逆説的な神の恵み

イザヤ書40章6-8節(旧1124頁) ルカによる福音書15章11-24節(新139頁) 前置き キリスト教でよく使われている言葉の中には、どんな表現があるでしょうか。 まずは「神の愛、隣人への愛」のように愛に関する表現をよく使っていると思います。また、キリスト教の主な教えの一つである「悔い改め」という表現も、よく使われているでしょう。そして、先にお話ししました二つの言葉と同じくらいの頻度で「恵み」という表現も少なからず使われていると思います。「主の恵みに満ちた教会になりますように。」「日本と全世界の教会に主の恵みを注いでください。」などの言葉は、お祈りや説教の時でもよく使われている表現でしょう。「愛、悔い改め、恵み」いずれも大事な表現かと思いますが、特に今日は「恵み」という表現について話してみたいと思います。私たちは何気なく、恵みという表現を口にしていますが、果たして、この「恵み」とは何を意味するものでしょうか。人間が抱いている漠然とした意味としての「恵み」ではなく、聖書が私たちに語っている恵みについて、探ってみたいと思います。 1.ご自分の民を滅ぼされる(?)神。 冒頭から「民を滅ぼす神」というかなり違和感のある表題語が書いてありますが、これは実際に民が神に滅ぼされるという意味ではありません。これは、私たちが漠然と考えている「復興、平和、喜び」ばかりのイメージとしての恵みだけではなく、時には「衰退、苦難、逆境」なども、神の恵みとなり得るということを強調するための表現なのです。恵みとは、ヘブライ語では「ヘセド」、ギリシャ語では「カリス」と言いますが、いずれも「契約に基づいた神の一方的な恩寵、慈悲、憐み、賜物」のことだと言われます。ここで重要なことは「契約に基づく」という表現でしょう。神の恵みとは「人間が身勝手に振舞っても関係せず放っておく。」という意味ではありません。神と人の「契約(旧約の神とイスラエルの契約、新約のキリストと教会の契約)」の中で、神が人を正しい方向に導いてくださるということを意味します。「契約」とは、神が主になって民を導き守り、民は主なる神だけにつき従って仕えるという相互約束としての意味を持っています。つまり、神の御心に従って生きるのが、神との約束に対する人のあり方であるということです。 神は主の恵みの中で、神とのこの契約を忠実に守る者たちを神との旅路にお招きくださいます。そして終わりの日、彼らが神に召され、神のもとへ帰るまで、神は彼らを導いてくださるのです。キリスト教が語る恵みとは、まさにそのようなものなです。天地万物をお創りになった神が、「私」という小さな存在を最後までお見捨てにならず、支えられ、御国に至るまで同道してくださるということです。自分がこの世で権力者になり、すべてのことがうまくいって成功し、お金をたくさん儲け、気楽に生きることが恵みではなく、神の御心に聞き従い、苦難の中でも神を拠り所にし、成功の中でも神を忘れず、主に召されるその日まで、いや死後でも、その神と共に歩むことこそが、まさに真の恵みなのです。だから、もし神の民と呼ばれる者が神の望んでおられる人生を生きていないなら、神の恵みに適う人生を生きていないなら、神は彼を恵みに連れ戻してくださるために、ご自分の民に試練と苦難とを与えてくださる時もあります。その時の試練と苦難は非常に苦しいものですが、結論的には神に帰るための「恵み」となるのです。 2.枯らす恵みの後爆風 私は2001年から2003年にかけて軍隊の炊事兵(調理兵)として生活をしました。ある人は戦闘兵、ある人は運転兵、また、ある人は行政兵として軍隊生活をしますが、私は行政兵に属する炊事兵だったのです。ところで、戦闘兵の中に迫撃砲兵という兵種もいました。迫撃砲とは地面に据え付けて使う武器で、拳サイズの砲弾を放つ武器です。ところで、その砲兵が訓練中に前方に迫撃砲を撃つと、後方の草や木が枯れてしまうことがよく見られるそうです。まさに迫撃砲が噴き出す後爆風のためです。後爆風とは、砲弾が放たれる時に生じる熱や衝撃を、迫撃砲の後尾に噴き出す強い熱風のことです。前方の敵に向かって迫撃砲が発射されますが、その砲の後爆風の故に後方の草が焼けて枯れてしまうのです。いきなり軍隊の武器の話を出して、ええっとされたかもしれませんが、私が神学校に通っていた時、私を指導した担当教授は、このような比喩をあげて神の恵みの特徴について説明したりしました。 