君は恐れずに故郷に帰れ!」と一言だけ通報してくださったら、ヤコブも気楽に帰郷したのではないでしょうか。それがより効率的ではないでしょうか。考えてみたら、私たちの人生にもこんなことが少なからずあります。 私たちの家庭や職場に困難なことが生じて切実に祈る時、主が一言だけ答えてくださればよさそうですが、事実、そういうことはありません。牧師に相談しても「一緒に祈りましょう。」という答えが全てです。 一体、神はなぜ速やかな答えではなく、祈りという遠回りを選ばれるのでしょうか? それは神がご自分の民を尊重される方だからです。 神学校時代に「聖霊論」という授業を受けた時の教授の話が思い起こされます。「聖霊は聖なる恥ずかしさで働かれる方である。」聖霊なる神が恥ずかしがるなんて一体どういう意味でしょうか? それは神が全能者だからといって独善的に支配されないということ、ご自分の民への礼を失されず、尊重してくださるという意味でした。神は民の人生と選びが無理やりに侵されないように慎重にその人生に介入される方です。民を束縛して、勝手に引っ張る暴君のような方ではありません。むしろ祈りという力比べによって少しずつ、しかし、変わることなく一緒に歩んで行かれる方なのです。ヤコブの人生には愚かなことがたくさんありました。また、私たちの人生にも愚かなことが少なくないと思います。しかし、主は絶対に無理やりに民を引っ張られる方ではありません。力比べのように長い祈りを通じて、悟らせて導かれる方です。 「引っ張っていく」のではなく「導いていく」のです。  ですから、お祈りの回答がすぐに出なくても挫折したり失望したりしないでください。神は私たちの祈りの中で私たちのすべての願いを聞いておられるからです。 2.イスラエルとなったヤコブ、しかし…。 しかし、そういうわけで、問題も生じえます。それは神からの問題ではなく、人間からの問題です。神が祈りという力比べを通して少しずつ変えて行かれるため、人間が神の御心に気づくことが出来ず、自分の思い通りにしようとすることです。今日のヤコブがそうでした。「ヤコブはスコトへ行き、自分の家を建て、家畜の小屋を作った…ヤコブは…カナン地方にあるシケムの町に着き、町のそばに宿営した。ヤコブは、天幕を張った土地の一部を、シケムの父ハモルの息子たちから百ケシタで買い取り、そこに祭壇を建てて、それをエル・エロヘ・イスラエルと呼んだ。」(17-20) 兄のことで心配していたヤコブは、神との格闘の後に兄と再会することになりました。創世記32章7節によると「使いの者はヤコブのところに帰って来て、兄上のエサウさまのところへ行って参りました。兄上様の方でも、あなたを迎えるため、四百人のお供を連れてこちらへおいでになる途中でございますと報告した。」と記されています。エサウがヤコブを「迎える」ために来ていたということです。ここで「迎える」という表現は「カラ」というヘブライ語で「軍事的遭遇」というニュアンスの意味も持っています。日本語では優しいニュアンスに見えるかもしれませんが、原語的にはその意味が曖昧なのです。しかし、神と夜通し格闘をしたヤコブは、最終的に兄と和解することで終わることが出来ました。それは、格闘のような祈りの結果だったのです。 ここまでは本当に良かったと思います。兄との再会という絶体絶命の危機の中で、神と闘ったヤコブが主にいただいた力と恵みで兄との関係を円満に解決したからです。ところで、これくらいになったら、神に感謝し、神の御心を聞き、従順に従うべきなのに、ヤコブは兄の招きを避けるために嘘をつき、またベテルで神に帰るという創世記28章の約束を破り、異邦人のシケム(当時異邦人の大きい町)へ行きました。神と祈りの力比べをして主の答えも受けたヤコブですが、問題が解決されるやいなや、再び自分勝手な生き方に戻ってしまったのです。今日の説教のタイトルは「イスラエルとなったヤコブ、しかし」です。それでは「しかし」の後に私は何を言いたかったでしょうか?「再びヤコブになってしまったヤコブ」なのです。信仰とはもともと波のようなものです。上がる時があれば、降りる時もあり、降りる時があれば、また上がる時もあるものです。ところで、上がるのは良いのですが、なぜまた降りてしまうのでしょうか?神が恵みを与えて引き上げて下さっても、また降りてしまう理由は、人間に罪の性質が残っているからです。使徒パウロは言いました。「自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」(第一コリント9:27) 彼の言葉のように罪を制御しない限り、人は再び罪の中に飛び込んでしまうからです。 3.目的地はシケムではなく、ベテル。 皆さん、信仰が成長したと感じられる時が、一番つまづきやすいものです。ヤコブがイスラエルとなったからといって、すべてが終わったわけではありません。私たちがこの地上での人生を完全に終えて神に召される時まで、私たちの信仰はいつも現在進行中のさまです。私たちはいつも同じ罪によってつまづいたり弱くなったりするでしょう。私たちはイエス•キリストによって新約の新しいイスラエルとなりました。それは主イエスの恵みと救いによるものです。しかし、依然として私たちにはヤコブの性質が残っていることを忘れてはいけません。イエスによってキリスト者となり、主の義によって私たちも義と神に見なされた存在ですが、私たちに罪の性質があることを謙虚に受け入れ、どのように生きていくべきか、常に顧みて生きなければならないでしょう。神が信者から罪を完全に取り去られなかった理由は、神の力が弱いからではありません。その罪に気づき、自分の限界を見つけ、主だけに頼って生きさせられるためです。だから新約のイスラエル、つまりキリスト者となったからといって気を緩めてはなりません。常に自分自身を振り返り、自分の罪を悔い改め、主の御心を察して、正しい道に向かって生きていきましょう。イスラエルではなく、ヤコブの道を選んでしまったヤコブに、次の本文では大きな困難が近づいてきます。 そして、ヤコブには、主なる神とのまた違う力比べの格闘が近づいてきています。次の説教の内容をあらかじめお話しますが、ヤコブの娘ディナはシケムの首長の息子に強引に犯されました。怒ったヤコブの息子たちはシケムの人々を虐殺します。瞬く間にヤコブの家族は、その地方で危険な存在と目されてしまいます。ヤコブの人生は再び風前の灯火のようになります。そして彼はまた神の前に進むことになります。自分がパダン・アラムに向かった時、夢の中で神と出会った所、ベテルに立ち戻り、神の御前に悔い改めることになります。神は彼を再び祈りの場、神との力比べの場に呼び出してベテルへと導かれたのです。今の時代を生きていく私たちにとって、ベテルとはどういう意味を持つでしょうか。神の御心に従う人生を意味します。自分の欲望と思いをやめ、神の道に進む人生こそが、私たちにとってベテルに行く道であるのです。キリストにならって、その方と一緒に歩む人生こそが、まさにベテルに赴く人生なのです。しかし、私たちが自分の欲望と思いのため、神に従順に聞き従わない時、また罪の道に入ってしまう時、主なる神は再び、ご自分の民を力比べつまり祈りの場に呼び出されるでしょう。そのような霊的な訓練を通じて、主は民が気づくまで、民を導いていかれるでしょう。ベテルではなくシケムに向かう人生に神との格闘は続くでしょう。そして結局、民は厳しい格闘の末に悟り、正しい主の道に向かうことになるでしょう。 締め括り ヤコブはイスラエルとなりましたが、再びヤコブの人生に向かってしまいました。旧約聖書の偉大な先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブは、皆完璧な聖者ではなかったのです。実はキリスト以外に聖書に完全な人はいませんでした。皆が罪人だったからです。しかし、神は選ばれた民を決して御捨てられず、格闘の場、祈りの場に呼び出され、彼らを訓練させ、最後まで導いてくださいました。ドルト信仰基準という改革教会の教理には「聖徒の永遠堅持」という概念があります。それは、神が一度お選びになった、ご自分の民の信仰がいくら弱くても決して御捨てられず、救いに至るまで堅く守って導いていかれるという意味です。神は一度選ばれた民に罪と愚かさがあっても、絶対にあきらめられない方です。ヤコブのように祈りの格闘を通じて、正しい道に導かれつつ天国に入るまで、民を見守ってくださるのです。私たちはイスラエルよりヤコブに近い本性の存在であるかもしれません。しかし、今日も主なる神はキリストを通して、私たちを義と認めてくださり、祈りの力比べによって導いていかれます。この主を憶え、主の御心に適う人生になりますよう生きていきましょう。今週も主の祝福が豊かにありますように。

