断食の本義。

イザヤ書58章3-11節(旧1156頁)マルコによる福音書2章18-20節(新64頁) イエスは表面的にユダヤ人でした。 民族的な背景だけでなく、宗教的な背景もユダヤ人だったわけです。 現代のキリスト者が誤解しやすいことの一つは、キリスト教をイエスが打ち立てたと信じることです。 しかしイエスはキリスト教という宗教を造られた方ではありません。 イエスはあくまでもユダヤ人としてユダヤ人の民族宗教であるユダヤ教の内部者でした. キリスト教はユダヤ教と分かれてから、イエスの弟子であった使徒の教えを中心に興りました。人々はイエスがユダヤ人のラビの一人だと思いました。というのは、イエスもユダヤ人としてユダヤ人の宗教儀式を行う義務を持っておられたという意味でしょう。だから、イエスは主な活動地域であったガリラヤを去り、ユダヤ教の祭りのためにエルサレムに行かれたわけです。 しかし、だからといってイエスが何も考えずに、習慣的にユダヤ教の宗教儀式を従ったわけではありません。主はユダヤ教を離脱してはおられませんでしたが、ユダヤ教の固着化した、間違った教えは拒否されました。イエスはユダヤ人が誤解している聖書の教えを、本来の意味どおり教えようとしましたが、それによって多くの誤解と葛藤の中に置かれるようになりました。 今日の本文に登場する断食も、それに纏わる話しの一つです。 主はこの断食についての教えを通じて、聖書の読み手に何を教えようとされたのでしょうか。 本文の言葉を通して、話してみたいと思います。 1.宗教の機能は何か? まず、ユダヤ教の断食について論じる前に、宗教というものについて考えてみたいと思います。皆さんのご存知のように、世の中には数多くの宗教があります。そして各宗教にはそれぞれの教義と生き方があります。多くの人は、この宗教を通じて、神を追求したり、祝福を求めたり、心の安らぎを得たりします。 何年か前にインドに行ったことがありますが。 当時、現地で非常に驚いたのはインドにヒンドゥー教の他にも数多くの宗教があったということでした。ヒンドゥー教をはじめ、仏教、ジャイナ教、イスラム教、シーク教、ゾロアスター教、キリスト教、その他に多くの宗教があったのですが、一説によるとユダヤ教まであるそうです。そのあと日本に来てみたら、それに劣らない多くの宗教がありました。 神道は宗教というより文化的な形として存在し、様々なスタイルの仏教、天理教、創価学会、その他の数多くの宗教団体が存在していました。インド、日本だけでなく、他の国々でも同様ではないかと思います。なぜ、世の中にはこんなにも多くの宗教があるのでしょうか。イギリスの小説家アラン・ド・ボトンは自分の著書「無神論者のための宗教」という本で二つの点を挙げて宗教が存在する理由について説明しました。 第一に「共同体意識を培うため」でした。 例えば、かつての神道は国体としての日本を支えるための強力な民族宗教でした。現代の日本人にとって神道がどのような意味を持つのかは、私の知識でははっきり分かりませんが、少なくとも太平洋戦争前までは、神道は日本という国家共同体の意識を高めるための宗教的機能を持っていたそうです。 このような影響は植民地でも見られますが。 韓国ソウルには朝鮮神宮という大きな神社があり、私の実家のある釜山にも大きな神社があったと言われます。 戦争の末期には南太平洋の小島にも鳥居があったと言われ、当時の日本にとって神道というのは共同体意識を培う非常に重要な意味を持っていたようです。第二に「守るべき価値を絶えず追求させるため」でした。 各宗教は独自の経典を持ち、それを繰り返して教えます。これはキリスト教も同じだと思います。 我々は、神の御言葉を繰り返し学び、それを教義化して習得します。 仏教にはお経があり、イスラムにはコーランがあります。このようにアラン・ド・ボトンは宗教の存在意味が一種の制度としての役割を持つところにあると考えました。これが一般論だとは言えませんが、かなり説得力のある主張ではないでしょうか?皆さんは宗教について、どのような理解を持っておられますか。 私たちは習慣的な礼拝、献金、祈り、集まりを通じて信仰的な義務を果たすと考えているのではないでしょうか。 ひょっとしたら、私たちも、このような共同体意識の養いと価値への追求という、宗教の制度的な機能の中にいるのではないでしょうか? 2.宗教行為としてのユダヤ教の断食 だからといって、宗教の制度的な機能が悪いとは言えないでしょう。 確かに、ある程度の制度的な機能がないと宗教は保たれないからです。 でも、それがあまりにも過剰になって副作用が生じると、それは重大な問題になってしまいます。 かつての神道は、国家共同体意識の養いという美名の下、他宗教の信徒にも神社参拝を強要し、特にその悪い影響は、日本や植民地のキリスト教に分裂という深刻な結果を残しています。 現在、韓国の長老派は約250の教派に分かれていますが、その最初の分裂の理由は神社参拝への悔い改めについての論争から生み出されました。 また、宗教的価値の追求ということにも問題があります。 日本の教会の中でも、信仰的な価値を追求する熱心な人たちが、比較的熱心でない人たちを批判し、対立することがあると聞いたことがあります。 私が所属していた韓国の教会では、礼拝に熱心に出席し、大金の献金をし、祈りをたくさんする人々が、そうではない人々を非難し、それから信徒の間に葛藤が生じる場合が多かったです。 このように、各宗教はその宗教が持っている、過度な宗教性のため、本質を見失ってしまう間違いを犯すこともあるのです。 今日の本文に記されている断食という宗教行為が、このような宗教性によって変わってしまった代表的なユダヤ教の儀式でした。 もともと断食とは「私が飢え、その飲食を他人に食べさせる。」という意味を持っていたそうです。 しかし、時間が経つにつれて断食は宗教的な熱心さの道具になってしまいました。 ユダヤの宗教家たちは断食に代表される宗教儀式を通して、自身の宗教的な熱心さと水準を誇りとしました。「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。」(マタイ6:16)イエスが警告なさるほど、当時ユダヤ人たちは断食を誤用していたようです。 またユダヤ人には断食を通じて、自分たちの感情と信仰の欲望をも追い求めている姿があったようです。「国の民すべてに言いなさい。また祭司たちにも言いなさい。五月にも、七月にも、あなたたちは断食し、嘆き悲しんできた。こうして七十年にもなるが、果たして、真にわたしのために断食してきたか。」 (ゼカリヤ7:5) バビロンによって滅ぼされたユダヤ人は、神様がまたユダヤ民族を解放させてくださるまで、約70年の間、神様の御心とは関係なく、ただ自分たちの心の慰め、感情的な欲望を満たすために、断食を誤用してきました。 ちなみに五月の断食とは、イスラエルが滅ぼされた月を記念するもので、七月の断食とは、イスラエル民族のある指導者の死を記念するもので、国や民族の悲しみを記念するものでした。 つまり、神様が、なぜユダヤ民族を滅ぼされたのか、その滅亡が持つ意味は何かに対しては、何の反省もしなかったということです。 彼らの断食は、神と何の係わりもないものでした。 それ故に、主はこのような自己中心的な宗教行為としての断食を咎められたわけです。 3. 断食(宗教行為)に対する神の御心。 古今東西を問わず、キリスト教の最大の問題点の一つは、信徒が自分の慰め、家族の幸せ、仕事の繁栄など、自分だけのために宗教儀式を行うということです。 もちろん、私たちの人生、神様の慰め、家族の幸せ、仕事の繁栄は大切なことです。 私はそれ自体を否定するつもりはありません。 私も皆様個人やご家族、職場などのために毎日祈っております。しかし、はっきり知っておくべきことは、それらは私たちの信仰の一部に過ぎないということです。私たちは、それらよりもっと大きい価値としての神様への信仰を持つべきです。イエスは貧しい隣人のために一緒に喜んで食べられ、悲しい隣人のために一緒に悲しみつつ飲まれました。イエスにとって大事なことは、イエスが目立つための宗教行為としての断食ではなく、神様が愛する貧しい者、悲しい者たちに喜びと慰めになる隣人としての生き方でした。イエスは、誰よりも熱心に祈り、誰よりも熱心にユダヤ人として生きました。 しかし、その祈りと宗教的な熱心さは、神の愛に乾いている隣人との同行として現れました。 イエスは決してご自分のための宗教行為に満足されませんでした。主はその宗教行為の結果として、神様の愛を伝えるメッセンジャーになることをもっと大事に思われたのです。…

