平和をもたらす神の子

イザヤ書11章1-10節(旧1078頁)           ルカによる福音書2章8-14節(新103頁) 前置き 平和という単語ほど、切なる言葉があるでしょうか。私たちはみんな平和を望みます。家庭の平和、職場の平和、政治経済の平和、心の平和、社会の平和。人間は自分でも知らないうちに、平和を口にし、また心にいだいて生きています。しかし、平和は、そう簡単に手にはいるものではありません。また手に入れたとしても、いつ消えるか分からない不安定なものです。正直、人生にあっては平和より不安や恐れの方が多いかもしれません。「会社が潰れたら、家族が患ったら、戦争が起きてしまったら」など、今の平和が永遠に続くと、私たちは断言できません。そういうわけで、人はいつも平和への渇きを感じて生きています。始まりがあれば終わりもあるように、私たちが営むすべての生には終わりというものがあります。永遠の喜びも、永遠の満足も、永遠の安らぎもありません。このように終わりがある世の中で、果たして永遠な平和は成し遂げられるのでしょうか。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ2:14)しかし、聖書は神の栄光と人間の平和を永遠に保たせる、まことの王が来ると語っています。そして、我々はその王が我々の主イエスであると信じています。今日は、まことの平和の王、イエスについて話してみましょう。 1.聖書が語る平和。 シャロームという言葉をお聞きになったことがあると思います。4年前に一人旅でイスラエルに行ったことがあります。イスラエルの最南端のエイラトから最北端のヘルモン山までレンタカーで旅行をしました。全国の広さが九州くらいですので、一週間で、たくさんのところを訪れることが出来ました。ところで、行く先々で、多くの人々が私に手をあげて「シャローム」と挨拶してくれました。イスラエルにはイスラム地域(エリコ、ベツレヘム、シェケム、ヘブロン、死海北部)もあり、そこでは「アッサラーム・アライクム」と挨拶していました。面白いのは、イスラエル内のイスラム地域は言語の違いがあるにもかかわらず、サラームというシャロームに似た表現を使っていたということです。後で調べてみたら、シャロームもサラームも、同じ語源を持ち、いずれも「平和を祈る」という意味を持っていました。つまり「シャローム」は平和を意味する表現です。この「シャローム」はヘブライ語の「シャラム」という動詞から派生した言葉ですが、もともと「シャラム」は平和を意味する表現ではありません。その意味は「安全である。 完全になる。完成する。支払う。償う。いっぱいになる。補う」などで、つまり「欠落なく、完全な状態。」という意味なのです。従って、聖書が語る平和とは、単にお金への心配、子供への心配、国への心配が無く、気楽でのんびりしている状態という意味ではありません。人間に欠けていた何かが、完全に満たされている様だと言えるでしょう。この世が語る平和と聖書が語る平和には、このような違いがあるのです。 信仰生活を長く営んでこられた方は、おそらく、このように考えられた経験があるかも知れません。「キリスト教が極めて少ない、この日本で、思い切って信仰者になったのに、なぜ神は私の苦しみを取り除いてくださらないのだろうか?」あるいは「なぜ、イエスを信じているのに、私の人生には悩みと悲しみが依然としてあるのだろうか?」いつもそうではないとおっしゃるでしょうが、一度くらいは、そのような思いを抱き、神を疑ったことがありませんか? 本当に申し訳ありませんが、私は牧師であるのに、何度もそういった疑いの経験があります。結局、牧師も罪人だからでしょう。しかし、その都度、主は聖書の言葉、あるいは心の内面への働きかけによって教えてくださいました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。 わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」イエスは私たちに「まことの平和とは神を知らず、信じず、従わずに生きる者が、神のもとに立ち戻り、神によって生きること」だと教えてくださいます。いつか私たちが神に召され、この世から立ち去る時まで、そして、その後までも、神は私たちと共に歩んでくださるでしょう。苦しい時は一緒に苦しみ、悲しい時は一緒に悲しみ、嬉しい時は一緒に喜んでくださるでしょう。神は私たちの父になってくださり、私たちの友になってくださり、私たちの救いと助けになってくださるでしょう。