神様とヤコブの出会い。

創世記28章10-22節(旧46頁)  ヨハネによる福音書1章43-51節(新165頁) 前置き 前回の説教の本文である創世記27章には、イサクの次男ヤコブが、父をだまして兄エサウが受けるはずであった長男の祝福を奪う出来事が記してありました。イサクは信仰の父アブラハムの相続人であり、神の民と認められた人でありましたが、彼の家は何か不健全な状態でした。父のイサクは霊的な目が暗くなっているゆえに神の御心が見分けられず、母のリベカは自分の計略を達成するために夫を欺き、長男のエサウは神の祝福を軽んじ、末子のヤコブは自分の欲望のために卑怯な行動をいとわなかったのです。しかし, それにもかかわらず、神は彼らの失敗の中でもご自分の計画を着々と成し遂げていかれました。残念なことに家庭の不和によってヤコブが父の家を去らなければならないようになりましたが、その家庭の不和によって、イサクの家とヤコブへの神のご計画は本格的に始まったのです。実に神は人間の失敗から、神の成功を導き出す方でいらっしゃいます。今日の本文からはヤコブの物語が本格的に展開されます。ヤコブの物語もアブラハムのように長くて波乱万丈です。主はヤコブの歩みをどのように導いてくださるでしょうか。ともに覗いてみましょう。 1.万事が益となるように共に働かせる神 ヤコブは兄が受けるべき長子の祝福を奪ったゆえに、住み慣れていた故郷を離れるようになりました。表向きではカナンの異民族ではなく、同族の娘をめとるための旅のように見えましたが、それは明らかに長子の祝福と権利を奪われたエサウの仕返しを避けるための逃亡でした。父のイサクは霊的に暗んでいる状態でしたが、ヤコブにくだした長子の祝福を翻さず、旅に立つ彼のために、もう一度祝福をしてくれました。「どうか、全能の神がお前を祝福し、アブラハムに与えられた土地、お前が寄留しているこの土地を受け継ぐことができるように。」(28:3-4中)たとえ、ヤコブが卑怯にも長子の祝福を奪ったとしても、父のイサクは息子が生まれた時、神が言われた御言葉を思い起こし、祝福を認めたのではないかと思います。そしてヤコブは、いよいよ父の家を後ろにし、親元を離れ、荒々しい世の中に進んでいくことになりました。人生には、常に罪と不条理があり得ます。その結果、本人も他人も苦しみと痛みを味わうことになりがちです。人生にある多くの苦痛の理由の中には、自分や他人の罪によって生じることも多々あります。そして、人間にある罪の性質は、そのような苦痛を絶えず生じさせます。しかし、全能なる神はそのすべての人生の問題までも用いられ、神の善いご計画を成し遂げていかれ、何があっても成就なさる方でいらっしゃいます。 イサクの霊的な暗さ、リベカの偏愛、エサウの憤り、ヤコブの貪欲が生んだ家庭の破綻は、本当に心の痛い出来事でありますが、このような悲劇があったからこそ、神がアブラハムに言われた計画、つまり「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる。」(創15:5)という神の預言が実現するようになったのではないでしょうか。家を離れたヤコブがパダン・アラムで4人の妻をめとり、12人の息子を儲けるようになったからこそ、一人のアブラハムの子孫が、数万のイスラエルという民族になったのではないでしょうか。また、そのイスラエル民族を通してイエス·キリストという救い主が来られるようになったのではないでしょうか。偉大な神はイサクの家庭の問題を、一介の家庭の問題ではなく、神の聖なるご計画を成し遂げる踏み石として用いられたのです。今現在、自分の人生がうまくいっていないと、暗くて長いトンネルの中に閉じ込められていると、絶望に陥っている必要はありません。神はそのような状況さえも用いられ、一番良い時に一番良い方法で主の御心通りに私たちの人生を導いていかれる方だからです。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)実に、このローマ書の言葉のように、我々キリスト者の人生の中で起こるすべての出来事は、神の御手によって主のご計画の成就のための道具として用いられるでしょう。それを信じ、主のお答えを待ち望みつつ、生きることこそがキリスト者の信仰の在り方なのです。 2.孤独と苦しみの中に現われる神。 しかし、不正に長子の祝福と権利を奪ったヤコブが行き当たった現実は、決して美しいものだとは言えませんでした。「ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。」(創28:10-11)現在、ベエル・シェバとハランとして推定している二つの場所の直線距離は約730kmです。志免教会から名古屋までの直線距離が、それくらいですのでかなり遠いのです。ところで、ヤコブはその道のりを歩いて行かなければなりませんでした。しかも石の砂漠でした。創世記の描写によると、一緒に行く僕もいなかったと思われます。何年前か、イスラエルの荒野に行ったことがありますが、昼間は本当に乾燥して、夜になると非常に寒くなる所でした。長子の祝福を横取りしたヤコブでしたが、彼が経験した祝福の始まりは、華麗な何かではなく、むしろ孤独と苦難でした。もし、ヤコブが長子の祝福と権利を欲していなかったら、彼は父の保護の下で、楽に暮らしていたでしょう。ヤコブは貪欲によって兄の祝福を横取りしましたが、その祝福は孤独と苦難として返ってきたのです。私たちは、これを通して神の祝福について、はっきり知っておくべきです。神の祝福とは、ただ身と心が安らかになることを意味しません。