復活のある人生。

ヨハネによる福音書11章25-26節(新189頁) 前置き 私たちは日常生活で復活という言葉をよく耳にします。 特に、ニュースや新聞では「○○選手の華麗なる復活」「XX特別法が復活した。」などの表現が、よく使われています。これを推し量ってみると、日常生活で使われている復活という表現は、新しい始まりや活動の再開などを示す時、よく使われていることが分かります。復活という表現の本来の意味は「死んだ人が蘇ること。」という意味なのですが、実際に死んだ人が蘇ることは現実では有り得ないので、こんにちの復活という表現は比喩的な意味ではないかと思います。ところが、依然として「死者が蘇る。」という意味として復活を使っているところがあります。まさにキリスト教です。 聖書はイエス・キリストが死んで3日後に復活し、この世を裁くために再臨なさる時に、イエスを信じるすべての者が、イエスのように復活を経験するだろうと証言しています。 そして、キリスト者たちはそれをイエスの約束だと信じています。 なので、復活はキリスト教の最も重要な教義の一つです。皆さんは復活をどう思っておられますか? 今日はキリスト教が語る復活、そして我々の生活の中での復活とは何かについて考えてみたいと思います。 1.死を治めるイエス·キリスト 新旧約聖書を問わず、私にとって最も印象深い語句の中の一つは「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている。」(ヘブライ9:27)という言葉でした。 人間は誰でも一度は死ななければならない存在であり、誰もが、その後に裁きを受けるに決まっているという、神の厳しい警告だと感じられたからです。 なぜ、人は生きるために生まれたのに、死ななければならないのでしょうか? 先日、志免教会墓地の逝去者名簿を見る機会がありました。 最も幼くして亡くなった方は1歳で、最も長生きなさった方は100歳でした。 一人は、とても幼い年で、また一人は100歳の超高齢まで生存されましたが、結局はお二人共、神の召しに応じなければなりませんでした。 名簿を見ながら、人はいつかは死ななければならない運命なのかと、粛然となりました。 そして、皆が死後、神様に裁かれるんだと思い、畏れを感じました。 このように人間は、死の前で限りなく弱くなる存在です。 いつかは神に召され、死ななければならない存在なのに、なぜ人間はこの世での富や誉や権力のために、他者を苦しめ、互いに争い合い、傷つけて生きるのでしょうか? 人生というものの虚しさに改めて、どのように生きるべきだろうかと反省するようになりました。 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ福音書11:25-26)しかし、聖書は死を終わりだと見なしていません。 死後の復活も共に語っているからです。 今日の新約本文であるこの言葉は、ラザロという人が死んだ後、イエス様が彼を生き返らせる物語です。 死んで四日も経ち、臭いがするラザロは、完全に死んでいる状態でした。 しかし、イエスはそのラザロに「ラザロ、出て来なさい」と大声で呼ばれ、彼は蘇らせられました。 イエスはこの出来事を通して、人間の生と死が、神様に遣わされたイエスの権限のもとにあることを教えてくださいました。 人は誰もが、一度は死ななければならない存在です。 人間は、その摂理に逆らうことが出来ません。 しかし、聖書は語ります。 「復活であり、生命であるイエスのもとにいる者は、死んでも生きる。」イエス·キリストは死を打ち砕かれた存在です。 むしろ死は、イエスを信じる者にとっては人生の一部になるだけです。 なぜならば、イエスを信じる我々は終わりの日に、主によって復活させられるからです。 キリスト者にとって死とは、復活を待ち望む人生の一部なのです。 疲れた者が眠り、元気に起き上がるように、イエスのもとでの死は、栄光の復活を経験するための長い眠りに過ぎないものです。 2.復活のためのイエスの苦難 ここで、一つ考えてみるべきことがあります。 なぜ人間は死ぬことが定まっている存在になったのでしょうか。 聖書は、初めに神様が人を造られた時、人に神様と共に生きることが出来る永遠の生命を与えられたと語っています。 人は神の子として創造され、神はその人間を最も大切な子とされたわけです。 しかし、その人間は、自ら傲慢になり、いと高き神の御座を奪おうとする欲望によって、神を裏切り、背く存在となってしまいました。 聖書は、そのような人間の邪悪な振舞いから罪が生まれ、その罪によって神と人間が敵となったと話しています。 ところで、この罪が持つ致命的な問題は、その罪がもたらす呪いとして人間に死が訪れたということでした。 「罪が支払う報酬は死です。」(ローマ書6:23)聖書は、この罪のため、すべての人が死の支配のもとで、死ぬしかない存在となったと証言しています。 つまり、人間が死ななければならない理由は、私たち人間に神様を敵とする罪が残っているからです。 罪とは、殺人、暴力、盗難等の強悪犯罪のみを意味するものではありません。 人間を創造した神を拒否し、神に逆らうすべての行為が罪なのです。 そういう意味で、神様に従わない存在が、殆どを占めるこの世は、罪の固まりと言っても過言ではないでしょう。 それにも関わらず、神様はこのような罪に満ちた、この世でも罪人を諦めずに神様と和解できる手立てを備えてくださいました。 その手立てとして遣わされた方が、まさにイエス·キリストです。 旧約聖書では、人が罪を贖われる手段として獣を屠り、その血で神に赦される方法を提示していますが、この方法の盲点は、自分の罪に気付くたびに、それを繰り返さなければならない、不完全性にありました。 つまり、一度だけの生け贄では完全な贖いが保たれないということでした。それ故に神は、たった一度の生け贄で過去、現在、未来のすべての罪を一気に贖える強力な生け贄を自ら備えてくださいましたが、それがまさにイエス・キリストの十字架での犠牲だったのです。キリストとは神の独り子が人間になって来られた救い主で、罪のない方でした。その方は罪人たちのために、代わって御自分の命を犠牲にして、その罪を贖ってくださいました。 イエス・キリストが苦しみを受けた理由は、神と人間を和解させる、この完璧な生け贄を捧げるためだったのです。 罪に汚された人間を愛した神様が、罪のないイエスに、そのすべての罪を擦り付け、罪人の代わりにイエスを犠牲にしたわけです。 また、神はご自分の死を通して、人間の罪の償いを完全に支払ったイエスを復活させることで、イエスを信じる者たちも、同じくイエスのように罪から自由な者として復活することを約束してくださいました。…

主の約束を待ちなさい。

創世記16章1~16節(旧20頁)ヘブライ人への手紙10章36節(新414頁) 前置き 先々週の創世記の説教では、人間の信仰と神の約束についてお話しました。私たちは、その説教を通して、人間の真の信仰とは「神から与えられた約束」という前提から、初めて始まると学びました。私たちは、キリスト者として生きていきつつ、信仰の重要性について、絶えず、聞き学びます。信仰がなければ神を喜ばせることが出来ず、信仰がなければ、キリスト者ではないと学んできました。しかし、私たちは、この信仰という言葉だけに集中したあまり、もっと大切なことを忘れてしまう時もあります。まさに、この信仰の主体が誰なのかということです。聖書は新旧約を問わず、人間の行いではなく、信仰によって救われると語っています。しかし、それは単に「信じる」という人間が中心となった、また別の行為を意味するものではありません。真の信仰とは、「私の心の欲望が叶うだろう。」ということを信じるのではなく、「神様が私たちに与えられた約束通りになるだろう。」ということを信じることです。 「私の願いを信じるのではなく、神の御言葉の約束を信じること」これが、先々週の創世記説教で分かち合った内容でした。今日は、その神の約束を信じるということについて創世記16章を通して、再び話してみたいと思います。 1.繰り返されるアブラハムの失敗。 創世記で、アブラハムの生涯を取り扱う箇所は、創世記11章29節から25章7節まで、非常に長い紙面を割いています。このようなアブラハムの長い物語を説教しつつ、一つ、悩みが生じてきました。それは、アブラハムの信仰にある頻繁な浮き沈みのことでした。アブラハムは信仰の失敗と回復を創世記の読み手に繰り返し見せてきました。おそらく読み手は、彼の生涯を眺めながら、繰り返される失敗と回復に疲れを感じるかもしれません。そして、それらを説教する人も、アブラハムの不安定な信仰の故に、ある時はアブラハムの信仰の回復を、またある時はアブラハムの信仰の失敗を説教して、特に違いの無い説教を、一週間おきに繰り返すことになるでしょう。これは説教者の立場では、本当に困ることだと思います。ところが、この失敗と回復が繰り返されるアブラハムの生涯は、全く無意味なばかりなのでしょうか。私は、このようなアブラハムの信仰の浮き沈みが、ただアブラハムだけの問題ではないと思いました。現在を生きていく私たちの生活は、果たして、いかがでしょうか?私たちは、アブラハムに勝る存在でしょうか?我々はアブラハムの浮き沈みを介して、自分の信仰の現状を鑑みなければなりません。私たちは、時には信仰が強くなったり、また時には信仰の弱さを経験したりします。つまり、私たち自身にも信仰の浮き沈みがあるということでしょう。ひょっとしたら、聖書は浮き沈みが繰り返されるアブラハムの生涯を通して、むしろ、それを眺めている私たちに、自分の信仰を顧みることを訴えているのかもしれません。 今日の物語(16章)は、アブラハムが神に出会ってから、10年後の出来事です。つまり、創世記15章の主とアブラハムとの契約から、かなり時間が経っている状況だったのです。しかし、神の約束とは違って、アブラハムには、未だに子供がいませんでした。 「あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」(創世記15:4)10年前、神は、アブラハムに何よりも感激的な相続人の約束をくださいました。しかし、その約束は10年が経った今でも、全く成就されておらず、アブラハムを焦(じ)らしているだけでした。アブラハムが住んでいた古代中東の社会で、相続人がいないというのは「彼は神々に呪われた。あるいは、彼には権威がない。」などと、人々に嘲笑を受けるべき、大きな欠陥だったからです。現代では子供がいなくても、そんなに大きな問題とされないと思いますが、当時に相続人がいないというのは、社会的な欠格事由となるほどの深刻な事柄だったのです。そして、それは、アブラハムの妻サラにも、同じく心配事になりました。息子がいないサラは、アブラハムよりも、さらに大きな嘲笑を受ける立場だったからです。つまり、相続人が生まれてはじめて、アブラハムとサラは、自分たちの社会的な地位と権威を認められるのでした。なので、彼らは自分なりのやり方で相続人を設けるために工夫し、計画を立てました。それは二人目の妻(原文ではサラと同等、側女ではない。)を迎えることでした。しかし、これは、むしろ家庭内の争いと、神のご計画に反する騒動をもたらす種になってしまいました。これにより、アブラハムは再び信仰の失敗を経験してしまいます。 2.アブラハムの失敗がもたらした種子。 「アブラムの妻サライには、子供が生まれなかった。彼女には、ハガルというエジプト人の女奴隷がいた。 サライはアブラムに言った。主は私に子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷の所に入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。アブラムは、サライの願いを聞き入れた。」(16:1-2)当時、アブラハムとサラの出身地であるウル地域では、妻が不妊だったら、二人目の妻を迎えて、相続人を出産する場合が珍しくなかったと言われます。そして、二人目の妻は代理母ではなく、一夫多妻制による正式な妻でした。なので、新共同訳の側女という表現は、原文のイメージと多少ずれる点があります。(日本と文化が違う)1番目の妻は2番目の妻より、大きい権威を持っており、2番目の妻が子供を産めば、共同の子供として育てました。なので、サラは自分の文化の仕来りに従って、二人目の妻をアブラハムに提案し、アブラハムはそれを受け入れたわけです。しかし、ここには一つの問題点がありました。 「主は私に子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷の所に入ってください。」サラは、神が自分を通して、子供をくださらないだろうという、全く根拠のない自分の独断的な判断に従って、神のご意志を勝手に解釈してしまったことでした。実際に、神はアブラハムの体を通して子供を授けると約束してくださいましたが、その子がサラの子なのか、他人の子なのかについては、明らかにしておられませんでした。しかし、神は「サラではなく、他人を通して生ませる。」とも教えておられませんでした。まだ何も決まっておらず、神の約束は依然として有効だったのです。なのに、アブラハムとサラは、自分なりの熱心さで、身勝手に振舞ってしまったわけです。彼らの思いでは、その熱心が正当だったのかも知れませんが、神への信仰においては、神のご意志を限定しようとした、もう一つの信仰の失敗となってしまったということでした。 「神はアブラハムを通して相続人を授けると仰ったが、その子が、必ずしも、サラを通して生まれるだろうとは言われなかった。とにかくアブラハムの子供が生まれれば良いじゃないか?」という考えが、彼らにあったわけでしょう。結局、アブラハムはサラの女奴隷ハガルを妻に迎え、しばらくして、身ごもりました。サラは自分の女奴隷が身ごもったので、ウル式にその子を通して、子無しの汚名返上を図っていたかも知れません。しかし、その結果は別の方向に進みました。 「アブラムはハガルのところに入り、彼女は身ごもった。ところが、自分が身ごもったのを知ると、彼女は女主人を軽んじた。」(4)予想とは違って、ハガルはサラを軽んじたからです。ここで私たちが知っておくべきことは、ハガルはウルではなく、エジプト出身者だったということです。学者たちは、このエジプト人ハガルが、アブラハムが飢饉を避けるために行ったエジプトから出てくる時、連れてきた奴隷であると見なしています。なので、結婚への文化的な概念自体が異なっていたということです。おそらくサラはハガルの子であるが、その子を通して自分の権威が保たれるだろうとの、ウル的な思いを持っていたはずでしょう。しかし、エジプト人ハガルの思いは、それとは、また違う点があったようです。結局、アブラハムとサラは、神の約束の実現のためという口実で独断的な判断を下したあげく、また、新しい問題を作ってしまいました。神はサラの子イサクを通して、アブラハムの子孫を受け継がせる計画を持っておられましたが、彼らの独断的な判断は、神の御業を妨げ、家庭の争いと共に、イシュマエルという計画されていない息子まで生ませてしまったのです。 3.信仰において待ち望みが大事な理由。 このような状況で、サラは自分がハガルをアブラハムに与えたにもかかわらず、奴隷ハガルを虐め、夫アブラハムを責めました。「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、わたしを軽んじるようになりました。主がわたしとあなたとの間を裁かれますように。」(5)すると、アブラハムは無責任に、ハガルを放り投げてしまいます。「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい。」(6)最終的に、ハガルは、アブラハムの無関心とサラの虐めで、苦しさのあまり逃げてしまいました。しかし、神は彼女を見捨てられず、御使いを送ってくださり、荒れ野の泉のほとりまで逃げた彼女に出会って、ハガルと彼女の息子のための約束をくださいました。 「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」(9-10)、結局、ハガルは、神の御言葉に服従し、アブラハムとサラのもとに戻っていき、彼らに従順に仕え、一緒に暮らしました。そして、息子のイシュマエルを産んだのです。神はアブラハムとサラに与えられた約束のように、ハガルにも、その子孫を祝福し、栄えさせるとの約束をくださって、この出来事を一段落させられました。 今日の出来事は、神の約束への待ち望み、つまり忍耐の不在から起こりました。その始まりは、創世記12章のアブラハムが飢饉を避けてエジプトに行ったことから始まります。神がアブラハムに「祝福の源にする。」という、同道の約束をくださったにも関わらず、アブラハムは自分の判断でエジプトに下り、その時、連れてきたハガルによって、今日の出来事が起こったわけです。(全てがハガルのせいではないが、要らない出来事が生じてしまった。)15章で、神は必ずアブラハムを通して相続人をくださると仰いましたが、その約束には、基本的に妻サラを通して生まれる子供への約束だったはずでしょう。(文脈上)しかし、アブラハムとサラは、自分たちの判断により、その約束を歪曲し、最終的には、ハガルとの結婚により、家庭の争いと約束されていない子供が生まれるという悲劇につながりました。ヘブライ人への手紙には、このような言葉があります。 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブル11:1)神の約束を信じるということは、人の目に、その見通しが立たなくても、その約束をくださった神の御心を根拠にし、成就されるだろうと信じることです。自分の考えとは違っても、すぐに道が開けてこなくても、その約束を与えられた方の完全さに頼って、その約束を信じ込むことです。約束の達成という甘い結果ではなく、その結果を成し遂げられる神の御業という過程を信じることです。そういうわけで、神を信じると自負する者に、必ず求められるのは待ち望みと忍耐なのです。神の御考えと人間の予想は、全く違うからです。忍耐のない信仰は、人間の欲望に過ぎず、その欲望の終わりは、今日の物語のように破綻になるだけです。 締め括り 「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。」(ヘブライ10:36)私たちは、信仰生活をしつつ、どんなに祈っても叶わない経験をしたりします。子供のために切に祈ったのに子供が不良学生になったとか、ビジネスの上で切に祈ったのに不渡りになったとか、人間関係のために切に祈ったのに、むしろ人間関係がさらに悪くなったとかなどの場合もあります。それらの場合、応えてくださらない神に失望し、信仰が揺らいでしまう時もあるでしょう。そして祈りを止めてしまうこともあります。まだ、神の時ではないのに、自分の忍耐不足のため、諦めてしまうのです。もちろん、最後まで叶わない願いもありますが、その願いへの答えは、神様に属する事柄なのです。我々は自分自身ではなく、祈りを聞かれる神の立場から考えてみる必要があります。自分の祈りが叶うのが、自分の欲求を満たすことなのか、神の御心を待ち望むことなのか、振り返る必要があるでしょう。聞いてくださる方は神様です。聞いてくださるという意味は叶えてくださる方も神様であるという意味でしょう。神が望まれる時、神が望まれること、神が望まれる計画などを、聖書の言葉を通して黙想しつつ、それに応じて待ち望み、忍耐する必要があります。そして、「そうではなくとも」というダニエル書の御言葉のように決定の主導権を神様にささげる信仰を持って神様のお働きを待ち望むべきです。信仰は忍耐との戦いです。そして、その忍耐を持って神の御心を待ち望むのが、真の信仰なのです。忍耐ある信仰者になっていきましょう。そして、私が願う時ではなく、神が成し遂げてくださる時を待ち望みつつ、主を信頼していきましょう。