団体ではなく全体を。

  聖書朗読 民数記11章24-30節(旧232頁) マルコによる福音書9章38-50節(新80頁) 前置き 前回の説教の主題は、イエスの弟子たちの議論から始まりました。「誰がいちばん偉いか?」という極めて世俗的な議論でした。それで、イエスは「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」と、主の民が取るべき生き方を教えてくださいました。この世のやり方は強い者によって左右されます。弱い者は無視され、疎外されます。しかし、イエスが追求する世界は、高い者が低い者に仕え、強い者が弱い者を助けるところです。イエスご自身がいちばん高くて偉い方でしたが、最も低いところの弱い者たちに仕えるためにこの世に来られ、十字架で死んでくださったからです。そういうわけで、主イエスの民において、誰かに仕えることは基本的な生き方なのです。主イエスの御心を承り、自分のことを低くし、他者を高めて仕えることが主イエスの民の生き方なのです。主はそのような者を真の「偉い者」とされ、必ず祝福してくださるでしょう。主の民の中で最も偉い者は低い所の弱い者に仕える人です。それがまさに主イエスの方式なのです。 1。イエスを信じる他の共同体を排除しようとしたヨハネ。 イエスが低いところの弱い者に仕える人こそが、真に「偉い者だ。」と言われるやいなや、弟子ヨハネが言いました。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」(38) 先ほど、主が弱い人に仕えることこそが、キリスト者の在り方であると言われたにもかかわらず、ヨハネはすぐに他人に仕えるどころか排除するようなニュアンスで話し出したのです。このヨハネという人は、どんな者だったでしょうか。私たちはヨハネによる福音書、ヨハネの手紙、ヨハネが記した啓示録などを通じて「愛の使徒ヨハネ、敬虔な人ヨハネ、啓示の人ヨハネ」などで、彼を思い起しがちかもしれませんが、主の生前のヨハネはかなり偏向的な人だったようです。ルカによる福音書の9章には、このような出来事が記してあります。「弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、『主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか』と言った。」(ルカ9:54) イエスが十字架を背負われるためにエルサレムに足を運ぼうとされた時、主は先に使いの者をサマリア人の村に送られました。当時、ユダヤ人とサマリア人はそんなに仲が良くない状態でした。ユダヤ人はサマリア人が異邦人との混血民族だからと嫌がり、サマリア人はユダヤ人に差別されていたので、好きになれなかったのです。そういうわけで、サマリア人はユダヤ人の団体だったイエスと弟子たちを受け入れなかったのです。 そこで、憤ったヨハネと彼の兄ヤコブは「私たちが天からの火で彼らを焼き滅ぼしましょうか?」と大胆な発言をしたのです。その時、主は彼らを厳しく戒められました。また、マルコによる福音書の3章17節によると、主はヨハネとヤコブに「雷の子ら」というあだ名を付けてくださいました。それだけにヨハネは非常にタフで、自分と異なる思いの人を排除しようとする性格の人だったのかもしれません。そんな彼がヨハネの手紙Ⅰでは、愛を唱えているので、主の恵みの偉大さがしみじみと感じられてきます。おそらく、ヨハネはイエスのかたわらで一緒にいる自分が偉い人間だと勘違いしていたでしょう。メシアである主イエスがイスラエルの王様になってご支配なさると、自分たちもその左と右とで権力者になるだろうと考え、うぬぼれていたかもしれません。つまり、ヨハネは、自分が正しい者だと思っていたということでしょう。イエスが正しい方だから、自分も正しいと根拠のない自信に満ちていたかもしれません。その結果、彼は自分と違う人を差別し、排除する人物になっていたのかもしれません。以前、他教会で、たくさんの祈りと聖書の学びによって、そうでない人を軽蔑し、差別し、排除しようとする人を目撃したことがありますが、彼は紛れもなく主の御言葉を完全に誤解していたでしょう。低くて弱い者に主のように仕えることこそが、真に正しいキリスト者の生き方であるという主の御言葉を忘れてはならないでしょう。 2.低い者に仕えるということ= 他人を排除しないということ。 そんなヨハネに主は言われました。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」(39-40) 偏見と排除のヨハネをなだめるかのように、主は主の御名で悪霊を追い出している者たちを許して良いと言われました。それを聞いてヨハネは恥ずかしかったかもしれません。「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」(41)イエスは一人の存在、一つの団体だけのために来られた方ではありません。時々、キリスト者の中にも、知らず知らず、我が主、我が教会の主、我が教派の主、我が民族と国の主と勘違いをしつつ生きる人もいます。しかし、主はある存在に束縛される方ではありません。むしろ世の万物が主に属しており、誰も主を独り占めすることはできません。また、我が教会だけが真理にあずかっているわけでもありません。主なる神の御言葉を聞いて行うすべての教派が主の真理にあずかっているのです。しかし、あまりにも数多くの教会が自分たちだけが主の真理を持っているかのように振る舞い、他教派は排除しようとする場合があります。結局、同じ三位一体なる神を信じているにもかかわらず、互いに対立しあってしまうのです。   例えば、プロテスタント教会とカトリック教会は、互いに相手を警戒する傾向があります。宗教改革以来、プロテスタント教会とカトリック教会の間には、あまりにも多くの誤解と偏見が積もってきました。それゆえ、今でもカトリック教会に挨拶でもしようと行くと、神父さんが「この人なんで来たんだろう?」と訝しげに見つめます。考えてみれば、こっちからもカトリックの神父さんが来れば「ええ、なんで?」と怪しく思うかもしれません。しかし、教理は少し違っても、結局プロテスタントもカトリックもイエスを救い主として信じることはあまり違いありません。マリア崇拝や煉獄など、理解できない教理ももちろんあるでしょうが、深く掘り下げてみると、彼らなりの理由があるかもしれません。何よりも彼らが救われるかどうかは、私たちではなく、神がご判断なさるべき問題なのです。重要なのは、彼らも教理でイエスを認め、イエスの救いを最も重要視しているということです。(皆さん、誤解はしないでください。カトリック教会のために弁明しているわけではありませんので。)今日の本文の物語が、前回の本文につながっている理由は何でしょうか?ひょっとしたら、低くて弱い者に仕えるという意味は、貧しくて弱い人に仕えることだけでなく、自分と違う存在への配慮と尊重という意味でもあるのではないでしょうか?私たちは自分も知らないうちに、主の御心とは違う排除と偏見とを抱いて生きているかもしれません。しかし、主から私たちに許されたのは排除と偏見ではなく、ひたすら愛と奉仕であるだけなのです。 3. 団体ではなく全体を。 内村鑑三の朝鮮人の弟子に咸錫憲(ハム・ソクホン1901-1989)という神学者がいました。内村の弟子であるだけに、彼も「韓国的無教会主義」を唱えた人です。余談ですが、ここで「無教会主義」を誤解してはいけません。「教会なんていらない」という意味ではなく「信仰の唯一の根本は、教会とその仕来りではなく、聖書の御言葉からのみ」というのが無教会主義の本来の意味です。