神に召される日。

創世記25章1-11節(旧38頁) テモテへの手紙二4章6-8節(新394頁) 前置き ここ10ヶ月の間、私たちはアブラハムと歩んでくださった、唯一の真の神について話してきました。アダムが最初の罪を犯して以来、その子孫たちは罪と妥協しつつ、神無き人生を生きていきました。しかし、その中にも神を覚え、同道した少数の人々がいました。旧約聖書は彼らを「正しい人」と語ります。神は、その正しい人たちの子孫の中でアブラハムをお選びくださり、本格的に正しい人の系譜を作ろうとなさいました。そして、神はその系譜からイエス・キリストという真の正しい人を遣わしてくださいました。神に選ばれた本格的な正しい人という点で、アブラハムはとても重く位置づけられています。アブラハムは、正しい人と罪人という二面性を持った、弱くて失敗だらけの存在でしたが、神は少しも変わることなく、彼の人生を導いてくださいました。そして幸せな最後を許してくださいました。神は、現代を生きる私たちとも、このアブラハムのように常に一緒にいてくださり、罪を勝ちぬき、義を追い求めるように導くことを望んでおられる方です。このアブラハムの最期について一緒に探りつつ、私たちの追求すべき人生について顧みてみましょう。 1.アブラハムのハッピーエンド。 アブラハムの最期に先がけ、聖書は彼の3番目の妻について語ります。「アブラハムは、再び妻をめとった。その名はケトラといった。」(1) アブラハムは3番目の妻をめとりました。ところで、いくつかのラビたちは、このケトラが3番目の妻ではなく、サラに追い出されたハガルであるかも知れないと主張しました。つまり、21章でサラの嫉妬により追い出されたハガルが、自分の思い煩いから自由になり、神への信仰で生きてきた結果、サラの死後、再びアブラハムの妻となり、名誉を取り戻したということです。「ケトラ」とは「芳しい」という意味で、イスラエルの神殿で使われていた香の語源です。この香は、神と人間の交わりの媒介となる、とても重要な神殿用品でした。新約聖書「ヨハネの啓示録」では、神への祈りを、この香に喩えているほどです。つまり、信仰を持って生きてきたハガルが、神殿の香のように、主と同道した人として、「ケトラ」という名前で描かれたということです。11節に、イサクはベエル・ラハイ・ロイの近くに住んでいたと記されていますが、そこはサラに追い出されたハガルが神に出会った場所です。つまり、サラの死後、アブラハムはハガルと和解し、アブラハムの家族が互いに赦し合って幸せに生きたということです。数多くの葛藤と失敗で綴られたアブラハムの家族でしたが、最終的にすべてが神のお導きのもとで幸せに終わったということです。これは、あくまでも仮説で、定説だとは言えませんが、信仰を守り抜いたアブラハムへの神からの贈り物として、ある程度、解釈が出来る話しではないかと思います。 アブラハムは75歳に神に出会い、11年後に、イシュマエルという庶子を儲けた後、100歳でやっと嫡子のイサクを儲けました。しかし、以後、彼の信仰への神の報いなのか、このケトラを通して6人の息子を、さらに儲けることが出来ました。信仰の試練で、長い間、相続人が得られず、苦しんでいたアブラハムでしたが、信仰を証明した彼は今までなかった多くの子どもを得ました。神は私たちの考えとは違う方式でお働きになる方です。私たちが切に望んでも、神の時と御旨に敵わなければ、神のお答が延期される場合もあります。しかし、主の御旨と時に適えば、神は大きな祝福を持って叶えてくださる方です。信仰には待ち望むことが必須です。信仰とは「神のご意志と自分の意志」という絶対的な二つの価値の中で、自分の意志を抑え、神のご意志に全面的に従う自己否定の道のりです。信仰とは、自分の必要や欲望を満たすための「打ち出の小槌」のようなものではありません。信仰は、この世の本当の主でいらっしゃる神の御心に聞き従って、自分の野望や欲望を明け渡すことであり、その中で成されていく神の御心に従い、神の民になっていく道のりなのです。アブラハムの人生は、そのように自己中心の人生から神中心の人生へ変化していく信仰の道のりでした。その結果は、問題の解決と約束の成就といった真のハッピーエンドでした。 2.純粋な信仰の継承。 「アブラハムは、全財産をイサクに譲った。側女の子供たちには贈り物を与え、自分が生きている間に、東の方、ケデム地方へ移住させ、息子イサクから遠ざけた。」(5-6)もし、25章が童話だったら、今日の物語は、この上なく和気あいあいとしたハッピーエンドで終わったはずでしょう。「昔々、大昔、アブラハムとイサクとケトラと息子たちは、幸せに生き続けました。」のようになったはずでしょう。しかし、アブラハムは、その幸せに酔って本質を失う愚行を犯しませんでした。彼は嫡子のイサクと庶子たちを、はっきりと見分けました。神との約束を覚えており、約束の子であるイサクに、すべての遺産を譲りました。また、庶子たちには、あえて与えなくてもよかったはずの贈り物を分けてやることで、イサクに与えられた神の約束の相続に問題が生じないように徹底しました。そして、アブラハムはイサクを除いた他の息子たちを東の方に行かしてしまいました。約束の子のイサクが、約束の子ではない、他の兄弟たちと混じって、唯一の神ではない異邦の神々を拝む偶像崇拝者にならないようにするためでした。つまり、アブラハムは約束の子イサクに純粋な信仰を引き継ぐためにそうしたわけでした。 時々、キリスト教は排他的な宗教だと指摘されたりします。「どうしてキリスト教だけに救いがあると言うのか。他の宗教には救いがないということか」などの批判です。キリスト者にとって、これは実に困難なテーマです。他の宗教にも救いがあると言えば、聖書の言葉が偽りになることであり、他の宗教には救いがないと言えば、謙虚さを美徳とするキリスト者が傲慢な存在になってしまうからです。しかし、アブラハムは頑固に感じられるほど、イサクだけを約束の子として認めていました。ですから、私は本質的に「キリストの外にも救いがある」とは絶対に言えません。しかし、それでも、他宗教の信仰も尊重すべきでしょう。こういうわけで、私はこう話したいと思います。明らかなことは、私たちの神は他人ではなく、まさに「私」にお問いかけになっておられるということです。他人に向けた「キリストを信じなくては、救い無し」という言葉より「君はキリストを信じているか。」という、自分自身への神の御言葉に、もっと集中したいと思います。アブラハムは、ひとえに唯一の神のみを仰げという、純粋な信仰を信仰の相続人であったイサクに力強く教えたはずです。 神が今日、私たちにお聞きになられたら、私たちはどう答えるべきでしょうか? 「君はひたすら私のみを追い求めるのか? 君はひとえに私だけを信じるのか。君は私だけに唯一の救いがあると認めるのか。」このような主のお問い掛けの前で、私たちはどのような答えを持って生きているのでしょうか? 3.自分を捧げる人生 「アブラハムの生涯は175年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。」(7-8) アブラハムは75歳の時、神に出会い、ちょうど100年後の175歳に神に召されました。本文の「長寿を全う」という表現は、ただ「長生きした。」という意味だけではありません。彼は自分の人生のすべてを全うして神と共に生きました。彼は異邦の神々の民として生まれ、唯一の神の民として生まれ変わり、信仰によって約束の子を生み出しました。主の約束に頼り、カナンの地に帰るべき「約束の地」を備え、子孫全員が求めるべき信仰の見本を作りあげました。彼の生涯は文字通りに神の御前にすべてを捧げ、全うする人生だったのであり、4000年経った今でも、極東の日本の教会でも教えられている信仰の父に相応しい人生であります。彼の最期を考えるたびに、新約聖書の、ある人物が思い浮かぶます。その人は使徒パウロです。今日の新約本文を読んでみましょう。「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」(テモテⅡ4章6-8) 残念なことに、今日の旧約の原文と新約の原文の間に共通の単語はありませんでした。ですが、旧約本文の7~8節と新約本文の6~8節は意味上、通じるところがあると思います。イエス·キリストに出会って以来、福音の伝道者として生きてきた使徒パウロは、自分のすべてを捧げました。アブラハムも神との100年間、このような充実した人生を送ったはずです。そのため、今日の聖書は「全うした。」と表現するわけです。私たち人間は、あまりにも怠慢な存在ですので、自分自身を神に完全に捧げ、全うする人生を生きることが不可能に近いと思います。それにもかかわらず、私たちは信仰の先輩であるアブラハムの人生を見て、自らをもう一度改めて振り返る機会にするべきだと思います。神という絶対的な存在の前で、私たちはどのような人生を生きているでしょうか。私たちの人生は、もうあまり残っていません。 もしかしたら明日、突然召されるかも知れません。若者だからと言って将来が晴れ続けるとは言えません。生まれは順番ですが、帰りは順番がないからです。ですから私たち自身の人生を省みつつ生きるべきです。 我々は果たしてアブラハムとパウロのように「すべてを捧げ、全うする人生」を通して神に仕えているのでしょうか? 締め括り ついにアブラハムは神のもとに帰りました。以後、彼の信仰を受け継いだイサクとヤコブ、そして、その後裔たちによって正しい人の系図が受け継がれていくことでしょう。聖書を読みながら、この物語を私たちの人生に適用しつつ生きていきたいと思います。私たちはキリストによってアブラハムの信仰の子孫となった教会です。アブラハムの信仰の子孫となった我々は恥じのない信仰の人生を生きているでしょうか。終わりの日、神の御前に立つ時、我々はどのように評価されるでしょうか? 「よくやった。我が子よ」と評価されるでしょうか? 「もっと励んで生きたら…」と評価されるでしょうか? 「私は君のことをまったく知らない」と評価されるでしょうか? 今日のアブラハムの最期を通して、我々の信仰と人生を省みていきたいと思います。 信仰とは何でしょうか。神と一緒に生きるということは何でしょうか。自らを顧み、神の御言葉に耳を傾け、従順に生きる人に神の大きな祝福があることを信じます。そのような志免教会になりますように。