イエスの価値観。

箴言5章21節 (旧997頁) マルコによる福音書2章13〜17節 (新64頁) イエスが人となって、この地に来られた時、イスラエルは霊的な無秩序の故に苦しんでいる状況でした。もちろんローマ帝国による行政的な統治と、ユダヤ教による宗教的な儀式があったので、目に見える社会的な秩序は、ある程度、その形をなしていたと思います。しかし、目に見えない霊的な状況は、そうではありませんでした。強い者によって弱い者たちが踏みにじられ、苦しめられる時代、正義が不義に覆われ、不条理が蔓延っている、霊的な無秩序の時代、つまり、神の摂理を恐れず、人間が身勝手に神の秩序を崩す暗闇の時代だったのです。そんな無秩序の時代に、この地に来られたイエスは、神でいらっしゃるご自分が直接民に仕え、民を愛されることによって、崩れた霊的な秩序を正して行かれました。前回のマルコ福音書の説教では、そのイエスの御業が「癒し、宣教、教え」だったと申し上げました。イエスは、そのお働きを通して、霊的に無秩序となったイスラエルに秩序を与えてくださいました。主は秩序の神様です。「神と隣人を愛しなさい。」という、律法に記された神の御言葉が、その秩序の根幹となるのです。イエスは十字架につけられ、死ぬまでに、この神の秩序を回復させるために奮闘されました。そして、その主の御業は、今日も主の教会である私たちを通して、変わることなく求められています。今日の説教では、主のそのみ心、すなわちイエスの価値観について話してみたいと思います。 1.皆に嫌われる徴税人、マタイ。 貧しいガリラヤの民を癒し、宣教し、御言葉を教えてくださったイエスは、また、癒しと教えが必要な民を訪れるために、旅路に就かれました。その中でガリラヤ湖のほとりに着かれたイエスは、そこでも民のために教えてくださいました。ところで、説教を終えたイエスの目に一人の男が入ってきました。 「そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、わたしに従いなさいと言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 」(14)イエスに呼び出された人は、民から税金を収める徴税人でしたが、その名前はレビでした。普通、聖書で徴税人といえば、マタイやザアカイを思い浮かべがちですが、このレビという人は、果たして誰でしょうか?その答えはマタイによる福音書で見つけることが出来ます。 「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、わたしに従いなさいと言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」(マタイ9:9)これにより、我々は、収税所に座っていたレビという人が、イエスの弟子であり、マタイによる福音書の著者である使徒マタイであることが分かります。主の最初の弟子であるペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネに加え、徴税人マタイをご自分の弟子になさるために呼ばれたわけでした。ところで、このレビ、つまりマタイは、なぜ浜辺の収税所にいたのでしょうか? まさに、イスラエルの漁師たちから税金を徴収するためでした。当時のイスラエルの徴税人は恨みと憎しみを一身に受ける歓迎されない存在でした。ローマ帝国は頻繁な戦争に対応するために多くの予算が必要な状況でした。そのため、各々の植民地の総督たちは、植民地の金持ちから前払いで高い税を取り上げました。そして、その代わりに彼らに税金を徴収する権限を与えたのです。それは、イスラエルでも同様に適用されました。先に申し上げましたように、当時のイスラエルは、神による秩序と正義が崩れた状況だったので、ローマ帝国に強制的に税金を納めさせられた金持ちは、ローマから与えられた徴税権を悪用して、貧しい同胞からあくどく税金を取り立てました。ローマが持っていった税金よりも、さらに高い税金を貧しい人々から奪ったわけです。旧約聖書が、あんなにも強調していた隣人愛が完全に崩れていたわけです。ところで、本文に出てくるイスラエルの徴税人は、まさにそのような金持ちのもとで働いていた者です。彼らは割当量を埋めるために、同胞から強制的に税金を取り立て、被害を受けたイスラエル人は、彼らをローマ帝国に同胞を売った売国奴のように考えました。なので、当時のイスラエル人は、このような徴税人を遊女や泥棒のように、「地の人」つまり、神の民ではない存在だと見做しました。そういうわけで徴税人は、人々に見捨てられた存在だったのです。 2.徴税人マタイを訪れて来られたイエス。 ところで、マタイは徴税人という自分の仕事に懐疑心を持っていたようです。主がマタイにお声を掛けられた時、すぐに起きて、主に従っていったからです。当時の徴税人は税金をきっちり徴税しようとすれば、民族に疎外され、税金をいい加減に取り立てようとすれば、権力者に責任を問われる立場でした。徴税人は、同胞からお金を横取りして豊かに暮らせる立場でしたが、彼らは果たして、本当に幸せだったのでしょうか?日本帝国時代に、こんな出来事がありました。 1890年に発布された教育勅語が東京の第一高等中学校で朗読された時、すべての人は、それに対し、腰を折って最敬礼をしました。しかし、教師の内村鑑三は、最敬礼をしませんでした。彼はキリスト者だったので、神格化された天皇を拝まなかったのです。しかし、当時の官憲は、その出来事によって彼と共に教会全体を非国民だと攻撃しました。(不敬事件)そのためか、その後、教会は自ら慎み、結局は帝国主義に屈してしまいました。国と民族からの疎外を恐れたからです。また、太平洋戦争の時、当時の朝鮮の教会は、帝国主義に屈し、進んで日本キリスト教団所属の朝鮮長老教団、そして朝鮮メソジスト教団を結成し、礼拝の前に宮城遥拝を行い、戦闘機制作のために教会の釣鐘まで取り外し、納めたのです。帝国の権力を恐れたからです。つまり、日本の教会も、韓国の教会も疎外と権力の前に跪き、屈した恥の歴史を共に持っているということです。この話と今日の本文の間に大きい関係があるかどうか分かりませんが、少なくとも、昔の日韓の教会も、徴税人マタイも、疎外と権力の間で彷徨っていたのではないでしょうか。マタイは、民族からの疎外と権力の脅威の前で、お金しか信じるものの無い孤独な者でした。 さて、そんな彼を遠慮なく呼び出す人が現れました。その人は、主イエスでした。 「見かけて、わたしに従いなさいと言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」疎外と権力の間を彷徨っていたレビ・マタイは、すべてを捨てて、主と一緒に歩み始めました。 14節で「従った。」という意味のギリシャ語、「アコルルデオ」は、単に「後についていく。」という物理的な意味だけを示す言葉ではありません。「一緒にいる。」という意味の「ア」と「道、方向」を意味する「ケルリュドス」が合成された言葉です。つまり、この言葉は「イエス・キリストの道あるいは方向に同道する。」という、より深い意味を持つ言葉です。イエスは、民族と国家からの疎外、そして権力の要求の間で彷徨っている徴税人レビ・マタイを呼び出し、ご自分の道にお招きくださったのです。当代の最も嫌われる存在、当時の宗教指導教員をはじめ、すべてのイスラエル人に「地の民」、つまり神に見捨てられた存在、罪人であると呪われていたマタイに天から臨まれた真の神イエスが、進んで来てくださったのです。そして皆に嫌われる彼を拒むことなく、ご自分の民として受け入れてくださいました。 「イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。」(15) 3.キリスト者に求められるイエスの価値観。 イエスに従ったマタイは、イエスと弟子たち、徴税人や他の罪人と呼ばれる人々を招き、食事を持て成しました。主は決して、善良な人、貧しい人たちとだけお交わりなさる方ではありません。罪人と後ろ指を指される者、すなわち裏切り者、不正な金持ち、売春する者、泥棒など、どんなに悪い人でも、彼らが神に心から悔い改め、隣人に謝り、主の御心に従うならば、主は喜んでお受け入れくださいます。そして、彼らと同席なさり、共にいてくださいます。イエス様が同席して一緒に食事をしてくださるというのは、その相手をもはや他人ではなく、家族や友人のように思ってくださるという意味です。これは、イエスを通して、私たちに示された御父の暖かい御旨ではないでしょうか?ところで、このように罪人たちを招いて赦してくださるイエスを責める者たちがいました。「ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのかと言った。」(16)彼らはイスラエルの宗教指導者であったファリサイ派の律法学者でした。当時のイスラエルの宗教指導者、つまり財力も、名誉も、ある程度の権力もある者が、罪人たちと一緒におられる神を嘲弄したわけです。彼らは自ら自分自身を清いと信じていました。自分たちは「天の民」であり、神を知っていると高ぶっている者だったのです。しかし、彼らはいざイエスを目の前にすると、罪人と共におられる真の神様を見それてしまいました。 「イエスはこれを聞いて言われた。医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(17)イエスは彼らに向かって、イエスが来られた理由を明確に教えてくださいました。 「私は罪人を招くために来たのだ。」イエスが持っておられた価値観は、罪人への裁きと呪いではありません。主はかえって罪人を裁きから救い、呪いから自由にするために来られたのです。罪人への救いと自由、これが本当のイエスの価値観です。前回の説教で、イエスが働かれた「癒し、宣教、教え」は、最終的に、この罪人を招くための手立てだったのです。主は罪人が主に帰ってくるのを切に望んでおられます。どんな罪人であっても、真の悔い改めと信仰があれば、主は誰でもお赦しくださり、お迎えくださる方です。むしろ、今日、登場した律法学者のように、神を信じていると言いながら、自分の無意味な信仰的なこだわりに閉じこもって、他人を憎み、処断してしまう優越感に満ちた者こそが、イエスの裁きと呪いを受けるでしょう。我々は、すでに神を信じるようになった存在です。そんな私たちが、追い求めるべき価値観はどっちでしょうか?赦しと愛のイエスの価値観、高慢と処断の律法学者の価値観。神は今日も私たちの目の前に、この二つの価値観を示され、選択を求めておられます。私たちが進むべき方向、つまり価値観はどちらでしょうか? 締め括り 「人の歩む道は主の御目の前にある。その道を主はすべて計っておられる。」(箴言5:21)神は、世のすべての人々の人生を見下ろしておられる方です。私たちが、この世を生きていく際は、感じにくいかもしれませんが、終わりの日に私たちが主の御前に立つ時、神は私たちが生きてきた道に対して、ことごとくお問い掛けになるでしょう。私たちの道と方向はイエスと同じであるべきです。そして、イエスがおられるその道が、私たちの価値観になるべきです。人間は集まって社会を作り、その社会の中に法則を作り、その法則を通して世界を判断しようとします。そのため、社会に属している人間は口で、眼差しで、心で、人を社会的に殺すこともあります。聖書はそれを「罪」であると明らかに規定します。今日、登場した律法学者たちが、まさにそのような者でした。イエスが収税所のレビ・マタイを呼び出されず、律法学者たちのように彼を憎まれたら、彼は偉大な使徒となることが出来なかったでしょう。しかし、赦しと自由、そして、同行してくださった主イエスのおかげで、マタイは福音書を書き残すと同時に、偉大な使徒として生きていきました。私たちも主の価値観をよく学び、その中に生きていきましょう。主のように低いところに向かい、赦しと愛とを持って生きましょう。私たちが神の御前に立つ、その日、主はイエスの価値観に従って、生きてきた私たちを喜び、愛してくださるでしょう。

