アブラハムとメルキゼデク。

創世記14章13〜24節 (旧18頁)・ヘブライ人への手紙7章1-3節 (新407頁) 前置き 過去2回の説教で、私たちはアブラハムという人が犯した罪について話しました。信仰の父と呼ばれるアブラハムでしたが、彼にも私たちと全く同じ罪があったのです。彼は神に何も伺わずに、自分自身の判断で、飢饉を避けてエジプトに行きました。彼はそこで、生き残るために妻を他人に渡してしまい、それを通して不正の富を得る罪を犯しました。その後、彼は神に赦され、再びカナンに戻ってきましたが、そこで彼は不正に得た富の結果により、甥との不和が起こり、別れてしまいました。偉大な信仰の人物であったアブラハムさえも、結局、罪のゆえに残念な姿を見せたわけです。しかし、神は彼の罪をお赦しくださり、変わらず彼と共にいてくださいました。そして今日の本文は、一人の男を通して神がアブラハムと一緒におられることを証明しています。その男は、まさにサレムの王メルキゼデクでした。今日はアブラハムとメルキゼデクの物語を通して、ご自分の民と一緒におられる神様、そして神から遣わされたイエス・キリストについて話してみたいと思います。 1.アブラハムを正しく変化させる神の同行。 私たちは、漠然とアブラハム、モーセ、ダビデ、洗礼者のヨハネ、12人の使徒のような、聖書に登場する信仰の人物たちが私たちより、遥かに優れた信仰を持っているだろうと考えたりします。しかし、聖書はそのような信仰の人物たちの欠点さえも加減せずに表します。これは、聖書と同じころの古代に記された中東やギリシャの、褒め言葉で一貫した英雄たちの話と比べれば、非常に独特な違いだと言えるでしょう。特に信仰の父と呼ばれるアブラハムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教のすべてで、偉大な信仰の人物だと評価されていますが、聖書は彼の罪をありのままに記録することにより、彼の欠点を暴露しています。しかし、聖書はそのような欠点のある人物と最後まで一緒に歩んでくださる神の偉大さをも一緒に示しています。そして、そのような偉大な神の同行は、かつて取るに足りなかった聖書の人物を、偉大な信仰者に導く重要なターニングポイントになりました。前の創世記12章13章の物語の中で、私たちに失望を抱かせたアブラハムは、今日の本文を通しては、全く違う姿を見せてくれます。このように神様は、罪人の欠点をお赦しくださり、彼らと共に歩んでくださって、主の民が真の信仰者になれるように養ってくださる方です。 「主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。さあ、目を上げて、…見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。…アブラムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のために祭壇を築いた。」(13:14-18)エジプトでの失敗、甥との不和で、自分のどん底を見せたアブラハムでしたが、それでも、神はアブラハムと一緒にいてくださいました。このような神の同行は彼を変化させました。ロトと別れた後、アブラハムはヘブロンという地域に移住しました。過去、飢饉を避けて華麗なエジプトに行ったのと、また、ロトが潤ったが、罪に染まっていたソドムに行ったのとは違って、彼は比較的に発展していなかったヘブロンの地域、しかも、華麗さと遠い山林の地域に行ったのです。しかし、彼は、もうこれ以上欲張らず、謙虚に礼拝の生活を追い求めていきました。以降、彼は神だけに依り頼む人に変わっていったはずでしょう。人は何かに依存的な存在です。誉、富、権力、他人に頼りがちな本性を持っています。しかし、この世のどれ一つも永遠なものはありません。アブラハムにあった、財産も、親類も、結局はすべて変わってしまいました。しかし、神だけは変わることなく、彼と永遠におられる存在でした。