人間の悲惨さ。

創世記12章10〜20節 (旧 16 頁) ローマの信徒への手紙7章21〜25節 (新 283 頁) 前置き 神は如何なる正しさも無かったアブラハムを、神の主権的なお選びを通して、ご自分の民としてお召しくださいました。そして、それからアブラハムを大きな国民になさり、彼らを通して、この世を祝福してくださるとお告げになりました。以後、神の約束は成し遂げられ、イスラエルという民族が打ち立てられ、最終的には、そのイスラエルを通して、世界を救うイエス・キリストが来られるようになりました。しかし、その道筋には、数多くの試行錯誤と紆余曲折もあったのです。もちろん神様に力が足りなくて、試行錯誤や紆余曲折があったわけではありません」。神に召された人々の失敗により、そのようなことが起こってしまったわけです。神に召されても、人間は依然として力不足の存在であり、罪のゆえに苦しむ存在です。人間から完全に罪の影響が消える日は、キリストが再臨なさる終わりの日であるため、その日が来るまで、私たちはやむを得ず、罪の影響下に生きなければならなりません。これが人間が持つ最高の悲惨さです。今日はアブラハムの物語を通して、人間の悲惨さについて分かち合い、神がその惨めさの中で、どのように人間を導かれるかを話してみたいと思います。 1.アブラハムという人が持つ意義。 私の知り合いの牧師が旧約学の博士号取得のために、エルサレムで何年間か滞在したことがあります。彼から聞いた逸話ですが、その人の現地の知人の中に警察官がいたそうです。ある日、その警察官が儀礼的な検問のために車を止めさせたようですが、車の中には、友達4人が乗っていたそうです。ところで、その4人の名前がす​​べてイブライム、すなわちアブラハムだったという話でした。日本の名前で例えてみると、運転席の男は佐藤アブラハム、助手席は田中アブラハム、運転席の後部座席には、鈴木アブラハム、助手席の後部座席には高橋アブラハムが座っていたわけです。皆がアブラハムという同じ名前の友達だったのです。そればかりか、全世界的にもアブラハムという名前は多いです。それだけにアブラハムという人の存在は重んじられていると思います。このようにアブラハムは、ただの聖書のエキストラに過ぎない存在ではありません。アブラハムは、神にも、人間にも非常に重要に扱われる存在です。なぜアブラハムはこのように重要な位置を占める存在となったのでしょうか? 創世記1章から11章までは、アダム以後、人間の罪と罪人たち、そして、その間に弱くても生き長らえてきた正しい人の系図について取り上げています。しかし、本格的な救いの歴史は、まだ現れていない状況でした。ところが、このアブラハムを中心として、今まで薄ぼんやりとだけ見えていた、救いの歴史が一層顕著に展開しはじめました。神は、アダムが堕落した後、彼の子孫が生き残ることが出来るように、彼らを見捨てられず、常に彼らと共にいてくださいました。特に、彼らの中でアブラハムの祖先であった、アダムの三男、セトの子孫は神の特別なお守りの中に生きてきました。これは彼らを介して、メシアを遣わそうとなさった、神のご計画によるものでした。そして、神は、その計画をアブラハムを通して、初めて明確に成し遂げていかれました。これは、このアブラハムという人の息子と孫によって、確立される国民、すなわち、イスラエルを通して人間を救う救い主が来ることになっていたからです。それほどアブラハムは、罪人の歴史の中で、本格的に正しい人の歴史を立てていく記念碑的な人です。そういうわけで、聖書は、このアブラハムを信仰の父と呼ぶのです。 2.アブラハムという罪人。 しかし、このように偉大なアブラハムも、創世記では、たまに残念な姿を見せます。今日の本文は、そのようなアブラハムのがっかりな姿の一つです。「その地方に飢饉があった。アブラムは、その地方の飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした。」(創12:10)まず、彼は神に伺わずに、エジプトに下って行きました。古代にあって、飢饉というのは、現代の私たちが感じる旱魃や、大雨などとは比較できないほどの、危険なものでした。飢饉に遭ったら、すぐに死んでしまうとの認識でした。アブラハムがウルを離れた理由も、この飢饉によることだったと推定されるほど、飢饉は人間の生命を脅かすものだったのです。このように飢饉を恐れる古代人たちの姿については、十分に理解できる部分だと思います。しかし、アブラハムが見落としたことがありました。それは神の存在でした。アブラハムがウルで、神を知らないうちに飢饉を経験したとすれば、今回の飢饉との違いは、アブラハムの傍らに神がおられたということです。かつて神は彼を祝福の源にすると祝福なさいました。これはすなわち、神がアブラハムと共におられるという約束でもあったのです。しかし、聖書を読めば、アブラハムは、神に何の要求も質問もしなかったということが分かります。結局、彼は、ただ自分の判断に従って、神を無視し、カナンを去ってしまったということでしょう。 ここで、もう一つの問題は、アブラハムがエジプトに下ったということです。旧約聖書で、エジプトといえば、比喩的に人間の罪と堕落を象徴したりします。つまり、アブラハムは、自分の判断に基づいて、神が定めてくださった場所を離れて、罪と堕落の人間の場所に行ってしまったということです。このように神に伺わず、自分の判断に従ってエジプトに行ってしまったアブラハムの罪は、以来、まるでドミノのように連鎖反応を引き起こし始めます。 「エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、わたしを殺し、あなたを生かしておくにちがいない。 どうか、わたしの妹だ、と言ってください。」(創12:12-13)恣意的な判断でエジプトに行ったアブラハムを待っていたのは、現地人の警戒だったのであり、アブラハムは生き残るために、いざとなったら自分の妻を捨てようとする非倫理的な罪の心を持っていたのです。 「アブラムがエジプトに入ると、エジプト人はサライを見て、大変美しいと思った。 ファラオの家臣たちも彼女を見て、ファラオに彼女のことを褒めたので、サライはファラオの宮廷に召し入れられた。 アブラムも彼女のゆえに幸いを受け、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ろば、らくだなどを与えられた。」(創12:14-16)生き残るために妻を他人に渡したアブラハムは、その対価として、ファラオと同盟を結び、また、多くの財産を得ました。それでも聖書にはアブラハムが悔い改めたという言葉が、たった一言もありません。妻を諦めて、安全と富を得たというのは、まさに彼が神に頼らず、自分の意志で生きようとする人だったという意味ではないでしょうか? 結局、神はサライのことで、エジプトに恐ろしい病気を下されました。ファラオは、この災いにより、サライがアブラハムの妹ではなく、妻であることを知るようになりました。エジプトが罪と堕落の象徴として言われるところだったとしても、そこに住む人たちも、結局は、私たちのような普通の人でした。日韓感情によって、両国のイメージが、互いに良くなくても、日韓のすべての人が、そのような悪人ではないように、エジプトの人たちも、家族や職場と生活がある普通の人だったわけです。アブラハムは、自分の命を守るために、エジプトの人々にも恐ろしい病気という大変な迷惑をかけてしまったのです。まとめてみましょう。アブラハムは神に伺わないことで神を無視し、自分の判断に従い、エジプトに行ってしまいました。エジプトでは、生き残るために、自分の一人だけの妻を妹だと騙し、他人に渡して安全と富を保障されました。自分の嘘のゆえに、エジプトの多くの人々をひどい目に遭わせました。また、今日の言葉には出て来ませんが、不正で増やしたエジプトからの財産のゆえに、甥のロトとの関係が悪化し、彼を滅ぼされるべき、罪の町であったソドムとゴモラに行かせてしまいました。そのため、最終的にロトの家庭が破壊される結果をもたらしました。 3.人間の悲惨さ。 人が神に召されたからといって、自動的に正しい人になるわけではありません。 2020年の統計で、全世界で21億人のクリスチャンがいると言われます。これは現存人類の33%に達する数字です。しかし、すべてのクリスチャンが本当に神の御前で正しく生きているのでしょうか?毎週、説教する牧師だと言って、皆、正しく生きていると断言することはできません。毎週、教会堂に出席していると言っても、神様に認められていると勝手には言えないでしょう。アブラハムのような偉大な信仰の人物でも、結局、罪のために、今日の本文のような出来事を起こしてしまいました。こういうのが人間の悲惨さです。人がいくら自分の思いで、これは正しいと考えても、その結果が人間の考えとは正反対に出たりすることがしばしばあります。 「罪に落ちたというのは、どういうことですか?-それは人間が神の律法を破り、神から与えられた自由を乱用して、かえって、真の自由を失ってしまい、欲望と不従順との奴隷となってしまったことです。」日本キリスト教会の大信仰問答、人間編45問では、人間が堕落の罪によって、神に与えられた真の自由を守れず、かえって、その自由の乱用により、罪の奴隷となってしまったと教えています。 ひょっとしたら、アブラハムは飢饉のため、神に伺ってみようとの思いも持てずに、取り急ぎ、今まで通りに自分の決定に従い、エジプトに行ったのかもしれません。しかし、神のいない自由を乱用した結果、神を無視することになり、妻を裏切り、正しくない富を得、他人に災いを起こす、悪い結果をもたらしました。これがまさにアブラハムを通して表現された信者に潜んでいる悲惨な罪なのです。これはただ、アブラハムのみの事柄ではないでしょう。私たちも人生の中で神の御心とは関係ない、自分の思いに捉われて、勝手に行なってしまった後、悔い改めた経験があるでしょう。今日の新約本文で使徒パウロはこう言いました。 「それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。内なる人としては神の律法を喜んでいますが、 わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。」(ローマ7:21-23)私たちがキリストを信じ、聖書を読み、切に祈り、信仰生活をしても、罪は相変わらず、私たちの中に残っています。そして、その罪は連鎖反応を起こし、私たちの人生を惨めに作ります。私たちは、自分の中に、このような悲惨さが、依然として残っていることを謙虚に受け止め、自分の弱さを認めなければなりません。そして、そこからキリストに依り頼み、悔い改めるべきです。自分の罪と弱さと惨めさを認め、神に求める人に神は避ける道をくださるからです。 締め括り 「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」(ローマ8:1-2)神は、後にアブラハムを再びカナンに導かれ、彼に生きる道を与えてくださいました。アブラハムは罪を犯しましたが、神はお赦しをもって、彼のすべてを回復させてくださり、再び神の御前に生きさせてくださいました。私たちキリスト者も、もともと罪と悲惨さから自由ではありませんが、神はキリストを通して、そのような私たちが、その罪と悲惨さに勝ち抜く力を与えてくださいます。あの偉大なアブラハムも罪のゆえに躓きました。自分の妻を売り、他人を苦しめる罪を犯したのです。ましてや、我々は罪から自由なのでしょうか?そうではないでしょう。しかし、神は私たちが、そのような生活の中で勝ち抜くことができるよう、キリストを通して一緒に歩んでくださいます。人間は悲惨な存在です。しかし、その悲惨さをキリストは知っておられ、そのために聖霊を通して、一緒にいてくださるのです。今日の言葉を通して、私たちを罪と悲惨さに見捨てられず、導いてくださる神を仰ぎ見ることを願います。