無教会主義についてはいつかもう一度話す機会があると思います。ところで、この咸という人は自身の著書で「全体と団体」ということについて語りました。「全体は宇宙の根本、すなわち神の意思そのままを反映することであり、団体は利己的な自分という存在たちの集まりに過ぎない。」つまり、彼の主張は「全体」というのは、「神の御心に従う完全な被造物としての共同体的な存在」を意味することであり、「団体」というのは「利己的な自分たちという存在の欲望によって造られた共同体的な存在」ということです。これはあくまでも、咸という人の思想であって、聖書の教えでないので、参考だけにしてください。彼は「全体」を大事に考えました。私たちは時々「全体主義」あるいは「ファシズム」等の表現により「全体」へのネガティブなニュアンスを感じがちだと思いますが、咸が言った「全体」はそれとは距離が遠く、神の御心が成し遂げられる共同体という意味です。 私は、今日の本文を通じて、神学者 咸が語った「全体」について考えてみました。彼の思想を借りて、果たして我が教会は「全体」を目指す共同体であるでしょうか?もし、教会のすべての人々が今日の本文のヨハネのように行動するならば、教会はただの「団体」に過ぎないでしょう。それは主に従う共同体ではなく、利己的な「自分」たちの集まりであるだけです。しかし、私たちが他者を排除せず、むしろ、彼らに仕え、主の御言葉に聞き従って生きていけば、我が教会は神の御心に従うという意味の「全体」としての教会になるでしょう。今日の本文で主は恐ろしい警告をされました。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」(42)また、主は地獄まで言及されます。(地獄を文字通りに仏教的な地獄として理解するより、主の厳しい裁きとして理解する必要がある。)自分と違う者を排除する者はすなわち他者をつまずかせる者であり、このような者たちは地獄の炎のような恐ろしい裁きを受けるという厳重なご警告をなさったわけです。43-50節が単純に悪い者たちの死後処分を意味するのではなく、前の言葉とつながった内容であるということを憶えておくべきです。私たちが、ただ利己的で、他者を排除し、偏見を持つ「団体」のような存在になってしまったら、主に地獄と表現されるほど恐ろしく叱られるでしょう。また、そうでなく、他者を尊重し、仕える時、私たちは世の塩のような者になるでしょう。 締め括り 最後に今日の旧約の本文に触れて終わりましょう。全部話すと長くなるので手短に触れてみましょう。本文を読めばすぐ理解できると思います。モーセの後継ぎであるヨシュアが、長老の集まりに出かけていないエルダドとメダドにも、神の霊がとどまって預言状態になったのを見て、文句を言うと、モーセは言いました。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」(29)ヨシュアは排除を望みましたが、主は皆に主の霊を許してくださったのです。主はすべての者の神です。そして、主に属している者同士は、互いに認めあい、理解しあい、受け入れつつ生きる必要があります。主の民が主の民を愛しあうことが出来なければ、いかにして教会の外の存在を愛することが出来るでしょうか。もちろん、私たちは我が教会、すなわち日本キリスト教会の伝統と教えを大切にしなければなりません。しかし、私たちのものをしっかり守るべきであるだけに、他者のものも尊重して生きていく必要があります。「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」この言葉を憶え、他教会、そして、教会内でも兄弟、姉妹への理解と愛を持って生きるとき、真の平和があり、主もそれを喜ばれるでしょう。志免教会が団体ではなく、全体を追い求める教会として、教会内外で愛を成し遂げて生きること祈り願います。

聖霊を通して一緒におられる主。

詩編139章7-10節(旧979頁) ヨハネの手紙一4章13-16節(新445頁) 前置き 今日は聖霊なる神が、この地上に降りてこられたことを記念する聖霊降臨節です。ヨハネによる福音書14章16節によると、イエスは十字架で亡くなられる前夜、最後の晩餐後、ご自身が父のもとへ移られても「弁護者」というまた別の存在を遣わしてくださり、その方が主の民と永遠に一緒にいるようにすると約束されました。また、使徒言行録2章には、イエスの約束どおりに主の民のところに訪れてこられた、この「弁護者」の降臨について記されています。そして、私たちは、この「弁護者」という方が、御父、御子と共に三位一体であられる聖霊なる神であることを、聖書を通じて知り、信じています。「弁護者」聖霊は文字通りに、地上にいる主の民のために弁護してくださる、いわば助け主であります。私たちが感じられなくても、聖霊はいつも私たちと一緒におられ、私たちに信仰を与え、その信仰を守ってくださり、御父と御子を私たちとつなげてくださる方です。御父と御子はこの聖霊を通して、昨日も、今日も、明日も私たちと一緒におられ、私たちを神の恵みへと導いてくださいます。今日は聖霊降臨節を迎え、「弁護者」聖霊について分かち合いたいと思います。 1.なぜ、ペンテコステなのか。 先ほど、私は今日が「聖霊降臨節」だと言いました。しかし、日本の多くの教会では、おもにペンテコステという名称をよく使います。ところで、なぜ「聖霊降臨節」を「ペンテコステ」と言うのでしょうか?まず「ペンテコステ」とはギリシャ語で「50」を意味する表現です。旧約聖書申命記16章16節には「男子はすべて、年に三度、すなわち除酵祭、七週祭、仮庵祭に、あなたの神、主の御前、主の選ばれる場所に出ねばならない。」と記録されています。ペンテコステを意味する「50」は、この除酵祭と七週際の間の日数と関係があります。説明が複雑かもしれませんので、週報の裏面に図を載せましたので、ご参照ください。除酵祭は過越祭の翌日から始まる(出エジプトの時の過越祭に神が施してくださった御救いを記念する)一週間の祭りであり、七週際はその除酵祭の初日から7週間目になる日の翌日であります。つまり、七週際は除酵祭の初日から50日になる日なのです。ですから、ペンテコステという言葉はイスラエルの「七週際」をギリシャ語式に表現したものです。そして、聖霊降臨の日が、まさにこの七週際、ペンテコステだったのです。このペンテコステ(七週際)は旧約のイスラエルの祭りで、当時ローマ帝国のあちこちに散らばって暮らしていた多くのユダヤ人たちが、旧約の律法の命令に従ってエルサレムの神殿に出て神の恵みを記念し、感謝する日でした。 使徒言行録2章によると、聖霊はこのペンテコステに降臨されました。そして天から強い炎のように聖霊が降臨され、イエスの弟子たちに臨まれた時、一同は「聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」と言われます。つまり、聖霊の力によって、自分もわからない、しかし、はっきりとした主イエスの福音を外国語で話すようになったということです。その時、七週際すなわちペンテコステを守るために外から帰ってきたユダヤ人たちは、彼らが話す主の福音を聞いて、自分の罪に気づき、悔い改めてイエスを信じるようになったのです。その時、イエスの弟子の一人であったペトロがほかの弟子たちと立ち上がり、主の御言葉を説教しました。「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」(使徒言行録2:17-18) この日エルサレムでは3000人ほどのユダヤ人たちが洗礼を受け、イエスの民になったと聖書は証言しています。したがって、私たちは便宜のために「ペンテコステ」とは呼びうるでしょうが、その日が聖霊なる神が、キリストによって本格的に主の民に臨まれた「聖霊降臨節」であることを忘れてはいけません。志免教会はなるべく、ペンテコステよりは聖霊降臨節で、この日を記憶し守りたいと思います。 2.聖霊とはだれなのか? ところで、聖霊降臨という呼び方のため、私たちはつい聖霊が新約時代になってから、はじめて地上に来られた方と誤解しやすいです。