人の信仰と神の契約。

創世記15章1〜21節 (旧19頁)ヘブライ人への手紙11章8〜10節 (新415頁) 前置き キリスト者が持つべき、最も大切な価値の一つは、まさに信仰だと思います。信仰の父と呼ばれるアブラハムは、信仰によって神に義と認められ、信仰の主であるキリストは人の信仰を見て、救ってくださいます。信仰がなければ、神を喜ばせることが出来ず、信仰がなければ、信徒と呼ばれません。私たちは信仰によって神を信じ、信仰によって祈り、信仰によってこの世を生きていく存在です。それだけに、信仰というのはキリスト教の根幹となる、最も重要なものです。しかし、人間は罪のある弱い存在であるため、その人間の信仰は、いつも不完全であります。聖書に登場する、多くの人物たちは、信仰を持っていたにも関わらず、その信仰を貫くことに失敗しました。そのため、神は、神ご自身が、その信仰の保証になってくださり、信徒の信仰を守り、保たせてくださる方なのです。今日の本文では、その人間の信仰と信仰を守ってくださる神の契約についての話が語られています。私たちの信仰がいくら弱いといっても、神様はその小さな信仰を大切にし、守ってくださる方です。神は、どのように私たちの信仰を守ってくださるのでしょうか、そのことについて話してみたいと思います。 1.人の信仰が持つ限界。 神に選ばれたアブラハムは、主のご命令に応じて、生まれ故郷、父の家を離れて、新しい地に行くことになりました。今まで思いもよらなかった神の登場と、思いがけない命令であった「私が示す地に行け」という主の言葉は、アブラハムの信仰をテストする最初の難関でした。創世記では、アブラハムが神の命令を承って、躊躇ったり、拒んだりした話が出て来ないので、私たちは彼が当たり前に堅い信仰を持って、神のご命令に従ったと考えがちだと思います。しかし、私たちと同じ人間であった彼は本当に何の躊躇いも、心配もせず、主のご命令通りに旅立ったのでしょうか?今日の新約本文を通して、当時の彼の気持ちを推し量って見ることができると思います。「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」(ヘブライ11:8)人間が感じる最大の恐怖の一つは、将来が一寸先も見えず不透明であることだと思います。ヘブライ書ではアブラハムが信仰によって服従したと記されていますが、他人の評価であるヘブライ書の記録ではなく、アブラハム自身の気持ちはどうだったのでしょうか?神に召された当時、自分の生活基盤を捨て、未知の将来に向かって進ませられたアブラハムは、どのような気持ちを持っていたでしょうか?「行き先も知らずに出発した。」この短い言葉の中に、アブラハムが持っていた未来への不安が隠れていると思います。私たちは、誰もが計画を立てて生きていきます。今年の夏休みはどこに行けばいいだろうか?どんな仕事を持つべきだろうか?誰と結婚するべきだろうか?子供の名前はどうするべきだろうか?如何なる人生を営むべきだろうか?このように、小さい計画から、膨大な計画まで、私たちの人生は絶え間ない計画の連続です。 しかし、神はアブラハムに詳細な計画を教えてくださらず、ただ、行きなさいと言われただけでした。そのように将来が分からない状況で、アブラハムが不安を抱くのは当然の結果だったでしょう。飢饉を避けるためにエジプトに下ったこと、生き残るために妻を妹だと欺いたこと、財産のために甥と葛藤が起こったことなど、このようなすべての不信仰は、未知の将来への不安から生み出された出来事であるかもしれません。前回の説教でも、お話しましたが、そのような不信仰のために失敗を経験したアブラハムは、以後、再び神への信仰を持って、神を崇めようとしました。神は、そんなアブラハムに大きな戦いで勝利させてくださり、神の聖なる祭司であったメルキゼデクを送ってくださることによって、神がアブラハムと共におられることを証明してくださいました。しかし、アブラハムは、そのような経験があるにもかかわらず、再び信仰の揺らぎを示してしまいました。ロトと別れた後、神への礼拝の生活を通して信仰を守ってきたアブラハムが、再び現実の前で崩れてしまったわけです。 「主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。アブラムは尋ねた。わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。…あなたは私に子孫を与えてくださいませんでした。家の僕が跡を継ぐことになっています。」(創世記15:1-3) 神が直接、アブラハムに現れ、「恐れるな。私がお前の盾であり、お前に報いる存在である。」と話してくださったのに、彼は神への信仰より、相続人がいない現実に飲み込まれ、絶望してしまいました。アブラハムの時代に相続人がいないというのは、将来の不在を意味する深刻なことだったからです。このように不安に震えるアブラハムでも確かに信仰を持っている人でした。しかし、アブラハムの信仰をもってしても、相続人不在の不安を解決することは出来ませんでした。信仰があっても、神を完全に信じられないのは、ひょっとしたら罪人が持つ限界であり、宿命であるかもしれません。だから、人間の信仰はいつも不安定なものなのです。私たちは、自分も知らないうちに、信仰という私たちの行為に重要性を置いたりします。 「私に信仰があるから、キリストに救われた。」あるいは「私に信仰があるから、神が私を導いてくださる。」等。自分が持っている、その信仰に価値を置いたりします。しかし、人間の信仰は、いつも自分の状況に反応して揺れてしまう、弱いものです。私たちがいくら力強く信仰を貫こうとしても、世の中はいつも私たちの信仰を放ってはおかないでしょう。したがって、我々は、自分の信仰に限界があることを認めるべきです。神が守ってくださらなければ、私たちの信仰はいつでも揺れたり、変わったりするはずだからです。私たちの信仰は、あくまでも神のお守りのもとにある際に完全になるものです。 2.信徒の信仰を堅く守ってくださる神の契約。 神に出会って以来、今日の本文の出来事まで、アブラハムはどんな信仰を持って、どのように生きてきたでしょうか? 「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」(創世記12:2)私は12章の言葉と今日の言葉を比較して、このように考えてみました。創世記12章の御言葉に従って旅立ったアブラハムは、自分を大いなる国民にし、名高くしてくださるという神の言葉を、神中心ではなく、自己中心的に解釈したのではないでしょうか。すぐに子供が生まれ、民族が打ち立てられ、自分と子孫が有名になるだろうと漠然と、自分勝手に思っていたのかもしれません。しかし、そのような自己中心的な信仰は崩れやすいものです。神のご意志に主導権を置くのではなく、自分の考えに主導権を置くので、計画がうまく行かず、事がすらすら進まない時、すぐに信仰が弱くなって、神を信頼せず、自分の判断に頼るようになるからです。今日の本文で、神は再びアブラハムの将来について約束し、契約を結んでくださいました。しかも今回は確かに相続人の話を取り上げて約束してくださいました。「あなたから生まれる者が跡を継ぐ。…天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる。」(創世記15:4-5) 今までのアブラハムは、自分の判断に主導権を置いて、生きてきたのかもしれません。しかし、今日の出来事以降のアブラハムは、自分ではなく、神のご判断に主導権を置くようになりました。漠然と考えてきた相続人への自分の考え、つまり、ロトを相続人にしようとした判断、僕エリエゼルを相続人にしようとした判断を捨て、アブラハムから生まれる子が相続人になるだろうという、神の御言葉に主導権を置いて、それを信じ込みました。その時やっと、アブラハムの信仰は初めて神に認められ、その信仰によってアブラハムは義とされたのです。揺れやすい自分の信仰と判断ではなく、揺るがない神の御心と判断を信じた時、アブラハムの信仰は、真の信仰と認められたわけです。真の信仰とは、まさにこのようなものです。いくら強い信仰を持って、熱心に信仰生活をしても、その信仰と判断の主体が自分自身であれば、私たちの信仰はいつも揺れ、失敗してしまう、無意味な信仰になります。しかし、何一つ上手くいかない状況下でも、自分のその現実に束縛されず、神の言葉に主導権を置いて、神の御心を信じ、付き従って行けば、私たちの信仰は、神によって認められ、守られるでしょう。 私たちが、神に主導権を置くべき理由は、主がアブラハムと子孫の信仰を守るために、偉大な契約を結んでくださったからです。 「主は言われた。三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とをわたしのもとに持って来なさい。アブラムはそれらのものを、みな持って来て、真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせて置いた。」(15:9-10)アブラハムが住んでいた古代中東では、大切な契約を結ぶ時、家畜や獣を真っ二つに切り裂いて置き、契約当事者、皆が一緒に、その死体の真ん中を歩いて行ったと言われます。残酷に見えるほどの、この行為には、「契約を破る者は半分に切り裂かれた獣のように惨めに死ぬだろう。」という意味が込められていたそうです。それだけに当時の契約というのは厳重なものでした。 「日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。」(15:17)神はアブラハムに相続人をくださることと、導いてくださることなど、将来のための約束をされた後、ご自分が直接、切り裂かれた動物の間を通り過ぎてくださいました。しかし、アブラハムは、そこを通りませんでした。ただ、神様だけが、そこを通り過ぎられたのです。これは揺れやすい信仰を持つアブラハムではなく、移り変わりのない神お独りだけが通って行かれることを通して、人の信仰の大小とは関係なく、神ご自身がその契約を永遠に守ってくださることを保証なさったわけです。その契約により、神は揺れる人間の信仰ではなく、その信仰を堅く守られる神ご自身を保証とされたわけです。そして、変わらない神との契約により、主の民の弱い信仰は永遠に守られて認められたのです。 締め括り 「その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで。 」(創世記15:18)アブラハムと契約を結ばれた神は、その子孫のために土地を与えると約束してくださり、神の契約が将来にも変わらないと確約してくださいました。このことは、今日の新約の本文を通しても、再び確認することができます。「信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。 」(11:9)神様が約束された契約は、その後、アブラハムの信仰の原動力となりました。アブラハムはその契約を信じ、子孫に伝えました。それにより、出エジプト後、イスラエルが生まれる根拠となり、以降、神の契約は、モーゼ、ダビデを通じ、イエスキリストを通して、今の私たちにまで至りました。そして、神は独り子イエス・キリストの犠牲によって、アブラハムと結んだ契約を守っておられます。神の永遠に変わらない、その契約は、キリストを通して永遠に守られるでしょう。私たちは、神との契約の中にある神の民です。神の契約は、民のために一方的に犠牲を払ってくださった愛の約束です。その約束は永遠に変わらないものであり、永遠に変わらない約束の故に、私たちの信仰は、いつも強く保たせられるでしょう。そして最後の日、私たちはその神の契約により、アブラハムの霊的な子孫として神の国の民として、神に受け入れられるでしょう。これらの神の契約を覚えて感謝しましょう。その契約によって、信仰を守られつつ、誠実な民として永遠に生きていきしょう。