神を知る知識。

イザヤ書1章11- 17節 (旧1061頁)マルコによる福音書1章21-28節(新62頁) 前置き 今日の新約の本文は、一ヶ月前に分かち合ったイエスがカファルナウムの会堂で悪霊を追い出された本文と同じ箇所です。しかし、前の説教で取り上げなかった話しがあり、今日は異なる視点から本文をもう一度探ってみたいと思います。私は一ヶ月前の説教で悪魔の性質について話しました。神の御心に逆らって、自分自身が神のようになろうとするのが、悪魔の代表的な性質であるとお話しました。アダムとエヴァが神を裏切った理由も、自分が神のようになるためであり、バベルの人々が罪を犯してバベルの塔を建てた理由も、自分たちが神の御座に上って行こうとする理由からでした。そして、私たちが生きていくこの世界も、自分が神のようになり、他者を踏みつけ、さらに高いところに上がろうとする、悪魔の性質に似ている所であると説教しました。このような世の中で、キリストの体なる教会、すなわち、キリスト者は、神の御座を奪おうとする悪魔の性質に対抗して、唯一の神のみに仕え、主の御心にふさわしい生活をしなければならないというのが、この前の説教の主題でした。今日は本文が持っているもう一つの部分について考え、私たちが貫くべき在り方について、分かち合いたいと思います。 1.天使と悪魔。 古代ヘブライの、ある文献の中に、このような文章があるそうです。 「神の御心に従う人がすなわち天使であり、神に逆らう人がすなわち悪魔である。」これは善いことをすれば天使となり、悪いことをすれば悪魔となるという、単純な話ではないでしょう。また、霊的存在としての天使と悪魔への知識だけにとどまる意味でもないと思います。おそらく、この文章の本当の意味は、神の御言葉に対する人間の心構えに従って、人間が善良な存在になることも、邪悪な存在になることも出来るという意味でしょう。イランとインドの地域にはゾロアスター教という宗教があります。有名な哲学者ニーチェの著書である「ツァラトゥストラはこう語った。」のツァラトゥストラが、まさにこのゾロアスターです。ゾロアスター教は、そのゾロアスターという人が打ち立てた宗教なのです。この宗教は天国と地獄、天使と悪魔などを認める教義を持っていました。ところで、この宗教はヘレニズム時代に西洋に渡っていき、ギリシャやローマの文化に影響を与え、インドの方にも渡っていき、ヒンドゥー教や仏教に影響を及ぼしたそうです。そんな影響で、旧約聖書では、あまり示されなかった天国と地獄、天使と悪魔に関する概念が、ヘレニズム文化の影響を受けた新約聖書には、より顕著に現れていると言われます。 東アジア地域に住んでいる私たちは、大なり小なり、このゾロアスター教の影響を受けた仏教文化圏で生きてきました。また、キリスト教の教義でも、そのような影響を少なからず見つけることができます。もちろん、天国と地獄、天使と悪魔は存在すると信じています。彼らの存在を認める新約は、神に与えられた御言葉であり、旧約でもそのような概念が全く無いわけではないからです。しかし、我々は天国と地獄、天使と悪魔を、漠然と私たちが住んでいる現実と懸け離れたものとして受け入れてはならないでしょう。むしろ、旧約を記録した、古代ヘブライ人の視点から、天使と悪魔について考えて見るべきだと思います。もし、神の御言葉を聞くだけで、実践の無い、ただ頭の中の知識としてのみ、受け入れるだけならば、我々は結局、神に従わない悪魔のような人と評価されてしまうかも知れません。反対に私たちが神の言葉を情熱を尽くして信じ、実践するなら、私たちは神に天使のような存在として褒められるでしょう。私たちに「信仰によってキリストに救われた。」という信仰があるなら、私たちはそのキリストに救われた者が持つべき在り方にふさわしい存在として、神に聞き従う人、善を行う人、天使のような人として生きていくべきでしょう。 2.悪魔も持っている神への知識、しかし。 イエスがシモン・ペトロとアンドレ、ヤコブとヨハネを召された後、ある安息日に、主は彼らの町であったカファルナウムの会堂に入って行かれました。むかしバビロンによってエルサレムの神殿が崩れた後、ユダヤ人たちは、神殿の不在による民族の信仰の堕落を挽回するために、町々に会堂を設置し、それを中心に信仰と社会を導いていこうとしました。以後、新しい神殿が再び建てられましたが、会堂を中心とする彼らの生き方は変わりませんでした。つまり、会堂はまるで今の教会堂と役場の両面性を持つ場所だったということです。当時、ラビなら誰でも会堂で聖書の説き明かしを行うことが出来ました。ラビの一人と見なされていたイエス様も、会堂で解き明かしされるためにお入りになったのです。ところで、そこに汚れた霊に取りつかれた男がいたのです。 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」(23-24)大勢の人々が主の御言葉を聞いて、「権威ある者のようなお教え」に驚いていた時、イエスが神の聖者であることを最初に見抜いたのは、普通の人ではなく、この悪霊に取り付かれた者でした。 一部の人々は、この言葉を読んで、こう考えることもあるでしょう。 「さすが、主は偉大なお方だ。悪魔たちも、イエスがどなたなのか、きちんと知っているのだ。ならば、私たちも、彼らに負けるわけにはいかない。よりいっそう主を熱心に信じ、聞き従おう!」ですが、当時の文化の背景であったヘレニズムの観点から見れば、その悪霊に取り付かれた人が叫んだ「あなたは神の聖なる者だ。」という言葉は、単に造り主、唯一の神への畏敬の念を持つ服従の意味としての叫びではありませんでした。これは、古代ギリシャの神殿で行われていた「神を呼び出す行為」と似ているものだったのです。彼らはイエス・キリストを自分の救い主、この世界の支配者として受け入れて告白したわけではなく、「偉大なゼウスよ、神聖なる神々よ。」のように異邦の祭礼的な表現として、イエスを呼んだのです。彼らはイエスを聖なる者と言いましたが、彼らの行為は、そのイエスに仕える者の姿ではありませんでした。人に取り付いて、彼らを苦しめ、傷付ける邪悪な仕業をしていただけです。彼らはイエスに滅ぼされないことだけを願って恐れていたのです。私たちが、いくら教会で「主を信じます。神を愛しています。主は聖なる方です。」と告白しても、それが実践のない、ただの口先だけの叫びにすぎなければ、結局、私たちも本文の悪魔が持っていた神への間違った知識と、そんなに違いが無いのかも知れません。神を知る知識は、言葉だけで示されるものではありません。キリストの民にふさわしい生き方がなければ、それはただ、神に認められない、無意味な知識で終わってしまうでしょう。 3.神を知る知識 – 関係と実践。 旧約聖書には、「ヤダ」というヘブライ語の表現があります。これは日本語で「知る」、「理解する」と翻訳できます。ところで、この「ヤダ」が意味する「知る」という意味は、頭だけで知るという意味ではありません。旧約聖書で「ヤダ」を用いて表現した非常に印象深い箇所があります。創世記18章の話です。三人の神の使いがソドムとゴモラを滅ぼそうと行く途中、アブラハムがその使いたちに会って食事を持て成しました。その時、神様が彼らを手厚くもてなしたアブラハムにこう言われました。 「わたしがアブラハムを選んだのは、彼をとおして息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」(創世記18:19)この言葉に「わたしがアブラハムを選んだ。」という表現が出てきますが、ここで「選んだ。」という言葉が「ヤダ」を翻訳した表現です。神はアブラハムを非常に信頼なさり、その人を通して素晴らしい御業を成し遂げようという意味で彼を「ヤダ」つまり、お知りになったという意味です。私たちが神を知ることは、まず神様が私たちを知ってくださり、私たちに神への知識を与えてくださったことを意味します。そして、その知識は、単に「知っている」という意味を超える「神との密接な関係」を意味するのです。つまり、神を知るということは、神とキリスト者の間に主従関係を結び、主のご意志に服従し、信頼するという意味です。 今日の新約本文の悪霊も、イエスを知ってはいました。主が神の独り子であることも、偉大な審判者であることも知っていたのです。しかし、イエスへの彼の知識は、関係という意味での知識ではありませんでした。ただ頭で知るだけのものでした。イエスの御言葉に聞き従う意志も、心もなく、イエスが命じられた「自分の体のように隣人を愛しなさい。」という言葉のような、他人への配慮と愛もありませんでした。神への彼の知識は、ただ知っていることだけにとどまるものだったのです。異邦の偶像崇拝者が生きてもいない神々に自分の欲望のために意味のない祈りをすることと同じように、悪魔が理解していたイエスは、主としてのイエスではなく、ただ自分と関係のない存在への認識であるだけだったのです。私たちは、神をどのように理解しているでしょうか?また、神をどのように知っているでしょうか?ただ、祈りと礼拝とを捧げれば、祝福してくださる神という意味だけで信じているのではないでしょう?人が神への正しい知識を持っているならば、それは神との関係、つまり、生活での実践を通して示されるべきです。会堂で悪霊に取り付かれた者と周りの人々を苦しめていた悪魔のような行為をしながら、ただ、頭の知識だけで、神を知っていると思うなら、神はその知識を否定なさるかも知れません。そして「私はあなたを決して知らない。」と言われるかも知れません。私たちは、今日の本文を通して、どのように神を知り、理解しているのかを顧みるべきでしょう。私たちは、神を知っていますか?そうであれば、私たちの生き方は、どのような方向に進むべきでしょうか? 締め括り 「お前たちのささげる多くのいけにえが、わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に、わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが、誰がお前たちにこれらのものを求めたか、わたしの庭を踏み荒らす者よ。洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ、善を行うことを学び、裁きをどこまでも実行して搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ。」旧約のイスラエルの民は、神への誤った理解を持っていました。異邦の偶像のように、ただ多くの供物と祭礼を捧げれば、神が祝福してくださるだろうと思ったのです。しかし、神は、ご自分の民が生け贄を捧げるより、神の民らしく生きることをお望みになりました。頭の知識だけで、従順に聞き従う行為なしに生きることは、神の御前に大きな罪になります。私たちの生活の中で必ず、神への知識に相応する実践が必要です。確かに私達の救いはイエスの御救いにかかっています。ひとえにイエスへの信仰だけが我々を救いに導きます。しかし、善い行いを無視して、救いだけを追い求めて生きているのなら、私たちは自分の信仰が正しいかどうか省みるべきだと思います。イエスをまともに知っている者は、神を愛され、隣人を愛されたイエスに倣って生きようとする意志を持って生きるからです。人は誰でも天使のようにも、悪魔のようにもなることができます。神を知る正しい知識を持って、キリストの民として神と隣人を愛し、キリスト者らしい人生を生きていきましょう。神の祝福は、このような知識の実践のある生活にあるからです。