しかし、聖書はこの聖霊なる神が旧約時代にもおられたことを証ししています。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(創世記1:1-2) 神の霊すなわち聖霊は、創造の前にすでに存在しておられる方でした。「彼に神の霊を満たし、どのような工芸にも知恵と英知と知識を持たせ」(出エジプト記35:31) 聖霊は出エジプト時代にも神の民と一緒におられ、知恵と英知と知識を与えてくださる方でした。「霊はわたしを引き上げ、カルデアの方に運び、わたしを幻のうちに、神の霊によって、捕囚の民のもとに連れて行った。」(エゼキエル書11:24) また、聖霊はイスラエルが滅びてしまい他国の捕囚となった時も、いつも一緒におられました。つまり、聖霊は創造の時から常におられる方であり、その民がどんな状況に置かれても、離れられず一緒におられる方だったのです。日本キリスト教会の大信仰問答は、聖霊についてこのように述べています。「聖霊は父と子から出るもの。いずれも本質を共にし、能力と栄光とにおいて等しく」だから、聖霊は全能な神ご自身でいらっしゃるのです。 時々「聖霊を注ぐ」という表現のため、聖霊を人格的な存在ではなく、勢いや力のような非人格的な存在と誤解する場合もありますが、聖霊は父なる神と御子イエスから出られ、この世のすべてを治められる存在であり、御父と御子より劣る存在ではなく、能力と栄光において父、子と同じ本質と権威を持っておられる、明らかな神なのです。聖霊は偉大な三位一体の一つの位格であり、私たちに礼拝と賛美を受けられるべき神なのです。こういうわけで、日本キリスト教会信仰の告白は、聖霊についてこう述べています。「父と子とともにあがめられ礼拝される聖霊」したがって、私たちは、この聖霊を父なる神と御子イエスのように神として崇めるべきです。日本キリスト教会では「聖霊様」という表現をあまり使っていませんが、実は「聖霊様」という表現は、神学的に何の問題もなく、むしろ聖書の教えに忠実な表現でしょう。しかし、今まで日本キリスト教会が使ってきた表現であるので、「聖霊なる神」という表現をそのまま使って良いでしょう。「聖霊様」であれ、「聖霊なる神」であれ、いずれも良いのです。重要なことは、聖霊は創造の前にもおられ、終末の後にもおられる、無限な御父、御子のように私たちに礼拝と賛美を受けられる偉大な神であるということです。 3.聖霊を通して、私たちと永遠に一緒にいてくださる主。 ところで、今日を生きていく私たちにとって最も重要なことは、イエスがこの聖霊を私たちに「弁護者」として遣わしてくださったということです。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(ヨハネ福音書14:16) イエスは人類の最も偉大で完全な救い主であり、先生であったのに、なぜ弁護者という別の存在を遣わそうとされるでしょうか? 主イエスはいつか世を去り、御父のところに帰らなければなりませんでした。イエスは造り主として、この世が始まる前からおられた真の神です。しかし、主はまた罪人たちを導き、その罪人たちの代表者になって御父と和解させるために肉となってこられた完全な人でもあります。ですから、主イエスは完全な神であると同時に完全な人でもある方なのです。ということは、肉体を持った人でもありますので、時空間を超越することはされないという意味です。それは主イエスが全能な方でないという意味でしょうか。いいえ、違います。完全な神であり、完全な人なので、自ら人としてのアイデンティティを守ろうとするという意味なのです。「できない。」わけではなく、「しない。」でしょう。そうしてこそ罪人を代表する肉体を持った人としてあり得るからでしょう。そのため、主は代わりに時空間を超越する霊的な存在を遣わしてくださったのですが、その方がまさに「弁護者」聖霊なのです。 つまり、聖霊は創造の前から常におられた方ですが、イエスの御救いと御導きをこの世で成し遂げるために象徴的に再び降臨されたのです。聖霊はいつもおられた方ですが、人類への主イエスの愛と救いの意志をあずかってもう一度降臨されたということです。旧約時代には多少厳しく感じられる方でもありましたが、今はキリストの御救いによって、主の民に信仰を与え、力を与え、救いを成し遂げ、愛を施してくださるために来られたのです。その一例として、旧約の聖霊は一度民に臨まれても、民の罪によって離れられる場合もありましたが、新約の聖霊は一度民に臨まれると永遠に離れられない方なのです。そして、ご自分の御業を通して父と子とのことを示してくださる方です。「神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。」(ヨハネの手紙一4:13) 主は「弁護者 聖霊」である聖霊を通して私たちの内にとどまられ、私たちも「弁護者 聖霊」を通じて主の内にとどまるのです。このように私たちは聖霊によって神と永遠に交わり、主が再び来られる日まで信仰を守りつつ生きることができるのです。聖霊はいつも私たちと一緒におられます。悲しい時は一緒に悲しみ、嬉しい時は一緒に喜び、主なる神との歩みが出来るように導いてくださるのです。 締め括り 「どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにもいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」(詩編139:7-10) 旧約の偉大な人物であるダビデは神が聖霊を通して、いつどこでも一緒にいらっしゃるということを告白しました。新約の聖霊と比べて、旧約の聖霊の方はかなり異なる方式で働いておられたにもかかわらず、ダビデは聖霊の存在をこのように理解したわけです。まして、キリストの愛と救いを通じて、私たちと一緒におられる聖霊は、どれほど恵みと愛と真理とで私たちと一緒におられる方なのでしょうか。聖霊は私たちと常に一緒におられ、神への知識と主への信仰とキリスト者への生の指針を与えてくださる、生ける神なのです。その方によって、私たちは自分の罪に気づき、御言葉を学び、祈りの課題をいただき、主の民として生きていくのです。今日、聖霊降臨節をきっかけにし、この聖霊を憶えつつ生きていきましょう。父と子に比べて、ご自分を表さずにいつも謙遜に働かれる聖霊、その方はいつも私たちを父と子へと導いてくださいます。聖霊の御業を感謝して生きる志免教会になることを心より願います。

イスラエルと呼ばれる。 

創世記32章23-33節(旧56頁) コリントの信徒への手紙二4章14-18節(新329頁) 前置き 前回の説教で、神はパダン・アラムを離れて故郷に帰るヤコブに御使いたちを遣わしてくださいました。 ヤコブは彼らを見つけ、マハナイム(二組の陣営)と名付けました。神は、なぜ二組の陣営の御使いたちを通してヤコブのところに来られたでしょうか。それはヤコブの所有、つまり二組の陣営(創32:11)を守ってくださるための、神の繊細な配慮と愛のためでした。しかし、ヤコブはマハナイムを見ても別に反応をしませんでした。神は彼の家路を守ってくださるためにマハナイムを送ってくださったのですが、ヤコブはただ他人事のように通り過ぎるだけでした。帰郷するヤコブを苦しめたのは兄の仕返しへの恐怖でした。ヤコブは昔、自分の行いによって兄の怒りを買ったことがあり、それが恐ろしかったわけです。マハナイムの神が自分と共におられるにもかかわらず、ヤコブは神への信頼よりは、自分の恐怖に執着するだけだったのです。そんな状況の中でも、ヤコブは神ではなく、自分の不完全な対策だけを頼りにしていました。結局、彼は一番最後になってようやく神の御助けを探し求めたのです。神はいつもご自分の民と一緒におられる方です。しかし、多くの人々は、このヤコブのように、神よりは自分の考えに捕らわれがちだと思います。前回の説教ではこのようなヤコブの姿を通じて、私たちの信仰について顧みました。 1.ヤコブ的な人生の結果-恐怖。 ところで、ヤコブはなぜ兄を恐れるようになったのでしょうか。それは、過去にヤコブが犯した不義があるからです。