イサクとイシュマエル

創世記21章9-13節(旧29頁)         ガラテヤの信徒への手紙4章21-31節(新348頁) 前置き 前回の説教では、神の約束通りに成し遂げられた、アブラハムの相続人の誕生についてお話しました。神とアブラハムが初めて出会った時、神は「アブラハムが祝福の源となり、彼を通して生まれる相続人が神の祝福の民になるだろう。」と約束してくださいました。アブラハムは、その約束を信じ、神は彼の信仰をご覧になり、義としてくださいました。それから、アブラハムは25年間、神による相続人の約束の成就を信じ、待ち望んで生きて来ました。その間、アブラハムの不信仰によって様々な紆余曲折がありましたが、それでも神は彼と同道されつつ、彼の信仰を保たせて、アブラハムとの約束を準備して行かれました。そのおかげでアブラハムも主のお導きの下に神への信仰を諦めずに暮すことが出来ました。その結果、神は子供が持てないほどに老いてしまった100歳のアブラハムと90歳の妻サラを通して、真の信仰の子孫であるイサクを与えられました。このように、イサクは神の約束と、その方へのアブラハムの信仰がもたらした神からのお贈り物でした。このすべては、神の語られた約束どおり、その約束された時に、正確に成就されました。 1.イシュマエルがイサクをからかう。 「やがて、子供は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に盛大な祝宴を開いた。」前回の創世記の説教の本文である8節には、イサクの乳離れと、それを祝うためにアブラハムが開いた宴に関する物語が出ていました。アブラハムは、なぜイサクの乳離れを記念して盛大な祝宴を開いたのでしょうか。現代には赤ちゃん向けの粉ミルクなどが、ちゃんと備えられているので、比較的早めに乳離れをする場合が多いと知っています。世界保健機関は、まる2歳までは母乳を勧めていますが、最近は普通1歳になる前に粉ミルクなどに変える場合が多いでしょう。それでは、アブラハムが生きていた紀元前18世紀頃は、どうだったでしょうか。創世記の解説書を参考にすると、学者たちは3~4歳ぐらいに乳離れしたと考えてきたようです。おそらく現代と違って赤ん坊のための食物が豊かでなかったわけでしょう。そのように3~4年が経ち、乳離れすると、家族はそれを祝って宴を開いたことでしょう。たぶん、古代には乳児の生存率が非常に低かった故であると推測されます。古代の資料が無くて、西暦1350年代の中世イギリスの乳児死亡率を確かめてみたところ、生まれて1年足らずで亡くなる赤ん坊の割合、すなわち乳児死亡率が約22%に達していました。(イギリス 2015年 0%)出生後1年の内に10人に2人が亡くなったということです。それからすると、古代の乳児死亡率は1350年より高かったはずで、低くはなかったはずでしょう。 そういうわけで、古代人は赤ん坊が3-4歳まで生き残り、乳離れしたことを良い兆しと考えていたことでしょう。特にイサクの場合は、年寄の親から生まれ、元気に育ち、無事に乳離れまでしたので、めでたいことだったでしょう。でも、家族の中には、そんなに喜ばしくない人もいたようです。「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた。」(9-10)アブラハムの長男イシュマエルがイサクをからかう出来事が起こったからです。なぜイシュマエルはイサクをからかったのでしょうか。ただ、子供たちのいたずらではないかと思いがちですが、たぶん、それよりはイシュマエルの嫉妬によることではなかったのかと思われます。イサクより14歳も年上のイシュマエルは、すでに成人式を終えた年だったはずです。今やっと3-4歳になった弟とは、いたずらをする年ではなかったでしょう。もし弟さえいなかったら、父アブラハムの相続人は自分になるはずだったのに弟が生まれたわけです。そうじゃなくても、本妻の息子イサクは、側女の息子であるイシュマエルにとっては目の上のこぶのような存在だったでしょう。イシュマエルの行為を目撃したサラは憤り、アブラハムにイシュマエルと、その母親ハガルを追い出すことを要求しました。「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、私の子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。」(10)結局、イサクをからかったイシュマエルは母ハガルと共に追い出されてしまいました。 2.肉によって生まれた者と約束の子。 今日の説教では、本妻サラとイサク、側女ハガルとイシュマエルという2つの親子の違いを通して、キリスト教の重要な教理について語ってみたいと思います。それで、かわいそうにも追い出されたハガルとイシュマエルの物語は思い切って省きたいと思います。(創世記21章13-21節参照要望)「このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。神はアブラハムに言われた。あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。(11-12)私たちは今日の出来事を通して、ハガルとイシュマエルを追い出したサラにがっかりするかもしれません。強く妬んでおり、非人道的に見えるからです。しかし、サラの行為は当時の法律に基づく行為でした。当時、カルデアには「リピト·イシュタル」という法典がありましたが、その中には、このような条項がありました。「男性が妻と結婚し、彼女が彼に子供を産み、それらの子供が生きていて、奴隷も彼女の主人のために子供を産んだが、父親が奴隷と彼女の子供たちに自由を与えた場合、奴隷の子供たちは元主人の子供たちと財産を分割してはならない。」また、サラは妬み半分であるかも知れないが、主の御言葉に基づいた主張もしています。「あの女の息子は、私の子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。」 もちろん、サラの肩を持とうとするわけではありません。確かにサラは人間としてしてはならないことをしています。しかし、彼女の主張は当時の法律上問題無いことであり、ある程度、神の御旨にも合致することでした。「あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサクと名付けなさい。私は彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。」(創世記17:19)神は、なぜイシュマエルとハガルが追い出されるように放っておかれたのでしょうか? それは神の約束の相続人は、ひたすらイサクだけだったからです。イシュマエルはアブラハム夫婦が、神との約束を疎かにし、自分たちの独断で女奴隷に産ませた子です。神ははっきりと相続人を約束してくださいましたが、その御言葉を信頼せず、自分たちのやり方で生んだ、いわば約束の外の子でした。その反面、イサクは神の約束によって一方的な恵みで生まれた約束の成就の子だったのです。すでに生殖機能を失った年寄の夫婦に、すべての障害を乗り越えさせてくださった神との約束の子なのです。これについて、今日の新約本文はこのように語っています。「アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。」(ガラテヤ4:22-23)もちろん、イシュマエルとハガルの立場は、とても気の毒だと思います。サラも薄情すぎです。それにもかかわらず、神はひとえにサラから生まれたイサクという約束の子だけを通して、神の約束を成し遂げようとなさったのです。 3.行いと信仰の結果 一見、現代人の感覚からすると、今日の出来事はとても理不尽に感じられます。サラもアブラハムも神さえも、あまりにも薄情に感じられます。イシュマエルとハガルを追い出すことを許された神を見て、「神は本当に愛の神なのか?」という懐疑が感じられるほどです。しかし、今日の本文は人間の倫理道徳のために記録されたものではありません。以後、神がイシュマエルとハガルを見捨てられず、導いてくださり、二人の人生のために確実に責任を負ってくださったことを見落としてはならないでしょう。したがって、今日の本文については、現代的な感覚の倫理道徳にではなく、本文に含まれている教理的な意味に集中して解釈すべきです。今日の本文の教理的な解釈は、新約本文のガラテヤの信徒への手紙4章を通して見ることが出来ます。「私に答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。」(ガラテヤ4:21)ガラテヤとは、現代のトルコ中部内陸地方を意味します。そこには多くの教会があったと言われますが、当時の教会でも、こんにちのように「キリストへの信仰によってのみ救われる。」という教理が通用していました。ところで、いつからか「キリストへの信仰だけじゃ物足りなく律法の行いが加わってからこそ真の救いに至る。」と言う律法主義者たちが教会に入ってきて間違った教理を教え始めました。そのため使徒パウロは、彼らを偽りの教師と呼びつつ、ガラテヤの教会に対して、律法の行いではなく、もっぱらキリストへの信仰によってのみ救われることを力強く教えるために、ガラテヤ信徒への手紙を書いたわけです。 「こうして律法は、私たちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。私たちが信仰によって義とされるためです。」(ガラテヤ3:24)ここで養育係とは、ローマ時代の貴族の子供たちが学校に入るまで養育を担当する家庭教師奴隷のことです。つまり、パウロは「律法とはキリストを紹介する補助にすぎない。」と思っていたわけです。旧約の律法は神が、民たちにくださった生活の指針でした。しかし、それは人間が守りきれないものでした。律法には613の条項がありましたが、もし誰かが612の条項をすべて守っても、一つを守れなかったら、すべてが無駄になるシステムでした。つまり、神は人間が律法をすべて守ることではなく、律法を通して自分の不完全さに気付き、キリストを信じて救いに至ることを望んでおられたのです。なのに、ガラテヤの偽りの教師たちは、この律法の行いで救われると教えていたわけです。パウロはアブラハムとサラが、神の約束を無視し、自分たちの判断でハガルを通してイシュマエルを産ませたことを行いの結果、つまり律法主義に似ていると見なしていました。「約束への信仰ではなく、自分の力でやってみよう。」と思った結果だったということです。以後、生殖機能が尽きた二人が、すべてを諦め、神への信仰だけで生きた時、はじめて神の約束どおりにイサクが生まれたことを信仰の結果だと見なしていました。ひたすらキリストへの信仰によってのみ救われる福音に似ていると考えたわけです。サラがイシュマエルとハガルを追い出したことは本当に気の毒です。しかし、私たちはその出来事を通して、神が人間の行いではなく、ひとえに神の約束と、それに対するアブラハムの信仰によって生まれたイサクだけを真の信仰による結果として認めてくださったことを覚えるべきです。そして、このことを通して、現在の私たちも自分の行いではなく、キリストへの信仰によってのみ、自分に救いがもたらされるということを信じるべきでしょう。 締め括り 「しかし、聖書に何と書いてありますか。女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからであると書いてあります。」(ガラテヤ4:30)イシュマエルはアブラハムとサラの独断のもとで、女奴隷によって生まれた結果です。彼らが神との約束を破り、独断で振舞ったことは行いによって救われるという律法主義と似ています。しかし、行いによる救いは決して神に認められません。しかし、先が見えない真っ暗な時に神だけを信じることでもうけたイサクは信仰の結果でした。ただキリストを信じて救いを得るという信仰による救いと非常に似ています。行いの結果である女奴隷の子は追い出され、信仰の結果である自由な身の女から生まれた子は真の相続人となりました。繰り返しますが、ハガルとイシュマエルの事情は本当に残念です。しかし、彼らのことを憐れむだけでは、到底、今日本文の結論を下すことが出来ません。つまり、今日の本文は結局、教理の側面から見るべきでしょう。律法の行いによって救いを追求すべきか。それとも、キリストへの信仰によって救いを追求すべきか。私たちはイシュマエルの側に立っているのか、イサクの側に立っているのか、考える機会になると幸いです。神の約束への信頼だけが、また、キリストへの信仰だけが、私たちを真の救いへと導きます。その点を改めて考えつつ生きる志免教会になることを願います。