神のお召し。

創世記11章27節-12章9節 (旧15頁) 使徒言行録7章2-5節(新224頁) 前置き 私たちは、これまでの創世記の説教を通して、神の完全無欠な創造、人間の堕落、堕落後の人間の歩みについて学びました。それを通して、私たちが明確に分かるようになったのは、人間に明らかに罪の問題があるということ、神が人間を愛し、その人間の罪を解決することを望んでおられるということでした。そのような神の人間への愛は創世記12章のアブラハムの登場により、具体的に成し始められました。私たちは聖書で読む語句の中でしばしば「アブラハムとイサクとヤコブの神」という言葉を目にします。特にアブラハムの孫であるヤコブが神と出会った後に、神はその名を変えてくださいましたが、まさにイスラエルという名前でした。そして新約聖書は、アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてイスラエルの精神を継承した共同体が、キリストの体なる教会であると証言しています。神はアブラハムをご自分の民として召され、以降モーセを通して民が追求すべき精神である律法と、イエスによる全人類を救う福音を与えてくださいました。神は、その律法と福音の中で、神が選ばれた民を教会と、お名づけくださいました。したがって、今日、私たちが取り上げるアブラハムの物語は、アブラハムという一人の人間の話ではなく、教会の話です。アブラハムに与えられた召しを通じ、私たちに託された召しとは何かについて、考えてみる時間になることを願います。 1.正しくない者をお召しくださる神様。 本格的に聖書の内容を取り上げる前に、テラとアブラハムが登場する昔話を分かち合いたいと思います。まずはヨベル書というユダヤ教の古代文献に出てきた話です。 「カルデヤのウルに父テラと一緒に木造偶像を作っていたアブラハムが父に質問しました。お父さん、木で作られた偶像は、息も命も無いのに、なぜ人々はそれに拝むんですか?するとテラが答えました。息子よ、私も知っている。しかし、我々が、この偶像が偽神だと言ったら、私たちは、この偶像を崇拝する者たちに狙われて殺されるだろう。だから知らないふりをしなさい。」次は、ミドラーシュというユダヤ教のモーセ五書の解説書に出てくる話です。 「父と偶像の商売をしているアブラハムは、命もない偶像を崇拝する人々を、全く理解することができませんでした。ある日、アブラハムは作業室の木の棒を持って小さい偶像をすべて叩き壊しました。そして、一番大きい偶像の手の上に、その木の棒を置きました。しばらくして、テラが戻って来た時、作業室はぐちゃぐちゃになっていました。それで、テラはアブラハムに問い詰めました。何だ!これ!お前の仕業か!するとアブラハムは言います。一番大きい偶像が小さい偶像らを妬んで、叩き潰しました。するとテラは真っ赤になった顔で叱りました。馬鹿野郎!とんでもないことを言うな。生きてもいない偶像が、これらを倒せるもんか!馬鹿にするな!」 ユダヤ人は、自分たちの先祖アブラハムが正しい人だと思いました。ヨベル書とミドラーシュの物語には、そのようなユダヤ人の心が込められていたのです。しかし、聖書のどこにも、アブラハムが自ら正しかったので、神に召されたという話はありません。むしろ、何の正しさもなかったアブラハムが、自分自身ではなく、ひとえに神を信じ込んだので、神に義と認められたと証ししています。結局、アブラハムも罪を持っている罪人に過ぎなかったということでしょう。アブラハムが住んでいたウルはメソポタミア文明の中心地のような町でした。ウルは多くの神​​々を信じる多神教社会であり、アブラハムはそこで偶像を作る偶像崇拝者だったのです。つまり、彼は自分自身が神を訪れて行ったわけではなく、神が彼にお訪れになり、選ばれて、神の民にしてくださったわけです。神はこのように、義のない者に義をお与えになり、ご自分で保証してくださる方です。そして、新約聖書の時代には、その役割がキリストに受け継がれました。クリスチャンは正しいから救われた存在ではありません。誰かを憎んだり、悪い心を持ったりします。しかし、神は信徒の行為ではなく、キリストのお執り成しを介して、ご自分の民をお受け入れくださいます。だから、神のお召しは、主イエスによる、無償の贈り物であることを忘れてはなりません。 2.主の民を、お先に知っておられる神様。 創世記には、神がアブラハムを「ハラン」から呼び出されたと記されています。聖書によると、ハランはアブラハムの死んだ兄弟の名前だったと言われます。テラの家族はウルに住んでいたが、なぜ当時の文明と文化の中心地であったウルを離れて、ハランに移ったのでしょうか?息子ハランの死を悲しんでいたテラが痛い記憶を振るい落とすために引っ越ししたわけでしょうか?あるいは、神がウルで、その家族に現れて、移住を命じられたのでしょうか?使徒言行録の7章でステファノの説教では、このように取り上げられています。 「わたしたちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかったとき、栄光の神が現れ、 あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行けと言われました。」ステファノはテラの家族の移住が神のお召しによるものだというニュアンスで話しました。ところがこのように見れば、創世記と使徒言行録の言葉に矛盾が生じるということが分かります。神がアブラハムをお召し出しになった場所が、創世記ではハランであり、使徒言行録ではウルであるからです。一体、神がアブラハムをお召しになった、正確な場所はどこなのでしょうか? 様々な解釈があるでしょうが、確かなことは、神はアブラハムがウルにいる時から、すでに彼をお選びになったということです。ひょっとしたら、アブラハムはウルで神に出会ったかも知れないし、あるいは、後にハランで出会った可能性もあります。しかし、明らかことは、アブラハムが神に出会う前に、神はすでにアブラハムを知っておられ、選んでくださったということです。おそらくステファノは、すでにお選びになった、その神の偉大さを示すために、ウルでアブラハムに現れたと言ったのかもしれません。聖書外的な話ですが、アブラハムが生きていた時代と推定されている、紀元前2000年ごろ、ウルには、強力な王国があったと言われます。人々はそれをウル第3王朝と呼びます。ところで、このウル第3王朝は、強力な国だったにも拘わらず、その歴史は100年強にしか至らかったと知られています。考古学者たちが、その理由を知るために研究をした結果、当時ウルの地層から強い塩分が発見されたそうです。数千年の農業の故に、土地が荒れてしまい、塩分が多くなって農業が難しくなり、それによって飢饉が生じたわけです。おそらくウル第3王朝は、そのような飢饉による国力の低下と異民族の侵略によって滅びてしまったかも知れません。その頃、全人口の4割くらいが故郷を捨てて、ハランなどの新しい場所に移っていったそうです。日本の状況に言い替えれば、割合的に九州地方の4倍の人口が他国に行ってしまったという意味です。 私たちは、テラの家族が、なぜウルを離れてしまったのか、なぜハランに定着したのか詳しくは知ることができません。上記のような歴史的な理由か、本当に神が現れて導かれたからか、聖書だけでは分かりません。しかし、重要な事実は、飢饉と移住、神のお召しを問わず、そのすべてが神のご計画の中にあったということです。神はすでにアダムとセト、ノア、セムを通じてアブラハムの人生をきちんきちんと準備なさいました。そして創世記12章に至って、最終的に神は彼の人生に介入なさいました。アブラハムは神を知りませんでしたが、神はこの世界の創造、人間の堕落、人類の興亡盛衰の中で、アブラハムという存在の登場を備えておられたのです。神のご計画は、私たちの考えとは全く異なる方法で近づいてきます。私たちが神を知るにも前に、神は、すでに私たちのことを知っておられ、私たちと出会う日を待ち望んでくださり、私たちに訪れて来られたのです。日本の1億3000万人の中で、たった1人である私に来てくださったわけです。それぞれ生きてきた人生も、記憶と経験も異なりますが、神は私たちの苦難の中と、喜びの中で、私たちとの出会いを準備なさり、神がお定めになった時に、私たちに来てくださいました。神は、私たちが生まれる前から私たちを知っておられました。その神が御子の血を通して、私たちを救い、お召しくださったのです。それだけにあなたは神にとって大切な存在なのです。 3.神に召された者たちの在り方。 「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」神はアブラハムが祝福の源になると言われました。しかし、彼は長い間祝福どころか、心配の中で生きなければなりませんでした。神の計画により、召されたアブラハムでしたが、彼は後を継ぐ子供もなく、老いていく一方でした。彼は故郷のウルを離れなければならない困難を経験し、ハランでも辛うじて落ち着いたようなものでした。しかし、神は彼に現われて、自分のすべてを捨てて、神に従いなさいと命じられました。しかし、その結果は絶え間ない苦難の連続でした。神に付き従うということは、ただ幸せになるだけの道ではありません。 ローマ時代には「皇帝が上か、キリストが上か」という質問によって、16世紀の日本では踏み絵を拒否したというわけで、また植民地信徒たちの中には、主イエスを唱えて特高によって拷問を受け、死んだ人もいました。共産主義者たちがイエスを信じる人を残酷に銃殺した場合もあり、今も中東では、福音のためにイスラムの原理主義者たちに殺されるクリスチャンも存在しています。 ヘブライ書には、このような言葉があるほどです。 「彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。」(ヘブライ11 )数多くの聖書の人物たちは、もし神を知らなかったら経験しなくても構わない苦難を、神の民であった故に経験して生きました。それにもかかわらず、神は常に神の民を召しておられます。なぜならば、神はその民を通して、この世界に祝福をもたらされる方だからです。神はアブラハムがまだ神を知らなかった時から、彼を選ばれ、彼が世のための祝福の源となるように導いてくださいました。そして、その結果は、キリストの到来に繋がりました。神様が私たちを召される理由も、私たちを通して、祝福をくださるためです。私たちの口と生活を通して伝わる、主の福音を通して救われる者をお召しになるためです。ですから、私たちが神に召された者であれば、私たち自身がそれを認めて頷くことができれば、どのような苦難と迫害があっても、打ち勝つ強力な信仰を持って生きるべきです。そのような生き方に、神はきっと避ける道をくださり、満ち溢れた祝福をくださるでしょう。 「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハネ12:24-26)キリストは、主のその苦難をご自分の栄光になさいました。そして、主イエスは、苦難の十字架を栄光の十字架に変えられました。皆さん、今日は、少し心が重くなる説教をしました。しかし、「苦難なくして、栄光は果たせない。」という言葉もあるでしょう。私たちが、この世を生きていきながら、幸せと喜びだけを追い求める信仰生活をするなら、神が望んでおられる福音の前進は成し遂げられないでしょう。私たちの全生涯が苦難のみに満たされてはいけないでしょうが、それでも、私たちを召された父なる神、私たちを救われた主イエス・キリスト、私たちを導かれる聖霊と共に歩んで、他人に福音を伝える者として苦難を恐れず、生きて行きましょう。神の召しは苦難と栄光の二つの顔を持って来ます。そのような召しに忠実に適う時に、神は「忠実な良い僕だ。よくやった。主人と一緒に喜んでくれ。」と褒めてくださると信じます。

初めであり、終わりである神様。

イザヤ書40章27-31節 (旧1125頁)ヨハネの黙示録22章12-13節(新479頁) 前置き 明けましておめでとうございます。いよいよ2021年の新しい年が明けました。今年も神の恵みの中で平和と喜びに満ちた一年になることを祈ります。皆さんは、今年、どのような願いを持っておられますが?私はコロナ禍が終結することに加えて、志免教会を通して働かれる神の御手を、皆さんと一緒に見ることを願います。その御手による御業が何なのかについては、今、私が詳細に言うのは難しいと思います。神がどのようなことをなさるかは、私も知ることが出来ないからです。ただし、私個人の願いは、どうか志免教会の周りの隣人が教会に向かって、心の扉をいっそう大きく開くこと、そして、皆さんのご家族の神を知らない方々、神との関係が遠ざかっている方々が、神の御前に来ることを通して、神が私たちの間に働いておられることを発見したいと思います。もちろん、そうでなくとも、神はすべての物事の主でいらっしゃり、ほめたたえられるべき神様です。しかし、少なくとも、これらの願いを持って、新しい一年を祈りを持って生きていきたいと思います。 2021年は、神の偉大さが志免教会の歩みの中で、そして、皆さんの生活の中で、明かるく輝くことを望みます。 1.初めであり、終わりである神様。 皆さんはヨハネの黙示録を好んでお読みになりますか?黙示録はかなり難しい本でしょう?黙示録は、その内容が難解で意味も不明確な部分が多くあるため、神学を専攻した人々にも、難しい聖書だと言われています。しかし、この難しい黙示録も、割と明確にテーマを持っています。私はそれが、まさに今日の新約本文の語句だと思います。 「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。 わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」(12-13)黙示録が、非常に難しい聖書であることは明らかですが、黙示録は、私たちの主であるイエスが、この世界を治めておられることと、いつの日か、この世界をことごとく御裁きになることと、それまで信仰を堅く守る者に報いてくださることについては、明確に語っています。」そういうわけで、黙示録の冒頭と末尾に「 わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」という言葉が出て来るのです。これはキリストがすべての物事の主でいらっしゃることを強調するわけです。神は、最初から最後までを司られる方です。神によって、この世界が造られ、神によって私たちが生まれ、神によって私たちは、この教会堂に集って、すべての初めであり、終わりである神様を礼拝することが出来るのです。 先週の説教で、私は永遠という言葉についてお話しました。キリスト教にとって永遠とは、「神が最初から最後まで、全てを司ること。」であり、永遠の命とは、その「すべてを司る神と共に歩み、生きていくこと」だと話しました。今日の本文の「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」という言葉も、この永遠と深い関係を持っているのです。神様が最初から最後までの全てのことを司られ、すべてのものを治める永遠の御方でおられること、その方がお遣わしになったキリストが、その支配を自らなさっておられることを黙示録は力強く告白しているのです。過ぎし1年を振り返ってみると、全世界でコロナによって180万人が亡くなりました。米国と中国、日本と韓国が対立しました。北朝鮮は相変わらず、核兵器で世界を脅かしています。私たち人間の生活の中で、昨年の様々な問題は、命が脅かされるほどの恐ろしいことでした。いくら強力な権力者であっても、戦争と疫病の猛威の前では、手が付けられないからです。しかし、この全ての出来事はアルファであり、オメガである神様のご計画の中の、ほんの微かなことにすぎません。もちろん、戦争や疫病で人が死ぬことを神のご計画だとは言えないでしょう。もし、神が無分別な死をあおぎ立てる方であれば、彼はすでに神ではなく、悪魔であるでしょう。 すべてが神のご計画の中にあるということは、神が、この混乱した世界の中でも、神の御心に基づいて、世界を正しく導いていかれるという意味です。創造の時、初めの人間が犯した罪の結果は、この世の中に混乱をもたらすことでした。神が初めに造られた完全な世界は、人間の罪によって崩されました。対立も、戦争も、疫病も、そのような人間の罪の故に生まれた悪の副産物なのです。しかし、神はそのような混沌の世界の中でも、相変わらず、キリストを通して慰めと救いとを与えてくださる方です。 「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」(Ⅱペトロ3:8)現在、私たちの人生の中で起こる、すべての危機は、人間のみに適用されるものです。神様の立場においては、この世界の千年が、私たちがお茶を分かち合うほどの短い時間にすぎないかも知れません。つまり、この地の危機が神の危機になることは有り得ないということです。神は、その危機よりも大きい方であるからです。むしろ、神にとって、そのような微かな危機の中でも、人間をお覚えくださり、愛してくださる主の偉大さに感謝したいと思います。神がお造りになった、この世界が罪と悪の故に混乱しているけれども、神はいつか、この罪と悪を終わらせられることでしょう。その神を堅く信じ、世の危機に怯えず、神の偉大さに畏れおののく私たちになることを望みます。初めであり、終わりである神様が、この一年も私たちと共におられることを願います。 2.慰めと力を与えてくださる神様。 神は慰めてくださる方です。ヨハネの黙示録の審判者、神様は、神を憎み、逆らう者らに向かって裁きを下される方です。しかし、神を愛し、主の子供として生きようとする者には、喜んで父になってくださる方です。皆さんにとって父という存在は、どのような記憶として残っていますか?私は10歳になるまで、父がいませんでした。私が生まれる前に父は船舶事故によって亡くなったからです。そんななか10歳の冬ごろに、母の再婚を控え、今の父に出会いました。背が高く、声も太く、心が暖かいおじさんが、生まれてから一度も父がいなかった私に、父となってくれました。父がいなかったので、友達の前で父の話を持ち出すことが出来なかった私が、自然に父の話を持ち出すことになりました。それ以来30年間、私の父は私の一人だけの父となったのです。神もそのような方です。過去、肉体の父がどのような人であったかとは関係なく、父なる神様は、完全な愛と慰めと救いの父になってくださる方です。神がキリストを通して私たちをご自分の子供として召された理由は、私たちが天の父なる神様から愛と慰めと救いをいただくためだったのです。 今日の旧約本文は、神を捨て去って、罪と悪の道に進んでいたイスラエルの民が、神の御裁きを受け、バビロンの捕囚として連行された後、神によって解放され、故郷に帰ってくる時、記された慰めの言葉です。 70年間バビロンとペルシャの捕囚として生きてきて、神様が自分たちを憎んでおられると誤解していたイスラエルの民に、神は、愛の神であり、慰める方であり、力をくださる父であることを知らせるためにこの言葉が与えられたわけです。 「ヤコブよ、なぜ言うのか?イスラエルよ、なぜ断言するのか?わたしの道は主に隠されていると、わたしの裁きは神に忘れられたと。」(イザヤ40:27)神様がご自分の民に罰を与えられる理由は、彼らを滅ぼすためではありませんでした。神は、主の民が間違った道に行くときに、懲らしめを下されて、神に帰ってくるようになさる方です。親が愛する子供に戒めを与えるように、先生が大切に思う学生に罰を与えるように、神の民に与えられる苦難は、神の御裁きではなく、愛の懲らしめであるのです。神はご自分の民が幸せと喜びを持って、世を生きて行くことを願っておられる方です。しかし、幸せと喜びを口実に我が儘に生きることは望んでおられません。神はその民が信仰を堅く守り、隣人への愛を持って、主と一緒に同行する生活の中で真の幸せと喜びを見つけることを願っておられる方なのです。そのような生活を促すために、神は私たち、信徒に苦難を与えられるのです。 きっと2021年度も、コロナ禍は完全には終息しないと思います。一部の人々は、神が世界を御裁きになるために、コロナを下されたと言うでしょう。しかし、神が神の被造物である人類を呪われるためにコロナをくださったわけではないでしょう。神はこのような困難な状況を通して、人類が自ら反省し、顧みるためにコロナを与えられたかも知れません。教会も同様です。様々な困難な状況に直面している場合でも、神は私達を厳しく叱られるためではなく、私たち自身に悔い改めを促され、神様を仰ぎ見させるために困難な状況を許しておられるのだろうと信じています。神は今日も主の民を慰めてくださる方です。神は私たちを愛しておられる慰めの神様だからです。 「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(28-31) 締め括り イスラエル王国があったパレスチナ地域には、イヌワシという大きい種のワシが生息していると言われます。翼を伸ばすと、2メートルに達し、体重も7キロに達するほどの大きい鷲です。この7キロもなるイヌワシが空に飛んで上がるためには、自分の翼の筋肉だけでは無理なようです。そのため、イヌワシは風を利用して空に飛んで上がるそうです。今日の旧約本文の言葉も、それに関連があると思います。神はワシを飛び上がらせる風のように、その民に力を与えてくださる方です。アルファとオメガ、初めと終わりであられる神様は、疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる方でいらっしゃいます。今年もこの神様に依り頼んで、一日一日を生きていく私たちになることを願います。私たちの目の前に暗闇と障壁が遮っていても、神様が与えられる聖霊の風に私たちの全てを委ね力強く生きていく志免教会になることを望みます。イエス・キリストを中心に一つになって、神と隣人を愛し、お互いのために祈り合い、慰め合う生き生きとした志免教会になってまいりましょう。主が喜びを持って、この一年も私たちと一緒に歩んでくださるでしょう。