ヤコブはヘブライ語の「アカブ」に由来する名前です。アカブは基本的に「かかとをつかむ」という意味の動詞ですが、状況によっては「だます、ごまかす、あざむく」という意味を持つ場合もあります。ヤコブは生まれた時、兄のかかとをつかんでいました。生まれつき、嫉妬が強く、競争的で自分の必要のためなら、どんなことでも企める性格の人だったということです。彼の野望は結局、兄に与えられるべき、長子の権利を欺き、奪い取ることにまでつながりました。最終的にヤコブは長子の権利を不当に騙し取ることに成功しますが、むしろ、それによって故郷から逃走するかのように離れ、ラバンによって奴隷同然にこき使われるようになり、今日の本文では兄の仕返しを恐れ、苦しみと憂いの中で日々を過ごすことになってしまいました。罪は人の平安を奪います。罪を犯した当時は(まるで、ヤコブが長子の権利を奪い取ったように) 良い結果につながるかのように見えるかもしれませんが、必ず、その罪によって、以後さらに大きな苦しみがもたらされます。もし、この世で苦しい報いを受けなかったとしても、正義の神によって死後必ずその罪が裁かれるでしょう。自分に与えられた神の祝福と導き以外のものをむさぼる時、人は罪を犯すようになり、その結果は惨めさ、憂いと思い煩い、結局は霊的な死に至ることになります。 新約聖書のヤコブの手紙は、こう語っています。「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブ1:15) ヤコブの野望は欲望から生まれたものです。彼は幼い頃、聞いたアブラハムとイサクへの神の祝福を欲しがっていたかもしれません。双子に生まれたのに何分違いで弟になったのが悔しかったかもしれません。だからといって、自分の野望どおりに父と兄を欺き、不当に長子の祝福と権利を横取りすることは明らかに罪でした。罪は罪です。いかなる美辞麗句を散りばめても、罪は罪として、その報いを受けることは決まっています。今日のヤコブの恐怖は、まさにその罪への報いに基づきます。神は彼を長子としてくださり、アブラハムとヤコブの祝福を受け継がせてくださる方ですが、彼の罪についてうやむやに終わらせる方ではありません。ヤコブは自分の罪への報いを受けているのです。世の中には自分の欲望のために、他人を欺き、奪い取る場合が本当に多いです。「自分、自分の家族、自分の共同体、自分の国」のために他人や他団体、他国を苦しめるということです。しかし、それは明らかに罪なのです。「自分」が中心となる人生は、差し当たり、幸せであるかもしれませんが、その結果は辛いでしょう。それがまさにヤコブ的な人生なのです。これは、人間なら誰もが持っている欲望に由来するものです。果たして、私たちはヤコブ的な人生から自由だと断言できるでしょうか。「自分」ではなく「みんな」、「自分だけ」ではなく「他人も」の人生を生きたいものです。 2。神とヤコブ、二人きりの格闘。 そうした思い煩いの中で、ヤコブは兄の怒りを鎮めるために人間にできる数多くの対策を講じます。「その夜、ヤコブはそこに野宿して、自分の持ち物の中から兄エサウへの贈り物を選んだ。それは、雌山羊二百匹、雄山羊二十匹、雌羊二百匹、雄羊二十匹、乳らくだ三十頭とその子供、雌牛四十頭、雄牛十頭、雌ろば二十頭、雄ろば十頭であった。」(14-16)(現代で言えば莫大な財物)ヤコブはエサウに数多くの家畜を贈り物として送り「また、先頭を行く者には次のように命じた。兄のエサウがお前に出会って、『お前の主人は誰だ。どこへ行くのか。ここにいる家畜は誰のものだ』と尋ねたら、こう言いなさい。『これは、あなたさまの僕ヤコブのもので、御主人のエサウさまに差し上げる贈り物でございます。ヤコブも後から参ります』と。」(18-19)また先頭の僕に、自分を極めて低くしてエサウに言い伝えるよう命令しました。しかし、それにもかかわらず、ヤコブの思い煩いは消えませんでした。結局、神が介入してくださらなければ、何も解決できない状態になってしまったのです。人間にできるすべての努力を尽くしたにも関わらず、ヤコブの悩みは全く解けませんでした。結局、彼は家族と財産のすべてをヤボクの渡しから向こう側に送り、独り後に残って夜を過ごすことになりました。その時、何者かが来て、ヤコブと夜明けまで格闘しました。彼が誰なのか聖書は明らかにしていませんが、文脈上、神の御使い、あるいは神ご自身であるでしょう。 聖書には格闘と書いてありますが、原語的には「レスリング」に近い、互いに取り組んで力比べをするイメージの闘いです。ある学者たちは、この状況を神の御導きと御守りを願い求めるための壮絶な祈りとして理解しました。自分としてはこれ以上何もできないほど無力になった時、自分のすべてをかけて神と談判をするということです。彼は生き残るために神の御使いに絶対に負けないよう最後まで持ちこたえつつ、去らせませんでした。時々、神はご自分の民を人生の新しい段階に導かれる時、暗闇と孤独の中に一人きりにさせられる場合もあります。そして、その一人きりの民のところに来られ、神と民の1対1の状況を作り、民を祈りの場に導かれます。徹底した無力さと、すべてが失敗したという絶望感を覚えさせ、神以外にはいかなるものにも頼れない悲惨な状況まで追い込まれ、神だけを求め祈るようになさるのです。このような神はひどい方なのでしょうか。いいえ、そうしなければ、人間はけっして神に帰ってきません。苦難があるからこそ、主を探し求めはじめるのです。皮肉かもしれませんが、それは神の祝福のもう一つの姿なのです。今までのような罪深い神なき人生を諦めさせ、神との歩みに招かれることだからです。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」(Ⅱコリント7:10) 3。ヤコブがイスラエルと呼ばれる。 「ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。」(26)ヤコブと格闘していた神の御使いは、ヤコブの切実さによって自分が勝てないことを見て、ヤコブの腿の関節を打ちました。ここで、腿とは「ヤレク」というヘブライ語で、状況によっては「男性の生殖器」あるいは「最も重要なもの」を意味する場合もあります。神の御使いがヤコブとの格闘の時、つまり壮絶な祈りの時、ヤコブの最も重要なものを打ったということです。いかに皮肉なことなのでしょうか。神の御助けを切に願い求める者の最も重要なものを、神が打たれるということです。しかし、ここに逆説的な神秘があります。「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、ヤコブですと答えると、その人は言った。お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」(28-29)神の御使いを離さなかったヤコブ、神に祝福を強く求める(27)ヤコブに、神は彼がもうこれ以上、神から離れられないように、彼の最も重要なものを打たれたのです。そして最も重要なものが無力になったヤコブ、神の他に拠り所がなくなったヤコブに「お前は神と人と闘って勝ったからだ。と言われたのです。(イスラエルの語源は、ヘブライ語「サラ」競う、優れる、権力を握る。すなわち、「神と競う、あるいは神が治める。」という意味。) 今まで、ヤコブは自分が自分の主のようになって生きてきました。自分が願うものを手に入れるために生きてきたのです。ヤコブの人生は、まるで、力比べのような人生でした。彼はいつも人生という力比べに勝利するために生きてきたのです。長子の権利のための力比べ、ラケルを得るための力比べ、ラバンから抜け出すための力比べ、自分の利益のために力比べのような人生を生きてきたのです。しかし、その終わりに、何があったでしょうか。それは兄への恐怖だけでした。 もし、兄との関係がうまく解決されても、彼はきっとまた別の心配で生きていったはずです。しかし、神の御使いと闘った彼は、自分が一番重要にしていたものを打たれる神を見つけました。自分の最も重要なものをあきらめて、神だけを頼りにして生きる時に、真の平和があることに気づき始めたのです。自分が中心となるヤコブ的な人生は、常に不安が支配します。