人の信仰と神の契約。

創世記15章1〜21節 (旧19頁)ヘブライ人への手紙11章8〜10節 (新415頁) 前置き キリスト者が持つべき、最も大切な価値の一つは、まさに信仰だと思います。信仰の父と呼ばれるアブラハムは、信仰によって神に義と認められ、信仰の主であるキリストは人の信仰を見て、救ってくださいます。信仰がなければ、神を喜ばせることが出来ず、信仰がなければ、信徒と呼ばれません。私たちは信仰によって神を信じ、信仰によって祈り、信仰によってこの世を生きていく存在です。それだけに、信仰というのはキリスト教の根幹となる、最も重要なものです。しかし、人間は罪のある弱い存在であるため、その人間の信仰は、いつも不完全であります。聖書に登場する、多くの人物たちは、信仰を持っていたにも関わらず、その信仰を貫くことに失敗しました。そのため、神は、神ご自身が、その信仰の保証になってくださり、信徒の信仰を守り、保たせてくださる方なのです。今日の本文では、その人間の信仰と信仰を守ってくださる神の契約についての話が語られています。私たちの信仰がいくら弱いといっても、神様はその小さな信仰を大切にし、守ってくださる方です。神は、どのように私たちの信仰を守ってくださるのでしょうか、そのことについて話してみたいと思います。 1.人の信仰が持つ限界。 神に選ばれたアブラハムは、主のご命令に応じて、生まれ故郷、父の家を離れて、新しい地に行くことになりました。今まで思いもよらなかった神の登場と、思いがけない命令であった「私が示す地に行け」という主の言葉は、アブラハムの信仰をテストする最初の難関でした。創世記では、アブラハムが神の命令を承って、躊躇ったり、拒んだりした話が出て来ないので、私たちは彼が当たり前に堅い信仰を持って、神のご命令に従ったと考えがちだと思います。しかし、私たちと同じ人間であった彼は本当に何の躊躇いも、心配もせず、主のご命令通りに旅立ったのでしょうか?今日の新約本文を通して、当時の彼の気持ちを推し量って見ることができると思います。「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」(ヘブライ11:8)人間が感じる最大の恐怖の一つは、将来が一寸先も見えず不透明であることだと思います。ヘブライ書ではアブラハムが信仰によって服従したと記されていますが、他人の評価であるヘブライ書の記録ではなく、アブラハム自身の気持ちはどうだったのでしょうか?神に召された当時、自分の生活基盤を捨て、未知の将来に向かって進ませられたアブラハムは、どのような気持ちを持っていたでしょうか?「行き先も知らずに出発した。」この短い言葉の中に、アブラハムが持っていた未来への不安が隠れていると思います。私たちは、誰もが計画を立てて生きていきます。今年の夏休みはどこに行けばいいだろうか?どんな仕事を持つべきだろうか?誰と結婚するべきだろうか?子供の名前はどうするべきだろうか?如何なる人生を営むべきだろうか?このように、小さい計画から、膨大な計画まで、私たちの人生は絶え間ない計画の連続です。 しかし、神はアブラハムに詳細な計画を教えてくださらず、ただ、行きなさいと言われただけでした。そのように将来が分からない状況で、アブラハムが不安を抱くのは当然の結果だったでしょう。飢饉を避けるためにエジプトに下ったこと、生き残るために妻を妹だと欺いたこと、財産のために甥と葛藤が起こったことなど、このようなすべての不信仰は、未知の将来への不安から生み出された出来事であるかもしれません。前回の説教でも、お話しましたが、そのような不信仰のために失敗を経験したアブラハムは、以後、再び神への信仰を持って、神を崇めようとしました。神は、そんなアブラハムに大きな戦いで勝利させてくださり、神の聖なる祭司であったメルキゼデクを送ってくださることによって、神がアブラハムと共におられることを証明してくださいました。しかし、アブラハムは、そのような経験があるにもかかわらず、再び信仰の揺らぎを示してしまいました。ロトと別れた後、神への礼拝の生活を通して信仰を守ってきたアブラハムが、再び現実の前で崩れてしまったわけです。 「主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。アブラムは尋ねた。わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。…あなたは私に子孫を与えてくださいませんでした。家の僕が跡を継ぐことになっています。」(創世記15:1-3) 神が直接、アブラハムに現れ、「恐れるな。私がお前の盾であり、お前に報いる存在である。」と話してくださったのに、彼は神への信仰より、相続人がいない現実に飲み込まれ、絶望してしまいました。アブラハムの時代に相続人がいないというのは、将来の不在を意味する深刻なことだったからです。このように不安に震えるアブラハムでも確かに信仰を持っている人でした。しかし、アブラハムの信仰をもってしても、相続人不在の不安を解決することは出来ませんでした。信仰があっても、神を完全に信じられないのは、ひょっとしたら罪人が持つ限界であり、宿命であるかもしれません。だから、人間の信仰はいつも不安定なものなのです。私たちは、自分も知らないうちに、信仰という私たちの行為に重要性を置いたりします。 「私に信仰があるから、キリストに救われた。」あるいは「私に信仰があるから、神が私を導いてくださる。」等。自分が持っている、その信仰に価値を置いたりします。しかし、人間の信仰は、いつも自分の状況に反応して揺れてしまう、弱いものです。私たちがいくら力強く信仰を貫こうとしても、世の中はいつも私たちの信仰を放ってはおかないでしょう。したがって、我々は、自分の信仰に限界があることを認めるべきです。神が守ってくださらなければ、私たちの信仰はいつでも揺れたり、変わったりするはずだからです。私たちの信仰は、あくまでも神のお守りのもとにある際に完全になるものです。 