人間の愚かさを超える神の摂理。

創世記27章1-45節(旧42頁)  コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章23-25節(新300頁) 前置き 今日の本文は、神の民アブラハムの息子のイサクとその妻リベカ、そしてイサクの二人の息子をめぐる人間の愚かさについての物語です。また、その愚かさの中で、神の摂理がどのように顕わされていくのかを描いています。キリスト教の歴史上、いくら信心深く賢い者だといっても、人間の歩みには罪と愚かさによる悲劇がありました。アブラハムが、今日のイサクが、ヤコブが、モーセ、ダビデ、イスラエルの諸王たち、イエスの弟子たち、そして歴史上の教会、また今日の我々に至るまで、人間はいつも神の知恵と人間の愚かさの間に生きる存在でした。しかし、神はいつも人間の、その愚かさに全く妨げられることなく、完璧にご自分の御業を成し遂げて行かれました。神の摂理という言葉自体が、そういう意味ではないでしょうか。摂理を解き明かすと「引き寄せて治める」という意味になります。つまり、主は何かに引っ張られる方ではなく、引き寄せてご自分の御手のもとで治められる方なのです。この言葉から、神はどんなことにおいても、神のご意志どおりに導いていかれる方であることが分かります。今日はそのような神がご自分の摂理を通して、人間をどのように導いていかれるのかを考えてみたいと思います。 1.霊的に暗くなったイサク 「イサクは年をとり、目がかすんで見えなくなってきた。」(1)年を取ったイサクは目がかすんでよく見えない状態でした。旧約聖書で「目がかすんだ。」という表現は「霊的に暗くなっていること」を示す場合が多いです。「モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかった。」(申命記34:7)申命記では死ぬ直前までモーセの目がかすんでいなかったことを通して、モーセの健在ぶりを示しています。古代中東において「目」とは、人間の気力、賢さ、霊的、肉的な状態を表す媒体でした。例えば、創世記29章にヤコブの1人目の妻レアについての描写がありますが、「レアは優しい目をしていたが、ラケルは顔も美しく、容姿も優れていた。 」(29:17)と記してあります。ここで「目が優しい」という表現は、「目つきが穏やかだ。」という意味ではなく「目が悪い」つまり、レアがラケルより綺麗ではなかったことを説明する表現です。時々、テレビで古代エジプト関係のドキュメンタリーを放送したりしますが、皆さんもそのような番組をご覧になったことがあるでしょう。その時、エジプトの壁画を見ると、王族の目が非常に濃く描いてあることが分かります。なぜかというと、当時の王族が賢明で強力な者だったということを、壁画の濃い目つきを通して表現しようとしていたからです。したがって、旧約聖書で登場人物の目あるいは視力についての表現がある時は、その人の霊的な状態を説明すると理解しても問題ないと思います。 そういうわけで、イサクの霊的な状態は暗くなっていたのです。つまり、霊的な判断力もくもっていたという意味でしょう。エサウとヤコブが生まれた時、神は明らかに「兄が弟に仕えるようになる。」(25:23)とリベカに言われました。おそらくイサクはリベカからその話しを聞かせてもらっていたでしょう。もし、聞かなかったとしても、イサクに神との霊的な交わりがあったら、神の御心に気付き、息子たちの将来を予測していたでしょう。なのに、イサクは霊的な目がかすんでしまい、神の御心が読めず、自分の思い通りに、つまり弟ではなく兄を祝福しようとしていたのでした。霊的に鈍っていたイサクは、人間の罪の本性によって神の御心ではなく、自分の思いのままに振舞っていたのです。「イサクは年をとり、目がかすんで見えなくなってきた。上の息子のエサウを呼び寄せて、息子よと言った。エサウが、はいと答えると、イサクは言った。こんなに年をとったので、わたしはいつ死ぬか分からない。