志免教会の主。

イザヤ書43章1-7節(旧1130頁)  コリントの信徒への手紙Ⅰ 3章4-11節(新302頁) 前置き 本日は、2022年の総会の日です。就任してから初めての総会の司式ですので緊張していますが、主のお導きと皆さんのご協力がありますので、無事に終わると思います。総会を迎えて、今日は普段分かち合ってきた創世記、マルコによる福音書の言葉ではなく、キリスト教の教会論について話してみたいと思います。何だか「論」という字がつくと、学問的な感じがするかもしれませんが、聞きやすい内容ですので、お気軽に聞いてください。 教会とは何であり、教会に属している私たちは、どのように生きるべきなのかを考える時間になれば幸いです。 1.不完全な教会と完全なキリスト コリント教会には数多くの問題がありました。信徒の間の葛藤、教会員同士の紛争でこの世の法律を教会の中に引き入れてしまう問題、性的な堕落、無秩序、無配慮など、解決困難な問題が、繰り返して起こる教会でした。しかし、コリント書Ⅰの著者パウロは、それにもかかわらずコリント教会を「教会」と呼んでいました。教会の主、イエス·キリストは完全な方で、欠点の無い方です。けれども、コリント書Ⅰはそういった主の教会にも問題があり得ると語りました。教会はキリストの身体と呼ばれる共同体ですが、決してキリストそのものではありません。イエスそのものでなく、罪を持っている人間の集まりであるゆえに、大なり小なりの問題が生じうる集団なのです。しかし、そういう問題があっても、イエスは、この教会をご自分の体だと認めてくださり、決して見捨てられません。目に病気があるからといって、自分の目を抉り出す人がおらず、手に怪我をしたからといって手を切り取る人はいません。むしろ目と手を治すために私たちは医者に診てもらいます。イエスもそのようにご自分の教会を愛して下さり、治療することを望んでおられます。そのために、主はご自分の御言葉と聖霊を通して教会の治療者になってくださり、長く忍耐しつつ教会を導いてくださる方なのです。 当時のコリント教会の問題点の一つは、信者たちが党派を作って対立することでした。当時、コリントは旧ギリシャの都市の一つだったため、ギリシャ文化の痕跡が非常に濃厚に残っていました。町の高いところにはアフロディテ神殿があり、多くの人々が自分たちの好むギリシャの哲学思想や信仰に従って学派に加わりました。そして各々の学派は広場などに集まって一つのテーマで討論、あるいは論争をしました。ところで、コリントに住んでいたコリント教会の信者たちも、そうした姿に倣って、教会の中でも党派を作ったわけでした。ある人々はパウロ派、ある人々はキリスト派、またある人々はアポロ派に加担しました。教会と世の価値観は違うにもかかわらず、彼らは世間と同様に党派を分かれて紛争を起こしたのです。そんな時にパウロは自分の手紙を通して、教会とは何かしっかり教えてくれます。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」(コⅠ3:6-7)ほかの誰でもない神だけが、コリント教会を成長させてくださる方だということです。手紙には、またこういう言葉もあります。「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。」(11)この教会の土台が、他ならぬイエス·キリスト、たったお一人だけだということです。 2.教会は主イエスのもの 教会を意味するギリシャ語はエクレシアと言います。エクレシアは「外へ」という意味の「エク」に「集める」という意味の「カレオ」を併せた言葉です。もともと古代ギリシャでは民会という名で最初に使われた表現ですが、ギリシャ文化の影響下にあった初代キリスト者共同体も、自らの集いを表すために、このエクレシアという表現を借用しました。ある意味、教会はキリストによって世間から呼び出されて(エク)作られた共同体(カレオ)でもあります。我々はこの世の中で生きていますが、イエスによって世の外へと呼び出され集められた存在です。それゆえに、私たちは各々日本出身、ニュージーランド出身、中国出身、韓国出身の者として、この世に生きていますが、世の外へ呼び集められた存在として、同じ「キリスト者」なのです。そして、我々を一つに集めてくださったイエスが、我々の共同体、教会の代表者(かしら)です。 そのため、教会はキリストの御言葉を法のように考えつつ生きなければなりません。世の中にある、様々な価値観、理念ではない神の御言葉が、私たちの生活の基準となるのです。そして、その御言葉は、神の御言葉そのものであるイエス·キリストによって我々に与えられた大事なものです。ですから、私たちは主の御言葉を最も尊重して生きていくべきです。民族主義、資本主義、自由主義など、我々の周りには数多くの主義があります。しかし、私たちはキリストの共同体であるという自覚を持って、神の御言葉に従って生きるべきです。 「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」(イザヤ43:1)イザヤ書43章は、罪のために滅ぼされた旧約のイスラエルを、救おうとなさった神による希望のメッセージです。神に不従順に振舞い、偶像を崇め、神の怒りを買ってしまって、悲惨にも滅ぼされたイスラエルでしたが、それでも神はご自分の民であるイスラエルを、再び導くと宣言されました。教会も旧約のイスラエルのような共同体です。教会を成す我々は罪人として生まれ、罪の中で生きる惨めな存在でしたが、それでも神は我々を選んでくださり、我々をご自分の民として呼び出してくださいました。私たち一人一人が生まれる前から、私たちの名を呼んで選んでくださり、主の所有としてくださったのです。しかし、神は我々が優秀な存在であるから、民にしてくださったわけではありません。神ご自身であるイエスの贖いと功績のゆえに、我々を呼んでくださったのです。そのため、私たちが神に愛されることは、すべてイエス・キリストのおかげです。このイエスが私たち志免教会の頭だからこそ、我々は神に愛されるようになったわけです。教会は主イエスのものです。そして教会を導いてくださり、成長させてくださる方はキリストを通して私たちを愛してくださる神ご自身なのです。 締め括り、我々に託されたもの。 本日の総会を通して、2022年の方針についてみんなで話し合い、教会に仕える者を新たに決めることになります。決意、投票、挙手は私たちがするかも知れませんが、その裏には教会の主であるキリストの御心があると思います。教会の主は牧師でも、長老でも、執事でも、教会員でもなく、ただ神がお遣わしになったキリストなのです。私たちは、それをしっかりと心に留めて、教会に仕えるべきです。しかし、私たちの主の教会ですから、私たちは自分のことのように教会を大事にすべきでしょう。教会を自分の職場や家庭のように大切にし、兄弟姉妹を自分自身、自分の家族のように大切にすべきです。我々には、主イエスだけが現れる健全な教会づくりという使命があります。今年も主イエスの教会の意義と、その教会の一員である私たちの使命を思い起こし、主の教会を愛し、仕える私たちになりますように願います。2022年度も神の祝福が志免教会の上に豊かに注がれることを祈ります。