異邦のための宣教。

イザヤ書61章1-4節(旧1162頁)       マルコによる福音書5章1-20節(新69頁) 前置き イエスはマルコ福音書1章で弟子たちをお呼び出しになった後、ガリラヤのカファルナウムという村にて本格的にお働きを始められました。イエスはガリラヤ全域からご自身を訪ねてくる、あらゆる哀れな民を拒絶なさらず、彼らを癒し、教え、宣教してくださいました。身と心をお尽くしになったイエスの御業を通して、ガリラヤの哀れな民は癒しと慰め、そして自由を得、自分たちを変わらず愛してくださる神を発見しました。「先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(イザヤ8:23後‐9:1)旧約のイザヤ書は、このように罪によって神に見捨てられ、辱めを受けるガリラヤ(旧約時代のゼブルンとナフタリ族の地。)の哀れな民たちが、真の栄光を受けるだろうと予言しています。主がエルサレムの指導者やローマの支配者ではなく、このガリラヤ地域に先に臨まれ、貧しい民からお訪ねになった理由は、まさに、このような旧約の予言がイエスによって成就されていることを示してくださるためでした。貧しいガリラヤの民は、まるで異邦人のような扱いと差別の中に生きてきました。しかし、主は彼らに一番先に仕えてくださることで、差別なく人間を愛することを示してくださったのです。そして主のその愛は、本日の言葉を通して本当の異邦にまで広がり始めます。 1.宣教とは何か? まずは宣教について話してみましょう。日本最初のキリスト教宣教師はスペインのカトリック教会の司祭であったフランシスコ·ザビエルでした。彼はこんにちのマレーシアで偶然出会った弥次郎という日本人から日本について聞き、1549年に鹿児島に上陸し、日本での宣教を始めました。その後、戦国時代が終わり、江戸幕府が立つと、日本のカトリック教会は激しい迫害を受けて、ほとんど無くなりましたが、残された者たちはカクレキリシタンという名で、その命脈を保ちました。最初のキリスト教宣教師ザビエルの上陸から約300年後、1858年の日米修好通商条約によって日本は開港し、その翌年からアメリカからの宣教師たちが日本に上陸することになりました。それから日本でのプロテスタント教会の宣教が始まり、今に至っています。カトリックのザビエル、プロテスタントの宣教師たち、彼らは出身地も、所属教派も、時代も異なりましたが、そのすべてを超える共通の教えを持っていました。それは「イエス·キリストは救い主である。」という唯一無二の神の福音でした。ところで、新約聖書はいろいろな箇所で、このような福音を伝える行為を「ケリュソ」というギリシャ語で表現しています。「ケリュソ」には、「王のご命令を公布する。」という意味があり、創り主でいらっしゃる神の厳重なご命令を世に宣べ伝えるという、強力な神の権威を含む表現です。 私は前のマルコ福音説教でイエスが、この地上に来られ、おもに行われた御業が「癒し、教え、宣教」の三つだったと申し上げました。主は神の厳重なご命令に聞き従い、癒しと教えと宣教を通して哀れな民を神に導いてくださいましたが、まさにそれが「ケリュソ(宣教)」だったのです。ここで重要なことは癒しと教えと宣教が、それぞれ別のものではなく、そのすべてが一つになって宣教を成すということです。宣教とは、神の厳重なご命令を宣べ伝える行為です。「イエス・キリストは救い主である。」という創り主、神の最も重要な御言葉を信者の口の言葉と生活での実践を通して、世に宣べ伝える行為なのです。イエスは御言葉だけを宣べ伝えた方ではありません。民の癒しのために眠れず、福音の教えのために食事も忘れ、宣教のために十字架に自らを犠牲になられた方です。主は神のご命令に従い、民の救いを成し遂げられるために身と心とを進んで捧げられた方なのです。そういう意味で、イエスは真の最初の宣教師でした。そして復活されたイエスは、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」(マ28:18-20)という新しい命令を下されることで、「ケリュソ(宣教)」の務めを私たち教会にもお委ねになってくださいました。したがって、我々は自分が宣教師であることを自覚し、隣人に仕え、福音を伝える人生を生きるべきです。ザビエルと明治時代の宣教師たちだけが宣教師ではなく、私たち皆が共通の福音にあずかっている主に遣わされた宣教師であることを忘れてはなりません。 2.悪霊に取り付かれた者を癒されるイエス。 「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。 2イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。」(1-2)ガリラヤでの宣教に一段落つけられたイエスは、湖の向こう岸のゲラサ人の地域に足を運ばれました。主はそこで悪霊に取り付かれたある人に出会われました。マルコ福音書1章でイエスが初めてガリラヤでの御業に取り掛かられた時、主は会堂にいた悪霊に取り付かれた人を一番先に直してくださいました。ところで、湖の向こう岸でも一番先に悪霊に取り付かれた人と出会われたというわけです。これは偶然の一致でしょうか? 「悪霊に取り付かれた。」という表現は、単に「ある人が悪霊の故に狂ってしまった。」という個人的な事項だけの意味ではありません。確かにその人は、実際に悪霊に取り付かれ、苦しんでいたはずでしょう。ですが、マルコ福音書は彼のことを通じて両義的に当時の異常な状況を私たちに教えているのです。イエスが到着された場所が神の正しい統治ではなく、悪霊に表現される邪悪な世の支配の下にあるという、当時の社会的な状況を示しているのです。正義と愛ではなく、不正と憎しみが溢れる病んでいる社会を表現することです。つまり、ガリラヤ全域と国境地域が、このような状況下にあったことを表しているのです。したがって、イエスが悪霊を追い払われたということは、神の統治のない場所に神の統治をもたらす、イエスの霊的な癒しを意味する表現しています。救い主イエスのおいでになる場所では不正がなくなり、膨大な罪の影響が力を失うからです。 「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。イエスが、汚れた霊、この人から出て行けと言われたからである。」(6-8)まるで悪霊に取り付かれたような、この世はイエス・キリストの権能によってのみ癒されるものです。世界を支配している悪は、主の権威の下では、如何なる反抗もできません。私たちはこれをはっきりと認識するべきです。世の巨大な悪に跪くことなく、主がそれより、はるかに大きな方であり、十分にこの世の悪を裁かれる方であることを信じなければなりません。「そこで、イエスが、名は何というのかとお尋ねになると、名はレギオン。大勢だからと言った。」(9) 悪霊に取り付かれた者に付いていた汚れた霊は軍団を意味するレギオンという名の存在でした。当時のローマ軍の一つの軍団が約6000人だったことに照らすと、その人を苦しめていた悪霊が如何に強かったのかが分かります。主イエスは一言でこの悪霊どもを豚の大群に送り込んで裁かれました。ユダヤ教の代表的な不正な獣の一つであった豚に、悪霊が追い出されたことから、この世を支配する悪の勢力の性質がはっきり示されます。このように主は御言葉を持って強力な悪を裁かれ、悪霊に取り付かれた哀れな者を救ってくださることで、異邦への宣教をお始めになりました。 3.疎外される者への主の宣教。 ゲラサ人の地方は当時のイスラエルとデカポリスの国境地域でした。デカとは10、ポリスとは町を意味しており、ローマ以前のギリシャ帝国時代に建てられたイスラエルの東側の10の町のことでした。ゲラサはその一つの町だったそうです。当時のイスラエル民族は徹底した民族主義を唱え、異邦人を否定的に考えていました。ユダヤ人のある記録によると、異邦人は「神に裁かれるべき地獄の焚き物」と思われていたそうです。このように、ゲラサ地域はユダヤ人に嫌がれる所でした。しかし、主はそこを素通りされずお訪ねになったのです。神は最も疎外される所、最も不正な所を決して見落とされる方ではありません。そんな所こそ、主の愛と癒しを最も切実に必要とする所だからです。極東の島国、地の果てにあった日本に、主の御言葉を持ってきたザビエル、厳しい鎖国の江戸時代を経て、何とかキリストの福音を持ってきた宣教師たち、主はご自分の僕たちを通して、この国に福音を届けてくださいました。しかし、相変わらず日本は福音が必要な国です。日本に来た最初宣教師から500年経っています。プロテスタントの伝道開始から160年経っています。ですが、日本の福音率はごくわずかで、悪の支配は相変わらず健在です。しかし、神様は移り変わりなく、この日本という国を愛しておられます。 数日前、コロナに感染したある妊婦が入院できず、自宅出産のあげく、子どもを亡くした事件がありました。数多くの市民たちが病床がなくて自宅で療養中だそうです。朝日、東京新聞などの比較的に進歩的なマスコミによると、政治的関係によって、無理やりにオリンピックを開催し、また、そのための緩いコロナ対策によって、日本の弱い市民たちが苦しんでいると評価していました。また、相次ぐ緊急事態宣言により、多くの自営業者たちが廃業などに苦しんでいるそうです。しかし、政治家たちは自分たちの権力のために、今でも自分たちの安全だけを考えています。これはただ日本だけの問題ではありません。アメリカ、中国、韓国、ヨーロッパなど、全世界がまるで汚れた霊に取り付かれているかのように、権力者に操られ、弱い一般市民が真っ先に苦しんでいます。神の御目は、まさにそこを向いています。彼らと共に歩むこと、彼らのために祈ること、彼らの苦しみを分かち合うこと、それが神が望んでおられる、また違う意味としての宣教ではないでしょうか?このような状況の中での教会の役目は何でしょうか。イエスはこの世を、どう考えておられるでしょうか。世の中の理不尽をじっと眺めると、この世が依然として悪霊に取り付かれていることが分かります。本当の意味での宣教、教会はそのために何をしていくべきでしょうか? 結論 私は主の身体なる教会の外にいる、すべての人が、私たちが仕えるべき異邦だと思います。日本には0.4%のキリスト教系の人口がいると言われています。プロテスタント、カトリック、異端を含めて、その程度だそうです。もしかしたら、この日本の99.9%の人口がイエス様には異邦人に見えるかもしれません。しかし、神は彼らを変わらず愛しておられ、彼らに主の福音を宣べ伝える宣教を望んでおられます。「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由をつながれている人には解放を告知させるために。」(イザヤ61:1)旧約イザヤ書にはメシアの到来時の、その役目について予言されています。メシア主イエスはこのように良い知らせをお伝えになるために真の宣教師として来られました。そして、その役目をご自分の身体なる教会の私たちにも分け与えてくださいました。まるで汚れた霊に取り付かれているかような、この世を眺めながら、我が教会の在り方について思い巡らしていくべきだと思います。主は主の肢である教会を通して宣教をなさいます。私たちは志免教会という共同体の中で、自分だけの救いに満足しているのではないでしょうか? 私たちの助けを求めている隣人のために何が出来るだろうかという悩んでいるでしょうか?確かに私たちは小さな群れで、社会的な影響力も弱いです。しかし、だからこそ、もっと教会の外の異邦の隣人のために祈り、仕え、私たちの在り方について思い悩んでいくべきです。その中に主の宣教が始まるのです。私たち志免教会にそういう正しい悩みがありますように祈ります。