殺す王、生かす王Ⅱ

申命記8章3節(旧294頁)           マルコによる福音書6章30-44節(新72頁) 前置き 前回は邪悪な王であるヘロデと旧約最後の予言者である洗礼者ヨハネをめぐる物語を通して、この世は邪悪な王によって支配されやすい所であり、時々そのような王によって神の正しい人が、死の危機に追い込まれることもあると話しました。また、神が私たちにお遣わしくださった真の王は、ひとえにイエス・キリストお一人だけであり、神の民は邪悪な権勢の迫害を恐れず、ひたすらキリストに頼って共に生きるべきだとも話しました。世の権勢は悪く変質しやすいですが、キリスト者は変わることのないキリストへの信頼を持って、常に世の権勢を警戒する見張り番として生きるべきでしょう。終わりの日、キリストが再び来られる時まで、我々は忠誠心を持つ主の民として信仰を守り、堂々と生きていくべきでしょう。 1.糧より御言葉。 前回の説教の、マルコによる福音書の第6章に記してあった物語は、文脈上必ずしも必要な内容ではありませんでした。それでも、敢えてヘロデの物語が挿入された理由は、イエスという天から臨まれた善い王と、ヘロデという地上の邪悪な王を比較するための装置だったからだと申し上げました。地上の王は自分のために民を殺す悪行を働きましたが、天から来られた真の王キリストは、民を生かすために御言葉と共に糧を与えてくださいました。今日の本文は、そのような視座から考えるべきだと思います。「一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。」(マルコ6:32-33)イエスのところには、いつも貧しくて弱い者たちが押し寄せてきました。ガリラヤの貧しい人々、もともと彼らを守るべき王はガリラヤの領主であるヘロデだったはずです。しかし、彼らはヘロデから、如何なる慰めも愛も受けることが出来ませんでした。彼はむしろ民を厳しく扱い、苦しめるだけでした。ヘロデの下でガリラヤの民は疲れ、つらくて貧しい暮らしをするだけでした。主の一同が船に乗って、他の地域に赴いた時、ガリラヤの貧しい者たちは船に従って駆けつけました。むしろ船より先に、主の行かれる所に到着して待っていました。それほど彼らには真の慰めと恵みが切実だったのです。 「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」(34)五つのパンと二匹の魚の奇跡は、4福音書に全て記してある有名な出来事です。キリスト者でなくても、その物語を知っている人がいるほどです。ところが、多くの人が、その出来事を「腹一杯食べさせること」と誤解しがちだと思います。群衆を飼い主のいない羊のようにお哀れみになったイエスが、食物だけをくださったと間違って受け入れるということです。しかし、主が群衆のために一番最初になさったことは、食べさせることではなく「いろいろと教える」ことでした。つまり糧より御言葉を優先されたということです。これには大事な神学的な意味が含まれています。我々は聖餐式を行う際に、必ず聖書を朗読し、説教を聴いて聖餐にあずかります。私たちは、ただ食べるために聖餐を行うわけではなく、神の御言葉そのものであるキリストを記念するためにパンと杯を分かち合うのです。ヘロデが暴君に見なされた理由は、ただガリラヤの民を経済的に困らせたからだけではありません。神の御言葉ではなく、自分の思いのままに治めたことが根本的な理由でした。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイ4:4)五つのパンと二匹の魚の奇跡が持つ重要な教えは、「真の慰めは糧ではなく、神の御言葉に基づくものである。」ということです。 2.「五つのパンと二匹の魚の奇跡の本当の意味」 新約本文の「群衆」という単語はギリシャ語で「オクロス」と言います。オクロスとは、神の民である者と神の民でない者とをまとめた、全ての人々を意味する表現です。つまり、イエスはユダヤ人、異邦人、正しい者、罪人を問わず、全ての人間をお招きくださり、憐れんでくださったということでしょう。主はこうした分け隔てのない愛をもって、群衆つまり「オクロス」の前にお立ちになったのです。34節の「深く憐れむ。」という日本語の表現は、何か物足りない翻訳だと思います。この表現はギリシャ語の動詞で「スプランクニゾマイ」という表現です。これは「スプランクノン」という名詞に由来しますが「腸(はらわた)、比喩的には憐み、愛情」などの意味を持っています。つまり、34節で「深く憐れむ。」という言葉は「腸が千切れるほど憐れむ。」と翻訳したほうが、より一層原文に近い表現だと思います。世の風波にくたびれた群衆を見て腸が千切れるような憐れみを感じられたイエスは、そのために群衆に御言葉を教えてくださったのです。ところで、主はなぜ、疲れた彼らに、糧ではなく神の御言葉を先に与えようとなさったのでしょうか? それは神の真の慰めと恵みとは、その方の御言葉から生まれるものだからでしょう。食物はしばらくはお腹をいっぱいにするかも知れませんが、永遠の慰めと満足は与えることが出来ません。神の御言葉による恵みが先立たなければ、結局、人はしばしの間だけ満腹感に満足し、すぐに飢え、喉が乾いてしまうでしょう。 「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(申命記8:3)旧約時代、イスラエルをエジプトから導き出された神は、荒れ野で彼らにマナという不思議な糧をくださいました。マナは天から与えられたウェファースのような食物でしたが、一日経てば腐ってしまう、まさに日用の糧でした。神のご命令、つまり御言葉に従って正当に蓄えた者のマナは不足のない糧になりましたが、欲張って過度に蓄えた者のマナは、翌日、腐敗した生ゴミのようになってしまいました。神はマナをくださる前に、その点をはっきりとご警告なさいました。 一人に正味1オメル(約2.2リトル)という目安を教え、主の御言葉に聞き従うことを命じられたのです。肉体の満足を満たす前に、神の御言葉への服従が優先です。主の御言葉を聞いて従う者だけに、真の満足が与えられるのです。マナの物語はそういう点を私たちに教えてくれるのです。(マナに関する詳しい内容は、出エジプト記16章をご参照ください。) ですから、主イエスは5000人を食べさせる奇跡に先がけて御言葉を教えてくださったわけです。「五つのパンと二匹の魚」の出来事に教えられる本当の意味は「御言葉なくしては満足もなし」ということです。 3.5000人を食べさせてくださる。 「そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」(6:35-36)時間が経ち、食事の時間になりました。弟子たちは主に群衆を解散させて、何かを買って食べさせようと頼みました。 しかし、群衆の中には当時のユダヤ社会において差別を受けている人もたくさんいたはずです。売国奴扱いされた徴税人、病んでいる人、娼婦、乞食など、社会から排除された人も多かったに違いありません。 もし、彼らを周りの里や村に行かしたら、彼らはきっと卑しめられたでしょう。そこで、主は「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」と仰いました。しかし、弟子たちは、お金の心配ばかりしていて、何も行えませんでした。「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか。」当時、1デナリオンは労働者一人の1日分の賃金だったと言われます。 2021年、福岡県の最低賃金が1時間当たり870円ですから、8時間としても1日7000円くらいです。それに200をかけると、140万円ぐらいになるはずです。弟子たちは群衆の事情に対する配慮も不十分でしたし、人間的な考えでお金を心配するだけでした。しかし、弟子たちの心配は極めて現実的なもので、私たちも同様に感じている心配なのかもしれません。しかし、お金の心配のため、神のお導きに従うことを躊躇ってはならないでしょう。祈りと工夫を通して、主のみ旨をたどって探し求める知恵が必要でしょう。 「イエスは言われた。パンは幾つあるのか。見て来なさい。弟子たちは確かめて来て言った。五つあります。それに魚が二匹です。」(38)その時、主は小さなものから解決策をお見つけになりました。ヨハネによる福音書6章によると、五つのパンと二匹の魚は、ある少年のものだったと言われます。主はその小さなものを用いられて、賛美の祈りの後、皆に分けてくださいました。 ここで「賛美の祈りを唱える」という表現はギリシャ語「エウロゲオ」ですが、「祝福する」という意味です。 前の創世記の説教で祝福を意味する「バラク」というヘブライ語を取り上げたんですが、この「バラク」をギリシャ語に訳すと、「エウロゲオ」になるのです。祝福とは「跪くようにする。」という意味だったことを覚えておられるでしょう。 さて、この「バラク、エウロゲオ」という表現を神に向かって使用すると、「賛美する。」という意味にもなります。すなわち、イエスが神の前で、まるで跪いたような謙遜な心で賛美の祈りを唱えられた時、天の神は、その少ないものから数え切れない多量の糧をくださったのです。その結果、5,000人を満腹させ、十二の籠がいっぱいになるほど、祝福してくださいました。神の御言葉へと群衆を導かれたイエスは、神に祝福された真の王でした。そして、その方は神の祝福を民衆にも分け与えてくださいました。その結果、出エジプトのイスラエルがマナを味わったように、主を頼っていた群衆も、天からの糧を味わうことが許されたのです。 締め括り 「五つのパンと二匹の魚の奇跡は、旧約のマナの出来事を思い浮かべさせる新約の出来事です。 かつて、エジプトの王、邪悪なファラオからイスラエルを解放し、約束の地カナンまで導いてくださった方が唯一の神であることをマナの出来事を通して示されたように、今日の五つのパンと二匹の魚の出来事は、イエス·キリストがその唯一の神から来られた存在であり、真の満足と恵みを与えてくださる、真の王であることを示してくれたのです。世の権勢は、自分の欲望のために誰かを犠牲にしますが、キリストは、ご自分の民のために、喜んで恵みの糧と満足を与えてくださいます。そして、ご自分の民を生かすために、自らの尊い命をも捧げてくださるのです。私たちの真の王は誰ですか。 特にこの日本では今でも天皇を精神的な王として、特定の政治家を政治的な王として思う人が少なからずいると思います。このような日本の社会で私たちに御言葉をくださり、導いてくださる、真の王は誰なのか、常に考えて生きるべきでしょう。私たちに霊と肉の糧、そして神の御言葉をくださる、真の王イエス・キリストを覚えて生きましょう。 真の王であるキリストと共に生きる志免教会の皆さんに主の豊かな恵みがありますように祈ります。

リベカの信仰。

 創世記24章50-67節(旧37頁) エフェソの信徒への手紙5章30-32節(新358頁) 前置き 前回の説教のおもな内容を簡略にお話ししてから、説教を始めたいと思います。「祝福する」を意味するヘブライ語「バラク」は、基本的に「跪く」という意味の動詞でした。この言葉のイメージから、創世期が語る祝福とは「神の御前に跪き、その方と共に生きること」であることが分かりました。また、アブラハムが息子イサクの嫁を探すために送った僕(僕)がエリエゼルである可能性が高く、彼が見せた主人アブラハムへの忠誠と愛を通して、主なる神への民のあり方についても学ぶことが出来ました。キリスト教は世俗的な祝福だけを追求する宗教生活のための宗教ではありません。キリスト教は真の創り主であり、救い主である神に出会い、その方に赦され、人間の真の存在理由を悟って生きる信仰の宗教なのです。私たちは神の民である教会として、アブラハムの僕のように忠誠心を持って、神の御前に跪き、従順に生きるべきでしょう。 1.神の御選び。 前の創世記の本文にはアブラハムの僕の祈りが記されていました。「主人アブラハムの神、主よ。どうか、今日、私を顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください。私は今、御覧のように、泉の傍らに立っています。この町に住む人の娘たちが水をくみに来たとき、その一人に、どうか、水がめを傾けて、飲ませてくださいと頼んでみます。その娘が、どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょうと答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください。そのことによって私は、あなたが主人に慈しみを示されたのを知るでしょう。」(創24:12-14)15節によると、彼の祈りが終わらないうちに、まるで待っていたかのように叶っています。「僕がまだ祈り終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せてやって来た。」(15)実際に祈りが、このように簡単に叶うことはめったにないでしょう。多くのキリスト者が祈りの応えを求め、一週間、一年、それ以上の長い間、祈りに念を入れる場合が多いですが、それでも祈りの答えを得ることができず、諦めてしまう場合が多いと思います。普通、祈りが成し遂げられない時は、その祈りが神の御旨に敵わない場合が多いです。あるいは神の御旨に適っても、神の時ではないため、叶わない場合もあります。祈りとは、祈る者の欲望を叶えるための道具ではありません。祈りが持つ真の意義は祈る者が神の御心に気付き、神の時を待ち望んで、神に自分の思いと時を合わせて生きるための神との交わりの手段なのです。 アブラハムの僕の祈りが終わるやいなや成し遂げられた理由は、その祈りが神の御心と時に適う良い祈りだったからです。神とアブラハムの契約の実であるイサクに約束の花嫁が与えられることは、イサクが生まれる前から、すでに決まっていた神のご計画でした。アブラハムの子孫が空の星のように、海の砂のように多くなるためには、イサクに必ず妻がいるという前提が必要だったからです。ですから、アブラハムの僕は、泉の傍らで偶然リベカに出会ったわけではありません。神は今後の神のご計画を成就なさるために、必然的にアブラハムの僕とリベカを会わせてくださったのです。カルヴァン主義の五大特質と言われているドルト信仰基準には「無条件的選び」という項目があります。「神は主権的にご自分の民をお選びになり、最後まで決して諦められない。」という教えです。神はイサクが生まれる前に、主権的に彼を選ばれ、彼の妻リベカも生まれる前から選んでおられました。そして神の時が満ち、イサクと彼女を出会わせてくださったわけです。今日の本文は、すでに選ばれたリベカが、神の御前でどのように従順に行っているのかを示してくれる物語なのです。全能なる神は、この世のすべてをご計画なさり、その正しい御心どおりに導いて行かれる方です。神はアブラハムの僕の物語を通して、全能なる主のお選びの成就を見せてくださったのです。 2.主の御心に聞き従ったリベカ。 「ラバンとベトエルは答えた。このことは主の御意志ですから、私どもが善し悪しを申すことはできません。リベカはここにおります。どうぞお連れください。主がお決めになったとおり、御主人の御子息の妻になさってください。」(24:50-51)リベカに出会ったアブラハムの僕は彼女の家を訪れ、一部始終を説き明かしました。かつて神がアブラハムと契約を結ばれ、約束どおりにイサクという相続人を与えてくださり、そのイサクの嫁を探すためにアブラハムが自分を送ったことなどを、ことごとく告げました。彼の話を聞いて、リベカの兄ラバンと父ベトエルは、このことに神が深く関わっておられると気付きました。彼らはすぐに納得して、リベカをイサクに送ることに決意しました。実は、ラバンとベトエルがアブラハムの神を、同様に信じていたとは言えません。以後、イサクの息子ヤコブの物語の中ではラバンが偶像崇拝者として描かれており、日本語で「主」と書いてある神の名前も原文では「ヤーウェ」という固有名詞になっているからです。おそらく、ラバンとベトエルはいたって人間的な考え方で、親族が崇める神と仲良くした方がいいとの判断から、リベカをアブラハムの家に行かせようとしたのかもしれません。当時、アブラハムが大金持ちだったので、いっそう気楽に送りだせたのでしょう。 重要なのは彼らの考えではなく、当事者であるリベカの考えでした。顔も知らない夫、信じたことのない神、すべてがリベカにとっては未知の領域でした。しかし、リベカは自分を必要とする人々がおり、そのことが主と呼ばれる神のご計画であることを聞いて、アブラハムの僕と、一緒に夫イサクのところに行こうと決断したのです。リベカの家族は彼女が、しばらく10日ほど余裕を持って出ていくことを願いましたが、彼女は思い切って翌日すぐにアブラハムの僕と出発しました。事実、イサクが妻をめとることは、神のご計画の成就のためにとても大事なことでした。母サラは死に、父アブラハムも年をとって、いつか最期を迎えるはずでした。両親が死んだら、イサクは独りになるに決まっていました。イサクは約束の相続人でしたが、だからといってイサク一人で「大いなる国民にする」と言われた神の約束を果たすことは出来ませんでした。そのため、彼には必ず妻が必要だったのです。リベカが急いでイサクのところに向かった物語は、単なる男女の結婚問題に限ったことではありませんでした。それは神の約束の成就のための至急の出来事でした。アブラハムが神の御言葉に聞き従い、生まれ故郷、父の家を離れたように、リベカも神の御言葉に聞き従い、生まれ故郷、父の家を離れ、主が示してくださるイサクのところに向かったわけでした。 3.「花婿であるキリストと花嫁である教会」 ある日の夕方、リベカは泉の傍らでアブラハムの僕に出会いました。 そして翌朝、結婚を決心して900㎞も離れたイサクのいるカナンに向かいました。リベカはまだ神という方と夫イサクの顔も知らない状態でしたが、彼女は神の御言葉に従って愛する家族を離れる、大きな決断を下しました。彼らが発つ時、家族たちはリベカを祝福しました。「私たちの妹よ、あなたが幾千万の民となるように。あなたの子孫が敵の門を勝ち取るように。」(60)そのリベカへの祝福は、2000年後、リベカの子孫イエスの御言葉によって同じように繰り返されます。「あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」(マタイ16:18)イエスは「あなたはメシア、生ける神の子です」というペトロの信仰の告白に応じ、そのように祝福してくださいました。マタイによる福音書16章18節の「力」に訳されたギリシャ語「フィレ」はもともと「門」を意味する単語です。「対抗できない。」は 「勝ち取れない」という意味です。つまり、主イエスを真の主と告白する教会が悪の源である陰府の門を制圧するという意味です。偶然か必然か分かりませんが、リベカの家族の祝福は、2000年後のイエス·キリストと、その方の教会を通して成就されたのです。このように今日、神とイサクのために自分のすべてを捨ててカナンに赴いたリベカを見ながら私は理想的な主の教会を思い浮かべました。 「私たちは、キリストの体の一部なのです。それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。この神秘は偉大です。私は、キリストと教会について述べているのです。」(エフェソ5:30-32)主の教会はキリストの花嫁と呼ばれる共同体です。キリストは教会を救い、ご自分の花嫁にしてくださいました。教会はキリストの御心に従い、その方の花嫁として生きています。これは、まるで異邦の神々と生きていたリベカが、神の尊い御言葉に従い、主のみもとに入り、イサクの妻となった出来事と非常に似ています。リベカは、以後自分の夫を通してヤコブというイスラエルの先祖を産むことになります。リベカがいたからこそ、イスラエルも生まれたということでしょう。また、リベカは夫イサクがエサウを偏愛して神の約束を忘れたような時も、「兄が弟に仕えるようになる。」(25:23)という御言葉を記憶し、ヤコブが長子の特権を受けるように導きました。今日の本文を通して、リベカの信仰をよく吟味したいと思います。神の御言葉なら、すべてを捨ててでも聞き従う決断と信仰、自分の感情と気分ではなく、より大きなものを見分ける目、自分のことを求めておられる神のために、いつでも動ける手と足、教会が追い求めるべき在り方ではないでしょうか? 締め括り 父アブラハムや息子ヤコブに比べて、イサクは比較的に影響力が少なく感じられます。しかし、そのイサクには信仰の妻リベカがいました。リベカによってアブラハムとイサクの子孫ヤコブが生まれ、長子として祝福を受けることになり、その後、12部族の先祖たちも生まれることになりました。イサク一人だったら絶対に叶わなかったことでしょう。私たち、教会もリベカのように主の良い花嫁になることを願います。もちろん、キリストはイサクと比較できない全能なる方で、教会の助けが必要な方ではありません。しかし、キリストの福音を伝え、隣人を愛し、神の存在を生涯を通して示す教会になれれば、主に褒められるのではないでしょうか? リベカの決断と信仰を見ながら、私たちも神の御前で決断し、信仰を持って生きる真の信仰者になることを願います。キリストの花嫁として生きる志免教会の上に神の祝福が満ち溢れることを祈ります。

