救いの歴史の余白。

出エジプト記1章1~14節 (旧94頁) ヨハネによる福音書20章29節 (新210頁) 前置き 3年間の長い創世記の説教が終わりました。そして今日からは新しく出エジプト記の説教に入ろうとしています。前の創世記の説教では、比較的に聖書の本文を細かく探ってみようとしたので、時間がかなりかかるようになったと思います。これからの出エジプト記の説教では、すべての本文を説教するより、聖書の重要な出来事を中心に説教する予定です。今日は出エジプト記の始めに出てくるヤコブの子孫の系図について、そしてイスラエル民族に迫ってきた苦難と主の時について、話してみたいと思います。主が出エジプト記を通して主の御言葉を教えてくださり、私たちの信仰生活を導いてくださることを祈ります。 1. 歴史の導き主は、イスラエルの神である。 中学生の頃、母がこんな質問をしました。「英語で歴史が何かわかる?」「ヒストリーですよ。」「なぜ、ヒストリーかな?」「分からない。」「HIS STORY、彼の話だからよ。」「彼って誰?」「イエス様のこと。」「ええっ、うそ!」歴史を意味する英語のヒストリーは本当に「彼の話」という意味でしょうか? 実はこの英語のヒストリーはラテン語の「ヒストリア」に由来します。またラテン語の「ヒストリア」はギリシャ語の「ヒストリア」をそのまま訳した表現です。そして、ギリシャ語の「ヒストリア」は「賢い」という意味の「ヒストール」から来ました。どこかで、ヒストリーに関して聞いた母が感激しながらヒストリーについて情熱に話しましたが、十何年後、神学校で、そうではないことを知り、くすっと笑った記憶があります。ところが、原文的には間違った解釈であるかもしれませんが、信仰の経験的には、本当にヒストリー(歴史)が「彼(神様)の話」のように感じられる時もあります。主が歴史の導き主であるということです。そして出エジプト記は、その歴史の導き主である神について、顕かに示している聖書だと思います。今日の本文1-7節は、神が歴史の導き主であることを教える箇所です。「ヨセフもその兄弟たちも、その世代の人々も皆、死んだが、イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた。」1-5節には創世記に比重大きく登場していたヤコブとその息子たちの名前が書いてあります。 この間の説教で、創世記のヘブライ語のタイトルを訳すると「はじめに」になり、出エジプト記のヘブライ語のタイトルを訳すると「名前」になると申し上げました。旧約聖書は別のタイトルがなく、接続詞を除いた最初の文章の最初の単語がタイトルとして使われたからです。したがって、出エジプト記は、まず名前、つまりヤコブとその息子たちの名前から始まります。ヤコブと息子たちの名前が記録された後、6節では彼らが皆死んだと記してあります。「ヨセフもその兄弟たちも、その世代の人々も皆、死んだが、」イスラエル民族を代表する先祖たちが皆死にましたが、7節は再びこのように語ります。「イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた。」日本語聖書では「が」という接続助詞で、わりと薄く訳されたと思いますが、ヘブライ語の聖書を読むと、6節と7節の間に「しかし」という表現がはっきり入っています。つまり、「大事な先祖たちが皆死んだ。しかし、イスラエルの子孫はますます栄え続けていった。」ということでしょう。祖先は皆死んで神のもとに召されたんですが、その子孫は先祖の死と関係なく、神によって栄え続けていったということです。ここで私たちは神の民を導く者が、ある特別な指導者ではなく、偉大な神ご自身であるということが分かります。この世に数多くの指導者がいます。しかし、歴史はその指導者たちが作っていくものではありません。ひとえに主なる神だけが歴史を導いていかれます。そのため、大事な祖先が亡くなったにもかかわらず、神のお導きによってイスラエルはますます強くなっていきました。 2. 苦難は神の不在のためなのか。 さて、ここで一つ問題が生じます。「ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し…イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。」(出エジプト記1章8-11節の一部)イスラエル民族がますます強くなっていくだけなら良いですが、現実はそうではありませんでした。新しいエジプトのファラオが現れ、イスラエルの民を奴隷にして苦しめ始めたのです。なぜエジプトの王はイスラエルを苦しめ始めたのでしょうか? 先祖のファラオがヨセフによってイスラエルを受け入れてくれたのに、子孫のファラオが先祖の判断に逆らうということでしょうか? 違います。私たちはヤコブ時代のエジプト王朝と出エジプト時代の王朝が違うことを留意しなければなりません。日本の場合「万世一系」という概念で天皇家は一つの血統によると言いますが、近い中国や韓国の場合、王朝が変わった出来事が多いです。たとえば、韓国の以前の朝鮮は李氏王朝で、朝鮮の前の高麗は王氏王朝だったようにです。前にも説教で話しましたが、ヨセフが総理だった時代のエジプトはヒクソス人の王朝でした。つまり、純粋なエジプト人ではなかったのです。むしろ、アブラハム家が属したセム族に近い民族でした。ヒクソス人が北から攻めてきてエジプトを征服し、エジプトで自分たちの王朝を打ち立てたわけです。しかし、ヒクソス人は、後日、エジプト人の反乱軍によって滅ぼされ、権力を引き渡すことになったのです。 その過程で、イスラエルは新しいエジプト王朝の奴隷となってしまいます。イスラエルはエジプトよりヒクソス人に近い民族なので、戦争でも起こればイスラエル民族が裏切るかもしれないとおそれたからです。本文にその根拠があります。「これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。」(出エジプト記1章10節) そのようにイスラエルは非常に大きな危険にさらされていました。エジプトの新しいファラオは、イスラエル民族を弱めるために重労働を課して虐待しました。エジプトの総理の民族だったイスラエルが、奴隷民族になってしまったのです。神に選ばれた民族「イスラエル」、神が先祖アブラハムとイサクとヤコブと、空の星のように、海の砂のように栄えさせてくださると約束された「イスラエル」。そのイスラエルに絶体絶命の危機が迫ってきたのです。もし、ここでイスラエル民族が大きい苦難に負けて滅びることになったら、神の約束は台無しになってしまうでしょう。それでも、今日の本文の1節から14節では、神の御業が一度も現れていません。まるで神が知らないふりをしていらっしゃるように感じられます。イスラエルが苦難の真ん中にさらされている、この物騒な時代に神は果たしてどこにいらっしゃったのでしょうか? 3. 余白は不在ではない。 先ほど、私は神が歴史の導き主であり、イスラエルを栄えさせてくださったと言いました。ところが、今日の本文に出てくるイスラエルを見れば、歴史の導き主である神の動きが全く見つかりません。ご自分の民が苦難を受けても、主の御業は見つかりません。もちろん1章17節からは神のお働きが見えますが、今日の本文に限っては神がイスラエルを完全に無視しておられる様子です。では、主はイスラエルの苦難を傍観しておられたわけでしょうか? 私たちは神の時間と人間の時間の違いによる乖離を理解する必要があります。ギリシャ語には「時間」を意味する2つの言葉があります。1つは「クロノス」であり、2つは「カイロス」です。旧約聖書の神の御業について話しているので、ギリシャ語の概念を取り上げるのは少し無理ではないかと思いますが、これ以上、主の時間を説明するのにぴったりの概念はないと思います。「クロノス」とは、自然に流れていく物理的な時間のことです。「志免教会の主日礼拝は午前10時15分から1時間くらいです。」ここでの時間はクロノスです。「カイロス」とは時間の長短とは関係ない、具体的な出来事の中で現れる驚くべき変化を経験する時間のことです。「志免教会で守った、その日の礼拝は、私において人生が根こそぎ変わるほどの大事な時間でした。」ここでの時間はカイロスです。 つまり、人間は「クロノス」という物理的な時間に束縛されているので、クロノスの外で働いておられる神の御業を全く感じることが出来ない存在です。時間の束縛から自由でいらっしゃる神は、最も決定的な瞬間に決定的な時間である「カイロス」を通して働かれます。そこから、まるで、神は何もしていないという人間の誤解への答えが出てくるのです。主は主の時間を通して働いておられる方です。イスラエル民族がクロノスの時間の中で苦しみ、泣き叫んでいた時、主なる神はカイロスの時間を通して、イスラエルの解放と救いのために準備しておられました。私たちの人生において、主のお導きが全くないような時、主の答えも聞こえてこないような時、主は私たちのことを無視しておられるわけではありません。主は主の時間を通して私たちのために働いていらっしゃるのです。つまり、私たちが主がおられないと感じるその瞬間は、主の不在の時間ではありません。それは主の時を準備する余白の時間です。不在と余白は雲泥の差です。不在は無力ですが、余白は力強いです。主がご自分の御業を成し遂げられる「カイロス」の時間が来るまで、主は余白を持ってその時が来るのを待っておられるのです。イスラエルが強くなって数十万になるまで、たとえ彼らに苦難が襲ってきたといっも、主はその時を静かに待っておられるのです。 締め括り 出エジプト記でヤコブとヨセフが亡くなり、イスラエルはエジプトの奴隷となりました。その時間(クロノス)の間、主はイスラエルを完全に見捨てておられるようでした。しかし、主の時間(カイロス)になった時、(聖書では、時が満ちたというふうで使われる場合がある。)主はモーセを遣わされ、イスラエルを救ってくださいました。それと似たような出来事が新約にもあります。旧約聖書マラキ書以後から洗礼者ヨハネの登場までの約400年の間、公式的な神の啓示はありませんでした。そういうわけで、ある学者たちはこの時期を神の啓示が消えた暗黒時代だと言いました。しかし、その後どんなことが起こったでしょうか? 神の時が近づき、子なる神がイエスという名でご自分の民を訪れてこられたのです。啓示の代わりに啓示の主人が遣わされたわけです。神への信仰によって生きるキリスト者にとって、神の不在はありません。ただ、神がわざわざ残しておかれた余白の時間があるだけです。信仰とは、主の時を待ち望むことです。「日本の教会が困難であり、私たちの生活が苦難であり」など、私たちの人生には数多くの危機が起こり得ます。そして、神の応えが聞こえないような時もあり得ます。けれでも、忘れないようにしましょう。その時間は神の不在の時間ではありません、それは明らかに答えてくださるために主が置かれた余白の時間です。主イエスのこの言葉が思い起こされます。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ福音20:29) 神の不在と余白。私たちはどちらを信じていますでしょうか? 主のお導きをかたく信じる私たちであることを切に祈り願います。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