しかし、自分の中心を神にささげる時、ヤコブの人生には真の平和が訪れました。ヤコブとして生きてきた彼がイスラエルに生まれ変わったのです。「ヤコブは、わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きていると言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。」(31)ヤコブは、この格闘の出来事を神との対面として理解しました。聖書によると神の御顔を見ると人は死にます。しかし、ヤコブは生き残ったと思ったのです。神と対面して生き残った彼にとって、もうこれ以上兄の仕返しは、大したことではないでしょう。「ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。」(32)彼が神と対面した時、彼の人生に本当に明るい太陽が昇ったということです。 締め括り 聖書が語る勝利は、「万事が自分の思い通りになる」という意味ではないでしょう。むしろ、「主の御心にあって生きる人生」に近いのです。神の御心通りに、我らの主イエスは十字架で息を引き取られました。この世の基準でイエスは敗北者だったかもしれません。しかし、神はイエスの死を通して罪を裁き、再び復活させられることで、その死を勝利にしてくださいました。ヤコブは御使いとの格闘で腿の関節がはずれましたが、主と対面して真の平和を得、これ以上自分勝手に生きることができない存在になりましたが、それよりも大事な主の祝福をいただきました。神と一緒に歩む者の人生は一見自分の思いのままに生きられないと見えるかもしれませんが、いっそう深い恵みの人生に変わっていくでしょう。 新約聖書の言葉が思い出されます。「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの外なる人は衰えていくとしても、わたしたちの内なる人は日々新たにされていきます。」(Ⅱコリント4:16) 神の御導きに従って生きる時に、私たちは外的には、自分中心の人生から遠ざかるかもしれません。しかし、私たちの内面は主によってますます新たにされていくでしょう。この逆説的な聖書の真理が、私たちを真の勝利と栄光へと導くでしょう。神の御導きによって、私たちが重要だと思っていた物事をあきらめる時に、私たちは本当に勝利する人生を経験することになるでしょう。主がヤコブにくださった逆説の勝利を憶え、キリスト者の人生について悩み、顧みる一週間になることを願います。

いちばん偉い者はだれか?

詩編147編6節(旧987頁) マルコによる福音書9章30-37節(新79頁) 前置き 前回の説教では、高い山から地上に降りてこられたイエスと3人の弟子たちの物語と、町に残っていた弟子たちが悪霊に取り付かれた子から悪霊を追い出せず、ユダヤ教の律法学者たちと議論ばかりしている物語について話しました。それらを通して私たちは、キリスト者がいるべき所、キリスト者の信仰と祈りについて聞きました。ペトロ、ヤコブ、ヨハネといった3人の弟子たちを連れて山に登られたイエスは真っ白に輝く姿に変容されました。そして、旧約の偉大な人物であるモーセ、エリヤとお話になりました。また、雲から神の声が聞こえ、弟子たちは畏れと共に素晴らしさを感じました。しかし、イエスは再び弟子たちを連れて素晴らしい山の上ではなく、悲しみと苦しみに満ちた山の下に降りてこられたのです。これを通じて私たちは、キリスト者は世の中とかけ離れた、素晴らしい宗教を追求する存在ではなく、山の下の世界、すなわち低いところに仕えて生きる存在になるべきであることを学びました。そして、信仰がなくて悪霊を追い出すことができず、議論ばかりしている残りの弟子たちの物語を通じて、主による信仰の実践が、悪に満ちたこの世を変える動力であることをも学びました。最後に私たちは、この世を変える本当の祈りとは、そのような信仰によって神のお導きに反応することであることをも学びました。 1.ご自分のことを隠されるキリスト。 「イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活すると言っておられたからである。」(マルコ9:30-31) マルコによる福音書を読みつつ到底理解できない場面があります。それは主がご自分のことを隠される場面です。マルコによる福音書には、何箇所も主が自らを隠される場面が登場します。「イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。」(マルコ3:12) 主は、ご自分のことを言いふらそうとする汚れた霊どもに、主を表さないよう警告されました。「イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。」(マルコ5:43) 主は会堂長のヤイロの娘を生き返らせた後、それを隠されました。「イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。」(マルコ7:36) 耳が聞こえず舌の回らない人を癒してくださってからも、そのように命じられました。また「ペトロが答えた。あなたは、メシアです。するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。」(マルコ8:29-30) 主をメシアだと告白したペトロにも話さないように命じられました。そして、今日の本文でも、主はご自分の死と復活を隠すように命じられたのです。 主は、なぜご自分のことを隠すように命じられたでしょうか。これについては、学者たちの様々な主張や仮設がありますが、それでも、なぜ主がご自分のことを隠されたのかについては、明確な正解がありません。ただ、これかも知れないという学者たちの仮説があるだけです。しかし、明らかなことは、主がご自分のことを弟子たちには隠さず、むしろ明確に教えてくださったということです。主はこのように言われました。「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。」(マルコ4:23) 主イエスの福音は、世の中の全ての人が聞けるものではありません。響き渡る音としての声ではなく、その福音に隠されている御言葉を信仰によって受け入れる者だけが分かり、信じることが出来る霊的な秘密なのです。人々に主の福音を聞かせようとしても、皆がそれに気づくわけではありません。耳に聞こえてきても、福音はまるで秘密のようにその真理を簡単には与えません。主は十字架での死と復活以来、これ以上隠さず弟子たちと聖書を通して、ご自分について明白に教えてくださいました。それにもかかわらず、世のすべての人がイエスの福音に気づくことはできませんでした。今日、私たちが主の御言葉を聞いて悟ることができるというのは、誰にでも与えられるありふれた恵みではありません。しかし、十字架での死と復活前には秘密だったこのキリストの福音が、今では私たちに秘密ではなく良いお知らせとして常に教えられています。この主の福音を聞いて悟ることが出来る私たちになることを心から祈ります。 2.弟子たちの「いちばん偉い者」についての論争 主は8章でペトロが主への信仰を告白した後、高い山から降りてくる時、そして今日の本文で何度も、ご自身が「人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する。」と言われました。しかし、弟子たちは「その言葉が分からなかったが、怖くて尋ね」ることが出来ませんでした。イエスを信じる者には、誰にでも理由があるでしょう。人が理由もなく、何かをするということは普段ないからです。おそらく、弟子たちにもイエスを先生として招き学ぼうとする理由があったはずです。しかし、その一番大きな理由は、やはり主がメシアだと思ったからでしょう。当時「メシア」という言葉には極めて政治的な意味がありました。例えば、日本は歴史的に他国に征服されて植民地になったことはありません。もちろん、太平洋戦争でアメリカに負けたことはありますが、アメリカは早く日本を同盟国としましたので、植民地や敗戦国としての屈辱が他国に比べては少なかったと思います。