今すぐに、弓と矢筒など、狩りの道具を持って野に行き、獲物を取って来て、わたしの好きなおいしい料理を作り、ここへ持って来てほしい。死ぬ前にそれを食べて、わたし自身の祝福をお前に与えたい。」(1-4)もともと、望ましい祝福の仕方は神の御心によって授けるものです。人間の意志ではなく、神のご意志に従って祝福をするべきなのです。しかし、霊的な目がかすんでいたイサクは神のご意思ではなく、自分の思いどおりに祝福を与えようとしていました。 2.イサクの家庭を覆っていた霊的な愚かさ 家長イサクの霊的な暗さは、彼の家族全体に悪影響を及ぼしていました。イサクとエサウの話しを盗み聞きしたイサクの妻リベカは、長男より、次男のヤコブをもっと愛していました。そのため、リベカは夫の思いに頷かず、ヤコブが長子の祝福を受けるように計略を立てました。彼女は家で育てた子山羊を取って料理を作り、エサウの晴れ着と子山羊の毛皮を用いてヤコブをエサウのように変装させました。そして大胆にヤコブをイサクに送って、兄エサウの代わりに長子の祝福を受けるようにしました。古代中東社会において、族長の権威とその祝福は、現代には想像も出来ないほどの大きな効力を持っていました。法的な整備が行き届いていない古代の遊牧民族社会において、族長の一言一言が法律に値する重みを持ち、長子の祝福はその中でも絶対的な力を持っていました。ですので、もしヤコブが無事に祝福を受けられれば幸いですが、騙したことがばれてしまったら、それに相当する大きな呪いを受けるに違いなかったのです。「お父さんがわたしに触れば、だましているのが分かります。そうしたら、わたしは祝福どころか、反対に呪いを受けてしまいます。」(12)このようなリベカの行動から、私たちはイサクの家庭に何か問題があったことが分かります。イサクは神の御言葉に気付けない霊的に暗い状況で、リベカは夫が信頼できず、ともすれば騙すことも出来るという有様でした。 「…兄エサウが狩りから帰って来た。彼もおいしい料理を作り…わたしのお父さん。起きて、息子の獲物を食べてください。そして、あなた自身の祝福をわたしに与えてください。…イサクは激しく体を震わせて言った。では、あれは、一体誰だったのだ。さっき獲物を取ってわたしのところに持って来たのは。…エサウはこの父の言葉を聞くと、悲痛な叫びをあげて激しく泣き、父に向かって言った。わたしのお父さん。わたしも、このわたしも祝福してください。イサクは言った。お前の弟が来て策略を使い、お前の祝福を奪ってしまった。…エサウは、父がヤコブを祝福したことを根に持って、ヤコブを憎むようになった。そして、心の中で言った。…必ず弟のヤコブを殺してやる。」(30-41)以後、狩りから帰ってきたエサウは、弟に長子の祝福を奪われたことを知り、彼を殺そうとしました。ですがエサウは、すでに25章でパンとレンズ豆の煮物で長子の権利をヤコブに譲ってしまいました。今日の出来事は既に予見されていることでした。一方ヤコブはあえて長子の権利を欲しがり、自分のものでないにもかかわらず奪おうとしました。いくら神が「兄が弟に仕える」と言われたといっても、自分の貪欲のために兄が受けるべき権利を奪おうとしたことは紛れもない罪なのです。イサクの霊的な暗さとリベカの偏愛と長子の祝福を軽んじたエサウの不注意と生まれつきのヤコブの貪欲は、イサクの家庭に拭えない傷と痛みを残してしまいました。そして彼らの愚かさは、結局ヤコブがイサクの家を離れなければならない、別れの種になってしまいました。このように神の民と呼ばれたイサクの家庭にも、人間の罪と愚かさによる惨めな出来事があったのでした。 3.人間の愚かさを超える神の摂理 今日の本文は創世記27章全体とも言えます。そして、そのすべてを詳しく説教しようとすれば、少なくとも3時間はかかると思います。ですので、今日の説教では27章の大まかな内容を探り、これが聖書全体において、どういう意味を持つのかを考えてみることが望ましいと思います。私は個人的にイサクの信仰が父アブラハムの信仰にまさるものではないと思います。