神の祝福は、そう簡単な問題ではありません。神の祝福とは、祝福を受けた者が神のお導きに聞き従って生きる時に働き、そのような人生には孤独や苦難が伴うこともありえます。 先週も孤独について言及しましたが、時々、神の民は、神の祝福の中に生きる途中、孤独や苦難にさらされることもあります。古代中東には寄留者歓待法という慣習法があったと言われます。砂漠や荒野で旅人がくたびれないように、彼が誰であっても寄留者を招いて休ませる仕来りです。しかし、ヤコブはそういった寄留者歓待法による助けを受けることもできず、野宿をしなければならないほど、徹底的に孤独と苦しみの道を歩まなければなりませんでした。ですから、神の祝福を甘く考えてはいけません。神が考えておられる祝福と我々が考えている祝福との間には、大きな違いがあることを忘れてはなりません。それにも関わらず、神の御心通りに生きる時、孤独と苦難で始まった辛い祝福は、真の祝福へと変化していくでしょう。明らかなことは神が孤独と苦難だけを与えられる方ではないということです。その孤独と苦難の中で、神は必ずご自分の御手を差し伸べてくださる方だからです。「彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。見よ、主が傍らに立って言われた。私は、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。」(12-13) ヤコブが置かれた孤独、寒さ、恐ろしさの中で、彼が枕にしいた石は、そのような現実で自分を守るための唯一の物でした。非常に粗末な石に頼って眠っていた孤独と苦難の中のヤコブ。彼がすっかり独りぼっちになった時、はじめて神は彼の夢に現われたのです。神は天と地をつなげている階段の上(本文では「傍ら」とあるが、原文では「上」)に立ってヤコブに言われました。「私は、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。」ヤコブに与えられた本当の祝福は、ただ心身ともに安らかになる状態ではなく、どんな孤独や苦難があっても、絶対に変わらず共にいてくださる神ご自身だったのです。ヤコブの心には貪欲、罪、愚かさなどがありましたが、神はそのすべてを意に介さず、永遠に彼と共におられ、彼の祖父と父との約束を必ず守ると約束してくださいました。それこそが、まさにヤコブに与えられた神の真の祝福だったのです。「君に罪と問題があっても、私が赦し直してあげる。だから君は私についてきなさい。」とのことです。我々の人生に孤独と苦難が襲ってくる時、絶望しないようにしましょう。差し当たり恐れることは避けられないかもしれませんが、その時こそが神が私たちと共にいてくださる時です。ヤコブの石枕は頼りにもならないほどのみすぼらしい物でしたが、神が現れた時、その石枕は神とヤコブとの関係を証明する記念碑となりました。そしてヤコブは、そこを神の家、すなわちベテルと名付けました。 3.アブラハムとイサクとヤコブの神。 私たちは「アブラハムとイサクとヤコブの神」という言葉をよく耳にします。なぜ、神は、ご自分のことを罪人であったアブラハムとイサクとヤコブの神と呼ばれたのでしょうか? それは、神がこの三人と結ばれた契約を必ず守るという約束を記憶しておられるためではないでしょうか? 神はアブラハムとの約束を孫のヤコブの時まで固く守ってくださり、ヤコブとの約束をキリストの時まで固く守ってくださいました。そして、キリストの手柄によってアブラハムとイサクとヤコブの霊的な子孫となったご自分の教会の時まで、その約束を守ってこられました。その約束は現代の教会である私たちにも当たるものです。階段の夢を通してヤコブがいただいた神からの約束は、ヨハネ福音書1章の主イエスの御言葉によって成し遂げられました。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」(ヨハネ1:51)神は、ご自分の約束を必ず守られる方です。その約束が守られる道のりで、民が孤独や苦難を経験する場合も、絶望や悲しみを感じる場合もあるでしょうが、神はその民との約束を必ず守ってくださる方です。神は今日も聖書を通して、自らを「アブラハムとイサクとヤコブの神」と証言されます。 そして、その神はイエス·キリストを通して、「キリストと教会とあなたの神」とご自分のことを証言してくださるのです。 締め括り これから、当分の間、旧約説教はヤコブを中心にすると思います。彼は祖父アブラハム以上に波乱万丈の人生を過ごすことになります。今日の本文の最後の箇所に、このように書いてあります。「神が私と共におられ、私が歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主が私の神となられるなら、私が記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたが私に与えられるものの十分の一をささげます。」(20-22) ヤコブはやっと神に出会いましたが、彼は自己中心的に神を取引の対象として扱います。しかし、彼は神と共に歩む年月を経て徐々に神の民に生まれ変わっていきます。「さあ、これからベテルに上ろう。私はその地に、苦難の時、私に答え、旅の間、私と共にいてくださった神のために祭壇を造る。」(35:3) 貪欲と愚かさのヤコブは、どのようにして神の民に変わっていくでしょうか。これから引き続きヤコブの人生と神のお導きについて探り、志免教会が歩むべき道について学んで行きたいと思います。