新しい天と新しい地

福岡 東アジア平和センター長 黄南徳(ファン・ナムドク) 牧師 イザヤ書65章17〜25節 (旧1169頁)エフェソの人への手紙2章14〜16節 (新354頁) 今日、読んだイザヤ書65章は、イスラエルがバビロンから解放されて故国に戻った以降の状況を示しています。 バビロンを占領したペルシャの王、キュロスの勅令で、イスラエルの民は待ちわびていた解放を迎えました。故国に帰ってきた彼らは、神殿も建築し、すべてが本来の場所に戻ったような気がしました。 しかし、イスラエルの民は国を建て直すために努力しましたが、すべてが思ったとおりにうまくいったのではありませんでした。 例えば、対外的には当時の国際情勢が良くありませんでした。 ペルシャとギリシャの間で戦争が起き、イスラエルはまたペルシャに税金を納めなければならなかったため、経済的な困難がありました。イスラエル内部でも、サマリアとユダヤが対立していました。 一言でいうと、紀元前5世紀、イスラエルは国内外の困難に直面し、民衆は疲弊してしまっていました。 神殿建築も厳しいものでした。 その昔、ソロモン王国の時に建てた神殿を思えば、今彼らが建てようとしている神殿は小さく質素なものです。 だから、バビロンから解放されたからといって、すべてが順調によくなっていったわけではありません。 こんな困難な状況にいるイスラエルの民に向かってイザヤは言っています。 19節です。<わたしはエルサレムを喜びとし わたしの民を楽しみとする。 泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。> この言葉によると、それまではエルサレムでは泣き声が多く、泣き叫ぶ声が多かったということです。 そして 20-21節の言葉を見ますと そこには、もはや若死にする者も 年老いて長寿を満たさない者もなくなる。 百歳で死ぬ者は若者とされ 百歳に達しない者は呪われた者とされる。 彼らは家を建てて住み ぶどうを植えてその実を食べる。 この言葉は、多くの人が戦争で無念にも命を落とし、自分の家もなく、ブドウ園を作っても、人手に渡ることの多かった当時の社会像を物語っています。 本文の言葉に接する皆さんの中には、この様な状況が今日の私たちには当てはまらないと考える方もいるでしょう。 今は戦争もなく平穏な状態で、仮に幼くして亡くなる子がいるといってもそれはアフリカのような貧しい国で起きていることで、医学の発達した日本とは関係ない話だと思うかもしれません。 まして、日本は平均寿命が長い、高齢化社会となりました。 では、イザヤ書は私達には全く関係のないことでしょうか? 今日の現実はどうですか? 日本は早くから近代化の道を歩みました。 経済が発展してアジアで豊かな国になりました。もちろんアジアでは日本以外にシンガポール、台湾、韓国なども経済的に豊かな国と呼ばれています。しかし、このような資本主義諸国を見れば、経済が発展すればするほど、金持ちと貧しい人々との経済的格差が深刻になることがわかります。労働者達は低賃金で労働災害の危険にさらされたまま仕事をしています。農民たちは一年中農作業をしますが、多くの借金を負うことになっています。 前述のアジアで豊かな国々において、統計的に差はありますが、貧しい人々が苦しい生活を送っていることは共通しています。 特に貧しいアジアやアフリカ、南米など、いわゆる第3世界の民衆の生活がますます困難になっています。 イザヤ書に照らしてみると、 今日この世界にたった一人でも戦争や貧困で 不当に死ぬ子供と老人がいたら、一人でも自分がした労働の果実を得ることができず奪われる人がいたら、住む所のないホームレスがいたら、正義のためのイザヤの宣言を私たちはもう一度聞かなければなりません。 イザヤは厳しい時代状況の中で、「見よ, わたしは 新しい 天と 新しい 地を 創造する。初めからのことを思い 起こす者はない。それはだれの 心にも 上ることはない」という神様の言葉を宣言します。 新しい天と新しい地を創造する神、歴史の支配者である神、その神の正義と平和を、イスラエルの民に宣言しています。 絶望の中で希望を約束しています。 そうして明日に、そして未来に向かって立たせます。 2020年は全ての人にとって大変な時間でした。 私はコロナが初めて発症したとき、長くても3カ月くらいだろうと思っていました。 こんなに長い間人類が苦しむとは思いませんでした。…