私の神、私の盾。

詩編18編 2-4節 (旧847頁) ヨハネによる福音書17章3節(新202頁) 前置き。 もう、今年の最後の礼拝が持たれるようになりました。今年の初めに、過去一年を守ってくださり、新しい一年を導いてくださる神様に感謝する礼拝を捧げましたが、あっという間に一年が経ち、また、年末の礼拝をささげるようになりました。今年も本当に多くの出来事がありました。今年は特に、「コロナで始まり、コロナで終わる。」と言っても過言ではないほどの一年だったと思います。コロナによって4月には、一ヶ月くらい礼拝を休止しなければならない時もあり、伝道礼拝も先送りに先送りを重ねてクリスマスになって、やっと守ることが出来ました。イエス・キリストの体なる教会であることを告白する聖餐も、一緒にお交わりするマナの会も、無期限に延ばされるようになりました。しかし、それにも拘わらず、やむを得ない事情のある方を除いては、皆で礼拝を守ることが許され、特に、昨年のように韓国からの訪問者がいなかったにも関わらず、礼拝への出席者の数が全く変わりませんでした。日本のキリスト教会内外の他の教会の礼拝出席者が大幅に減少したことに比べれば、志免教会はコロナによる打撃がほとんど無かったとも言えるでしょう。他の教会の出席者が減じたのは、本当に心痛むことですが、外国人宣教師に変わり、お互いの心を分かち合い、慣れていく時間の中にあって、このように無事に一年が経っていくのを見て、感謝しないわけにはいきません。来年はコロナが静まり、安定を取り戻して、いっそう神への感謝と礼拝を持って生きる私たちになることを願います。 1.イエス – 私の神、私の盾。 そういう意味で、今日は、私たちを守ってくださる神様、そしてイエス・キリストについて話してみたいと思います。 「主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。主はわたしの岩、砦、逃れ場、わたしの神、大岩、避けどころ、わたしの盾、救いの角、砦の塔、ほむべき方、主をわたしは呼び求め、敵から救われる。」(詩篇18:2-4)この詩編は、ダビデが歌った感謝の賛美詩として知られています。この詩編の言葉は、ダビデの晩年を取り上げているサムエル記下の22章でも、ほぼ同様の内容で、出てきています。サミュエル記上下を通して、ダビデの人生を最初から最後まで説き明かしたサムエル記は、ほぼ最後の部分で、ダビデが歌ったと言われる、この賛美を持って、ダビデが神様の御前で、どのような心構えを持って生きて来た人なのか、また、神に、如何に愛を受けた人なのか、まとめているのです。以降、この賛美詩は、エルサレムの神殿で、神に礼拝する時に歌う賛美になったと言われます。この賛美詩は、神に愛されたダビデ、すなわち神の人を守ってくださり、導いてくださった神様に感謝を捧げる、感謝の賛美なのです。 イエス・キリストの先祖ダビデは、イスラエル民族の歴史上、最も偉大な王でした。彼はイスラエルの歴史の中で、最も広い領土を征服した人であり、イスラエルの名を高めた人であり、多くの手下を率いていた人でした。しかし、彼が神に偉大な王と認められた理由は、広い土地を征服したからではなく、優れた政治力によるわけでもなく、彼の人柄が素晴らしかったからでもありません。新約聖書の使徒言行録はダビデという人について、こう証ししています。 「わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う。(未来形)」(行13:22)ダビデが偉大な王として認められた理由は、たった一つ、神が彼を愛され、お受入れになったからです。彼がまだ王になる前に、敵に脅(おど)される前に、何の影響力も無かった時に、神はすでに彼を選ばれ、彼のことを喜ばれました。神はダビデの行為を御覧になって、喜ばれたわけではなく、その人のありのままを御覧になり、特に神への彼の信仰を御覧になって喜ばれたわけです。 過去1年間、私たちは礼拝を休んだこともあり、聖餐を守ることが出来ず、コロナによって積極的な伝道を行なうことも出来ませんでした。もし教会が会社だったら、良い実績を出したとは言えないでしょう。しかし、主は、私たちの行為と結果に基づいて、私たちを愛しておられる方ではありません。ダビデが何者でもない時に、神がダビデのことを喜ばれたように、私たちが何も出来ない時にも、神は私たちを愛してくださいます。なぜなら、私たちはキリストの体なる教会として、神に愛されている存在だからです。神は私たちの素晴らしい行為や結果だけを求める御方ではありません。神は私たちの頭でいらっしゃるキリストをご覧になる御方なのです。そして、そのキリストにある私たちの信仰を御覧になり、私たちを喜びを持って愛してくださるのです。私たちは、その主イエスによって、移り変わりの無い愛の中で、ここ1年を生きてきました。神の御前で私たちを愛される者としてくださるキリストに感謝する今年の最後の礼拝になることを願います。主イエス・キリストは、私たちの神、私たちの盾、私たちの岩、私たちの救いの角であり。私たちの砦の塔であられます。そのようなイエスに感謝し、今年を終え、来年を始める私たちになることを望みます。 2.救ってくださるイエス・キリスト。 今年の主題聖句は、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)でした。それだけに、今年の説教で最も強調したかった存在は、イエス・キリストだったのです。しかし、この言葉の冒頭に出てくる、永遠の命という言葉も強調したい表現です。皆さん、永遠の命とは、果たして何でしょうか?今年、筑紫野教会での水曜祈祷会の説教の後、ある方が私に聞いて来られました。 「先生、永遠とは果たして何ですか?神と共に住むのは良いと思いますが、永遠なら、長すぎで退屈になるのではないでしょうか?」もちろん、その方の冗談半分の話だったと思いますが、私は、その質問を聞いて、信徒の皆さんが永遠という概念について、誤解しておられるかも知れないと思いました。人は永遠という言葉について、「無限の時間」だと、漠然と思いがちだと思います。しかし、西洋の哲学では、無限の時間を生きることを、「永遠の命」と呼ばず、「不滅」と呼びます。哲学者たちは「永遠とは時間の外に存在する概念」だと信じていました。つまり、永遠とは、時間とは関係なく、「最初から最後まで、その中のすべての物事」と思った方が望ましいと思います。キリスト教的に言えば、永遠とは、「世界をお造りになった神が、また世界を御裁きになる、その終わりの日まで、神のご計画の中で、司られている全ての物事を意味する概念」です。したがって、永遠の始まりと終わりは神様だけが知っておられ、人間はあえて触れることができない、計り知れないレベルの概念です。だから、神様が永遠の命を与えてくださるということは、単に長い時間を生きるという意味ではなく、神ご自身の計画の中で、最初から最後まで、私たちを導き、私たちの生の全てに責任を負ってくださるという意味です。 キリスト教は、その名称の通り、イエス・キリストを中心とする教会です。私たちの信仰、生活、すべてがキリストを中心に行われる宗教であるのです。しかし、キリスト教は宗教というには、あまりにも、私たちの生活と密接な関係を持ちます。過去、私の祖母は、いくつかの宗教で信仰生活をしました。日本から来た天理教、韓国の仏教、後は台湾から来た、仏教、道教、キリスト教のように、複数の宗教がミックスされた宗教をも信じました。そうするうちに、母の絶え間ない伝道によって70歳の頃に、イエスに出会い、本当に神を信じるようになりました。それ以前の宗教は、優れた教えを持ってはいましたが、宗教の対象と信徒の現実の生活との接点がありませんでした。お経を唱え、宗教行為を行い、宗教の教義を勉強しましたが、その中心的な内容は、「自分の努力の有無によって、人に生まれ変わるか、極楽に入るか、超越者になる。」という教えでした。その宗教には全能の神がご自分の民の生に責任を負うという概念がありませんでした。つまり、永遠の命が無かったということです。超越者と信徒との間に接点がない、別々の宗教だったのです。しかし、キリスト教は超越者が信者の生活に介入して、彼らの人生に責任を負います。それこそがキリスト教と他宗教との異なる点なのです。したがって、キリスト教は宗教というよりは、人生、生活そのものに、より近いものです。 キリスト教は信仰の対象である神様が、信徒の生活に入って来られ、共に歩んで行かれる、まるで親と子、先生と学生、友人と友人のような関係で、私たちと一緒に生きて行かれる宗教です。イエス・キリストは、単に私たちを天国に導くための、何の感情も、人格もない全能者だけに止まる神ではなく、私たちの喜怒哀楽を分かち合い、人生の旅を一緒に歩んでくださる、誰よりも人格的な存在なのです。キリスト教が語る真の救いとは、そのようなことです。キリスト教で語られる天国は、救いの結果ではなく、救われた者に与えられる救いの旅のご褒美なのです。私たちの真の救いは、まさにこのキリストを通して、神の子として認められたものであり、神の中で神と共に喜怒哀楽の世界を生きていくこと、そのものなのです。つまり、イエスによる神との歩みが、まさに私たちの救いです。そういう意味で、私たちは、すでに救いと天国の中にいる存在なのです。今日の旧約本文の言葉も、そのような文脈で理解すべきものだと思います。神は、まるで盾、砦の塔、岩のように、主がお選びになった民らのことに責任を負ってくださり、彼らを守ってくださり、愛してくださる方です。その神様は、ご自分の民が帰ってくることが出来る道として、私たちに、イエス・キリストを送ってくださいました。その神様は、いろいろ大変なことが多かった今年も自分の民である志免教会を放って置かれず、愛を持って歩みを共にしてくださったのです。 締め括り 来年も、神と共に愛と平和とを持って歩んでいく志免教会であることを望みます。教会員同士の関係が一層深まり、教会員のご家族の間にも平和が満ち溢れ、教会の近所の人々にも、志免教会は平和の場所、親切な所、美しい所という印象が残ることを願います。なぜなら、私たちの教会は、人の力によって成り立つ場所じゃなくて、ひとえに神様の御導きによって成り立つ主の共同体だからです。主が私たちを愛し、私たちと一緒におられることに慰められ、これからも神の喜び、隣人の喜びになる、私達志免教会になることを願います。2021年度も、主の恵みと愛に満ちた教会、そして教会員の生活になることを祈り願います。