天地創造の前に。

イザヤ書49章1~3節 (旧1142頁) エフェソの信徒への手紙1章3~14節 (新352頁) 前置き もともと今日はマルコ福音書を説教する番でした。しかし、マルコ福音書の残りの箇所が主イエスの苦難と十字架での死、復活に関する話しであるため、レントとイースターの説教と重なると思い、しばらくはエフェソ書の説教をすることにしました。(エフェソ書の説教はマルコ福音書の次の順番でした。) エフェソ書の説教が終われば、またマルコによる福音書に戻って、残りの内容について話したいと思います。今年の志免教会の主題聖句はキリストの教会のあり方についての箇所でした。「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」この言葉は、エフェソ書2章22節の言葉です。パウロはエフェソ書を通して教会の意義とあり方について語っています。教会は、神がご自分でお建てになったとても大事なキリストの体なる共同体です。今回のエフェソ書のみ言葉を通じて、教会とは何か、教会の一員である私たちは、どう生きるべきかについて一緒に考えてみたいと思います。今日は、その中でも特に主なる神のお選びと予定、お呼び出しについて話してみたいと思います。 1. 神の選びと予定。 「冬のソナタ」以来、韓流メロドラマが大人気です。韓流ドラマが人気な理由はいろいろあるでしょうが、男の主人公たちの甘いセリフも一役買ったと思います。例えば、イケメンの主人公の「生まれ変わっても君だけを愛するから。」のような照れくさくて切ないセリフは、数多くの女性視聴者の心をつかむのに十分だったと思います。ところで、神も主の民に向かってそのようなロマンチックな言葉を言われました。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エフェソ1:4) 神の御言葉である聖書へのロマンチックだという言い方は、神への失礼であるかもしれませんが、主はご自分の民を、この世が造られる前にキリストにおいてお選びになり、愛しておられるという、まるで韓流ドラマの男の主人公が言うかようなことをおっしゃったのです。「この世が造られる前に私はすでに君を選んだのだ。愛してるよ。」つまり、神がこの世の創造よりも先に、主の民一人一人をすでにご存知で、愛しておられたという意味でしょう。天地創造の前にお選びになった私たちを、キリストにおいて呼んでくださるために、神は大切なご自分の独り子イエス·キリストを十字架の献げ物として犠牲にさせられたのです。それだけに主の民と呼ばれる私たちは、主の切ない愛のもとに生きている存在なのです。韓流ドラマの女主人公を羨む必要はありません。主の愛はそれより深くて切ないからです。 改革教会において、大事な教理の中の一つで「神の予定」という概念があります。神がこの世の始まりの前から、すべてのことを知っておられ、あらかじめお定めになったということです。つまり、ご自分の民を天地創造の前に、すでにお選びになったということです。「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。」(エフェソ1:5-6) 新共同訳聖書は「御心のままに前もってお定めになった。」という表現を使っていますが、それに基づいた神学の概念が、まさに「予定説」なのです。予定だからといって「誰かは選び、誰かは見捨てた。神は悪いことも予定される。」という意味ではなく、ただ「神は全知全能であるため、すべてをあらかじめ知っておられ、その御心のままに成し遂げられる。」と理解するのが正しいと思います。主はご自分の民をすでに知っておられる方です。私たち一人一人は、この日本で、そんなに影響力のない非常に平凡な普通の人であるかもしれません。そのため、誰かは自分のことを「つまらない、うまくいかない、みすぼらしい」など、低く評価しているかもしれません。しかし、神はそのような人でさえ、この世が造られる前から、すでに愛してお選びくださいました。主に特別に指名されたということです。したがって、私たちは自分のことを低く評価してはなりません。このよの造り主である偉大な神が、私たちを天地創造の前に選ばれたからです。そして、主はその選ばれた私たちをキリストによって、予定通りに教会に呼び出してくださったのです。 2. 神の予定を信じる者の生き方。 このような神の予定と係わりがあるような旧約の言葉があります。今日の本文です。「島々よ、わたしに聞け、遠い国々よ、耳を傾けよ。主は母の胎にあるわたしを呼び、母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。」(イザヤ49:1) この度、レント期間にキリストの苦難について説教する際、イザヤ書に出てくる「しもべの歌」について話しました。イザヤ書49章1-6節は、イザヤ書に出てくる四つの「しもべの歌」の中、二つ目の歌です。ここで、神のしもべは、自分が母の腹にいる時から、神に名を呼ばれたと告白しています。旧約に現れる神のお選びの箇所でしょう。このように新旧約を問わず、主はご自分の民をあらかじめご存知でおられ、呼んでくださる方なのです。私たちが願って神に選ばれ、キリスト者になったわけではありません。神が私たちをお望みになったので、私たちをキリスト者と呼び出してくださったわけです。先週の説教で、信仰は信じる人のものではなく、信じさせてくださる方のものであると話しました。主のお呼びも同じです。したがって、すべてを知り、すべてを計画し、すべてを予定される主なる神を信じる者は、私たちのすべてが主の御心のもとにあることを信じなければなりません。今現在の苦しみと逆境も、結局は神が知っておられ、主の御心にあって万事が益となっていくということを信じなければならないのです。 今日の新約本文であるエフェソ書は、いわゆる獄中書簡と呼ばれる手紙で、パウロがローマ帝国によって投獄されたときに記された聖書と知られています。彼は福音のために無実に投獄され、苦しみの中にありながらも、神の恵みと導きを疑わず、むしろエフェソ教会の兄弟姉妹たちにキリストにあって、神のご統治を堅く信じることを頼んだのです。また、今日の旧約本文であるイザヤ書49章は、イスラエル民族がバビロンの捕囚となった時代に主から与えられた慰めの言葉です。他国の植民地のようになり、もうこれ以上希望がなさそうな苦しい時にも、神は変わらずイスラエルを愛し、覚え、導いておられるということを訴える歌なのです。主の予定、計画、導くを信じる主の民は、何があっても主の御心が予定通りに成し遂げられていくことを信じなければなりません。パウロとイザヤ書49章の記録者が、苦しい現実にあったにもかかわらず、主のお導きを信じたように、キリストにおいて教会と呼ばれるようになった私たちも、何があっても主の御心が私と共にあるということを信じるべきなのです。それが神の予定を信じる者の生き方なのです。皆さんは神のご計画、つまり天地創造の前から、母の腹にいた時から、キリストにおいて神に選ばれた特別な存在です。その存在性にふさわしい信仰で神の御心を待ち望みながら生きていきたいと思います。 3. キリストにおいて。 さて、今日の新約の本文の中に、何度も繰り返される表現がありますが、それは「キリストにおいて、キリストによって」です。二つを言いましたが、原文としては同じ言葉なのでしょう。この表現は今日の本文だけでなく、これからもエフェソ書に、よく出てくる表現です。父なる神は「キリストにおいて」天のあらゆる霊的な祝福を満たしてくださいました。父なる神は「キリストにおいて」天地創造の前にわたしたちを愛して、聖なる者、汚れのない者にしようとお選びになりました。父なる神は「キリストにおいて」御心のままに前もってお定めになったのです。父なる神は「キリストにおいて」私たちの罪を赦してくださいました。父なる神は「キリストにおいて」主の秘密である福音を私たちに教えてくださいました。父なる神は「キリストにおいて」天と地にあるものをキリストのもとに一つにまとめられたのです。父なる神は「キリストにおいて」私たちを御国を受け継ぐ者としてくださり、父なる神は「キリストにおいて」私たちに聖霊によって神の栄光をたたえるようにしてくださったのです。以上、キリストにおいてという言葉を何度も繰り返しましたが、そのすべてが今日の本文に出てくる表現です。私たちが神によって天地創造の前から選ばれ、神への信仰を持たれ、罪を赦され、喜ばれ、教会に集められ、神のものとなったすべての根源的な理由は、まさに神の予定によって「キリストにおいて」の存在となったからです。 「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。」(エフェソ1:11-12) したがって、志免教会につらなる兄弟姉妹は皆、神のご計画により、キリストにおいて、前もって定められた神の民となった存在であり、またキリストにおいて、神に栄光を帰すべき存在です。私たちはキリストにおいて選ばれ、一つになってキリストを頭とする教会です。主の体なる教会という表現も、キリストにおいての共同体という表現の言い換えなのでしょう。私たちが、神の予定によって天地創造の前から選ばれた理由も、主のお導きによって教会に集まった理由も、主と共に毎日を過ごせる理由も、すなわち私たちがこの世に存在できるすべての理由が、まさにキリストにおいて、その全てが成し遂げられたからです。ですから、教会を形成する私たちは、私たちのすべてがキリストにおいてあることを必ず憶えて生きるべきです。私たちの人生の焦点がキリストに集められるべきであるということです。 締め括り 最後に、今日の説教についてもう一度まとめて終わりたいと思います。第一に、主はすべてを前もってお定めになる方です。主は天地創造の前から、ご自分の予定通りに私たちをお選びになり、教会に集めてくださいました。第二に、この神の予定を信じる者は、どんなことがあっても自分の人生のすべてにおいて神の御心があるといいうことを信じ、その方の御業を待ち望みながら信仰によって生きるべきです。最後に、このすべての神の恵みはキリストにおいて(よって)成し遂げられたのです。だから、私たちは主の教会の一員としてキリストを私たちの人生の最優先として生きなければなりません。これからは、エフェソ書を学んでいきます。使徒パウロがあれほど大事にしていたキリストの体なる教会。私たちはその教会を成す兄弟姉妹として教会を大切にしながら生きる使命を持っています。今週もキリストにおいて前もってお定めになられた者、教会の一員として生きていくことを祈ります。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