殺す王、生かす王Ⅰ

箴言14章32節(旧1009頁)           マルコによる福音書6章14-29節(新71頁) 前置き 今日の本文はヘロデの暴政と洗礼者ヨハネの死に関する物語です。ところで、この物語はマルコによる福音書6章の構成に必ずしも必要な話ではありません。「12十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。13そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。30さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。」(12,13,30)このように14-29節がなくても話は自然につながります。なのに、なぜマルコによる福音書の著者はわざわざ洗礼者ヨハネとヘロデの話を付け加えたのでしょうか? 6章7節でイエスは12人の弟子たちを呼び寄せ、伝道の旅に送り出されました。その後、弟子たちが戻ってきてイエスに報告し、福音を聞いた数多くの群衆が押し寄せました。主は福音を聞いて寄り集まる貧しい群衆のために五つのパンと二匹の魚をもって5000人を食べさせました。この世に福音を宣べ伝えられるイエスは、真の王として、民を呼び寄せ、仕えてくださる方です。五つのパンと二匹の魚の奇跡は、このようなイエスが真の救い主であり、王であることを示す象徴的なしるしです。本文はヘロデという暴政をしく邪悪な王を、イエスという正しい王に対照させることで、イエスという存在の偉大さを極大化する一種の文学的な装置なのです。私たちはイエスとヘロデという二人の王を通して、イエスがどのような方なのかをより深く悟ることになるでしょう。 1.邪悪な王ヘロデ·アンティパス まずは、本文に登場するヘロデについて探ってみましょう。(別紙参照)ヘロデの家系は非常に複雑です。ヘロデは聖書を読む時に、とても紛らわしい名前です。マタイによる福音書でイエスのご誕生の時にもヘロデが登場していますが、イエスの昇天後の使徒言行録にもヘロデが登場しています。予想しておられると思いますが、彼らは同一人物ではなく、祖父から孫につながる同名異人たちです。つまりヘロデとは王朝の名称なのです。マタイによる福音書でイエスを殺すために幼児殺害を命令したヘロデは、ヘロデ大王と呼ばれる人です。(偉大な王という意味ではなく、区別のための名称)ヘロデ大王はイスラエルの血統ではありませんでした。彼は創世記のイサクの長男エサウの子孫であるエドム(イドマヤ)民族出身で、母側もイスラエルの血統ではありませんでした。ですが、ローマ皇帝との人脈により、異邦人であるにもかかわらずユダヤの王に任命されたわけでした。ヘロデ大王には10人の妻がいましたが、みんな政略結婚でした。今日の本文に登場するヘロデは、彼の4番目の妻マルタケから生まれたヘロデ·アンティパスです。この人は洗礼者ヨハネだけでなく、イエスも処刑した暴君です。洗礼者ヨハネが、このヘロデ·アンティパスと、その妻ヘロディアを叱った理由は、ヘロデ·アンティパスが腹違いの兄弟であるフィリッポスから妻ヘロディアを寝取り、彼女と再婚したからでした。 「兄弟の妻をめとる者は、汚らわしいことをし、兄弟を辱めたのであり、男も女も子に恵まれることはない。」(レビ記20:21)律法は兄弟の妻を欲しがることを罪に定めています。ところで、なぜヘロデ•アンティパスは彼女を欲しがったのでしょうか? ヘロディアの祖母マリアムネ(Ⅰ)はヘロデ大王の2番目の妻で、ユダヤ族の正統性をつなぐハスモン王族(新旧約中間時代に打ち立てられたダビデ王朝と別の王朝)でした。ユダヤ人はヘロデ家を嫌っていましたが、彼らが異邦出身の王朝だったからです。そこで、ヘロデ•アンティパスは正統性を獲得するために、ユダヤ族出身の王族の女を求め、マリアムネ(Ⅰ)の孫娘であり、異母兄弟の妻であったヘロディアを寝取ったわけでした。そういう非律法的な背景の故に、洗礼者ヨハネはヘロデ•アンティパスとヘロディアを叱ったのです。「そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。」(19-20)ヘロデ•アンティパスは残酷な王でしたが、それでも予言者である洗礼者ヨハネだけは恐れていました。しかし、彼を恨んでいた妻ヘロディアの計略により、結局ヨハネを殺してしまいます。世の中はそういうものです。いくら、予言者が主の言葉を述べ伝えても、結局は自分の考え、富と誉のために、その言葉を無視し、軽んじてしまいます。そういうわけで、歴史上、正しい言葉を宣べ伝えた数多くの人々が殉教することで一生を終えなければなりませんでした。 2.「殺す王の世」 ここで驚愕に耐えないことは、ヘロディアの有様です。歴史の記録は、ヘロデ•アンティパスが腹違いの兄弟フィリッポスの妻ヘロディアを寝取ったと記録されていますが、実はヘロディアも元夫よりも権力を持っていたヘロデ•アンティパスの妻として生きることを望んでいたようです。「ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと」(21)ヘロデ大王は権力への執着の故に跡継ぎを定めずに死んだと言われます。そのため、ローマ帝国は彼の死後、イスラエルの地を分割し、彼の息子たちに分け与えて支配させました。ヘロデ•アンティパスは、その中でもガリラヤ地域を支配しましたが、エルサレムのあるユダヤ地域に比べて貧しい地域でした。しかし、ヘロデ•アンティパスはローマ帝国の将校たち(千人隊長、1000人の兵士たちを率いる将校。)や、高官たちと手を組み、自分の欲望を満たすだけに精一杯でした。そのため、貧しい民は後回しにされていたのです。なぜガリラヤの群衆が、イエスを熱狂的に探し、ついて回ったのか、なぜイエスがガリラヤの人たちを中心にお働きになったのかを考えてみれば、ヘロデ•アンティパスがどれほど民を配慮せず、自分の私利私欲だけを満たしまくっていたのかが、すぐに分かってきます。彼の妻ヘロディアも、民への愛はなく、夫との享楽に陥り、罪と義も弁えられない愚かな女だったと思われます。 このようなヘロディアの愚かさは神に遣わされた預言者である洗礼者ヨハネを殺すことで、その極みを示しています。「早速、少女は大急ぎで王のところに行き、今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございますと願った。」(25)神の御言葉を拝聴するより、自分の欲望をもっと追求したヘロディアは娘を通して夫の歓心を買い、その代償として洗礼者ヨハネの死を求めました(22-25)。このようなヘロデ•アンティパスとヘロディア夫婦の仕業を見ることで、当時のガリラヤの民が、どれほど邪悪な指導者に晒されていたのかを推測してみることが出来ます。世の権力者たちは自分の力を保たせるために、いかなる不当なことも平気で犯してしまいます。ヘロデ夫婦は自分の権力のために神の預言者を無残に殺しました。歴史上、そういう場合は数え切れないほど多いです。ローマ皇帝は帝国の維持のために植民地を暴圧で治めました。19世紀、列強の指導者たちは自らの利益のために他国に侵入し、植民地化して略奪しました。アメリカの指導者たちは戦争の勝利のために核兵器を弄んだのでした。このように権力を持つ者は、結局自分の罪の性質によって最悪の結果をもたらしがちです。それが、罪を持っている人間の本性なのです。もし、我々に権力があったらそう変わってしまうかも知れません。キリストの道を備え、神の御言葉を宣べ伝えるために、この世に遣わされた旧約最後の予言者、洗礼者ヨハネは、このような権力者の悪によって殺されたのです。 3.キリストが来られた理由。 「イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。そのほかにも、彼はエリヤだと言う人もいれば、昔の預言者のような預言者だと言う人もいた。 ところが、ヘロデはこれを聞いて、わたしが首をはねた、あのヨハネが、生き返ったのだと言った。」(14-16)そのためか、イエスの奇跡の噂は、ヘロデとヘロディアに恐ろしく迫ってきました。自分たちが殺した洗礼者ヨハネが生き返って、神の裁きをもたらすかもしれないと思ったからです。当時のユダヤには「死者の復活」という信仰があったと言われます。イスラエル民族は、数百年にかけて大国に攻められ、滅び、絶えず思い煩い、惨めな植民地生活をし、ヘロデのような邪悪な王の暴政の下で暮らしてきました。このように、この世での苦しみに悩まされた彼らは現世での希望を失い、死後に神が最も理想的な姿で復活させてくださるという復活信仰を信じるようになったのでした。おそらく、その復活に関する話しを聞いたことのあるはずの、ヘロデがイエスのご活躍の噂を聞いて、復活した洗礼者ヨハネと勘違いし、神のお裁きがもたらされるかと恐れたわけでしょう。本当に洗礼者ヨハネが復活したわけではありませんが、ヘロデ•アンティパスがイエスの噂を聞いて感じた恐怖には、ある程度意味があるでしょう。イエスがこの世を裁かれる聖なる審判者であることは間違いなく事実だからです。 洗礼者ヨハネの死は、本当に残念なことでした。正しい人の惨めな死だったからです。しかし、彼の死は、逆説的にもキリストによる新しい世への門を開け放つ記念碑的な出来事でした。「言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」(ルカ7:28)邪悪な王ヘロデ夫婦は自分の欲望のために洗礼者ヨハネを殺しましたが、彼の死は旧約を終わらせ、新約を始めさせる有意義な死でした。彼は偉大な預言者でしたが、キリストによって成し遂げられる神の国においては最も小さな者でした。ここでの神の国(御国)とは、キリストに治められる世を意味し(死後の世界だけでなくキリストに治められるすべての物事)、そして、その神の国を生きる者とはイエスを信じ、神の救いを得た主の民を意味します。つまり、新約時代の教会を意味するのです。洗礼者ヨハネは、最も偉大な旧約最後の予言者でしたが、彼はイエスを信じる我々より小さな者と評価されました。キリストが来られた理由は、この世の邪悪な王を裁き、ご自分が世を治める正しい王になられるためです。そして主に治められる新約の民を、旧約の最後の預言者である洗礼者ヨハネよりも、偉大にさせてくださるためです。私たち自らでは自覚できないでしょうが、神は明らかに私たちを洗礼者ヨハネよりも偉大な主の民として認めてくださったというわけです。 締め括り 今日の本文を通して、私たちはこの世がヘロデとヘロディアのような邪悪な権力によって支配されていることを改めて教えてもらいました。そして、正しい人がそのような悪人によって殺される場合があることも考えさせられました。しかし、主キリストは、そのすべての悪人をお裁きになる真の王として、必ずこの世に再び来られるでしょう。いや、主はすでに聖霊によって導かれている教会を通して、この世を生きる民たちと一緒におられます。教会は常にこの世の邪悪な権力を見張り、キリストのお裁きを警告するべき見張り番として、この世に存在する共同体です。世の邪悪な権力とイエスの正しい裁きの間で、私たちの教会はどのような生き方をとって生きるべきでしょうか。戦前、旧日本キリスト教会の先達は帝国主義に屈服し、偶像崇拝を犯して主を裏切ってしまいました。日本のプロテスタント教会に、偶像崇拝反対のための殉教者が一人もいないことは、悲しいことでしょう。しかし、戦後の新日本キリスト教会は過去の過ちを悔い改め、信仰の死守のために徹底して生きています。私たちも生涯を通して、真の王イエスへの信仰を固く守って生きていきましょう。「神に逆らう者は災いのときに退けられる。神に従う人は死のときにも避けどころを得る。」(箴言14:32)今日の旧約の言葉のように、キリストによって死の時にも希望を得る誠実な民になることを心から望みます。