平和の王。

イザヤ書52章7節 (旧1148頁)ルカによる福音書2章8-21節(新103頁) 前置き メリー!クリスマス!子供の頃、私はメリークリスマスという言葉が大好きでした。 1980年代の日本の経済が最も盛んだった時代、韓国もソウルオリンピックを前後して、本格的な発展を期待していた時代でした。その頃は日本も韓国も、経済的に安定している時期だったと思います。今のように激しい日韓の葛藤も少なく、日本も韓国も戦後最高の、平和に満ちた時だったではないでしょうか?その頃のクリスマスの雰囲気を未だに記憶しています。当時、幼稚園児だった私は、クリスマスイブに枕元に小さな靴下をかけておき、今夜サンタクロースが来てオモチャのプレゼントをくれるだろうと楽しみにして、熱心に祈ったりしました。その頃のクリスマスは本当に平和な日でした。私は、その時に育った者として、今でもクリスマスといえば平和という言葉が一番先に思い浮かびます。クリスマスと平和、何の係わりがあるのでしょうか?今日は、このクリスマスとは何なのか?そして、クリスマスの真の平和とは何なのか、皆さんと話してみたいと思います。 1.クリスマスとは? 皆さん、クリスマスとは何の日でしょうか?数年前、日本の、あるキリスト者が作った日本宣教関連動画を見て、だいぶ、驚いた経験があります。動画に出てくるレポーターがクリスマスイブの夜に東京新宿で通行人たちにインタビューをする場面でした。 「クリスマスが何を記念する日なのか知っています?」「西洋からのパーティーデーじゃないですか?」「よくわかりません。」「ケーキを食べる日です。」などなど、多くの回答がありましたが、衝撃的なことは動画上ではクリスマスをイエスの誕生日として理解している人が、誰もいなかったということでした。恐らく、クリスマスを知らない人を中心に編集したと思ってはいますが、他国に比べてクリスマスをきちんと理解している人が少ないとの内容でした。最後にリポーターはこう話して、動画を終わりました。「日本ではキリスト教が、そんなに盛んではありません。西洋の邪教だと誤解する人も少なからずいます。日本の人々が、救い主イエスと、その誕生日であるクリスマスを正しく知るようになることを願います。」日本でキリスト教は、全人口のわずか0.4%にしか至らないマイナー宗教です。それだけにクリスマスへの人々の認識も薄いと思います。クリスマスはパーティーする日でも、ケーキを食べる日でもありません。クリスマスは私たちが信じているイエス・キリストの到来を記念する日です。 クリスマスは、イエスを意味するギリシャ語「キリスト」に、礼拝を意味するラテン語「マス」が付いた合成語です。カトリック教会で「ミサが執り行われる。」という話をよく話したりしますが、そのミサの語源が、この「マス」です。つまり、クリスマスとは、この地に来られたイエスを礼拝する日という意味です。また、この「マス」には、別の意味をもあります。皆さん「ミッション」という映画をご存知でしょうか?ハリウッドの名俳優ジェレミーアイアンズが「ネッラファンタジア」という名曲をオーボエで吹きながら、南米の原住民と出会う名場面で有名な映画です。映画のタイトルであるミッションという言葉は、宣教という意味の英語ですが、その語源が、この「マス」というラテン語なのです。つまり、クリスマスはイエス様が、この地に宣教をするために来られた日という意味でもあるのです。したがって、クリスマスを日本語で説き明かすと、「この地に来られたイエスに礼拝をささげる日。」或いは「イエス様がこの地に神の愛を伝えに来られた日。」と解釈することができます。このように、クリスマスはイエスで始まり、イエスで終わる、イエスの、イエスによる、イエスのための日なのです。だからイエスを落として、単にパーティー、フェスティバル、気分の良い日などとしてクリスマスを見做すには、このクリスマスに隠れた意味があまりにも多いと言えるでしょう。 日本においてクリスマスは祝日ではありません。殆どの欧米の国々、また韓国で、クリスマスはキリスト教の非常に重要な日です。国家的にも祝日と指定された、1年の中で最も盛大に守るキリスト教の記念日です。韓国では、キリスト教の教勢が大きい方なので、教会に通っていない未信者たちも、その意味をかすかにでも知り、その意味の中でクリスマスを楽しみます。しかし、日本では祝日ではなく、ただの平日であり、イエスの誕生日であるという事実を知らない人も、他国に比べて多くいると言われ、とても残念に思います。神様が日本にキリスト教会の復興をくださり、多くの人々がイエスを知り、教会を肯定的に考えて、良い影響を多く受けることができる共同体になることを願います。クリスマスはイエス・キリストの日です。イエス様が礼拝される日であり、イエスが人間を愛するために来られた日なのです。このクリスマスにイエスの恵みが、豊かにあることを、また、イエスの愛が、日本の地に満ち溢れることを切に望みます。 2.イエス・キリストによる平和を願う日。 ローマの平和(Pax Romana)という言葉があります。古代ローマ帝国は、軍事力で地中海世界を掌握、支配し、周辺のヨーロッパと中東とアフリカ北部を征服した強力な国家でした。ローマの平和とは、ローマが帝国の征服戦争にけりを付け、地中海を完全に掌握した西暦1世紀前後、ローマ帝国による秩序と支配で、世界が平和であるという意味で使用された言葉でした。しかし、我々は、この平和という言葉について、よく考えてみる必要があります。ローマの平和とは、すべての人が平等に平和になるという意味ではありませんでした。この平和は、ローマ皇帝を中心としたローマ市民だけの平和でした。ローマ帝国に属する植民地の人々は、ローマ市民として認められませんでした。彼らがローマ市民になるためには、ローマの市民社会で大きく認められたり、あるいは植民地の指導層が自国を裏切ってローマ帝国の側に立ったり、ローマの軍隊に入り、多くの戦いの補償として得ることができるものでした。つまり、この平和は、皆のための平和ではなかったということです。誰かがローマの平和を享受するためには、他の誰かが死ぬか、奴隷にならなければなりませんでした。ローマの平和とは、あくまでも、権力ある者のための、彼らだけの平和でした。ローマの平和は暴力と殺人の他の名前だったわけです。 そのローマの平和が唱えられた時期、ローマ帝国の辺境の、小さくて力のない植民地、イスラエルでは、ユダヤ民族から、真の王が生まれるという噂がありました。大きくて輝かしい星が現れ、イスラエル地方に、王たちの上に君臨する、真の王が生まれるという噂でした。これはユダヤ人の予言に基づいた話で、聖書はその王が、まさに主イエス・キリストであると明らかにしています。 「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(11-12)今日の本文では、この王たちの王が生まれるという良い知らせを、地上の人々に伝える天使の話が出てきます。彼はイスラエルの歴代最高の王ダビデの町で、彼の子孫である、新しい王が生まれると話しています。ところで、ここで使用された単語が気になります。聖書は、単に王という言葉の代わりに「救い主、主」という言葉を使っています。この言葉は、単に偉大な人を高めるための表現ではありませんでした。この言葉は非常に政治的で、社会的な言葉です。ローマ帝国で「救い主、主」という言葉を聞くことができる唯一の存在は、皇帝一人だけだったからです。 つまり、ユダヤ地域で生まれた主イエス・キリストという名前は、単にイスラエルと呼ばれる小さな民族の指導者としての意味ではなく、ローマという大帝国の皇帝までも脅かす強力な存在としての名称だったのです。イエス・キリストが生まれた理由は、単に小さな一つの民族だけに限らず、ローマ帝国を超える巨大な世界を治めるためでした。神は帝国を超えて全世界を支配する本当の王が来ることを天使を通して教えてくださったのです。しかし、イエスの治め方は、ローマ帝国のそれとは、全く違いました。 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(14)天使は王や皇帝を訪れて主の到来を知らせたわけではありません。彼はイスラエルで最も低い階層である羊飼いたちに行き、主のご降臨を知らせたのです。そして、彼らに平和の王が臨むことを教えてくれました。主イエスの誕生は、ローマ帝国の皇帝が求めていた自分たちだけの平和ではなく、イエスを通して全世界のすべての人々が、共に享受することができる、真の平和をもたらす出来事です。主のご誕生の知らせは、ローマによる権力者のための暴力に染まった平和ではなく、キリストを通して最も低い階層も味わえる、真の平和の到来のお知らせ、つまり福音でした。 締め括り 人間の赤ん坊に生まれたイエス・キリストは、神ご自身でいらっしゃいます。神と人との間には、人とアリの違いよりも、はるかに大きな、埋まらない隔たりがあります。しかし、人間を愛された神は、自らを低くなさり、人になってくださいました。また、みすぼらしい飼い葉桶に生まれ、誰にも尊重されない羊飼いたちさえも、会うことができる低い所に来られたのです。イエスは権力、財産、強い人だけでなく、疎外される弱い人にも、喜んでお出でになる、本当の偉大な王です。誰でも主を求めれば、訪れてくださる真の平和と愛の王でいらっしゃいます。私たちが生きていく、この世は弱い者に世知辛いところです。目に見えない壁と隔たりがあり、支配層と一般の人々の人生が違う場所です。しかし、主イエスは、そのような壁と隔たりを突き崩して、すべての人に公平に神の愛と恵みをお伝えになる方です。この主が、弱くて罪深い人類のために地上に来られ、人間の罪を赦してくださるために、ご自分の命を掛けて救ってくださいました。私たちを支配しようとする王、我々に仕える王、私たちにとって真の王は果たしてどっちでしょうか?主は仕えて、守ってくださる平和の王として、今日、私たちの間におられます。クリスマスを迎えて、この主イエス・キリストを覚えたいと思います。平和の王イエスは今日もあなたを愛しておられます。

