ソドムが滅ぼされた理由。

創世記19章1-11節(旧25頁)ユダの手紙1章7節(新450頁) 前置き 私たちは、なぜ神様を信じるのでしょうか? 教会に行けば心の平和を得るから、聖書の御言葉を聞けば慰められるから、祈れば不安が消えるから、イエスを信じれば天国に行くと言われるからなど、数多くの信仰の理由があるでしょう。しかし、平和、慰め、安定、天国は信仰の目標ではなく、信仰がもたらす賜物に過ぎないというのが聖書の主な教えです。私たちに信仰が与えられた理由は、神と共に生きる人生そのもののためです。私たちを造られ、救われ、導かれる三位一体なる神と共に生きさせるため、私たちに信仰が与えられ、その人生の結果として私たちに平和、慰め、安定、天国が与えられるということです。ですから、信仰が持つ真の意味は「キリストを通じて神様を信じ、神と共に生きる人生」と言えるでしょう。それでは、果たして神と共に生きる人生とは、どんな人生なのでしょうか? マタイによる福音書22章37-40節では、そのような生き方を神と隣人を愛する人生だと教えています。神を信じ、一緒に生きる人なら、神と隣人への愛を実践して生きるべきであるということです。結論から申し上げますと、今日本文のソドムと周辺地域が滅ぼされた理由は、まさに、この神への愛、隣人への愛、つまり愛の無い社会だったからです。ソドムの人たちは、どのように生きていたので、神に裁かれ、滅ぼされたのでしょうか? 本文を通して確認してみましょう。 1.なぜ、神はお裁きになるのか? この前、説教で私はこんなことを言ったことがあります。「神の御愛と御裁きはコインの両面のようなものです。」神は、この世を愛する方であり、ヨハネ第一の手紙には 「神は愛だからです。」という語句もあるほど、愛は神の代表的なイメージです。しかし、神の愛は公明正大で、正義に満ちた愛です。すべての存在を愛するという言い訳で、何の関心もなく、世の中を無秩序に放っておいたら、それは愛ではなく、むしろ無関心になるでしょう。ですから、神は神の御心に逆らう物事には裁きを下される方なのです。裁きを通して、この世の秩序を守ってくださり、世への真の愛を示してくださるわけです。しかし、明らかなことは、神は、ただ滅ぼすために裁かれる方ではなく、すべての存在が救われることを望んでおられる方だということです。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(テモテⅠ2:4)前回の旧約本文と今回の本文の間には、神とアブラハムとの会話があります。本文が長過ぎになると思い、やむなく省略したのですが、その内容は皆さんがよくご存知だと思います。「もし、ソドムに10人の正しい者がいるなら、その十人のために私は滅ぼさない。」という内容です。(創世記18:16-33) その言葉の中には、こういう語句もありました。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。 私は降って行き、彼らの行跡が、果たして、私に届いた叫びの通りかどうか見て確かめよう。」(創世記18:20-21)もし、神が無慈悲な裁きだけを望んでいる存在だったら、神はあえてソドムの行跡をご自分で確かめるために御使いを遣わされなかったでしょう。すでにご存知のことをお確かめになる必要がないからです。しかし、神は御使いたちを遣わされ、ソドム地域の人々に本当に重い罪があるかどうか、自ら確かめようとされました。彼らに小さなことでも正しい姿があれば、赦してくださるお気持ちを持っておられたからでしょう。ソドムに御使いたちをお送りになる神にアブラハムは、「もし、あの町に正しい者が何人かいたら。」と仮定して、しつこく神の憐みを求めました。 なぜならば、ソドムには甥ロトも住んでいたからです。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。」(創18:23)アブラハムは、たとえロトと財産の葛藤で別れたといっても、ロトが信仰者であり、正しい者だと思っていました。だから、アブラハムは甥のために、神にしつこく訴えたわけです。これは即ちアブラハムの執り成しの祈りでした。自分の必要だけのための祈りではなく、自分を捨て去った甥のための愛の祈りだったのです。そこで、神はその祈りをお聞きになり、10人でも正しい者がいるなら滅ぼさないと約束され、アブラハムの祈りを受け入れてくださいました。 2.「ソドムの人々の罪」 夕方に神の御使いたちは、ソドムの門のところに到着しました。その時アブラハムの甥ロトは、神からの二人の御使いを見て迎えました。 「二人の御使いが夕方ソドムに着いたとき、ロトはソドムの門の所に座っていた。ロトは彼らを見ると、立ち上がって迎え、地にひれ伏した。」(創世記19:1)ロトは叔父のアブラハムのように、神の御使いに会うやいなや、歓待して自分の家に招き、叔父のように手厚く持て成しました。これによって私たちは、ロトもアブラハムのように寄留者を歓待する信仰者であることが分かります。また、ロトが座っていた門という場所からも、ロトの性格を推し測ってみることが出来ます。 旧約時代の城門は、地域の指導者が民衆の気の毒な事情を聞き、判決を下した場所でした。おそらく、ロトは正当な裁判にも目を注ぎ、社会的な正義を守ろうと努める人だったわけでしょう。たとえ過去に財産による葛藤でアブラハムと別れたロトだといっても、彼は基本的に神の御言葉を大切にし、正しく生きようとする人だったと思われます。しかし、後に出てくるロトの行為の故に、彼にも信仰の欠点があったことが分かります。それを知るためには、まず、ソドムの人たちの罪から探ってみる必要があります。そのソドムの人々の罪による出来事を通じて現れるロトの姿から、私たちはロトの過ちを見つけることが出来るからです。 それでは、ソドムの人々の罪は何だったでしょうか。18章20節には「訴える叫び」という表現があります。