主が約束された通り。

創世記21章1-8節(旧29頁)         ヘブライ人への手紙11章11-12節(新415頁) 前置き カルデアのウル地域を離れ、今のトルコ地域のハランに住んでいたアブラハムに主が現れ、彼を主の民とされてから25年が経ちました。長いといえば長く、短いといえば短い25年という年月の間、神はアブラハムに相続人をくださるという約束、アブラハムとその子孫をご自分の民にされ土地を与えるという約束を通して、彼と一緒にいてくださいました。アブラハムは、何度も挫折と絶望、失敗を経験し続けていましたが、それでも彼は神の約束を覚え、常に主に付き従っていました。アブラハムは、「自分はできないが、主はお出来になる。」という神への信仰を持って、最後まで主、神の約束を待ち望んでいたのです。それで神はアブラハムに不十分さと弱さがあるにもかかわらず、彼の信仰をご覧になり、約束を果たしてくださいました。結局、神の約束通りにアブラハムの相続人イサクが生まれたのです。まさに今日の本文のことです。25年の間成し遂げられないまま、続いてきた約束、相続人を与えるという約束がついに成就されたわけです。 1.主の御言葉のとおりに。 2019年インドで74歳のお婆さんが双子を産んだとのニュースがありました。夫は80代のお爺さんだったそうです。正常な方法ではなく、他人の卵子寄贈を受けて人工授精を行い、帝王切開で出産しましたが、赤ちゃんは無事に生まれたと言われています。現在、彼女は歴史上の最高齢の産婦として記録されているそうです。このように科学が発達した現代でも、70代の女性が子供を産んだら、人々はとても驚きます。ところで、今日の創世記ではアブラハムの妻サラが90歳で子どもを産んだという物語が出てきます。このサラは人工授精でも、帝王切開でもなく自然に子供を産んだのです。しかも今から約3500年前の話です。そのように子供を産んだことについて、今日本文はこのように語っています。「主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、 彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。」(創21:1-2)現代の未信者たちは創世記の話を神話だと思っているかも知れませんが、私たちはこのイサクの誕生を本当の出来事として信じています。 何故なら、神がそうおっしゃったからです。 信仰とは「神の御言葉どおりに成し遂げられると信じること」です。「神が私の思いのままに叶えてくださること」ではなく、「神の御言葉が神の御心のままに必ず成し遂げられること」を信じることが、真の信仰なのです。伝道師時代、私は子供会を担当していました。その時、子供達によくこのように問われました。「神様におもちゃが欲しいと祈っても聞いてくれないの。」それで、私はこう言い返したのです。「神様が本当におもちゃをくださると言われたの?」と聞いたら「いいえ」と照れ笑いして言っていました。もし、私たちが神の御言葉によるのではなく、自分の欲望によって、神を利用しようとするかのように祈ったら、私たちの祈りはまるで子供会の子供たちのおもちゃをせがむ祈りのように決して叶わないことでしょう。私たちは「神の御言葉」に基づいて祈らなければなりません。今日の本文では「主が約束されたとおり、さきに語られたとおり、神が約束されていた時期」という表現が登場しています。これらをヘブライ語風に翻訳すると、「神の御言葉どおりに」という一つの表現になります。神はご自身がおっしゃった御言葉どおりに成し遂げられる方です。そして、その御言葉による約束は、どんなことがあってもお守りになる方なのです。その神の御言葉を信じ込んだアブラハムとサラは、老年になって相続人を儲けることになったのです。 2.サラを顧みてくださった神。 サラはつらい人生を生きた女でした。かつてアブラハムと結婚しましたが、彼女には長年子供がいませんでした。現代は子どもがいないからといって、そんなに問題化するとは思えません。子供の有無よりも、夫婦が仲良く過ごすことが、より大切な時代になっているからです。しかし、アブラハムの時代の女性において、子どもがいないということは、死亡宣告のようなものでした。当時の女性は幼い時は父、結婚してからは夫、夫の死後は息子に頼って暮らすのが一般的でした。神が旧約の律法を通して「孤児と寡婦のために」と何度も言われた理由も頼れる男のいない子供たちや女性たちのための最小限度の社会的な配慮を促されるご命令だったからです。このように子どものいないサラは、生きていても生きた心地がしない状況でした。そんなある日、神が夫のアブラハムから生まれる息子を授けると約束してくださいました。その話を聞いた時、サラは小さな希望を見つけたかも知れません。しかし、神は直ぐにはその約束を果たしてはくださいませんでした。待ちくたびれたサラは自分の女奴隷を夫の側女にしました。相続人が夫から生まれると言われたから、自分の身でなくても構わないと思ったわけです。しかし、その結果、返ってきたのは、側女の反抗と蔑視でした。 それから、10年以上経って神がまた現われて今度はサラ自身を通して子供をくださると約束されました。「わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。」(創17:16)しかし、サラはすでにかなり老いている状態でした。初めて神に出会った時のサラは65歳でした。その時、身ごもっても、産めるかどうかの状態だったのに、25年が過ぎた90歳に神が子供をくださると言われたわけです。サラはそれが信じられませんでした。しかし、しばらくして神は再び主の御使いを送って、確とお知らせになりました。「主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」(創18:14)そして結局、神は今日の御言葉通りにサラとの約束を守ってくださったのです。神の約束は特別な存在にのみ、与えられるものではありません。神はアブラハムだけに主役を与えられたことでもありません。神は年寄、弱者、女性のサラにも、神の御救いの歴史を成し遂げる主人公としての役割を与えてくださいました。確かにアブラハムとサラは完全無欠な信仰者ではありませんでした。創世記には彼らの数多くの失敗が記されています。しかし、神は一方的なご恩寵を通して、不完全な二人を導いてくださいました。弱くて老いた女性、子どもへの希望が見えなかったサラは、最終的に神の一方的な恵みによって神の栄光に満ちた存在として生まれ変わりました。 3.変わらない神の約束と成就。 私たちの信仰は、私たち自身の行いにかかっているものではありません。もちろん、私たちも自分なりの信仰の熱情を持って生きるべきであることは確かです。毎日御言葉に耳を傾け、毎日信仰を持って祈り、毎日主の御旨に頼って待ち望んで生きるべきです。しかし、本当に神が望んでおられることは信徒自身の努力、行為ではなく、神の御言葉、つまり主の約束通りに成し遂げられる神への信徒の信頼と愛なのです。ご自分の民の信頼と愛の中で、神はご自身の御業を、主の御言葉に基づいて完全に成し遂げられ、主が成就なさった、その栄光を民に分け与えてくださるのです。神の約束、すなわちアブラハムとサラを通して相続人を与え、その相続人から生まれたイスラエルの民に土地を与えるという旧約の約束は、キリストを通して神の国を建て、この世を救ってくださるという新約の約束の第一歩なのです。アブラハムにイサクをくださったことは、このアブラハムとイサク、そして彼の息子ヤコブの子孫を通して私たちのところに来られる、救い主イエス·キリストの到来の予告であり、約束なのです。そして神はそのキリストを通して、この世を罪から救ってくださるのです。 神は聖書の御言葉を通して、私たちに仰せになります。神と隣人への愛という最も基本的な御言葉からはじめ、いろいろな約束をくださいます。私たちはその御言葉に基づいて神の約束の成就を期待しつつ生きるべきでしょう。しかし、その約束が私たち自身の望む時点に成されるとは言えません。神の時と人間の時は違うからです。私が志免教会に赴任したばかりのある日、どなたかにこう言われました。「先生、心配しないでください。志免教会には何度も危機がありましたが、神様はその度に志免教会を守ってくださいました。」私はその話を聞いて大きな感動を受けました。それは神への一点非の打ち所のない完璧な信仰告白だったからです。神は私たちが教師を必要としていた時には待っておられました。そして、私達がもうダメかと思った時、教師を送ってくださいました。もちろん他国からの宣教師ですので文化的に、言語的に多少の違いはあるでしょうが、少なくとも主は教会を守り、御言葉を分かち合う道を開いてくださいました。そして、その宣教師の伝道を通して、立派な日本人の牧師を立ち上がらせてくださるかも知れないでしょう。人間の時と神の時は違います。神はご自分の教会を最後まで守り、導いてくださるという約束の言葉をくださいました。私たちは信頼、愛、そして忍耐で、その御言葉の成就を待ち望むべきです。主の御言葉ですので、主が必ず成し遂げてくださるでしょう。 締め括り 「信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。」(ヘブライ11:11)アブラハムの年齢100歳、これには数字としての意味と共に「ほぼ死んだ者」としての意味もあります。90歳の女性サラも同じです。しかし、神は御言葉に基づいてほぼ死んだ者から息子を産ませてくださいました。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。」(創21:6)何の希望もない中でも、神は希望をくださる方です。イサクという息子の名前は「彼が笑うだろう」という意味です。ほぼ死んだ者であったアブラハムとサラは神への信仰によって力を得、神の約束を信頼し、終わりに笑う人になりました。神は今日も私たちに信仰を求めておられます。「私はできないが、私の主は約束に基づいて成し遂げてくださるだろう。」という信仰を持って生きていきましょう。神は約束の言葉を必ず成し遂げてくださる方です。その神を堅く信じ、感謝と喜びで生きる志免教会になることを祈り願います。

神の国の主権者キリスト。

出エジプト記14章13-14節(旧116頁)マルコによる福音書4章35-41節(新68頁) 前置き マルコ福音書でイエス・キリストが最初に言われた言葉は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)でした。イエスはこの地上に神の国を成し遂げるためにおいでになった方です。初めの人の過ちによって生まれた罪は、この世を堕落させました。その堕落によって、人は自分だけのために生き、他人を憎み、殺し、苦しめる存在となりました。そして、その人の罪によって、この世の他の被造物も苦しむことになりました。イエスが罪によって堕落した、この世に神の国を成し遂げるということは、罪によって汚れている世を、神の愛と恵みを通して回復させる、新しい創造の意味を持っています。つまり、初めに世界を創造された三位一体なる神ご自身でいらっしゃるキリストが、十字架での贖いを通して、この世に創造の時の純粋さを取り戻させるために来られたわけです。マルコ福音書でイエスが悪霊を追い払い、病人を治し、貧しい者を助けられた理由は、まさにこの神の国の到来がご自身を通して成就することを示されるためでした。我々はマルコ福音書を読むとき、イエスの全ての御業の根拠が、この神の国の成就にあることに留意しつつ読むべきです。 1.神の国とは何か? 先々週の大信仰問答の学びでは「神の国」について考えてみました。「問8、神の国とはどういうものですか? 答 、神の国とは、神が世界と、その中のすべてのものを、御心のままに現に支配しておられる秩序と、終わりの日に成就される約束の国とを含めていうのです。」神の国とは、終わりの日のイエスの再臨に伴って完全に成し遂げられる新しい天と地を意味することです。また、それと共に、まだ完全ではないが、主の秩序によって治められる、地上のすべての物事を意味するものでもあります。なので、改革教会では、神の国が「すでに」と「まだ」の間にあると言われています。まだ、イエスの再臨の前なので、 神の国が完全に成就されていないが、主イエスに遣わされた聖霊が、すでに教会と共におられるので、この世に神の国が成し遂げられていく状況という意味です。だから、イエスを信じ、その御言葉に従順に生きる私たちキリスト者は、すでに神の国を生きている存在です。私たちは、時には苦しみや悲しみを感じたりします。この世での人生が天国どころか地獄のように感じられる時もあるはずです。しかし、神は私たちの状況を常に見守っておられ、私たちの人生の中において共に歩まれ、その苦しみと悲しみを共に担ってくださる方です。我々が神の国に生きているという意味は、まさにそういうことです。私たちと永遠に一緒におられるという御言葉を確信する限り、私たちは神の国の民としてこの世を生きていけるのです。 「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。」(4:11-12)ところで、主はこの神の国についての秘密を、この世のすべての人に与えたわけではないと言われました。前回のマルコ福音書の説教で主が「種をまく人の喩え」を言われた時、人々はその意味がまったく分かりませんでした。そこで、弟子たちは、主にその意味について尋ねました。その時、主は誰もが「神の国の秘密」を聞けるわけではないことを教え、弟子たちに本当の意味を教えてくださいました。その後、また他の喩えを聞かせてくださりながら(4:21-34)神の国の秘密は「聞く耳のある者だけが聞く」と言われました。ここで「聞く耳がある者」とは、誰を意味するのでしょうか?単刀直入に言うとアラン·コールという神学者は、自分のマルコ福音書の解説書を通して、「主の御言葉を聞き、受け入れ、実践する人」と語りました。つまり、主の御言葉を信じ、生活を通して真剣に答える者を意味するのです。このような人々は、いかなる苦難や逆境があっても、主の御言葉をしっかりと握り、最後まで主に付き従うことでしょう。そして、神の国はこのような者に許されるのでしょう。それではこのような神の国の性質を覚えつつ、今日の本文について取り上げてみましょう。 2.突風の中の主と弟子たち。 「その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。」(35-36)1章から4章まで、イエスは引き続き、カファルナウムにて、病人を癒し、悪霊を追い払い、福音を教えておられました。いよいよカファルナウムでの活動が終わった主は、船に乗ってガリラヤ湖の向こう岸に渡ろうと言われました。5章によると、その向こう岸にはゲラサという地域があったそうです。ゲラサには異邦人が住んでいました。それからイエスが向こう岸に行かれた理由が異邦人にも癒しと教えと宣教をくださるためであるということが分かります。ところで、イエスが「向こう岸に渡ろう」と言い終わるやいなや、弟子たちはイエスを舟に乗せたまま漕ぎ出しました。私達はここで「乗せたまま」という表現に注目する必要があります。確かに渡ろうと言われた方はイエスでしたが、イエスを乗せたまま、動いているのは弟子たちでした。この語句での主語がイエスではなく、弟子たちであることが気にかかります。ところで、しばらくして北の方から風が吹き出しました。ガリラヤ湖は普段は穏やかなほうですが、時々、北のヘルモン山から下りてくる冷たい空気と昼間に暖められた湖の暖かい空気が会い、2M超えの波が打つほどの大きな突風を起こしたりします。ところで、よりによって、イエスと弟子たちが乗った船が、その激しい風に巻き込まれてしまいました。 「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、先生、私たちが溺れても構わないのですかと言った。」(4:37-38)36節で主体的に行動していた弟子たちが、突然の突風に恐怖を感じ、イエスを探しました。その時、主は艫の方で眠っておられました。艫の方とは船の後尾との意味ですが、弟子たちが船首におり、主は後ろに静かにおられる様を描いている表現です。弟子たちは主を「乗せたまま」、まるで自分たちがイエスを連れていくかのように行動していました。しかし、突風が起こると、イエスを連れていくかのように振舞っていた弟子たちは、みんな怖がり、急いで艫で静かに眠っておられるイエスを起こしました。自分たちが死ぬようになったと言い、助けを求めて叫んだのです。「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、黙れ。静まれと言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。(4:39-40)その時、イエスは目を覚まして、風と湖を叱り、突風を静めてくださいました。そして、イエスと一緒にいるにもかかわらず、主を信じず、恐れていた弟子たちに「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と叱られました。それを見た弟子たちは「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」とイエスの権能に驚きました。 3.神の国の主権者イエス·キリスト 我々は今日の本文のことを単純に自然までも治めるイエスの武勇談とだけ見てはならないでしょう。先ほどお話ししました神の国という概念に基づいて理解すべきでしょう。神がご計画なさった堕落したこの世の回復、すなわち神の国の到来は徹底的にイエス・キリストを中心とする神の権能によってのみ現われるものです。「神の国」とは人間の能力、財力、手腕によって成されるものではなく、御父の計画と聖霊のお導き、とりわけ御子の権能によって成されるものです。今日、主と弟子たちが乗った船は、いわば教会の象徴のようなものです。神が計画され、お創りになった、この世は本来、突風のない穏やかな海のようなところであるべきです。しかし、人間の罪によって生まれた堕落は、この世をまるで突風の海のように無秩序で破壊的に作ってしまいました。イエスはこのような世の中に一筋の光を下さるために、ご自分の教会を打ち立てられたのです。しかし、この世の中で今日の本文の弟子たちのように自分が船、つまり教会を動かそうとすれば、結局、その教会は突風の海のようなこの世の激しさに堪えられず、滅びてしまうでしょう。また、これは教会に限ったことではありません。この突風の海のような世を静める方は、ひとえにイエスお独りです。しかし、イエスでない別の存在が世を静めようとするならば、結局、その存在は堕落した世という突風の海に巻き込まれ、滅びてしまうでしょう。 文明が生まれて以来、人間はいつも自ら世を導こうとしてきました。ところで、皮肉なことは、その度に戦乱があったということです。人間が自ら歴史を導こうとする時には、必ず戦争が起きて、多くの人が亡くなりました。かつて日本帝国は「大東亜共栄圏」という合言葉を掲げ、アジアの解放という口実で戦争を引き起こしました。しかし、その戦争で日本人だけで300万人、アジアでは数千万人が亡くなりました。アメリカ合衆国は、こうした日本を退けて平和をもたらすためにという名目で歴史上初めて核兵器を落としました。その結果、25万人余りが死に至りました。さて、歴史上の教会はどうだったでしょうか。教会が起こした十字軍戦争は200年にわたって数多くの虐殺をもたらしました。旧教と新教の戦争で多くの人が死んだこともあります。このすべてが人間がこの世や教会を導こうと起こしたことでした。真の繁栄と平和の神の国のような世界は人間の手では成し遂げられないものです。ひたすら主イエスの御言葉を信じ、聞き従って生きる時に、主が私たちの中で成し遂げてくださるものです。いつか、この世に真の平和の神の国が訪れるでしょう。突風が静まった穏やかな海のような真の神の国が臨むことでしょう。しかし、それはイエスが再臨されて完全にこの世を裁かれ、治められる日にはじめて成就されることなのです。その日まで私たちに出来ることは、イエスを待ち望むことと、その御言葉に従順に聞き従って生きることでしょう。そのような人生を通して私たちは主と共に「すでに」と「まだ」の間の神の国を味わいつつ生きていくことでしょう。 締め括り 今日の旧約本文は出エジプトの時、ファラオの騎兵たちがイスラエルを追い掛ける時のことでした。目の前には海が立ちはだかっており、後ろからは怒った騎兵たちが戦車に乗って迫ってきています。まるで、今日のガリラヤ湖の突風の中の弟子たちのように、危機一髪の状況でした。その時、神の御言葉をいただいたモーセは次のように叫びました。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」(14:13-14)イスラエルは死を目の前にしていましたが、そこには神がいました。目の前には海、背後には騎兵たちがいましたが、イスラエル民族には主の御守りがあったのです。神の御言葉に従った結果、彼らは無事に死から逃れることができました。真の神の国とは、主だけが成し遂げられます。私たちはただ、その主の御言葉を信じ、聞き従えばいいのです。毎日の人生の中に不可能なことがたくさん見えてきます。そして、それに我々は恐れを感じます。しかし、主権者キリストは、神の約束のように我々と共におられます。そして、その不可能に勝たせてくださいます。この主イエスの権能の中に生きることこそ、神の国を生きるあり方ではないでしょうか。主が私たちの人生を穏やかな湖のようにし、完全な神の国が成し遂げられるまで私たちを導いてくださると信じましょう。神の国の主は神の国を生きる私たちを決して諦めることなく、共に歩んでくださるでしょう。