神の恵みは、人間の罪によって汚れた世界を新たにする日まで(キリストの再臨の日)この世に生きるご自分の民を諦めない、神の変わりのない愛です。神は主の民を正しい道に導いてくださるために、神の恵みの反対側に向かう者たちを恵みの後爆風で枯らされる方です。主は「愛、信仰、救い、従順、奉仕」を求めておられますが、その反対側で「情欲、不信心、不従順、嫌悪」を追い求める主の民がいれば、彼に人生の試練と苦難を与え、その罪と情欲の生活を枯らし、主のもとに帰らせてくださる方です。たとえば、牧師や宣教師になるという誓願を破って、わがままに生きていた人々が、どうしようもない人生の逆境にあって、結局、神のもとに帰り、教会に仕える場合が、この恵みの後爆風による例の一つでしょう。ただ聖職者だけでなく、病気によって、ビジネスの失敗によってなどの様々な理由で神から遠ざかった人が倒れて帰ってくる場合が多いと思います。今日の新約本文の「放蕩息子」のたとえも一種の恵みの後爆風に関する物語だと思います。 3.逆説的な神の恵み。 ルカによる福音書15章の今日の本文は、キリスト者なら誰もが知っている有名な物語です。ある人の次男が、父の遺産をあらかじめもらって遠い国に旅立ち、放蕩の限りを尽くした挙句、結局、全ての財産を無駄遣いしてしまいました。豚の餌さえも食べられなくほど困窮した彼は、結局、我に返って父の家に帰ることになります。その時、父は彼を喜んで迎え入れてくれます。もし彼がすべてを失わなかったら、彼は決して父のもとに帰っていかなかったでしょう。彼の失敗と苦難が、かえって父のもとへ帰る理由になったわけです。その例え話の父親は父なる神の象徴です。このように神は愛する者の回復のために苦難も与えられる方です。愛するからこそ苦難を与えられるのです。まるで親が訓戒によって愛する子供を教えるように、神も戒めによってご自分の民を導いてくださるのです。神の御心に聞き従わない、とあるキリスト者がただ成功するばかりで、何の苦難も経験しないなら、むしろそれは神の祝福ではなく呪いであるかもしれません。神は罪と悪に陥っている愛するご自分の民を枯らしてでも必ず恵みの道へと導かれる方だからです。 このように神の恵みは、人間が漠然と理解している成功や祝福だけを意味するものではありません。最も重要なことは、神様は「民が欲望に満ちて、不正な豊や成功の中に生きるのではなく、神との契約の中で変わることなく共に生きることを望んでおられる。」ということです。その道のりで肉体的な豊や成功が与えられる場合もあるでしょうが、それが信仰の目標だとは言えません。 主の恵みは、この地上での肉体的な幸いだけでなく、死後の永遠の命まで、つながっていることを忘れてはなりません。その永遠の命と幸いのために、主は苦難という名の恵みを下されるのです。だから、苦難と逆境に直面した時の私たちは「神の恵みが切れた。」と考えるより、「神の恵みがより一層強く私たちに与えられている。」と考えるべきです。そのような試練と苦難の中で真の悔い改めを回復し、主のお助けを求めて生きるのが神の恵みへの正しい理解でしょう。 締め括り。 「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(イサヤ40:6-8)旧約のイスラエルの民は自分たちの豊と栄のために神を裏切りました。異邦の偶像を拝み、社会の弱者を苦しめました。強い国には弱者から奪い取った財物を貢ぎました。結局彼らは神に裁かれ、滅びてしまいました。しかし、主は今日の旧約本文であるイザヤ書40章全体を通して、神がイスラエルを滅ぼされても、主の御言葉を通して再び興すと約束してくださいました。この約束は真の主の御言葉でいらっしゃるイエス・キリストによって成就されました。しかし、罪に満ちた過去のイスラエルは草と花のように枯らされました。その代わりに神の御言葉による新しいイスラエル、教会を打ち立ててくださったのです。私たちはこのような逆説的な主の恵みを覚えつつ生きるべきです。ご自分の民を主の道へ導いてくださることこそが真の恵みなのです。欲望の満足が恵みではなく、神の御心通りに導かれるのが本当の恵みなのです。その点を心に留め、主の恵みへの正しい理解を持って生きる志免教会になることを祈り願います。