わたしは主である。

出エジプト記6章1~13節(旧101頁) フィリピの信徒への手紙2章10~11節(新363頁) 前置き 前回の説教では「わたしの民を去らせなさい」という神のご命令を告げ知らせるために、ファラオの前に行ったモーセの話が描かれました。モーセはファラオに神の厳重な命令を申し伝えましたが、ファラオはその言葉を無視して、むしろイスラエルの民に今までより、さらに重い労役を命令した後、モーセを追い出しました。ファラオとモーセとの出来事によって、むしろ労役が増えてしまったイスラエルの民はモーセを恨みました。そして、このような結果に失望したモーセも神に嘆きました。その話を通して、私たちは神の御言葉に従ったにもかかわらず、物事がうまくいかない場合もありうるということが分かりました。しかし、神は主の御心とご計画を、必ず成し遂げられる方です。たかが100年も生きることのできない人間の愚かな考えで、永遠におられる神の知恵と計画を判断しようとするなら、人間は必ず神に失望し恨むことになってしまいます。しかし、主の御心に信頼し、その御業の成就を待ち望む者は、最後には、必ずご自分の計画を成就される神の恵みに気づき、感謝するようになるでしょう。私たちは前回の説教で、神への変わらない信頼を持って神の御心を待ち望みながら生きる信仰の人生の大事さを学びました。 1. わたしがあなたたちの主である。 6章が始まるやいなや、神はモーセに言われました。「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。わたしの強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる。」(出エジプト6:1) それはイスラエルの民が必ずエジプトから解放されるという希望のメッセージでした。ただ、ほうほうの体で逃げるのではなく、主の強い手(ファラオとは比べ物にならない圧倒的な権能)によって解放されるということです。そして、ファラオが持ちこたえられず、イスラエルを追い出してしまうほど、二度と狙わないほどの絶対的な力でイスラエルを解放させるという約束です。イスラエル民族とモーセは人間の目に、あまりにも強くて大きく見えるファラオの権力に圧倒されてしまいましたが、主はそのファラオでさえ、どうしようもない、より大きな力によってイスラエルを救うことを約束されます。前の5章でイスラエルとモーセはたった一度のファラオの横暴に圧倒され、怯えてしまいました。そして、むしろ、ファラオより偉大なイスラエルの神を恨みました。人間は自分が感じること、見ること、聞くことによって、この世界を判断しがちな存在です。そんな理由で、目に見えませんが、確かにおられる偉大な神の権能をもすぐ見落としてしまう傾向があります。 しかし、神は、人間の考えを、はるかに超える偉大な方です。ファラオは神を奴隷たちの神に過ぎないと思って無視しましたが、その結果は奴隷たちの神の裁きによる滅びでした。現代の日本を生きる私たちも、小さくて弱く見える日本の教会を見ながら神の威厳をすぐ忘れてしまうかもしまうかもしれません。日本の政治家、財閥、権力者に比べて、日本の教会が、あまりにも小さくて弱い群れであるのは事実だからです。しかし、私たちの目に映るのがすべてではありません。神は世のすべてのものの上におられ、世のすべてのものは主の支配のもとにあります。私たちの目には見えないだけで、聖書は神があらゆる名にまさる名を持っておられる真の王であることを常に証しています。ところで、この偉大な神が今日の本文を通して、こう語っておられます。「わたしは主である。…わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。…」(6-7中)神は、ご自分への弱い信頼と不信仰で生きる民でさえ哀れみ、救って導くことを望んでおられる私たちの主です。主は決して弱い民を嫌に思われることなく、むしろ、わたしはあなたの神であると宣言なさる方です。このような主なる神を憶え、目に見えることだけを信じるのではなく、目に見えない主の偉大さを拠り所とし、信仰を堅く守る私たちであることを願います。 2. わたしは主である。 「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主というわたしの名を知らせなかった。わたしはまた、彼らと契約を立て、彼らが寄留していた寄留地であるカナンの土地を与えると約束した。」(3-5) 神はなぜ信仰の弱いイスラエルの民を見捨てられず、憐れんで救ってくださることを望まれたでしょうか? それは、神がかつてイスラエルの先祖たちと結ばれた「約束(契約)」のためです。前の説教で、私たちは神がモーセにご自分の御名を教えてくださったと学びました。ヘブライ語の「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」直訳すると「わたしはある」、意訳すると「わたしは自ら存在する者である。」「わたしはすべてのものの源である。」がそれでした。今日の本文によると、神はモーセとイスラエルの祖先であるアブラハムとイサクとヤコブには、主という神の御名を知らせなかったと書いてあります。ただ全能の神であるとご自分のことを現わされたのです。ところで、 以前の説教では「わたしはある」が神の御名であると学んだのに、なぜ今日の本文は「主(ヘブライ語ヤハウェ・エホバ)」という名が神の御名であると語っているのでしょうか? その理由は、「わたしはある。」と訳された原文と「主」と訳された原文に深い関係があるからです。日本語の聖書では説明が難しい理由が原文の聖書には書いてあるからです。日本の教会では「ヤハウェ」あるいは「エホバ」という表現をあまり使いません。 「エホバの証人」のような異端団体が使っているから、なるべく控えようとの理由もあるかもしれないし、「ヤハウェ」という表現を全て「主」と翻訳したギリシャ語旧約聖書に影響を受けたからであるかもしれません。しかし、ヤハウェやエホバという表現は異端的でも悪い言葉でもありません。「ヤハウェ」は「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」というヘブライ語を略して読んだ表現だという説もあります。つまり「ヤハウェ」(日本語聖書で「主」)という表現は「わたしはある」という神の御名を圧縮した言葉であり、今日の本文ではその表現を「主」と訳しているのです。したがって、今日の説教のタイトルである「わたしは主である」という言葉は、「わたしはヤハウェである。」との翻訳ができ、その意味は「わたしはあるという者である」「わたしは自ら存在する者である」と理解しても問題ないと思います。自ら存在する神は、その昔、イスラエルの先祖たちと約束を結ばれましたが、彼らにはご自分の御名を教えてくださいませんでした。しかし、彼らとの約束を憶えておられる神は、先祖たちへの恵みよりも、いっそう豊かな恵みでイスラエルの民にご自分の御名を教えてくださいました。旧約聖書で名前を知らせるということは、より深い関係を結ぶという意味だと解説書に書いてありました。イスラエルの先祖たちと契約を結んだ神は、今やその子孫であるイスラエルとより深い関係を結んで約束を守っていかれるということです。憐れみ豊かな神は、昨日よりさらに大きな恵みで今日の民たちを愛してくださる方です。全能の主は今よりもっと大きな恵みで明日を生きる民と歩んでいかれる神です。 3。わたしは契約を憶える神である。 「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると手を上げて誓った土地にあなたたちを導き入れ、その地をあなたたちの所有として与える。わたしは主である。」(6:8)ファラオには追い出され、民には恨まれることになったモーセ、失望したモーセに神はもう一度ご自分の計画についてお話しになりました。その昔、イスラエルの先祖であるアブラハムとイサクとヤコブと結んだ契約(約束)を憶えておられる神は、約束通りに必ずその子孫イスラエルを解放させ、約束の地に導き入れると言われました。たとえ、イスラエルが奴隷だとしても、ファラオの権力が強いとしても、モーセが失敗したとしても、神にとってそれらは何の問題にもなりませんでした。神は必ずご自分の約束を守られ、主の御心のままにご計画を成し遂げて行かれる方だからです。神が約束を憶えておられるということは、民と結んだ約束を必ず守るという神の情熱を表す表現です。何があっても必ず守るという神の堅いご意志なのです。創世記で、神はアブラハムにこう言われました。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」(創世記12:2) また、イサクにはこう言われました。「わたしはあなたの子孫を天の星のように増やし、これらの土地をすべてあなたの子孫に与える。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。」(創26:4) 最後にヤコブにはこう言われました。「あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。」(創28:14) このようにアブラハムとイサクとヤコブと約束された神は、その約束通りにイスラエルを解放し、カナンに導いて行かれるでしょう。そして、その約束はもうすぐ出エジプト記で成し遂げられます。神は必ず約束(契約)を守られる方です。ところで、私たちは一つ憶えておかなければなりません。アブラハムとイサクとヤコブと結んだ神の約束は出エジプト記だけに限られる約束ではないということです。主の約束は出エジプト記でも成し遂げられますが、究極的には新約聖書のイエス·キリストによって完全に成就しました。旧約の神の約束は、旧約に限るものではなく、以後ダビデにつながり、最後にはイエス·キリストの十字架の救いによって完成します。したがって、神がアブラハムとイサクとヤコブと結んだ契約は、新約時代を生る私たちにも同じく適用されるものです。アブラハムとイサクとヤコブへの神の祝福の約束は、キリストによって私たちにも有効です。しかも、キリストによってさらに堅くなった約束です。約束を憶えておられる神は、キリストを通してより豊かな恵みをもって、私たちを祝福してくださいます。そして、その約束はキリストによって永遠に守られます。このように、神の約束は旧約だけでなく、新約にまでつながる、私たちに与えられた変わらない永遠の約束なのです。 締め括り 聖書が語る「主」という表現は、漠然と誰かを高めるための謙譲表現ではありません。私たちの人生を司る絶対的な方に捧げるべき最高の呼称です。ローマ時代には皇帝や王族、あるいは自分の命を左右する主人に使う表現でした。神が私たちの主になったということ、キリストが私たちの主になったということは、私たちのすべてを知り、導き、治める方が神、キリストしかないという意味です。神が私たちの主であるということは、私たちの生と死を神お独りだけが支配しておられるということです。その主がアブラハムとイサクとヤコブを通してご自分の民を祝福してくださいました。そして、その祝福によって旧約のイスラエルは救われ、その祝福によって新約の私たちは永遠に神の祝福のもとに生きることが出来るのです。したがって「主」という言葉が持つ大きな意味を憶えつつ生きるわたしたちであることを祈ります。最後に、今日の新約本文を読んで説教を終わりたいと思います。「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、イエス・キリストは主であると公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2:10-11)神が、この「主」としてイエス·キリストを私たちに遣わしてくださいました。それを憶え、主の約束を信頼しつつ生きる志免教会であることを祈り願います。 父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。