信仰によって。

創世記49章29~33節 (旧91頁) ヘブライ人への手紙11章17~22節 (新415頁) 前置き 今日は、2020年から3年間続いてきた創世記の最後の説教です。まだ、48章、49章、50章が残っており、説教したい箇所が多いですが、今までと重なる内容を繰り返すことになると思い、大事な内容だけを取り上げて最後の説教をしたいと思います。ちなみに48章はヤコブの孫たちへの祝福、49章はヤコブの息子たちへの預言、そして50章はヤコブの葬儀とヤコブの息子たちの和解について描かれています。今日の説教は、その中で49章後尾にあるヤコブの最後の遺言について考えてみたいと思います。48、49、50章は読むだけで理解できる内容ですので、帰宅後に一読することをお勧めします。今日の説教のタイトルのように、創世記は罪によって遠ざかってしまった神と人間が、信仰によって再び結ばれる物語であります。今日は、創世記の大事な教えをもう一度振り返り、私たちの信仰生活において、適用できる教訓を考えてみたいと思います。 1. 信仰によって生きてきたヤコブの最期。 アブラハムの孫、イサクの息子、イスラエルという民族の名前の根源である人、ある意味で創世記の本当の主人公だとも言えるヤコブが、波乱万丈の人生を後にして神に召されました。ヤコブはアブラハム、イサク、ヤコブの3人の族長の中で、最も欲張りで、弱い信仰で、世俗的な人と評価される人物です。しかし、彼はアブラハムとイサク以上に、劇的な神の導きと守りの中で生きてきた人でした。若い頃の彼は、揺れやすい信仰で生きたのですが、それでも神は彼と常に共に歩んでくださり、彼が信仰の道を踏み外さないように導いてくださいました。そして、今日の新約本文は、彼の人生をこう評価しています。「信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。」(ヘブライ11:21) 私たちはこの言葉の「信仰によって」という表現に注目する必要があります。ヤコブは若い頃、神の御心ではなく、自分の意思に従って生きようとする人でした。彼は常に神のもとではなく、他のところを追い求める人でした。自分の利益のためには嘘もつき、欲張りで、算用高く、特定の妻と息子への偏愛で家族どうしの葛藤の元になる人でした。客観的に彼は信仰者として好ましくない生き方の人物だったのです。 しかし、彼の逝去後、長い時間が経ち、新約聖書は彼を「信仰によって」生きた人と評価しています。若い頃、信仰とは関係なく生きたヤコブが、神のお導きによって年を重ねつつ信仰の人物に成長していき、最終的には神のお許しによって信仰の先達として新約聖書に記されるようになったのです。私たちはそれを通じて、信仰というものの本質についてわかるようになります。信仰は信じる人によるものではなく、信仰をくださる方によるものであるということです。人が自らの立派な信仰によって信仰者として認められるわけではなく、神がご自分の恵みによって罪人を赦してくださり、信じる人と見なしてくださるから、信仰者として認められるというわけです。そういう意味で、私たちは自分の努力によってキリスト者になったわけではありません。父のお選び、キリストの御救い、聖霊のお導きによる信仰を通して、私たちは義とされ、キリスト者となったのです。私たちは今日も罪から自由ではない弱い存在です。しかし、主は常に私たちが信仰によって生きるように助けてくださいます。そして、私たちが主に召される日、主は私たちを「信仰によって生きた者」と呼ばれながら迎えてくださるでしょう。だから、今現在の自分の信仰の弱さのため、がっかりしないようにしましょう。自分の力で信仰生活をうまくいかせるわけではありません。主なる神が、私たちの信仰を導いてくださるのです。ヤコブは、その神の信仰のお導きによって信仰者と認められたのです。 2. 創世記が持つ真の意味。 「罪人に信仰への道が開かれた。」これが創世記が持つ最も大事な教えです。私たちは創世記という聖書について聞く時、「この世界がどのように創造されたのかを話す書だ。」と思うかもしれません。しかし、それは誤解です。創世記は、世界がどのように造られたのかを教える書ではありません。一部の無神論者たちは、聖書に現れる創造が、科学的に全く根拠のない嘘だと言います。「どうして世界が6日間に造られるだろうか、科学的にあり得ないことではないだろか。」と批判します。創世記が世界の創造についての書だと思うからです。しかし、それは創世記への完全に間違った理解の結果です。実際、創世記は創造に重点を置いた書ではありません。それなのになぜ創世記と呼ばれるのでしょうか? 創世記1章1節をヘブライ語で読むと「ベレシト(初めに)バラ(創造した)エロヒム(神が)」となります。「初めに神が創造された。」という意味です。創世記が創世記と呼ばれる理由は、この「ベレシト」にあります。古代中東の書籍(巻物)は別に題名がなく、第一行目の文章の最初の単語を題名として使う場合が多かったと言われます。たとえば、出エジプト記のヘブライ語のタイトルは「出」とか「エジプト」とか「記」とかではありません。「名前」がヘブライ語の出エジプト記のタイトルです。 「ヤコブと共に一家を挙げてエジプトへ下ったイスラエルの子らの名前は次のとおりである。」(出エジプト1:1) ヘブライ語の出エジプト記1章1節の一番最初に出てくる接続詞を除いて「名前」という意味の「シェモト」が文章の一番前に出てくるからです。出エジプト記というタイトルは、後、ギリシャの翻訳に付けられた題名です。また創世記の物語に戻って、つまり創世記は最初の文章のために名付けられたタイトルに過ぎません。創世記の真の主題は「信仰のない罪人たちが、信仰によって神に立ち返る。」なのです。主は創世記の登場人物、アブラハムとイサクとヤコブを通して、本格的に信仰の歴史を始められ、この3人が登場する理由を裏付けするために創造、堕落、人類についてお話になったのです。(1章から11章まで)だから、私たちは創世記を読む際に創造だけに重点を置いてはなりません。「世界を創造された神が、堕落によって汚された罪人を愛し、彼らに信仰を与え、彼らをご自分に引き戻されるために信仰の先祖であるアブラハムとその子孫イスラエルをお呼びになった。」に重点を置かなければなりません。したがって、創世記の最も重要なテーマは「信仰」なのです。私たちはできないことを神はお出来になるという信仰。私たちが信仰を作るのではなく、神が私たちに信仰をくださるという信仰。創世記は、まさにその信仰のために記された書なのです。 3. 信仰によって。 「ヤコブは息子たちに命じた。間もなくわたしは、先祖の列に加えられる。わたしをヘト人エフロンの畑にある洞穴に、先祖たちと共に葬ってほしい。」(創世記49:29) 今日の旧約本文は、それほど重要な言葉だとは感じられないかもしれません。ただ、ヤコブの遺言の中の一つに過ぎないと思われるかもしれません。しかし、「ヘト人エフロンの畑にある洞穴に、先祖たちと共に葬ってほしい。」という表現ほど、ヤコブの最後の信仰をよく表わす言葉はないと思います。若き日のヤコブは信仰と遠い人間でした。しかし、数多くの人生の喜怒哀楽の中で、ヤコブは神が養ってくださった信仰によって、真の信仰者に成長していきました。若い頃の彼は、自分自身の思いのままに生きようとする人でしたが、死を目の前にした今では、神の御心に従順に従い、神おひとりだけを崇める人となっていました。「ヘト人エフロンの畑にある洞穴(マクペラ)」とは、創世記23章でアブラハムが、ヘト人エフロンから銀400で買い取ったアブラハムの土地です。そして、そこは神がアブラハムの子孫に与えると約束された乳と密の流れる地カナンを意味する場所でした。ヤコブはその地を偲びつつ、死んでも神の約束の地に帰ろうとしたわけです。ヤコブは昔の自分の欲望に満ちた人生から完全に変わり、信仰によって神の約束を憶えながら死んでいったのです。もしかして、ヤコブにはエジプトで盛大な葬儀を行い、華やかな墓に葬られる選択肢もあったかもしれません。もし若い頃のヤコブだったら、そうしたかもしれません。しかし、最期のヤコブは、この世の栄ではなく、信仰によって神の約束を選んだのです。 結局のところ、創世記の長い話しは信仰についての物語なのです。創世記で一番比重の大きい人物であるヤコブは、この世の栄ではなく、神への信仰を選びました。創世記の1章から11章の間に登場した数多くの人類が神を背いて罪の道に沿って行ったのに、ヤコブはその道から脱し、神への信仰の道に沿って行ったのです。だからヤコブは「信仰によって」神の御前で自分の人生の最期を迎えたのです。このように創世記は信仰の書です。不信仰の中で信仰を選んだ偉大な信仰の先達の物語です。そして創世記は今日も私たちに不信仰と信仰の分かれ道を見せ、正しい選びを求めています。過去3年間の説教の内容が全て覚えられるわけではないと思います。説教をした私もすべて覚えることは無理です。しかし、これ一つだけははっきり覚えましょう。神は信仰によって生きる人をお呼びになるために信仰の書である創世記をくださいました。そして、私たちは創世記に登場した信仰の先達を継ぐ信仰者として神に召されたキリスト者なのです。確かに私たちの信仰は弱いです。しかし、神はいつも私たちの弱い信仰を大切に守ってくださり、私たちと一緒に歩いてくださいます。創世記を通じて学んだ神への信仰の物語を記憶し、弱いけれど、変わりない信仰を追求していく私たちであることを祈ります。 締め括り 「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。正しい者は信仰によって生きると書いてあるとおりです。」(ローマ1:17) キリスト教において、信仰とは、存在の前提条件であると言っても過言ではないと思います。信仰がなければ神の創造を信じることができず、信仰がなければ主イエスの救いを信じることもできず、信仰がなければ今も私と共にいて私を導いてくださる聖霊の御業を信じることもできず、信仰がなければ私たちの人生が神によって守られているということも信じられないでしょう。したがって、信仰はキリスト者の最も重要な価値の中で一つなのです。神が志免教会の兄弟姉妹に変わらない信仰を与えてくださることを祈ります。また、その信仰によって世に勝利して生きていく私たちであることを祈ります。正しい者は信仰によって生きます。今週も信仰によって生きていく私たちになることを祈ります。父と子と聖霊の名によって。 アーメン。

十字架がなければ、復活もない。

詩編126編1~6節 (旧971頁) ガラテヤの信徒への手紙2章19~20節 (新345頁) 前置き 復活なさった主イエス·キリストを讃美します。キリスト教は救い主イエスの復活を信じる宗教です。私たちは聖書に書いてあるとおり、神であるイエス·キリストが罪人を救ってくださるために、この地上に来られたことを信じます。また、罪によって苦しむ罪人に贖いの良い知らせ、すなわち福音を宣べ伝え、罪人の友になって癒してくださったことを信じます。私たちは、キリストが罪人の贖罪のために苦難を受けられ、十字架につけられ死んでくださった後、3日目に復活なさって罪人に救いの道を開いてくださったことを信じます。私たちはクリスマスを通して救い主イエスの人間としてのお生まれを記念し、またイースターを通して救い主イエスの死と復活を記念します。これらすべてはキリスト者の信仰において絶対に諦められない大事な価値であり、教えであります。今日はイースターを迎え、キリストの復活について話してみたいと思います。 1. 肉体の復活と霊の復活。 復活とは何でしょうか? ご存知のように、復活とは死者が再び生き返ることを意味します。ところで、この復活とは単純に生物学的に死んた肉体が生き返ることだけを意味するのでしょうか? 生物学的に肉体が生き返ることだけを復活だとすれば、もしかしたら、この世の中にはまだまともに復活した人がいないかもしれません。なぜなら、再び生き返った人は人類の歴史上、救い主イエスを除いて一人もいないからです。そうであれば、私たちはキリスト教の復活をどう理解すれば良いでしょうか。私たちはまず、肉体の復活と霊の復活という二つの概念から復活について考える必要があります。キリスト教が語る肉体の復活は、遠い未来に起こる終末の出来事と言えます。「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。」(第一コリント15:51-52) 使徒パウロは第一コリントを通して、この世の終わりに起こる復活について話しました。この世の造り主である神が終わりの日、ご自分の子イエス·キリストをこの地上に再び遣わされる時(再臨の日)、イエスを主と崇める者たちは、死から生き返ることになります。すでに朽ちたり、燃えりした肉体も神の不思議なお働きによって、完全できれいな姿に生き返るのです。 こういう肉体の復活はキリスト教の最も重要な教理の一つであるため、信仰を持った人なら、誰でも堅く信じる教えです。しかし、今すぐ私たちの周辺では、起こり得ないことですので、未信者たちに客観的に証明することができない復活でもあります。そういうわけで、私たちは霊の復活に目を注ぐ必要があります。聖書は霊の復活を「新たに生まれる」という表現で言う場合もあります。「イエスは答えて言われた。はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。イエスはお答えになった。はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(ヨハネ福音書3:3,5) ヨハネによる福音書で、イエスは新たに生まれることの特徴について、このように言われました。「第一、神の国を見ること、第二、水と聖霊とによって生まれること。」第一に「神の国を見る」の意味は何でしょうか? キリスト教が語る神の国は、死後の来世だけの意味ではありません。現世であれ来世であれ、神に治められるすべての場所がすなわち神の国なのです。ですから、神の国を見ることとは、神のご統治を待ち望むこと、神による信仰にあって生きることです。つまり、霊の復活を経験した人とは、何があっても神のご統治を待ち望み、また、そのように生きることを誓う信仰者のことを意味します。 第二、霊の復活を経験した人、すなわち新たに生まれた人は「水と霊とによって生まれた人」です。「水による」とはキリストの贖いによって清くなることを意味します。自分の罪に無感覚で世俗的だった人が、まるで水で洗われたかのようにキリストの贖いによって新たにされ、信仰の人生を追い求めるようになることです。それによって、自分だけのために生きてきた人が、他人に仕えるようになり、自分だけを愛した人が、神を愛するようになり、自分の欲望だけを追求した人が、神の御心に聴き従うようになること、聖書はそれを水によって生まれることと言うのです。では、「霊による」とはどういう意味でしょうか? 「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ福音書14:26) 人は自力で水によって清くなれないので、霊、つまり聖霊なる神が、人を助け導いてくださるという意味です。したがって「水と霊とによって生まれる。」とは、聖霊の導きによってキリストの贖罪を受け、清くなった信仰者のことを意味します。キリストの贖いによって新たになった信仰者が、すなわち神の国を見る人、水と霊とによって生まれた人、まさに霊の復活を経験した人なのです。 2. 十字架がなければ、復活もない。 さて、ここで一つ考えたいことがあります。肉体の復活は、遠い未来、キリストの再臨の時に起こる出来事であり、霊の復活は、キリストの贖いによって信仰者になることであるから、過去の霊の復活をすでに経験し、未来の肉体の復活をただ待つしかない私たちは、もうこれ以上、復活について何も考えずに生きても良いのでしょうか?ヨーロッパの宗教改革を触発したマーティン·ルーターは中世カトリック教会の改革を訴え、95ヵ条論題を掲げました。そして、その最初の条項は次のとおりです。「私たちの主であるイエス・キリストが、悔い改めよと言われたとき、彼は信仰者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである。」第一条のイエスが「悔い改めよ」という言葉で信仰者の全生涯が悔い改めであることを命じられたとありますが、その原型はマタイ福音書4章17節です。「イエスは、悔い改めよ。天の国は近づいた。と言って、宣べ伝え始められた。」「悔い改めよ。」という表現の原文はギリシャ語の現在形そして命令形の動詞です。文法的に能動的で反復的な行為を命令する時に使われる表現でもあります。つまり、一生悔い改めを繰り返して生きることを命令する文章なのです。ルーターはこの言葉を参考にして95ヶ条論題の最初の文章を書き始めたのです。このような能動的で反復的な悔い改めへの促しは、後日、改革教会の大事な合言葉として位置づけられ「改革された教会は常に改革されなければならない」という大事な教えを残しました。 つまり、キリスト者は、一度だけの悔い改めに満足してはならないという意味です。キリスト者は繰り返して自分のことを省み、悔い改め、信仰によって生きるべき存在です。それこそが、真の改革なのです。これは復活に対する私たちの姿勢にも同じく適用されます。「私はすでに信仰を持った人として霊の復活を経験した。そして肉体の復活は遠い未来のことなので待つしかない。だから、もうこれ以上復活について悩む必要はないだろう。」ではないのです。改革教会が常に改革されなければならないことと同じように、霊の復活を経験した信仰者である私たちも毎日霊的に新たに生まれ、復活の人生を生きていかなければならないということです。キリストにあって、毎日復活し、昨日の自分に対して死に、新たにされた自分となって生きていかなければならないということです。つまり、私たちは毎日死んで毎日復活するべき存在なのです。そのため、復活は今日もまた私たちに与えられる神からの信仰の課題なのです。昨日隣人を憎んだら、今日は隣人を愛するために復活しなければなりません。昨日嘘をついたら、今日は真実になるために復活しなければなりません。昨日不信仰だったら、今日は真の信仰であるために復活しなければなりません。私たちの毎日の生活が復活の連続でなければなりません。したがって、イースター(復活節)は毎年4月の、ある一日だけを意味するものではありません。私たちの全生涯が繰り返し復活するイースターであるのです。 使徒パウロは言いました。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」復活のためには死が前提となります。私たち、キリスト者は毎日昨日の自分に対して死に、今日の自分に対して生きる復活の人生を求めるべき存在です。したがって、聖書は私たちに自分の十字架を負うことを促します。十字架は死刑道具であり、キリストは十字架で死に、復活されました。私たちも、主のように毎日自分の十字架を負って罪に対して死ななければなりません。そしてキリストが復活されたように、信仰による新たな存在として復活しなければなりません。他人を憎む自分は死に、他人を愛する自分として復活しなければなりません。信じられない自分は死に、信じる自分として復活しなければなりません。私たちはキリストと共に十字架で死に、キリストと共に再び復活したキリスト者です。そしてキリストにあって復活した存在として毎日を生きていく存在でもあります。それが霊の復活を経験した者が求めるべき生き方ではないでしょうか。毎日死ぬというのは難しいことです。信仰によって、自分自身を徹底して制御することだからです。自分を制御することが、まさに私たちにおいての自分の十字架なのです。しかし、その十字架での死があってこそ、私たちの人生は真の復活の人生を生きることが出来るようになるのです。 締め括り 「涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」(詩編126:5-6) この言葉は私の大好きな詩篇の一つです。自分のことを十字架につけ、復活した存在として一日を始めるというのは非常につらいものです。しかし、涙で種をまく者は喜びで刈り入れるという言葉のように、つらい十字架を負う人は、まことの復活の者として神による喜びにあって生きるようになるでしょう。自分の昨日の悪い生き方を十字架につけ、信仰によって新たになった今日を生きる復活のある人生。それこそがキリスト者の進むべき、復活の道ではないでしょうか? 今日の説教はかなり神学的で比較的に難しい内容だったと思います。お久しぶりにお越しくださった方々には本当に申し訳ございませんでした。しかし、主なる神が、ここに集っておられる皆さまに聞く耳をくださることを祈ります。主イエスの復活を記念するイースターです。主の復活を喜ぶ一週間になることを祈ります。父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

