終わる時に覚えるべきこと。

マラキ書 3章19-24節 (旧1501頁)        ヨハネの黙示録22章16-21節(新480頁) 前置き 2021年ももうじき終わりです。昨年から始まったコロナ禍の影響で今年も本当に恐ろしい一年だったと思います。しかし神は、その恐ろしさの中でも、私たちを見捨てず、守ってくださり、また、共に歩んでくださいました。コロナ禍の中でも神は志免教会を力強く導いてくださり、特に、新しい兄弟姉妹たちを送ってくださいました。本当に感謝せざるを得ない一年でした。しかし、志免教会が成長した喜びだけにとどまってはならないでしょう。来年は日本にある全てのキリストの教会が神の恵みにあって成長していきますように祈りましょう。願わくは、2022年の一年は、志免教会をはじめ、日本にある全ての主イエスの教会がますます祝福されますように、なによりも主の民が、主の恵みと御言葉のもとで忠実なしもべとして生きていけますように祈りましょう。今日は新旧約聖書の最後の箇所を通して、今年を締めくくる時間を持ちたいと思います。今年、最後の主日を送りながら、私たちが覚えるべきことについて、話してみましょう。 1.マラキの言葉 – 忠実な主の民として生きなさい。 旧約の時代、神の御言葉に聞き従わず、偶像を崇め、神に逆らって生きていたイスラエル民族は、イスラエルの神によって滅ぼされてしまいました。当時の強大国であったアッシリアとバビロンをムチのように用いられた神の御裁きによってイスラエルは滅びてしまったのです。イスラエルの指導者たちは捕囚となり、イスラエルはもはや国と呼べない様になってしまいました。それでも、神はイスラエルを完全には見捨てず、彼らを見守ってくださいました。以後、神はエゼキエルのような予言者たちを通して、絶えず希望の御言葉を与え、神の計画どおりに70年後にイスラエルを帰還させてくださいました。神がご自分の民に下される裁きは、絶滅のための懲らしめとしての裁きではありません。むしろ、回復と更生のための戒めとしての裁きなのです。まるで父が過ちを犯した息子を戒めるように、主は罪によって汚れたご自分の民を叱られるのです。神は決してご自分の民の滅びを望んでおられません。父のように民の悔い改めと回復を促すために、愛のムチを振るわれるのです。そのため、たまに、神はご自分の民に苦難を与えられる時もあります。実際、苦難はとても辛く苦しいものです。しかし、神から与えられる苦難の中には「必ず回復させよう」とする神のご意志が隠れています。信仰を持っている私たちはそれを見過ごしてはなりません。 神の恵みによって故郷に帰ることになったイスラエルは、最初は誠実に神に仕えるように見えました。神が再びイスラエルを立派に立ててくださると期待していたからです。しかし彼らは、いくらもせずに神に背を向けてしまいました。神が望んでおられるイスラエルの回復が、彼らが考えていた世俗的な回復ではなかったからです。神が望んでおられた回復は間違った信仰を正す霊的な回復でした。イスラエルはあまりにも世俗的な存在だったわけです。残念なことに、70年間の捕囚生活の中でも、彼らの本質は結局変わりませんでした。彼らは依然として神の御心より自分たちの欲望を大事にし、自分たちの欲望のために神を利用しようとしていたのです。マラキはそうした変わらないイスラエルに、主の警告を伝えて、悔い改めを呼びかけています。「見よ、その日が来る。炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者はすべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように躍り出て跳び回る。」(マラキ3:19-20)国と民族が滅ぼされたにもかかわらず、相変わらず愚かに振舞ったイスラエル。神への信仰より、ただ再び立派な国になりたいとの世俗的な思いで満ちていたイスラエルは、実質的な変化が起こらないのを見ると、あまりにも簡単に神に背いてしまったのです。 そのようなマラキの時代のイスラエルを見つめながら、我々自身を顧みることになります。私たちにとって神はどんな存在でしょうか。私たちはなぜ、わざわざキリスト教の神を信じているのでしょうか?ただ自分の願いを叶え、自分の生活を助けてくれる誰かが必要だから、神への信仰を持って生きるのでしょうか? それとも、たとえ自分の願いを聞いてくださらないといっても、神が我々のたったお独りの唯一の神だから、その方だけを愛するから、信仰を持って生きているのでしょうか? 