忠実な年老いた僕(しもべ)。

創世記24章1-14節(旧33頁)  ヨハネによる福音書3章22-30節(新168頁) 前回の創世記の説教ではアブラハムが妻のサラと、その子孫のために墓を備える物語を話しました。ところで、カナンの墓、つまりマクぺラの洞穴は、単なる墓地という次元を超えるアブラハムの子孫たちが必ず帰るべき神との約束の地という意味を持っていました。創世記の次の出エジプト記は、アブラハムの子孫イスラエルがこの約束の地に帰っていく物語なのです。私たちキリスト者にも帰るべき所があります。主イエスは、神の民でありアブラハムの霊的な子孫である私たち教会員に必ず帰るべき所を備えてくださるために十字架で死んでくださった方です。私たちの帰るべき所とは、まさに創り主であり、救い者である三位一体なる神の統治のもとなのです。神がアブラハムを通して、マクぺラの洞穴を与えてくださったように、キリストを通しては真の救いをくださいました。私たちは、マクペラの物語を通してキリストの御救いを固く記憶し、常に主の恵みのもとのみにいることを誓って生きるべきでしょう。 1.神の祝福について。 今日の本文は神の民アブラハムが何事においても神の祝福のもとで生きていたという記録から始まります。「アブラハムは多くの日を重ね、老人になり、主は何事においてもアブラハムに祝福をお与えになっていた。」(1)創世記12章でアブラハムを呼び出された神は彼に約束されました。「私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」(創12:2)しかし、アブラハムは祝福どころか、数多くの信仰の失敗と苦しみの中で暮らしました。妻を2度も捨て、相続人にしようとしていた甥と別れ、側女の故に家庭の問題が起きました。約束の相続人の兆しは中々見えませんでした。こんなアブラハムは本当に祝福された人だったのでしょうか。果たして神の祝福とは何でしょうか。まず、我々は聖書が語る「祝福」という概念を確実に理解する必要があります。もともと、祝福を意味するヘブライ語の「バラク」は「誰かに向かって跪く。」という意味です。神がアブラハムにくださった祝福とは、「経済的な豊かさ、子どもたちの出世、無病長寿」などの漠然とした世俗的な幸せを意味するものではありませんでした。アブラハムの祝福は、彼が真の神に出会い、その御前に跪き、主に従って生きることでした。 ここで跪くということは惨めに屈服するという意味ではありません。人が自分の存在理由に気付き、創り主の御前に出ること。つまり、自分の在り方を悟ることなのです。アブラハムは信仰の失敗と苦しみの中で暮らしていましたが、神は一度もアブラハムをお離れになりませんでした。神は、時には、何もお答えになりませんでしたが、その時でさえも変ることなく彼の人生の中におられたのです。アブラハムは紆余曲折の歳月の中でも、変わらず神と共に歩み、神がくださった信仰によって数多くの苦難と逆境を乗り越えました。アブラハムの人生は、神の無い自己中心的な生き方から、神に跪き、すべてを委ね、神と同道する神中心的な生き方に変わっていきました。聖書が語る祝福とは、まさにそういうことです。民が神の御心に従順に聞き従うことなのです。私たちの求めるべき祝福は創り主であり、救い主である主なる神を知ること、また共に生きることなのです。喜怒哀楽の中でも変わることなく、主と歩むことこそが祝福の真の意味なのです。その時はじめて、主は霊的な祝福と共に肉的な祝福をも与えてくださるでしょう。我々がイエスを信じて生きるということは、神に跪いて生きるという意味です。自分の考え、自らからの基準ではなく、聖書の御言葉を通して教えていただく神の御旨、神の基準に自分のことを合わせることです。そこから神の祝福は始まるのです。 2.アブラハムの年老いた僕(しもべ)。 アブラハムは今日の本文で重大な決定を下すことになりました。「私の一族のいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのために連れて来るように。」(4)それは、相続人イサクの結婚のために、故郷の一族の所に行って、嫁を連れてくることでした。イサクは神の約束の実でした。アブラハムと結ばれた神の約束は、彼の死後に息子を通して、同じく受け継がれるべき大事なものでした。そういうわけでイサクが妻をめとることは、神とイサクとの約束を守るための、とても大事なことでした。「私の故郷、私の一族」という言葉の意味は同じ価値観を共有する存在という意味です。周りのカナン民族は、神に呪われるべき存在でした。彼らは異邦の神々を拝み、邪悪な宗教行為も平気にやってしまう罪人たちでした。彼らの最大の罪は真の創り主、神を拒否することでした。当時、大きな影響力を持っていたアブラハムが唯一の真の神を信じていることを知っていたにもかかわらず、彼らは自分たちの偽りの神々を信じ、淫らで罪深い人生を送りました。アブラハムは、そのような呪われるべき異邦の信仰の中から約束の子孫イサクを守り、聖なる約束を継承させるために同族から嫁を見つけようとしていたのです。 しかし、アブラハムは高齢が故に、動きが不自由な状態でした。それで彼は自分が一番信頼する僕 (しもべ)を、自分の代わりに送ろうとしました。「アブラハムは家の全財産を任せている年老いた僕(しもべ)に言った。手を私の腿の間に入れ… 主にかけて誓いなさい。あなたは…私の一族のいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのために連れて来るように。」(2-4)今日の本文には、僕(しもべ)の名前が載せられていませんが、多くのユダヤ教のラビやキリスト教の学者たちは、この人が15章に登場するエリエゼルではないかと推測しました。「わが神、主よ。私に何をくださるというのですか。私には子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」(15:2)甥のロトが去り、イサクも生まれる前、アブラハムは僕(しもべ)エリエゼルを自分の相続人にしようとしました。おそらくそれだけにエリエゼルは忠実で、偽りのない人だったでしょう。アブラハムは、彼に自分の腿の間に手を入れさせて誓わせました。ここで「腿の間」という言葉は「ヤレク」というヘブライ語で、婉曲的に男性の生殖器(割礼部)を意味します。つまり、神の契約を意味する割礼の痕跡を通して真剣に誓いなさいという意味なのです。それだけアブラハムは、エリエゼルを信頼し、重要な務めを任せようとしたわけでした。 「そこで、僕(しもべ)は主人アブラハムの腿の間に手を入れ、このことを彼に誓った。 」(9)もし、アブラハムの年老いた僕(しもべ)が、本当に15章のエリエゼルだとすれば、彼の忠誠心は本当に驚くべきものです。もし、イサクが生まれなかったら、この僕(しもべ)はアブラハムの相続人になるに違いありませんでした。おそらく、彼にはアブラハムの死後、その一家を始末して、アブラハムのすべてを奪い取る力もあったはずです。しかし、彼は謙虚にアブラハムに仕え、自分の若い主人のために、ベエルシェバからハランまで900kmにも達する遠い道のりを何の不満もつぶやかず旅しました。「主人アブラハムの神、主よ。どうか、今日、私を顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください。」(12)むしろ彼は主人の願いが叶うことを神に切に祈るほどでした。たとえ自分への何の利益もないとしても、主人のことを自分のことのように思い、命をかけて遠い道のりを進んでいった忠実さ。自分のものになり得る財産を受け継いだ若いイサクを大切にして彼に代わって嫁を探しに行った主人への愛。自分も高齢なのに主人のために喜んで仕える心得。主人公の席を主人とその息子に返し、自分はただ黙々と主人の命令に従う謙遜さ。彼の姿から忠実なキリスト者の在り方が見つかります。 3.主に仕える僕(しもべ)の在り方。 アブラハムの僕(しもべ)の仕え方を見ながら、一番初めに思い浮かんだ新約の箇所はヨハネによる福音書3:28-30でした。「私は、自分はメシアではないと言い、自分はあの方の前に遣わされた者だと言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、私は喜びで満たされている。あの方は栄え、私は衰えねばならない。」イエスが公生涯をお始めになった時から、主の道を備えるために先に来ていた洗礼者ヨハネの人気は、徐々に落ち、その影響力を失っていきました。洗礼者ヨハネの弟子たちは、それを見て残念に思っていました。しかし、洗礼者ヨハネはむしろ自分の消えゆく人気よりも、主なるイエスの栄えをもっと喜んでいました。我々はキリストによって救われ、神の子となった主の民です。尊い命を捧げて我々を神に導いてくださった、主イエスのために我々は何をすればいいでしょうか? 本当に祝福された主の民は、限りのない欲望に溺れて、世俗的な祝福だけを求める者ではないはずです。自分を救ってくださった神の御救いが、さらに世の中に広がっていくように、主の道を備えていく者に違いありません。 締め括り 私は、皆さんが宗教生活をなさらないことを願います。「ただ心の安らぎのために、ただ慰められるために、ただこの世での繁栄のために」のように、うわべだけの宗教生活をなさらないことを願います。それらのことは他の宗教からも、いくらでも得られるものです。宗教生活と信仰生活は完全に異なるものです。主の福音は宗教ではなく生活です。神社参拝のような崇拝行為ではなく、神と共に生きることです。私たちが愛する人たちと触れ合って幸せに生きることと同じように、人間の罪によって関係が切れてしまった、唯一の神に立ち帰って、その方と共感しつつ共に生きることです。我々を呼び出し、赦し、子供にしてくださった神と共に幸せに歩む皆さんになることを願います。イエスは我々にそのような人生を与えてくださるために、十字架の上で残酷な苦しみをお受けになったのです。自分自身が今すぐ栄えなくても、主と福音、教会が栄えるのなら、それに満足できる真の信仰者になることを願います。今日、アブラハムの年老いた僕(しもべ)が見せてくれた忠実な姿から、また、ご自分の民を救ってくださるために、すべての栄光を捨てられ、血潮を流してくださったイエスの姿が見えます。私たちもアブラハムの僕(しもべ)と苦しみのイエスに見習い、謙虚に神だけを崇める人生を生きていきたいと思います。神の御前に跪き、共に歩む忠実な民になってまいりましょう。そのような人生の中で、主なる唯一の神は私たちを限りなく祝福してくださるでしょう。