主の十字架。

申命記21章22~23節 (旧314頁) ガラテヤの信徒への手紙3章10~13節 (新345頁) 前置き 今日はイエス·キリストの受難主日です。前回の説教で、私たちはキリストの苦難について学びました。それを通して私たちはイエスが苦難を受けなければならなかった理由について、そして私たちにとって主の苦難とは何かについて話しました。イエスの苦難は、罪によって神に呪われた罪人たちのために、罪のないイエスが代わりに受けてくださった贖いの苦難でした。主イエスがお受けになった苦難と死によって、罪人への神の呪いは解決され、イエスを信じる者たちはみな、苦難の代わりに希望を、死の代わりに命を得ることになりました。また、主の苦難は十字架の上で受けた肉体的な痛みだけを意味するものではありませんでした。神であるキリストがしもべの姿、すなわち人の子の姿となって来られたこと自体が苦難の始まりでした。このすべてのキリストの苦難は、ご自分の命を神への献げ物としてささげ、罪によって汚されたご自分の民を罪から救い、父なる神と和解させるための崇高な苦難でした。そういう意味として、イエスの苦難は罪人である私たちが受けるべき苦難だったのです。主の苦難を憶える時、私たちはそれを絶対に憶えなければなりません。今日は、その苦難の極みである十字架の出来事について話してみましょう。 1. 旧約の木と新約の十字架。 すでにご存知であると思いますが、十字架はローマ時代の刑罰道具です。イエスは弟子たちと一緒に最後の晩餐をとられ、オリーブ山に行かれ、そこでイスカリオテのユダの裏切りによって、ローマの兵隊たちに逮捕されました。以後、主はユダヤの宗教指導者たちとヘロデ、そしてローマの総督であったポンテオ・ピラトに次々と尋問され、苦難を受けられた後、この十字架で壮絶に亡くなられました。前回の説教で学んだように、神であるイエスがしもべの姿で来られたのが苦難の始まりだったと言えば、この十字架で血を流して亡くなられたのは、その苦難の極みであり、完成だったのです。ところで、イエスの時代のローマでは、すべての囚人が十字架刑にされたわけではありませんでした。十字架刑はローマ帝国にとって最も危険な政治犯が受けるべき、恥と残酷の死刑だったのです。つまり、ローマ帝国の滅びを企んだり、反逆を図ったりした者たちにくだされる死刑だったわけです。そういう意味として、イエスはまったく政治犯ではありませんでした。罪人への真の悔い改めと神との和解の福音を宣べ伝えられただけです。しかし、ユダヤの指導者たちは霊的なユダヤ人の王として来られたイエスを誤解し、中傷して、ユダヤ人の王という表現を政治的に歪めて、罪のない主イエスを最も残酷な十字架刑に処したのです。まるで大罪を犯した凶悪犯であるかのように十字架で殺されました。ところで、なぜ主イエスは政治犯でもないのに、十字架で死ななければならなかったでしょうか? 私たちはその理由を新約聖書ガラテヤ書を通して知ることができます。 「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。木にかけられた者は皆呪われていると書いてあるからです。」(ガラテヤ3:13) ガラテヤ書は律法と福音の関係について説明した使徒パウロの大事な手紙です。律法と十字架の関係については後で話すことにして、ここでは「木にかけられる」という表現について考えてみましょう。旧約の律法には、神の御裁きの一つとして、自分の罪によって死刑にされた罪人を木にかけろとの命令がありました。木にかけられた者は、神に呪われた者であり、神の民から排除された惨めな存在でした。これについては、今日の旧約本文にも記されています。「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、 死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた者は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない。」(申命記21:22-23)つまり、旧約の「木にかける」という神の裁きが、新約にあって目に見えるように実現されたのが、まさにこの十字架の出来事だったということです。もちろん、十字架刑はローマ時代の死刑制度でしたが、ある意味で「木にかける」という律法の命令とも重なっているということです。これによって、ユダヤ人は木にかけられたイエスを神に呪われた者、神の民から排除された者と認識したはずです。つまり、イエスの十字架の出来事は、イエスが神に完全に御捨てられたことを律法的に示す出来事になったのです。 2. 律法は束縛を、十字架は自由を。 しかし、それはイエスの罪のために起こった出来事ではありませんでした。イエスはご自分の罪によって木にかけられたわけではないからです。かえって、イエスは何の罪もない方であり、しかも神ご自身であります。それなのに、なぜ主は木にかけられて悲惨に死ななければならなかったのでしょうか? それは神であるイエスが、呪いを受けるべき誰かのために、父なる神の呪いを代わりにお受けになって死に、復活して、ご自分の功績によって、その呪いを断ち切ってくださるためでした。イエスの時代のユダヤ人たちは、「自力で律法の要求を完全に果たして神の祝福(救い)に至る」という思想を持っていたようです。何度もお話しましたが、ユダヤ人の律法には、すべて613種類の数多くの掟がありました。そして、そのすべての掟を完全に行い保つ時、律法は完璧に守られるものでした。しかし、そのうちの一つでも守り保つことが出来なかったら、律法全体を完璧に守ったとは言えなかったのです。つまり、不完全な存在である人間が自力で律法を守り、神に認められ、救われるということは、まったくあり得ないという意味です。そのため、自分の力で神に認められる救いを得ることが出来ない人間は、何をしても呪いから自由になることが出来ません。しかし、イエスは正しい方で神ご自身であるゆえに、律法の要求をすべて果たすことが出来る方です。とういうわけで、律法を完成されたイエスがご自分の命をかけて、民の呪いを償い、ご自分の完全さによって民の救いを守り保たせてくださるのです。 だから、イエスを信じる者たちはみな、「イエスの功績によって律法を完成した者」と神に見なされ、認められるのです。私たちはこれを救いと言うのです。そのような意味として、旧約の律法は、どうしても罪人が罪から自由になれないことを明らかに示す束縛の道具なのです。誰も律法の行いを完全に守り保つことができないからです。しかし、罪のない完全な主イエスは罪人を罪に定める律法の束縛から自由な方です。主ご自身が律法を造られた方であり、律法の上にいらっしゃる正しい方であるからです。十字架は、律法を完全に成し遂げられたイエスが、律法の束縛を断ち切られたのを示す、主イエスの祝福の象徴なのです。イエスは、罪人の代わりに神の呪いを受けて木にかけられてしまったのですが、それによってすべての呪いの対価を支払ってくださったのです。そのため、イエス·キリストを主と信じる者はみな、呪いから自由な主の子供として生まれ変わったのです。明らかに新約聖書の十字架と旧約聖書の木は呪いの象徴です。しかし、呪いを圧倒する主なる神の恵みはキリストの贖いの血によって、呪いの十字架という木から呪いを消し去り、その代わりに祝福を入れ替えてくれました。そういうわけで、主の十字架は呪いが過ぎ去ったのを象徴する救いの道具となりました。誰でも、十字架で成し遂げられたキリストの贖いを信じるなら、呪いから自由になり、主の御救いに入ることができるのです。これによってイエスの十字架は、主の救いによる自由と救いを象徴するものとなったのです。 3. 十字架そのものではなく、十字架の出来事を憶えましょう。 ここで、一つ注意しなければならないことがあります。それは十字架そのものは聖なるものではないということです。ひと時、ハリウッドのホラー映画の中にドラキュラが登場する映画が多かったです。映画を観るとドラキュラには弱点がありましたが、日差し、銀、聖水、ニンニク、十字架などでした。このような映画の影響のためか、キリスト者でない人々においては、十字架に不思議な聖なる力が宿っていると誤解する場合が多いと思います。しかし、それは映画的な楽しみのために作られた現代人の想像に過ぎません。十字架そのものには何の力もありません。というわけで、宗教改革期のプロテスタント教会では、会堂に十字架もつけないケースが多かったと言われます。十字架をもう一つの偶像にする恐れがあったからです。実際にローマ帝国の処刑道具として使われる前、古代フェニキアやバビロン、エジプトなどでは、この十字架が、異邦の神々を象徴する偶像崇拝の道具として使われていたとも言われます。また、このような道具が時間の経過とともにカルタゴやペルシアなどで処刑道具として使われ(おそらく、神々の呪いとして)、その後ローマ帝国にも導入されたと言われます。そのため、信仰が弱い人々は、いつでも十字架を神やイエスの化身と誤解して偶像のように受け入れる可能性があるということです。 ですので、私たちは先ほど語り合ったように、十字架の意味を正しく知り、使わなければなりません。十字架そのものではなく、十字架での主イエスの贖いの出来事を、より一層大切に憶えるべきです。十字架を眺める時、キリスト教の聖なる象徴と思うより、私たちのためのキリストの苦難と恥の証拠と思うべきです。何のためにキリストが、この十字架の上で苦しめられたのかをよく考えましょう。そして、自分にとって十字架とは何かについて顧みましょう。使徒パウロはこう言いました。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラディア2:19-20) 十字架を憶える時、私たちは十字架にて成し遂げられたキリストの救いと共に、今後私たち自身が十字架にあってどう生きるべきなのかを悩まなければなりません。主イエスがご自分の民の救いのために、自ら命をささげて救ってくださったように、今や私たちは救い主イエスの栄光のために、私たち自身の十字架を負って生きていかなければなりません。私たちはキリストの十字架にあって、私たちのために身を献げられた神の子に対する信仰によって生きて行かなければなりません。そのような十字架の意味を心に留めて生きていきたいと思います。 締め括り 今日は、主の十字架について考えてみました。志免教会に赴任してから、5回目のレントを過ごしていますが、そのたびに十字架について説教をしてきました。しかし、振り返ってみると、いつ聞いても新しく感じられるのが、この十字架の話しではないかと思います。十字架は私たちの代わりに主イエスが苦難を受けてくださった愛の証拠です。十字架は私たちが受けるべき呪いを主イエスが断ち切ってくださった自由の証拠です。十字架は私たちの命のために、ご自分の命を捨てられた主イエスの犠牲の証拠です。十字架は私たちを救ってくださったキリストのために、私たちも主に自分を捧げる献身の証拠です。そのような十字架の意味を憶え、今週を過ごしていきたいと思います。十字架の主が志免教会の上に豊かな恵みを与えてくださいますように。 父と子と聖霊の名によって。アーメン。