しかし、36年間、日本に支配された韓国は、はなはだしい民族的なプライドの傷を経験しました。そういうわけで、反日の底にはプライドの傷があるということでしょう。(これは自民党の石破茂氏の見解です。当事者として一理あると思います。)このようなプライドの傷は、イエスの時代のユダヤ人にもあったようです。そのため、この世を裁き、変えてくれる「メシア」の存在は、イスラエルを独立国に導く軍事的、政治的な救い主として受け入れられる傾向がありました。 弟子たちは、おそらくそういう存在としての「メシア」イエスに集まったかもしれません。ところが、そうであるべき「メシア」イエスが自ら死ぬと断言しておられるのです。そして、3日後によみがえると、到底分からないことを話していおられます。そういうわけで弟子たちはイエスのその言葉が怖く、あえて避けようとしていたでしょう。主の復活以後、聖霊のお導きで福音を聞く耳が開かれた後になってから、ようやく弟子たちは主がどのような「メシア」として、この地上に来られたのかを悟ったでしょう。とにかく、今日の本文当時の弟子たちはイエスを政治的、軍事的なメシアとして理解していたことが明らかです。そのため、誰がイエスの右腕になってイスラエルの指導者になるだろうか、あるいはもう少し進んでイエスが亡くなったら、誰が主の後継ぎとしてイスラエルを統治するだろうかと、互いに論争したのかもしれません。「偉い者」本当に耳に良い言葉です。子供たちが素晴らしい学校に進学し、医療職、法律家、政治家になって世の中で尊敬される立派な人になったら、いかに誇らしいでしょうか。私たちも、たぶんそのような考えから自由ではないでしょう。しかし、自ら死ぬと断言する不思議な「メシア」イエスは、弟子たちの考えとは全く違う教えをくださいました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(35) 3。世の価値観の反対側に行く福音 主は「いちばん偉い者は、すべての人の後で、他人に仕える者」とおっしゃったのです。イエスの御言葉は本当にあり得ない不思議な論理でした。当時の偉い者といえば、他人の上に君臨し、支配し、一番先に立つ者であることが当然でした。弱肉強食の法則は現代とあまり違いがなかったのです。しかし、人権という概念がない時代でしたので、さらに過激だったのです。「一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(36-37)また、主は幼い子供一人を抱き上げられ、この子供のような弱い者を受け入れるのが、まさにイエスを受け入れることと同じようなことだとおっしゃいました。当時、幼い子供は人間以下の存在とされていました。現代では、子どもの人権が大事な時代になりましたが、当時は大人に比べて病気ですぐ死んだりすることが多く、大人になる前は認められない社会的な弱者だったのです。しかし、主はそのような最も低い存在である子供を取り上げ、このような何でもない者に仕えることこそが、御国では最も偉い者の在り方であることを教えてくださったのです。 主のお教えはこのように、この世とは全く異なる価値観に基づきます。これは単なる謙遜の美徳を身につけろという倫理道徳的な意味とは違います。メシアとしてこられたイエスは自ら死ぬと予告されました。当時、イスラエルが考えた「メシア」という概念はイスラエルを勝利へと導く者のことでした。そして、「キリスト」という概念はローマ皇帝だけに捧げる最高の賛辞でした。ところで、ヘブライ語の「メシア」に当たる、ギリシャ語がこの「キリスト」であるだけに、メシアは普通の人が享受できない権力の中心を意味する表現だったのです。しかし、主は権力ではなく犠牲、君臨ではなく奉仕、高さではなく低さのために来られたのです。神の御国はこの世とは反対側に行くものです。低いところの人々を高め、強い者は自らを低くし他人に仕え、金持ちは貧しい者を助け、力を誇示するよりは他人を生かすことに使います。すべてが世の中とは正反対、つまり逆説的です。イエスの死は、罪人を生き返らせる命の死でした。人に命を与えるために、主はご自分の命を死と変えました。しかし、神はそのイエスの死を真の命に変えてくださいました。これがキリスト教の逆説的な価値観です。自分の命を捧げて他人を死から生かす、そして神がそれを報いてくださる、この世の破壊的かつ強圧的な価値観とは全く正反対の生命と仕えの価値観なのです。 締め括り 自ら自分を低くすることは、本当に難しいものです。自己中心的なプライドを捨てて、他人に仕えることを喜び、自分が損をする人生を自ら求めて生きるという意味です。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」(マタイ5:39-42) しかし、主イエスはキリスト者の生き方について、このように教えてくださいました。自ら低くする人生は本当に難しいですが、我々の主がそのように生き、民たちにもそれを命じておられます。「主は貧しい人々を励まし、逆らう者を地に倒される。」(詩編147:6)「貧しい」に訳されたヘブライ語「アナブ」は謙遜な者、自らを低くする者を意味する場合もあります。こういう人は神に「励まされる」と記してありますが、原文的に「主が力強く持ち上げる」という意味もあります。自ら低くする者は神によって高くなるという意味でしょう。このような逆説が神の神秘なのです。自らを低くし、他人に仕えて生きる時、私たちは主によって高められ、真の偉い者になるでしょう。このような神の法則を信じて謙遜と仕えを実践して生きる私たちになりたいものです。こういう生き方を追い求める、真に偉い者である志免教会になることを祈ります。

マハナイムの神に出会う。

創世記32章2-13節(旧54頁) マタイによる福音書28章20節(新60頁) 前置き 叔父であり、義父であるラバンによって、20年という長い歳月の間、奴隷のように利用されてきたヤコブ。しかし、神はヤコブがラバンにだまされ、ただ、こき使われている状況の中でも、着々とご自分の計画を進めつつ、彼の人生を導いてこられました。人間の目から見ると、ヤコブはラバンという障害物のような存在の下で、自分の将来も備えられず、ただ無力で受動的に歩んできた失敗者のように見えるかもしれません。しかし、神の御目から見ると、ヤコブは苦労と絶望の中でも、それとは別に主のご計画の中に守られていたのです。もしかしたら、ラバンの存在自体さえも主のご計画の一部であるかもしれなかったのです。私たちの信仰と人生において、一寸先も見えない絶望と悲しみの状況の中でも、神は私たちとは異なる見方で私たちの人生を見守っておられます。私たちの絶望と悲しみの時さえも、神のご計画の一部であって、神が私たちを導いておられることを信じる信仰者になりたいものです。結局、ヤコブは主の御助けによって、大家族を成し、金持ちになり、主の決定的な恵みでラバンの手から自由になって帰郷することになりました。 1。神のご予定と人間の行い。 以前、ヤコブは自分の計略で、祝福の相続人になりました。しかし、それはあくまでも人間中心的な解釈です。「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる。」(創世記25:23)ヤコブの生まれる前から、神はヤコブがアブラハムとイサクの相続人になることをすでに知っておられました。だからといって、神はヤコブが父と兄をだまして相続者になることを容認されたわけではありません。また、ヤコブに悪いことをさせられたわけでもありません。神の民にとって、結果だけでなく過程も大事です。「過程は悪いけど、結果さえ良ければ大丈夫だ。」という主張は望ましくありません。正義に満ちた公正な生き方で過程を経て、また主の御心に適う良い結果が出るように誠実に人生を生きるべきです。 福音書はイエス・キリストの御言葉を通して、キリスト者の望ましい生き方について教えてくれます。キリスト者は、何事においても「蛇のように賢く、鳩のように素直に」生きるべきです。しかし、ヤコブはそのような人ではありませんでした。結果だけに執着して過程には失敗しました。