繰り返す失敗と溢れる恵み。

創世記20章1-18節(旧27頁)ヨハネによる福音書15章4-5節(新198頁) 前置き 信仰の父と呼ばれるアブラハムは波乱万丈の人生を生きました。主のご命令によってカナンに来るやいなや、酷い飢饉に襲われ、飢饉を避けてエジプトに下りました。エジプトに行ったら、政治的な問題のため、妻を妹だと騙さなければならない命の危機に遭いました。以降、神のお助けによってエジプトから無事に脱出しましたが、また、自分の相続人だと思っていた甥のロトと財産の問題で別れることになりました。その後、離れていた甥を救うために命をかけて、大きな戦いに参戦することにもなりました。神に約束された息子の誕生は時間が経っても兆し無しで、神のご意思とは関係なく迎えた側妻は家庭の不和をもたらし、彼女から生まれた息子も神に約束された相続人ではなかったのです。「神の民」という呼び名が形だけのものに思えるほど、アブラハムの人生は波乱万丈そのものでした。しかし、そのようなアブラハムの人生の中でも、全く変わりのなかったのは、神がアブラハムを見捨てられず、常に共に歩んでくださることでした。神はアブラハムと契約を結ばれ、その契約関係の中でアブラハムの間違いを罰されず、その間違いさえ抱え込み、彼の人生の道に、いつも一緒にいてくださいました。キリスト教信仰の最も重要な価値の一つは、神がご自分の民と永遠に一緒に歩んでくださるということです。私たちは今日の本文を通して、アブラハムの失敗を再び目撃することになるでしょう。しかし、それと共に、決してアブラハムのことをお見捨てにならない神の愛をも再び目撃することになるでしょう。 1.同じ罪を繰り返すアブラハム。 アブラハムは、最も偉大な聖書の人物の一人と評価される人です。「信仰の父アブラハム」「アブラハムとイサクとヤコブの神」「アブラハムとダビデの子孫イエス」という表現があるほど、聖書を基盤とするキリスト教信仰において、彼の存在感は非常に大きいです。それだけに聖書を神の御言葉だと信じているキリスト者にとっても、旧約のアブラハムという人の影響は、新約でのイエスに肩を並べるほど非常に大きいです。しかし、かつて私は、このアブラハムという人が非常に気に食わなかったです。その理由は、まさに今日の本文のことのためでした。「ゲラルに滞在していたとき、アブラハムは妻サラのことを、これは私の妹です。と言ったので、ゲラルの王アビメレクは使いをやってサラを召し入れた。」(1-2)今日の本文、創世記20章は、前の12章の「アブラハムがエジプトのファラオに妻を妹だと騙した物語」と非常に似ています。話の文脈から見ると、今日の本文の物語はアブラハムが神を信じてから、すでに24年が経った時点、つまり、かなり成熟した信仰者になったはずの時点のことです。しかし、彼はなぜか自分の妻をまた捨てるといった失敗を再び仕出かしてしまい、まったく成長していない様子を見せているのです。12章とあまり変わりのないアブラハムの繰り返される信仰の失敗に失望感を覚えた私は、彼を「妻を二度捨てた情けない人間だ。」と思うようになりました。そのため、アブラハムのことが気に入らなかったわけです。 創世記12章でアブラハムは神に何も問わず、飢饉を避けて身勝手にエジプトへ下りました。そして神にも、妻にも大変な無礼を犯してしまいました。しかし、その後、神に赦されたアブラハムは繰り返し失敗と回復を経験し、少しずつ成長していきました。しかし、アブラハムは、長年の信仰の成長を経験してきたにもかかわらず、今日の本文に至って、再び妻を捨てる、また同じ失敗を犯してしまったのです。彼の妻サラは、ただ、普通の人妻に過ぎない存在ではありません。アブラハムの相続人、つまり神の約束の息子を産む、神に選ばれたアブラハムと肩を並べるほどの大事な人物でした。約束の相続人イサクを産む妻サラを捨てるということは、神との約束を破る大きな犯罪であり、妻との信頼をも破ってしまう大きな裏切りでした。しかし、アブラハムが同じ間違いを犯す今日の本文を見ながら、「これが人間の本質なのか?」という気がしてきました。我々は信仰を持って以来、戦争も、命の脅威も、人権の抑圧もない平和の時代を生きてきました。個人的な苦難はあったはずでしょうが、わりと平和な世の中で信仰生活をしてきたのです。ところで、もし、私たちもアブラハムのような命の脅威を感じるほどの状況だったら、果たして私たちは信仰を守り抜くことが出来たのでしょうか。ひょっとしたら繰り返されるアブラハムの失敗は、私たちの姿を映す鏡のようなものなのかもしれません。もし、実際に命をかけなければならない日が来たら、我々はアブラハムと違う姿をとることが出来るでしょうか。 2.なぜ同じ話が繰り返されるのか? ところで、アブラハムは、なぜ同じ失敗を繰り返したのでしょうか? 過去、旧約学を勉強していた時、今日の本文についての面白い主張を読んだことがあります。それは、創世記12章と20章が、ひとつの言伝えから枝分かれされた物語だということでした。つまり、12章の「エジプトのファラオ」と20章の「ゲラルのアビメレク」が登場する、似ている物語が、地名と人名だけ違い、アブラハムが妻を妹だと騙したこと、神が現れてアブラハムを危機から救ってくださったことなど、同じ言伝えから派生したものだということでした。この主張は、かつて旧約学界に大きな響きを与えた「文書仮説」という学説によるものです。昔、創世記が記される、ずっと前から、アブラハムに関する断片的な、いくつかの物語はイスラエル民族の口から口に伝わり、こうした数多くの言伝えが数人の無名の記録者たちによってまとめ記されたという学説です。また、その学説の中には、長い時間、編集されてきた聖書に、その記録者たちが自分の神学に合わせて、似たような物語を意図的に加えた可能性もあるという主張もありました。つまり、もともとアブラハムが妻を捨てた話は、一度だけのことですが、以後、聖書を編集した記録者たちが、似たような物語を別の出来事のように追加し、それが創世記20章になったという仮説なのです。しかし、このような文書仮説は、あくまでも仮説ですので、定説として受け入れてはなりません。非常に注意すべき主張なのです。しかし、それでも私は文書仮説が主張する「意図的に加えた。」という文章を通して、小さいヒントを得ることが出来ました。12章と20章に繰り返されるアブラハムの失敗と神のお赦しの物語が、ひょっとしたら、神がご自分の移り変わりのない愛を示されるための意図的なしるしではないかということでした。創世記に記されているアブラハムの最初の罪と最後の罪が、仕組まれたように「妻を捨てる。」という非常に似た出来事だったからです。 現代の私たちは、創世記が一人によって記された書なのか、長い間、多くの人によって記された書なのかは分かりません。ただし、この創世記という聖書が記される際に、神が深く介入され、導いてくださったということ、そして、我々に主の御言葉として、この創世記をくださったということは否定できない事実なのです。なので、私たちは創世記 12章と 20章の繰り返されるアブラハムの失敗と神のお赦しの物語を通して、神が私たちに示しておられるしるしが、確かにあるということは信じるべきでしょう。いくら偉大な信仰者であるといっても失敗を経験することがあり、その偉大な信仰者でさえ、神のご恩寵がなければ、絶対に一人で立てないということを教えるための「失敗の繰り返し」それが創世記12章に似ている今日の本文の真の意味ではないでしょうか。「その夜、夢の中でアビメレクに神が現れて言われた。あなたは、召し入れた女のゆえに死ぬ。その女は夫のある身だ。」(3) 神は創世記12章でファラオを罰されたように、今回はアビメレクにご警告なさり、アブラハムを救ってくださいました。アブラハムは繰り返される罪による失敗を犯しましたが、神も同じく繰り返してアブラハムを救ってくださったのです。神の民にいくら信仰があるといっても、その自分の信仰だけで完全に立つことはできません。民と共におられる主の存在によってのみ、民の信仰は輝くものなのです。私たちはアブラハムの繰り返される失敗に失望するより、それでも絶対に諦められない神の愛への感謝を持つべきでしょう。もしかしたら、このアブラハムの失敗へのお赦しが、私たちの失敗へのお赦しを意味する鏡であるかもしれないからです。 3.繰り返す失敗と溢れる恵み。 「直ちに、あの人の妻を返しなさい。彼は預言者だから、あなたのために祈り、命を救ってくれるだろう。しかし、もし返さなければ、あなたもあなたの家来も皆、必ず死ぬことを覚悟せねばならない。」(7)正直、今日の本文を読んでみると、先に誤った人はアビメレクではなく、アブラハムのように見えます。古代に、一つの勢力が拠点を移す際に、他の勢力の暴力的な牽制を避けるために、家族を人質として差し出すという話もありますが、当時のアブラハムはカナンで力も、富もある結構有名な人で、妻サラはすでに100歳近くの年寄でした。ある学者たちは、神がサラに子供を産ませるため、彼女を若返らせてくださり、それによってアビメレクがサラを連れていったと解釈したりもしましたが、説得力は弱いと思います。いずれにせよ、当時のアブラハムは自分の妻を妹と騙す必要はなかったと思います。創世記12章では、勢力も弱く、妻も比較的若かったので、命のために騙したのかも知れませんが、創世記20章では財力も、権力も持っていたアブラハムが、あえて妻を渡す理由がなかったということです。なので、おそらくアブラハムが早のみ込みして怖がり、妻を渡したのではないかと思います。 いずれにせよ、今日のアブラハムは信仰の父と呼ばれるに恥ずかしいほどの、情けない姿をとっています。しかし、この情けないアブラハムへの神の御心は驚くべきことです。まさにアブラハムのことを「預言者」と呼んでおられるからです。神はアブラハムが信仰の父に相応しく行動していた時も、情けない信仰の失敗者のように振舞っていた時も、変わることなく「主の民」「神の預言者」と認めてくださいました。彼の行いではなく、神と結んだ契約を見ておられたからです。これはキリストの福音に非常に似ています。私たちキリスト者は、自分自身の義によって神の民となった存在ではありません。私たちもアブラハムのように、時には信仰に生きたり、時には不信仰に生きたりします。いや、むしろ信仰より不信仰に生きるほうが多いかも知れません。しかし、それでも神は、私たちを救ってくださったキリストの義をご覧になり、私たちをご自分の民として認めてくださいます。今日のアブラハムが犯した罪は、彼が最初に犯した罪と同じ罪、つまり妻を捨てる罪でした。しかし、神は最初の罪から最後の罪まで、いつも同じように彼を守ってくださいました。正しい道を教えてくださいました。同じくイエスは、人生の初めの罪から終わりの罪まで、すべての罪をお赦しくださり、我々を神への道に導いてくださるでしょう。繰り返される罪の中でも、主は満ち溢れる恵みを持って私たちの人生を導いてくださるでしょう。その主をほめたたえます。 締め括り 「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。葡萄の枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。私は葡萄の木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:4-5)イエスは十字架にかけられる前夜、ご自身は葡萄の木であり、弟子たちは枝であると言われました。枝は幹につながっている時にのみ実を結ぶことができ、自分では実を結ぶことができないものです。アブラハムは同じ失敗を繰り返しました。しかし、彼は偉大な信仰の人物として私たちの記憶に刻まれています。アブラハムが偉大な人物に覚えられる理由は、失敗にもかかわらず神を信じ、離れずつながっていたからです。我々キリスト者も依然として、とるに足りない存在です。しかし、神はキリストにつながっている私たちを見ておられます。私たちが繰り返して罪を犯しても、主は繰り返して赦してくださり、常に私たちを正しい道に導いてくださるでしょう。だから失敗を恐れないようにしましょう。失敗したら悔い改め、お赦しの神を最後まで信じ抜いていきましょう。私たちが神につながっている時に、神は私たちを実を結ぶ枝として養ってくださるでしょう。繰り返される失敗にも溢れる恵みによって応えてくださる神のご恩恵を覚え、神のもとにいる者として生きていきましょう。