主イエスの苦難

イザヤ書53章3~6節 (旧1149頁) ヨハネによる福音書12章23~26節 (新192頁) 前置き 今日は2023年度の四旬節第5週間目の主日です。先週は四旬節の意味について、そして、それにかかわる灰の水曜日、四旬節の日数の意味などについても学びました。今日は私たちが四旬節を通して記念しなければならない、主の苦難について考えてみたいと思います。今日は主の苦難の意味について、そして来週は主の苦難のハイライトである十字架について話したいと思います。なぜ、完全な方であるイエスは苦難をお受けになることになったでしょうか? そして、キリスト者にとって、主の苦難はどういう意味を持つでしょうか? 一緒に考えてみましょう。 1. なぜメシアは苦難のしもべと呼ばれるのか? 旧約のイザヤ書には、4つの「しもべの歌」が記されています。(42:1-9、49:1-7、50:4-9、52:13-53:12)「しもべの歌」には将来、神のしもべ、すなわちメシアが来て行う務めについて、書いてあります。すでに新約を知っている私たちは、このしもべの歌が、メシア、イエスキリストについての預言であることを知っていますが、その昔、キリスト以前の人々は、この神のしもべが誰なのか分からなかったのです。そういうわけで、漠然と誰かが神の偉大なメシアとして来るだろうと推測するだけでした。ところで、人々はこのしもべの歌から、とうてい理解できない点を 1 つ見つけました。それは神のしもべ、メシアが苦難を受けるということでした。メシアとはヘブライ語の「油注がれた者」という意味です。旧約のイスラエルでは「王、祭司、預言者」が油に注がれて任命されましたが、油注がれた者は、この地上で神の手と足のように主の民に仕え導くリーダーのような存在でした。そのため、人々は油注がれた者、つまりメシアを尊敬し、栄光の存在として認識していたのです。それなのに、イザヤ書の神のしもべ、メシアが苦難を受けるようになるなんて、メシアを栄光の存在と認識してきたイスラエル人は大きな衝撃を受けたに間違いないでしょう。「栄光の存在は苦難の存在だ。」という逆説が「しもべの歌」に現れていたからです。 なぜ、栄光を受けてしかるべき存在が苦難を受けなければならないのでしょうか? その理由は律法の贖いの方式のためです。旧約、イスラエルの民は、神殿にて、傷のない獣を贖罪の献げ物とすることで赦されました。民の罪を傷のない獣に渡し、民の代わりに獣を屠ることで、民の罪 民の罪が償われたと見なしたわけです。ここで大事なのが「傷のない」という表現です。すべての獣が、民の贖いのための献げ物として捧げされるわけではありません。傷のないきれいな獣だけが献げ物になれるのです。ところで、神はいつも繰り返される獣によるいけにえの代わりに、一人の主の聖別されたしもべを犠牲にして、ただ一度で罪を取り去る方法を計画されました。(ヘブライ9:26) したがって、ただ一度の贖いのための存在、すなわち神のしもべメシアは、傷のない獣のように、罪から自由な存在でなければなりません。旧約のいけにえのように、主のしもべは、罪なく完全で光栄の存在でなければなりません。なぜなら、この栄光の存在を犠牲にして罪に満ちた民を贖うからです。イザヤ書の「しもべの歌」に登場する神のしもべメシアはそのような存在です。いかなる罪もない、誰よりも光栄で欠点のない存在ですが、神はその栄光のしもべを、ご自分の民への唯一無二の真の贖罪のために、献げ物として苦難の中に投げ入れられたのです。 神のしもべとして来られたイエスは、罪も傷もない完全な栄光のメシアです。しかし、そのような理由で、イエスは苦難を受けるしもべになりました。イエスは罪人の命のために十字架で死に、罪人の赦しのために呪いを受け、罪人の喜びのために悲しみを受けました。イザヤ書の「しもべの歌」は、このような逆説を示しています。今日の旧約本文も「しもべの歌」の一部ですが、読んでみましょう。 「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53:5) 救いのためには「代わり」という言葉が前提とならなければなりません。主は私の代わりに罰せられ、私の代わりに苦難を受け、私の代わりに呪いを受け、私の代わりに死を経験されました。それらによって、私は主の代わりに平和を得、主の代わりに祝福を受け、主の代わりに命をもらい、主の代わりに光の中にいるようになったのです。主イエスの苦難は私たちの苦難に代わるものです。私たちが受けるべき苦難を代わりに受けてくださった主がいらっしゃるから、私たちは主の代わりに栄光を受けることになったのです。聖書が語る救いには償いが必要なのです。私たちが死を恐れず、生きることが出来る理由も、栄光の主イエスが私たちの代わりに苦難を受け、私たちの救いを固く約束したためです。苦難のしもべイエスは私たちの苦難を代わりに担当してくださるために来られた方です。 そして、私たちはその苦難のしもべイエスによって、主の栄光の中で救われた存在なのです。 2. 一粒の麦のような神のしもべ 「イエスはこうお答えになった。人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:23-24) 今日の新約本文で、イエスはご自身の苦難と死について「栄光を受ける」と言われました。メシアであるイエスご自身が、ご自分の苦難を栄光の行為として認識しておられたということです。 罪に汚された民を救うためのイエスの苦難は、昔から神によって定められた救いの手立てでした。イエスが神に服従してその救いを成し遂げられる時、すなわちイエスが苦難の中で死んで、ご自分の民をお救いになった時、はじめて神のご計画は成就されるからです。イエスは神の計画が成し遂げられること自体が、すなわちご自分の栄光であることを知っておられたでしょう。主イエスの苦難と栄光は、まるでコインの両面のようなものです。世の中の価値観では到底理解できない逆説的な神秘です。死から命を生み出し、苦難から栄光を造り、みすぼらしさから貴さをもたらされる神の逆説的な神秘なのです。したがって、私たちはこの四旬節の期間、主の苦難を憶える時、神の栄光と私たちの栄光のために、苦難をご自分の栄光となさったキリストの崇高なお志を記念しなければならないでしょう。一粒の麦の死のようなキリストの苦難と死は、主を信じるキリスト者という数多くのもう一つの麦を生みだし、神に栄光を帰しました。そして、それはまた主イエスの栄光となったのです。 3. 主の苦難を憶えつつ。 ところで、主の苦難とは具体的にどういう意味なのでしょうか? 十字架にかけられる時の痛みのことなのでしょうか? 数多くのユダヤ人の指導者たちに受けた迫害のことなのでしょうか?枕する所もないほど、貧しかった主の生涯のことなのでしょうか? 寒い冬の飼い葉桶に生まれたことなのでしょうか? 多くの人々が、主イエスの苦難を「十字架刑」や「人々からの迫害」のような肉体的なことだと考える傾向があると思います。しかし、主の苦難は、ただ地上での肉体的な苦難だけを意味するものではありません。最も大きな苦難は、主が「しもべ」になったということです。私たちはイエス·キリストが「御子」であることを知っています。神は御父、御子、聖霊の三位一体ですが、その中の御子の位格が肉となってこられた方が、イエス・キリストです。つまり、イエスは御子なる神です。キリスト教の大事な信仰告白であるニケア・コンスタンチノープル信条には、こういう表現があります。「造られることなく生まれ、父と一体」ここで「生まれ」という言葉は、漢字語では出生を意味しますが、原文では、その意味は違います。それは「御子は御父から派生(この表現も不十分だと思いますが)した。」というふうの意味で、御子が被造物ではなく父と同等の神としての存在であるという表現です。つまり、御父と御子は同一本質の同等な神です。ところが、そのような神である御子が自らしもべになられたわけです。ここから御子の苦難は始まったのです。永遠で無限の存在である子なる神が、自ら制限と有限の世界に、人となって行かれたということです。 単に、「十字架の処刑が痛くて苦しかった。」あるいは、「地上での生涯が貧乏だった。」などのレベルではありません。それを主の苦難だと考えてはなりません。神が人となって、この世に来られるそのものが、主の苦難の始まりだったのです。主イエスは私と皆さんのどうしようもない罪を赦し、救ってくださるために自ら神の特権を捨てられるほど、罪人を愛されたのです。そして無限の存在が、有限の中に入ってこられたのです。したがって、人間の視座から主の苦難を理解してはなりません。私と皆さんのためにイエスはすべてを捨てて、この死の世界に来られたわけです。そして、死によってご自分のすべてを捧げられました。もちろん、父なる神がイエスを復活させ、再び永遠と無限の主として格上げさせてくださいましたが、私たちの救いのためにすべてを捨てられたキリストの救いは永遠に記念するべき御業なのでしょう。主の苦難はただの感動的な愛の物語ではありません。子なる神がご自分の実存をひっくり返された凄絶な霊的な戦いだったのです。そのため、神学ではイエスの苦難と救いの出来事を、特別恩寵と呼んでいるのです。絶対に忘れないようにしましょう。主は私たちを救うためにご自分のすべてを捨てて苦難の真ん中に入っていかれた方です。そしてご自分のすべてを捨てられる苦難によって、私たちを救ってくださったのです。 締め括り ひょっとしたら、私たちは主の苦難を、あまりにも軽んじて話しているかもしれません。毎年、四旬節になると主の苦難を感謝し、讃美しますが、私たちは主の苦難をどれくらいに理解しているでしょうか。もちろん、人間である私たちが主の苦難を理解するなんてとんでもないかもしれませんが、少なくとも主の苦難をもっと知りたいとの熱情は必要なのでしょう。自分の苦難、自分の痛みは大きく考えながらも、主の苦難についてはあんまり興味がなければ困るでしょう。主の苦難がなかったら、私たちの救いもありません。私たちは主の苦難を憶える時、いつも真剣に考えるべきです。そのように、残りの四旬節を過ごしたいと思います。父と子と聖霊の名によって。 アーメン。