神はご自分を無視する高慢な者には裁きを、ご自分を畏れ敬う謙遜な者には恵みを与えてくださると、今日の本文は警告しています。今日の旧約の言葉を通して、私たちにとって神はどんな存在なのかを考えてみましょう。「私のための神」ではなく、「神のための私」という純粋な信仰を持って生きて行きましょう。「わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため、ホレブで掟と定めを命じておいた。」(マラキ3:22)マラキは神の御言葉を記憶し、その方の御心に従って生きることを訴えています。 2022年は「私のために」ではなく「神のために」生きる成熟した信仰の一年になりますように望みます。 2.黙示録の言葉 – 主を信頼し、その方の御心の中に生きなさい。 次は黙示録について考えてみましょう。世間の多くの人々が、ヨハネの黙示録を、いわゆる世紀末のファンタジーみたいに理解したりします。この世に恐ろしい終末が臨み、おびただしい苦難と災いが、地上に襲ってくるということでしょう。アメリカでは、このような黙示録の物語を素材としたファンタジードラマや映画が流行した時もありました。しかし、黙示録は無慈悲な神の恐ろしい裁きと終末の悲惨さを描いた書ではありません。世の中にいかなる苦難と災いがやって来ても、神が必ずご自分の民と一緒にいてくださることを証しする慰めと愛の書なのです。使徒ヨハネが、この黙示録の言葉を書き残した理由は、この言葉がキリスト教へのローマ帝国の迫害が極みに達した時、苦しんでいるご自分の民のために、神がくださった慰めと愛の言葉だったからです。ですので我々は、黙示録を読むとき、神の裁きではなく、神の恵みを見つけなければなりません。私の大好きな黙示録の言葉を一ヶ所読ませていただきます。 「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3-4)神の御心とは何でしょうか。私は、主の民が神を知り、その御言葉のもとで、その方と一緒に生きることこそが神が望んでおられる御心だと思います。そのような人生に、神によるまことの慰めと恵みと愛があるからです。神が民に与えようとしていた幸せとは、そのようなものではないでしょうか? 死とともに消え去ってしまう財物、名誉、権力といった世俗の価値ではなく、この世での生命が終わるといっても永遠に続く私たちに与えられる神の同道と愛。主の民がそれを得ることこそが、神のまことの御心ではないでしょうか。「わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。“霊”と花嫁とが言う。来てください。これを聞く者も言うがよい、来てくださいと。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」(黙示録22:16-17) そのような主の御心の成就のために、主は絶えず、ご自分の民を主のもとに呼び出してくださり、御言葉と御恵みとを与えてくださるのです。我々に伝道を命じられた理由も、そのような意味があるからでしょう。今日の礼拝が2021年の最後の礼拝であるように、いつかこの世にも終わりが来るでしょう。また、私たちの人生にも終わりがあるはずでしょう。しかし、神はその終りとは関係なく、主の民と共におられ、彼らに永遠の慰めと安らぎと愛を与えてくださるでしょう。 今日の新約本文である黙示録の最後の箇所は、主の御言葉を大事にし、主を拠り所とし、主を待ち望んで生きることを促しています。 神の御言葉をありのままに純粋に守り、神の御旨に適う人生を生き、いつか再びおいでになる主のご到来を待ち望み、神の喜ばしい民として生きることを呼び掛けているのです。 締め括り 2021年の我々の人生を守ってくださった主に感謝しましょう。また、主への信頼を持って、2022年も生きていきましょう。2022年にも私たちの人生には喜怒哀楽が存在するでしょう。すべてがうまくいく人もいれば、何事においても、うまくいかない人もいるでしょう。しかし、うまくいくにせよ、うまくいかないにせよ、神はすべての主の民と共におられ、ご自分の民の歩みを見守ってくださるでしょう。また、主が我々の進むべき道を教えてくださり、慰めと恵みをもって導いてくださるでしょう。そのような主なる神への変わらない信頼を持って、その方の御心のもとで生きていく私たちになることを願います。皆さん、今年もお疲れ様でした。一年の締め括りと来年の準備に主の恵みがありますように祈り願います。 神の御導きが2022度も志免教会のお一人おひとりと共にありますように。