キリストが教会になさったように。

創世記2章24節(旧3頁) エフェソの信徒への手紙5章21~33節(新358頁) 前置き 前のエフェソ書の説教で、私は1-3章ではキリストと教会(キリスト者)の関係についての神学的な話が、また、4-6章では、キリストと教会の神学的な話に伴う実質的かつ実践的な生き方についての話が書いてあると申し上げました。教会は神によって天地創造の前にあらかじめ定められ、キリストによって救われ(キリストを頭とし)、聖霊の導きによって歩む、主の体なる共同体として神に召された存在であるとお話ししました。そういうわけで、教会は、もはや神を知らない世に属した人の生き方ではなく、主の体なる共同体にふさわしく、キリストに似ていく生き方を追い求めて生きるべきであるというのが、今までの説教の主な内容でした。今日は教会の実践的な生き方の中でも、最も重要なことについてお話したいと思います。それは夫と妻の関係、つまり夫婦の関係についての話です。パウロは、今日の話を通して、夫婦の関係をキリストと教会の関係につなげて教えています。それだけにキリスト者の夫婦関係は、信仰と密接な関係を結んでいるものです。今日の説教を通して夫婦の関係、そして、キリストと教会の関係について考えてみたいと思います。 1.互いに仕え合いなさい。 今日の本文は夫婦の関係について話す前に、まず、エフェソ教会の信徒たちにキリストへの畏れをもって、互いに仕えあうことを勧めています。 「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」(エフェソ5:21) ここで「互いに仕えあう」という表現の原文は「降伏する。屈服する。服従する」という意味の言葉です。21節は今日の本文とも深い関りを持っていますが、前の本文とも繋がる箇所です。キリストによって救われ、神の民となり、神に倣っていこうとする者はキリストに属する者として、兄弟姉妹に対して謙虚に生きなければならないという意味の言葉です。この箇所を読むと、フィリピ書の言葉が思い起こされます。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい…キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」(フィリピ2:3-7) つまり、主の民はイエス·キリストにならって、自分の血気と固執を捨て、謙虚に兄弟姉妹、隣人に仕えて生きるべきであるということです。 そして、今日の本文は、この「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」という言葉が、夫婦関係にも適用されると語っているのです。夫婦は世界で一番近い間柄です。親と子供の関係も夫婦関係に勝らないと思います。したがって、夫婦は一生を一緒に生きる、最も身近な隣人どうしなのです。一番身近で、一番よく知り、一番よく接する隣人なので、何よりもお互いへの理解と愛が先に出来なければなりません。しかし、実際、それは本当に難しいものです。現代を背景にしたドラマや映画を観ると、夫が妻を殴ったり、無視したり、見下ろしたりする場面がたびたび出てきます。ドラマは現実の反映ですから、本当にそういうことがあるでしょう。あるいは、激しい気性の妻がいる家庭では、逆に妻が夫を無視したり、見下したり、ひどい場合は妻に暴行される夫もいると言われます。夫と妻が互いに暴言、暴力をふるうことはキリスト者にとって、絶対にありえない、あってはならない、キリスト者にふさわしくない夫婦関係です。クリスチャンホーム、特に夫婦関係において最も基礎的かつ重要な課題は「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合うこと」なのです。夫だからといって妻を軽く扱ってはならず、妻も同じように夫を大事にしなければなりません。ここからキリスト者の家庭の秩序は始まるのです。 2.妻と夫へのパウロの勧告。 「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自ら、その体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。」(エフェソ5:22-24) まず、パウロは妻たちに自分の夫に仕えなさいと勧めています。ここで「仕える」は21節に書いてあった「互いに仕える」と同じギリシャ語です。つまり、妻だけが夫に仕えるべきということではなく、夫も妻に仕えるべきという意味を含んでいるでしょう。パウロは夫は妻の頭(ケファリ)だと語ります。 私たちはよく「キリストは教会の頭」という言葉を使いますが、この「頭」の語源が「ケファリ」なのです。今日の「夫は妻の頭である」という表現にも、このケファリが使われました。ケファリという言葉は「カプト」という表現に由来したという見解がありますが、カプトは「つかむ、握る」を意味します。つまり、ある存在のアイデンティティを表す基礎かつ代表的なもの、すなわち根本を意味する表現です。古代の人々は、人の頭が体全体の根本だと考えたようです。そのためパウロは体なる教会の根本はイエス•キリストであり、それに似た夫婦関係として、妻の根本は夫だと語ったわけです。 根本となるということは、「権威とともに責任を持つ」ということです。真の権威のある夫なら、責任を持って自分の妻を愛しなければなりません。昔から日本や韓国のような北東アジアの文化では、女性の権威が男性の権威に比べて劣るものとされました。だから、男尊女卑という言葉も生まれたのでしょう。しかし、それは男の権威だけを強いた誤った結果です。聖書は妻が夫より劣るという話をしていません。夫に権威と責任を与え、権威と共に責任をも持って、妻を愛するように教えているのです。それが、イエスが教会へなさった愛と似ているからです。「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」(エフェソ5:25) 父なる神は、イエス·キリストに教会の頭という権威を委ねられました。加えて、教会への責任をも与えられました。そのため、イエス·キリストは、教会のためにご自分の命を惜しげなく捧げました。したがって、キリストと教会との関係と似ている夫婦の関係において、夫は妻のために自分の命をかけるほど深く愛し、仕え、責任を負わなければなりません。キリストが教会になさった、そのすべてのことが、まさにキリスト者の夫たちに与えられた主の教えなのです。それが聖書が語る夫の権威であり、責任であるのです。 3。夫婦は世界で一番小さい教会。 「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。」(エフェソ5:31-33) 今日の本文は、旧約の創世記2章24節を引用した言葉です。神は創造の時、最後の段階として人(男)を造られました。そして、神は「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」(創世記2:16)と言われ、女も造られました。つまり、神は創造の完成を男と女の完成、つまり夫婦の完成として成し遂げられたわけです。そのため、結婚は夫婦二人が一つとなり、主の創造の秩序を果たす偉大な行為なのです。だから、夫なしでは妻もなく、妻なしでは夫もいません。キリストのおられない教会がありえないように、キリストにとっても教会はとても大切で重要な存在です。そのため、キリストは教会を命かけてまで愛されたのです。夫婦は、このように二人が互いに仕えあって一つとなる時、完全になるのです。パウロは夫婦が、キリストと教会との関係に見習って生きることを願ったのです。 私は、世界で一番小さな教会が夫婦だと思います。まるで三位一体なる神が御父、御子、御霊として一つになられたように、キリストと夫と妻が一つになり、地上の一番小さな三位一体を成すのが、夫婦という教会だと思います。(これは神学的な教えではなく、私の個人の見解です。) したがって、神が私たちにくださった配偶者を愛をもって仕えるべきです。私たちは決して偶然出会い、夫婦になったわけではありません。神が天地創造の前に主の教会をあらかじめお定めになって呼んでくださったように、世界で一番小さな教会である夫婦も天地創造の前から、神によって定められ、教会として召されたのです。ですから、配偶者に仕え、愛し、その仕えと愛とを通して、教会を愛されたキリストの恵みを憶えて生きたいと思います。だからといって、配偶者が先に亡くなったり、独身の方や配偶者が未信者である方は、がっかりしないようにしましょう。私たちには共通した夫(花婿)であるキリストがおられるからです。真の夫であるキリストが、皆さんを花嫁として愛しておられることを忘れないでください。むしろ、真の夫であるキリストの愛によって、信じない配偶者に仕えてください。もし、配偶者がいなければ、キリストの愛によって、自分の隣人や家族や教会の兄弟姉妹に仕えてください。大事なのは夫と妻の関係を通して、キリストと教会の関係、尊敬と奉仕と愛の関係を学ぶことだからです。 締め括り 9月8日は、私たち夫婦の結婚5周年の日でした。お見合いで出会ってから、相手のことも深く知らず、たった105日で結婚しました。以後、福岡に渡って5年経ちました。ということは、宣教師としての私の人生は、妻との夫婦生活とあらゆる面において重なります。この5年間、喜怒哀楽を共に経験しつつ一緒に歩んできました。結論的に、神がこの結婚を計画されたということをしみじみと感じる時間でした。だからこそ、今日の言葉は、私自身への主の言葉であるかもしれないと思いました。私はこれからも妻を大切にしながら、互いに仕えあって生きていきたいと思います。今日の説教によって、皆さんにも聖霊なる神がくださる教訓があったと思います。キリスト者の配偶者がいたら、今日の言葉のようにお互いに仕え合いながら、これからも幸せに生きてください。未信者の配偶者がいたら、キリストの愛によって仕えてください。独身者ならキリストを自分の夫とし、主に倣って神と隣人を愛して生きてください。キリストが教会にくださった愛を身につけて生きていくことを願います。今日の御言葉を通じて夫婦関係、そしてキリストと教会の関係について、もう一度考える機会となることを祈り願います。 父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。