福音の種と心の畑。

イザヤ書6章8-13節(旧1070頁) マルコによる福音書4章1-20節(新66頁) 前置き イエスの時代のイスラエルの民は、旧約の予言によって約束されたメシアが必ず来るだろうと信じていました。昔、神とアブラハムの契約によって約束された大いなる国民、モーセの導きによって民族の基礎を築いた選ばれた民族、偉大な王ダビデを通して築き上げられた強力な国家であることなどと。イスラエルは過去の栄光が再びもたらされると信じていました。メシアが現れ、かつてのアブラハムやモーセ、ダビデのような偉大な業を成し遂げるだろうと待ち望んでいたのです。つまり彼らが待っていたのは、当時イスラエルを支配していたローマ帝国と異民族出身のヘロデ王を追い出し、強力な国家を再建する政治的なメシアでした。しかし、ある日突然現れ、メシアと呼ばれたナザレの青年は、あまりにもみすぼらしい者でした。彼には軍隊も宮殿もありませんでした。いつも弱くて貧しい人々といる元大工にすぎなかったのです。そのため、マルコによる福音書3章ではイスラエルの指導者たちも、彼の家族たちも、彼を認めませんでした。しかし、彼の外見ではなく、真の価値を見抜いた人々には、人生が変わるほどの癒しと回復が与えられました。今日の言葉は、そのような3章の内容と深い関係を持っています。種を蒔く人の種として描かれた福音をどのように受け入れるかによって、その結果が変わるということを教えてくれるのです。 1.古代イスラエルの種まきの方法。 まずは、今日の本文に出てくる種を蒔く人の喩えが持つ背景から探ってみましょう。古代イスラエルでも基本的には現代の農業と同じような仕方で種まきをしていたそうです。つまり、種を蒔く前に土を耕して、その上に種を蒔き、覆うことです。「恵みの業をもたらす種を蒔け、愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を耕せ。」(ホセア10:12)旧約聖書は、それを「新しい土地を耕す。」と表現しています。このような種まきの仕方は、小麦や大麦の種まきに用いられたのですが、冬の間、固まった土地を耕し、種が深く根を下ろせるように春の農作業によく用いられる仕方でした。ところで、イスラエルでは日本の稲作のように丁寧に田植えをするのではなく、小麦や大麦などの種を適当に撒き散らす方法を取っていたそうです。イスラエル地域は年間降水量がそんなに多くなく、土地には塩分が多かったので、水田農業に不適合なところだったからです。つまり、稲が育たない環境だったのです。そのため、主な穀物は乾きや塩分に強い小麦や大麦などでした。これがイスラエルの主な春の農作業でした。小麦や大麦以降の夏の農業としては、ぶどう、いちじく、オリーブなどがほとんどだったそうです。なので、今日のイエスの喩えは、まさに春の耕しの後の小麦と大麦の農作業に関するお話でした。 ところで、イスラエルは石灰岩が多い地域で、畑を耕しても多量の石や砂利が畑に残っていました。そしてイスラエルは比較的に乾いた気候のため茨の藪などの雑草もたくさん生えていました。だから種をたくさん蒔くと言っても、すべての種がよく育つわけではなかったのです。そういう意味で、日本での農業は自然の特に恵まれていると思います。イスラエルの農夫が小麦や大麦の種を畑に蒔くと、ある種は畑と畑の間の道端の硬い地面に落ちたり、ある種は石灰岩の石だらけで土の少ない所に蒔かれたり、ある種は茨の中に落ちたりするのです。それらの種は、結局鳥に食われたり、日に焼けて枯れてしまったり、腐ってなくなったりするのです。 しかし、その中でも、良い土地に落ちた種は、たくさんの実を結びます。 イエス様はこのようなイスラエルの農業を喩えにして、主の御言葉、つまり福音という種が人々の心の中でどのように反応するのかを説明してくださるのです。主の福音は毎日、聖書を通して、説教を通して、様々な宣教を通して世に伝わっています。信じない者たちにも伝わっていますが、既に信じている私たちにも伝わっています。しかし、そのすべての福音が、いつも実を結んでいるとは言えません。聞く者の心の状態によって、最初から成長しない場合も、しばらく心を響かせてすぐに消える場合も、福音の言葉が深く根を下ろして生活の中に、その恵みが現れる場合もあります。 2.イエスが喩えを通して教えられる理由。 ところで、イエスはなぜ、このような喩えを通して福音の言葉を宣べ伝えられたのでしょうか? 「イエスがひとりになられたとき、十二人と、イエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。」(10)本文によると、イエスの喩えそのものは難しい内容ではなかったようです。ですが、その喩えの真の意味は分かりにくかったようです。 イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい。」(9)と言われ、喩えの本当の意味を悟れる者だけに聞かせてくださいました。 なぜだったでしょうか? 最初から分かりやすく伝え、一人でも多くの人が御言葉を聞いて悟ることが、より良いのではないでしょうか? しかし、我々は、すべての人々が福音を悟り、受け入れるわけではないことを知らなければなりません。確かに神はすべての人のために福音をくださいました。まるで今日、喩えの種を蒔く人のように、すべての人に福音が伝わるように、世界中に主の教会を建て、伝道させてくださったのです。だから、教会は神の御言葉を誠実に宣べ伝え、伝道しつつ生きるべきです。しかし、だからといって私たちの伝道のメッセージを聞いた、すべての人が神を信じるようになるわけではありません。ある人はとんでもない話だと無視したり、ある人ははむしろ反感を示したりします。人の心の畑の状態によって、ある人は道端のような心、ある人は茨の藪のような心、ある人は良い土地のような心を持って神の御言葉に反応するのです。 イエスをベルゼブルの手下だと考えていた律法学者たちは、モーセ五書の専門家でした。彼らはモーセ五書を完全に覚えており、律法書無しで朗読できるほどでした。しかし、彼らは律法の主であるイエスの福音が全く理解できず、むしろイエスを迫害しました。イエスの家族はどうだったでしょうか。イエス様と一生を一緒に暮してきた母親も、兄弟姉妹たちもイエスの福音が理解できなくて、気が変になっていると思っていました。 むしろ、イエスと何の繋がりもなかったイスラエルの貧しい者たち、弱い者たちがイエスの福音の真の価値に気づき、イエス様に付き従ったのです。今日の旧約本文はこう語っています。「主は言われた。行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。」(イサヤ6:9-10)主は真に自分の弱さを認め、神だけが自分を助けてくださる救い主であることを信じ、従順に聞き従う者に御言葉を悟らせてくださる方です。その反面、主を拒否し、自分自身を神のように高める傲慢な者には、むしろ悟りを塞がれる方でもあります。主の御言葉は目で読み、耳で聞くものではありません。主の御言葉は心で聞き、信仰で受け入れる、自らを省み、悔い改める謙遜な者に与えられる祝福なのです。 主の福音の実とは、自分のことを弁え、神の力に依り頼み、完全に聞き従おうとする者たちに与えられる主の恵みなのです。 3.「自分の心の畑を顧みさせる主」 そういう意味で、今日の言葉は私たちにくださる主の教訓でもあると言えるでしょう。教職者だといって皆が主の御言葉に適う人なのでしょうか? 聖書を数十回読み、ヨーロッパに留学し、聖書の原文を勉強し、多くの神学理論を知る牧師だと、果たして立派な信者なのでしょうか? 正直、私は教師としての自分のことを高く評価できません。毎週、説教していますが、自分の説教のように生きられない偽善的な姿が見えるからです。隣人愛を語りながら、隣人を愛していないことに反省させられます。伝道を語りながら、伝道していないことを省みさせられます。もしかしたら私は既に習得した神学理論と固定観念に閉じ籠り、毎日新しく与えられる主の御言葉に鈍く反応しているのかも知れません。そういう意味で、教職者こそ日々悔い改め、絶えず自らを振り返る場に立つべきだと思います。ひょっとしたら教職者が神の御言葉から最も遠ざかっている、まるでイエスの時代の律法学者のような存在かも知れないからです。それでは、私たちみんなはどうでしょうか? 日曜日に教会に出席し、一度、礼拝を守ることだけに満足しているのではないでしょうか? 主日の30分の説教に満足して、1週間ずっと主の御言葉から遠ざかって、御言葉から学んだ教えを実践もせず、道端、石だらけ、茨の藪のような心の畑を持って生きているのではないでしょうか? 伝道も、祈りも、隣人への愛も手放しで生きているのではないでしょうか? 我々は、自分の心の畑が本当に良い状態だと自負できるのでしょうか。今日の言葉を通して、私たち自身のことを顧みる時間になれば幸いだと思います。 主は毎日私たちに福音の御言葉をくださいます。主日の説教を通して、聖書の御言葉を通して、水曜祈祷会の聖書と教理の勉強を通して、絶えず御言葉をくださいます。しかし、その御言葉を受け入れる状態かどうかは私たち次第です。お祈りを通して自らを悔い改め、自分のことを弁え、自分の心の畑が道端ではないか、石だらけではないか、茨ではないか自分の状態をきちんと知り、改善して生きるべきです。改革派神学には「御霊の照明」という表現があります。つまり、主の民が御言葉を聞いたり、読んだりする時に聖霊なる神が悟りの光を照らしてくださるという意味です。キリスト者への御霊の照明は毎日照らされています。イエスは十字架の犠牲と復活を通して、御霊の照明が一分一秒も途絶えることなく私たちに照らされるように恵みを与えておられます。そして、神はそのキリストの恵みの中で、自らの心の畑を耕す務めを主の民に任せてくださいました。我々の心の畑は道端にも、石だらけにも、茨にも、良い土地にもなり得ます。したがって、我々は常に自分の心の状態を綺麗に磨き、主の御言葉にいつでも反応できるように自らの心の畑を立派に耕していくべきです。 締め括り 「イエスは言われた。あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがないようにするためである。」(11-12) 主イエス・キリストの福音は神の国の秘密です。つまり、誰もが理解できるものではないということでしょう。福音を聞いて、みんなが悟れるのであるなら、少なくとも日本の人口の4割はキリスト者になったはずでしょう。神はすべての人に向けて福音をくださいましたが、それを聞いて受け入れ、悟る人はごくわずかです。しかし、今日の新約本文の13-20節の言葉のように、主を信じるご自分の民たちには悟れる機会を与えてくださいます。だから、我々の心を綺麗に耕し、主の御教えを求めて生きていきましょう。毎日、悔い改めの人生を生き、神の御言葉を大事にし、実践できる力を求めて生きていきましょう。そのような私たちの人生の中に、主はご自分の御言葉による実を30倍、60倍、100倍も結べるよう導いてくださるでしょう。信仰は神と民の相互の契約です。主は悟りを与え、民はその悟りを得るために、聖霊のお導きの中で謙遜に生きるのです。そのような良い心の畑を持って生きていく志免教会になることを祈ります。

