復活のある人生。

ヨハネによる福音書11章25-26節(新189頁) 前置き 私たちは日常生活で復活という言葉をよく耳にします。 特に、ニュースや新聞では「○○選手の華麗なる復活」「XX特別法が復活した。」などの表現が、よく使われています。これを推し量ってみると、日常生活で使われている復活という表現は、新しい始まりや活動の再開などを示す時、よく使われていることが分かります。復活という表現の本来の意味は「死んだ人が蘇ること。」という意味なのですが、実際に死んだ人が蘇ることは現実では有り得ないので、こんにちの復活という表現は比喩的な意味ではないかと思います。ところが、依然として「死者が蘇る。」という意味として復活を使っているところがあります。まさにキリスト教です。 聖書はイエス・キリストが死んで3日後に復活し、この世を裁くために再臨なさる時に、イエスを信じるすべての者が、イエスのように復活を経験するだろうと証言しています。 そして、キリスト者たちはそれをイエスの約束だと信じています。 なので、復活はキリスト教の最も重要な教義の一つです。皆さんは復活をどう思っておられますか? 今日はキリスト教が語る復活、そして我々の生活の中での復活とは何かについて考えてみたいと思います。 1.死を治めるイエス·キリスト 新旧約聖書を問わず、私にとって最も印象深い語句の中の一つは「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている。」(ヘブライ9:27)という言葉でした。 人間は誰でも一度は死ななければならない存在であり、誰もが、その後に裁きを受けるに決まっているという、神の厳しい警告だと感じられたからです。 なぜ、人は生きるために生まれたのに、死ななければならないのでしょうか? 先日、志免教会墓地の逝去者名簿を見る機会がありました。 最も幼くして亡くなった方は1歳で、最も長生きなさった方は100歳でした。 一人は、とても幼い年で、また一人は100歳の超高齢まで生存されましたが、結局はお二人共、神の召しに応じなければなりませんでした。 名簿を見ながら、人はいつかは死ななければならない運命なのかと、粛然となりました。 そして、皆が死後、神様に裁かれるんだと思い、畏れを感じました。 このように人間は、死の前で限りなく弱くなる存在です。 いつかは神に召され、死ななければならない存在なのに、なぜ人間はこの世での富や誉や権力のために、他者を苦しめ、互いに争い合い、傷つけて生きるのでしょうか? 人生というものの虚しさに改めて、どのように生きるべきだろうかと反省するようになりました。 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ福音書11:25-26)しかし、聖書は死を終わりだと見なしていません。 死後の復活も共に語っているからです。 今日の新約本文であるこの言葉は、ラザロという人が死んだ後、イエス様が彼を生き返らせる物語です。 死んで四日も経ち、臭いがするラザロは、完全に死んでいる状態でした。 しかし、イエスはそのラザロに「ラザロ、出て来なさい」と大声で呼ばれ、彼は蘇らせられました。 イエスはこの出来事を通して、人間の生と死が、神様に遣わされたイエスの権限のもとにあることを教えてくださいました。 人は誰もが、一度は死ななければならない存在です。 人間は、その摂理に逆らうことが出来ません。 しかし、聖書は語ります。 「復活であり、生命であるイエスのもとにいる者は、死んでも生きる。」イエス·キリストは死を打ち砕かれた存在です。 むしろ死は、イエスを信じる者にとっては人生の一部になるだけです。 なぜならば、イエスを信じる我々は終わりの日に、主によって復活させられるからです。 キリスト者にとって死とは、復活を待ち望む人生の一部なのです。 疲れた者が眠り、元気に起き上がるように、イエスのもとでの死は、栄光の復活を経験するための長い眠りに過ぎないものです。 2.復活のためのイエスの苦難 ここで、一つ考えてみるべきことがあります。 なぜ人間は死ぬことが定まっている存在になったのでしょうか。 聖書は、初めに神様が人を造られた時、人に神様と共に生きることが出来る永遠の生命を与えられたと語っています。 人は神の子として創造され、神はその人間を最も大切な子とされたわけです。 しかし、その人間は、自ら傲慢になり、いと高き神の御座を奪おうとする欲望によって、神を裏切り、背く存在となってしまいました。 聖書は、そのような人間の邪悪な振舞いから罪が生まれ、その罪によって神と人間が敵となったと話しています。 ところで、この罪が持つ致命的な問題は、その罪がもたらす呪いとして人間に死が訪れたということでした。 「罪が支払う報酬は死です。」(ローマ書6:23)聖書は、この罪のため、すべての人が死の支配のもとで、死ぬしかない存在となったと証言しています。 つまり、人間が死ななければならない理由は、私たち人間に神様を敵とする罪が残っているからです。 罪とは、殺人、暴力、盗難等の強悪犯罪のみを意味するものではありません。 人間を創造した神を拒否し、神に逆らうすべての行為が罪なのです。 そういう意味で、神様に従わない存在が、殆どを占めるこの世は、罪の固まりと言っても過言ではないでしょう。 それにも関わらず、神様はこのような罪に満ちた、この世でも罪人を諦めずに神様と和解できる手立てを備えてくださいました。 その手立てとして遣わされた方が、まさにイエス·キリストです。 旧約聖書では、人が罪を贖われる手段として獣を屠り、その血で神に赦される方法を提示していますが、この方法の盲点は、自分の罪に気付くたびに、それを繰り返さなければならない、不完全性にありました。 つまり、一度だけの生け贄では完全な贖いが保たれないということでした。それ故に神は、たった一度の生け贄で過去、現在、未来のすべての罪を一気に贖える強力な生け贄を自ら備えてくださいましたが、それがまさにイエス・キリストの十字架での犠牲だったのです。キリストとは神の独り子が人間になって来られた救い主で、罪のない方でした。その方は罪人たちのために、代わって御自分の命を犠牲にして、その罪を贖ってくださいました。 イエス・キリストが苦しみを受けた理由は、神と人間を和解させる、この完璧な生け贄を捧げるためだったのです。 罪に汚された人間を愛した神様が、罪のないイエスに、そのすべての罪を擦り付け、罪人の代わりにイエスを犠牲にしたわけです。 また、神はご自分の死を通して、人間の罪の償いを完全に支払ったイエスを復活させることで、イエスを信じる者たちも、同じくイエスのように罪から自由な者として復活することを約束してくださいました。…