移り変わりの無い神様によって、アブラハムは徐々に信仰の人に変わっていきました。 2.神の同行がもたらしたアブラハムの変化。 神が共におられることを信じ、神様の御前に礼拝者として立つようになったアブラハムは変化していました。それは、自分を捨てて去った甥を救うために、命をかけるほどの犠牲を覚悟した今日の本文の物語を通して知ることができます。私は前回の説教で、アブラハムと甥ロトが各々の財産を守るために、別れを選んだとお話ししました。ロトは叔父と同行しながら豊かになりました。しかし、彼はそのような恩を忘れてしまい、自分の目に良い土地を選んで、アブラハムを離れてしまいました。おそらく、アブラハムはそのような甥の裏切りに悔しさを感じたかもしれません。面倒をみてもらった恩も知らぬ、自分の利益だけを取るやつだと憎んだかもしれません。しかし、神の同行を信じたアブラハムは、そのような過去を省み、ロトを赦したのでしょう。 「ソドムとゴモラの財産や食糧はすべて奪い去られ、ソドムに住んでいたアブラムの甥ロトも、財産もろとも連れ去られた。…アブラムは、親族の者が捕虜になったと聞いて、彼の家で生まれた奴隷で、訓練を受けた者三百十八人を召集し、ダンまで追跡した。」(14:11-14)今日の本文では朗読しませんでしたが、創世記14章は国々の戦争から始まります。 1節に登場する国は、おそらくバベルの塔が建てられた地域にあった強い国々だったと思われます。シンアルという地名が11章のバベルの塔の話にも書かれているからです。 この地域で打ち立てられた国々の中には、大きくて強い帝国が多かったです。旧約聖書でイスラエルを支配したアッシリヤ、バビロン、ペルシャなどのような国々が、この地域で発展しました。創世記14章によると、ある日、シンアルと、その同盟国の王たちが自分たちに支配されていた、ソドムとゴモラを含む5ヶ国の反乱を鎮めるために戦争を引き起こしました。その中のソドムに住んでいたアブラハムの甥ロトも戦争に巻き込まれ、彼らの捕虜となってしまいました。もし、アブラハムに何の変化も無かったら、自分を捨て去った甥を、そのまま放っておいていたのかもしれません。しかし、アブラハムは、取り急ぎ、自分の手下を率いて、甥を救うために戦場に向かいました。自分の命が危険にさらされる可能性がある状況でも、アブラハムは神だけを信じて、行ったのです。彼はわずか318人の手下を率いて、同盟部族とシンアルの同盟軍を追いかけました。そして、アブラハムは甥と財産を救い出しました。かつて神を信頼せず、飢饉を避けてエジプトに行ってしまったアブラハム、それにより信仰の失敗を味わった彼は、今回は、神との同伴の中で、自分を捨て去った甥を救うために命をかけたのです。神の同道を信頼するようになったアブラハムは変わりました。自分の命だけを大事にしていた彼が、他人のために自らの命をかける大胆な信仰者に変わったのです。そして、神はそんな彼に勝利を与えてくださいました。 3.変化したアブラハムを出迎えた神の祭司。 「アブラムがケドルラオメルとその味方の王たちを撃ち破って帰って来たとき、ソドムの王はシャベの谷、すなわち王の谷まで彼を出迎えた。 いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。 」( 14:17-18)アブラハムがソドムと、その同盟国を侵略した王たちを打ち破って戻ってくる時、アブラハムに助けられたソドムの王がアブラハムを迎えました。その時、ソドムの王と一緒にアブラハムを出迎えた、もう一人の人がいましたが、彼は神の祭司であるサレムの王メルキゼデクでした。メルキゼデクに関しては、今日の新約本文で詳細に記されています。 「メルキゼデクという名の意味は、まず、義の王、次にサレムの王、つまり、平和の王です。 彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です。」メルキゼデクはヘブライ語で「義の王」という意味です。