主の御言葉に従ったのに。

出エジプト記5章1~23節(旧100頁) コリントの信徒への手紙一 1章25節(新300頁) 前置き モーセは、主なる神に召され、ついにエジプトに出発することになりました。アブラハムとイサクとヤコブの神、誰よりも偉大なイスラエルの神の御使いとなり、苦しんでいるイスラエルの民を救い出すために、モーセはエジプトに赴いたのです。ところが、残念なことに、今日の本文ではモーセの失敗の話が出てきます。モーセは神の御言葉に聞き従い、自分の意志を捨てて主のご命令どおりにファラオのもとに行き、主の御言葉を申し伝えたのに、むしろ、その結果はファラオの怒りとイスラエルの苦しみにつながってしまいました。神の御言葉に従ったのに、結果は失敗と民からの恨みだったわけです。私たちは、これをどう理解すれば良いでしょうか? 今日は出エジプト記5章の言葉を通じて、私たちの信仰の大きな難題の一つである「主の言葉に従ったのに、なぜうまくいかないだろうか?」について考えてみたいと思います。 1.二人の王の対立。 まずは、今日の本文の背景について話しましょう。「その後、モーセとアロンはファラオのもとに出かけて行き、言った。イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい』と。ファラオは、『主とは一体何者なのか。どうして、その言うことをわたしが聞いて、イスラエルを去らせねばならないのか。わたしは主など知らないし、イスラエルを去らせはしない』と答えた。」(出5:1-2) エジプトに到着したモーセは、兄弟のアロンと一緒にファラオのもとに行きます。そして、自分を遣わされたイスラエルの神が「ご自分の民であるイスラエルの解放」を命令されたと述べ伝えます。しかし、ファラオは「主とは一体何者なのか。わたしは主など知らない。」と神を敵対しつつ無視します。古代中東の人々は、各地域ごとに神々がいると信じていました。エジプトには太陽の神、河の神、空気の神といった様々な神々があり、他の国々にも数多くの神々への信仰があったのです。当時の古代人たちは、それぞれの神々に自分の場所があり、そこを支配し、それぞれの名前を持っていると信じていました。そのため、エジプトを支配するファラオも、神同然に扱われていたのです。つまり、奴隷イスラエルに主と言われる名前も居場所も知らない突然現れた神という存在を、エジプトで神とされていたファラオは認められなかったわけです。このように出エジプト記5章は、始めから「イスラエルの神とエジプトのファラオ」という真の王と世の王の対立を描いています。 ファラオは、イスラエルの神を無視でもするかのように、モーセが伝えた言葉を聞かず、かえって、イスラエルをさらに苦しめました。当時はレンガを作る時、泥がよく固まるように、わらを入れたのですが、ファラオは、これ以上そのわらを提供せず、イスラエルが自分たちで集めるようにさせました。(レンガの数量はそのまま。)   主なる神はイスラエルを解放するためにモーセを遣わされたのに、それとは違って ファラオはさらに積極的に自分の権力を用いてイスラエルへの束縛を厳しく加えたのです。「ファラオはこう言われる。『今後、お前たちにわらは一切与えない。お前たちはどこにでも行って、自分でわらを見つけて取って来い。ただし、仕事の量は少しも減らさない』」(出5:10-11) ここで「仕事」の語源であるヘブライ語「アバド」は「神に仕える」という意味の表現です。つまり、イスラエルの神という方の命令を無視したファラオは、むしろ自分こそが神であるというニュアンスでイスラエルの民に重労働の弾圧をしたのです。ところで、神とファラオの対立の中、イスラエルの民は、ファラオより、むしろモーセのほうを恨むようになります。神の解放の命令のため、自分たちの労働が増えたことに対する不満だったのです。つまり、神の民と言われるイスラエルがファラオではなく、むしろ、神を恨むようになったということです。 2.主の御言葉に従ったのに。 「彼らは、二人に抗議した。どうか、主があなたたちに現れてお裁きになるように。あなたたちのお陰で、我々はファラオとその家来たちに嫌われてしまった。我々を殺す剣を彼らの手に渡したのと同じです。」(出5:20-21) 先祖の神の命令により、イスラエルを解放するためにエジプトへ来たモーセ。もしかしたら、イスラエルはそのモーセの登場に一抹の希望を持ったのかもしれません。しかし、結論として、そのモーセの登場のため、イスラエルの労働はさらに厳しくなってしまいました。イスラエル人は、幼い頃から自分たちの先祖の話を聞いて育ったはずです。そして先祖を召された神についても、よく聞いてきたはずです。だから、先祖の神がいつか現れ、イスラエルを解放してくださるという希望があったに違いありません。とういうことで、モーセを応援する人もいたでしょう。しかし、彼らはモーセのため、自分たちの労働が増えたという現実に失望し、あまりにも簡単にモーセと神を恨むようになってしまいました。私たちは第三者の立場からモーセの話を読んでいるため、イスラエルの民の恨みを情けないものと思いやすいです。もう少しでエジプトから救われるのに、辛抱強くない彼らの信仰がとても弱く 感じられるかもしれません。しかし、それが私たち自身のことであれば、私たちは果たして、おとなしく神に信頼しつづけ、恨みも文句も一言も言わず、忍耐できますでしょうか。 「わが主よ。あなたはなぜ、この民に災いをくだされるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。」(出5:22) イスラエルの民はモーセに、またモーセは神に、恨みと不満を言うのを見て、私たちは彼らの不信仰を非難するだけにとどまってはなりません。むしろ、それを自分に適用し、果たして自分は、こんな状況で神を恨まず、信頼しつづけていけるだろうかと、自分のことを振り返ってみなければなりません。信仰生活をつづけながら、こんな経験はとても起こりやすいです。「神様の御言葉に従ったのに、何もかもうまくいかない。」と神の業を疑うのはよくあることです。  私たちはなぜ「神様の御言葉に従ったのに、うまくいかない。」と恨み、文句するようになるのでしょうか? それは、人間には自分の物差しで、世のすべて(神の業でさえ)を確かめようとする傾向があるからです。長いといっても、100年にも至らない人間が、昔おられ、今おられ、永遠におられる神の御業を自分の物差しで判断しようとするからです。神が一日の計画を立てられたのに、たった1秒後に「自分の思い通りになっていない」と勝手に思って不満を抱いてしまうからです。 3.神への信頼 つまり「神の御言葉どおりに従ったのに、うまくいかない。」と思い、傷つく理由は、神への弱い信頼に基づきます。今日の本文でイスラエル民族は、神という真の王とファラオという世の王の間で迷っています。神についての理解も足りず、その方の権能を経験したこともなかったので、直ちに自分の生活に影響を及ぼすファラオの暴政に屈服してしまうのです。そして、その結果が、神の御使いモーセに対する恨みになったわけです。これは、実はモーセではなく、神への恨みなのです。神より世の王を大きく思い、恐れるから、神に対して恨むわけです。私たちは神を信じていると公に言っていますが、果たして世の王の支配から自由になれるでしょうか? 今、私たちにとって、世の王は誰でしょうか? ファラオでしょうか? 天皇でしょうか? それとも首相でしょうか? いいえ、神に逆らうこの世の風潮に従う私たち自身が、この世の王なのです。私たちはこの世界を70年、80年生きながら、自分が立てた基準のもとで、この世の価値観に足並をそろえていきやすいです。口先では信仰を語りますが、実際、自分自身の基準と世の基準とで世界を眺めているかもしれません。神は聖書を通して「私を信じろ」と語っておられますが、私たち自身の経験と世の中の風潮を見ている私たちは「信じずに信じるふり」ばかりしているかもしれません。 そして、事がうまくいかないと、それを神のせいにしているかもしれません。つまり、私たち自身が神に逆らうファラオであり、神を恨むイスラエルの民であり、モーセのようになっているかもしれないということです。そんな私たちに聖書はこう言います。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いです。」(一コリント1:25) また、イエスはこのように言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ福音20:29) 私たちは神の全能さ、賢さ、強さに信頼し、その方のお導きを忍耐しつつ待ち望んでいく必要があります。そして、今すぐ自分の目の前の結果に執着せず、神の御心を最後まで疑わずに信じ続けていく必要があります。5章でイスラエルとモーセはファラオの暴政のため、神を恨みました。しかし、すぐ次の箇所である6章1節で神はこう言われます。「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。」(出6:1)そして、7章ではエジプトへの神の裁きが始まります。イスラエルとモーセが神への信頼を守り、もう少し忍耐していたら、彼らはまもなく神の御業を目撃し、恨みの代わりに讃美と感謝を捧げることになったでしょう。 締め括り 今日の説教のテーマは「神への信頼と忍耐」です。神の民と呼ばれていますが、この世に生きなければならない私たちは、必然的に神に逆らう世の風潮のもとに生きることになっています。ですから、私たちは聖書の御言葉を、しっかり自分の基準とし、世の風潮と自分の思いに流されないように注意する必要があります。私たちは主の御言葉に信頼し、忍耐をもって生きることで、神の御心を待ち望んでいかなければなりません。そうでなければ、私たちは結局イスラエルの民とモーセがしたように、神を恨んでしまうようになるかもしれません。もし、「神様の御言葉に従ったのに、うまくいかない。」と思うようになったら、その時が「私たちの信仰を顧みるべき時」なのです。神の計画を私たち自身の思いで判断してはいないか、私たちは果たして神の御言葉に信頼しているどうか顧みるのです。神と私たちの時間は全く違う速度で流れています。主の時を待ち望んで「神様の御言葉に従ったのに、うまくいかない。」ではなく「今は辛いが、私への主の計画は必ず成し遂げられる。」という信仰で生きる志免教会であることを祈り願います。父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

光の子としての生き方

イザヤ書60章 1~2節(旧1159頁) エフェソの信徒への手紙5章1~21節(新357頁) 前置き 前回の説教で、何度も申し上げましたように、エフェソ書は、使徒パウロが小アジア地域(トルコ地域)の自分によって開拓されたエフェソ教会に寄せた手紙です。前半の1-3章にはキリストの福音ついての神学的な教えが記してあり、また、後半の4-6章には、その神学的な教えに伴う信徒の実践的な生き方についての教えが記してあります。私たちは前半の教えを通じて「主なる神が天地創造の前から、ご自分の民をあらかじめお選びになり、キリストを通して救ってくださり、キリストが頭となる教会としてお呼び出しくださった。」という神学的な知識を得るようになりました。そして、後半では、その神に選ばれ、救われ、教会に召された私たちが、この世でどう生きるべきか(実際の生活/生き方)について学びます。したがって、今日の5章の言葉もキリスト者の生活についてのパウロの教えだと言えます。今日の本文より、私たちはどのような教訓を得ることができますでしょうか? 一緒に考えてみたいと思います。 1.神に倣う者=愛によって歩む者。 「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」(エフェソ5:1-2) パウロはエフェソ教会の兄弟姉妹たちが神に倣う人生を生きることを勧めます。そして、そのような生き方を「愛によって歩むこと」と語ります。使徒パウロはエフェソ書4章1節で、エフェソ教会の信徒たちに「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩みなさい。」と言いました。また続いて2節と3節では「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」とも語りました。私はここで「愛」という言葉に注目したいと思います。別の箇所ですが、使徒パウロは、第1コリント13章で次のように語りました。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(1コリント13:13) 私たちはこの言葉を読む時、信仰、希望、愛というものが別々であり、その中で愛がもっとも優れたものであると誤解しがちです。しかし、それは翻訳による誤解です。これは愛だけが優れているという意味ではなく、三つとも大事だが、その中で愛が一番基礎であるという意味です。 つまり、愛がなければ、信仰も虚しくなり、希望もただの欲望に過ぎなくなってしまうということです。したがって、キリスト者にとって「愛」は、私たちの信仰と希望を完全にする信仰生活の土台のようなものです。だから、神に倣う人生とは、愛をもって生きる人生であるのです。私たちが主と崇める三位一体なる神は、愛という関係の中で、世界を創造され、人間を造られ、歴史を導かれ、罪人を救ってくださいました。御父、御子、御霊が愛という関係にあって協力され、一つになられ、この世を支配しておられるということです。それと同じようにイエス·キリストも愛によって主の教会を立てられ、保たせていかれます。三位一体なる神が愛の関係によって結ばれ、お独りの神としておられることと同じように、教会もキリストの愛のもとで、キリストと結ばれた主の体として一つであるのです。主イエスのもとで一つとなった志免教会の兄弟姉妹の関係も、この愛に基づくものです。したがって、愛はキリスト者の人生の最も基礎となる大事なものです。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(1コリント13:4-7) 神に倣う者、キリスト者なら、この愛の実践によって、自分が神の子供であることを証明しなければならなりません。神は愛そのものでおられるからです。 2.キリスト者は光の子である。 「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。」(エフェソ5:8-9) 神に倣う人生が、すなわち愛をもって生きる人生であるということを語ったパウロは、引き続き、キリスト者は光の子であると語ります。そして光の子にふさわしく生きることを勧めます。その生き方とは、光から生じる、あらゆる善意と正義と真実のある人生なのです。パウロは光の子となる前の人間は「暗闇」だったと語ります。この光の子と暗闇についてのパウロの話を聞くと、ふと、ヨハネによる福音書の1章5節の言葉が思い出されます。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」ヨハネ福音書は、初めに神の御言葉があり、その御言葉の内に生命の光があったと語りました。そして、その光が暗闇に照らされても、暗闇は光を理解しなかったと言います。ここで御言葉とはキリストのことであり、キリストの御言葉によって、この世に生命の光が照らされたという意味です。しかし、この世の罪と悪に支配されている人々、すなわち暗闇に属した罪人たちはイエスの御言葉を聞いても理解が出来ないということです。光と暗闇は両立できないからです。キリストの救いによって罪と悪の支配から抜け出し、主のものとなった人は、これ以上暗闇に属さず、光に属した者であり、主の御言葉に反応することが出来るようになるのです。 もし、通りすがりの人に「あなたには暗闇と罪がないか」と問うたら、どうなるでしょうか。彼が真のキリスト者なら、自分の暗闇と罪を認め、しかし、主イエスによって清められたと言うでしょう。しかし、キリスト者でなければ、彼は自分には何の暗闇も罪もないと言い返すでしょう。暗闇に属した人は、自分の暗闇を認められません。しかし光に属した者、すなわちキリストによって光の子となった人は、真の光である神の御言葉を受け入れます。だからこそ、聖書に記してある神の御言葉に基づき、自分が罪人であることを認めるというわけです。私たちは神の御言葉であるキリストによって、私たち自身がどんな惨めな存在だったのかを知る知恵の光を、自分の罪を顧みる悔い改めの光を、神の御言葉が聞き取れる悟りの光を得た存在です。世の人々は決して気づくことも、悟ることもできないキリストによる霊的な知識が、光である主イエスの御言葉を通じて、私たちに来るのです。光が暗闇の中で輝いても、暗闇は光を理解しなかったですが、今や光の子と呼ばれるようになった私たちは、神の御言葉の光によって、自分の罪について、神の恵みについて、理解するようになったのです。ですから、私たちはもう光の子として生きるしかありません。3-5節に記された「みだらなこと、いろいろの汚れたこと、貪欲なこと、卑わいな言葉、愚かな話、下品な冗談」は私たちの生活においてはあり得ません。みだらな者、汚れた者、また貪欲な者としての生き方に違和感を覚えるようになります。それらは、光の子にはふさわしくない、暗闇に属した偶像崇拝者の生き方だからです。 3.光の子としての生き方。 「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」(エフェソ5:11,15,17) したがってエフェソ書は私たちに勧めます。「光に属した者として光の実を結び、知恵をいただいた者として主の御心が何であるかを悟って生きなさい。」キリスト教は「死後、天国に入るための宗教」ではありません。私たちはこれを間違えてはなりません。ここ5年間、私が志免教会に来てから、皆さんに何度もお話しました。私たちが天国に入ることは、いわば「おまけ」です。来世の天国が信仰の目標ではありません。私たちの人生の目標は「キリストと共に生きること」です。キリストと共に生きるために、父なる神はキリストを遣わされ、私たちを救ってくださったのです。つまり、今日の御言葉のように、神に倣った光の子として、常にキリストと共に生きさせるために、神は、イエス・キリストを十字架のいけにえとされ、私たちをお呼び出しくださいました。それがまさに私たちの救いなのです。そして、そのおまけとして私たちは死んでも天国で主と共に生きることになり、将来キリストが再臨される時に栄光の姿で復活することになるのです。したがって最も大事なことは、光の子として「主イエスと共に生きること」なのです。 この話をしていると、また、もう一人の使徒であるペトロの教えが思い出されます。「かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。」(1ペトロ4:3) ペトロは暗闇の生き方は、かつてキリスト者になる前のことで、十分だと語りました。今やキリストの救いによって、神の子、光の子となった私たちは、昔の人生を踏襲してはいけません。もちろん、私たちの罪により、昔の生き方から完全に自由になるのは難しいです。しかし、だからこそ、主は悔い改めの機会を毎日毎日与えてくださるのです。光の子なら、その名にふさわしく生きるべきです。失敗したらまた悔い改めて、やり直せばいいです。キリストがその血潮を流し、私たちを救ってくださった理由を覚えて生きましょう。憎しみよりは愛を、欲望よりは清潔を、愚かな言葉よりは感謝の言葉を追い求め、神に倣っていく人生のために頑張っていきましょう。主の御言葉に聞き従って光の道を歩みつつ神に倣っていく私たちであることを祈ります。 締め括り 最後に、今日の旧約本文であるイザヤ書60章1-2節を読んで説教を終えたいと思います。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。」私たちが生きる、この世界は暗闇に満ちています。しかし、私たちは真の光であるキリストによって、暗闇の道から出て、光の道に入っています。ですから、これ以上暗闇に属した人生を送らないように自らの生き方を吟味し、正しい方向に進んでいくために主に祈りつつ助けを求めましょう。起きましょう。そして光を放ちましょう。主の栄光が主イエス·キリストによって私たちの上に輝いています。 暗闇に照らされた神の栄光を憶え、その方の子供にふさわしく生きていきましょう。 キリスト・イエスが今日も私たちをその道に導いてくださるために神と私たちの間で執り成しておられます。光の子として光の人生を生きていく私たちであることを祈ります。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