アブラハムとメルキゼデク。

創世記14章13〜24節 (旧18頁)・ヘブライ人への手紙7章1-3節 (新407頁) 前置き 過去2回の説教で、私たちはアブラハムという人が犯した罪について話しました。信仰の父と呼ばれるアブラハムでしたが、彼にも私たちと全く同じ罪があったのです。彼は神に何も伺わずに、自分自身の判断で、飢饉を避けてエジプトに行きました。彼はそこで、生き残るために妻を他人に渡してしまい、それを通して不正の富を得る罪を犯しました。その後、彼は神に赦され、再びカナンに戻ってきましたが、そこで彼は不正に得た富の結果により、甥との不和が起こり、別れてしまいました。偉大な信仰の人物であったアブラハムさえも、結局、罪のゆえに残念な姿を見せたわけです。しかし、神は彼の罪をお赦しくださり、変わらず彼と共にいてくださいました。そして今日の本文は、一人の男を通して神がアブラハムと一緒におられることを証明しています。その男は、まさにサレムの王メルキゼデクでした。今日はアブラハムとメルキゼデクの物語を通して、ご自分の民と一緒におられる神様、そして神から遣わされたイエス・キリストについて話してみたいと思います。 1.アブラハムを正しく変化させる神の同行。 私たちは、漠然とアブラハム、モーセ、ダビデ、洗礼者のヨハネ、12人の使徒のような、聖書に登場する信仰の人物たちが私たちより、遥かに優れた信仰を持っているだろうと考えたりします。しかし、聖書はそのような信仰の人物たちの欠点さえも加減せずに表します。これは、聖書と同じころの古代に記された中東やギリシャの、褒め言葉で一貫した英雄たちの話と比べれば、非常に独特な違いだと言えるでしょう。特に信仰の父と呼ばれるアブラハムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教のすべてで、偉大な信仰の人物だと評価されていますが、聖書は彼の罪をありのままに記録することにより、彼の欠点を暴露しています。しかし、聖書はそのような欠点のある人物と最後まで一緒に歩んでくださる神の偉大さをも一緒に示しています。そして、そのような偉大な神の同行は、かつて取るに足りなかった聖書の人物を、偉大な信仰者に導く重要なターニングポイントになりました。前の創世記12章13章の物語の中で、私たちに失望を抱かせたアブラハムは、今日の本文を通しては、全く違う姿を見せてくれます。このように神様は、罪人の欠点をお赦しくださり、彼らと共に歩んでくださって、主の民が真の信仰者になれるように養ってくださる方です。 「主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。さあ、目を上げて、…見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。…アブラムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のために祭壇を築いた。」(13:14-18)エジプトでの失敗、甥との不和で、自分のどん底を見せたアブラハムでしたが、それでも、神はアブラハムと一緒にいてくださいました。このような神の同行は彼を変化させました。ロトと別れた後、アブラハムはヘブロンという地域に移住しました。過去、飢饉を避けて華麗なエジプトに行ったのと、また、ロトが潤ったが、罪に染まっていたソドムに行ったのとは違って、彼は比較的に発展していなかったヘブロンの地域、しかも、華麗さと遠い山林の地域に行ったのです。しかし、彼は、もうこれ以上欲張らず、謙虚に礼拝の生活を追い求めていきました。以降、彼は神だけに依り頼む人に変わっていったはずでしょう。人は何かに依存的な存在です。誉、富、権力、他人に頼りがちな本性を持っています。しかし、この世のどれ一つも永遠なものはありません。アブラハムにあった、財産も、親類も、結局はすべて変わってしまいました。しかし、神だけは変わることなく、彼と永遠におられる存在でした。移り変わりの無い神様によって、アブラハムは徐々に信仰の人に変わっていきました。 2.神の同行がもたらしたアブラハムの変化。 神が共におられることを信じ、神様の御前に礼拝者として立つようになったアブラハムは変化していました。それは、自分を捨てて去った甥を救うために、命をかけるほどの犠牲を覚悟した今日の本文の物語を通して知ることができます。私は前回の説教で、アブラハムと甥ロトが各々の財産を守るために、別れを選んだとお話ししました。ロトは叔父と同行しながら豊かになりました。しかし、彼はそのような恩を忘れてしまい、自分の目に良い土地を選んで、アブラハムを離れてしまいました。おそらく、アブラハムはそのような甥の裏切りに悔しさを感じたかもしれません。面倒をみてもらった恩も知らぬ、自分の利益だけを取るやつだと憎んだかもしれません。しかし、神の同行を信じたアブラハムは、そのような過去を省み、ロトを赦したのでしょう。 「ソドムとゴモラの財産や食糧はすべて奪い去られ、ソドムに住んでいたアブラムの甥ロトも、財産もろとも連れ去られた。…アブラムは、親族の者が捕虜になったと聞いて、彼の家で生まれた奴隷で、訓練を受けた者三百十八人を召集し、ダンまで追跡した。」(14:11-14)今日の本文では朗読しませんでしたが、創世記14章は国々の戦争から始まります。 1節に登場する国は、おそらくバベルの塔が建てられた地域にあった強い国々だったと思われます。シンアルという地名が11章のバベルの塔の話にも書かれているからです。 この地域で打ち立てられた国々の中には、大きくて強い帝国が多かったです。旧約聖書でイスラエルを支配したアッシリヤ、バビロン、ペルシャなどのような国々が、この地域で発展しました。創世記14章によると、ある日、シンアルと、その同盟国の王たちが自分たちに支配されていた、ソドムとゴモラを含む5ヶ国の反乱を鎮めるために戦争を引き起こしました。その中のソドムに住んでいたアブラハムの甥ロトも戦争に巻き込まれ、彼らの捕虜となってしまいました。もし、アブラハムに何の変化も無かったら、自分を捨て去った甥を、そのまま放っておいていたのかもしれません。しかし、アブラハムは、取り急ぎ、自分の手下を率いて、甥を救うために戦場に向かいました。自分の命が危険にさらされる可能性がある状況でも、アブラハムは神だけを信じて、行ったのです。彼はわずか318人の手下を率いて、同盟部族とシンアルの同盟軍を追いかけました。そして、アブラハムは甥と財産を救い出しました。かつて神を信頼せず、飢饉を避けてエジプトに行ってしまったアブラハム、それにより信仰の失敗を味わった彼は、今回は、神との同伴の中で、自分を捨て去った甥を救うために命をかけたのです。神の同道を信頼するようになったアブラハムは変わりました。自分の命だけを大事にしていた彼が、他人のために自らの命をかける大胆な信仰者に変わったのです。そして、神はそんな彼に勝利を与えてくださいました。 3.変化したアブラハムを出迎えた神の祭司。 「アブラムがケドルラオメルとその味方の王たちを撃ち破って帰って来たとき、ソドムの王はシャベの谷、すなわち王の谷まで彼を出迎えた。 いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。 」( 14:17-18)アブラハムがソドムと、その同盟国を侵略した王たちを打ち破って戻ってくる時、アブラハムに助けられたソドムの王がアブラハムを迎えました。その時、ソドムの王と一緒にアブラハムを出迎えた、もう一人の人がいましたが、彼は神の祭司であるサレムの王メルキゼデクでした。メルキゼデクに関しては、今日の新約本文で詳細に記されています。 「メルキゼデクという名の意味は、まず、義の王、次にサレムの王、つまり、平和の王です。 彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です。」メルキゼデクはヘブライ語で「義の王」という意味です。また、今日の本文では、サレムの王とも呼ばれていたが、エルサレム地域の王だったとの解釈もあり、ヘブライ語サレムの意味に従い、平和の王の解釈もあります。また、ユダヤ教のラビの中に彼がノアの子孫だと思っている人もいました。そして、現代の神学者たちは、彼をアンジェリーク・ルプリースト、つまり、超越的な祭司とも呼びます。 いずれにせよ、メルキゼデクは義と平和を愛し、神の子のような、聖なる存在、すなわち人間を超越する存在としての神の祭司でした。それ故に、ヘブライ書では、このメルキゼデクが永遠の祭司として、神と民の間を仲保する旧約聖書に表れるキリストの象徴として表現されています。神は神の子のような、神聖で義と平和を愛するメルキゼデクを送ってくださり、アブラハムへの祝福を通して、アブラハムを愛しておられることを確かめてくださいました。アブラハムは、神の民として召されましたが、神を完全に信頼していない者でした。そして、神よりも自分の考えを優先にし、信仰の失敗を経験した者です。しかし、神はそのような取るに足りなくて、愚かな彼を最後までお見捨てにならず、お待ちくださいました。そのような神の愛と導きの中で、アブラハムは少しずつ正しい道を追う信仰の人物になっていきました。そして、自分の考えではなく、神の御心に聞き従おうとしたアブラハムは、最終的に神の子のような祭司メルキゼデクに出会い、祝福を受ける、大きな恵みを体験したのです。 今日の本文でメルキゼデクが重要な理由は、神の子イエスに対する代表的な旧約のモデルだからです。もともとイスラエルで祭司はレビ族のサドカイ派系列のみ行うことが出来る職として知られていますが、実際に聖書に記された最初の祭司は、レビ族ではなく、イスラエル人でもない、このメルキゼデクだったのです。ひょっとしたら、メルキゼデクはイエス・キリストが旧約で、直接人間の姿をとって現れた存在なのかもしれません。ユダヤ族の子孫であるイエスが、真の祭司と呼ばれることが出来る理由も、まさにこのメルキゼデクというレビ族ではない、最初の祭司から、その職を受け継ぐ方だからです。彼はアブラハムに十分の一を受けることで、アブラハムの礼拝を神にお帰ししました。神はイエスのモデルである、彼を介してアブラハムを祝福なさり、それから、アブラハムが神の偉大な民として生きていくことを予告なさったのです。神は祭司を通して、王に油を注ぎ、彼を祝福なさいます。神の祭司に出会ったアブラハムは、それからは単純な神の民と呼ばれるレベルを超えて、神が立ててくださった王のような存在として生きていき、このアブラハムの子孫を通して、真の王イエス・キリストが生まれることになったのです。このように、神に希望を置いて、神様と共に歩んだアブラハムは、メルキゼデクとの出会いを通じ、キリストと呼ばれる救い主の先祖として、いっそう確実な土台を築きました。 締め括り 「天地の造り主、いと高き神にアブラムは祝福されますように。」(14:19)神の祭司メルキゼデクの祝福を受けたアブラハムは、その後15章で、神だけを信じる信仰によって、神に義とされました。義の王メルキゼデクの祝福を受けたアブラハムは、真の正しい人として神のご計画のように、祝福の源となりました。私たち人間は、知らず知らず罪を犯して生きています。神に従わず、隣人を憎みがちな存在です。しかし、それでも、神は、その人間を愛しておられ、神を追い求める者を祝福してくださる方です。そして、神は旧約のメルキゼデクのような神の真の祭司であるキリストを遣わしてくださり、神に従おうとする者を祝福し、神の民にしてくださる方です。私たちに罪があるといって絶望する必要はありません。私たちが罪人であっても、神を求め、信じて生きていく際に、主は私たちと同道してくださり、キリストを通して私たちを変化させてくださるからです。今日の本文を通して、大昔からご自分の民のために祭司を備えてくださった神、今もまた、キリストという私たちの祭司をくださる神を覚えましょう。そして、私たちを信仰に導かれる神を信頼しましょう。