逆説的な神の恵み

イザヤ書40章6-8節(旧1124頁) ルカによる福音書15章11-24節(新139頁) 前置き キリスト教でよく使われている言葉の中には、どんな表現があるでしょうか。 まずは「神の愛、隣人への愛」のように愛に関する表現をよく使っていると思います。また、キリスト教の主な教えの一つである「悔い改め」という表現も、よく使われているでしょう。そして、先にお話ししました二つの言葉と同じくらいの頻度で「恵み」という表現も少なからず使われていると思います。「主の恵みに満ちた教会になりますように。」「日本と全世界の教会に主の恵みを注いでください。」などの言葉は、お祈りや説教の時でもよく使われている表現でしょう。「愛、悔い改め、恵み」いずれも大事な表現かと思いますが、特に今日は「恵み」という表現について話してみたいと思います。私たちは何気なく、恵みという表現を口にしていますが、果たして、この「恵み」とは何を意味するものでしょうか。人間が抱いている漠然とした意味としての「恵み」ではなく、聖書が私たちに語っている恵みについて、探ってみたいと思います。 1.ご自分の民を滅ぼされる(?)神。 冒頭から「民を滅ぼす神」というかなり違和感のある表題語が書いてありますが、これは実際に民が神に滅ぼされるという意味ではありません。これは、私たちが漠然と考えている「復興、平和、喜び」ばかりのイメージとしての恵みだけではなく、時には「衰退、苦難、逆境」なども、神の恵みとなり得るということを強調するための表現なのです。恵みとは、ヘブライ語では「ヘセド」、ギリシャ語では「カリス」と言いますが、いずれも「契約に基づいた神の一方的な恩寵、慈悲、憐み、賜物」のことだと言われます。ここで重要なことは「契約に基づく」という表現でしょう。神の恵みとは「人間が身勝手に振舞っても関係せず放っておく。」という意味ではありません。神と人の「契約(旧約の神とイスラエルの契約、新約のキリストと教会の契約)」の中で、神が人を正しい方向に導いてくださるということを意味します。「契約」とは、神が主になって民を導き守り、民は主なる神だけにつき従って仕えるという相互約束としての意味を持っています。つまり、神の御心に従って生きるのが、神との約束に対する人のあり方であるということです。 神は主の恵みの中で、神とのこの契約を忠実に守る者たちを神との旅路にお招きくださいます。そして終わりの日、彼らが神に召され、神のもとへ帰るまで、神は彼らを導いてくださるのです。キリスト教が語る恵みとは、まさにそのようなものなです。天地万物をお創りになった神が、「私」という小さな存在を最後までお見捨てにならず、支えられ、御国に至るまで同道してくださるということです。自分がこの世で権力者になり、すべてのことがうまくいって成功し、お金をたくさん儲け、気楽に生きることが恵みではなく、神の御心に聞き従い、苦難の中でも神を拠り所にし、成功の中でも神を忘れず、主に召されるその日まで、いや死後でも、その神と共に歩むことこそが、まさに真の恵みなのです。だから、もし神の民と呼ばれる者が神の望んでおられる人生を生きていないなら、神の恵みに適う人生を生きていないなら、神は彼を恵みに連れ戻してくださるために、ご自分の民に試練と苦難とを与えてくださる時もあります。その時の試練と苦難は非常に苦しいものですが、結論的には神に帰るための「恵み」となるのです。 2.枯らす恵みの後爆風 私は2001年から2003年にかけて軍隊の炊事兵(調理兵)として生活をしました。ある人は戦闘兵、ある人は運転兵、また、ある人は行政兵として軍隊生活をしますが、私は行政兵に属する炊事兵だったのです。ところで、戦闘兵の中に迫撃砲兵という兵種もいました。迫撃砲とは地面に据え付けて使う武器で、拳サイズの砲弾を放つ武器です。ところで、その砲兵が訓練中に前方に迫撃砲を撃つと、後方の草や木が枯れてしまうことがよく見られるそうです。まさに迫撃砲が噴き出す後爆風のためです。後爆風とは、砲弾が放たれる時に生じる熱や衝撃を、迫撃砲の後尾に噴き出す強い熱風のことです。前方の敵に向かって迫撃砲が発射されますが、その砲の後爆風の故に後方の草が焼けて枯れてしまうのです。いきなり軍隊の武器の話を出して、ええっとされたかもしれませんが、私が神学校に通っていた時、私を指導した担当教授は、このような比喩をあげて神の恵みの特徴について説明したりしました。 神の恵みは、人間の罪によって汚れた世界を新たにする日まで(キリストの再臨の日)この世に生きるご自分の民を諦めない、神の変わりのない愛です。神は主の民を正しい道に導いてくださるために、神の恵みの反対側に向かう者たちを恵みの後爆風で枯らされる方です。主は「愛、信仰、救い、従順、奉仕」を求めておられますが、その反対側で「情欲、不信心、不従順、嫌悪」を追い求める主の民がいれば、彼に人生の試練と苦難を与え、その罪と情欲の生活を枯らし、主のもとに帰らせてくださる方です。たとえば、牧師や宣教師になるという誓願を破って、わがままに生きていた人々が、どうしようもない人生の逆境にあって、結局、神のもとに帰り、教会に仕える場合が、この恵みの後爆風による例の一つでしょう。ただ聖職者だけでなく、病気によって、ビジネスの失敗によってなどの様々な理由で神から遠ざかった人が倒れて帰ってくる場合が多いと思います。今日の新約本文の「放蕩息子」のたとえも一種の恵みの後爆風に関する物語だと思います。 3.逆説的な神の恵み。 ルカによる福音書15章の今日の本文は、キリスト者なら誰もが知っている有名な物語です。ある人の次男が、父の遺産をあらかじめもらって遠い国に旅立ち、放蕩の限りを尽くした挙句、結局、全ての財産を無駄遣いしてしまいました。豚の餌さえも食べられなくほど困窮した彼は、結局、我に返って父の家に帰ることになります。その時、父は彼を喜んで迎え入れてくれます。もし彼がすべてを失わなかったら、彼は決して父のもとに帰っていかなかったでしょう。彼の失敗と苦難が、かえって父のもとへ帰る理由になったわけです。その例え話の父親は父なる神の象徴です。このように神は愛する者の回復のために苦難も与えられる方です。愛するからこそ苦難を与えられるのです。まるで親が訓戒によって愛する子供を教えるように、神も戒めによってご自分の民を導いてくださるのです。神の御心に聞き従わない、とあるキリスト者がただ成功するばかりで、何の苦難も経験しないなら、むしろそれは神の祝福ではなく呪いであるかもしれません。神は罪と悪に陥っている愛するご自分の民を枯らしてでも必ず恵みの道へと導かれる方だからです。 このように神の恵みは、人間が漠然と理解している成功や祝福だけを意味するものではありません。最も重要なことは、神様は「民が欲望に満ちて、不正な豊や成功の中に生きるのではなく、神との契約の中で変わることなく共に生きることを望んでおられる。」ということです。その道のりで肉体的な豊や成功が与えられる場合もあるでしょうが、それが信仰の目標だとは言えません。 主の恵みは、この地上での肉体的な幸いだけでなく、死後の永遠の命まで、つながっていることを忘れてはなりません。その永遠の命と幸いのために、主は苦難という名の恵みを下されるのです。だから、苦難と逆境に直面した時の私たちは「神の恵みが切れた。」と考えるより、「神の恵みがより一層強く私たちに与えられている。」と考えるべきです。そのような試練と苦難の中で真の悔い改めを回復し、主のお助けを求めて生きるのが神の恵みへの正しい理解でしょう。 締め括り。 「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(イサヤ40:6-8)旧約のイスラエルの民は自分たちの豊と栄のために神を裏切りました。異邦の偶像を拝み、社会の弱者を苦しめました。強い国には弱者から奪い取った財物を貢ぎました。結局彼らは神に裁かれ、滅びてしまいました。しかし、主は今日の旧約本文であるイザヤ書40章全体を通して、神がイスラエルを滅ぼされても、主の御言葉を通して再び興すと約束してくださいました。この約束は真の主の御言葉でいらっしゃるイエス・キリストによって成就されました。しかし、罪に満ちた過去のイスラエルは草と花のように枯らされました。その代わりに神の御言葉による新しいイスラエル、教会を打ち立ててくださったのです。私たちはこのような逆説的な主の恵みを覚えつつ生きるべきです。ご自分の民を主の道へ導いてくださることこそが真の恵みなのです。欲望の満足が恵みではなく、神の御心通りに導かれるのが本当の恵みなのです。その点を心に留め、主の恵みへの正しい理解を持って生きる志免教会になることを祈り願います。

真実を見抜く目。

 サムエル記上16章1-13節(旧453頁) マルコによる福音書3章31-35節(新66頁) 前置き 人間は世界を自己中心的に認識する傾向の存在です。クイズを出してみましょう。次はどの国に関する内容でしょうか? 「ナシレマッ、プトラジャヤ、バハサ・ムラユ」 おそらく、何のことなのか全くお分かりにならないと思います。それでは、これはいかがでしょうか? 「ハンバーガー、ニューヨーク、イングリッシュ」 この言葉は多分お分かりだと思います。それではこれはいかがでしょうか? 「お寿司、大阪、日本語」一番前にお話ししたのは、マレーシアの代表的な食べ物、ナシレマッ、代表的な行政地区プトラジャヤ、そしてマレーシア語を意味するバハサ・ムラユでした。遠いし、あまり興味がないので、普通の日本人は知らない人が多いと思います。しかし、アメリカの食べ物、都市、言語の場合は日本と多少関係があるため、お分かりになるでしょう。もし寿司、大阪、日本語が分からないなら、その人は日本人ではないでしょう。このように人は自分のことを中心に物事を認識していく傾向があります。このような自己中心的な認識は人のアイデンティティを築いていく大事なものでしょうが、また、多くの偏見と限界をもたらすものでもあります。そのため、人間は世界を自己中心的に歪曲して認識したりします。人間はいつも真実とは関係ない自己中心的な受け入れ方で、すべてのことを判断するものです。今日の本文は、イエスの身内の人々がイエスをどのように認識し、誤解していたのかについて教えています。互いによく知り合っている家族という歪んだ認識のため、メシアを見損なったイエスの身内の姿。このような姿が私たちのなかには無いでしょうか。今日は真実を見抜く目について話してみたいと思います。 1.自分の認識を通してイエスを理解していた主の親族。 今日の本文には含まれていないですが、前回の説教の本文には、このような言葉がありました。「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。あの男は気が変になっていると言われていたからである。」(マルコ3:21)イエスが貧しい群れを「癒し、教え、宣教している時」主は食事も碌に摂れないほど、ご多忙の状況でした。一方では主は世話をしなければならない可哀想な人々を助けられ、他方ではイエスを中傷する人々と論争をしておられました。当時、イエスに対する評価は二つに分かれていました。1つは、「イエスは神に遣わされた偉大な預言者である。」という肯定的な評価と、もう1つは、「イエスはイスラエルを乱す気狂いである。」という否定的な評価でした。多くの人がイエスに癒され、苦しみから抜け出して自由を得てイエス様を称えました。しかし、ある人たちはイエスの権威を認めず、イエスへの間違った噂を作り出しました。イエスに対する偽りの認識から脱し、信仰を持って頼んだ人々は癒しを得、イエスの本質をまともに認識するようになりましたが、イエスに対する偽りの認識を作り、イエスを信じない人々はイエスを「気が変になっている。」と歪曲してしまったのです。ところで、残念なことに、イエスの身内の人々はイエスについての良い噂ではなく、悪い噂を受け入れたということでした。なぜなら、彼らは家族という固定した視座からイエスを認識していたからです。 聖書には、こういう言葉があります。「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけであると言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いて癒されただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがお出来にならなかった。」(マルコ6:3-5)いくら、イエスが偉大な命の言葉を宣べ伝えられるといっても、イエスの故郷の人々はイエスを、ただの隣の息子、知り合い、平凡な人として受け入れました。今まで自分たちが持ってきた認識の中においてだけ、イエスのことを考えていた彼らは、神がイエスにくださったメシアという大事な役割への認識を見逃したというわけでした。そして、そのような認識を見逃がした人々に、イエスは何の奇跡も行うことが出来ませんでした。神は人の信仰をご覧になってお働きになる方ですが、歪んだ認識を持っている彼らには全く信仰がなかったからです。同じくイエスの身内の人々は、歪んだ認識による不信仰によって、イエスに与えられた本当の役割、つまりメシアとしてのイエスのことを見抜くことが出来なかったのです。 2.人は自分がすでに認識したものだけを受け入れようとする。 旧約からも認識に関する話が見られます。今日の旧約本文で、イスラエルの第一代の王であったサウルの不信仰の故に、神は新しい王を立てようとされました。そのために神は預言者サムエルをベツレヘムの人エッサイのところにお送りになりました。サムエルがエッサイに会い、彼の息子たちにも会った時、彼はエッサイの長男であるエリアブを見て、「彼こそ主の前に油を注がれる者だ。」と思いました。おそらくエリアブは王になれるほどの容姿を持っていたのでしょう。ところが、その時、神はこう言われました。「容姿や背の高さに目を向けるな。私は彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル上16:7)エッサイには8人の息子がいましたが、エリアブを含む7人の息子たちは、みな候補から外れることになりました。かえって神は、エッサイが呼びもしなかった素朴な羊飼いの末っ子ダビデをお選びになり、満足され、彼を王に立ててくださいました。サムエルも含め人々は人の外見だけを見ました。しかし、神は人の心をご覧になり、王を立てられたのです。サムエルとエッサイの頭の中には、「王と言えば、こうあるべきだ。」という過去から作られてきた認識があったのでしょう。しかし、神は人々の持つ、そのような固定観念を超越し、真に王とするに値する存在を見つけ出されたのです。これは人間の間違った認識が神によって拒まれたということでしょう 旧約本文7節で「目に映ること」とはアインというヘブライ語を翻訳した表現です。これは「自分が好きなものだけを見る。」という意味で、創世記ではエヴァが知識の木の実を見た時に使われた言葉です。エヴァの目に、その木の実はとても見栄えの良いものでした。しかし、神の御目にその木は、人間に死をもたらすものでした。サムエルの目に、エレアブは非常に立派に見えました。しかし、神様が知識の木の実の本質を知っておられたように、エリアブは本質的に神の御心に適わない者でした。「長兄エリアブは、ダビデが兵と話しているのを聞き、ダビデに腹を立てて言った。何をしにここへ来たのか。荒れ野にいるあの少しばかりの羊を、誰に任せてきたのか。お前の思い上がりと野心は私が知っている。お前がやって来たのは、戦いを見るためだろう。」(サムエル上17:28)末っ子という自分の固定した認識により、ダビデをお遣わしになった神の御心に気づくことが出来なかったことから、彼が王になれなかった理由が分かります。神は本質をご覧になる方です。人間の本質である心をご覧になる方なのです。まだ、若くて未成熟なダビデでしたが、彼の心の本質は、神への純粋な信仰に満ちていました。その本質を見抜かれた神がダビデをお選びになり、彼にイスラエル王国をお預けになったのです。「私は人間が見るようには見ない。」神の御心と人間の思いは違います。しかし、人間は自分が、すでに認識したものだけを選ぼうとします。しかし、それはいつも神の御心と相反する可能性を持っています。そして、その人間の認識は、神への信仰を妨げる要素になりがちです。 3.信仰―自分が持っている認識を飛び越えること。 大信仰問答を始めた時、私たちは神認識という言葉を学びました。それは「人間は神をどう認識するのか?」という質問から始まるものでした。ある人は路傍の地蔵尊を神だと認識したり、ある人は神社の巨木を神だと認識したり、ある人はお寺の仏像を神だと認識したり、またある人は一介の人間を神だと認識したりします。いくら、彼らに聖書の御言葉を見せながら、真の神はイエス·キリストの父なる神だと言っても、そう簡単には信じられません。なぜならば、すでに彼らには、歪んだ神認識が備わっているからです。だから、伝道が難しいわけです。この前の説教でイエスを悪魔ベルゼブルの手下だと中傷した律法学者たちも、結局は自分の認識に捉われ、イエスの存在を押し曲げたのです。また、イエスに「気が変になっている。」と乱暴に言ってしまった何人かのユダヤ人も、自分の認識に捉われ、イエスを信じられなかったのです。そしてイエスの身内の人々さえも、イエスの存在を正しく認識できず、自分たちの経験と考えに閉じ籠ってイエスのことを誤解したのです。 このように人間の認識は、人が信仰によって生きるのに大きな障害になるものです。 「大勢の人が、イエスの周りに座っていた。御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます。」(32)今日イエスを取り押さえに来た家族は、その歪んだ認識による不信仰のため、イエスを一介の人間、自分の子供、兄弟、親戚にしか考えられませんでした。「まさか、彼がメシアであるはずがないだろう?」これがイエスの家族の認識だったのです。その時、イエスは人がどんな認識を持って生きるべきなのか教えてくださいます。「イエスは、私の母、私の兄弟とはだれかと答え、周りに座っている人々を見回して言われた。見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」(33-35)主はただの同じ血統、家柄、出身がイエスの家族の印ではなく、到底信じられない状況であっても、イエスの本質を受け入れる者たち、自分の認識を飛び越えてキリストによる新しい認識を受け入れる者たち、すなわち神の御心を行う人たちをイエスの家族と呼んでくださったのです。ここで私たちは真の信仰とは、自分が持っている認識の範囲の中でのみ信じるのではなく、自分が持っているすべての認識と思想を超越し、神がお望みになるものを受け入れ、信じる時にはじめて、生まれるものであることが分かります。信仰を持っている私たちは、今日、自分が持っているすべての自己中心的な考え方を神に捧げ、ひとえに神の御言葉が示すことを受け入れようとする生き方を持つべきでしょう。自分が認識している範囲の中だけで信じることは、自分の認識によって歪められ、結局は変質してしまうものだからです。 締め括り。 「私にとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、私はすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」(フィリピ3:7-9) 当時のユダヤ最高の学者、ガマリエルの弟子として、ファリサイ派の次期指導者として適任者だった使徒パウロは、キリスト者を迫害するために、勢いよく振舞っている途中、主なるキリストに出会い、キリスト者となりました。彼はローマ市民権を持ち、前途有望なファリサイ派の人でした。しかし、イエスに出会ってからの彼は、自分が持っていた、すべての認識と思想を残さず捨てました。そして彼は、真の霊的真実、つまり真理であるイエスの福音を追い求め、殉教してこの世を去りました。しかし、彼は偉大な使徒として、2000年が経った今でも我々に福音の教えを宣べ伝えています。真実を見抜くためには、自分の知識と認識を捨てなければならない時もあります。自分が持っているものが、全てではないということを認めなければならない時もあるものです。自分の考えを抑え、聖書が教えてくれる神の御言葉で自分の認識を満たしていく時、私たちは真実を見抜く目を得られるでしょう。今まで、一生、自分が正しいと思ってきた全ての物事には、いつでも移り変わる恐れがあります。変わることなく永遠なものは、唯一の神と、その御言葉だけであるということを覚え、自分のことを弁え、へりくだって生きる志免教会になることを願います。