ナザレのイエス

エレミヤ書15章10-11節(旧1205頁)       マルコによる福音書6章1-13節(新71頁) 前置き 我々はマルコによる福音書5章の出血病の女、そして会堂長ヤイロの物語を通して、イエスがいかなる不浄も正される聖なる方であり、死までも支配なさる真の神であることが分かりました。前回の本文は、このような主に出会うために登場人物たちが、どのような信仰を持っていたのかを語りました。出血病の女は、何があっても主に会おうとする大胆な信仰を、会堂長ヤイロは謙虚に主の時を待ち望む信仰を示しました。我々の人生の中には他人には打ち明けられない、様々な苦難や障害があります。しかし、神は常に私たちの中におられ、時には大胆な信仰を、また時には待ち望みの信仰をお求めになります。主は民がご自分への変わらない信仰を持って生きる時、必ずその信仰に答えてくださる方です。私たち志免教会の兄弟姉妹たちも、またそのような信仰を持って生きて行くことができますように祈ります。神は私たちの信仰の中にいらっしゃるからです。 1.ナザレのイエスという表現について。 本日の本文でイエスは幼年期と青年期を過ごされた故郷ナザレをお訪ねになりました。「イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。」(1)実は本文に故郷の地名が明らかに書いてあるわけではないですが、ルカによる福音書の並行本文ではナザレとはっきり書いてあります。主の故郷ナザレ、しかし怪しい点があります。なぜなら、主の故郷はナザレではなく、ベツレヘムだからです。「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。」(マタイ2:1)主はベツレヘムで生まれ、ナザレでは育たれただけなのに、どうして聖書はナザレを主の故郷だと語っているのでしょうか?※マタイによる福音書2章23節では、「ナザレという町に行って住んだ。彼はナザレの人と呼ばれると、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。」という言葉があります。イエスが旧約の預言者たちの預言のようにナザレ人と呼ばれるためにナザレに行ってお住まいになったということでしょう。しかし、旧約のどこにも「ナザレの人と呼ばれる。」という箇所はありません。ですので、私たちはナザレという表現が持つ他の意味を探ってみる必要があります。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。」(イザヤ11:1-3) エッサイはユダ族の人であり、ダビデ王の父です。 ※「日本では故郷と言えば、育ったところというイメージが強いと思います。しかし、古代ユダヤでの感覚は現代の日本とは違いました。当時のユダヤ人にとって、ナザレ出身という言葉には劣るイメージがあったと言われます。貧しいガリラヤでも一番貧しい村の一つだったからです。ギリシャ語で故郷はパトリスと言います。この言葉はパテルに由来した表現ですが、父(Father)の語源です。ユダヤ人がどれほど父系を大事にしたのかが分かります。ベツレヘム生まれとすればダビデの子孫というネームバリューが、つまり伝統的、神学的な権威が付きますので、とても大事です。2000年前のユダヤ式の考え方ですので、故郷という言葉を日本の文化的な感覚のように受け止めるには多少無理があるだろうと思います。聖書解釈の基本は、当時の現地での社会、政治、文化を理解することから始まりますので、キリストの本当の故郷はベツレヘムとするのが正しいではないかと思います。聖書神学では、キリストの故郷をベツレヘム、ナザレの両方として取り上げていますが、神学的な重さは断然ベツレヘムの方にあるでしょう。」 エッサイの株と根とは、即ちダビデの血統を意味するものです。旧約イザヤ書には、このダビデの子孫から神のメシアが生まれると予言されています。ここで「ひとつの若枝」と訳されたヘブライ語は「ナツェル」という表現ですが、この表現はナザレ(ヘブライ語ナツラット)の語源としても知られています。つまり、ナザレのイエスとはダビデの子孫、神のメシアであるという意味です。別の意味としては、旧約聖書に登場するナジル人、つまり聖別された者の語源である「ナザル」から派生した言葉であるという見解もあります。つまり、キリストは神に聖別された聖なる方であるということです。最後にナザレは当時のガリラヤ地域の貧しい村として無視されていたと言われています。ところが、いと高き神の子が最も低いナザレに来られ、貧しくて弱い者たちに仕え、彼らの中で神の栄光を輝かせるためにナザレ人イエスと呼ばれたという見解もあります。いずれにしても、三つともイエスのアイデンティティを確実に表す意味を含んでいるので、意味のある解釈だと思います。主は旧約にも登場するダビデの町、ベツレヘム出身です。しかし、主は旧約で全く認められなかったナザレを拒否されませんでした。むしろ主は、ナザレの人と呼ばれることをお許しになりました。主は最も低いところをご自分の故郷とし、貧しい民を救いへと導かれることを喜ばれたわけです。 2.故郷で排斥されたイエス。 主はそんなナザレに弟子たちを連れて行かれました。「安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。」(2)そして、マルコによる福音書1章でカファルナウムの会堂に入って教えられたように、ナザレの会堂に入り、御言葉を教えてくださいました。ナザレの人々もカファルナウムの人々のように主の御言葉を聞いて、その知恵と奇跡に驚きました。本文の「その手で行なわれる」という表現は当時の慣用句で「神がその手を通して偉大な業を行わせる。」という意味が隠れていると言われます。しかし彼らの反応はすぐ冷ややかになりました。「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」(3)ナザレ人たちは、イエス・キリストの御言葉の権威と主の権能を自分の目で確かめたにもかかわらず、当時のイエスが自分たちの隣人の家族であることを知るや否や、イエスへの偏見を持ってしまったのです。普段、古代イスラエルで誰かを指す時は父の名前を挙げて呼んだりします。例えば、「小泉純一郎さんのご次男の小泉進次郎さん」こんなふうに表現するものです。ところが、「マリアの息子じゃないの?」と言うことは、イエスを私生児のように扱い、完全に無視することと同じだったのです。 「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけであると言われた。」(4-5)主はナザレの人々の不信仰のゆえに、何の奇跡も行うことが出来ず、ごくわずかの病人と他の地域の人々にだけ癒しを施されただけでした。私たちのほとんどはかなり長年、主を信じてきました。しかし、揺らぐことなく完全に主を信じ込んで生きているでしょうか。信仰の短い人が、信仰の長い人より、むしろ生き生きとした信仰生活を営む場合もまれではないでしょう。我々の信仰生活に永い間大きな変化がないから、神に十分慣れ親しんでいるから、実生活で奇跡がほぼ起こらないからといって、主の権能が信じられない姿が我々の中にないでしょうか? 日本は特にキリスト教の伝道が容易ではない国であり、他の国々に比べれば小規模の教会が形成されています。社会的な影響力も微々たるものでしょう。「いくら信じてもうまくいかないから、教会が弱いから、社会に認められないから」という考え方でイエスの御言葉の権能まで無視する姿が私たちの中にはないでしょうか? 私たちの中にいるナザレの人々の姿を警戒し、どんなことがあっても主を信じて疑わない信仰者であるべきではないかと思います。信仰なくしては主からのお答えもないということを忘れてはならないでしょう。 3.主の弟子の道。 イエスはナザレの人々に無視されることを知っておられたはずです。すでに主は他人でもない家族に気が変になっていると扱われていました。(3章)それにもかかわらず、主はあえて弟子たちを連れてナザレに行かれたのです。もし、私のような平凡な人だったら、弟子たちを連れて故郷に行くはずがなかったでしょう。もし私が国会議員や総理大臣、有名な芸能人だったら、知人を連れて誇らしげに故郷を訪ねたかもしれませんが、イエスのように既得権者たちに嫌われ、貧しく暮らし、精神病者のように扱われる立場だったら、ここ福岡ではなく、北海道の山里に行って息をひそめて生きたかもしれません。それでも、イエスはあえて弟子たちを連れてナザレに行かれ、排斥される姿をありのままに見せてくださいました。なぜ、主は自らの恥をお見せになったのでしょうか? イエスは世の人々に排斥されることなんかに絶望なさる弱い方ではありません。主は神の御目を通して、この世のすべてを見ぬかれる方で、神がご自分をいかに愛しておられるのかを、よく知っておられる方でした。むしろ、主イエスはこのような故郷での排斥の経験を通して、イエスを信じる弟子たちなら、イエスのように排斥されることを覚悟すべきということを教えてくださったのです。 今日の本文の7-13節にはイエスが弟子たちを派遣される場面が出てきています。「あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」(11)つまり、イエスの弟子だと自負するなら、排斥されることを恐れてはならないということです。主の弟子として生きようとする人は必然的に、この世に排斥を受けるようになります。この世と異なる道を歩んでいくからです。もし、世から歓迎されるなら、自分の信仰と生き方を真剣に省みるべきでしょう。神はエレミヤ書を通してこのように仰せになりました。「(新改訳聖書)主は仰せられた。必ず私はあなたを解き放って、幸せにする。必ず私は、災いの時、苦難の時に、敵があなたに執り成しを頼むようにする。」(エレミヤ15:11)、新共同訳聖書では、「主よ、私は敵対する者のためにも幸いを願い、彼らに災いや苦しみの襲うとき、あなたに執り成しをしたではありませんか。」と書いてありますが、ヘブライ語本文、20種類以上の英語聖書、また日本語の新改訳聖書には、先のように記されていました。新改訳と新共同訳の違いは原本の差にあります。いずれも権威がありますが、新改訳の翻訳のほうが普く使われており、そっちの翻訳を使用したいと思います。とにかく、主は排斥されるご自分の民を必ず守ってくださる方です。私たちは主の民としての覚悟を持って生きるべきでしょう。 締め括り 今日、学んだ内容は大きく3つでした。第一に、ナザレという言葉にはメシア、聖なる者、低い所という意味があるということ、第二に、長年、奇跡のない信仰生活に慣れているからといって、神の権能を軽んじてはならないこと、第三に、神の弟子なら世の中の排斥を覚悟して生きること。イエスの民として生きることは、決して安楽で楽しいこととは限らないでしょう。イエスのように貧しく、低く、苦しみの中に生きる時もあるでしょう。それでも聖なるメシア主イエスに倣って世の中に福音を伝えながら生きる私たちになることを願います。私たちの人生は短いです。しかし、神との同道は永遠です。イエスのように正しく、低い所に仕え、神の御言葉を尊く思い、世の中の光と塩として生きていく私たちになることを願います。主イエスの祝福がこの一週間も皆さんと共にあることを切に祈り願います。