権威ある新しい教え。

詩編74編9-17節 (旧909頁) マルコによる福音書1章21-28節(新62頁) 前置き マルコによる福音書は、ローマ帝国の激しい宗教弾圧で毎日毎日を恐れの中で生きてきた初期キリスト者を慰めるために記録された慰めの福音書でした。イエスは神である身分を捨てて、この地に来られ、人間と一緒にいてくださり、慰めてくださいました。イエスは神のメシアであるにもかかわらず、人間の側に立って、洗礼と試練とを体験してくださいました。これは、神でいらっしゃるイエス様が名目上だけ、人間の見た目をお取りになったわけではなく、自から人間の所まで低くなってくださり、人間の惨めさと弱さを直接体験してくださった愛の行為でした。さらに主は、この地上で神と罪人が和解できる方法を教えてくださり、人間を神のみもとに導くために、弱い弟子たちを召し寄せ、真理を教えてくださいました。イエスは、2000年が経った現代でも、変わることなく主の民と共におられ、わたしたちの進むべき道を導いてくださる真の救い主でいらっしゃいます。今日は、このイエスの権威とイエスに反抗する邪悪な霊について分かち合い、私たちへの愛をお止めにならない主について話してみたいと思います。 1.イエスの権威 今日は個人的な話で説教を始めたいと思います。小学校5年生ごろ、私の出身教会で、驚くべき出来事がありました。教会の近所に、ある悪霊に取り付かれた人がいましたが、その家族が彼を教会に連れてきたのでした。当時、主任牧師、伝道師、祈りに励む信徒たちは彼を囲んで切に祈りました。 「ナザレの人イエス・キリストの名によって命令する。悪霊は出て行け!」一緒にいた人たちは、長い時間、その人のために祈り、絶えずイエス・キリストの御名を宣言しつつ、邪悪な霊が立ち去ることを命じたのです。母によると、数時間後、悪霊は去っていき、その人は正気に返ったそうです。私の出身教会も日キや改革派教会のように、韓国の教派の中で、かなり静かで説教と聖礼典を中心とする教会だったので、その出来事は、いっそう衝撃的な経験として感じられました。ところで、それから30年近く経った今でも、私の脳裏に深く焼き付き、決して忘れられない言葉があります。それは「ナザレの人イエス・キリストの名によって命令する。悪霊は出て行け!」です。いったい、そのナザレのイエスという名前にどのような権威がある故に、悪霊という恐ろしい存在が追い出せたのでしょうか?私は、今日の本文で、その姿を再び、垣間見ることが出来ました。 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人に痙攣を起こさせ、大声をあげて出て行った。」(23-26)洗礼、試練、福音の宣言、弟子たちへのお召しなど、地上での御業の準備を整えられた主は、人間の目に見える強力な最初のしるしとして、悪霊を追い出して権威を示してくださいました。悪霊は人間の力では、到底どうしようもない存在です。「(あなたがたは、以前は)この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に、今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。」(エフェソ2:2)悪霊は人間の力の及ばないところから、世を支配し、人間を罪の道に導き、不従順な者となるように操る、超自然的な強力な存在です。しかし、イエスは彼らを一言だけで簡単に追い出してくださいました。主の権威は、強力な彼らさえも完全に圧倒するものでした。 2.悪霊とは? なぜ、主は悪霊を追い出すという出来事を、目に見える最初のしるしとして示してくださったのでしょうか?それを知るために、我々はまず、キリスト教で語られる悪霊という存在について探ってみる必要があります。過去のキリスト教の伝統には、悪霊と関わる多くの話がありました。ジョン・ミルトンという17世紀の英国の作家は、これらの話を用い、「失楽園」という古典を残しました。私たちは、その本の内容を通して、昔のキリスト者が考えた悪霊の起源を、ある程度、推し量ってみることができます。 以下は失楽園に出て来る悪霊についての粗筋です。「遥かに遠い昔、神の傍らで賛美を捧げる天使であったルシファーは、ある瞬間、自分の栄光に酔って自制心を失ったあげく、神の輝かしい栄光を嫉妬してしまいました。彼は野望と傲慢と、神を越えようとする邪悪な反抗心で、自らが神になることを企てて、手下の天使たちを煽り、戦争を引き起こしました。神の大天使ミカエルの軍隊とルシファーの手下たちは、長い間、戦争を続け、最終的にルシファーと手下たちは敗北して天から落ちることになってしまいました。ルシファーは天上で神の僕になるより、地獄で王になるのが増しだと思い、最後まで邪悪な姿勢を取りました。」もちろん、これはあくまでも失楽園という作品の一部なので、聖書のような真理として受け入れるべきではない物語です。しかし、少なくとも、聖書に出てくる悪霊が、人が死んで化ける怨霊や、幽霊ではなく、堕落した天使に由来するというヒントを得ることは出来ると思います。 聖書が教えてくれる悪霊とは、神の権威を奪おうとする、邪悪な存在を意味するものです。神を賛美し、礼拝するために造られた、この被造世界で、神への賛美と礼拝を捧げられないようにする、神に不従順にさせる存在なのです。彼らは創世記のアダムとエバ、カイン、カインの子孫、バベルの塔の罪人たちのように、「自ら神になろうとする人」を誘惑する存在として描かれています。また、彼らは、そのような思想を貫くことによって、この世を支配している存在です。過去、世界を支配しようとしていた帝国の皇帝は、自らを神だと名乗り、神の座に上がろうとしました。古代エジプト、ペルシャ、ローマの皇帝、旧日本帝国には現人神という概念があり、現代の中国と北朝鮮では共産党が、その位置を占めています。これらすべての「人が神の座を奪おうとする行為」は、聖書が語る悪霊の仕業に似ています。つまり、聖書に登場する悪霊は「自ら神になろうとする全ての行為」の起原のように使用される表現です。したがって、我々は、この悪霊という表現を実際に存在する邪悪な霊的存在として理解しつつ、同時に神に反抗して聞き従わない、すべての邪悪な意図と心根であるとも理解できるでしょう。 創世記3章には、蛇の姿で人を不従順へと誘惑した存在がいましたが、キリスト教では、この蛇を悪霊の化身であると信じています。また、イエスの試練の時、イエスを誘惑した存在が、まさにこの悪霊という存在だったと信じているのです。このように悪霊は、人に傲慢さを与え、神を裏切るように誘惑する邪悪な存在なのです。私たち人間には自らを高めようとする意志があります。神は人に意志をくださり、その意志で神を賛美し、世界を美しく治めることをお望みになりましたが、罪によって汚された人間は、その意志を間違ったことに用いて、自分を高め、自分が崇拝されるものとなろうとする傾向を持つようになりました。神ではなく、自分を高め、神への礼拝のためではなく、自分の欲望を満たすために意志を誤用したわけです。聖書は、このすべてが悪霊の誘惑によるものだと言います。だからといって悪霊にすべての責任を負わせることはできません。誘惑は悪霊の仕業だとしても、その誘惑を受け入れる者は、まさに私たち自身であるからです。したがって、悪霊という存在は、実在する悪い霊であることと同時に、私たちの心の中に潜んでいる、自身を高め、神に不従順にさせる、自分の中にある邪悪な罪の性質であることを心に留めておくべきでしょう。 3.悪霊を追い出す権威ある新しい教え。 イエス様が一番最初に悪霊を追い出すというしるしを示してくださった理由は、イエスの到来と共に、今後、邪悪な霊の支配に終焉を告げるという意味を持つからです。 「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(マタイ12:28)、「七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。 イエスは言われた。わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。 蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。」(ルカ10:17-19)イエスが悪霊を追い出されたその日、すでに神の国は、この地に実現しました。悪霊が支配していた、この地はイエスの到来の故に、神の本格的な支配の中に入るようになったのです。イエスの存在により、この地で悪霊の支配が崩れ、神の国が臨むようになったのです。イエスの権威によって主の体なる教会は、悪霊の力から逃れる権威を得る存在となりました。イエスを知らなかった時の私たちは、邪悪な霊に支配され、罪の性質を持って他人を憎み、自分の欲望だけに従って生きていましたが、今や、私たちは、イエス・キリストの存在により、そのような支配から脱した存在となりました。今日の本文のイエスは、実際に人に取りついた悪霊を追い出されましたが、今、私たちの間におられるイエスは、私たちが、邪悪な霊の誘惑と支配から逃れる道を開いてくださるのです。 悪霊を追い出す権威ある新しい教えとは、そういうことです。私たちを、もうこれ以上、悪の存在の手に振り回させず、キリストを通して神の御心に聞き従わせる主の御言葉なのです。私たちは、もはや自分を中心にし、自分自身だけのために生きる存在ではなく、イエスの御言葉を中心にし、主のように神と隣人を愛して生きるようになった者です。 「人々は皆驚いて、論じ合った。これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。」(マルコ1:27-28)主は口先だけで神について語る方ではありませんでした。御言葉に伴って、それに相応しいしるし、つまり、悪霊を追い出すことによって、ご自分の絶対的な権威を示してくださいました。そして、その結果、イエスの御名が世の中に伝わりました。私たちがイエスのように完全な存在になることは有り得ません。しかし、私たちは少なくとも、イエス・キリストが、すでに悪霊の支配する世に勝利なさったことを悟りました。御言葉と権威はイエス様にあります。今や私たちは、その御言葉と権威に依り頼み、主を宣べ伝え、主に喜ばれる生活を営むべきです。なぜなら、私たちは、この世を恐れず、堂々と進んで行ける資格を与えられたからです。また、私たちの頭であるイエス・キリストが悪霊をも滅ぼされる御言葉の権威で、私たちの中に一緒におられるからです。 締め括り 「しかし神よ、古よりのわたしの王よ、この地に救いの御業を果たされる方よ。あなたは、御力をもって海を分け、大水の上で竜の頭を砕かれました。レビヤタンの頭を打ち砕き、それを砂漠の民の食糧とされたのもあなたです。あなたは、泉や川を開かれましたが、絶えることのない大河の水を涸らされました。」(詩篇74:12-15)詩編74編に出てくる竜とレビヤタンはイスラエルを支配していた強い国を意味するもので、多くの学者たちに世界を支配した悪の存在の力として解釈されました。主はこのような邪悪な存在さえ、御裁きになる全能な方なのです。イエスが悪霊を追い出されたのも、このような視点から、解釈することが出来ます。神はイエス・キリストの到来を通して、世に新しい希望を与えてくださいました。アドベントの期間を過ごしている今、神に与えられた権威をもって世界を治めておられるイエス・キリストを覚えたいと思います。私たちの中に、如何なる困難と障害と挫折があっても、真の勝利者イエス・キリストを覚えて生きていきましょう。主イエスがカペナウムの悪霊に取り付かれた者を救ってくださったように、神様が帝国の邪悪な支配からイスラエルを救ってくださったように、私たちにも同じ救いと平和を与えてくださると信じます。クリスマスを迎えて、来たるべきイエス・キリストを記念しつつ、私たちに勝利と救いをくださる主を賛美する1週間になることを祈ります。

バベルの塔

創世記11章1-9節 (旧13頁)使徒言行録2章1-4節(新214頁) 前置き 創世記6章で、神様は、初めの人間の罪を御覧になり、彼らの世界を罪と一緒に地上から拭い去ろうと計画なさいました。そのため、人間が治めていた世界のすべての被造物も、神の裁きの下で、共に滅ぼされる危機に置かれてしまいました。しかし、神はその中から一人の正しい人、ノアのために、この世に再び機会を与えようとなさいました。神はノアに箱舟をくださり、ノアの家族と一部の被造物を生き残らせてくださいました。そして洪水で綺麗になった地上で、再び正しい世界を作る機会を与えてくださいました。しかし、残念なことに、ノアの次男であったハムの罪のため、世界はまた罪に満ちてしまいました。私たちは、この物語を通して、神は正しい人に機会を与える方でいらっしゃいますが、いくら正しい者だといっても、罪から完全に自由になりえないことが分かります。私たちは、聖書を読むたびに、常に人間の罪と向かい合うことになります。聖書は、過度に感じられるほど、人間の罪について指摘しています。しかし、それが人間の弱点であることは、まぎれもない事実なのです。そのような人間の罪が巨大に形象化されて、創世記11章で頂点をとりますが、それが、まさにバベルの塔でした。今日はバベルの塔の物語を通じ、人間の罪と神の恵みについて話してみたいと思います。 1.バベルとは何か? 私たちは、聖書を読みながら、バベルという言葉をよく聞きます。創世記のバベルの塔、イスラエル民族を滅亡させたバビロン、ローマ帝国の首都であったローマを比喩的にバベルと呼び、黙示録は神に逆らう、悪の勢力と、その支配を比喩的にバビロンだと称しました。 (バビロンとバベルは語源が同じ。)バベルは、古代アッカド語で「神々の家」という意味です。おそらく神々の家という意味のように、古代人は、強力な神々の加護の下で繁栄することを願い、バベルという言葉を好んで使用していたのかもしれません。ところで、このバベルという言葉はヘブライ語では「神々の家」ではなく「混沌」を意味します。バベル、全く極端な2つの意味を持つ名前です。さて、アッカド語では「神々の家」という意味のバベルは、なぜ、ヘブライ語では「混沌」という意味に移り変わったのでしょうか?私たちは、今日の本文を通じ、その理由について覗き見ることができます。 「この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。」(創11:9)バベルが混沌と呼ばれるようになった理由は、神様がバベルでの人間の罪を御覧になり、彼らの集まりと言葉を混沌とさせ、処断し散らされたからです。 遥かな昔、イスラエルの先祖アブラハムが生まれる前に、中東の諸国には、神々に仕えるための神殿がありました。彼らはその神殿を中心に町を築き、国家を作りました。彼らは神様の「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」という御命令を無視し、神殿を中心に集まり、自分たちだけの世界を作ろうとしました。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」という言葉は、ただの人間の繁栄だけを意味するものではありません。世界中に広がって、神の御心に従って生きなさいという意味だったのです。しかし彼らは、むしろ一所に集まって、神様に背き、自分たちが中心となり、他人を支配する巨大な帝国を作ろうとしたのです。彼らはバベルという名前のように、神の家という意味の神殿に、異邦の神々を閉じ込めて置き、自分たちの必要に応じて、神々を利用することを望んでいたのです。神々を利用するために神殿を作った彼らは、存在もしていない神々を拝み、偶像崇拝を自然に行いました。また、それを通して自らが神のような存在になることを企んでいたのです。つまり、バベルとは、神様から積極的に離れて、自らが神のようになろうとする、過去のアダムとエバのように、神に反逆する人間の本性を意味するものです。結局、神は今日の本文のように、彼らに混沌を下され、彼らをバラバラに散らされました。このようにバベルは、今でも神に逆らう代名詞、神の反対側にある悪の代名詞として聖書で使われています。 2.なぜ、塔なのか? バベルの塔のバベルは、その塔の名前ではなく、バベルという町に建てられていた、ある塔を意味するものです。多くの人がこれを古代の建築物の一つであるジッグラトと推定しています。ジッグラトとは、先にお話しました、神々の家、すなわち神殿で古代中東人の文化の中心であるものでした。彼らはなぜ神殿という美名の下に、高い塔を築こうとしたのでしょうか? 「彼らは、さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしようと言った。」(創11:4)彼らは、高い塔を築き、その塔を天に届くようにして、自分たちの名前を高めるために、レンガを積みました。創世記4章を見ると、このような言葉があります。 「セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。」(創4:26)アダムの息子セトが、息子を儲けた時はじめて、人々は主の御名を呼び始めました。覚えていらっしゃると思いますが、私は創世記4章の説教で、神の名を呼ぶということが、「神に礼拝を捧げる。」という意味だと話しました。この言葉から推し量ってみると、今日の本文で「有名になる」ということは、自分たちも礼拝される存在になることを望んでいたとの意味であることが分かります。つまり、バベルの人々は、互いに力を合わせ、塔を作って、自分たちも神のように崇拝される、神のような存在になることを望んでいたということです。彼らは神を仕えるべき対象と考えず、ただ、自分らが礼拝の対象として、神のようになることを望んでいたのです。 それでは、神のようになるということと、塔を築くということの間には、どのような係わりがあるでしょうか?古代人は、この世界を、マリのような円形だと思いました。丸い世界の中間地帯に人間が住んでいる地上の世界があり、地下には死者が行くシェオルがあり(日本語、陰府)、空には太陽、月、星などがあり、その上に神々の世界である天があると信じていました。人々が高い塔を建てて、天に至ろうとしていた理由には、自分たちが、その天に上って行き、世界の外の神々の国に入ろうとした願いが隠れています。自分たちも神の世界に入り、神の支配から逃れ、神のように世界を支配する存在となることを望んでいたわけです。結局、私たちが、このバベルの出来事を通して分かることは、人間は神のように高くなることを願っており、これらの罪は善悪の実を貪ったアダムとエバの時から、全く変わっていないということです。人間には他人の上に君臨しようとする邪悪な性質があります。金持ちは貧しい者を、権力者は弱い者を、強い国は弱い国を力で抑圧し、支配しようとする本性を持っています。私たちの心には、そのような姿はないのでしょうか?自分より弱くて、力のない者らを貶めて、自分よりも強い者には何の抵抗もしない姿が、もしかしたら私たちの心にあるかもしれません。今日の本文は、このような人間の罪に満ちた本性を示してくれます。高い塔を築くということは、自分自身を極めて高め、他人は自分の足下に踏みつけ、支配しようとする、人間の傲慢な罪の性質を余すところなく示すものなのです。 3.バベルの塔の結果 – 散らされる。 神は人間が全世界に広がり、神を伝え、仕えて生きることをお望みになりました。神様が初めのアダムと洪水後のノアに、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」と命じられた理由は、全世界に神の御名を伝え、神を礼拝する存在として生きなさいとの意味だったからです。私たちは、この命令の根拠を、新約聖書で見つけることができます。 「イエスは、近寄って来て言われた。わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:18-20)十字架での死と墓からの復活の後、父なる神に世界を支配する権限を与えられたイエスは、弟子たちに全世界に進んで、神を伝えることを命じられました。過去の人間が罪によって成し遂げられなかった、全世界に広がって神を伝える生を、イエスご自身が「いつも一緒に歩んでくださる」ということを約束してくださることによって、はじめて成し遂げることができたのです。その結果、世界的に福音が宣べ伝えられ、今ここで日本人、ニュージーランド人、中国人と韓国人を問わず、みんなで集まり、民族や文化を乗り越えて一緒に神を礼拝することが出来るようになったわけです。しかし、バベルにいた人間たちは、広く、神を宣べ伝えるどころか、自分たちが神の座を奪おうとしていただけです。これは如何に大きな罪だったことでしょうか? 神を伝えるために全世界に広がっていくべきであったバベルの人々は、結局、神によって言葉が混乱させられ、民族が分かれさせられる呪いを受けて、散らされてしまいました。 「我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」(創世記11:7-8)神に逆らい背く者は神によって散らされてしまいます。人間がいくら巨大な国を打ち立て、他の民族を踏みつけ、自分を高めようとしても、神を仰ぎ見ず、自分を神のようにしようとする者たちは、遅かれ早かれ滅ぼされてしまいます。周辺国を踏み躙り、支配した古代のエジプト、ギリシャ、ローマ、ペルシャ帝国も、今では文化財として残っているだけです。私たちが生きていく、この世も古代の帝国と大きな違いはありません。強い者は弱い者を、強い国は弱い国を苦しめます。自分たちはさらに高め、他人は低くするためです。しかし、神は常に天から地のことを見下ろしておられます。自らを高めようと自己中心的に塔のレンガを積んでいる者は、過去のバベルの罪人のように崩れ、散らされてしまうでしょう。したがって、我々は自分を高めるエゴという塔を建てるより、神を高め、伝えるために地に広がり、謙遜に生きていくべきです。そのような生き方を主は祝福してくださるでしょう。 締め括り 低いところに臨まれたイエスを思い起こします。主は神そのものでいらっしゃいましたが、地の弱い者たちのために降り、神と隣人に仕えられました。聖書は、その結果をイエスの勝利として結論づけています。 (フィリピ2:6-11)バベルの罪人たちは塔を建て、天を貪った反面、神であるキリストは、むしろ地に降り、人々の間に来られました。主は自ら御自分のことを低め、誰よりも低いところから愛してくださいました。その結果は、最も高い王として神に認められることになったのです。また、使徒言行録では、このイエスが成し遂げられた、もう一つの恵みが記されています。 「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒2:2,4)自分を高めたバベルの人々は、言葉の混雑を経験したのとは反対に、自分たちを高めるためでなく、もっぱら神を高めるために集まった弟子たちは、キリストを通して聖霊を受け、それぞれ別の言語で、一つの福音を宣言する真の言語の一致を経験したわけです。バベルの塔は人間の高くなりたがる性質を示すものです。しかし、主イエスは御自分の犠牲を通して、神と隣人を高め、自らを低くする際にはじめて、神に高められるということを教えてくださいました。クリスマスを待ち望むアドベントの期間です。私たちの心の中に、傲慢なバベルの性質はないか、自分のことを顧みて、神の御前に謙虚に生きる民になることを望みます。主と隣人を高め、自分自身を低くする、謙虚な志免教会になることを祈り願います。

