主の御言葉はわたしの道の光。

詩編 119編105-112節 (旧964頁) テモテへの手紙二3章10-17節(新394頁) 前置き 2022年の主題聖句は「主の御言葉は私の道の光、私の歩みの灯」(詩編119:105)です。神が旧約のイスラエルの民を、エジプト帝国から導き出してくださった後、優先的になさったことは、主の御言葉である律法をくださることでした。また神が新約の民のための御救いの業を行われた時、一番先にしてくださったことは、神の御言葉そのものであるイエス・キリストを、この世にお遣わしくださることでした。(ヨハネ福音 1章) 現代を生きる私たちも、一週間を始める時に教会に出席し、礼拝を通して、主の御言葉を朗読し、説教を聞きます。神の御言葉は古今を問わず、キリスト者の生活を導く最も重要な価値であります。この一年も、この神の御言葉と共に生きていく私たちになることを祈り願います。 神の御言葉を大事にし、常に口ずさみ、黙想し、実践して生きる志免教会になりますように願います。 1.神の御言葉の特徴。 神は仰せになる方です。神は御言葉を通して世界を創り、御言葉を通してご自分の民を導き、神の御言葉であるキリストを通してご自分の民を救い、御言葉であるキリストを通して、この世に終わりの日をもたらされる方です。神の御言葉とは何でしょうか?神の言葉とは、私たちの耳に聞こえる単なる言語だけを意味するものではありません。神の御言葉とは、神の御心と御旨とご意志を含みます。神の御言葉とは、この世の始まりと終わりとその間のすべてを司る秩序であり、永遠に変わらない神のご計画でもあります。聖書に記された御言葉は、神のすべての御言葉の中で、人間の救いを中心とする、人間が理解できるように記された、ごく一部の記録に過ぎません。この地上の誰が神の御心(御言葉)をことごとく理解し、計り知れるでしょうか?もし聖書の言葉が神のすべての言葉だとしても、罪と限界を持っている人間には、神の御言葉を完全に理解する能力がありません。しかし、神はキリストによる聖霊のお導きを通して、ご自分の民に神の御言葉が聞ける耳を与えてくださいます。私たちは主の御言葉を100%理解することが出来ません。しかし、聖霊なる神のお助けによって部分的にでも、御言葉を理解するようになります。しかし、私たちがキリストを通して、神の御前に立つ終わりの日になれば、主の御言葉を完全に理解し、真の喜びを享受するようになるでしょう。私たちが神の御言葉を完全に理解できないと言っても、 神は御言葉を通して働き、絶えず言葉を通して、私たちと共に歩んでくださるでしょう。 神の御言葉は、どのような特徴を持っているでしょうか。詩篇119篇を通して、いくつかの神の御言葉の特徴をかいまみることが出来ると思います。詩編119編では、神の御言葉について、次の8つの主な表現を繰り返して語っています。それらは「言葉、裁き、定め、掟、律法、戒め、命令、道」です。「言葉」とは人が聖書を通じて学び、理解できる神の御言葉を意味します。私たちは聖書に記された主の御言葉を通して、はじめて神が人に何を仰せになったのかが分かるようになります。次は「裁き、定め」です。私たちは、これらの二つを通じて正しい裁きを行い、全てをお定めになる神を知ることが出来ます。また、「掟」という表現を通じて神の言葉の不変さと完全さを知ることが出来ます。ちなみに「掟」を意味するヘブライ語は「石に刻む」という意味を持っています。我々は、「律法」という表現を通じて、ご自分の民の正しい生き方を教えてくださる主の御心を知ることができます。我々は「戒め、命令、道」という表現を通じて、神が民に人生の基準を与え、命令して、どのように生きるべきかを教えてくださることが分かります。以上の8つの表現はヘブライ語と日本語の違いのため、互いに100%当てはまるとは言えないかも知れませんが、少なくとも、神の御言葉が持つ多様性については知ることが出来ると思います。神はご自分の御言葉を通して、主の民の人生を導いてくださいます。我々は、聖書を読むこと、説教を聞くこと、また、我々が聖書と説教を通して学んだ言葉を、聖霊なる神が悟らせてくださることによって、神の御心を悟り、その方の御言葉に従順に聞き従って生きるようになります。つまり、神の御言葉が私たちの人生の道しるべになってくれるという意味でしょう。 2.民を正しい道に導く神の御言葉。 このように神の御言葉は、様々な形で我々の人生と共にあり、我々に知恵と知識と正しい生き方を教えてくれます。神の言葉はどのように私たちの生に影響を及ぼすでしょうか。代表的な律法である十戒を例にあげて考えてみましょう。十戒の第一戒である「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」という言葉が我々の心に刻まれると、キリスト教が極端に少ない日本の社会でも「私を助け、導いてくださる方は、他のいかなる神でもなく、ただ唯一の主なる神だけである。」という信仰が出来、偶像崇拝を遠ざけるようになります。第五戒の「あなたの父と母を敬え。」という言葉が我々の心に刻まれると、神をはじめ、両親だけでなく、権威者、兄弟姉妹などを尊重すべきという認識が出来、謙遜に生きるようになります。