アブラハムの信仰の物語が、その数々の浮き沈みにもかかわらず、望ましく成熟していくことを示しているのであれば、イサクの信仰は目に付く前進を示しておらず、むしろ晩年になっては、がっかりせざるを得ない姿だけを見せていると思うからです。それにもかかわらず、神は聖書の様々な箇所を通して、進んで「私はアブラハムとイサクとヤコブの神」とご自分について紹介してくださいます。イサクが立派な信仰者であれ、がっかりすべき不信心の者であれ、それらが大事なことではなく、神が彼のあらゆる状態を超越して、彼の主になってくださったこと、それこそが大事なことだからです。これにより偉大な神の本質を知ることが出来ます。それは神は何があってもご自分の計画を成し遂げる方であることです。今日の出来事以降、ヤコブはパダン・アラムにある母リベカの実家に赴くことになります。イサクをはじめ、家族の罪と愚かさによって、家庭に破綻が生じ、イサク夫婦の信頼が崩れ、兄が弟に殺害意志を感じたといっても, そのすべての悲劇の中で神はいっぺんの戸惑いもなく着々とご自分の御業を成し遂げていかれたのです。 確かに今日の出来事は、イサクの家庭から見れば、悲劇だったでしょう。しかし、見方を変えて、神のご計画から見れば、ヤコブに長子の特権と祝福が譲られる一番安全な道ではなかったでしょうか?仮にイサクが霊的に明るくて神の御心に気付き、ヤコブに長子の祝福を与えようとしたとしても当時の社会の仕来りが、それを素直に認めたでしょうか。もし、そういった社会の仕来りを乗り越えてヤコブに祝福しようとしたとしても、エサウが長子の祝福による権威と財産を簡単に諦めたでしょうか。もし、リベカが何の不満も持たず、すべてにおいてイサクに従順に従っていたら「兄が弟に仕える。」という物語の始まりは成り立ったでしょうか? もし、ヤコブに何の野望もなかったなら、ヤコブはパダン・アラムに行って自分の妻たちに出会い、12人の族長たちを産むことが出来たでしょうか? イサクの家庭の問題は、27章当時には紛れもない悲劇でしたが、聖書全体から見るとイスラエルという民族が生まれ、またイエスという救い主が降臨するための必然的な出来事でした。今日の本文は、人間の立場では事がうまくいかなくても、神の立場では絶好の機会になり得るという大事な教訓を教えています。「人の間違いによって, 神の計画が台無しになってしまう。」ではなく、「人がいくら大きな間違いを犯してしまっても, 神の計画には何の衝撃もない。」ということが、確実に分かる本文だからです。 締め括り コリントの信徒への手紙Ⅰにはこういう言葉があります。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(コリントⅠ1:25)コリント教会内で党派を作って分裂を起こす者たちに、「神の教会は党派の教えや勢力ではなく、ひとえにキリストへの信仰によってのみ健全に立つ。」というパウロの教えです。いくら優れた人が教会にいるといっても、教会を正しく立てることは、その人ではなく神の力によってのみ出来る事柄です。神には一抹の愚かさもありませんが、もしあるとしても人間の賢さより、神の愚かさがはるかに教会を正しく導けるからです。私たちの人生も同じです。私たちの人生に数多くの出来事があっても、それらが人間の人生を作っていくわけではありません。それらが人間の人生に、ある程度の影響を及ぼすかもしれませんが、そのすべてを用いて人間の人生を導いてくださる方は、神のみです。今、我々が直面しているすべての事柄は、今、我々にとって、とても大きな障害かも知れません。しかし、それらが我々の人生を導いていかれる神のご計画を妨げ、歪めることは出来ません。むしろ神は私たちの成功と失敗、そのすべてを用いられて、神の御心通りに寸分の狂いもなく私たちを導いてくださるでしょう。ですから、我々は一喜一憂する必要がありません。ただ、神を信じるべきです。 何も心配せず、祈って、主のご計画に謙虚に従っていきるべきです。そういう信仰の中で、神は主の民を正しい道に導いてくださるからです。