ソドムが滅ぼされた理由。

創世記19章1-11節(旧25頁)ユダの手紙1章7節(新450頁) 前置き 私たちは、なぜ神様を信じるのでしょうか? 教会に行けば心の平和を得るから、聖書の御言葉を聞けば慰められるから、祈れば不安が消えるから、イエスを信じれば天国に行くと言われるからなど、数多くの信仰の理由があるでしょう。しかし、平和、慰め、安定、天国は信仰の目標ではなく、信仰がもたらす賜物に過ぎないというのが聖書の主な教えです。私たちに信仰が与えられた理由は、神と共に生きる人生そのもののためです。私たちを造られ、救われ、導かれる三位一体なる神と共に生きさせるため、私たちに信仰が与えられ、その人生の結果として私たちに平和、慰め、安定、天国が与えられるということです。ですから、信仰が持つ真の意味は「キリストを通じて神様を信じ、神と共に生きる人生」と言えるでしょう。それでは、果たして神と共に生きる人生とは、どんな人生なのでしょうか? マタイによる福音書22章37-40節では、そのような生き方を神と隣人を愛する人生だと教えています。神を信じ、一緒に生きる人なら、神と隣人への愛を実践して生きるべきであるということです。結論から申し上げますと、今日本文のソドムと周辺地域が滅ぼされた理由は、まさに、この神への愛、隣人への愛、つまり愛の無い社会だったからです。ソドムの人たちは、どのように生きていたので、神に裁かれ、滅ぼされたのでしょうか? 本文を通して確認してみましょう。 1.なぜ、神はお裁きになるのか? この前、説教で私はこんなことを言ったことがあります。「神の御愛と御裁きはコインの両面のようなものです。」神は、この世を愛する方であり、ヨハネ第一の手紙には 「神は愛だからです。」という語句もあるほど、愛は神の代表的なイメージです。しかし、神の愛は公明正大で、正義に満ちた愛です。すべての存在を愛するという言い訳で、何の関心もなく、世の中を無秩序に放っておいたら、それは愛ではなく、むしろ無関心になるでしょう。ですから、神は神の御心に逆らう物事には裁きを下される方なのです。裁きを通して、この世の秩序を守ってくださり、世への真の愛を示してくださるわけです。しかし、明らかなことは、神は、ただ滅ぼすために裁かれる方ではなく、すべての存在が救われることを望んでおられる方だということです。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(テモテⅠ2:4)前回の旧約本文と今回の本文の間には、神とアブラハムとの会話があります。本文が長過ぎになると思い、やむなく省略したのですが、その内容は皆さんがよくご存知だと思います。「もし、ソドムに10人の正しい者がいるなら、その十人のために私は滅ぼさない。」という内容です。(創世記18:16-33) その言葉の中には、こういう語句もありました。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。 私は降って行き、彼らの行跡が、果たして、私に届いた叫びの通りかどうか見て確かめよう。」(創世記18:20-21)もし、神が無慈悲な裁きだけを望んでいる存在だったら、神はあえてソドムの行跡をご自分で確かめるために御使いを遣わされなかったでしょう。すでにご存知のことをお確かめになる必要がないからです。しかし、神は御使いたちを遣わされ、ソドム地域の人々に本当に重い罪があるかどうか、自ら確かめようとされました。彼らに小さなことでも正しい姿があれば、赦してくださるお気持ちを持っておられたからでしょう。ソドムに御使いたちをお送りになる神にアブラハムは、「もし、あの町に正しい者が何人かいたら。」と仮定して、しつこく神の憐みを求めました。 なぜならば、ソドムには甥ロトも住んでいたからです。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。」(創18:23)アブラハムは、たとえロトと財産の葛藤で別れたといっても、ロトが信仰者であり、正しい者だと思っていました。だから、アブラハムは甥のために、神にしつこく訴えたわけです。これは即ちアブラハムの執り成しの祈りでした。自分の必要だけのための祈りではなく、自分を捨て去った甥のための愛の祈りだったのです。そこで、神はその祈りをお聞きになり、10人でも正しい者がいるなら滅ぼさないと約束され、アブラハムの祈りを受け入れてくださいました。 2.「ソドムの人々の罪」 夕方に神の御使いたちは、ソドムの門のところに到着しました。その時アブラハムの甥ロトは、神からの二人の御使いを見て迎えました。 「二人の御使いが夕方ソドムに着いたとき、ロトはソドムの門の所に座っていた。ロトは彼らを見ると、立ち上がって迎え、地にひれ伏した。」(創世記19:1)ロトは叔父のアブラハムのように、神の御使いに会うやいなや、歓待して自分の家に招き、叔父のように手厚く持て成しました。これによって私たちは、ロトもアブラハムのように寄留者を歓待する信仰者であることが分かります。また、ロトが座っていた門という場所からも、ロトの性格を推し測ってみることが出来ます。 旧約時代の城門は、地域の指導者が民衆の気の毒な事情を聞き、判決を下した場所でした。おそらく、ロトは正当な裁判にも目を注ぎ、社会的な正義を守ろうと努める人だったわけでしょう。たとえ過去に財産による葛藤でアブラハムと別れたロトだといっても、彼は基本的に神の御言葉を大切にし、正しく生きようとする人だったと思われます。しかし、後に出てくるロトの行為の故に、彼にも信仰の欠点があったことが分かります。それを知るためには、まず、ソドムの人たちの罪から探ってみる必要があります。そのソドムの人々の罪による出来事を通じて現れるロトの姿から、私たちはロトの過ちを見つけることが出来るからです。 それでは、ソドムの人々の罪は何だったでしょうか。18章20節には「訴える叫び」という表現があります。これは「暴力を告発する訴え、大号泣、苦しみによる叫び」を意味するもので、他人によって苦しめられる人間の苦しみと悲しみを意味する言葉です。神がソドムを裁こうとなさった理由は、ソドムによってソドム周辺の人々、より正確には弱い者たちが受ける苦難を見付けられたからです。今日の本文では、そうしたソドムの罪を、ある出来事を通して詳しく見せています。「彼らがまだ床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、 わめきたてた。今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから。」(4-5)夜になって御使いたちが休もうとする時、ロトの家の外では大騒ぎが起こりました。それはソドムの人々が御使いたちに会いに来たことでした。 ここで私たちは、「なぶりものにする。」という表現を注意深く見守るべきだと思います。それは暴力的に性的関係を持つという意味です。この表現は、男性が男性と性的関係を持つというニュアンスがあるため、時々同性愛を意味すると解釈する場合もありますが、この表現には、より深い意味が含まれています。それは自分たちの力を見せ付け、弱い者たちを暴力的に屈服させるという意味です。 私は、前の創世記の説教で、古代中東社会での歓待は一つの特定の社会の中でのみ、通じるものだったとお話ししました。たとえば、「ある種族同士は互いに親切にしても、その種族以外の人には親切にする必要がない。」という、社会的なルールがあったわけです。アブラハムの時代にはしばしば同性、異性を問わず、自分より弱い人に、性暴力を犯すことで自分が優位にあることを示そうとする悪習がありました。つまり、ソドムの人々の罪は、単なる性犯罪のレベルを超える、寄留者を押さえつけ、弱い者を苦しめる、歓待しない生き方にありました。ところで、このような姿はロトにも見えたのです。最初は罪に満ちたソドムの中でも、ロトは正しい者の姿を保っている様でした。ですが、ロトの一言によってロトもソドムの罪に染まっていることが分かります。 「どうか、皆さん、乱暴なことはしないでください。実は、私には、まだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せていただいたのですから。」(倉19:7-8)一見、ロトは神の御使いを守ろうとする正しい心を持っているように見えました。しかし、ロトは神の御使いを守る代わりに、自分の娘たちを暴力の生け贄にしようとしました。結局、ロトも社会的な弱者である女性を簡単に暴力の被害者に追い込んでしまいました。残念なことにソドムに住んでいたロトさえも、不義に満ちたソドムの文化に染まってしまったというわけでした。 3.正しい10人の不在のため、滅ぼされるソドム。 結局、最後の希望だったロトさえ、正しくないと判定されました。 「こいつは、よそ者のくせに、指図などして。さあ、彼らより先に、お前を痛い目に遭わせてやる。」(9)ソドムの人たちも、ロトも、結局は弱い者の世話をし、善を行う姿から遠ざかり、寄留者を抑圧し、弱い者を軽んじる罪を現わしてしまいました。しかも、ソドムの人々はロトをも攻撃しようとしました。実に阿鼻叫喚の様でした。彼らには、愛も、正義も、歓待もありませんでした。ただ、彼らは他人を抑えつけ、自分の欲望だけを追い求め、身勝手に悪を行う罪悪そのものの存在になっているのでした。こういうわけで、ソドムに赦しの機会を与えるために派遣された神の御使いたちは、ソドムを無惨に裁く審判官になってしまいました。神の御使いたちは、まるで、ソドムの人たちの霊的な状態を意味するかのように、彼らの目を潰し、その場から退けようとしました。以後、ソドムは神の激しい裁きにより、滅びてしまいます。神は華やかな供え物や多くの財物を願う方ではありません。神は神を愛し、隣人を愛する素朴だが正しい者の生き方から喜びをお求めになる方なのです。しかし、ソドムの人々は、そのような素朴で正しい人生より、自分の強さと力を誇り、隣人を貶め、結局、神まで蔑む人生を生きました。ソドムには、神の御心に適う10人がいなかったので、ついに滅ぼされてしまったのです。 締め括り 今日の新約本文にはソドムの罪に関する言及が記されています。「自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たちを、大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められました。ソドムやゴモラ、またその周辺の町は、この天使たちと同じく、みだらな行いにふけり、不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています。」(6-7)ユダヤ人たちの伝説によると、ある天使たちが神の王座を狙ったところ、永遠の鎖に縛られ、裁かれたと言われます。ソドムの人々は、その堕落した天使たちに似ていました。彼らには、神への愛や隣人への愛なんて、重要ではありませんでした。過去の堕落した天使たちのように、ただ自分が高くなることだけを願っていたのです。他人を配慮せず、自分だけが高められる人生、一時は賢い生き方に見えるかもしれません。 世の中の政治家や金持ちの中に、このように弱者を配慮しない人は結構多いです。しかし、私たちははっきり知っておくべきです。私たちの社会が弱者を大切にしなければ、結局、神に裁かれ、滅ぼされるでしょう。ソドムの物語は、現代でも同様に適用される見せしめです。弱者を苦しめ、強者だけを高める社会は結局滅びるでしょう。私たちの教会は、このような社会において、どのように生きていくべきでしょうか。私たちはこの地域の正しい人10人として生きているでしょうか。神は隣人愛を通して、神への愛を確かめられる方です。神を本当に愛するなら、自分のことを弁え、隣人を尊重し、主が望んでおられる正しい生き方を実践しつつ生きるべきでしょう。