血の花婿

出エジプト記4章18~31節(旧99頁) マタイによる福音書10章34~39節(新19頁) 1. モーセの杖が神の杖となった。 「主はミディアンでモーセに言われた。さあ、エジプトに帰るがよい、あなたの命をねらっていた者は皆、死んでしまった。モーセは、妻子をろばに乗せ、手には神の杖を携えて、エジプトの国を指して帰って行った。」(出4:19-20) 神のご命令に説伏されたモーセは家族を連れてエジプトへ向かうことになります。神はエジプト行きを恐れるモーセに「あなたの命をねらっていた者は皆、死んでしまった。」と安心させてくださいました。そして、モーセは家族を連れて、また自分の杖を携えてエジプトに向かいます。ところで、今日の本文にはこの杖が「神の杖」と記されています。この杖は神が特別にモーセにくださったものではなく、もともとモーセが普段羊を飼うために使っていたモーセの手慣れの物でした。しかし4章の序盤に出てくる「杖が蛇に変わった出来事」以来、この杖は、神の杖と呼ばれるようになったのです。杖はイスラエル人にとってとても馴染みのある羊飼いの道具です。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、杖を使って牧畜をしたでしょう。そしてモーセ自身もミディアンで40年近く、この杖を使ってきたはずです。つまり、杖はモーセの日常を象徴する道具だったのです。 その日常の杖が、モーセの神との出会い以来、神の杖となったわけです。今後、モーセは、この杖を用いて神による奇跡を起こし、ファラオを屈服させるようになるでしょう。宗教改革者ジャン・カルヴァンは「万人祭司説」という概念を唱えました。ジャン・カルヴァンは聖職者だけが特別な存在ではなく、主の民なら、誰もが神の御前で「祭司」としての招かれたと語りました。つまり、牧師や長老だけが現代の祭司ではなく、主の民皆がキリストにあって神に献身した霊的な祭司であるということです。ですから、私たちの日常は、祭司の日常である礼拝です。モーセには日常の道具として杖が与えられました。そして、その杖は神の道具として用いられるようになったのです。私たちにも、それぞれの日常の道具、日常の仕事があります。そして、私たちの日常は神に捧げられたもの、つまり神のものなのです。したがって、私たちの人生はモーセの杖のように神の道具として使われるべきです。私たちの口が神の道具です。隣人を慰め、励ます神の道具です。私たちの手と足が神の道具です。教会と社会に仕える主の道具です。 2. わたしが彼の心をかたくなにする。 「主はモーセに言われた。エジプトに帰ったら、わたしがあなたの手に授けたすべての奇跡を、心してファラオの前で行うがよい。しかし、わたしが彼の心をかたくなにするので、王は民を去らせないであろう。」(出4:21) 私たちは「神は全能であり、すべてをご自分の御心のままにする方である」という言葉を説教などを通して、よく耳にします。あるいは「世のすべてが神によって計画されている。」という言葉も耳にします。そんな時、誰かはこんな考えをしたことがあるかもしれません。「神は悪事も計画されるということか?」全能な方、すべてを導かれる方、すべてを計画される方なら、人間は操り人形であり、神が良い事も悪い事も、全てご計画なさるだろうか? 今日の本文にも、そのように誤解しやすい表現があります。「わたしが彼の心をかたくなにする」です。イスラエルをエジプトから解放させてくださるためには、ファラオの心を柔らかにし、むしろ神の御言葉に聞き従わせるべきなのに、なぜ、神は「彼の心をかたくなにする」と言われたのでしょうか? 神が人に悪を行わせ、罪を犯させるということでしょうか? 明らかにそれは違うと思います。では、「わたしが彼の心をかたくなにする」という言葉をどういう意味なのでしょうか。 「誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブ1:13-15) 私たちは新約聖書のヤコブの手紙から、小さなヒントを得ることができます。神は誰も誘惑されない方です。誰にも罪を犯させない方です。人が誘惑され、罪を犯してしまうことは、結局、自分の欲望と罪に惑わされる結果です。つまり、罪人は自分の悪によって罪を犯すということです。ファラオは自分の悪によって神に逆らい続けます。そして神は悔い改めない罪人であるファラオの罪を傍観されます。悔い改めは、神の民のみに許される特別な恩寵であります。したがって、神がファラオの心をかたくなにするという言葉は、ファラオに悔い改める機会を与えずに彼が自分の罪の中で滅んでしまうように放っておかれるという意味になります。だから、神の傍観は裁きのまた一つの名前なのです。神の 聖霊が共に歩んでくださらなければ、まことの悔い改めはありません。自分の罪を悔い改めないことは、神の民でない人の特徴です。私たちは常に悔い改める存在ですか? 悔い改めは、私たちが神の民であるかどうかを判断する大事な基準です。 3. 血の花婿。 最後に、血の花婿について考えてみましょう。「途中、ある所に泊まったとき、主はモーセと出会い、彼を殺そうとされた。ツィポラは、とっさに石刀を手にして息子の包皮を切り取り、それをモーセの両足に付け、わたしにとって、あなたは血の花婿ですと叫んだので、主は彼を放された。彼女は、そのとき、割礼のゆえに『血の花婿』と言ったのである。」(出4:24-26) 以上の言葉はとても難解な箇所であるため、明確に解釈ができないと言われます。そこで、いくつかの資料をもとにまとめて考えてみましょう。まず、血の花婿とは、出エジプト記の記録当時に使われていた表現と思われ、現代的な表現ではないと思います。直訳すると、まるでスリラー映画のタイトルみたいになってしまうのですが、意訳をすると「血を見させる夫」と言い換えることができるでしょう。なぜ、モーセの妻はモーセを「血を見させる夫」と言ったのでしょうか? おそらく、それは「割礼」の問題のためだったと思います。一部の学者は、モーセが幼い頃にまともなイスラエル式の割礼を受けなかったと推測しています。また、ミディアンで生まれたモーセの息子たちもミディアンの風習に従ってしまい「神がお定めになった割礼」を受けなかったと思います。さて、創世記はこう語っています。「 あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。」(創17:10-11) つまり、割礼は、神の民に与えられた絶対に守らなければならない義務であり、主の民の契約のしるしです。たとえ、モーセが神に選ばれた預言者だとしても、神との契約のしるし(割礼)が正しくなっていなければ、彼は神に裁かれるのです。なのに、モーセは自分の無知によって神との契約、つまり割礼を正しく守っていなかったわけです。神の民は神との正しい契約(関係)に立っていなければなりません。旧約において、その正しい契約とは、正しい割礼に表されていました。そして、新約時代には、割礼が廃止され、その代わりに「イエス・キリストへの信仰告白」になったのです。キリストへの確かな信仰告白と確信なしに教会に通うだけなら、まことの神の民にはなれません。50年以上を教会に通ってきたといっても、キリストを自分の主として確信できなければ、私たちはまるで、本文の割礼を受けていないモーセとモーセの息子たちのようになってしまうでしょう。そして、私たちは神の裁きを避けられず、自分の罪によって滅びてしまうでしょう。それにより、私たちの家族も神の裁きを目撃することになるでしょう。私たちは皆、血の夫、血の妻、血の親戚、血の家族になり得る存在です。誰からなんと言われても、私自身は神との関係を正しく確立し、キリストへの確実な信仰告白をしなければなりません。そして、最終的にキリストを伝えるようにならなければなりません。私たちが神との関係を明確にしなければ、私たちの家族にも主の祝福は伝われないからです。 締め括り 新約聖書にこんな言葉があります。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。」(マタイ10:34-36) この言葉はイエスが、わざと家族の仲を悪くさせるという意味ではありません。信仰を保つために家族との関係が難しくなる可能性があるという意味です。最後まで主への信仰を守るか、家族のために信仰を諦めてしまうかということです。家族の反応のため、信仰や福音に消極的な方がいらっしゃると思います。家族への伝道が難しいことは理解します。しかし、自分の信仰まで捨てるのは、愚かなことです。私たちが信仰を捨てると、私たちの霊的な割礼はないものになってしまいます。そして、私たちのその選びによって、私たちの家族への神の祝福の通り道もなくなってしまいます。つまり、私たちの家族は、私たちの信仰の諦めによって神との一抹の関係が途絶え、血を見る(神との関係が完全になくなる)ことになってしまうでしょう。神は私たちを通して、私たちの家族に祝福を与えてくださるからです。したがって、私自身が「血の夫、血の妻、血の息子、血の娘、血の家族」にならないためにも、私たちは信仰を守らなければなりません。何があっても信仰を諦めないでください。 そして、家族への伝道も諦めないでください。キリストは私たちを通して、私たちの家族に救いの機会を与えてくださるからです。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