聖書が語るまことの平和とは、こういうものなのです。神がキリストを通して永遠に私たちと共に歩んでくださることです。 2.平和をもたらしてくださるイエス。 今日の新約本文をもう一度、読んでみしょう。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」 (ルカ2:14) イエスがベツレヘムの馬小屋、しかも飼い葉桶にてお生まれになった時、天の天使の大軍が貧しくてみすぼらしい羊飼いたちの前に現われ、イエスの出生が神には栄光であり、人間には平和であると神をほめたたえました。私たちが信じる神は、すでに完全な方ですので、一欠けらの欠乏も無い方でいらっしゃいます。従って、神は、すでに平和を成し遂げられた存在、いや平和の源そのものでいらっしゃいます。しかし、自分の罪のために死ぬしかない人間は、完全さや平和とは程遠い存在です。人間は数え切れない欠乏の中にあり、神のような完全さから外れている存在です。人間は有限なもので、いつか必ず死ぬ、一分後の未来も分からない存在です。そんな欠乏があるからこそ、果てしなく欲望を持ち、互いに対立し合い、戦争して結局は殺し合うのでしょう。だから人間には、その欠乏を満たす、まことの平和が必ず与えられるべきです。聖書はイエス•キリストが、その欠乏を満たしてくれる、まことの平和の持ち主として来られたことを、力強く教えています。イエスはまことの平和の源でいらっしゃる、神の御心の成就をこの地にもたらされることで、神に栄光を帰されました。 また、イエスは人間の欠乏を癒してくださる平和の成就者として、人間に平和を与えてくださったのです。 この地上で生きていく間、私たちは常に欠乏感を覚えて生きていくでしょう。すでにイエスに出会い、イエスの民となったとしても、罪がある限り、私たちは欠乏から、完全には自由になれないでしょう。しかし、少なくとも我々は我々の欠乏を知り、満たしてくださるイエス・キリストを信じています。私たちの力では到底解決できないものですが、主イエスはいつも私たちと一緒におられ、私たちの問題を助けてくださるでしょう。旧約時代には、こういった平和の存在がまったくありませんでした。ただ、メシアという名の誰かがいつか来るだろうと漠然と信じていただけです。しかし、新約の時代を生きる私たちはすでに平和の存在であるイエスにあって生きています。ですから、今、完全ではなくても、がっかりする必要はありません。イエスが私たちの満足になってくださり、完全な存在として私たちのために執り成してくださるからです。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように大地は主を知る知識で満たされる。」(イザヤ11:6-9) 締め括り 私たちは終わりの日、キリスト・イエスを通して主なる神の前に堂々と立つでしょう。そしてイエス・キリストの父なる神を、誇らしく私たちの父だと声を限りに張り上げるでしょう。その日が来れば、主のもとでは狼のような人も、小羊のような人も、子供のような人も和やかに生きるでしょう。まことの完全さと平和が我々の中に成し遂げられるでしょう。主イエスのご降臨は、まさにそのような終わりの日のための神の深い恵みなのです。最後に私の短い証しを分かち合って説教を終わりたいと思います。もうすでにご存知の方もおられるしょうが、今の私の父は義父です。実父は私が生まれる数ヶ月前に不慮の事故で亡くなりました。成長過程を通して父の不在は、私にとって大きな傷と欠乏を残しました。12年前、私が本当に神に出会った30歳まで、私の性格は今とは全く反対で、いつも不安定でした。私の心の中に大きな欠乏感の穴が空いていたからです。それは私の実存を脅かす虚しさそのものでした。しかし、神に出会った日、私はついに悟りました。神はその欠乏をすでに知り、見守り、私と出会う時を切に待っておられました。そして私が神に出会った当日、キリストを通して私の心の傷と欠乏を完全に癒してくださいました。そして心の中に神の声が聞えるかのように感じられました。「私がイエスを通して君の平和になる。」「私がイエスを通して君のまことの父となる。」イエス•キリストは罪人のあらゆる欠乏を満たし、真の平和を与えるためにおいでになりました。我々が毎年記念するクリスマスは、まさにその完全な平和の道をもたらしてくださったキリストのご降臨を記念する日なのです。平和の主が主を記念する皆さんを、限りなく祝福してくださるように。クリスマスまでの残りの期間を喜びと平和で過ごせますように祈り願います。