神を冒涜する罪

レビ記24章10-16節(旧201頁) マルコによる福音書3章20-30節(新66頁) 前置き 14世紀から15世紀にかけて、ヨーロッパには100年戦争という、イギリスとフランスとの大きい戦争がありました。その戦争でフランスを救った有名な英雄の中には、私たちがよく知っているジャンヌ・ダルクという女性もいました。しかし彼女は、自分の祖国を救ったにもかかわらず、神聖冒涜という濡れ衣を着せられ、火あぶり刑に処せられました。彼女の罪名は「邪悪な魔女であり、悪魔の声を聞き、王権と教会権を乱す神聖冒涜者」でした。しかし実は、当時フランスの政界と宗教界は彼女を利用して、必要がなくなると自分たちの利益のための生け贄として殺したというわけでした。無実の罪で殺された彼女は1920年に初めて、カトリック教会の聖人と認められ、晴れて無罪の身となりました。残念なのは、歴史上、ジャンヌ・ダルクのように、政治家や宗教家の利益のために、無実にもかかわらず神聖冒涜の罪で処刑されたケースが多かったということです。このように神聖冒涜は特定の集団の利益のために間違って用いられることが非常に多かったのです。人間の罪の性質は、神の神聖ささえも神の栄光ではなく、自分たちの必要のための道具として用いたのです。それでは聖書は、この神聖冒涜について、どのように語っているのでしょうか。果たして真の神聖冒涜とは何でしょうか。今日の新約の本文を通して、聖書が語る真の神聖冒涜について、考えてみましょう。 1.旧約に現われる神聖冒涜の事件。 400年間、エジプトの奴隷であったイスラエルは、神によって救われ、ついにエジプトの奴隷生活から逃れることができました。神は彼らを解放され、シナイ山に導いてくださいました。また、彼らに神の律法である「十戒」を与えられ、神と世を執り成す聖なる国民として打ち立ててくださいました。そういうわけで、イスラエルは自分たちの欲望と利益のために生きる存在ではなく、神の栄光のために生きる聖別された存在としての特権と義務を持つ、神の所有として生まれ変わりました。ここで特別なことは、神様がアブラハムの血統ではなく、神様への信仰を通してイスラエルを選び出してくださったということでした。「イスラエルの人々の間に、イスラエル人を母とし、エジプト人を父に持つ男がいた。」(10)神のお導きにつき従ってエジプトを立ち去った人々の中には、純血のアブラハムの子孫でない人たちもいましたが、その中にエジプト人の父を持つハーフもいたのです。 つまり、神はイスラエルという共同体を民族ではなく、神への信仰の有無で、ご規定なさったということです。 この点を通して、私たちは神が血統ではなく信仰をお測りになり、ご自分の民をお呼びになる方であることが分かります。相手が誰でも神を信じる存在なら、神の御目にはイスラエルであるということでしょう。ところで、ある日、エジプト人の父を持つある男が大きな過ちを犯してしまいました。それは神の御名を冒涜したことでした。「イスラエル人を母に持つこの男が主の御名を口にして冒瀆した。人々は彼をモーセのところに連行した。」(11)父がエジプト人であるにもかかわらず、イスラエルの一員として認められ、神の律法まで受けた彼でしたが、彼は十戒の第三の戒を破って神の御名を口にして冒涜したわけです。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。」(出エジプト20:7)もちろん、第3の戒に記してある「主の御名をみだりに唱える。」という言葉と、今日の本文の「主の御名を口にして冒涜する。」という言葉の原文は異なる単語でしょうが、広い意味としては第3の戒めに含まれることで、神の存在を否定し、その御心に逆らうことを意味します。結局、彼は神様に呪われ、石で打ち殺されました。このように、旧約時代には、すでに神の民に選ばれた存在さえも、神を冒涜すれば、赦されることが出来ない厳重な時代だったのです。 2.神聖を冒涜した律法学者たち。 ところで、今日の新約本文にも、このように神聖を冒涜する場面が見られます。「エルサレムから下って来た律法学者たちも、あの男はベルゼブルに取りつかれていると言い、また、悪霊の頭の力で悪霊を追い出していると言っていた。」(22)まさにイスラエルの宗教指導者である律法学者たちが、貧しい民の面倒を見ておられるイエスを悪霊の手下と貶める出来事でした。律法学者たちは旧約聖書を研究し、民に聖書の御言葉を教える先生たちでしたが、聖書の知識とは別に、神様から遣わされたイエスの正体を全く見抜くことができず、イエスを中傷し、むしろ主の御業を否定して、呪いをかけていたのです。律法で常に大事にされている隣人への愛と神への愛を行っておられるイエスの御業を見ても、彼らは自分たちの既得権だけに目が眩み、律法を守りつつ働いておられたイエスを、ベルゼブルという悪魔の手下と貶めたわけです。イエス・キリストは、罪によって神から遠ざかっている罪人たちに悔い改めを促し、その悔い改めを通して神様と和解させてくださるために来られた救い主です。イエスが貧しい民を癒し、御言葉を教え、福音の宣教をしてくださった理由は、罪人を救おうとする神の御意志を成し遂げるためでした。つまり、イエスの御業が、すなわち神の御業だったということです。なのに、イスラエルの律法学者たちは、むしろイエスの御業を悪魔の仕業と扱き下ろすことで、律法で禁じられている神への神聖冒涜を犯してしまったのです。 ここでちょっと、今日の新約本文に登場するベルゼブルとは、どんな存在なのでしょうか? ベルゼブルとは、古代のカナンで崇拝されていた男神であるバアルに由来します。バアルは「支配者、主、王」という意味ですが、長い間カナンの最高の神とされていました。その後、バアルという名称は「高い所の主」という意味の「ベルゼブル」に変わっていたのです。おそらく古代のカナンの人々が雨と雷の神であったバアルを高い所に住む神と信じ、「高い所の主」と呼ぶようになったでしょう。ところで、ユダヤ人は、このベルゼブルをベエルゼブブと変えて呼んだそうです。「ベエルゼブブ」は、ベルゼブルに似た発音ですが、その意味は全く違うものでした。ハエの王をという意味を持っているからです。おそらく、イスラエルの神を真の神だと信じていたユダヤ人が、異教徒の神であったベルゼブルをからかい、「つまらないハエの王」と呼んだことに由来したと思います。しかし、ハエの王という滑稽なあだ名とは別に、ユダヤ人にとってベルゼブルは、あらゆる悪霊を支配する強力な悪魔であり、神の正反対にある邪悪な存在とされていました。このようにイスラエルの神から遣わされたイエスをベルゼブルの手下と考えたというのは、神様の御業を悪魔の仕業と見なしていたことに等しい深刻な問題でした。それだけに、当時のイスラエルの宗教指導者たちは、神の御業と悪魔の仕業も、見分けがつかないほど、霊的に堕落していたのでした。その堕落は、知らないいちに神聖冒涜の罪をもたらしました。 3.神聖冒涜にもかかわらず。 しかし、今日の旧約本文とは異なり、律法学者たちは何の呪いも受けていませんでした。「イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。どうして、サタンがサタンを追い出せよう。サタンが内輪揉めして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。」(23、26)むしろ、イエスは律法学者たちに、悪魔が悪魔を追い出すことはなく、そうすれば、むしろ悪魔の力が弱まるだけだと教えてくださいました。「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」(27)また、イエスは、ご自身がそのベルゼブルのような悪魔たちを縛り上げられる強い方であることを比喩を用いて、教えてくださいました。つまり、イエスは悪魔ではなく、むしろ悪魔を裁く全能者であることを教えてくださったのです。 そして、イエスはご自分のことを貶めるのが、いかに深刻な神聖冒涜なのか、教えてくださいました。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(28、29)聖霊は人々に、イエスの救いと愛を信じさせてくださる存在です。しかし、律法学者たちは自分たちの罪によって、イエスを信じることができず、むしろ呪いをかけてしまいました。それは聖霊の御業を妨げる神聖冒涜にあたる罪でした。しかし、主は彼らを呪われ、罰されるより、彼らを赦してくださることを望んでおられました。 律法学者たちが神聖を冒涜する罪を犯しましたが、新約本文と旧約本文の間には大きな違いがありました。旧約本文にも新約本文にも神聖冒涜が見つかりますが、旧約のエジプト人の息子は殺され、新約の律法学者たちは生き残りました。それは、なぜでしょうか?  それはイエスの存在によってでした。イエスは呪い、殺すために来られた方ではありません。むしろ救い、生かすために来られた方なのです。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(28、29)今日のこの言葉は、主が律法学者たちに呪いをかけられるように見えますが、この言葉には、もっと深い意味があります。すでに28節で、どんな罪や冒涜の言葉が赦されると言われた主が、29節では、赦せない罪もあると仰るのにはぶつかり合いがあるからです。したがって、29節の言葉は、罪の根本的な原因を赦さないという意味として受け止めるべきだと思います。なので、私は28、29節の言葉を、このようにも読めると思います。「律法学者たちよ、お前たちの罪と冒涜は赦される。しかし、君らを罪に導き、イエスを信じられないようにする悪霊、すなわち聖霊を冒涜する存在たちは必ず裁きを受ける。」 つまり、イエスはご自分を呪い、冒涜した律法学者たちの罪までも赦してくださったということです。そして、その裏面にある、より根本的な悪への裁きをお告げになったのです。これがイエスの存在理由です。罪人を赦され、罪の源をお裁きになることです。 締め括り 新約聖書が語る神聖冒涜とは、「イエスを信じず、拒否すること」です。そういう意味として、我々が生きているこの世は、神聖を冒涜する世界です。日増しにイエスを信じるのが難しい世の中になりつつあります。会社では日曜日に仕事をさせ、学校では日曜日に部活などをさせます。世の中の文化はキリスト教の信仰をつまらないものだと言い募ります。世の風潮は霊的な関心より、肉的な関心により集中させています。結局、イエスを信じにくくしているのです。このような神聖冒涜の世の中で、神はそれでも変わることなくイエスを信じる者を探しておられます。終わりの日、イエス・キリストは、必ずこの神聖を冒涜する世を裁かれるでしょう。そして、この堕落した世界の支配者である悪魔たちをお裁きになるでしょう。また、イエスのもとへ進み、信じ、聞き従う者たちを救われ、報いてくださるでしょう。このような世の中で、我々はどのように生きていくべきでしょうか? ご自分のことを呪い、冒涜した律法学者たちさえ、お赦しくださったイエスを仰ぎ見、より一層、キリストへの堅い信仰を持って生きることを願います。また、本文の律法学者たちのような、世の人々を悔い改めへと導く私たちになることを願います。神聖冒涜の世の中で神聖を尊重し、イエスへの信仰を貫いていく志免教会になることを願います。