悔い改め。

イザヤ書55章6~9節(旧1152頁) マタイによる福音書4章17節(新5頁) 前置き 今日は、金牧師が佐賀めぐみ教会の聖餐式の執行と説教応援のため、留守です。とういうことで、今までの連続説教ではなく、別のテーマを取り上げて説教しようとしています。今日の説教の主題は「悔い改め」です。私たちは、日曜礼拝を始めるたびに「罪の告白」の時間を持ちます。この「罪の告白」の時間がある理由は、礼拝を始める前に、救い主キリストの執り成しに力づけられ、 過ぎた一週間の私たちの罪を告白し、赦され、清められた状態で、神に礼拝をささげるためです。悔い改め無しには、神のお慈しみもお赦しも御恵みも決してないからです。このようにキリスト者の人生において、悔い改めは神への礼拝の原点となる、非常に重要な意味を持っています。今日は、この悔い改めについて学び、私たちの信仰において、悔い改めが持つ意味について考えてみたいと思います。 1. 新・旧約を貫く聖書の呼びかけ – 悔い改め 聖書を読みながら、最も多く見つかる表現を取り上げてみると、神の恵み、救い、愛、信仰、赦し、祈り、奉仕などがあると思います。しかし、これらに引けを取らないほど、頻繁に出てくる表現がありますが、それは悔い改めです。旧約聖書でも、新約聖書でも、神は聖書を通して、絶えず悔い改めを求められます。なぜ、聖書はそんなに悔い改めについて力を入れて呼びかけているでしょうか? 悔い改めは神と人間との間にある隔てをなくす、大事なカギになるからです。神は完全無欠な方です。世のどんな汚れも神にはなく、世のどんな不条理も神にはありません。神は罪に汚されて完全さを失った存在を決して許されない方です。しかし、大きな問題があります。それは、人間は罪のため、完全無欠とは遠い存在ということです。人間には生まれつき罪があり、一生、罪の影響のもとに生きていきます。そして、それがまた別の罪を生み出します。したがって、人間は罪から絶対に自由ではなく、罪があるからこそ、神と純粋な交わりができない状態です。もし、人間が罪のもとで生き続けれてしまうなら、結局、完全無欠な神との接点を作ることができず、滅ぼされてしまうでしょう。だから、人間には、罪の解決という絶対的な課題が与えられているのです。その罪の解決ができなければ、人間は神に立ち返れず、最終的に悲惨に霊と肉の死に至るようになるでしょう。 初めの人間の堕落以来、神が新旧約聖書を通して絶えず悔い改めをお求めになった理由はこれです。神は人間との和解を誰よりも切に望んでおられる方です。神は、初めの人間にくださった、その完全無欠さが人間に引き返すことを望んでおられ、それによる人間との愛の交わりを望んでおられます。しかし、人間に罪があるかぎり、神は人間と付き合われることができません。神は絶対者と言われるのにどうしてできないのですか? 全能者にもできないことがあるということでしょうか。しかし、それが神がお造りになった法則だからです。神が全能でおられる理由は、何でも出来るからだけではありません。ご自身が造られた法則を無視なさらず、守られることも、ある意味で全能さなのです。つまり、その法則によって、神は罪を容認されないのです。だから悔いのない罪人も赦されないのです。しかし、神はキリストの救いという特別な恩寵によって、罪の問題を解決することができる手立てを与えてくださいました。人間には罪がありますが、イエス·キリストの執り成しがあるなら、罪人は神の御前に立つことが出来ます。神は赦しの御心(神の愛)も、赦しの手立て(キリストの救い)も、赦しの道しるべ(聖霊の導き)も設けて置かれました。そして、聖書を通して罪人たちにお告げになります。「キリストの名によって、あなたの罪を悔い改めなさい。そして、主なる神に立ち帰りなさい。」だから、悔い改めが大切というわけです。すべてを設けておかれ、罪人の決断だけを求めておられるからです。そして、その決断、それがまさに私たちの悔い改めなのです。 2. どう生きるのが悔い改めの生き方なのか? ですから、私たちは一生悔い改めを繰り返して生きなければなりません。ところで、悔い改めは、一度だけで良いのではないでしょうか。なぜ、繰り返さなければならないのでしょうか? 聖書にはキリストが、ただ一度ご自分の体を献げられて、罪人を救われたと書いてあるのに、なぜ、毎週の礼拝で、罪の告白をしているのでしょうか? それは、イエスがただ一度で成し遂げられた救いを否定する発想ではないでしょうか? その答えについては、マタイによる福音書からヒントを得ることができます。「そのときから、イエスは、悔い改めよ。天の国は近づいたと言って、宣べ伝え始められた。」(マタイ4:17) イエスが地上での御業を始められた時、主は「悔い改めよ」という言葉で天国の到来を告げられました。その時、主が「悔い改めよ」と言われたギリシャ語の表現は「メタノエオ」です。その意味は「考えを変える」という意味です。今まで持ってきた主に逆らう考え、思想、生き方を変えなさいという意味です。さらに大事なのは、この表現に使われた文法です。ギリシャ語の「動詞、現在形·能動態」(難しいことは覚えなくてもいいです。ただこういうのがあるんだと理解してください。) 現在形·能動態は、ある行為を一度行って終わることではなく、繰り返し行われるというニュアンスを持っています。つまり、イエスのこの言葉は、ただ一度で終わる悔い改めではなく、絶えず繰り返して考えを変え、生き方を変え、神に立ち帰れという意味なのです。というのは、一生が悔い改めの人生にならなければならないということです。 悔い改めを意味するギリシャ語「メタノエオ」をヘブライ語に訳すと「シューブ」になります。このシューブのイメージは、運転手がUターンするのと似ています。以前の方向の反対側に回ることです。つまり、罪、悪い欲望、望ましくない生き方、不信心からUターンして神の御心に適う生き方、聖書が教える生き方、聖霊の導きに従う生き方に立ち帰ることです。ですから、悔い改めは単純な反省、後悔という意味ではありません。実質的に、自分の生き方の改善を神の御前で誓う行為なのです。昨日、誰かと争ったなら、今日は仲直りしなければなりません。昨日、嘘をついたなら、今日は真実を言わなければなりません。昨日、自分が人生の主人だったら、今日は主を自分の人生の主人として招くのです。しかし、私たちは今日、悔い改めても、また、明日に罪を犯す可能性を持った不完全な存在です。したがって、悔い改めは、一生私たちが繰り返し行わなければならない課題なのです。今日、失敗したら、明日また挑戦するのです。イエス·キリストの救いの恩恵が私たちに絶えることなく機会を与えているからです。今日、罪を犯したとがっかりしないでください。今日、失敗だったら、主イエスの御名によって、明日、また新しい人生を生きるために進めばいいです。一生、失敗するたびに悔い改め、また進んでいきましょう。主は私たちの絶え間ない悔い改めのために、ご自分の命をもささげられました。U-ターンを覚えておいてください。私たちは主イエスの十字架の恩恵のもとで、悔い改めの機会をいただいた毎日U-ターンするべき存在なのです。 締め括り 福岡から東京に車で行くと考えてみましょう。途中で道を間違えて大分に行ってもUターンすれば良いです。四国に入ってもまた高速道路に出ればいいです。大阪で少し休んでも、また東京に向かえばいいです。そうすると富士山が見えてき、横浜を通って結局は東京に着くようになるでしょう。悔い改めは信仰の高速道路を走っていく私たちが、道を間違えた時、再び神に向かわせるU-ターンのようなものです。キリストは、神に向かう一本道であり、聖書は主なる神への正しい方向を指し示す交通標識のようなものであり、聖霊の導きはナビゲーションのようなものであります。このように説明すると、簡単に理解できるでしょう。だから毎日悔い改めて生活しましょう。小さい罪を犯したとしても悔い改めましょう。そして、再び機会をくださる主に感謝して、明日はまた違う生き方で生きましょう。そのような繰り返して悔い改めする人生を、主が喜んでくださると信じています。今日も主は聖書を通して、このように言われます。「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰る(シューブ)ならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。」(イサヤ55:6-7)今週も悔い改めによって勝利する志免教会の兄弟姉妹の皆さんであることを祈ります。 主のお導きを祈ります。 父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。