帰っていくべき地。

創世記23章1-20節(旧32頁)          ヨハネによる福音書14章1-3節(新196頁) 前置き サラが神に召されました。長い間、夫と共に、神の民として生きてきたサラ。しかし、彼女の人生には数多くの出来事があり、その度にサラは傷つき、挫折しながら生きてきました。「信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。」(ヘブライ11:11-12)けれど、彼女には神への信仰がありました。時には信仰の失敗もありましたが、それでも信仰を持って生きてきた彼女は、最終的に息子を得、その名前どおりに「諸国民の母」という誉も得ることになりました。確かにサラには短所もありましたが、神はその短所よりは彼女の信仰を見て、彼女を導いてくださいました。神は民の短所ではなく信頼をご覧になる方です。「私は出来ないが、神はお出来になる。」という信仰を持って生きる者は、一生、神に導かれ、終わりの日に褒められるでしょう。 1.サラを葬るアブラハム。 サラはヘブロンのマムレに葬られました。前回の説教のモリヤの山での出来事の後、アブラハムとイサクはベエル・シェバに帰ってきたのですが、なぜ、サラはヘブロンに葬られたのでしょうか。(ベエル・シェバとヘブロンの距離は約60km)ユダヤのあるラビはこのように主張したと言われます。「ふだん、アブラハムの信仰を妬んでいた天使たちが、アブラハムとイサクがモリヤに向かう間、サラにアブラハムの計画を言い付け、仲たがいをさせた。サラはその話を聞いてアブラハムの後ろを追った。サラは結局、二人を逃し、ヘブロンで立ち止まった。その後、アブラハムとイサクは無事に帰宅したが、衝撃を受けたサラはヘブロンに滞在し、夫と別居した。結局、サラはその衝撃の故に息を引き取ることになった。」昔のラビたちの話は信憑性が低いので、事実として受け入れる必要はありませんが、私たちはこの話からサラの悲しみを垣間見ることが出来ると思います。おそらくサラはイサクを生け贄にすることで、ひどく傷ついたはずです。我々は時々「神の御心だから」という言い訳で、知らず知らずに隣人を傷つけることがあります。人々は息子を捧げたアブラハムの信仰だけを称賛しがちですが、妻サラの心はどうだったでしょうか。聖書をさまざまな側面から読み、黙想しながら、神への信仰と隣人への愛と配慮の関係について深く考えるべきではないかと思います。 「サラは、カナン地方のキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは、サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ。アブラハムは遺体の傍らから立ち上がり、ヘトの人々に頼んだ。」(創世記23:2-3)一生、サラと共に生きてきたアブラハム、妻の死去は、彼にとって大きな悲しみになったことでしょう。ある研究によると、「配偶者の死は子供の死を超える大きな衝撃を与える。」と言われます。いつも一緒だった人が亡くなってしまうと、比較できない甚だしい喪失感がやって来るからです。サラの生前、アブラハムは彼女を二度も見捨て、また側女との関係を傍観して、サラの心を傷つけました。アブラハムの悲しみは、そういう過去への悔恨からもたらされたものではないでしょうか。今、私たちのそばにいる人は本当に大切です。連れ合いを大事にして愛するべきです。今は日常ですが、いつか、「さよなら」と言う時が来るからです。また、先に連れ合いを亡くした方々は、過去の愛を記憶し、赦すべきことは赦し、大事にして生きるべきでしょう。さて、先に読みました3節には「立ち上がる」という表現がありましたが、これはヘブライ語で「クム」という表現です。どこかで聞いたこと、ございませんか。先週、登場したアラム語の「タリタ・クム」に係わりがあります。「クム」には「起きる、立ち上がる」という意味もありますが、何かを「確定する、確かめる」という意味もあるそうです。妻の死を経験したアブラハムは、今後の何かをはっきり定めるために立ち上がったのです。(ヘブライ語とアラム語は近い言語。) 2.ヘブロンの土地を買い取った理由。 「わたしは、あなたがたのところに一時滞在する寄留者ですが、あなたがたが所有する墓地を譲ってくださいませんか。亡くなった妻を葬ってやりたいのです。」(創23:4)アブラハムが立ち上がった理由は、妻のために墓を買い取るためでした。ところで、この墓はサラ一人だけのためのものではありませんでした。「こうして、マムレの前のマクペラにあるエフロンの畑は、土地とそこの洞穴と、その周囲の境界内に生えている木を含め、町の門の広場に来ていたすべてのヘトの人々の立ち会いのもとに、アブラハムの所有となった。」(倉23:17-18)(新共同訳ではアブラハムの所有となったと記されているが、原文では前のクムを使ってアブラハムの所有と確定されたと記されている。)アブラハムはマムレの前のマクペラの洞穴と、その他を買い取りましたが、このマムレは非常に大事な場所でした。創世記18章で神の御使いたちがアブラハムに訪れた場所がマムレでした。神は、そこでイサクの誕生と、世界の全民族がアブラハムによって祝福に入ると確定してくださいました。マムレは神の民アブラハムが信仰的に成長するたびにいた場所です。つまり、ヘブロンのマムレは「神の民アブラハム」という存在が養われた場所であり、神とアブラハムの子孫イスラエルの関係を証明する記念碑的な場所であったのです。妻の死後、アブラハムは神との約束を記憶し、妻はもとより、自分と子孫たちの帰るべき「約束の地」を確実にしようとしました。それでマムレを買い取ろうとしたわけです。 「どうか、 御主人、お聞きください。あなたは、わたしどもの中で神に選ばれた方です。どうぞ、わたしどもの最も良い墓地を選んで、亡くなられた方を葬ってください。わたしどもの中には墓地の提供を拒んで、亡くなられた方を葬らせない者など、一人もいません。」(6) 「どうか、御主人、お聞きください。あの畑は差し上げます。あそこにある洞穴も差し上げます。わたしの一族が立ち会っているところで、あなたに差し上げますから、早速、亡くなられた方を葬ってください。」(11) アブラハムが、その土地を買おうとした時、先住民の指導者だったエフロンは、土地をただであげると言っていました。しかし、それは婉曲な拒絶を含む表現でした。本音と建前という概念がありますが、エフロンの行動がそれに似ていました。エフロンは、表向きでは親切に行動しましたが、裏では土地を売りたくない気持ちを持っていました。しかし、アブラハムは神が確定してくださった、この地を必ず所有しなければならないという信念を持っていました。 結局、エフロンは銀400シェケルという、土地の本来の価値より、はるかに高値を示しました。それでも、アブラハムは意に介さず、その土地を買い取りました。神は創世記15章13節で、アブラハムの子孫がエジプトで400年間奴隷として生きるだろうと予言されました。アブラハムは妻の死をきっかけに、神が約束された土地を妻と自分が葬られる土地として買い、以後、自分の子孫たちが帰ってくるべき場所として備えたわけでした。 3.「主の民には帰るべき所がある」 古代ユダヤの墓を上から見下ろすと、まるで手のような形になっていたと言われます。入口に入ると手のひらのように広い場所があり、死者を亜麻布に包んで安置したそうです。そして数年後に、その遺体が骸骨になると、指のような別の墓室に移したということです。そのため、先祖の遺骨が古ければ古いほど、内側に安置されたそうです。つまり、同じ墓に同一家系の人々が代々に葬られるわけです。旧約聖書には、このような表現があります。「あなたは先祖の列に加えられる。」ユダヤ人にとって最も名誉ある死は、安らかに死に、先祖の墓室に安置されることであり、最も不名誉な死は遺体が毀損(きそん)されて先祖の墓室に入れないことです。そして、最後の日、復活の日には、その骨に生命が立ち戻り、蘇るということが彼らの信仰でした。それほど、アブラハムが妻と自分の墓に気を遣ったことには、子孫のためのこういう理由があったのです。実際に息子のイサク夫婦も、孫のヤコブ夫婦も(レアだけ、ラケルはベツレヘムに。)マクペラの畑の洞穴に葬られます。とにかく、マムレのマクペラにはアブラハムの子孫に与えられた、神からの恵みの場所であり、彼らが必ず帰るべき土地であるという記念碑的な意味がありました。現代にも外国に暮らしていたユダヤ人が、死後にイスラエルに葬られる場合が少なからずあると言われます。先祖の列に加えられたいという考え方が今でも残っているからです。 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ福音書14:1-3)今日の旧約と新約の本文の間に神学的な関りがあるかどうかは、私には、はっきり見つけられませんでした。しかし、アブラハムの子孫であるイスラエル民族に必ず帰るべき地があったように、私たちキリスト者にも必ず帰るべき所があるという点で、今日の新約本文が強く思い浮かびました。旧約が語る地という概念は、神の祝福と恵みを意味し、新約になっては、この地の意味がイエス・キリストの御救いに変わることになりました。神の祝福された神殿の意味がイエス・キリストの教会共同体と変わったように、旧約の地の概念も新約の主の御救いに変わったわけです。 締め括り アブラハムが、自分たちの帰っていくべき地であるマクペラの洞穴を備えたとすれば、我が主イエス·キリストは、ご自分の血潮によって御国に帰って行ける御救いを備えてくださいました。我々は、イエスを通して真の神に出会い、その方の国に入ることが出来るのです。アブラハムが愛する妻と子孫のために土地を買い取ったように、イエス·キリストは愛する民の救いのために、ご自分の血を流して神への道を設けられました。本日、旧約の本文を見ながら、我々は記憶しなければなりません。旧約のアブラハムが行なったことを、新約では誰が行なったのか、神の約束の地を記憶させた旧約のアブラハムの出来事を黙想しつつ、神の御救いを約束された新約のキリストを共に記憶すべきでしょう。 私たちには必ず帰っていくべき地があります。そこには苦しみも、悲しみも、痛みも、差別も、民族も、国家もありません。ただ、キリストの支配と神の愛だけがあるだけです。私たちは必ず帰っていかなければなりません。父なる神がキリストを通して、主の前に出てくるすべての民を喜んでお迎えくださるでしょう。 そのような信仰を持ってアブラハムの物語を理解し、キリスト・イエスの恵みを覚える私たち志免教会になることを願います。

生と死の支配者、キリスト。

列王記上17章17-24節(旧562頁)        マルコによる福音書5章35-43節(新70頁) 1.「会堂長ヤイロ」 今日の新約本文のヤイロはユダヤ教の会堂長でした。ところで、ヤイロが長として働いていた会堂とはどんな場所でしょうか? その由来を知るためには、旧約の歴史を探ってみる必要があります。旧約のイスラエルがバビロン帝国に滅ぼされた時、ソロモン王が建てた最初のエルサレム神殿は無残に破壊されました。イエスの時代のエルサレム神殿は、捕囚から解き放たれたイスラエルの民が建てた第2の神殿で、改築されたものでした。会堂は最初の神殿が破壊された後、無くなったエルサレム神殿に代わる場所として作られ、ユダヤ人の共同体を代表する建物でした。この会堂はイエスの時代に約300ヵ所が存在していたと言われていますが、ユダヤ人は会堂が神殿のように主のご臨在の場所だと信じていたそうです。そこではモーセ五書に関する研究、説教、教育などが行われ、時には民法、刑法、宗教法などを取り扱うこともあったと言われています。つまり、この会堂は宗教と社会をまとめるユダヤ社会の中心とされていたわけです。そして、ヤイロは、この会堂を指導する偉い身分の会堂長だったのです。私たちは今日の本文でイエスの御前に力なくひれ伏しているヤイロを見て、会堂長が持つ存在の重さを見落しがちかもしれませんが、当時の会堂長は相当な宗教的、社会的な権威を持っている者でした。 「会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。私の幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」(5:22-23)そんな会堂長ヤイロが働きを始めたばかりのイエスという若者にひれ伏したということは、自分のプライドを捨て去る、大きな勇気を伴う行為でした。ユダヤ教の指導者が、当時のユダヤ教において異端児のように見なされていたイエスに頭を下げるということは、会堂長の職を諦めようとするほどの覚悟があったからでしょう。ここまで自分のことを屈服させたヤイロは、イエスがすぐに自分の家に駆けつけて娘を治してくれると期待していたはずです。しかし、イエスは赴く途中、前回の説教の出血病の女に出会い、時間を使いました。一刻を争う状況でしたが、イエスには余裕があるように見えました。おそらく、ヤイロは、焦りと不安で辛かったことでしょう。その時、遠くから何人かの人々が駆けて来ました。「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」(5:35)彼らは、ヤイロの娘が、結局亡くなったという訃報を持って来た者らでした。イエスが到着する前に、ヤイロの娘は息を引き取ってしまったのです。 2.「信仰とは待ち望むこと」 しかし、主は依然としてお急ぎになりませんでした。「イエスはその話をそばで聞いて、恐れることはない。ただ信じなさいと会堂長に言われた。」イエスはヤイロに二つのことを求められました。それは「恐れるな。」と「ただ信じなさい。」でした。ここで、私たちはその前の表現にもっと目を注ぐべきだと思います。「イエスはその話をそばで聞いて。」この表現は「じっと聞いている。」というよりは、「それを聞いて気にしなかった。」というニュアンスで解釈したほうが、より正しいと思います。イエスは、「人々が何と言っても、あなたはそれに心を奪われるな。恐れずに、ただ私を信じなさい。」と求められたわけです。私たちの人生の中で自分の心を奪う自我からの声、社会からの声、この世からの声が、如何に多いことでしょうか。「私の知る限り、これは違うだろう。」「ニュースではそれは違うと言っただろう。」「この日本ではそうなるわけがないだろう。」など、数多くの声があります。しかし、主はそのすべての他の声を気にせず、ただ主のお声だけを聞くことを望んでおられます。私たちの信仰は、私たちの状況によって揺れるものになってはいけません。どんな状況であっても揺れることなく、ただ主の約束、御言葉だけを信じる信仰にならなければなりません。これを通して、キリスト者が追求すべき信仰の特徴が分かります。 我々の信仰を、真の信仰にする原動力は、イエス・キリストの存在そのものにあります。いつも揺れ動いてしまう私の「信じる。」という感情が、私の信仰を定めるわけではなく、私に信仰をくださり、その信仰を守り、保たせてくださる、移り変わりのない主イエスだけが私たちの信仰をお定めくださる方なのです。こんなイエスの御前で、「娘は死んだ。もう諦めよう。」という人々の声には、何の意味もありませんでした。イエスがヤイロの家に行かれることを、すでにお決めになり、その決定には「必ず、君の娘を治してあげる。」という主の約束が含まれていたからです。ヤイロに信仰と約束をくださった主は、ご自身が与えてくださった、その信仰と約束に答えくださるために、必ずヤイロの娘を生かしてくださるでしょう。大事なことは主の御心とご意志です。主の御心とご意志がある限り、必ず成し遂げられると信じるのが、真の信仰なのです。ですから信仰には待ち望むことが必要です。約束を必ず成し遂げてくださる主への待ち望みが必要なのです。神は高い確率で私たちが願っている時ではなく、神のお定めになった時に応えてくださる場合が多いです。ヤイロはその主の時を待ち望みました。切迫していましたが、出血病の女と共におられる主を待ち望んでおり、すでに娘の訃報を聞いたにも拘わらず、変わらず主を待ち望んでいました。主が死んだ娘のところに着かれるまで、彼は主を待ち望み続けていました。静かに主の時を待ち望むこと、それが、まさにヤイロの真の信仰の現れだったのです。 3.生と死を支配なさるイエス。 「一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。人々はイエスをあざ笑った。」(5:38-40)主がヤイロに堂々と「恐れることはない。ただ信じなさい。」と言われた理由は、主の御目に少女の死は死ではなく、ひと眠りから起き上がるための過程に過ぎなかったからです。ヤイロに娘を治してやると約束なさった主イエスにとって、娘の死は、間もなく目覚めるに決まっているひと眠りに過ぎませんでした。先駆けて、主はヤイロに信仰を与えてくださいました。そして娘の救いを約束してくださいました。待ち望みつつ主の約束を信じていたヤイロの信仰を通して、主は「君の娘は死んだのではなく、ただ寝ている。」という、この世の観点とは全く違う、新しい観点で世を見通す目を与えてくださいました。つまり、キリスト者に信仰が与えられたということは、この世を見直せる、新しい目が開かれたという意味なのです。ですから、私の自我からの声、社会からの声、この世からの声は何の力も持つことが出来ないのです。ただ主の約束の御言葉と主の約束を信じる我々の信仰があるだけです。人々は少女が寝ていると言われた主をあざ笑いましたが、主は彼女の手を取って実際に起き上がらせてくださいました。「タリタクム、少女よ、起きなさい。」ヤイロの信仰に応えてくださった主のご宣言によって、愛する娘の死という恐怖は、本当にひと眠りのようなものに変わってしまいました。 「タリタ、クム」という主のご宣言の中で、この世を虜にしていた死の権勢は、単なるひと眠りのように弱まってしまいました。 私たちがキリストの復活を信じ、そして、私たちもキリストのように終わりの日に新たなる存在として復活することを信じる理由は、このように主が死の権勢を弱めてくださったからです。主イエスはすべてを死に追いやる、ガリラヤ湖の嵐を静められました。ゲラサ人の地方で出会った悪霊に取り付かれていた者から、汚れた霊を追い払われました。12年間も出血病で苦しんでいた不浄な女を清めてくださいました。そして、今日の本文を通しては、既に死んでしまった少女を起き上がらせてくださいました。このすべての奇跡は、この世を支配していた邪悪な死の権勢へのキリストの勝利を意味します。主はすでに勝利を持って、この世に来られました。ですから、主はご自分を信じる者たちに信仰をお求めになるのです。「私はすでに勝利を持ってきた。私の勝利を受け入れるか否かは、あなたたちの信仰次第である。」主は聖書の御言葉を通して、私たちに、このように勝利なさった主への信仰を求めておられるのです。 私たちはすでに勝利を持ってこられ、主ご自身への信仰を求めておられる、キリストの御前にどのような生き方で生きるべきでしょうか? 締め括り 今日の旧約本文の言葉はアハブという悪い王が治めていたイスラエルの暗黒時代、神の預言者であったエリヤが、ある少年を蘇らせた話で、今日の新約の本文に非常に似ています。エリヤがある寡婦の息子を死から生き返らせた時、寡婦はエリヤに向かってこのように叫びました。「今私は分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」今日の新約本文は、おそらく、このような旧約のエリヤの物語と、ある程度、関りがあると思います。私たちは今日の旧約と新約の物語を通して、少女を生き返らせた主イエスが神から遣わされた方であり、その方を通して私たちに与えられる御言葉が、真実な神の御言葉であることが分かります。このように主は死を退け、生命をもたらす真の勝利者であり、その民に信仰をお求めになる信仰の主であります。私たちの生が、主による信仰に基づいた生であることを望みます。今日も主が私たちの間におられ、私たちの信仰の中で働いておられることを信じつつ生きることを願います。聖と死を支配される主、本当の勝利者イエスは、今日も我らの信仰を求めておられます。

