断食の本義。

イザヤ書58章3-11節(旧1156頁)マルコによる福音書2章18-20節(新64頁) イエスは表面的にユダヤ人でした。 民族的な背景だけでなく、宗教的な背景もユダヤ人だったわけです。 現代のキリスト者が誤解しやすいことの一つは、キリスト教をイエスが打ち立てたと信じることです。 しかしイエスはキリスト教という宗教を造られた方ではありません。 イエスはあくまでもユダヤ人としてユダヤ人の民族宗教であるユダヤ教の内部者でした. キリスト教はユダヤ教と分かれてから、イエスの弟子であった使徒の教えを中心に興りました。人々はイエスがユダヤ人のラビの一人だと思いました。というのは、イエスもユダヤ人としてユダヤ人の宗教儀式を行う義務を持っておられたという意味でしょう。だから、イエスは主な活動地域であったガリラヤを去り、ユダヤ教の祭りのためにエルサレムに行かれたわけです。 しかし、だからといってイエスが何も考えずに、習慣的にユダヤ教の宗教儀式を従ったわけではありません。主はユダヤ教を離脱してはおられませんでしたが、ユダヤ教の固着化した、間違った教えは拒否されました。イエスはユダヤ人が誤解している聖書の教えを、本来の意味どおり教えようとしましたが、それによって多くの誤解と葛藤の中に置かれるようになりました。 今日の本文に登場する断食も、それに纏わる話しの一つです。 主はこの断食についての教えを通じて、聖書の読み手に何を教えようとされたのでしょうか。 本文の言葉を通して、話してみたいと思います。 1.宗教の機能は何か? まず、ユダヤ教の断食について論じる前に、宗教というものについて考えてみたいと思います。皆さんのご存知のように、世の中には数多くの宗教があります。そして各宗教にはそれぞれの教義と生き方があります。多くの人は、この宗教を通じて、神を追求したり、祝福を求めたり、心の安らぎを得たりします。 何年か前にインドに行ったことがありますが。 当時、現地で非常に驚いたのはインドにヒンドゥー教の他にも数多くの宗教があったということでした。ヒンドゥー教をはじめ、仏教、ジャイナ教、イスラム教、シーク教、ゾロアスター教、キリスト教、その他に多くの宗教があったのですが、一説によるとユダヤ教まであるそうです。そのあと日本に来てみたら、それに劣らない多くの宗教がありました。 神道は宗教というより文化的な形として存在し、様々なスタイルの仏教、天理教、創価学会、その他の数多くの宗教団体が存在していました。インド、日本だけでなく、他の国々でも同様ではないかと思います。なぜ、世の中にはこんなにも多くの宗教があるのでしょうか。イギリスの小説家アラン・ド・ボトンは自分の著書「無神論者のための宗教」という本で二つの点を挙げて宗教が存在する理由について説明しました。 第一に「共同体意識を培うため」でした。 例えば、かつての神道は国体としての日本を支えるための強力な民族宗教でした。現代の日本人にとって神道がどのような意味を持つのかは、私の知識でははっきり分かりませんが、少なくとも太平洋戦争前までは、神道は日本という国家共同体の意識を高めるための宗教的機能を持っていたそうです。 このような影響は植民地でも見られますが。 韓国ソウルには朝鮮神宮という大きな神社があり、私の実家のある釜山にも大きな神社があったと言われます。 戦争の末期には南太平洋の小島にも鳥居があったと言われ、当時の日本にとって神道というのは共同体意識を培う非常に重要な意味を持っていたようです。第二に「守るべき価値を絶えず追求させるため」でした。 各宗教は独自の経典を持ち、それを繰り返して教えます。これはキリスト教も同じだと思います。 我々は、神の御言葉を繰り返し学び、それを教義化して習得します。 仏教にはお経があり、イスラムにはコーランがあります。このようにアラン・ド・ボトンは宗教の存在意味が一種の制度としての役割を持つところにあると考えました。これが一般論だとは言えませんが、かなり説得力のある主張ではないでしょうか?皆さんは宗教について、どのような理解を持っておられますか。 私たちは習慣的な礼拝、献金、祈り、集まりを通じて信仰的な義務を果たすと考えているのではないでしょうか。 ひょっとしたら、私たちも、このような共同体意識の養いと価値への追求という、宗教の制度的な機能の中にいるのではないでしょうか? 