新しい人の生き方

レビ記11章45節(旧178頁) エフェソの信徒への手紙4章17~32節(新356頁) 前置き キリストの教会は、天地創造の前に神に選ばれ、キリストによって救われ、聖霊のお導きによって生まれた神に愛される共同体です。キリストは、この教会を打ち立てられるために、ご自分の十字架の血潮によって罪人を赦され、喜んでご自分の体(民、教会)としてお呼び出しくださいました。かつての罪人たちは神を知らない異邦人のような存在でしたが、キリストの救いは異邦人のような罪人(神の愛の外にいる)を、神の子供(神の愛の中にいる)に生まれ変わらせました。したがって、キリストのもとにいる私たちは、もはや異邦人ではなく、神の子供であり、家族である存在です。また、エフェソ書は、この教会をキリストを頭とする「一人の新しい人」と表現しています。キリストが頭となる一人の新しい人、主は私たち教会をご自分の体として何よりも大切にしてくださいます。そのため、私たちはもう異邦人ではなく、新しく、主イエスの体として生きていく理由を持つのです。今日は、一人の新しい人、主の体なる教会の生き方について考えてみたいと思います。 1. 古い人の生き方。 「そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。」(エフェソ4:17) 今日の本文には異邦人という表現が出てきていますが、すでにエフェソ書2章にも、この異邦人についての話しがありました。エフェソ書が語る異邦人とは、旧約聖書の神の民である「ユダヤ人」の反対の概念です。ここで言うユダヤ人とは、血統だけがユダヤ族のユダヤ人ではなく、神の御言葉に従順に聞き従って生きる、神の真の民を意味する表現でした。つまり、異邦人は、神の御心に逆らう神の民でない存在を意味します。そして、今日の本文は、そのような異邦人みたいな神を知らない者の姿を「古い人」と表現しています。「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て」(4:2) 神の招きとキリストの救いと聖霊の導きによって、主の教会となった私たちは、主の聖なる民というアイデンティティを持っています。しかし、私たちが最初から神の聖なる民だったわけではありません。私たちは生まれた時、神を知らない状態にの霊的な「異邦人」でした。聖霊のお導きで教会に招かれ、み言葉にあずかって、キリストへの信仰を持つことが出来なかったら、私たちは依然として神を知らない「異邦人、古い人」に生きていたでしょう。 今日の本文は、神を知らない「異邦人、古い人」の生き方について、このように述べています。「彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。」(エフェソ4:17-19) 神と無関係な「異邦人、古い人」は「神の御言葉」という人生の基準がないため、自分自身が人生の基準になります。自らが基準になったため「創造主の御言葉」という広くて豊かな基準とは比べ物にならない、つまらない自分の判断が人生の基準となってしまうのです。罪の支配下の一介の人間の愚かさ、暗い知性、無知、心のかたくなさが基準になるので、その人生は無感覚、放縦、ふしだらな行いで、自分の欲望に支配され、結局、神の命から離れることになってしまうのです。「しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。」(20) そして、パウロはキリストの民である教会は、主からそのように学んでいないと語ります。つまり、神を知らない異邦人、古い人のような行い、無知、心のかたくなさ、放縦など、そのすべての正しくないものは、主の民である教会の生き方にふさわしくないということです。 2. 新しい人を身に着けなさい。 「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(エフェソ4:22-24) 今日の本文はキリストの体となった教会を成すキリスト者が、これ以上異邦人、古い人の姿で生きてはならないということを教えています。そしてさらに「神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなさい」と語ります。ここで大事な表現が2つありますが「真理と正しさ(義)と清さ(聖)」と「新しい人を身に着ける」です。 改革神学では「真理と正しさと清さ」が、初めの人間の犯罪によって失った「神のかたち」であると解釈します。創世記では、神がご自分のかたちにかたどって人間を創造されたとの記録があります。このかたちとは、五体、つまり肉体の形という意味ではなく、神の本性に似た存在という意味です。しかし、罪によって堕落した人間は、この「真理と正しさと清さ」という神のかたちを失ってしまいました。そのため、神は、人間が失った「真理と正しさと清さ」を回復させてくださるために、イエス・キリストを遣わされたのです。主イエスは「真理と正しさと清さ」の源であり、その方の体として召された民に、喜んでご自分のかたちを回復させられることを望んでおられる方です。私たちは、主イエスによって「真理と正しさと清さ」を回復した「新しい人」として呼び出されたのです。 ところで、エフェソ書は「真理と正しさと清さ」の新しい人を「身につけなさい」と語っています。聖書は「真理と正しさと清さの新しい人になりなさい」とは言いません。生まれつき罪を持ってきた私たちは「真理と正しさと清さ」を成し遂げることも、手に入れることも出来ません。それらを回復させてくださるのは、おひとり主イエスであり、私たちはその方によって真理と正しさと清さをいただくようになるのです。「なる」と「身につける」は全く別の意味です。本当に「真理と正しさと清さ」の持ち主はキリストおひとりだけであり、私たちはその方によって「真理と正しさと清さの新しい人」と見なされるようになるのです。神も私たちが罪ある不完全な存在であることを知っておられます。そして、キリストが再臨なさる終りの日まで、罪を持った人間は、初めの人間のように完全な存在にはなれないということも知っておられます。しかし、キリストが私たちを「ご自分の体」と認めてくださるなら、父なる神は私たちを「真理と正しさと清さの新しい人」と見なしてくださるのです。だから、私たちはキリストによってのみ、神のかたちを回復することができます。そして、キリストによってのみ「異邦人、古い人」の姿を脱ぎ捨てる機会を得ることが出来るのです。パウロは主の体なる教会として、キリストによって古い人の愚かさを脱ぎ捨て、主の体なる「新しい人」として真理と正しさと清さを追い求めて生きることをエフェソ教会と私たちに願っているのです。 3. どう生きるべきか? では、今日の本文に照らして、私たちがどう生きるべきなのか考えてみましょう。果たして「愚かな古い人の姿」とは何であり「真理と正しさと清さの新しい人」とは何でしょうか? 私たちは、今日の本文の 25 節から 32 節の言葉からヒントを得ることができます。本文が長いので、今しばらく25-32節の言葉に目を通していただければ幸いです。「愚かな古い人の姿」にはいろいろありますが、特に今日の本文には「偽り、怒り、盗み、悪い言葉」を指摘しています。一、偽り、ヨハネの福音書8章44節には「悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。」とあります。ここで、悪魔とはエフェソ書2章2節の「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊」つまり、神に逆らう悪霊のことでしょう。偽証してはならないという十戒もあり、教会でなくて、偽りは悪いというのが世の常識です。しかし、聖書はさらに、偽りが神に逆らう者、悪魔の本性であることを語っているのです。二、怒り、怒らない人はいません。現代の精神医学でも、無理して怒りを我慢するより、賢く怒る方が心の健康に良いという話もあります。しかし、他人を傷つけるための怒りは「古い人」の本性だと聖書は警告しています。だから、今日の本文は怒っても罪を犯さず、日が暮れる前に和解することを語っています。 「悪魔にすきを与えてはなりません。」(4:27) そして、この怒りが悪魔にすきを与える悪魔の道具であることを明確にしています。一瞬、怒っても、それを罪にまでつなげないように気をつけましょう。怒りは古い人のものであり、悪魔の道具であることを忘れてはなりません。三、盗み、盗みもキリスト教でなくても悪いということは常識です。十戒の8戒にも「盗んではならない」と書いてあります。しかし、私たちは、単純に人の物を盗むことだけが盗みではないということを知らなければなりません。隣人の苦しい状況を知りながら気付かないふりをすること、自分の益のために他人の益を妨げることも、広い意味としては、盗みなのです。神は豊かな者が貧しい者を助けることを聖書の様々な箇所で教えてくださいました。キリストはご自分の命を罪人たちに分け与えてくださるために、ご自分の命を捨てられたのです。私たちは主の体なる教会として、盗みについてより広い認識を持って理解するべきです。最後に悪い言葉、簡単に言えば他人への悪口と言えるでしょう。そして、他人を憎む心にまで至ると思います。この世を生きながら気に入らない、憎い人が必ずいるでしょう。人間だから、当たり前です。しかし、聖書はそれでさえ制御することを命じます。誰かに悪口を言いたい時、憎しみが湧き出る時、これらはキリストによって新しい人となった私たち教会には、ふさわしくない姿であることをぜひ憶えてください。悪い言葉は明らかに悪魔のものだからです。 締め括り パウロは教会に告げます。「神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(4:24)「偽りを捨てて真実を語りなさい」「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。」「盗みをやめて困っている人を助けなさい」「悪い言葉ではなく、恵みの言葉を言いましょう」「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」パウロは、このように教会のあり方について力強く語っているのです。「わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい。」(レビ記11:45) 今日の本文を読みながら、旧約聖書レビ記の言葉が思い起されました。神はエジプトから脱出した、イスラエルの民に明確に言われました。「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい。」私たちはキリストによって新しい人となった主の体なる教会です。今日の御言葉を通じて、私たちが取るべき生き方について考えてみましょう。主イエスの教会にふさわしい生き方のために、特に心していく志免教会の兄弟姉妹であることを祈り願います。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

不信仰

出エジプト記4章1~17節(旧98頁) ヨハネによる福音書20章24~29節(新210頁) 前置き 前回の出エジプト記の説教では、神の御名について話しました。神には、色々な名前がありますが、その中で聖書に一番最初に出てくる名前は「私はある。」(ヘブライ語でエへイェ·アシェル·エへイェ、ギリシャ語でエゴ·エイミ)でした。これを意訳すると「私は自ら存在する者」という意味になりました。神はご自分の名前を「自ら存在する者」と言われました。自ら存在する神は、すべてのものの根源、創造主である方です。この世のすべては、神によって造られ、神以前の存在はありません。エジプトからの脱出を命じられた神は、モーセを遣わされる前に、すでにご自身が「万物を超越する者、最初から存在する者、自ら存在する者、絶対者」であることを示されたのです。ですから、出エジプトは絶対に成功します。被造物であるエジプトが創造主である「自ら存在する神」に勝つことはできないからです。私たちは、この「わたしはある」という御名の神を信じています。この世での苦しみと悲しみの中で、私たちが希望を持って生きる理由は、私たちが崇める神が、この世を支配する「自ら存在する者」であるためです。そして、自ら存在する神であり、完全な人間として来られたイエス·キリストが私たちの頭でおられるからです。 1.主の御言葉と自分の考えとの間で。 神はモーセに「エジプトに行って、わが民イスラエルを連れ出してきなさい。」と命じられました。ミディアンで40年以上、一介の羊飼いとして生きてきたモーセに、ある日突然現れた神は、モーセにとっては到底無理な務めを任せられたわけです。イスラエル人に生まれたが、エジプト王女の養子として育ち、一時は権力と野望を持っていたモーセ、しかし、若い頃の彼の野望(政治的にイスラエルを解放すること)は、あまりにも簡単に失敗してしまいました。すでに一度失敗した彼に突然現れた「先祖たちの神」は、年老いた羊飼いにあり得ない、無理な要求をしているようでした。モーセは、経験的に「イスラエル解放」が、どれほど難しいことかをよく知っていたからです。そのため、モーセは何度も逆らいます。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」(出3:11)「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません」(出4:10)「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」(出4:13) 神が「あなたが行って、わたしの命令を行いなさい。」と命じられたのに、なぜ、モーセは「私には出来ません」と言うのでしょうか? それは神へのモーセの不信仰に基づきます。もちろん、モーセの立場が理解できないわけではありません。誰でも初めて出会った人の言うことを簡単に従うことはできないと思います。しかし、神は明らかに言われました。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」(出3:6) 今日の本文でモーセが出会った神は「初めて会う方」ですが、「全く知らない存在」ではありませんでした。自分の先祖の先祖、一時、エジプトの総理として偉業を成し遂げた、あの「ヨセフ」の父親と祖父と曾祖父の神です。王女の養子になる前に、実母のもとで育てられたモーセは、おそらく、神と先祖たちについての話を数え切れないほど聞いたことでしょう。また、その方がいつか来られ、乳と蜜の流れるカナンにイスラエル民族を導いていかれるという話も繰り返し聞いたに違いありません。ところで、その「先祖の神」という存在が、ある日突然モーセ本人の前に現れられたというわけです。神という超越的な存在が「いつかは」現れて、同胞イスラエルを救い出してくださると漠然と信じていたかもしれませんが、その方がまさに今日、自分自身の前に現れ、イスラエルの解放を命令された時、モーセはどれほど驚いたでしょうか? 果たしてモーセは、その命令に従うことができたでしょうか? 私たちにそういうことがあったら、私たちはどう対応したでしょうか。 そんな突然の状況のため、モーセは先祖との契約という神の御言葉と自分の経験の間で迷っており、それがモーセの不信仰につながったわけです。経験はとても大切なものです。「白髪(年寄りの知恵)は輝く冠、神に従う道に見いだされる」(箴言16:31)ということわざのように聖書は経験による知恵を大切に取り扱っています。しかし、その経験が神の御言葉と約束を妨げる障害物になってしまうと、むしろ、その経験は不信仰の種になる可能性もあります。自分の経験と考えは大事ではありますが、あまり信用しないように気をつける必要があります。自分の判断に陥って何もできない者になってはなりません。私たちの価値基準は、唯一神の御言葉によってのみ決まるべきものです。不可能に見えても、神がおっしゃるなら信頼するのです。今日のモーセは自分の経験、価値基準、思いにとらわれ、神の命令に聴き従うことが出来ませんでした。そして、こんな姿が、今日の私たちにも、同じくあり得るということを忘れないようにしましょう。今日、突然主が現れて私たちに主の計画の実行を命じられたら、私たちは主の御言葉と私たちの経験の間で、どのように行動するようになるしょうか? 信仰を持つ者には、こういう課題がいつも伴います。 2.主が見せてくださったしるしの意味。 モーセが逆らうと、神は二つのしるしを見せてくださいます。それらは「モーセの杖を蛇に変えられること」と「モーセの手に重い皮膚病をかからせ、治してくださること」でした。この二つのしるしはもちろん現実では起こり得ない非常に不思議なことでした。しかし、このような魔術みないなことを果たして偉大な神のしるしだと言えるでしょうか? しかし、私たちはこの二つのしるしから、神の御業の象徴性について学ぶことができます。まず、杖が蛇になって、また杖になるしるしには、どういう意味があるでしょうか? モーセの杖は羊飼いの道具です。ですから、遊牧民族だったアブラハムやイサクやヤコブの子孫イスラエルは、杖という道具に親しみを持っていたでしょう。また羊飼いのモーセ個人にとっても、杖は毎日使っていた、とてもなじみのある道具でもあったのです。そして、蛇はエジプトの王権を象徴する動物だと言われます。時々、エジプト関連の番組や絵で、ファラオの帽子のコブラ(蛇)の形の飾りをご覧になったことがあると思います。神は杖に象徴される、すでに力もなく野望もない平凡なヘブライ人モーセを用いられ、蛇に象徴されるエジプト・ファラオの尾をつかんで、何の抵抗もできないように制圧されるでしょう。元々、蛇の尾は絶対につかんではならないと言われます。蛇が首を回して噛むからです。しかし、モーセが蛇の尾をつかんだとき、蛇はモーセの日常の道具である杖に戻りました。結局、エジプトのファラオは、神と一緒に歩むモーセに、何の害も及ぼすことができず、屈服することになるでしょう。 次に、モーセの手に重い皮膚病がかかって治ったことです。これも不思議な出来事ですが、何か感動的で畏敬の念を憶えるほどのしるしではないと思います。日本には同様のことわざがあるかどうか分かりませんが、韓国には「病気を与え、薬も与える。」ということわざがあります。他人を困らせたり、いじめたりした後、善意を施し助けるふりをする、偽善的な人間を批判する表現です。神はこの「病気を与え、薬も与える。」ためにモーセの手に皮膚病と回復をくださったでしょうか。もちろん、そうではありません。神が皮膚病のしるしを見せてくださったことには、確かな理由があります。本文の皮膚病とは、ハンセン病だと思われます。皮膚の感覚が鈍くなっていき、後には指や足指、鼻などが落ちてしまう、非常に深刻な皮膚病なのです。今では、医学の発達により、ハンセン病者が少ないですが、昔には社会から隔離されたり、殺害されたりするほど、恐ろしい病気だったのです。そのため、昔の人々はハンセン病にかかることは、まるで死ぬことであるという認識を持っていました。つまり、神がモーセの手をハンセン病にかからせ、治されたということは、神こそが「生と死」を司る絶対者であることを象徴的に表すことだったのです。だから、二つのしるしは、単純な魔術のような出来事ではなく、絶対者である神の偉大さを示す、はっきりとしたメッセージだったのです。 3.一人ではなく、一緒に信仰にあって進もう。 「それでもなお、モーセは主に言った。ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」(出4:10)神が、このような二つのしるしを見せてくださったにもかかわらず、モーセは自分にはできないと相変わらず不信仰の態度を見せます。自分は口が重く、舌が重い者であるということです。神は最後まで逆らうモーセに「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」(出4:11-12)と明確に言われます。それと共に「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。その彼が今、あなたに会おうとして、こちらに向かっている。」(出4:14) とも言われました。モーセの兄アロンが、モーセを手伝い、また、二人と共に主がおられ、助けてくださることを言われました。不信仰は望ましいものではありませんが、誰でも、自分の経験や勇気不足によって不信仰の姿になりえます。私たちは皆、モーセのように弱い存在だからです。しかし、主は一緒に信仰を守りつつ、前に進んでいく協力者を与えてくださり、また、主ご自身も一緒に歩んでくださいます。なぜ、絶対者であるキリストが、不完全な私たちを召され赦し、一つにしてご自分の体である教会と呼んでくださったでしょうか。弱い者たちを一つにされ、共に歩んでくださるためではないでしょうか。 締め括り 今日の説教のタイトルは不信仰でしたが、信仰の弱さを責めようとして、説教を書いたわけではありません。誰もが、このモーセのように、神の突然のご命令の前で、迷ってしまうでしょう。だからこそ、人間なのです。しかし、私たちにおいての、突然の神のご命令が、神においては、天地創造の前に、すでに計画されていたものであることを忘れてはならないと思います。だから、私たちが、まだ準備できていない時でも、神はすでに準備を終えられ、私たちにご命令なさるのです。自分としては理解できなくても、神のご計画とお導きを信頼して黙々と聞き従っていくこそが信仰なのです。日常生活で、到底理解できない神の導きを感じる時がたまにはあります。やりたくない命令がある時もあります。そんな時は、自分の経験と考えをしばらく止めて、主イエスはこんな時どうなさるだろうかと考えてみましょう。神のご命令にすべての判断を止められ、十字架にかかられ、ご自分の民を救ってくださったイエス·キリストの御心を憶えてください。おそらく、イエスは今日の新約本文でトマスにおっしゃったように「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と勧められるではないでしょうか? 神の御言葉に迷う時があっても、完全に信じられない人にはならないようにしましょう。不信仰を乗り越えて信仰の道に進んでいく志免教会の兄弟姉妹でありますように祈ります。 父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。