ヤーウェ・イルエ(主が備えてくださる。)

創世記22章1-19節(旧31頁) ヨハネの手紙一4章9-10節(新445頁) 前置き 世の中で一番偉大な愛とは何でしょうか。神が人類を愛する無条件的な愛、いわゆるアガペーの愛を除いて、最も崇高で偉大な愛は断然子供に向けた親の愛、ステルゴではないかと思います。(ギリシャ語、ステルゴは献身。家族、親、子、君主への愛)恋人への愛を意味するエロスは、最初は燃え上がりますが時間が経つにつれて冷めていき(夫婦の愛はエロスから始まってステルゴになる)友達や恩師への愛、つまりフィレオは愛の感情というより、友情あるいは尊敬、尊重に近いでしょう。しかし、子供への親の愛、つまりステルゴは子供のために喜んで命を懸ける、献身的な愛なのです。もしかしたら親の愛ステルゴは人間の愛の中で、神の愛であるアガペーに最も似ている愛なのかも知れません。いつか、こんな話を読んだことがあります。朝鮮戦争の時、南下してくる北朝鮮軍が撃った砲弾のかけらに当たった、ある若い母親が、自らは死に行きながらも子どもを生かすために乳を飲ませ、母親の犠牲によって生き残った子どもが米軍によって救助され、養子縁組されたという話です。実に涙ぐましい母の愛の物語です。このような物語は、どの文化圏にでもあり、人々に親の愛を悟らせます。それだけに親の愛は何よりも偉大な愛であり、民族と文化と国家を貫く真の愛なのでしょう。 1.アブラハムに与えられた試練。 母の日、父の日でもないのに、冒頭から親の愛を取り上げた理由は、今日の本文に世の中で何よりも大切な息子を生贄にしなさいと、ご命令なさる神と、それに応ずるアブラハムの物語が登場するからです。アブラハムは前の21章で、愛する息子であるイシュマエルを捨てなければなりませんでした。「このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。」(21:11)たとえ、本妻サラの圧力と神のご命令の故にイシュマエルを行かせてしまったとしても、父アブラハムはイシュマエルも愛していたはずでしょう。しかし、アブラハムは神の御言葉に聞き従い、薄情にも息子を去らせてしまいました。おそらくアブラハムは、イシュマエルを捨てたことに罪悪感と苦しみを覚えたことでしょう。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。私が命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」(22:2)ところで、神は今度は100歳で儲けた最も大切な息子であるイサクさえ、焼き尽くす献げ物としてささげなさいと命じられたわけです。長男を去らせ、また残った次男さえも、お求めになる神。アブラハムも一人の父親として、親の愛、即ちステルゴの愛を持っていたはずです。にも拘わらず、主はアブラハムに、その最も可愛い息子を自分の手で殺し、その肉体を切り裂いて、祭壇で焼き尽くせという恐ろしい命令を下されたのです。 もし、私がアブラハムでしたら、何日も思い煩っていたことでしょう。神に「代わりに私を死なせてください。」と乞い願ったかも知れません。しかし、神の御命令をいただいたアブラハムは、一言もなく神の御言葉に従いました。「次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。」(3)神学校に入学する前、ただ文字の上でだけ聖書を読んだ時の私は、到底、このアブラハムを理解することが出来ませんでした。いくら神の聖なる試練であるからと言っても、子どもを殺す仕打ちは、親として許せないと思ったからです。「三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えた。」(4)しかし、教師になって本文を研究する際に、アブラハムの苦しみと悲しみの感情に気付くことになりました。ある解説書によると、4節の「目を凝らすと。(直訳.目を上げて眺めると)」という表現には、聖書には記されていないアブラハムの苦悩が含まれているそうです。何気なく見えたアブラハムにとっても、息子の犠牲は、心が裂けるほどの痛みだったのです。しかし、アブラハムは、これまで自分の人生を正しく導いてくださった神が、この先もきっと正しく導いてくださると信じ込んでいたでしょう。しかし、それにもかかわらず、その神の本当の御心を知るためには、いちおう息子を神に捧げる、人間としては耐えられない試練を経験しなければなりませんでした。これはアブラハムの一生の試練だったのです。 2. 神への徹底した信頼が無ければ認められない。 一時、私はこの本文に対して、自分のすべてを捧げて、信仰を貫かなければ神に祝福されないという風に説教したりしました。ですが、今では登場人物の感情を無視しすぎたのではないかと反省しています。もし、聖書の登場人物ではなく、私の隣人に、このようなことが起こったら、私は気軽に「神を信じて家族を捧げましょう。神が祝福してくださるでしょう。」と言えるでしょうか?なぜ、神はこんなに無理やりにアブラハムに求められたのでしょうか? また、アブラハムは、なぜ無理やりな命令に従順に従ったのでしょうか。「イサクは言った。火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。アブラハムは答えた。私の子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。二人は一緒に歩いて行った。」(7-8)アブラハムは、神の約束を信じ込んでいました。「あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサクと名付けなさい。私は彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。」(17:19)神は、確かにイサクという、たった一人の息子を通して、契約を立て、民族を立ち上がらせてくださると、固く約束なさったのです。過ぐる数十年の間、神はアブラハムとの約束を覚えておられ、固く守ってくださいました。アブラハムは、長年、その約束の神を経験してきたのです。神へのアブラハムの信頼は絶対的なものだったのです。 新約のヘブライ人への手紙は、今日の場面をこう説明しています。「アブラハムは、試練を受けた時、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれると言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもお出来になると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。」(ヘブライ11:17-19)ヘブライ書の記録者はアブラハムが、「もし神がイサクをお受けになっても、既に結んでくださったアブラハムとの約束を守ってくださるために、イサクを死者の中から蘇らせてくださる。」と信じていたと証しています。その分、アブラハムは現在の目の前の状況より、神の御言葉にもっと重きを置いて、最後まで約束の神を信じ込んでいたわけです。「アブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。その時、天から主の御使いが、アブラハム、アブラハムと呼びかけた。彼が、はいと答えると、御使いは言った。その子に手を下すな。何もしてはならない。」(10-12) 神の御言葉への限りのない信仰、そして、もし、そうでなくても、神がそれに相当する他の方法で必ず約束を守ってくださるという信頼。過去、数十年の間、数多くの失敗と過ちの中で信仰の浮き沈みを経験してきたアブラハムでしたが、今回は成熟した堅い信仰を持って最後まで神を信じ込んだのです。そして、神は彼の堅い信仰をご覧になり、ついに彼の信仰を認めてくださいました。「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。」いよいよ彼は神に信仰の父と認められるようになったのです。 3.ヤーウェ・イルエ、主が備えてくださる。 そもそも神は人身御供、つまり人を生け贄にお受けになる方ではありません。旧約聖書のあちこちで、神は異邦人が神々に自分の息子を捧げる人身御供を禁じられました。つまり、神は異邦人のように人の命を軽んじる方ではないということです。神は当初からイサクを供え物にさせようと思っておられなかったのです。神はあくまでもアブラハムの信仰をお試しになるために息子を捧げるようにと言われたわけです。アブラハムが息子を捧げようとした時、神の御使いは、それを阻んで神へのアブラハムの絶対的な信仰を確かめました。これは過去、数十年間のアブラハムの信仰が、本物か偽物かを究め尽くす最終段階のテストだったのです。時々、神はご自分の民に試練をお許しになります。しかし、その試練は民を苦しめるための試練ではありません。より一層豊かな神のご恩寵に導くための、神の恵みの手立てなのです。過去の試練は厳しかったが、後々顧みると、その試練があって良かったと思われる場合が少なからずあるでしょう。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(コリント第一10:13) 実際に神は、この試験の後、より多くの祝福をくださり、イサクの将来を明るく輝かしてくださいました。我々は人生の試練に遭う時、神の祝福が目の前に来ていることに気づくべきです。もちろん試練が大変であることは当然のことです。それでも神への信仰だけは失わず、必ず報いてくださる神を信じていきたいと思います。 「アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行って、その雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。」(13)むしろ、神はこの出来事を通して、まるで鏡のように主の御業をお示しくださいました。数多くのキリスト教の聖書の解釈者たちは、今日の本文を通じて、神が御自身で成し遂げられる偉大な御業を予告してくださったと告白しています。アブラハムがイサクを捧げたように、御父は御子を生け贄にされたからです。神はアブラハムとイサクのために茂みに角をとられた雄羊を送ってくださいました。アブラハムはイサクの代わりに、その雄羊を捧げ、2人は無事に帰ることが出来ました。キリスト教の解釈者たちは、旧約のこの雄羊が、自分の民の身代わりに死んでくださる新約のキリストのモデルであると信じていました。主なる神は常にご自分の民を導き、民の道を開いてくださる方です。主は異邦の神々のように民を虐げる方ではありません。むしろ、主が先に苦しみと悲しみをお受けになり、後についてくる民を安全に守り、導いてくださる愛の神です。イエス・キリストは罪の故に裁かれなければならない、罪人のために神が御自身で備えてくださった贖いの生け贄です。アブラハムは息子を捧げようとする信仰を見せただけですが、神は実際に独り子イエスを犠牲になさり、ご自分の民への真実な愛を確証してくださいました。 締め括り 「アブラハムは、その場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも、主の山に備えありと言っている。」(14)今日、アブラハムが祭壇を築いたモリヤの地の語源は「ラアー」ですが、その言葉には「備える。」という意味があります。そして、この「ラアー」は今日の説教の題に出てくる「イルエ」の語源でもあります。同じ語源を持つモリヤとイルエ。これは偶然の一致なのでしょうか? 主は初めからイサクを生かす御計画だったのです。その代わり、主は遠い後日、ご自分の独り子を犠牲にして、民の犠牲ではなく、ご自分の犠牲によって彼らを赦し救ってくださいました。三位一体のお一人の御子が死ぬということは、絶対に有り得ないことでしたが、父なる神は、それをなさったのです。三位一体において、それは大きな苦しみでした。私はその神の痛みについて、よくこう説明したりしました。「御父が民のために御子を死に追い込んでくださったことは、人が自分の胸を切り裂いて心臓を取り出すことでも比べ物にならないほど、極限の苦しみである。」それだけに主なる神は民を愛しておられる方なのです。主はご自分の民のために、まるで心臓のように大事な息子を進んでお捨てになったわけです。そして復活させることによって、御子を信じるすべての者に、真の赦しと和解を与えてくださいました。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。私たちの罪を償う生け贄として、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネ第一4:9-10)神の愛には限りがありません。そのような神が与えてくださる試練は、私たちの信仰を養うための、もう一つの愛の表現なのです。試練を恐れず、常に私たちを愛し、共に歩んでくださる神への信仰と愛を持って生きることを願います。