第十戒の「隣人の家を欲してはならない。」という言葉が我々の心に刻まれると、他人のものを欲しがらず、かえってもっと守ってあげようとする生き方を追求し、正しい人生を送るようになります。私たちの思想と人生に神の御言葉が刻まれると、私たちは、もはや自分の欲望の奴隷ではなく、神のしもべとしての聖なる生き方を追い求めるようになるのです。三つの戒めを簡略に取り上げたのですが、このように主のみ言葉は明らかに我々の人生の道しるべになってくれるでしょう。我々の知らないうちに、神の御言葉が身につき、我々を正しい道に導くのです。文字通りに、主の御言葉が我が道の光、我が歩みの灯となるということです。 歴史上、神の御言葉が教会と信徒とを正しく導いた実話を話してみましょう。第二次世界大戦の時、ナチス・ドイツによって虐殺されそうになったユダヤ人たちを積極的に救い生かしたキリスト者たちの物語です。フランス南部にはリヨンという都市があります。そして、そこから南西に100kmほど進むと、ル・シャンボンという小さな村があります。宗教改革期のフランスはカトリック教会の教勢が強かったのですが、ル・シャンボンは、そうしたカトリック教会の迫害から逃れたフランスの改革派教会、いわゆるユグノーたちが集まって建てられた村でした。 時が経ち、第二次世界大戦当時、フランス領土の半分以上がナチス・ドイツに占領され、フランスにはナチス・ドイツを支持する傀儡政権が打ち立てられました。そのため、ドイツで人種弾圧を受けていたユダヤ人は、フランスでも命の脅威にさらされることになりました。その時、あるユダヤ人の女性が改革派教会の都市ル・シャンボンを訪れ、助けを求めました。当時、ル・シャンボン教会の主任牧師だったアンドレ・トロクメとその夫人は、喜んでその女性を家に招き休ませて、避難が出来るように手助けしてあげました。その後、女性の噂を聞いた数多くのユダヤ人たちがル・シャンボンの村に助けを求めて訪れました。昔からカトリック教会が強かったフランスにおいて、少数者として生きてきたル・シャンボンの教会は、自分たちも少数者でしたが、自分たちよりも、さらに少数者であったユダヤ人たちから目をそらさず、喜んで助けてあげたのです。自分たちにも命の脅威が迫ってきたにもかかわらず、死をも辞さずユダヤ人を助けたのでした。 ル・シャンボン教会の主任牧師アンドレ・トロクメの従弟ダニエルの場合、ナチスの収容所に連行されるユダヤ人たちと最後まで一緒に行動したあげく、ユダヤ人でもないのに、結局、収容所で殺されてしまったほどでした。当時、ル・シャンボンの人口は3000人余りでしたが、この時、ル·シャンボンのキリスト者たちが救出したユダヤ人の数は5000人を超えたと言われます(子どもだけ3000人余り)。ル·シャンボンのキリスト者たちは、世の権力を恐れていませんでした。彼らは自分たちの業について「正しいことをしただけ」だと思っていました。その正しいこととは、人の良心や人道主義的な発想によるものではなく、神の御言葉に聞き従うことでした。神の御言葉を黙想し、牧師の説教を通して御言葉について学び、その学んだ言葉を実践して生きることが、彼らにとって正しいことだったのでした。 過去、宗教改革期にも数多くのカトリック迫害者たちを避け、数多くのプロテスタントの信者たちがル·シャンボンに逃げました。そしてル·シャンボンの教会は彼らを受け入れました。そうした歴史的なアイデンティティーに基づいて、ル·シャンボンの教会はユダヤ人たちをも受け入れ、彼らが生き残れるように手助けしたのでした。神の御言葉が彼らの身につき、代々正しいことを追い求めるように導いたのです。戦争が終わり、ホロコースト祈念館に寄付されたアンドレ·トロクメ牧師の聖書には、このような自筆サインが書いてあります。「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」 締め括り 私たちは、年に52回の説教を聞いています。水曜祈祷会の奨励まで加えれば、100回を超えます。家庭礼拝暦による毎日の黙想や、キリスト教系のラジオを聴いている方もおられます。私たちは「神の御言葉の中に生きている」と言っても過言ではないでしょう。このような私たちに与えられる神の御言葉が、私たちの身に付き、主の御言葉に従順に聞き従い、実践して生きる志免教会として、この一年を過ごしていきたいと思います。「だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、 また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」(テモテⅡ3:14-17)神の御言葉を聞くだけでなく、我々の生活の中で実践しながら生きていく1年になることを願います。私たちは弱い者で、当たり前に神のすべての御言葉を守り抜けない存在です。しかし、せめて一つの言葉でも守るために努力する一年を過ごしたいです。主の御言葉が、私たちの努力を導く光となり、私たちに応えてくれるでしょう。 2022年度も神の御言葉にあって勝利する志免教会になりましょう。