キリストのからだを立てる奉仕。

旧約の箇所はありません。 エフェソの信徒への手紙4章1~16節(新355頁) 前置き キリスト者は、神の恵みのもとで、キリストによって呼び出された存在です。神は天地創造の前に、すでにご自分の民をお選びになり、キリストの御名によって召されたのです。そして召された者たちを教会という名で一つにしてくださいました。神はご自分の民を教会にしてくださるために、イエス·キリストの愛と犠牲とを通して、民を罪から救い出してくださいました。また、民の救いのために死んだイエス·キリストを生き返らせ、教会の頭にされ、そのキリストを中心として民を一人の新しい人のようにしてくださいました。したがって、主の教会を成すキリスト者は、お一人、イエス・キリストの体なる存在なのです。もうこれ以上、私たちは自分自身の主人ではなく、イエス·キリストのものとなって生きていくのです。前回のエフェソ書1~3章の内容は、その点をとても大事に語っていました。エフェソ書は1~3章では、キリストと教会の関係について神学的に語りました。そして4~6章では、その神学的な話を基に実践的で現実的な話、つまり、キリスト者の望ましい生き方について語ります。今日の説教を通して、教会を成す私たちが、どのように生きるべきなのかを一緒に考えてみたいと思います。 1.主の民の望ましい生き方。 「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」(エフェソ4:1-3) 先ほど、お話ししました1-3章の教えに基づき、パウロは主の民である教会が神のお呼び出し(お招き)にふさわしく生きることを勧めます。神のお呼び出しにふさわしい生き方とは、どういうものでしょうか? 今日の本文は、このように述べています。 「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」「高ぶることなく」とは、一言で謙遜のことです。私たちのすべてが神の恵みのもとで、キリストによってなされたから、自身を高めず、キリストと他者に仕えて生きなさいということです。柔和とは、私たちのすべての欲望を抑制し、神の御心に従順に生きることを意味します。柔和はギリシャ語で「プラウテス」と言いますが、「統制された力」を意味します。人に馴らされていない自然の馬を野馬といいます。野馬はとても気が荒いので、人が乗れないものです。しかし、戦国時代やローマ時代の時代劇を観ると、戦争で勝利した将軍が乗った飼い慣らした馬は自分勝手に動かず、主人の意志に従って動きます。人間より力が強いですが、主人の意志によって自分の力をコントロールするからです。 このような概念をギリシャ語で「プラウテス」と言い、今日の本文の「柔和」の原文なのです。キリストの外にいた私たちは、まるで野馬のように自分の欲望に忠実な存在でした。しかし、キリストのものとなった私たちは、主の栄光のために自分の欲望を統制する「プラウテス」の存在にならなければなりません。それが聖書が語る「柔和」のイメージなのです。また、本文に戻り、私たちは愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなければなりません。私たちは長く忍耐しなければなりません。誰かが気に入らないからといって簡単に怒ってはなりません。自分が嫌いに思う、その人を私たちの主は、命をかけられたほど、愛しておられるからです。それを心に留め、簡単に憎まないで忍耐し、むしろ赦しあい、平和を実現して生きるべきです。そして、聖霊によって一致された、この教会を何よりも大切にし、愛して生きなければなりません。パウロは、私たち教会が、このように生きることを望んでいるのです。私たちはキリストにあって一つとなりました。私たちの救い主がおひとりキリストで、私たちを導いてくださる方が、おひとり聖霊で、これらすべてをご計画なさった方が、おひとり父なる神なのです。私たちは民族が異なり、苗字が異なり、考え方も互いに異なりますが、それでも私たちは共通したお一人のキリスト、主イエスの民であり、主の体である存在です。したがって、私たちはキリストにあって、聖霊によって一致された存在という私たちのアイデンティティを絶対に忘れてはなりません。 2.それぞれに与えられたキリストからの賜物。 「しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。」(エフェソ4:7) 主は民を召され、教会を打ち立てられ、この教会が健全に立てられていけるように、信徒それぞれに賜物を与えてくださいました。賜物とは、英語でギフトという意味で、神がキリストと聖霊を通して、私たちに与えてくださった各自の才能と務めのことです。「そこで、高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられたと言われています。昇ったというのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。」(エフェソ書4:8-10)パウロは詩篇68編18節の言葉を引用して、主がご自分の民に賜物をお与えになったと語ります。そして、この詩篇の言葉のように、主イエスが 地上に降りてこられ、十字架で死ぬことで教会を打ち立てられ、父なる神の右に昇られ、教会とこの世を満たされたと語ります。つまり、主イエスが私たちにくださった賜物は、教会と世を満たすための主の恵みなのです。 志免教会では、牧師、長老、執事が小会を成して教会に仕えます。しかし、小会メンバーが他の兄弟姉妹より優れているからではありません。主が志免教会の総会を用いられ、皆さんの心を導いて小会員を選び、彼らに主からの賜物を与え、教会に仕えさせられるのです。牧師は説教を通して、信徒を養い、祈りつつ小会を導きます。しかし、それは牧師が偉い人だからではなく、キリストの思い通りに教会に仕えるための賜物をいただいたからです。長老や執事も他の信徒より特別なので選任されたわけではありません。神の働き手として教会に仕えるために賜物をいただいて選ばれたのです。皆が牧師になるわけではないし、皆が長老や執事になるわけでもありません。しかし皆が神にそれぞれの賜物をいただき、教会に仕えるのです。神は教える者、仕える者として牧師を呼ばれ、働かせられます。神は長老を呼ばれ、信徒を代表する知恵を賜物としてくださいます。神は執事を呼ばれ、教会のために働ける知恵を賜物として与えてくださいます。小会員だけでなく、私たち皆が主から賜物をいただき、誰かは庭を掃除し、誰かは食事を用意し、誰かは教会の庶務を担当し、誰かはオルガンを演奏します。そして、そのすべては、主がご自分の体である教会を豊かに満たされるためにくださった賜物によって分けられます。 3。教会を健全に立てる奉仕のために御言葉を学ぶ。 このような賜物は、教会を健全に立てるための神の恵みから来ます。ところで、今日の本文はこの賜物を話しながら「教える者」について先に語ります。「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、」(エフェソ書4:11-12) 教える者について話した理由は、主の賜物が先に主の御言葉を学ぶことから始まるからではないかと思います。 使徒、預言者、福音宣教者、牧者、教師、皆が御言葉を教える務めです。ローマ書にこういう言葉があります。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ書10:17) 主の御言葉を聞き学ぶことから、私たちは自分自身について知り、信仰が深まり、その中で主が自分にくださった賜物を見つけ、その賜物どおりに教会を健全に立てていくようになるからです。教会はなによりも御言葉が優先されるべき共同体です。主の御言葉が私たちの前に立ち、導くのです。したがって、私たちは教会での務めに飲み込まれず、まず、主の御言葉に耳を傾けるべきなのです。主の御言葉を通じてのみ、私たちは私たちの真の賜物を見つけることができます。主の御言葉を通じてのみ、自分の位置と才能と務めについて知り、謙遜に仕えることができるようになるからです。 志免教会には、たくさんの仕事があります。情熱と才能を持って教会に仕える人が必要です。しかし、それよりも大事なのは、主の御言葉を学び、そこから自分の賜物に気づくことです。そして御言葉によって見つけた賜物を基礎とし、教会の仕事に臨むべきです。ですから、教会の仕事だけに心を奪われ、兄弟姉妹を傷つけないように気をつけましょう。主の教会では「教会の仕事」より、主の言葉に従って、お互いに愛し合い、寛容を持って忍耐することが、さらに大事なのです。今日の説教のタイトルは教会を立てる奉仕です。忙しくたくさんの仕事をすることが一番ではありません。教会を健全に立てていくためには、仕事がうまくいくことだけでなく、互いの関係の中で自らを犠牲にし、愛し合うことがより一層大事です。教会で行われる奉仕の最も重要な目標は、教会員が愛し合い、主にあって一致し、一緒に進んでいくことです。したがって、一人にあまりにも多くの務めを負わせないようにし、また、たくさん働く人は、自ら高ぶらないように気をつけて、皆がキリストのもとで一緒に成長していけるよう、教会員同士を助け合って愛し合って生きるべきなのです。「こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」(エフェソ4:15-16) 私たちはこの言葉を大事に憶えるべきです。 締め括り 今日は教会を立てる奉仕という題で、一緒に考えてみました。主は私たちを召され、私たちに主の体なる教会を健全に立てていく使命を与えてくださいました。そして、その使命は、主にいただいた信徒同士の愛によって果たされるべきものです。 主イエスの体なる、この志免教会のために仕えてまいりましょう。しかし、その情熱が兄弟姉妹を躓かせる石にならないように気をつけましょう。主にあずかった愛の中で、お互いに愛しあい、奉仕しあい、健全で美しい志免教会を作っていきましょう。キリストの御名によって選ばれた神の民にふさわしく、三位一体なる神、御父、御子、聖霊が、お互いに愛しあわれたように、私たち志免教会も兄弟姉妹たちを心から愛しつつ生きていきましょう。 それが主がお望みになるキリスト者の生き方ではないでしょうか。 父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。