あなたの信仰があなたを救った。

出エジプト記29章38-46節(旧143頁)         マルコによる福音書5章21-34節(新70頁) 前置き 前回の説教でイエスは、湖の向こう岸の異邦の地であるゲラサ人の地方に足を運ばれ、汚れた霊に取りつかれた人を治してくださいました。これはイエスが御自分の本来の民であるイスラエルだけでなく、異邦人までもご自分の民として受け入れてくださる宣教の出来事でした。ここで汚れた霊に取りつかれたという意味は、一個人が精神的に狂ったということを超えて、神に対抗する悪の権勢に支配される世の中と社会の不条理を意味する、社会的な意味をも持っていました。主は、ゲラサ人の地方で、そのような悪の権勢に苦しめられている人をお治しになることで、キリストの癒しと教えと宣教が、この地方でも始まったということを教えてくださったのです。「その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。」(20)ところで、主は悪霊に取りつかれていた人を治してくださった後、これ以上デカポリス地域には行かれず、またガリラヤに戻っていかれました。その代わりに主は、ご自分が治された悪霊に取り付かれていた人をデカポリス地域に遣わされました。主に治していただいた、その人は元々イエスと同行しようと思いましたが、主はむしろ彼を地元にお遣わしくださることで、主の御業を宣べ伝えさせられました。すなわち、主は彼を宣教師として派遣してくださったのです。この地上に宣教師として来られたイエスは、主の民を呼び出し、癒してくださり、教えてくださることで、彼らを再び宣教師として行かせる方です。このように宣教は神から始まり、その民、すなわち教会を通して行われるものなのです。 1.会堂長のヤイロと出血病の女性 「イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。」イエスがまた、向こう岸にお渡りになると、大勢の群衆が主のところに集まってきました。その時、一人の男が主を訪ねてきました。「会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。私の幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」(22-23)ヤイロという人は当時のユダヤ人の中でも宗教的な権威を持っている、いわゆる「偉い方」でした。彼は会堂長で、その村の宗教指導者だったのです。そしてある意味でイエスを最も警戒する反対側の一人でした。そんなヤイロが危篤な娘のために、警戒すべきイエスの御前に出てきて、高いプライドを捨て、ひれ伏したわけです。彼が大事にしたのは、自分の自尊心より死んでいく娘が救われることでした。23節の「助かり」という表現にはギリシャ語「ソーテーイ 」つまり、「救い」の意味が含まれています。彼にとって「救い」とは、死んでいく娘が全快することでした。彼は会堂長という自分の地位も、ユダヤ教という宗教も、いかなる医学も、娘を治せないことに気付き、最後にイエスを訪ねたのです。そして主は快く彼の家に足を運ばれました。 ところで、今日の本文は25節で突然、会堂長のヤイロの物語から12年間も出血の止まらない女(以下、出血病の女)へ眼差しを移します。ヤイロの娘は死にそうな状態で、すぐさま駆けつけねばならず忙しいところに、なぜ本文は、いきなり他の人に関心を注ぎ始めるのでしょうか。初め説教が長くなるかと思って、ヤイロと出血病の女の物語を2回に分けてお話しする予定でしたが、実はこの会堂長ヤイロと出血病の女の物語は、ひとつの話なのです。(21-43)ハンバーガーを食べる時、2枚のパンの間に具材を差し入れて食べることと同じように、この物語は2つに分けられているヤイロの物語の間に出血病の女の物語が挟まれている様です。まず、ヤイロが娘のために主と出会い、主が娘のところに赴く途中、出血病の女に出会って治され、また、主が、すでに死んでしまったヤイロの娘を生き返らせるという仕組みなのです。ハンバーガーを具材別にではなく、一口で一緒に食べることと同じように、この物語も、ひとつの話として受け止めるべきなのです。本文は会堂長ヤイロと出血病の女という二人の信仰を通して、主イエスの御業を示すために、このようなハンバーガーのような仕組みで話を展開しているのです。それでは今日は出血病の女の信仰について話してみましょう。 2.命をかけてイエスを求めた出血病の女。 本日、登場する出血病の女は、当時イスラエル社会において極めて不正な存在とされていました。そもそも旧約律法で女は不正な存在と考えられていましたが、その理由は女性が子供を産む存在だったからです。これを聞くと「出産は生命を生む神聖な行為なのに、なぜ不正に扱われるだろうか?」と疑問が生じるかもしれません。「神は女に向かって言われた。お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。」(創世記3:16)なぜなら、古代イスラエルでは、出産の苦しみが人間の罪に対する神の呪いであるという間違った信念があったからです。出産時の出血、生理、女性の出血なども、それと同じ脈絡で理解できるでしょう。そのため、女と出血は律法において不正なものの一つでした。現代にも女性差別がありますが、イスラエルの律法までもが女性を悲しませていたわけです。また、律法は病気も不正なものだと見なしていました。今日、登場する出血病の女が極めて不正とされた理由は「女、出血、病気」といった3つをすべて持っている存在だったからです。「さて、ここに十二年間も出血病の女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」(25-26)しかし、当時の社会は、彼女の癒しのために何も出来ない状態でした。彼女は12年間、辱めと苦しみの中に生きてきましたが、快方に向かうことなく、さらに悪化し、かえって世間は非難で苦しめるばかりでした。そんなある日、彼女にイエスという方の噂が聞こえてきました。 哀れな出血病の女、人々は彼女と服が擦れることさえ不正だと思っていました。そういうわけで彼女は出かけることも出来ませんでした。不正な女が町を歩き回る途中に発覚したら、石に打たれて死ぬのは決まっていることでした。しかし、イエスという存在の噂は彼女が家の中にじっとしているのを許しませんでした。彼女はイエスに会うために出かけようと決心しました。それは命懸けの挑戦であり、険しい冒険でした。しかし、彼女はひたすらイエスを最後の希望にしていました。それはまさに彼女の信仰の表れでした。「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。」(27)彼女は死も気にせず、群衆の中に紛れ込んでいきました。発覚した瞬間、無惨に殺されるはずでした。しかし、結局、彼女は群衆の中からイエスの服に触れることになりました。「この方の服にでも触れればいやしていただけると思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。」(28-29)彼女はイエスだけは自分を清くすることがお出来になると信じており、その信仰通りに命をかけてイエスの方へ進みました。そして、イエスの服に触れた時、彼女は自分の信仰どおりに12年間の病気から救われることになりました。「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、私の服に触れたのはだれかと言われた。」(30)その時、主は彼女が信仰を持って御自身のところに出てきて、また、その信仰によって治ったことをお知りになりました。 3.清めてくださる主イエスと出血病の女の信仰。 今日の本文が、ヤイロの家へ赴く途中、意図的に出血病の女性に目を注いだ理由は、当時の医師も、宗教も、社会も、治せなかった、この哀れな女を主イエスだけは治せるということを教えるためでした。旧約の律法には一つの法則があります。それは「清いものが不正なものに触れると不正になる。」ということです。イスラエル社会で不正な存在とされ、嫌われた、この女は人々の認識の中で、すべてを汚す、極めて忌まわしい存在でした。誰も彼女を清めることが出来ず、彼女を憎み、遠ざけるだけでした。しかし、イスラエルの中に彼女を清める、たった一つのものがありましたが、それは神殿の聖なる祭壇でした。「祭壇に触れるものはすべて、聖なるものとなる。私はその所でイスラエルの人々に会う。そこは、私の栄光によって聖別される。」(出29:37、43)私たちは旧約の律法を読む際に、聖と俗を分けて差別を煽っていると感じられるかも知れません。しかし、神は明らかに御自身からの祭壇を通して不正なものを聖なるものにする手立てをくださいました。律法では死んだ獣の肉が不正なものと記されていますが、なぜ、神に捧げる生け贄の肉は聖なるものと見なすのでしょうか?律法によると遺体はすべて不正なものではないでしょうか?色々解釈があるでしょうが、私は、肉そのものが聖なるものではなく、聖なる神の栄光によって祭壇が神聖になり、その祭壇を通して捧げる肉も主の栄光によって聖なるものに変わるためではないかと思います。 しかし、残念なことに、当時の不条理なイスラエル社会では、出血の故に嫌われ、迫害される彼女を祭壇まで連れて行く憐みも愛もありませんでした。ただ差別し、憎み、排除するだけでした。その時、真の神、祭壇を聖別される方、ご自分の民のために自らを犠牲になさる主イエスが、彼女の前に現われたのです。そして、彼女の信仰通りに、イエス·キリストは不正な女に服を触れられたにも関わらず、むしろ彼女を清く治してくださいました。社会は彼女を祭壇に連れても行かなかったのですが、主イエスは彼女の前に、神聖な祭壇より、もっと神聖な御自身を現わし、直接会ってくださったのです。「イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」(32~34)12年間、不正な存在とされ、隠れて過ごさざるを得なかった女性、彼女は「イエスだけが、自分の不正を清めてくださる。」という信仰を持って、命を懸けて主の服に触れ、 その信仰通りに清められました。世のすべての人々は彼女を汚い女性と評価しましたが、主は彼女を神の娘と認めてくださったわけです。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。」彼女を娘と呼ばれた主の宣言の中には、彼女の信仰に応えられる神の救いがありました。 締め括り。あなたの信仰があなたを救った。 聖書は、常に神への信仰を求めています。「あなたが信じた通りになる。」という言葉で、私たちの信仰を促しているのです。しかし、私たちの信仰とは、私の情熱と努力を意味するものではありません。 出血病の女は命をかけて、主を訪ねてくる信仰の行動を見せましたが、彼女の信仰を真の信仰にした原動力は、不正を清める主イエスの存在にありました。したがって、我々の信仰の前提条件はイエス·キリストという存在の完全さから始まるのです。私たちは、そのイエスが完全な方であること、その方だけが私たちを救ってくださることを信じる信仰によって本当の信仰者になるのです。つまり、自分の熱情的な信念によるのではなく、キリストの存在によって認められるのです。自分が罪人だと思われますか。自分はどうしようもない情けない者だと思われますか。もし、そうであれば、不正なものを聖なるものにしてくださる、主イエスに手を触れてください。その方だけは、自分を清められる方であるという信仰を持って、主の御前に進んでください。主は「娘よ、息子よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と宣言なさるでしょう。今日、出血病の女が救われる間に、会堂長ヤイロの娘は死んで、また他の不正な存在になってしまいました。しかし、完全な主イエスは、この後の出来事を通して、死んで不正になった娘を、蘇らせることで清めてくださるでしょう。ただ、主だけが私たちの信仰の対象であり、ただ、その方への信仰だけが、私たちを救いへと導くでしょう。その主の完全さを信じつつ生きる私たちになることを祈り願います。