それにもかかわらず、神はヤコブをご自分の御心にふさわしい者に養っていかれました。 そして、ヤコブはその主の養いの中で、まことの約束の相続人として成長していきました。 ヤコブの人生を通して、キリスト教の重要な教えである「神の予定」について、そしてその「予定の中での人間の生」について考えてみたいと思います。予定とは、「全能の主が世のすべてを予め定めておられる。」という概念です。しかし、「すべてが定まっているから、人間は適当に生きても構わない。」と理解してはなりません。「ヤコブが悪いことをしたことも、成功したことも、世の中のすべてのことも結局、神ご自身がお定めになった予定によるものだから、人間はただ適当に生きれば良いんだ」というような理解は、人生の過程と結果への正しい姿勢を妨げます。主は人間に「選びの自由」をくださいました。主は全宇宙を創造し導かれる「経綸と摂理」(週報参照)の中で人間が主の御導きに反応し、主の御心に従って生きようとする「選び」の自由を与えてくださったのです。 その「選びの自由」を誤って利用した代表的な存在が、まさに「知識の実を貪ったアダムとエヴァ」なのです。主はご予定に従ってヤコブを約束の相続人にしようと計画されました。しかし、ヤコブは自分の「選びの自由」を誤ったやり方で使い、不正に相続者の権利を奪ってしまったのです。しかし、それよりもっと大きい神のご恩寵は、そのようなヤコブを鍛えて、主の御心に適う人として養っていきました。神の予定とは、いかなる障害があっても、全能なる神は妨げられず、その御心のままに成し遂げていかれるということを強調する概念なのです。 2.マハナイム– 神の二組の陣営 世の数多くの宗教は「自らの善行によって救いに至る」という基本的な救いへの見方を持っています。しかし、キリスト教での救いへの見方は徹底的に神の主導的な恵みと理解されています。神はご自分の主導的な予定の中で、民を敬虔に養成していかれる方です。そして神の絶対的な権能で彼らを救いにまで至らせてくださいます。つまり、人の行いではなく、神の恵みによって人間を救うということです。私たちはその恵みによって、一方的に救われ生きているということを忘れてはいけません。「ヤコブが旅を続けていると、突然、神の御使いたちが現れた。ヤコブは彼らを見たとき、ここは神の陣営だと言い、その場所をマハナイム(二組の陣営)と名付けた。」(32:2-3) 今日の本文で神は、ご自分の計画の中でヤコブを導いていかれることをもう一度示してくださいました。本文に出てくるマハナイムという単語には、「二組の陣営」という表現がついています。マハナイムはヘブライ語の双数で記されたものです。マハナイムの原型は「マハネ」で、その意味は「陣営、軍隊」です。この「マハネ」に「イム」がつくと「マハナイム」という双数となり、二つの軍隊という意味になります。ところで、どうして「二組の陣営」なんでしょうか? 「ヤコブは非常に恐れ、思い悩んだ末、連れている人々を、羊、牛、らくだなどと共に二組に分けた。エサウがやって来て、一方の組に攻撃を仕掛けても、残りの組は助かると思ったのである。」(32:8-9) 帰郷するヤコブは恐れていました。以前、父と兄をだまして長子の祝福を奪った時、兄エサウが自分を殺そうとしたことが思い起されたからです。今では、エサウが自分の地域で権力者に成長しており、もしかしたら、帰っていくとき、兄の仕返しですべてを失うかもしれないと思ったのです。自分の不正な行為による兄の怒りが恐ろしかったわけです。そこで、ヤコブは極めて人間的な自分なりの妙策を思いついたのですが、それは自分の所有を二組に分けて、もし一組がエサウに攻撃されたら、残りの一組は避難できるようにしたのでした。しかし、そのような人間的な知恵の案出にも関わらず、ヤコブの恐怖は止まりませんでした。しかし、神はすでにヤコブの心を見抜かれ、神がヤコブと一緒におられることを示してくださいました。まさに二組の陣営を備えてくださったのです。ヤコブの群れを守る神の二つの軍隊。神はヤコブの弱い信仰にもかかわらず、彼との契約を守るためにヤコブの群れを守る神の二組の陣営を備えてくださったのです。人間がいくら自分の知恵で対策を立てても、人間の知恵では、完全に自分を守ることができません。一つを守ったとしても、一つは諦めなければならない現実が、人間の最善の知恵であるのです。しかし、神は主ご自身が選ばれた民のために、ご自分の御手によって守ってくださり、避ける道を与えてくださる方なのです。 3. 一番先に主の御助けを求めよ。 しかし、ヤコブは神の軍隊を見ても特に反応しませんでした。ただ「ここは神の陣営だ」と言い、そこをマハナイムと名付けるだけでした。旧約聖書のヨシュア記5章にも、これと似たような出来事があります。「ヨシュアがエリコのそばにいたときのことである。彼が目を上げて、見ると、前方に抜き身の剣を手にした一人の男がこちらに向かって立っていた。」(ヨシュア記5:13)モーセの後継ぎであるヨシュアが民を率いてヨルダン川を渡り、カナンに入ったとき、そして主のご命令に従ってエリコを攻撃する直前に、彼の前に剣を手にした、ある男が現れました。ヨシュアは彼に「あなたは味方か、それとも敵か」。尋ねました。すると彼は言いました。「いや。わたしは主の軍の将軍である。今、着いたところだ。」(ヨシュア記5:14)すると、ヨシュアは、急いで彼の前にひれ伏して反応しました。神は主の軍の将軍を遣わされ、エリコとの戦いに主の導きと助けがあることを示し、ヨシュアはそれにひれ伏すことで反応したわけです。しかし、ヤコブはヨシュアのような反応はしませんでした。主が一緒におられることを意味する二組の陣営を自分の目で見ても気付けなかったのです。彼は神に感謝も祈りも反応もせず、ただ兄のことで心配ばかりしていました。 ヤコブは9節でようやく神を探し始めます。「ヤコブは祈った。わたしの父アブラハムの神、わたしの父イサクの神、主よ、あなたはわたしにこう言われました。あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与えると、どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。」(32:10、12)主の深い恵みを受け、そのご命令に従って帰郷することになったヤコブ。しかし、彼の信仰は依然としてもの足りない状態でした。神は二組の陣営を通して彼の群れを守ってくださり、過去の契約を通して彼との約束を覚えてくださり、また、すべてを備えてくださって、ヤコブに故郷に帰れと命じられたのですが、ヤコブはその神の命令より、自身の過去の経験と考えと不信仰に捕らわれて一人で思い煩い、結局、いちばん最後に神に祈り始めたわけです。キリスト者は一番先に神を探し求めなければなりません。何が起ころうとも、最初から祈りの座に出なければなりません。祈りを通じて神に自分の事情を申し上げ、謙虚な心で神の御心を待ち望みつつ、それから自分ができることを模索すべきです。神が本当に自分と一緒におられると信じるなら、私たちはひとまず神の御前にひれ伏し、祈りの座に進むべきです。 締め括り 結論的に次の本文で、神はヤコブを最も良い方向に導いてくださり、エサウとの問題も丸く治めてくださいます。しかし、今日のヤコブの信仰については、実に残念です。私たちが神の民として選ばれて救いを得て、その方の経綸と摂理、予定のもとに生きていることを信じるならば、私たちはもっと神への積極的な信頼と感謝を持って生きるべきでしょう。 神はイエス•キリストを通して私たちにこう言われました。「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20) 主の救いと恵みを信じて、神と一緒に歩む者に、主は必ず共にいてくださる方です。私たちの信仰がヤコブより優れているとは言えないかもしれません。しかし、私たちの信仰が弱い時も、神は私たちを最後まで見守ってくださるでしょう。したがって、ヤコブの過ちから私たちの過ちを見つけ、日々信仰の改善を目指して生きていきましょう。主がいつも私たちと一緒におられることを信じて、感謝と賛美とで、今週も生きていくことを心から願います。