神の御名。

出エジプト記3章13~15節(旧97頁) ヨハネによる福音書8章58~59節(新184頁) 前置き 前回の出エジプト記の説教では、神に呼び出されるモーセの姿が描かれました。羊の群れを飼っている途中、ホレブ(廃墟)という名の山に来たモーセは、そこで「火に燃えているのに、燃え尽きない柴」を目撃します。その時、アブラハムとイサクとヤコブの神がモーセに現れ、エジプトに虐待されているイスラエル民族を解放しなさいという使命を与えられます。私たちは、この前回の説教で、神は炎(強さ)のように強い方ですが、柴(弱さ)を滅ぼされない方、ホレブ(廃墟)山を聖なる土地(聖地)に変えられる方、最後にご自分の約束を絶対に忘れられず、記憶しておられる方(アブラハムとイサクとヤコブとの約束)であるということを学びました。そして、最後に神がご自分の民に与えられる使命とは、民が偉いことをしたり、重荷を負ったりすることではなく、神に聞き従い、主と共に歩むことであると学びました。私たちはこの神に選ばれ、教会に集められた主の民です。私たちの使命は神を忘れず、神に召される人生の最後の日まで、神と共に歩み、主と生きることです。以上の内容を憶えつつ、今日の本文に入りたいと思います。 1。「わたしはある」という言葉の意味。 「モーセは神に尋ねた。わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」(13) 神に呼び出されたモーセは、非常に戸惑い、神に尋ねます。「アブラハムとイサクとヤコブの神が私を遣わされたと言ったら、同胞たちが私を信じてくれるでしょうか? 彼らがあなたについて聞いてきたら、私はあなたの名前をどう言えば良いんですか?」東洋文化圏では、人の名前に大きな意味を与えると傾向があると思います。江戸時代の時代劇などを観ると、決闘する前に「何々家の誰、何々流の誰」と自分の名前を名乗る場面がよく出てきます。旧約聖書でも、ある存在の名前は大きな意味を持っています。「欺く者」という意味のヤコブが、神と出会った後「神を畏れる者(神に勝つという意味もある。)」という意味のイスラエルという新しい名前を得たという物語が代表的です。このように名前は、ある一人の存在の意味を明らかにする大事なものです。つまり、モーセが神の御名について尋ねたのも、単純な身元確認ではなく、神という存在の意味を確かめたいとの理由にあるでしょう。「私が一度失敗したイスラエルの解放を、老けてしまった今の私に再び命じられるあなたという存在は一体何者ですか?」という意味でしょう。 「神はモーセに、わたしはある。わたしはあるという者だと言われ、また、イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方が、わたしをあなたたちに遣わされたのだと。」(14節) このようなモーセの問いに神はお答えになりました。「わたしはある」神のお返事が本当に不思議です。文法的に間違っています。「私は誰である」と答えるのが一般的ですが、神は「わたしはある」と答えられました。これはヘブライ語では「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」であり、ギリシャ語では「エゴ・エイミー」と翻訳できます。実際、直訳でも「わたしはある」という表現も正確ではないと思います。日本語で、いや人間の言葉では表せない存在の特別な名前なのです。これによって、神は人間の一般的な理解と哲学と理性をはるかに越える超越的な存在であることが分かります。それでも、あえて意味を与えて意訳をすれば、「私は自ら存在する者だ。」程度に訳することができるでしょう。私たち人間は皆、根源を持っています。両親がおり、先祖がいます。この会堂もセメントはある山の岩に、木材はある森の木に、電線はある鉱物に、プラスチックは石油に由来します。世の中のすべてのものは、自ら存在することができません。しかし、自ら存在する神、「わたしはあるという者だ。」と言われた神は、この世のすべての先におられ、すべてに存在理由をお与えになった絶対者なのです。「わたしはある」という名前の意味には、神の絶対者としての権威が含まれているのです。 モーセに現れられたイスラエルの神は、自ら存在する方です。神はすべての存在の根源であり、すべての権勢と栄光の源です。この神がモーセを用いられ遣わされるでしょう。そしてイスラエルを解放させられるでしょう。大帝国と呼ばれたエジプトでさえ、自ら存在する者のご意志に逆らうことはできないでしょう。神が永遠にご自分の民と共におられ、その先祖アブラハムとイサクとヤコブと結ばれた約束どおりに、ご自分の業を成就していかれるでしょう。ですから、神はご自分の約束どおりに、永遠にご自分の民と共にいらっしゃるでしょう。 (わたしは「民と共に」ある。) そして、その約束はイマヌエル(神が私たちと共におられる。)という名で来られる新約聖書のキリストのもとで成就するでしょう。 したがって、私たちは記憶しなければなりません。 私たちの神は「自ら存在する方、ご自分のご意志通りに行われる方、ご自分の民と永遠に共におられる方」です。人生の苦しさと悲しさの時、ひとりぼっちになったと絶望しないでください。『わたしはある』という方、私たちの神が、いつも永遠に主の民、私たちと共にいらっしゃるからです。 2.イエス・キリストの「わたしはある。」 現代を生きている私たちは、自由に古代のヘブライ語やギリシャ語が理解できない状態です。聖書の原文を長年学習しない限り、私たちはヘブライ語とギリシャ語に現れる聖書の本来の意味をありのままに理解することは難しいです。私たちはただ日本語だけで聖書を読んでいるからです。しかし、その意味を理解して読むことができれば、私たちは、さらに大きい恵みを得ることができるでしょう。今日の新約の本文を見てみましょう。「イエスは言われた。はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から『わたしはある。』すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。」(ヨハネ福音8:58-59) ヨハネ福音8章はイエスに反対するファリサイ派の人々と主イエスの論争の場面です。イエスは、神が自分たちの父であると言っている、主に反対するユダヤ人たちに、「本当に神を父だと思うならばイエスに反対せず、むしろ愛するだろう」と言われました。そして「イエスに反対するユダヤ人の先祖であるアブラハムは、主の日を見るのを楽しみにしており、それを見て、喜んだのである」とおっしゃいました。 するとユダヤ人たちは50歳にもならないイエスがどうやってアブラハムを見たのか問い返します。その時、イエスは「アブラハムが生まれる前から『わたしはある。』」とおっしゃっています。するとユダヤ人たちは石を取り上げ、イエスを殺そうとします。 ユダヤ人たちは「アブラハムが生まれる前から『わたしはある。』」という言葉に、なぜ憤ってしまったのでしょうか。 単純に自分の先祖であるアブラハムを冒涜したと思ったからでしょうか? 実は日本語では見えない表現のせいで、ユダヤ人はそんなに憤ったわけです。 新約本文58節を見ると「わたしはある」という表現があります。この表現はギリシャ語で「エゴ・エイミー」なのです。先ほど「わたしはある」のヘブライ語は「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」であり、これをギリシャ語に翻訳すると「エゴ·エイミー」になるとお話ししました。「アブラハムが生まれる前から『わたしはある。』」すなわち、今日の旧約本文で神がモーセに言われた「わたしはある」という表現をイエスも同じように言われたわけです。「アブラハムが生まれる前から『わたしはある。』」という表現は「アブラハムが生まれる前から、私は自ら存在する者だ」という意味にもなるのです。イエスご自身がまさに父なる神と同一本質で、同等の存在であることを示す表現です。イエスがご自身がすなわち神であるということを宣言される言葉なのです。おそらく当時のユダヤ人なら、イエスの「わたしはある」という言葉に、非常に大きな衝撃を受けたでしょう。イエスが「わたしはある」という旧約の神の言葉をそのまま、使われたからです。その当時のユダヤ人でなければ、簡単には分からない内容なので、現代の私たちには大きな衝撃にならないでしょうが、イエスはこの本文でご自分のアイデンティティをはっきり示されたのです。まさに今日の旧約本文でモーセに「わたしはある」とおっしゃった神としてイエスはご自身の存在について明らかに言われたのです。 私たちが信じるイエス・キリストは神です。私たちは聖なる三位一体の神を信じています。そして主イエスは、その三位一体の中の一位格、御子なる神です。志免教会の主であるイエスは「自ら存在する方」です。イエスの栄光は、父なる神よりけっして劣りません。同一の本質、同格の権勢、同等の全能さのお持ちの方です。今日、旧約本文で「わたしはある」つまり「自ら存在する者」である神は、イスラエルの解放を約束されます。そして神はモーセを通して、実際にその解放を成し遂げられます。私たちの「わたしはある」と言われた方、「自ら存在する者」であるイエス·キリストは、父なる神から与えられた権勢と栄光で私たちを死と呪いから解放してくださったのです。 私たちは教会の頭である、このイエスが「自ら存在する者、全能者」であるということにプライドを持っても良いです。神がイスラエルをエジプトから救い出され、乳と蜜の流れる土地に導いてくださったように、イエス·キリストは私たち教会を罪から救い出され、神の祝福のもとに導いてくださいます。神の御名「わたしはある」すなわち、神はイエス·キリストを通して、今日も私たちと共に「おられます。」これがまさに私たちと共におられるイマヌエル(神が私たちと共にいらっしゃる。)の証しであるのです。 締め括り 神には、数多くの名前があります。しかし、その中で聖書で一番最初に出てくる名前は、今日の「わたしはある」です。 神は私たちが独りぼっちである時も一緒におられ、私の家族の中にも一緒におられ、私たちの職場、私たちの社会的な関係の中にも一緒におられる方です。神は世の中のすべてを満たしておられる無所不在(中国や韓国で使う表現)であり、全知全能である方です。私たちを一度お選びになった主は絶対に私たちを見捨てられず、いつも「わたしはある」という存在として、私たちの人生の中に共におられるでしょう。この神がモーセを通してイスラエルを救われたのです。そして、この神が主イエス・キリストの民である私たち、キリストの教会を通して、主の御心を成し遂げていかれるでしょう。「わたしはある」という名前の神、自ら存在する神、私たちと一緒におられるインマヌエルの神、キリストを通して、私たちと共におられる神。この神の民であることを感謝し、喜びを持って生きる一週間であることを祈ります。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。