2.宗教行為としてのユダヤ教の断食 だからといって、宗教の制度的な機能が悪いとは言えないでしょう。 確かに、ある程度の制度的な機能がないと宗教は保たれないからです。 でも、それがあまりにも過剰になって副作用が生じると、それは重大な問題になってしまいます。 かつての神道は、国家共同体意識の養いという美名の下、他宗教の信徒にも神社参拝を強要し、特にその悪い影響は、日本や植民地のキリスト教に分裂という深刻な結果を残しています。 現在、韓国の長老派は約250の教派に分かれていますが、その最初の分裂の理由は神社参拝への悔い改めについての論争から生み出されました。 また、宗教的価値の追求ということにも問題があります。 日本の教会の中でも、信仰的な価値を追求する熱心な人たちが、比較的熱心でない人たちを批判し、対立することがあると聞いたことがあります。 私が所属していた韓国の教会では、礼拝に熱心に出席し、大金の献金をし、祈りをたくさんする人々が、そうではない人々を非難し、それから信徒の間に葛藤が生じる場合が多かったです。 このように、各宗教はその宗教が持っている、過度な宗教性のため、本質を見失ってしまう間違いを犯すこともあるのです。 今日の本文に記されている断食という宗教行為が、このような宗教性によって変わってしまった代表的なユダヤ教の儀式でした。 もともと断食とは「私が飢え、その飲食を他人に食べさせる。」という意味を持っていたそうです。 しかし、時間が経つにつれて断食は宗教的な熱心さの道具になってしまいました。 ユダヤの宗教家たちは断食に代表される宗教儀式を通して、自身の宗教的な熱心さと水準を誇りとしました。「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。」(マタイ6:16)イエスが警告なさるほど、当時ユダヤ人たちは断食を誤用していたようです。 またユダヤ人には断食を通じて、自分たちの感情と信仰の欲望をも追い求めている姿があったようです。「国の民すべてに言いなさい。また祭司たちにも言いなさい。五月にも、七月にも、あなたたちは断食し、嘆き悲しんできた。こうして七十年にもなるが、果たして、真にわたしのために断食してきたか。」 (ゼカリヤ7:5) バビロンによって滅ぼされたユダヤ人は、神様がまたユダヤ民族を解放させてくださるまで、約70年の間、神様の御心とは関係なく、ただ自分たちの心の慰め、感情的な欲望を満たすために、断食を誤用してきました。 ちなみに五月の断食とは、イスラエルが滅ぼされた月を記念するもので、七月の断食とは、イスラエル民族のある指導者の死を記念するもので、国や民族の悲しみを記念するものでした。 つまり、神様が、なぜユダヤ民族を滅ぼされたのか、その滅亡が持つ意味は何かに対しては、何の反省もしなかったということです。 彼らの断食は、神と何の係わりもないものでした。 それ故に、主はこのような自己中心的な宗教行為としての断食を咎められたわけです。 3. 断食(宗教行為)に対する神の御心。 古今東西を問わず、キリスト教の最大の問題点の一つは、信徒が自分の慰め、家族の幸せ、仕事の繁栄など、自分だけのために宗教儀式を行うということです。 もちろん、私たちの人生、神様の慰め、家族の幸せ、仕事の繁栄は大切なことです。 私はそれ自体を否定するつもりはありません。 私も皆様個人やご家族、職場などのために毎日祈っております。しかし、はっきり知っておくべきことは、それらは私たちの信仰の一部に過ぎないということです。私たちは、それらよりもっと大きい価値としての神様への信仰を持つべきです。イエスは貧しい隣人のために一緒に喜んで食べられ、悲しい隣人のために一緒に悲しみつつ飲まれました。イエスにとって大事なことは、イエスが目立つための宗教行為としての断食ではなく、神様が愛する貧しい者、悲しい者たちに喜びと慰めになる隣人としての生き方でした。イエスは、誰よりも熱心に祈り、誰よりも熱心にユダヤ人として生きました。 しかし、その祈りと宗教的な熱心さは、神の愛に乾いている隣人との同行として現れました。 イエスは決してご自分のための宗教行為に満足されませんでした。主はその宗教行為の結果として、神様の愛を伝えるメッセンジャーになることをもっと大事に思われたのです。…