レントについて。

ヨブ記42章1~6節 (旧832頁) マタイによる福音書6章16~18節 (新10頁) 前置き 今週は、レントの4週間目です。私たちは毎年レントの期間を過ごしつつ、週報でレント何週間目という表現をよく目にします。しかし、私たちはレントの真の意味について、どれほど知っているでしょうか? もしかしたら、レントという言葉にどういう意味が含まれているのかも分からずに使っているかもしれません。しかし、昔の教会はレントの期間を通してイエス·キリストの苦難と復活を黙想し、祈り、断食し、記念したと言われます。今日は、果たしてレントとは何か、現代を生きる私たちは、この期間をどう過ごすべきかについて考えてみたいと思います。 1.レントの由来と意味 毎年、春になると、私たちはレントという名の四旬節の期間を過ごすことになります。四旬節は漢字語で40日という意味で、イエス·キリストの復活を記念するイースター前の40日間を意味します。それでは、レントとはどういう意味でしょうか? 私は、この四旬節を意味するレントという表現を日本に来て初めて使うようになりました。本国では四旬節と呼んでいたからです。そこで、四旬節の原文を探ってみたら、ギリシャ語では「テサラコステ」、ラテン語では「クアドラゲシマ」でした。いずれも40日という意味です。どこにも「レント」と「40日」の関わりが見つかりませんでした。それで、インターネットを検索してみたら、この表現の由来が古代アングロサクソン語の春を意味する「レンテン」から来たことがわかりました。なぜ、突然アングロサクソン語が登場するのでしょうか? 初代教会時代、キリスト教は迫害を乗り越え、ローマ帝国の国教として認められ、非常に大きな影響力を持つようになりました。その時期、ヨーロッパの辺境には依然として数多くの迷信とシャーマニズムが存在していました。しかし、その地域の異教徒が徐々にキリスト教信仰を受け入れ、これまで行ってきた迷信とシャーマニズムの祭りにキリスト教的な意味を与えるようになりました。わたし個人の推測ですが、おそらくこのようなローマ帝国の辺境の異教徒たちの改宗によって迷信とシャーマニズムの祭りがキリスト教的に変わっていき、キリスト教の四旬節の期間に、辺境部族の春の祭りの名称「レンテン」に由来するレントが名付けられたのではないかと思います。 ローマ帝国当時、辺境の言葉だったアングロサクソン語が使われる可能性は、これが唯一だからです。これは私の仮説ですので、定説だとは言い切れません。しかし、キリスト教の他の記念日の場合、こういう経緯によって名付けられたことが多いですので、ある程度の可能性はあると思います。先ほど、レントは春を意味する古代アングロサクソン語のレンテンに由来したとお話しました。イエス·キリストの死は、主を信じるすべての者に真の命を与える、冬が来る前に命の種を蒔くことのような聖なる出来事でした。ひょっとしたら、四旬節にレントという名称を与えた昔の教会の人々は、イエス·キリストの復活から真の命の春を見つけたわけではないでしょうか。しかし、私たちは意味の分かりにくい、この「レント」という表現に伝統という名目でこだわる必要はありません。四旬節という漢字語で呼んでもいいし、テサラコステやクアドラゲシマのような古代語で呼んでもいいです。もちろんレントという名称も構いません。しかし、最も重要なことは、主イエス·キリストが私たちの真の救いと命のために、苦難を受けられたこと、私たちの代わりに死んでくださったこと、そして復活によって死の権能に勝利されたこと、これらを憶えることです。名称が何であっても構いません。大事なのは名称でなく、その意味だからです。 2.なぜ40日なのか? そして灰の水曜日とは。 ところで、レントの期間は、なぜ40日なのでしょうか? 正確に言えば、レントは、イースターから7週間前の水曜日、いわゆる灰の水曜日から、6つの日曜日の日数を抜いた、イースターの直前の土曜日までの期間を意味します。(画像参照) 例えば、2023年のレントは2月22日の灰の水曜日に始まり、2月26日、3月5日、12日、19日、26日、4月2日の6つの主日を抜いた、4月8日までの40日間を意味するのです。ですので、正確に言えば、日曜日を含めたレントの期間は46日となります。なぜ、レント期間を40日として守ったのかについては、様々な仮説がありますが、「聖書に現れる40という数字に深い意味があるから」という説が有力だと思います。「ノアの洪水の時、40昼夜雨が降ったこと(創世記6:5-7)」「出エジプトの時代、イスラエルが荒野で40年間生活したこと(申命記29:4)」「モーセが神に十戒をいただくとき40昼夜断食したこと(申命記9:18)」「予言者エリヤが神の山に行くために40昼夜を過ごしたこと(列王期上19:7-8)」「イエスが公生涯を始められる前に40昼夜試練をお受けになったたこと」(マタイ4:1-11)「イエスが昇天される前に40日間地上におられたこと。(使徒言行録1:3)」など。すなわち40日という日数は断食と悔い改め、贖罪によって、自分の罪を顧み、神の御前に進んでいくための清めの時間という意味が強かったためです。とういうことで、レントの期間も40日になったと思います。 それでは、レントの初日である「灰の水曜日」には、どんな意味がありますでしょうか? 灰は非常に古い象徴です。今日の旧約本文を読んでみましょう。「わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」(ヨブ記42:6)学者たちはヨブ記の時代が、アブラハムの時代と近いと推測しています。創世記を読むとイスラエル民族が打ち立てられる前にも、神を崇める存在はいましたので、可能性がないとは言えないでしょう。つまり、イスラエルが成立する前から、灰は悔い改めと反省の象徴を持っていたようです。創世記には神が塵で人間を創造されたと記してあります。(創2:7) エデンの園から追い出された最初の人間たちは、神に「塵にすぎないお前は塵に返る。」(創世記3:19)と言われました。ヘブライ語の塵は、時には灰と翻訳される場合もあります。つまり、灰には「私は塵のようになにものでもない」という意味が含まれています。聖書全体的に灰は罪人たちが神の赦しを求める時、自分の罪を悲しむ時に使われる表現でした。古代の教会は額に灰を塗り、悔い改めの祈りによって、四旬節を始めたと言われます。灰を塗って悔い改めつつ、四旬節を始める水曜日という意味として灰の水曜日と呼ばれはじめたわけです。 したがって、初代教会の信仰者たちは、この灰を自分の額に塗る象徴的な行為を通して、40日というレントの間、神の御前で悔い改めと断食をしつつ、自分の罪を顧みようとしたのです。現代のプロテスタント教会では、灰を額に塗る行為はほとんどしていないと思います。象徴的な行為(外面の象徴)より、実質的な悔い改めと生き方の革新(内面の変化)がさらに大事だと思うからです。今年のレントの間、私は普段とそんなに変わりなく過ごしています。涙を流して悔い改めたり、祈りの時間を増やしたり、断食をしたりしてはいません。いつものどおりに生活しています。レントだから悔い改めを増やし、レントじゃないから悔い改めを減らすということではないからです。私たちはレントだけでなく、常にキリストの苦難と死と復活、そして私たちが罪人であることを憶え、主にあって生きていかなければならないからです。ある意味で、レントのような記念日がなくても問題ないかもしれません。もちろん伝統を無視してもいいという意味ではありません。伝統は尊重するものの、その時だけでなく、私たちの毎日が、主のご誕生を記念するクリスマスであり、主の受難を憶えるレントであり、主の復活をほめたたえるイースターのような日であることを心にして生きるのが望ましくないでしょうか。特定の記念日を守るというより、毎日、主の御業を憶えつつ生きること。それが四旬節の真の精神ではないかと思います。 3.レントを過ごしながら プロテスタント教会の歴史の中に、1522年、スイスのチューリッヒで起こった「ソーセージ事件」という面白い名称の出来事がありました。中世カトリック教会には、数多くの宗教的な慣行があったと言われますが、その中、聖書の教えとは関係ない強制的な断食、免罪符などの宗教儀式が多かったと言われます。中にはレントの期間に肉食禁止という聖書に基づいていない制限もありました。(現代カトリック教会はだいぶ改革していると言われました。)ところで、チューリッヒの印刷業者のフローシャウアーと何人かは、レントの慣行である肉食禁止は聖書に基づいた慣行ではないと批判し、食事の時、小さいお肉一枚とソーセージ2個を食べました。(レントにも肉食したいという意味ではなく、聖書による根拠のない慣行に反抗するという意味として。)これが問題となり、彼らは大罪を犯したと教会の糾弾を受けることになりました。その時、彼らを弁護した宗教改革者が、あの有名な「ツヴィングリ」でした。ツヴィングリは主の教会は虚礼虚飾の慣行から脱し、ひとえに主の御言葉に基づいて生きなければならないという説教をしつづけました。教会は反発しましたが、宗教改革を支持する民衆は大声で歓呼しました。この面白い名称の出来事を皮切りとして、チューリッヒでは宗教改革の炎が燃え上がるようになり、最終的にスイスはプロテスタントの盛んな国になったのです。私はレントの期間を、このような心で過ごしたいと思います。断食のような宗教的な行為も良いですが、さらに聖書が語る主の苦難、死、復活、愛を憶える期間であることを願います。 締め括り 最後に、今日の新約本文を読んで説教を終わりたいと思います。「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(マタイ6:16-18)レントの期間に、主が望んでおられるのは、他人に長い断食や立派な祈りのような行為を見せるのではなく、ひたすら主なる神だけに自分の信仰と愛を表すことだと思います。レントを通して、信仰の虚礼を捨て、謙虚に苦難の主だけを黙想し、記念する志免教会であることを祈ります。レントだからではなく、毎日がレントのような人生でありますように。父と子と聖霊の名によってアーメン。

最後の晩餐

出エジプト記24章3~8節 (旧134頁) マルコによる福音書14章12~26節 (新91頁) 前置き イタリアのミラノに「サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ(意味は聖マリアの恩寵)天主堂」というカトリック教会があります。そこの壁面には、あの有名なレオナルド·ダ·ヴィンチの作品「最後の晩餐」が描いてあります。今日の週報にも掲載した絵です。おそらく、この絵を知らない方はおられないと思います。今日の本文では、このイエスと12人の弟子の最後の晩餐が描かれます。今日の本文を通して、主が弟子たちにお与えになった晩餐、すなわち聖晩餐について話し、いくつかの教訓を学びたいと思います。少しずつ、マルコによる福音書に現れる主イエスの十字架での出来事が近づいています。そして、まもなく受難週が始まり、私たちは復活節の礼拝を迎えることになります。今日から復活節まで、主の受難と死と復活を記念し、黙想する時間になることを願います。 1.聖餐 – 主が与えてくださった晩餐。 聖餐はプロテスタント教会を表す二つの聖礼典の中の一つです。(ちなみにカトリックは7つ)一つは洗礼、もう一つは聖餐です。しかし、私たちは割と洗礼より聖餐のほうを軽んじているかもしれません。若い頃からの月一度の聖餐式に慣れており、その大事さを忘れがちだからです。しかし、聖餐にはとても深い意味が含まれています。果たして聖餐は私たちの信仰において、どんな意味を持っているのでしょうか? 今日の本文からも分かるように、もともと最後の晩餐は、主の死を記念する特別な食事ではありませんでした。ユダヤ人の祭りである過越祭と除酵祭の慣習的な食事だったからです。元旦やお盆に家族が集まってする食事が誰かを記念する儀式ではなく、家族同士の楽しい時間であることと似ているでしょう。このように古い仕来りである過越祭の食事が、弟子たちにとって主の死を記念する壮絶な食事までではかなかったはずです。「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに『過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか』と言った。」(12)つまり、イエスがこの食事に意味を与えられるまでは、最後の晩餐は最後の晩餐ではなかったということです。ただ毎年行われる慣習的な祝日の食事だったでしょう。しかし、主がこの食事にみ言葉を与えられた時、慣習的な祝日の食事は、この世で最も特別な食事、聖晩餐になりました。 「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」(22-24) 昔の出エジプト時代、神はイスラエルをエジプトから脱出させるために、エジプト全土に10の災いを下されました。そして最後の災いとして死の天使を遣わされます。その時、主はイスラエルを死から守ってくださるために子羊を屠り、その肉を食べ、その血を家の入口に塗るように命じられました。イスラエルの民はその言葉に従い、死の天使の過越しを待ちながら、子羊の肉を食べ、その血は入口に塗りました。以後、その行為は過越祭の大事な仕来りとなり、夕食のかたちになりました。おそらく、今日の本文の晩餐は、このような過越祭を記念する食事だったと思われます。ところが、そんな食事の席で主は不思議なことを言われます。「このパンを取りなさい。これは私の体だ。 この杯を飲みなさい、これは私の血、すなわち契約の血だ。」過越祭の食事は、大昔の出エジプトを記念して飲み食いする慣習的な食事であるだけなのに、主はまるでご自身が子羊にでもなったかのようにパンと葡萄酒に意味を与えられたわけです。 ここで、私たちは最後の晩餐の意味について、思わされるようになります。出エジプトを目の前にしたイスラエルの民を神の死の裁きから救うためにいけにえとされた子羊。イスラエルはその羊の肉を食べ、その羊の血を入口に塗って、主の裁きから救われました。子羊は神のご計画に従い、自分のすべてを惜しみなく捧げ、イスラエルの民を神の裁きから守ったのです。その子羊の肉は神の民だけに許された食物であり、その血は神の民だけを救う、神との契約の血でした。最後の晩餐でイエスがパンと杯とをあずからせてくださったのは、そして、そのパンと杯の意味について教えてくださったは、そのパンによって、パンを取った者たちが神の民であることを、その杯によって、杯を飲んだ者たちが神の死の裁きから救われる契約の血の下にあることを思い起させるためでした。つまり、イエスはご自身がその過越祭の子羊のような存在であり、ご自分のすべてを捧げ、晩餐に参加した主の弟子(民)たちを救われることを教えてくださったわけです。したがって、過越祭の最後の晩餐は、その昔の過越祭の子羊のように、主イエスがご自分のすべてを与えてくださるという契約と救いの場だったのです。そして、聖餐は主がご自分の民に与えてくださる救いと契約の最後の晩餐の再現なのです。 2.主の救いと契約にいなさい。 「彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。」(出24:5)「モーセは血を取り、民に振りかけて言った。見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」(出24:8)いけにえの肉と血への言及は、出エジプト記24章にも現れます。旧約において、神に捧げられた献げ物は、神だけのものとされ、その肉を完全に焼き尽くすかたちで、人が食べてはならないものでした。ところが、唯一、和解の献げ物だけは捧げた者が、祭司からその肉を分けてもらい、食べても良いものでした。5節には、和解の献げ物について書いてありますが、これが和解のいけにえとなった主の体、つまり聖晩餐のパンの根拠ではないかと思います。そして、8節の契約の血は、主の血、つまり主が与えてくださった杯の根拠ではないかと思います。そのため、聖餐は旧約のいけにえの献げ物と深い関係を結んでいると思います。最後の晩餐が単なる仕来りによる食事ではない理由は、まさにこの旧約の律法と関係を持っているからです。この晩餐を通して、主イエスは、ご自分の民を罪から救われるための旧約のいけにえの席に自分自身を置かれたからです。それについて、新約のヘブライ書は次のように述べています。「キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブライ9:11-12) したがって、最後の晩餐は主が、ご自分で計画なさった真の律法の行為であり、しかも繰り返して行わなければならない昔の律法の行為そのままではなく、完全な大祭司であり、完全な贖いの献げ物であるキリストが、ご自身を捧げられた新しい律法の行為なのでした。そして、その新しい律法の行為は、今やキリストの福音という新しい約束の中に成し遂げられ、私たちに与えられているのです。ですから、私たちの聖餐は、昔の律法の献げ物にある真の意味を現す行為であり、さらに新しい福音の中で成し遂げられた、主の救いを現す私たちの福音の行為なのです。私たちは聖餐を行うたびに、パンを通して今現在私たちがキリストの民であることを憶え、杯を通して今現在私たちがキリストの救いと約束のもとにいることを憶えるようになるのです。ある学者はこう言いました。 「聖餐はパンと杯を用いて、主の肉と血を象徴する単純な象徴行為ではありません。聖餐は今現在私たちが主の民であり、主の救いの中にいることを再確認する地上から天上に引き上げられる実質的な約束の行為なのです。」したがって、聖餐はキリストへの私たちの信仰を飲み食いによって公に告白する聖なる行為なのです。そのため、洗礼を受けず、信仰告白をしていない者は聖餐にあずかることが出来ないのです。このような聖餐の意味を憶え、私たちは主に与えられた晩餐すなわち聖餐にあずかるべきなのです。 3.「二つ考えたいこと」 最後に気になる人物がいるので、手短に言及して説教を終えたいと思います。それはイスカリオテのユダです。「一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。『はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。』」(18)前回の説教の本文にも、イスカリオテのユダがイエスを裏切る場面が出てきていましたが、説教の分量の関係で話しませんでした。主はユダがご自分を裏切ることをすでに知っておられたにもかかわらず、彼を聖晩餐の席に招かれました。ここで、私たちは2つのことを考えるようになります。一つ、主はご自分を裏切る人さえも差別なく、主の恵みの場に読んでくださるということです。考えてみたら、本文の晩餐に参加したすべての弟子たちが、主の十字架の苦難の時、主を見捨てて逃げてしまいます。とういうのは、皆が裏切り者だったということです。しかし、最後まで立ち返ってこないのはユダ一人だけでした。愛の主は主を裏切る人さえもお赦しになる方です。そのような主の呼び声の前で、すべての罪人は裏切りと立ち返りという分かれ道の前に立っているのです。二つ、主の晩餐の席にいる私たちも裏切り者になり得るということです。日曜礼拝、水曜祈祷会を欠かさず出席し、牧師、長老、執事の務めを尽くしているからといって、自分の信仰には異常なしと考えてはなりません。私たちはいつでも主を裏切ることができる罪ある存在だからです。自分自身を信じてはなりません。民を諦めず最後まで導いてくださる主を信じて生きるだけなのです。 締め括り 今日は聖餐の意味について、そして、短くともイスカリオテのユダについてお話しました。私たちは主の晩餐に招かれ、主によってパンと杯をいただいた主のものです。しかし、私たちには、イスカリオテのユダのような罪の本性があります。いつも自分が主に属しているという信仰と、自分も主を裏切ることができるという反省の間で、自らをわきまえつつ生きていきたいと思います。しかし、私たちの信仰は自分の力によって与えられ、保たれるものではなりません。すべてが主のお導きによって成り立つものです。したがって、私たちを聖晩餐、すなわち信仰の道に導いてくださった主を信じ、自分の信仰が折れないように絶えず祈っていきましょう。主が私たちの人生を導き、終りの日に主の御前に立つときまで共に歩んでくださることを信じていきましょう。そのような志免教会でありますように祈り願います。 父と子と聖霊の御名によって、アーメン。