罪を赦す人の子の権威。

ダニエル記7章13-14節 (旧1393頁) マルコによる福音書2章1-12節 (新63頁) 前置き イエスが、この地で行なわれた御業は大きく3つに分けられます。それは癒すこと、宣教すること、教えることでした。癒しとは、単に肉体の治癒だけの意味を超えて、罪を赦す意味をも持っています。これはイエスによって、もはや罪の支配ではなく、主に治められる神の国が到来することを意味するものでした。宣教とは、罪によって神と敵になった罪人に、キリストを通した神との和解がもたらされることを宣言し、罪人が神の御前に出て来て、御赦しと,御救いを受けるように導くことでした。最後に教えることとは、神の御言葉を通して罪人を教え、それを介して、神の御旨に従わせること、神の民にさせることでした。イエス・キリストは、罪深いこの世で罪人を赦し、神に帰らせるために臨まれた方です。そして癒し、宣教、教えを通して、それを行われました。それらの点を覚えつつ、今日の言葉を取り上げてみましょう。 1.中風の人のようなイスラエルの状況。 ガリラヤ地方のあちこちを巡回なさりながら、弱い者たちを癒し、宣教し、教えてくださったイエスは、再び主のおもな活動地域であったカファルナウムに来られました。カファルナウムはヘブライ語で、町を意味する「カファル」と慰めを意味する「ナハム」の合成語です。すなわち、カファルナウムとは「慰めの町」という意味です。イエス・キリストは裁きのために来られた方ではなく、慰めと救いのために来られた方です。主がおもに活動なさった、カファルナウムが持つ意味を通して、マルコ書の読み手は、主が来られた意味を、もう一度顧みることが出来るでしょう。 「数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまで隙間もないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、」(2:1-2)イエスは、この慰めの町、カファルナウムで神の御言葉を宣言なさいました。当時の堕落したイスラエルの宗教指導者たちから真の慰めを得られなかった人々は、主イエスに希望を置いて、訪ねてきました。神様は、共同体を正しく導くために指導者を立て、ご自分の民をお委ねになります。しかし、指導者が神の御前に正しくない時、彼らは民を守る者ではなく、民を苦しめる者になってしまいます。 「ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。」(ルカ5:17)今日の本文の内容は、マタイ、マルコ、ルカ書で共通して登場しますが、宗教指導者たちの話も同じく出てきます。状況的に、彼らは主を批判するために集まったようです。 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。」彼らがイエスに否定的に反応するからです。主は貧しい者たちと弱い者たちのために癒しを施されましたが、イスラエルの宗教指導者たちは、貧しい者と弱い者の座を奪い、ひたすらイエスを責めるために集まったのです。 「四人の男が中風の人を運んで来た。 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。」(2:3-4 )イエスを責めようとする、イスラエルの指導者たちの邪悪さの故に、群衆は家の外に追い立てられ、最も癒しが必要な中風の人は、家の中に入ることさえ出来ませんでした。今日の本文は、単純に中風の人と彼をイエスに連れて行った4人の物語ではありません。これは当時のイスラエルの悲劇を描いた物語です。神の御言葉と愛を正しく教えることも、行うこともなかった、邪悪な指導者たちのために、イスラエルでは真の癒しが起こることがなかったのです。イスラエルはまるで床の中風の人のように麻痺して患っている状態でした。 2. 4人の信仰をご覧になり、中風の人を癒してくださったイエス。 キリスト教は、神と信者が、互いに反応する宗教です。生ける神が信者を愛してくださり、信者も、その神の愛にお応えする関係の宗教なのです。つまり、信者なら、神への渇望を持って、積極的に反応を行うべきだということです。今日の本文に中風の人と一緒にいた4人が、まさにそのような人たちだったのです。邪悪な宗教指導者たちによって、もたらされた妨げのために、人々がイエスと向かい合う機会が奪われたにも関わらず、彼らは家の屋根をはがして、主に中風の人をつり降ろしました。 「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、子よ、あなたの罪は赦されると言われた。」(5)主は、その4人の信仰をお測りになり、中風の人をお治しくださいました。ところで、ここで少し疑問が生じます。プロテスタント教会は、明らかに自分の信仰によって、自分が救われる宗教、つまり他人の信仰を通して救われる宗教ではありません。そんな方式は、中世のカトリック教会で行われたことでした。まだ、救いが不透明な知人のために、免罪符を買えば煉獄の知人の魂が天国に昇れるというような信仰で、中世のカトリックで通用していた方式です。 ですから、私たちは、今日の本文を文字、そのままに受け入れ、中風の人を運んだ、4人の信仰のおかげで、中風の人が癒されたという風に解釈してはならないでしょう。私たちは、今日の話を通して、中風の人が持つ意味が、当事者だけではなく、中風の人のような状況であった当時のイスラエルの社会を認識する必要があります。指導者の正しい導きの不在のために、当時のイスラエルは全身が麻痺した中風の人のように、霊的な麻痺の中にあり、その結果、大勢の民が苦しみに陥っていたと理解しなければなりません。教会共同体も時には罪のために病んだり、崩れたりします。中風の人のように機能が麻痺した教会になってしまうこともあります。しかし、あの4人の人々のように、積極的に神との関係の回復を追い求め、立ち上がる人々が必要なのです。我々は、皆、すべて諦めてしまう中風の人のような者にも、何とかやってみようとする、あの4人のような者にもなれるのです。イエス様がくださる癒しと回復を待ち望み、如何なる妨げと逆境にも、主を探しに出る私たちになる必要があるでしょう。主はそのような人を用いて、教会を再び立ててくださり、進むべき道を開いてくださる方でいらっしゃるからです。 3.罪をお赦しになる人の子、イエス。 「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、子よ、あなたの罪は赦されると言われた。」(5)イエスは、4人の活躍で、イエスに辿り着いた中風の人に癒しを許してくださいました。ところで、主は中風の人に、「私があなたを治してあげる。」あるいは「あなたは私に癒される。」と言われませんでした。主は「あなたの罪は赦される。」と仰ったのです。今日、我々は、主のこの御言葉を介して、前回の説教で分かち合った癒しの本義について、もう一度学ぶことが出来ます。主のお癒しは贖いを前提とする癒しです。肉体と魂の癒し自体が目的ではなく、罪人への赦しの証明として癒しが施されるわけです。したがって主に癒された人は、その癒しが霊的であれ、肉体的であれ、それを通して神が、自分を愛しておられ、罪の赦しを通して完全な神の子供となることを待ち望んでおられるということを覚え、悔い改めの座に進むべきです。主は、人間の罪を赦してくださるために、この地に来られた方だからです。 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」(7)イエスの癒しと罪の赦しを目撃した宗教指導者たちは、主の発言を神への冒涜だと評価しました。主が「あなたの罪は赦される。」と言われた言葉は、ギリシャ語的に「神である私によってあなたの罪は赦される。」という意味が含まれている表現でした。宗教指導者たちは、人間であるイエスが自ら神であると認めることを見て、神への大きな冒涜だと思いました。しかし、イエスは彼らの心を見抜かれ、ご自分が病気を癒し、また、それよりも深刻な人間の罪をも赦してくださる贖いの神であることを証明なさるために、中風の人をお癒しくださいました。それにも関わらず、霊的な目が閉じてしまった、指導者たちは、イエス・キリストが真の神であるという事実を悟ることが出来ませんでした。 イスラエルの全歴史をまとめて、罪を赦す権限を持つ存在は、神様お独りのみでした。今日の本文で、我々はどのようにイエスが神であることを知ることが出来るでしょうか?私たちは、今日の本文で、主が言われた「人の子」という表現に焦点を当てる必要があります。 「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」(10)人の子という表現は、旧約のダニエル書で出てくる言葉で、神のメシアを指す表現です。 「夜の幻をなお見ていると、見よ、人の子のような者が天の雲に乗り、日の老いたる者の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。」(7:13-14)旧約聖書の預言者ダニエルは、獣で表現された世界の諸帝国同士の食うか食われるかとの阿鼻叫喚の幻を見て、最終的に、そのすべてに勝利し、支配する者は、まさに「日の老いたる者の前に立った人の子のような者」である預言しました。ただ、その人の子だけが、滅びることのない権威を受けて、この世界を支配すると神に教えていただいたわけです。マルコは今日の本文の出来事と人の子という表現を通して、イエスが罪を赦し、この世を正しく導いていかれる真の神であることを告白しているのです。 締め括り。 今日の本文は、多くの内容を含んでいるので、一度、整理して終わりたいと思います。第一に、正しくない指導者によって、教会共同体が不健全になり得るということです。ここで、指導者とは牧師、長老だけでなく、ペテロの手紙Ⅰの言葉のように、神の聖なる祭司として召された、すべての信徒に該当するものです。一人の間違いによって、共同体全体が病むことを覚え、常に謙虚と真実に生きていくべきでしょう。第二に、共同体が病んで、無力な時でも、誰かは神に進まなければならないということです。中風の人を移した4人のように、共同体のために、神を渇望する人々が必要だということです。これもまた、私たちみんなに当たる教えです。第三に、主イエスは、罪を赦してくださる神様であることです。私たちの希望は、ひとえに主にあります。私たちは、絶えず悔い改めながら、主イエスが神様であることを認めて生きていくべきです。主イエスは、旧約から預言された真のメシア、神様です。主だけが罪を赦すことが出来、教会を回復することが出来ます。主は、なぜ人の子と自称なさったのでしょうか?主は神でいらっしゃいますが、人々の間に一緒におられる方、つまり真の神であり、真の人である方だからです。この人の子イエスに私たちの希望を置いて、罪を告白し、主に従っていく私たち志免教会になることを望みます。

富は神の祝福か?

創世記13章1〜18節 (旧16頁) テモテの手紙Ⅰ 6章17-19節 (新390頁) 前置き 前回の創世記の説教では、飢饉によってエジプトに行ったアブラハムの信仰の失敗についてお話しました。彼はカナンで遭った飢饉について、神の御心を伺わずに、もっぱら自分の判断で、神が定めてくださった土地、カナンを去ってしまいました。その結果、彼は妻を他人に渡すことになり、不正な富を得ることになり、エジプトの住民に災いをもたらすことになってしまいました。私たちは、これらを通して、神の御心を求めず、自分の判断だけを追求する人生が、どれだけ、大きな問題を引き起こしてしまうのかが、はっきり分かりました。今日は、そのようなアブラハムの失敗から生まれたもう一つの問題を取り上げてみたいと思います。それは不正な富が巻き起こす問題なのです。人間の生活において富は必要不可欠なものです。しかし、富は肯定的な側面と否定的な側面の二面性を持っています。聖書は、富に対して、どのように語っているのか、また、私たちは富に対して、どのような心得を持つべきか、今日の言葉を通して考えてみたいと思います。 1.旧約聖書が語る富。 皆さんは、お金のない世界をお考えになったことがありますか?お金は非常に重要な価値を持っています。お金、つまり富が無ければ、日用の糧を食べることが出来ず、基本的な衣服を着ることも出来ず、また、風と雨を避けることも出来ないでしょう。富が無ければ、子供たちに良質の教育をさせることが出来ず、家族を誠実に扶養することも出来ません。このように富の力は強いのです。そのため、世のすべての人々は富をなすために毎日、熱心に働き、生きていくのです。文明が生まれて以来、人々は富を用いて多くのことを享受してきました。ひょっとすると、富は人間という存在を人間らしく生きさせる、最も基本的な価値であるかもしれません。しかし、富は人を破滅させるものでもあります。富のゆえに暴力が生じ、富のゆえに関係が崩れ、富のゆえに命を失うことも珍しくないからです。宝くじに当たって、大きな富を手に入れたものの、悲劇的な結果に終わる話は、よくあることでしょう。そのためか、聖書は富に対して中立的な姿勢を取りながら、同時に過度の富がもたらす副作用についても警告しているのです。 先ほど、申し上げましたように、旧約聖書は、富に対して否定的には語っていません。神は忠実なダビデ王に多くの富と権力をくださり、知恵を求めた、彼の息子であるソロモンにも富を許してくださいました。旧約で富は神の祝福の一つだったからです。しかし、この富は人を変質させる力を持っているようです。最初は神の御前に純粋だった信仰の人物たちも、富と権力を味わってからは変わってしまったからです。ダビデは他人を羨むことのないほどの富と権力を手に入れてから、神に禁じられた人口調査を強いて行なって、罰せられてしまいました。 (サムエル下24)ソロモンは富と権力を手に入れてから、隣国との同盟のために、異教徒の娘を王妃に迎えました。その結果、イスラエルは二分されてしまいました。(列王記上11)また、ダビデとソロモンの子孫であったヒゼキヤ王はバビロンから来た使者に自分の富を誇ってしまい、神に滅亡の予言を聞かされてしまいました。 (列王記下20)このように、富そのものは、悪いものではありませんが、その富を取り扱う人間の心が変わって、富を悪の道具に使ってしまったのです。これが富に対する聖書の基本的な視座なのです。 2.アブラハムとロトを別れさせた富の副作用。 多くの旧約神学者たちは、アブラハムが甥ロトと同行した理由が、ロトを自分の相続人にするためだったと思いました。神がアブラハムをお召しになった時、彼には子供がいなかったからです。そのため、アブラハムは、甥を養子縁組し、相続人にするつもりでロトを連れていったのでしょう。ところで、アブラハムは、そのロトの目の前で大きな間違いを犯してしまいました。それは前回の説教でお話しましたアブラハムの信仰の失敗によるものでした。韓国のことわざの中に「子供の前では、冷たい水もやたらに飲めない。」という言葉があります。その意味は、「目上の人の悪い言動を若者たちが、やたらと見て真似をする。」という意味です。アブラハムは、自分の大切な妻を他人に渡し、あまりにも簡単に不正な財産を得ました。そして、神がそれを解決してくださる時まで、別に悔い改めの姿も示さなかったのです。おそらくアブラハムは、そんな望ましくない姿を見習ったロトに、知らず知らずに間違った富と信仰の基準を提示してしまったのかもしれません。そして、そのようなアブラハムの過ちは、カナンに戻ってきた後、実際の出来事として現れ始めました。 「アブラムと共に旅をしていたロトもまた、羊や牛の群れを飼い、たくさんの天幕を持っていました。 その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかったのです。彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかったのです。 アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きた。」(13:5-7)エジプトを去って、カナンに戻ってきたアブラハムの前に予期せぬ問題が待っていました。多くの財産により、甥との関係に葛藤が生じたことでした。エジプトに行く前まで、二人は様々な問題に出くわしても、理解し合って力を合わせ、逆境を勝ち抜いたはずでしょう。しかし、エジプトで得られた不正な富のゆえに二人の間に葛藤がもたらされたのです。その富により増えた数多くの家畜のため、飼う者たちの間に争いが起きたからです。また、一度エジプトを体験して、富に対する間違った基準を持つようになったロトは、過去のように叔父と一緒に逆境を乗り越えることなく、自分の富を守るため、アブラハムを離れようとする心をも持つことになったのでしょう。 「アブラムはロトに言った。わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。 あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた。」(13:8-10)当初からアブラハムがロトを相続人として養子縁組をしたならば、アブラハムはロトをそう簡単に行かしてはならなかったのでしょう。しかし、彼らの富は、そのような関係を破壊してしまいました。互いに葛藤があっても、アブラハムはロトを抱き、調和をなさなければならなかったはずです。しかし、彼はあまりにも簡単に別れを宣言してしまいました。また、ロトも叔父に良い土地を譲らず、まるでエジプトのように潤った地を選んで、離れてしまいました。その結果として、ロトは罪と悪の地、ソドムとゴモラで悲惨な結末を迎えることになります。結局、エジプトからの不正な富さえ無かったら、起こるはずの無かった葛藤が、二人の間を引き離してしまったのです。富による貪欲と富への異常な追求が、二人共に別れという極端な結果をもたらしてしまったのです。 3.聖書を通して学ぶ富に対する心構え。 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)主は山上の垂訓の時、まるで、富を人の主人のように描かれました。現代の多くの人々も富から自由になることが出来ません。差し当たって、国からの年金が出なければ、あるいは、職場からの給料が出なければ、私たちは果たして気軽に日常生活を営み、教会に行って礼拝をささげることが出来るのでしょうか?それだけに富は重要なものであり、絶対に必要なものです。しかし、それにもかかわらず、私たちは、その富のみを追い求めて、生きてはいけない存在です。富を利用するが、富に捕らわれない生き方が必要なのです。富のために仁義に反してはならず、富のために信仰を捨ててもなりません。つまり、富が私達の主人のようになってはならないという意味です。私たちは、ひとえに神様のみを主人にして生きるべき、キリスト者だからです。 「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」(創世記15:1)ロトが去っていった後、相続人への希望も、富の意味への希望も失われたアブラハムに、神は現れて言われました。 「私こそがあなたの富である」主はアブラハムにとっての真の富が、神ご自身であると教えてくださいました。そして、アブラハムが、その神を信じた時、初めて神は彼を義と認めてくださいました。富は神様が私たちに与えられたプレゼントに過ぎないものです。プレゼントは、あれば良いし、なくても構わないものでしょう。もともと、我らのものではありません。重要なことは、私たちにプレゼントを与える存在なのです。私達はプレゼントを渡すとき、「気持ちだけです。」と言ったりします。重要なのはプレゼントをする者と、その心なのです。プレゼント自体が大事ではありません。富に対する私たちの心構えも同じです。重要なのは、富を与えてくださった神様への信仰なのです。私たちが、日常生活の中で本当に神の御前に恥のない信仰者として立つためには、富への正しい姿勢を取ることからだと思います。 締め括り 「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。 善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。 」(テモテⅠ6:17-18)私たちの真の富は、神ご自身でいらっしゃいます。そして神を通して、私たちに来られたイエス・キリストなのです。旧約で富と豊かさで表現された数多くの神の祝福は、新約になってからは、イエス・キリストと、その方への信仰として、完全に置き換えられました。金持ちも貧しい者も、キリストへの信仰と信頼がなければ、すべてが無意味になることを忘れてはならないでしょう。神様が私たちに与えられた富を用いて、神と隣人に仕え、富のとりこではなく、富の主人として生きるべきでしょう。それが私たちに与えられた富への在り方なのです。富は神の祝福になることも、呪いになることも出来るものです。もし私たちが主の御心に従って、神に望みを置いて、富を正しく利用すれば、その富は私たちに祝福となるでしょう。私たちの富を用いて、神と隣人への愛を実践して生きていきましょう。私たちの行い次第で、富の性質が変わることを心に留めて、神の御心に適う一週間を過ごしましょう。