人間をとる漁師。

エレミヤ書16章14-18節 (旧1207頁) マルコによる福音書1章14-20節(新61頁) 前置き 先々週、マルコ書の説教では、悔い改めについて話しました。悔い改めとは、神の国の民らしく生きようと決意するキリスト者が、必ず追求しなければならい、キリスト者の生き方であると話しました。単に一度、口先で自分の罪を悔み、それで神に赦されたと満足して済ませることではなく、イエス・キリストの御救いに感謝し、主の御言葉に、常に聞き従って生きていく生き方。罪人から正しい人に身分が変わった人としての、新たな生き方が、まさに悔い改めの生なのです。従って、聖書で語られる悔い改めの単語的な意味は、「立ち返る、Uターン」と解釈できると話しました。私たちは、キリストの救いによって、神を知らない罪人の身分から、神を知っている正しい人の身分に、新たにされた存在です。なので、我々は毎日、自分の生活の中での罪を告白し、神とキリストの御心にふさわしい存在として生きていくべく努める必要があります。そのような生活の中で再び躓き、罪を犯してしまうたびに、キリストの御名によって罪を告白して、絶えず省みて、神の御心にふさわしく生きていこうとするのが、まさに悔い改める者の生き方なのです。今日は、この悔い改めて生きる民として、私たちが弁える(わきまえる)べき心構えについて本文を通して、分かち合いたいと思います。 1.主の弟子になるということ。 今日の本文には、先々週の説教の本文であった3章14-15節をも加えました。なぜかというと、16-20節に登場する「イエスの弟子になる。」ということと、14-15節での「悔い改めて福音を信じる。」ということの間には密接な関係があるからです。 「イエスは、私について来なさい。人間をとる漁師にしようと言われた。 二人は、すぐに網を捨てて従った。」(17-18)ここで人間をとる漁師という言葉は、後で説明することにして、まずはイエスの召しと、それに応じた弟子たちについて話してみたいと思います。洗礼と試練を受け、福音を宣べ伝え始められたイエスは、すぐにガリラヤで弟子たちをお集めになりました。最初に召された弟子たちはペトロ、アンデレ、ヨハネ、ヤコブの4人の漁師でした。当時の漁師は、貧困層から中産層まで、幅広い階層がいたそうです。聖書によると、ペトロとアンデレは、そんなに豊かではなかったようです。しかし、ヨハネとヤコブの家は雇い人たちを使うほど、経済的な余裕があったと思われます。イエス様は、家柄の貧富の隔たりを問わず、公平に弟子たちを、お召しになりました。主は今日も人の貧富や容姿で人を差別なさる方ではありません。主は誰でも、主に聞き従おうとする者らを弟子にしてくださいます。 ところで、4人の弟子たちには、共通点がありました。それは「諦めて従った。」ということです。 「すぐに網を捨てて従った。」(18)「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。」(20)新共同訳聖書には、ペトロとアンデレは「網を捨てて」、ヨハネとヤコブは「父を残して」と翻訳されていますが、ギリシャ語原文では「捨てる。残す。諦める。」等の意味を持つ単語「アピエミ」と記されています。主の弟子たちは、それぞれ自分の財産と家族を諦めて、主に付き従ったわけです。ところで、少し気になる部分があります。主に従うためには、すぐに自分の財産、仕事、家族、日常を諦めなければならないという意味なのかということです。私たちは僧侶でもなく、社会と完全に断ち切られて生きていく身でもないのに、どうやって財産、仕事、家族、日常を諦めて、主に従わなければならないというのでしょうか。主に従うために、すべてを諦めれば、今後の生活費は誰が稼ぎ、家族は誰が面倒を見、仕事をやめたとき、その損害はどのように補償されるというのでしょうか? 従って、ここでは文字どおり、「すべてのことを諦めなければならない。」と解釈するより、先にお話しました悔い改めの概念と繋げて理解する方が正しいことではないかと思います。今までの罪人としての生き方を諦めて、主の民に相応しい生き方を選ぶこと、主の召しに応じて、主が望んでおられる、正しい生き方を目指して生きていくこと、先ほど、悔い改めとは何かについて分かち合ったように、罪人としての生き方から立ち返るということが、この本文を通して、私たちが教えられる教訓ではないかと思います。もちろん、特定の状況下では、自分のことを諦め、無条件に主に従わなければならない場合もあるでしょう。(牧師への召しなど)しかし、日常を生きていく私たちの立場では「諦めて従う。」という意味について、過去の罪に満ちた生き方を悔い改めて、立ち返って主が望んでおられる生き方、悔い改めて主に聞き従う生き方をしていくという解釈の方が、より合っているでしょう。現代を生きる私たちが、主の弟子になるということは、そのような意味なのです。日常を、家族を、仕事を諦める必要はありません。それは主が願っておられるところではありません。ただし、私たちが罪に対して抵抗し、キリストに従って正しく生きようとすることが、私たちに求められる生き方なのです。 2.人間をとる漁師とは? 主は弟子たちを召されるとき、特異な表現を使用されました。それは、「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう。」(17)でした。これを、あえて文字どおりに解釈すれば、「自分らの豊かさだけを考えてお金を稼ぐために、魚をとっていた、あなたがた漁師たちを、今後、人を救う伝道の働き人として使おう。」と解釈することが出来るでしょう。しかし、もっと深く、漁師という表現について考えてみたいと思います。旧約聖書で漁師や釣りなどの表現は、そんなに肯定的な表現ではありませんでした。今日の旧約本文を読んでみましょう。 「見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。その後、わたしは多くの狩人を遣わして、すべての山、すべての丘、岩の裂け目から、彼らを狩り出させる。」(エレミヤ16:16)この言葉は神様が、過去、旧約時代に神様に絶えず不従順で通したあげく、バビロンに連行されてしまったイスラエルの民を救ってくださると約束なさった後、イスラエルの民に警告なさる場面です。わかりやすく言い換えると、「私は君らの救いを約束する。しかし、イスラエルに帰って過去のように罪を犯す場合、私は漁師に釣られる魚のように、狩人に狩られる獣のように、君たちを裁く。」という意味です。ここで、漁師は、裁きの表現として用いられました。 エゼキエル書には、このような表現もあります。「わたしはお前の顎に鉤をかけ、鱗にナイル川の魚をつけさせ、ナイル川の真ん中から引き上げる。お前のうろこについた川のすべての魚と共に。わたしはお前を荒れ野に捨てる。ナイル川のすべての魚と共に。お前は地面に倒れたままで、引き取る者も、葬る者もない。わたしは野の獣、空の鳥にお前を食物として与える。」(エゼキエル29:4-5)ここでは、漁師という表現はありませんが、邪悪なエジプト帝国を裁く媒介として漁師を思わせる表現が登場します。つまり、旧約聖書で漁師という言葉が持っていた意味は、神様の恐ろしい裁きと刑罰を意味する場合が多いのです。そういうわけで イエスの当時のイスラエル人たちにも、漁師という表現が持っているニュアンスは救いや伝道のイメージとは、異なって入ってきたかも知れません。ならば、主は弟子たちを用いて世を御裁きになるという意味で、これらの言葉をくださったのでしょうか?そうではないと思います。主イエスは、裁くためではなく、救うために、この地に来られたメシヤでいらっしゃるからです。主は、単純に御裁きの働き手とするために、弟子たちをお召しになったわけではないでしょう。 チャールズ・スミスという学者は、今日の本文をこう解釈しました。 「主が人間をとる漁師として弟子たちを召された理由は、単純に伝道だけのためではなく、差し迫った終末と裁きを宣言するためである。」今日の本文に対しては、いくつかの解釈がありますが、私はこれが割と適切な解釈ではないかと思います。私たちは、時には「人間をとる漁師」という語句を、漠然と伝道と関連付けて考えることがあります。私たちが伝道をしようとする理由は何でしょうか? 「人々がイエス様を信じて救われるように導かなければならないから。志免教会の将来のためにも、人々が増えるべきであるから。」など、いくつかの理由があるでしょう。もちろん、これらの理由も本当に大事だと思います。しかし、それと同じように重要なことは、主の弟子となり、人間をとる漁師に召されたならば、過去の旧約聖書が警告していた漁師のイメージのように、いつか主によってもたらされる終末と裁きをも人々に教える義務があるということではないでしょうか?クリスマスにイエスが来られた理由は、世の罪人を救うためでした。しかし、再び来られる再臨のイエスは、救いのイエスではなく、裁きのイエスです。私たちは、このような恐ろしい裁きがあることを知っている群れです。したがって、主の弟子、人間をとる漁師に召された私たちは、主の裁きを警告する見張り番としての役割をも持っていることを忘れてはならないでしょう。私たちは愛の主を伝えることと共に、裁きの主も伝えるべき使命を持っています。 締め括り 悔い改める者=主の弟子=人間をとる漁師。 私たちは、今日の言葉を通して、主の弟子になるというのは、悔い改めのある生を生きることと共に、神の裁きを警告する見張り番としての役割を果す者となることでもあると学びました。イエスを信じるということは、「イエスを信じて、祝福を受けて幸せに生きる。」ということだけの意味ではありません。もちろん救われた者たちは、そのような祝福の中に生きるようになるでしょう。しかし、使徒パウロは次のように語りました。「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」(ローマ10:10)真に救われた者なら、公に主を言い表すべきであるということでしょう。それには主の救いと裁きの御言葉も含まれていると思います。弟子としての人生とは、一生の間、罪の道から立ち返る悔い改めの生であり、罪の道に残っている人々に、救いと裁きの福音を宣べ伝える生なのです。私たちは、悔い改めの生を生きているでしょうか?私たちは、主の弟子として救いの福音を宣べ伝えて生きているでしょうか?私たちは、人間をとる漁師として、差し迫った神の恐ろしい裁きを人々に伝えているでしょうか?今日の言葉を通して、私たち自身の生活を振り返ることが出来ると思います。主の弟子、悔い改める者、人間をとる漁師としての人生になっているか、もう一度省みて、主に喜ばれる私達になりますように願います。