人間の理不尽。

創世記47章13~26節 (旧86頁) エフェソの信徒への手紙4章13節 (新356頁) 前置き 今まで私たちは、主にヨセフという人物の明るい面について話してきました。若い頃、自分の夢を話しつつ、父親と兄たちに分別のない言動をしたこと以外に、ヨセフはいつも信仰の人物、主と共に歩み、逆境を乗り越えた人物のように描かれました。しかし、今日はヨセフという人物の理不尽について語り合い、彼の暗い面について話してみたいと思います。これを通して、ヨセフを信仰的に勝利した人物と理解している私たちの認識に変化を与え、ひとえにイエス·キリスト以外に完全な者はいないということを分かち合いたいと思います。多くの聖書の学者たちが、ヨセフを旧約に現れるキリストのモデルとして理解してきました。しかし、ヨセフも結局は罪人の中の一人に過ぎない存在です。 実に私たちにとって、イエス·キリスト以外に希望になれる者は一人もいません。 主お一人以外に頼れる者は一人もいません。 すべての人間は不完全で、罪を持っている存在だからです。 1.ヨセフの行動は、すべて正しかっただろうか。 ヨセフが、エジプトの総理になった時代のファラオとエジプトの支配層は純粋なエジプト人ではありませんでした。ヒクソス人というセム族系統の民族で、紀元前17世紀頃に勢力を伸ばし、馬に乗って戦争する騎馬術や鉄器武器と鎧などを武装して、北側からエジプトまで進撃し、ナイル川の三角州地域を征服、その後エジプトの北部地域の一部を占領したと言われます。当時、騎馬術に慣れていなかったエジプトは、簡単に征服されたそうです。このヒクソス人はエジプトの王朝の中で、第15王朝として知られています。 ヨセフの曾祖父アブラハムもセム族系統だったので、ヨセフは割と難なく総理になったと思われます。つまり、ヨセフはヒクソス人ではありませんでしたが、同じセム族系統で、有能だったため、エジプトの最高権力者になることができたのです。ということで、ヒクソス人ではなかった彼は、自分の政治的な基盤のために、彼らに自分の忠誠心を見せる必要があったと思います。 「飢饉が極めて激しく、世界中に食糧がなくなった。エジプトの国でも、カナン地方でも、人々は飢饉のために苦しみあえいだ。 ヨセフは、エジプトの国とカナン地方の人々が穀物の代金として支払った銀をすべて集め、それをファラオの宮廷に納めた。 」(創世記47:13-14) そのため、ヨセフはエジプトと周辺民族を助ける良い政策を出したにもかかわらず、結局、それを用いてエジプトの被支配層と周辺の民族に穀物を売って、彼らのお金と家畜、そして土地を手に入れ、ファラオに捧げたのです。 「ヨセフは、エジプト中のすべての農地をファラオのために買い上げた。飢饉が激しくなったので、エジプト人は皆自分の畑を売ったからである。土地はこうして、ファラオのものとなった。」(創世記47:20)もし、私たちに馴染みのあるヨセフという人物ではなく、他の人がこのような政策を広げたとしたら、私たちは非常に抑圧的だと批判したかもしれません。しかし、彼が親しみのあるヨセフだから、私たちは自分も知らないうちに、ヨセフの行動に疑いを挟まないのではないでしょうか。創世記はヨセフをまるで主人公のように描写しているからです。 「ヨセフはこのように、収穫の五分の一をファラオに納めることを、エジプトの農業の定めとした。それは今日まで続いている。ただし、祭司の農地だけはファラオのものにならなかった。」(創世記47:26) このようにヨセフはエジプトの民の土地と、その高い税金までファラオに捧げることで、実は普通の民ではなく権力者に合わせた政策を広げてしまいました。イザヤ書では、神のメシアがどんな人物なのか、非常に詩的な言語で表現しています。「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。」(イザヤ42:3) 果たして、私たちはヨセフをメシアのモデルと考えても良いのでしょうか? いくら有能な神の民だと言っても、人間は不完全は存在です。偉大な信仰の人物たちも神の御前では、不完全そのものでした。モーゼが、アブラハムが、ダビデが、そして、ヨセフも不完全な弱い人間でした。どんなに偉大な存在でも、彼が人間なら不完全から自由ではなりません。それが罪を持っている人間の限界なのです。 2.聖書を読む時に注意したいこと。 私たちは、最初、聖書を学び始めた時から、聖書が神の御言葉だと聞いてきました。実に聖書は神の御言葉が記録されている書です。しかし、この聖書の文字一つ一つが100パーセント神の御言葉であると言えるでしょうか? それでは、旧約でイスラエルが盲目的に異邦人を差別したり、憎んだりしたのも神の御言葉によるものであり、新約で女性は教会で教えてはならないという言葉も神の御言葉によるものなのでしょうか? 現代のイスラエル人がパレスチナ人を迫害したり、いくつかの教派で女性に牧師や長老の按手を授けないことも、神の御言葉に従っているためでしょうか? これからの話は、今まで聖書と神学を研究しながら私なりに整理した、多少個人的な意見です。そのため、皆さんの聖書観と少し違う点があるかもしれません。神は不思議な力で、直接ペンを動かして聖書を書かれたわけではありません。各時代の預言者のような神を信じる、しかし、不完全な「人間」をお呼びになり、聖書を記録させられたのです。そのため、聖書には記録した人の民族的な特徴や歴史的な限界が現れる場合もあります。確かに聖書には神の御言葉が記録されていますが、神に用いられた著者たちの歴史的、社会的、民族的な思想も、一緒に記録された場合が少なからずあるということです。 改革教会では、モーセ五書のほとんどがイスラエルの指導者であったモーセの記録だと見なしています。つまり、モーセ五書には、彼の神学、民族、性向が、ある程度投影されている可能性が高いということです。 というわけで、モーセ五書の一部である、創世記47章で、ヨセフはヒクソス人のファラオと、その宗教指導者たち、そして自分の家族には、とても優しく接しているのではないでしょうか? 創世記を記録したモーセの見方(ヒクソスの次の王朝の弾圧を経験した)がある程度適用されたと思うからです。そのためか、その他の人たちには非常に厳しい姿を見せます。そして、まるでヨセフが賢く政策を広げたかのように描いています。エジプトとカナンの普通の民が一文無しになったという描写はありません。私たちは聖書を読む時、これに注意する必要があります。「聖書は神の御言葉」という名目で、暴力的で不条理な記録さえ、神に許されたと考えてはならないということです。聖書に記録された文字一つ一つが神の御言葉そのものだと受け止めるより、聖書を貫く大きな脈絡に神の御言葉が込められていると理解するのが正しくないでしょうか。そうでなければ、私たちは旧約聖書に現れる暴力までも、神の御言葉によるものと誤解してしまう恐れがあるからです。 何の疑いもなく聖書の記録を盲目的に神の御言葉として理解するよりは、聖書の著者たちも私たちのような人間だったこと、にもかかわらず、主は彼らを用いて聖書をくださったとの理解を持って、聖書への正しい理解のために神に祈り、きちょうめんに勉強しつつ読まなければならないと思います。 3.ヨセフという人間の理不尽 また、本文の内容に戻り、ヨセフは果たして正しい人だったでしょうか? 例えてみましょうか。太平洋戦争の時、原爆で日本は無条件に降伏します。当時、アメリカのマッカーサーは日本を占領し、天皇の上の支配者のようになりました。ところで、この時、日本の捕虜だったスミスというイギリス人がおり、戦後、賢い政策をアドバイスして、いきなり、マッカーサーの補佐官になったと仮定してみましょう。自分の家族を日本の最高の地域に呼び込み、足りない物資を利用して、日本の産業とお金と土地をすべて没収してアメリカに渡し、日本人をマッカーサーの奴隷にしたとしたら、皆さんのお気持ちはどうなるでしょうか。これがまさにヨセフがエジプト人と周辺民族に行った政策だったということです。私たちは、常にヨセフの側から創世記を読むので、これが悪いという認識が薄くなる場合が多いです。しかし、エジプト人やカナン人の目から見ると、これ以上の暴政があるでしょうか? 神はすべての人類を愛される方です。キリストをお遣わしになった理由も、イスラエルだけでなく、この世のすべての人類を救ってくださるための普遍的な恩寵だったのです。もちろん、その中でご自分の民をお選びになるのは、神の主権によることですが、少なくともすべての人類にイエスを信じる機会は与えてくださったのです。つまり、神は皆に公平な方であるということです。 だからこそ、イエス·キリストの愛もすべての人類に公平に与えられるものなのです。とういうことは、イエスの体なる私たち教会の、この世への愛も公平な愛でなければならないということです。信徒同士だけが愛し合い、教会の外の人には愛しなくて良いというわけではありません。キリストの愛が、この世のすべての人類に許されたように、私たちの愛も教会と社会にあって、皆に普遍的に伝えられるべきです。そんな意味で、ヨセフはエジプトの指導者だけのための政策を広げてはなりませんでした。ファラオがヨセフに無理やりにさせたことではありません。ヨセフ自身がそのように行ったわけです。他の人々はファラオの奴隷のようになろうがなかろうが、自分の上司であるファラオ、自分の家族であるエジプトの宗教指導者たち(ヨセフの妻アセナトは、エジプト祭司のポティ・フェラの娘でした。)そして自分の父親であるヤコブとその家族だけに特権が与えられる政策でした。皆さん、ヒキソス人のエジプト支配が何年間続いたかご存知でしょうか? わずか100年過ぎの短い期間でした。その後、再び政権を奪還した純粋なエジプト王朝がヒキソス王朝を追い出し、エジプトを掌握したのです。出エジプト記の苦しむイスラエルの姿は、もしかしたら、ヨセフが行った政策の結果だったかもしれません。ヨセフという人間の理不尽が子孫を苦しめる悪を作り出したわけです。 締め括り 最後に、今日の新約の本文を読んでみましょう。「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」(エフェソ4:13) 聖書が語る「知識」とは、行いと体験を伴うものです。頭だけで知るわけではなく、実践が伴う知識という意味です。私たちが聖書に現れる神の御言葉を信じ、知るということは、主の御言葉の意図通りに生きるという意味です。かつてヨセフは神と共に歩んだ者と呼ばれました。しかし、総理になった彼の歩みはどうだったでしょうか? 神と共に歩む者なら、賢い政策という名目で他人の財産と労働力を一方的にファラオのものにしてはならなかったでしょう。ヨセフが正しいかどうか、聖書ははっきり評価していません。しかし、少なくとも、ヨセフの行為を、私たち自らが一度考えてみる必要はあると思います。それによって、私たちはヨセフも、結局、不完全な罪人だったことを知ることになるでしょう。すべての人間には理不尽があります。罪を持っている人間の宿命です。このような不完全さを見て、私たちはもう一度完全なキリストに頼ることがどれほど大事なことなのかを憶えることになると思います。今日、ヨセフの姿を見て、自分がヨセフだったらどうしたか考えてみたいと思います。私たちは果たして、どのように生きるべきでしょうか? 主の知恵を求めます。 父と子と聖霊の御名によって、アーメン。