イエスの御業。

イザヤ書61章1〜4節 (旧1162頁)マルコによる福音書 1章29-45節 (新61頁) 前置き 30年間、平凡に生きて来られたイエスは、洗礼者ヨハネに洗礼を受けることと、荒野で試練を経験なさることを通して公生涯、すなわちキリストとしての生涯をお始めになりました。以降、主は神の国の到来を宣言なさり、弟子たちをお召になり、この世の罪人のための本格的な救いの旅に出られました。イエスは公生涯の最初のしるしとして、カファルナウムの会堂で、汚れた霊に取り付かれた人についていた悪霊を追い出されましたが、マタイの福音書によると、悪霊が追い出されることは、悪魔の支配下に置かれている、この世に神の統治が到来したことを象徴するものでした。 「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(マタイ12:28)つまり、イエスが悪霊を追い出された出来事は、罪に満ちた、この地に神のお赦しをもたらし、もはや罪の呪いではなく、神のお赦しと愛を持って世を新たにしようとするイエスの覚悟を示す象徴的なことだったのです。今日の本文は、そのような新しい世のためのイエスの御業を描いています。今日の本文を通して主がなさった生前の御業について話してみましょう。 1.イエスという方。 私たちが信じるイエスはどんな方でしょうか?キリスト教の教義では、このイエスが完全な神であると同時に、また、完全な人間であると教えています。それでは、まず、人間イエスについて話してみましょう。イエスの時代のイスラエルには、イエスという名前が珍しくなかったと言われます。イスラエルの歴史上、最も偉大な人物の一人である、モーセの後継者ヨシュアに由来した名前だったからです。ヨシュアは「神が救ってくださる。」という意味を持っています。ヨシュアという名前は、時には「ホセア」や「イエス」とも呼ばれましたが、これらも、また「神が救ってくださる。」という意味を持っていました。以後、イエスは罪人の贖いのために十字架で処刑されましたが、ユダヤ教では、イエスが神の呪いを受けて死んだと信じていました。そういうわけで、ユダヤ教では、イエスという名前を不正に考え、タブー視したそうです。イエスはベツレヘム出身のヨセフとマリアの長男として、お生まれになりましたが、彼らの祖先は共通して、ダビデ王だったと言われます。そのため、聖書はイエスをダビデの子孫であると称しています。イエスは公生涯が始まる時まで、家族と一緒に暮らし、大工を生業として生きてこられました。 イエスは30歳になった時から、ご自分の町、ナザレを離れられ、公生涯をお始めになったと知られています。 また、イエスは初めから存在しておられた神様です。私たちが三位一体と呼んでいる神は、父、御子、聖霊の三位が独りの神としておられる方です。この三位一体は、世界が造られる前からおられ、世界の創造、維持、終末までの、すべてを司られる神です。三位一体なる神は、各自、限りの無い権能を持っておられますが、自ら低くなられ、お互いに協力し合って、摂理を行われて、それを通して、この世界を治めて行かれる方です。そのような神の統治は、今でも移り変わりが無く、これからも永遠に続くでしょう。御父は、この世のすべてをご計画される方です。御子は父なる神の御言葉、すなわち神のご意志でいらっしゃり、神の計画をこの世に啓示なさる方です。そして、聖霊は、その御父の計画を御子の啓示によって、世の中で成し遂げられ、行われる方でいらっしゃいます。イエスが完全な神であり、完全な人間であるという意味は、神の全能さと人間の弱さをすべて知っておられ、そういうわけで神と人間の間で完全な仲保者になることが出来るということを意味します。イエスの御業は、これらの完全な神であり、人間であるという、神と人間への完全な知識の中で、この世を新たにしつつ、回復させる救いのお働きなのです。 2.イエス・キリストの御働き それでは、イエスは、この地上でどのようなお働きをなさったのでしょうか?私たちは今日の本文を通して、イエスが3つのお働きをなさったことが分かります。一つ目に、イエスが癒しをなさったということです。 「シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。 イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。」(1:30-31)イエスの時代のユダヤ地域は、邪悪な王の支配とローマ帝国の圧政の故に、権力と富のある人は住みやすい所でしたが、貧しくて弱い人々には、ますます苦しくなる所でした。神は旧約聖書を通して、常に貧しくて弱い者たちの世話を見なさいと命じられました。また、貧富の隔たりを無くし、誰もが神のご支配の中で平和に生きる世界を追い求めるイスラエルをお望みになりました。しかし、イエスの時代は、そのような神の御意志とは、あまりにも遠ざかっている現実に置かれていました。王と総督は自分の権力と富だけを貪り、その下の祭司と宗教人たちも大きく異なるところがありませんでした。 前回の説教で、私は悪魔の性質について、自らを神のように高めようとする傲慢さだと話しました。当時の指導者たちは、低くて弱い者には関心を持たず、ひたすら自分の政治的、社会的、宗教的な権力が高まることだけに気を取られていました。イエス様が、この地に来られ、病んだ人を癒し、悪霊を追い出し、弱い者たちと一緒におられたというのは、そのような世の風潮に真正面から抵抗する行為でした。イエスは貧しい弟子の家族を癒してくださることから始め、あらゆる病人を治され、人を苦しめる悪魔を追い出され、罪人を清めてくださいました。 「重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、御心ならば、わたしを清くすることがおできになりますと言った。 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、よろしい。清くなれと言われると、 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。 」(1:40-42)イエスのお癒しは、真の王でいらっしゃる神様が、イエスを介して、弱い者たちと一緒におられることを積極的に見せてくださる行為でした。最も高いところから来られたイエスは、最も低いところに自ら臨まれて、お慰めくださり、お癒しくださって、神が民の間におられることを証明されました。 二つ目に、イエスは宣教なさいました。 「イエスは言われた。近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」(38)今日の本文に宣教するとして翻訳された単語は、ギリシャ語で「ケリュッソ」と言いますが、「宣言する。述べ伝える。告げる。」などの意味を持っています。つまり、今日の本文の「宣教する」は、イエスの説教、あるいは宣言として翻訳することが出来ます。この「ケリュッソ」という言葉から、キリストを通した救い、罪の赦し、恵みなどを述べ伝えるという意味の「ケリュグマ」という概念が由来しました。イエスが病人を癒され、悪霊に取り付かれてた者から悪魔を追い出された理由は、神の国がこの地上に臨んだということを宣言する宣教をなさるためでした。イエスは、この宣教のために、神から人間にお生まれになったのです。もし、ただ、癒されるばかり、悪霊を追い出されるばかり、糧を分けてくださるばかりで、イエスのお働きが終わったならば、イエスの御業は中途半端になってしまったはずでしょう。主が癒してくださった理由は、その癒しと伴う宣教を通して、人々がイエスを信じて、神の民になり、神の国に入るように導いてくださるためだったのです。 三つ目に、イエスはお教えになりました。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」(44)イエスはお癒しを受けるために、主のところに来た重い皮膚病を患っている人を清めてくださり、それから彼が何をすべきかを教えてくださいました。主はレビ記の教えに基づいて、回復された人の在り方を教えてくださったのです。主は旧約聖書の言葉を無視なさらず、その言葉に応じて、祭司のところに行ってモーセが定めたものを献げて、人々に証明することを命じられました。主は、聖書の言葉を生活の中で適用するように、導かれ、治った人が御言葉のように行なうことを望まれたのです。イエスは癒しと共に、御言葉を教えてくださる方です。癒しを通じて体と生活を新たにしてくださり、御言葉の教えを通じて、魂と信仰を新たにしてくださいます。イエスは今でも聖霊を通して、教会にお教えをくださいます。聖日の説教と、個人の黙想を通して、主は今日も、御心を教えてくださり、その教えを通して信徒の進むべき道を教えてくださるのです。 締め括り 「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。」(イザヤ61:1)かつて、イザヤ書は、神が油注がれたメシアを遣わし、貧しくて弱い者を救い、慰めてくださることを予告しました。主イエスがこの地に来られ、御業を行われたのは、このようなメシアの到来を実際に証明することでした。主はお癒しを通して、弱い者を立ててくださり、宣教なさることを通して、主の救いを知らせてくださいました。そして教えてくださることを通して、信者の在り方を教えてくださいました。私はこのような主の3つの御業が、キリストの教会が貫くべき働きであると思います。私たち教会は、主の体なる共同体です。私たちは、楽園に入るだけのために、主を信じる存在ではありません。このようにお働きになるまでに、世を愛してくださった主の、そのご意志を受け継ぐ者として召されたのです。イエスが再び来られる、その日まで、主がお働きになったように、教会は働くべきです。イエスは今日も、聖霊を通して私たちの間におられます。そして、その聖霊を通して、教会が働くことを望んでおられます。 21世紀の日本社会で、私たち教会は何をすることが出来るでしょうか?今日の言葉を顧みつつ、我々が働くべきことは何なのか、悟りを得る一週間になることを願います。