断ち切れない罪の性質。

創世記9章18-29節(旧12頁) ヨハネの黙示録1章4-6節(新452頁) 前置き 神の被造世界は、人間の罪のゆえに汚されました。神は創造を通して、神に礼拝する世界をお造りになりましたが、むしろ、被造物を神に導き、礼拝させるべき人間のために、世界は堕落してしまったのです。神は人間に自由な意志をくださり、自発的な礼拝を受けることを望んでおられましたが、人間は、むしろ自由な意志を用いて、神に逆らったのです。しかし、その後も、神は長い間、人間の悔い改めを待って来られました。しかし、結局、人間は変わらず、神に背く、罪にまみれた存在になる一方でした。神はそれに対する裁きとして、洪水を下されたのです。それでも、神はノアという正しい人のゆえに、裁きの後に新しい世界を許してくださいました。世界は裁かれましたが、正しい人ノアのゆえに新しく始まったのです。しかし、残念なことに世界は再び罪の道に進むようになってしまいました。正しい人ノアの家族から再び罪が生まれ、世界はまた、罪の蔓延るところになってしまいました。世の中が、新たに変わっても、罪は断ち切れられませんでした。今日は、このようなしつこい罪の性質を取り上げ、罪への警戒心を持つ時間になることを願います。 1.カナンの父、ハム。 ノアには3人の息子がいました。彼らはセム、ハム、ヤフェトでした。一部の学者たちは、それぞれ、「セムは東洋人、ハムはアフリカ人、ヤフェトはヨーロッパ人の祖先である」という主張をしましたが、現代では、全く根拠のない主張であると受けとめられています。このような主張が出てきた理由は、ハムが神の呪いを受けたため、ハムの子孫であるアフリカ人が、他の人種に支配を受けるものだという、植民地主義史観に立った聖書解釈のためではないかと思います。しかし、神はすべての人間を平等に愛しておられますので、このような解釈は、聖書全体の文脈とは、合致しません。それでも、今日の本文に、ハムは呪われたという言葉が登場するのは、紛れのない事実なのです。罪が消えた新世界で、なぜ、ハムは神の呪いを受けるようになったのでしょうか?ハムが呪いを受けるようになった理由は、後に登場する、イスラエル民族のカナンへの抵抗を予告する伏線としての意味を持つからです。なぜなら、ハムはカナンの父だったからです。創世記は、モーセ五書の最初の書で、モーセが神様に直接与えていただいた啓示として知られています。ある人は、モーセが直接記録したと、またある人は、モーセの言い伝えを、後世の人が、まとめて記録したと主張しています。いずれにせよ、創世記にモーセの影響が深く染み込んでいるということは明らかです。その意味は、つまり、誰が記録したにしても、創世記の内容自体は、モーセと同じ時代に生きていた人々のための、モーセの教えだった可能性が高いということです。 そういうわけで、私たちは、この創世記を単に礼拝のための経典であるという視点から考えるだけではなく、モーセの時代の人々が直面していた社会的な状況での行動規範としても、読む必要があります。当時、もうすぐカナンに入る状況、あるいは、カナンで生活していた状況で、カナン先住民の偶像崇拝と望ましくない宗教行為は、イスラエル人に良くない宗教性を及ぼす可能性がありました。神の御言葉は、邪悪な行為の禁止、神と隣人への愛のように、多少、守りにくい律法である反面、カナンの宗教は豊作のための宗教儀式として、男女の乱れた肉体関係を勧めるなど、神の御前で罪であることも、罪であると見なさない、快楽の宗教だったからです。おそらく、モーセは創世記を通して、そのようなカナン人の罪の性質が、その祖先であるハムに由来したものであるという警告を与え、彼らに同化せず、抵抗することを警告するために、カナンの祖先、ハムの罪を強調しようとしたのかもしれません。つまり、今日の言葉は、乳と蜜の流れるカナンの地で、カナン人と同化せず、むしろ抵抗して生きて行かなければならないイスラエルの民に、抵抗の正当性と使命感を促すための一種の説明書だと言えるでしょう。神に呪われたハムが持っていた罪の性質から抜け出し、そのハムの子孫であるカナンとは異なる区別された民族、すなわち、聖なる民族として生きていきなさいという、神の御命令だったということです。ハムが呪いを受けた理由については、このような視点から迫る必要があると思います。 2.ハムに残されている罪の性質。  「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって…わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。…これらを造ったことを後悔する。」(創世記6:5-7)創世記6章には、神が地上に洪水という裁きを下された理由が記されています。心に悪いことばかりを思い計る人間の姿を御覧になり、この世から罪を拭い去るために、人間と全ての被造物に裁きを下されたわけです。しかし、わたしたちは洪水の裁きの後も、依然として人間に罪が残っていることを、聖書を通して確かめることが出来、また、わたしたちの生活の中でも、そう感じます。なぜ、神が洪水でお裁きになり、新たな始まりを許されたにもかかわらず、世の中に、依然として罪と悪が残っているのでしょうか?それは、まさにノアの息子ハムから、再び罪が生まれたからです。 「さて、ノアは農夫となり、ぶどう畑を作った。 あるとき、ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。 カナンの父ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。」(創9:20-22) 神の祝福によって、ノアは農業を始めました。 「今、お前は呪われる者となった。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。」(創世記4:11-12)弟アベルを無惨に殺したカインの罪ために、神は地の呪いを下されましたが、洪水の裁きの後、再び世界を祝福し、新たなる機会を与えてくださいました。ノアはそのような神の加護の下で農業を始め、豊作になりました。おそらくノアは嬉しい気持ちで自分の作物で造ったぶどう酒を飲み、酔って裸になっていたかも知れません。聖書は、ノアが酒に酔ったことと、裸になっていたことについて、一切の肯定的な、あるいは否定的な評価もしていません。ノアが飲みすぎた部分については、私たちにも注意する必要があるでしょうが、今日の本文の主題は、ノアの飲みすぎとは、あまり関係がありません。それでも、あえて意味を与えようとすると、健康に生き、しくじらないためにも、過度の飲酒は控える必要があるということでしょう。それでは、この物語で本当に問題となる部分は何でしょうか?まさにハムがやってはいけないことを犯したということです。 (今日の本文は学者によって、色んな解釈があるため、参考にだけしていただきたいと思います。) 今日の本文の「ノアが…酔い…裸になっていた。」という言葉は、創世記3章に出てくる「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知った。」での裸とは異なる表現を使っています。後者は文字通りに裸を意味する反面(エロム)、前者は正しくない淫らな行為と関係があるものです(むき出す・ガラ)。ノアが裸であったという言葉に用いられたヘブライ語の表現を、他の聖書で探してみると、レビ記で20回登場していますが、まさに「誰かを犯して、辱めてはならない」という表現で親族との肉体関係、すなわち近親相姦を禁止する命令で使われています。「ノアが裸になっていた。」という表現には、ノアが妻と肉体関係を持っていたとの意味をも含まれているそうです。ノアが彼の妻と関係するということは自然な行為で、神様に許された、言わば摂理なのです。また、夫婦関係は他人によって侵害されてはならない大切なものです。なのに、ハムは、酒に酔った親のしくじりを見逃さず、その行為を見てしまいました。ここで「見る」というヘブライ語は、創世記3章でエバが善悪の木の実を貪った時、「その木をみると」に使われた表現で、正しくない欲望を含む表現です。つまり、ハムは親の行為を自分の意志で淫らに見たということです。ここから、いくつかの他の解釈も発生します。父の恥部を嘲弄すること、あるいは、母との望ましくない関係を犯すこと等です。つまり、ハムの心に決して、やってはならない淫らな心があったということが、今日の本文の問題点なのです。 3.罪は断ち切れない。 ハムには、淫らな罪の性質がありました。これは、単に性的な放蕩だけを意味するものではありません。旧約では、偶像崇拝について、「淫らに不倫を犯すこと」とよく表現します。ハムが犯した親への悪どい心も、とんでもない大きい犯罪ですが、その淫らな心の中に、また神を離れて、自分の欲望を追求しようとする不穏な思想が隠れていることは、さらに大きな問題なのです。結局、目に見えるハムの罪は淫らな思いを持っていたことですが、目に見えない、さらに大きいハムの罪は偶像崇拝の種を持っていたということです。神が洪水の裁きを通して、新たにしてくださった世界で、正しい人と言われたノアの、その息子によって、再び罪の性質が芽生えはじめました。ハムはカインで象徴される当時の罪人の血統ではなかったのに、結局、正しい人の血統からも罪が生まれたわけです。ここで私たちは罪の性質というのが、人の血統や家柄を通して受け継がれるものではなく、当初から人そのものに潜んでいるということが分かります。このように罪は断ち切れず、しつこく残るものです。ですので、私たちは、イエス・キリストの救いに感謝するとともに、毎日、自分の生活を顧み、自分の中から湧き出る罪の性質を制御するために、絶えず自分のことを弁えるべきです。 先週一週間の自分の生活を省みてみましょう。私たちは、どのような罪を犯してきたのでしょう?砂利も、大岩も、本質は石です。サイズに関わらず、結局、水に沈むものです。罪も同じです。罪は大きさを問わず、それを持っている人を罪人にします。嘘吐きと人殺しへの社会的な非難は異なりますが、神の御前では同じ「罪」なのです。十戒で「殺してはならない。」という戒めに先立ち、「親を敬いなさい」という戒めがあることに注目してください。神の御前では殺人も罪になりますが、親を憎むことも罪になります。同様に、偽り、結婚関係以外の淫らな行為、盗み、隣人を憎むこと、すべてが神の御前では罪になります。残念ながら、私たちも生きていく間、凶悪犯罪は犯さないかも知れませんが、小さい罪は犯したりします。しかし、神様にとっては、その小さい罪も、同じ罪です。したがって、私たちは依然として残っている罪の性質に対して、常に警戒心を持って生きるべきでしょう。私たちの中には、まだ罪が残っているからです。イエスは私たちの罪を赦してくださいましたが、まだ私たちの中の罪の性質を残して置かれました。私たちの罪は、自分が死んで、神に召される時まで、常に私たちについて来るはずです。したがって、常に罪に対して注意し、我らの罪を代わりに背負ってくださったイエス様の恵みに頼って生きていくべきです。 締め括り 「証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、 わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。」(黙示録1:5-6)私たちに罪が残っているにも関わらず、私たちに希望がある理由は、神様が罪に影響を受けない、完全な救い主を立ててくださったからです。正しい人と呼ばれていたノアからは、ハムという罪人が出てしまいましたが、正しい人イエス・キリストからは罪から解放された聖徒たちが出てきます。ノアの息子ハムも、我々キリスト者も罪から完全に自由になったわけではありませんが、少なくとも私たちには罪から完全に自由になっておられ、我々を罪から解放してくださるイエス・キリストがいらっしゃいます。従って、断ち切れない罪に絶望しないで、イエス・キリストを信じて進んでいきましょう。神の恵みが志免教会に豊かにありますように。