互いに愛し合いなさい。

イザヤ書11章1-10節 (旧1078頁) ヨハネによる福音書13章34-35節 (新196頁) 前置き 今日は、韓国釜山の巨堤(ゴゼ)教会の青年の皆さんが志免教会の礼拝にお越しくださいました。志免教会は青年の皆さんを、心から歓迎します。ありがとうございます。巨堤教会は大韓イエス教長老会高神(ゴシン)派に属した教会です。高神派は、日本統治時代の朝鮮教会において、神社参拝の強要を拒み、喜んで殉教し、投獄された、いわば出獄聖徒たちの跡継ぎです。高神派の先輩たちは、日本帝国の宗教弾圧によって、苦難を受けることになってしまいましたが、だからこそ、その跡継ぎである高神の若者たちは、さらに日本のために祈り、日本の教会を愛し協力していく、大事な根拠を持っていると思います。そして、日本キリスト教会は過去の過ちをことごとく悔い改め、神の御前で、正しい教会として立っていくために、力を尽くす教会です。現在、高神派は日本キリスト教会と直接的な協力関係を結んではいませんが、キリストにあって、同じ一つの体なる教会として、日本キリスト教会と一緒に歩んで行かなければならないと思います。日本の教会の状況を正しく知り、特に日本キリスト教会九州中会と志免教会を憶え、祈っていただくこと、そして、キリストにあって深い霊的な交わりを作っていくことを願います。 1.神の愛について キリスト者なら、聖書を通じて、愛という表現をよく耳にしたり、また口にしたりします。愛、実に美しい言葉です。ところで、私たちが頻繁に聞いたり、語ったりする愛とは、果たしてどういうものなのしょうか? ギリシャ語には、4つの愛の概念があると言われます。一つ、自分のエゴに基づいて快楽と官能を追求するエロスがあります。異性間の愛を意味する場合が多いです。二つ、フィロスです。友愛、師弟の間の愛を意味します。ストルゲーもあります。子供への親の愛、親への子供の愛です。もしかしたら、人間の愛の中で、最も神の愛に似たような愛であるかもしれません。最後にアガペーがあります。アガペーは、神の聖なる愛、無条件的な愛、すなわちイエス·キリストの愛の根源であり、三位一体の相互の愛と言えます。このように、ギリシャの世界には、4種類の愛があると言われますが、私たちが追求すべき愛は、断然キリストご自身が実践されたアガペーだと思います。もちろん、人間はアガペーを完全に行うことはできません。ただ、主のみお出来になる完璧な愛だからです。あくまで、追求なのです。私たちは罪を持った人間としての自分の限界を認めなければならないからです。それでは、4つの愛の中で、神の愛であるアガペーについて考えてみましょう。 先日、連合婦人会閉会祈祷会でも、そして3週間前の水曜祈祷会でもお話しましたが、「神は愛です。」という言葉について、今日も、もう一度お話したいと思います。第一ヨハネの手紙の4章16節には「神は愛です」という言葉があります。なぜ、神を愛と言うのでしょうか? ある意味で、愛は神の被造物です。被造物を神と言うのは偶像作りではないでしょうか。しかし、驚くべきことは、神が聖書を通して「神は愛」という言葉を許してくださったということです。神がご自身のことを愛と認めてくださったわけです。しかし、私たちははっきりする必要があります。「神は愛」という言葉は、可能ですが「愛がすなわち神」という言葉は、成立できないということです。つまり、神ご自身が自らを被造物である愛に比喩され、自らを低くされたということです。この世のすべての被造物より、はるかに大きい神が、愛という小さい概念の被造物に合わせて、ご自分について教えてくださったのです。人間は神を感じることも、触れることも、見ることもできない、小さい存在です。それに対し、神は宇宙よりも大きい方です。しかし、主は愛という人間が理解できる言語によって、ご自身を私たちに表してくださいました。人間にとって、不可解な対象である神が、ご自分がすなわち愛という言葉を通して、私たちにご自分のことを表してくださったわけです。つまり、主は愛によって、人間との交わりをお造りになったということです。 その神の愛の最も決定的な出来事は、断然、イエス·キリストのご到来とご奉仕、死、そして復活です。人間が見ることも、知ることもできない神は、キリストという存在を通して、人間を訪れてくださいました。そして、その方の全生涯による犠牲と愛とで、私たちを救ってくださったのです。大きな神が、小さな被造物である人間の姿でおいでになり、主イエスを信じる者たちの救いのために、自らを犠牲にしてくださったのです。まるで、愛という小さな被造物に、ご自分を合わせてくださったように、イエス·キリストという最も完全な人間として来られた神が、キリストの愛によって私たちにご自分のことを見せてくださったのです。また、神はイエス·キリストという最も完全な神によって、私たちの人生の中に来られ、私たちを救いへと導いてくださったのです。したがって、神の愛、アガペーは見捨てられるべき罪人にご自分を与えてくださるための神の自己卑下なのです。あえて、憐れんでくださらなくても、見捨てられても構わない、罪に満ちた存在のために、自らを犠牲になさった愛なのです。神の愛は、このように意味のない存在を意味のある存在に生まれ変わらせる神の救いの原動力なのです。したがって、私たちが追求すべき愛は、この神の限りのない愛、つまりアガペーの愛なのです。 2.お互いに愛しあいなさい。 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:34-35) 今日の本文は、主イエスが逮捕される夜、最後の晩餐と弟子たちの足洗い後、弟子たちにくださった御言葉です。ここの「愛しあいなさい。」は「アガペー」の動詞形である「アガパオ」です。愚かな弟子たちは、互いにアガペーしあうことのできない存在です。しかし、イエスはご自分の体である教会を形成していく、この弟子たちが、自分の力ではなく、キリストによって、互いにアガペーしあうことをお望みになりました。彼らが互いにアガペーしあう時、彼らによって、キリストが表されることになるからです。教会と教会の愛、信徒と信徒の愛がキリストを表し、主の存在を宣べ伝える力になるからです。ですから、私たちは、誰よりも熱く愛しなければなりません。異性との愛、友との愛、親子の愛を超える神の完全な愛を追い求め、私たちの全生涯を通して、愛しあいつつ生きていかなければなりません。したがって、愛は、教会が存在する理由であり、愛のない教会は死んだものと同じなのです。旧約のイザヤ預言者はこう唱えました。 「わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。」(イザヤ11:9) 主のご統治なさる国、神の国では猛獣と草食動物が幼子の手に導かれることになるでしょう。皆が神の愛に満たされ、お互いに大切にしあい、愛し合って生きるようになるでしょう。神の国は、ただ、死後に入る来世のことではありません。主イエスがこの地上に来られ、主なる神のご統治を宣言された時、神の国はすでに、この地上で始まったのです。そして、その地上での神の国を最も明らかに表す存在は、主イエスの教会なのです。ですから、教会は、主のご命令に聴き従い、愛しあって行かなければなりません。キリストの身なる教会の一人一人が主の愛にならって生きていかなければなりません。その愛の中で、神と御国が、この世の人々に明確に現れるからです。日本と韓国は大昔から深い関係を結んできました。時には、良い関係を、時には悪い関係を結んできたのです。昔、朝鮮半島では倭寇(わこう)という海賊に多くの人々が被害を受けました。ところが、朝鮮半島からも、日本の人々を苦しめた新羅寇(しらぎこう)という海賊もいたそうです。モンゴルの日本来襲の際、高麗が攻撃を支えたとの歴史もあり、豊臣秀吉時代には日本が朝鮮を攻撃したこともあります。また、近代になっては日本帝国が朝鮮を侵略し、植民地にした事実もあります。日本と韓国は数多くの遺憾の歴史を作ってきたのです。 だからこそ、日本の教会と韓国の教会の関係はさらに格別です。キリストという一つの頭を崇める一つの教会として、民族と国家とイデオロギーを越え、お互いに愛し合い、協力しあっていくという大事な使命を持っているからです。日本と韓国とを問わず、キリストが私たちを愛によって一つの教会に結んでくださったからです。志免教会の皆さん、巨堤(ゴゼ)教会の青年たちを憶えてください。彼らが政治的に厄介な隣国の人ではなく、キリストにあって私たちの兄弟であり、姉妹であることを忘れないでください。巨堤(ゴゼ)教会の青年の皆さん、志免教会を憶えてください。彼らが歴史的に残念な隣国の人だという政治的な認識から離れ、私たちが愛し、仕えていくべき存在であるという新しい心を持って生きていきましょう。志免教会と巨堤教会が国と民族と言語の溝を乗り越え、キリストにあって愛し合い、一つになる時、この世が私たちを通じて主キリストを知るようになり、神の国が来るのを知るようになるでしょう。今日の礼拝が日本と韓国の教会を一つにする愛の始まりであることを祈ります。私たちの愛の中で、キリストはご自分の栄光を限りなく表してくださることを信じます。 締め括り 「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」(第一コリント13:1-3) なぜ、使徒パウロがこのように力強く愛を語ったのでしょうか。考えてみたいと思います。愛についての実践的な課題を一つ出させていただきましょうか。教会の中に、いやな人がいれば、その人を愛する心をくださいと祈りましょう。陰口を話したい人はいるならば。心の中に、その人のために「愛しています。」と10回唱えましょう。積極的な愛の実践のために努力しましょう。口先だけではなく、行動によって証明してください。神の国、主の教会の根拠は主の愛から始まります。主の愛が十字架の救いをもたらしたからです。このような主の愛を記憶し、私たちもお互いに愛し合い、主にあって生きていきましょう。ここに集っておられる皆さんの上に神の愛と恵みが豊かでありますよう祈ります。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。