2.信徒の信仰を堅く守ってくださる神の契約。 神に出会って以来、今日の本文の出来事まで、アブラハムはどんな信仰を持って、どのように生きてきたでしょうか? 「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」(創世記12:2)私は12章の言葉と今日の言葉を比較して、このように考えてみました。創世記12章の御言葉に従って旅立ったアブラハムは、自分を大いなる国民にし、名高くしてくださるという神の言葉を、神中心ではなく、自己中心的に解釈したのではないでしょうか。すぐに子供が生まれ、民族が打ち立てられ、自分と子孫が有名になるだろうと漠然と、自分勝手に思っていたのかもしれません。しかし、そのような自己中心的な信仰は崩れやすいものです。神のご意志に主導権を置くのではなく、自分の考えに主導権を置くので、計画がうまく行かず、事がすらすら進まない時、すぐに信仰が弱くなって、神を信頼せず、自分の判断に頼るようになるからです。今日の本文で、神は再びアブラハムの将来について約束し、契約を結んでくださいました。しかも今回は確かに相続人の話を取り上げて約束してくださいました。「あなたから生まれる者が跡を継ぐ。…天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる。」(創世記15:4-5) 今までのアブラハムは、自分の判断に主導権を置いて、生きてきたのかもしれません。しかし、今日の出来事以降のアブラハムは、自分ではなく、神のご判断に主導権を置くようになりました。漠然と考えてきた相続人への自分の考え、つまり、ロトを相続人にしようとした判断、僕エリエゼルを相続人にしようとした判断を捨て、アブラハムから生まれる子が相続人になるだろうという、神の御言葉に主導権を置いて、それを信じ込みました。その時やっと、アブラハムの信仰は初めて神に認められ、その信仰によってアブラハムは義とされたのです。揺れやすい自分の信仰と判断ではなく、揺るがない神の御心と判断を信じた時、アブラハムの信仰は、真の信仰と認められたわけです。真の信仰とは、まさにこのようなものです。いくら強い信仰を持って、熱心に信仰生活をしても、その信仰と判断の主体が自分自身であれば、私たちの信仰はいつも揺れ、失敗してしまう、無意味な信仰になります。しかし、何一つ上手くいかない状況下でも、自分のその現実に束縛されず、神の言葉に主導権を置いて、神の御心を信じ、付き従って行けば、私たちの信仰は、神によって認められ、守られるでしょう。 私たちが、神に主導権を置くべき理由は、主がアブラハムと子孫の信仰を守るために、偉大な契約を結んでくださったからです。 「主は言われた。三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とをわたしのもとに持って来なさい。アブラムはそれらのものを、みな持って来て、真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせて置いた。」(15:9-10)アブラハムが住んでいた古代中東では、大切な契約を結ぶ時、家畜や獣を真っ二つに切り裂いて置き、契約当事者、皆が一緒に、その死体の真ん中を歩いて行ったと言われます。残酷に見えるほどの、この行為には、「契約を破る者は半分に切り裂かれた獣のように惨めに死ぬだろう。」という意味が込められていたそうです。それだけに当時の契約というのは厳重なものでした。 「日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。」(15:17)神はアブラハムに相続人をくださることと、導いてくださることなど、将来のための約束をされた後、ご自分が直接、切り裂かれた動物の間を通り過ぎてくださいました。しかし、アブラハムは、そこを通りませんでした。ただ、神様だけが、そこを通り過ぎられたのです。これは揺れやすい信仰を持つアブラハムではなく、移り変わりのない神お独りだけが通って行かれることを通して、人の信仰の大小とは関係なく、神ご自身がその契約を永遠に守ってくださることを保証なさったわけです。その契約により、神は揺れる人間の信仰ではなく、その信仰を堅く守られる神ご自身を保証とされたわけです。そして、変わらない神との契約により、主の民の弱い信仰は永遠に守られて認められたのです。 締め括り 「その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで。 」(創世記15:18)アブラハムと契約を結ばれた神は、その子孫のために土地を与えると約束してくださり、神の契約が将来にも変わらないと確約してくださいました。このことは、今日の新約の本文を通しても、再び確認することができます。「信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。 」(11:9)神様が約束された契約は、その後、アブラハムの信仰の原動力となりました。アブラハムはその契約を信じ、子孫に伝えました。それにより、出エジプト後、イスラエルが生まれる根拠となり、以降、神の契約は、モーゼ、ダビデを通じ、イエスキリストを通して、今の私たちにまで至りました。そして、神は独り子イエス・キリストの犠牲によって、アブラハムと結んだ契約を守っておられます。神の永遠に変わらない、その契約は、キリストを通して永遠に守られるでしょう。私たちは、神との契約の中にある神の民です。神の契約は、民のために一方的に犠牲を払ってくださった愛の約束です。その約束は永遠に変わらないものであり、永遠に変わらない約束の故に、私たちの信仰は、いつも強く保たせられるでしょう。そして最後の日、私たちはその神の契約により、アブラハムの霊的な子孫として神の国の民として、神に受け入れられるでしょう。これらの神の契約を覚えて感謝しましょう。その契約によって、信仰を守られつつ、誠実な民として永遠に生きていきしょう。