また、今日の本文では、サレムの王とも呼ばれていたが、エルサレム地域の王だったとの解釈もあり、ヘブライ語サレムの意味に従い、平和の王の解釈もあります。また、ユダヤ教のラビの中に彼がノアの子孫だと思っている人もいました。そして、現代の神学者たちは、彼をアンジェリーク・ルプリースト、つまり、超越的な祭司とも呼びます。 いずれにせよ、メルキゼデクは義と平和を愛し、神の子のような、聖なる存在、すなわち人間を超越する存在としての神の祭司でした。それ故に、ヘブライ書では、このメルキゼデクが永遠の祭司として、神と民の間を仲保する旧約聖書に表れるキリストの象徴として表現されています。神は神の子のような、神聖で義と平和を愛するメルキゼデクを送ってくださり、アブラハムへの祝福を通して、アブラハムを愛しておられることを確かめてくださいました。アブラハムは、神の民として召されましたが、神を完全に信頼していない者でした。そして、神よりも自分の考えを優先にし、信仰の失敗を経験した者です。しかし、神はそのような取るに足りなくて、愚かな彼を最後までお見捨てにならず、お待ちくださいました。そのような神の愛と導きの中で、アブラハムは少しずつ正しい道を追う信仰の人物になっていきました。そして、自分の考えではなく、神の御心に聞き従おうとしたアブラハムは、最終的に神の子のような祭司メルキゼデクに出会い、祝福を受ける、大きな恵みを体験したのです。 今日の本文でメルキゼデクが重要な理由は、神の子イエスに対する代表的な旧約のモデルだからです。もともとイスラエルで祭司はレビ族のサドカイ派系列のみ行うことが出来る職として知られていますが、実際に聖書に記された最初の祭司は、レビ族ではなく、イスラエル人でもない、このメルキゼデクだったのです。ひょっとしたら、メルキゼデクはイエス・キリストが旧約で、直接人間の姿をとって現れた存在なのかもしれません。ユダヤ族の子孫であるイエスが、真の祭司と呼ばれることが出来る理由も、まさにこのメルキゼデクというレビ族ではない、最初の祭司から、その職を受け継ぐ方だからです。彼はアブラハムに十分の一を受けることで、アブラハムの礼拝を神にお帰ししました。神はイエスのモデルである、彼を介してアブラハムを祝福なさり、それから、アブラハムが神の偉大な民として生きていくことを予告なさったのです。神は祭司を通して、王に油を注ぎ、彼を祝福なさいます。神の祭司に出会ったアブラハムは、それからは単純な神の民と呼ばれるレベルを超えて、神が立ててくださった王のような存在として生きていき、このアブラハムの子孫を通して、真の王イエス・キリストが生まれることになったのです。このように、神に希望を置いて、神様と共に歩んだアブラハムは、メルキゼデクとの出会いを通じ、キリストと呼ばれる救い主の先祖として、いっそう確実な土台を築きました。 締め括り 「天地の造り主、いと高き神にアブラムは祝福されますように。」(14:19)神の祭司メルキゼデクの祝福を受けたアブラハムは、その後15章で、神だけを信じる信仰によって、神に義とされました。義の王メルキゼデクの祝福を受けたアブラハムは、真の正しい人として神のご計画のように、祝福の源となりました。私たち人間は、知らず知らず罪を犯して生きています。神に従わず、隣人を憎みがちな存在です。しかし、それでも、神は、その人間を愛しておられ、神を追い求める者を祝福してくださる方です。そして、神は旧約のメルキゼデクのような神の真の祭司であるキリストを遣わしてくださり、神に従おうとする者を祝福し、神の民にしてくださる方です。私たちに罪があるといって絶望する必要はありません。私たちが罪人であっても、神を求め、信じて生きていく際に、主は私たちと同道してくださり、キリストを通して私たちを変化させてくださるからです。今日の本文を通して、大昔からご自分の民のために祭司を備えてくださった神、今もまた、キリストという私たちの祭司をくださる神を覚えましょう。そして、私たちを信仰に導かれる神を信頼しましょう。