これは「暴力を告発する訴え、大号泣、苦しみによる叫び」を意味するもので、他人によって苦しめられる人間の苦しみと悲しみを意味する言葉です。神がソドムを裁こうとなさった理由は、ソドムによってソドム周辺の人々、より正確には弱い者たちが受ける苦難を見付けられたからです。今日の本文では、そうしたソドムの罪を、ある出来事を通して詳しく見せています。「彼らがまだ床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、 わめきたてた。今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから。」(4-5)夜になって御使いたちが休もうとする時、ロトの家の外では大騒ぎが起こりました。それはソドムの人々が御使いたちに会いに来たことでした。 ここで私たちは、「なぶりものにする。」という表現を注意深く見守るべきだと思います。それは暴力的に性的関係を持つという意味です。この表現は、男性が男性と性的関係を持つというニュアンスがあるため、時々同性愛を意味すると解釈する場合もありますが、この表現には、より深い意味が含まれています。それは自分たちの力を見せ付け、弱い者たちを暴力的に屈服させるという意味です。 私は、前の創世記の説教で、古代中東社会での歓待は一つの特定の社会の中でのみ、通じるものだったとお話ししました。たとえば、「ある種族同士は互いに親切にしても、その種族以外の人には親切にする必要がない。」という、社会的なルールがあったわけです。アブラハムの時代にはしばしば同性、異性を問わず、自分より弱い人に、性暴力を犯すことで自分が優位にあることを示そうとする悪習がありました。つまり、ソドムの人々の罪は、単なる性犯罪のレベルを超える、寄留者を押さえつけ、弱い者を苦しめる、歓待しない生き方にありました。ところで、このような姿はロトにも見えたのです。最初は罪に満ちたソドムの中でも、ロトは正しい者の姿を保っている様でした。ですが、ロトの一言によってロトもソドムの罪に染まっていることが分かります。 「どうか、皆さん、乱暴なことはしないでください。実は、私には、まだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せていただいたのですから。」(倉19:7-8)一見、ロトは神の御使いを守ろうとする正しい心を持っているように見えました。しかし、ロトは神の御使いを守る代わりに、自分の娘たちを暴力の生け贄にしようとしました。結局、ロトも社会的な弱者である女性を簡単に暴力の被害者に追い込んでしまいました。残念なことにソドムに住んでいたロトさえも、不義に満ちたソドムの文化に染まってしまったというわけでした。 3.正しい10人の不在のため、滅ぼされるソドム。 結局、最後の希望だったロトさえ、正しくないと判定されました。 「こいつは、よそ者のくせに、指図などして。さあ、彼らより先に、お前を痛い目に遭わせてやる。」(9)ソドムの人たちも、ロトも、結局は弱い者の世話をし、善を行う姿から遠ざかり、寄留者を抑圧し、弱い者を軽んじる罪を現わしてしまいました。しかも、ソドムの人々はロトをも攻撃しようとしました。実に阿鼻叫喚の様でした。彼らには、愛も、正義も、歓待もありませんでした。ただ、彼らは他人を抑えつけ、自分の欲望だけを追い求め、身勝手に悪を行う罪悪そのものの存在になっているのでした。こういうわけで、ソドムに赦しの機会を与えるために派遣された神の御使いたちは、ソドムを無惨に裁く審判官になってしまいました。神の御使いたちは、まるで、ソドムの人たちの霊的な状態を意味するかのように、彼らの目を潰し、その場から退けようとしました。以後、ソドムは神の激しい裁きにより、滅びてしまいます。神は華やかな供え物や多くの財物を願う方ではありません。神は神を愛し、隣人を愛する素朴だが正しい者の生き方から喜びをお求めになる方なのです。しかし、ソドムの人々は、そのような素朴で正しい人生より、自分の強さと力を誇り、隣人を貶め、結局、神まで蔑む人生を生きました。ソドムには、神の御心に適う10人がいなかったので、ついに滅ぼされてしまったのです。 締め括り 今日の新約本文にはソドムの罪に関する言及が記されています。「自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たちを、大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められました。ソドムやゴモラ、またその周辺の町は、この天使たちと同じく、みだらな行いにふけり、不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています。」(6-7)ユダヤ人たちの伝説によると、ある天使たちが神の王座を狙ったところ、永遠の鎖に縛られ、裁かれたと言われます。ソドムの人々は、その堕落した天使たちに似ていました。彼らには、神への愛や隣人への愛なんて、重要ではありませんでした。過去の堕落した天使たちのように、ただ自分が高くなることだけを願っていたのです。他人を配慮せず、自分だけが高められる人生、一時は賢い生き方に見えるかもしれません。 世の中の政治家や金持ちの中に、このように弱者を配慮しない人は結構多いです。しかし、私たちははっきり知っておくべきです。私たちの社会が弱者を大切にしなければ、結局、神に裁かれ、滅ぼされるでしょう。ソドムの物語は、現代でも同様に適用される見せしめです。弱者を苦しめ、強者だけを高める社会は結局滅びるでしょう。私たちの教会は、このような社会において、どのように生きていくべきでしょうか。私たちはこの地域の正しい人10人として生きているでしょうか。神は隣人愛を通して、神への愛を確かめられる方です。神を本当に愛するなら、自分のことを弁え、隣人を尊重し、主が望んでおられる正しい生き方を実践しつつ生きるべきでしょう。