神のお召し。

創世記11章27節-12章9節 (旧15頁) 使徒言行録7章2-5節(新224頁) 前置き 私たちは、これまでの創世記の説教を通して、神の完全無欠な創造、人間の堕落、堕落後の人間の歩みについて学びました。それを通して、私たちが明確に分かるようになったのは、人間に明らかに罪の問題があるということ、神が人間を愛し、その人間の罪を解決することを望んでおられるということでした。そのような神の人間への愛は創世記12章のアブラハムの登場により、具体的に成し始められました。私たちは聖書で読む語句の中でしばしば「アブラハムとイサクとヤコブの神」という言葉を目にします。特にアブラハムの孫であるヤコブが神と出会った後に、神はその名を変えてくださいましたが、まさにイスラエルという名前でした。そして新約聖書は、アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてイスラエルの精神を継承した共同体が、キリストの体なる教会であると証言しています。神はアブラハムをご自分の民として召され、以降モーセを通して民が追求すべき精神である律法と、イエスによる全人類を救う福音を与えてくださいました。神は、その律法と福音の中で、神が選ばれた民を教会と、お名づけくださいました。したがって、今日、私たちが取り上げるアブラハムの物語は、アブラハムという一人の人間の話ではなく、教会の話です。アブラハムに与えられた召しを通じ、私たちに託された召しとは何かについて、考えてみる時間になることを願います。 1.正しくない者をお召しくださる神様。 本格的に聖書の内容を取り上げる前に、テラとアブラハムが登場する昔話を分かち合いたいと思います。まずはヨベル書というユダヤ教の古代文献に出てきた話です。 「カルデヤのウルに父テラと一緒に木造偶像を作っていたアブラハムが父に質問しました。お父さん、木で作られた偶像は、息も命も無いのに、なぜ人々はそれに拝むんですか?するとテラが答えました。息子よ、私も知っている。しかし、我々が、この偶像が偽神だと言ったら、私たちは、この偶像を崇拝する者たちに狙われて殺されるだろう。だから知らないふりをしなさい。」次は、ミドラーシュというユダヤ教のモーセ五書の解説書に出てくる話です。 「父と偶像の商売をしているアブラハムは、命もない偶像を崇拝する人々を、全く理解することができませんでした。ある日、アブラハムは作業室の木の棒を持って小さい偶像をすべて叩き壊しました。そして、一番大きい偶像の手の上に、その木の棒を置きました。しばらくして、テラが戻って来た時、作業室はぐちゃぐちゃになっていました。それで、テラはアブラハムに問い詰めました。何だ!これ!お前の仕業か!するとアブラハムは言います。一番大きい偶像が小さい偶像らを妬んで、叩き潰しました。するとテラは真っ赤になった顔で叱りました。馬鹿野郎!とんでもないことを言うな。生きてもいない偶像が、これらを倒せるもんか!馬鹿にするな!」 ユダヤ人は、自分たちの先祖アブラハムが正しい人だと思いました。ヨベル書とミドラーシュの物語には、そのようなユダヤ人の心が込められていたのです。しかし、聖書のどこにも、アブラハムが自ら正しかったので、神に召されたという話はありません。むしろ、何の正しさもなかったアブラハムが、自分自身ではなく、ひとえに神を信じ込んだので、神に義と認められたと証ししています。結局、アブラハムも罪を持っている罪人に過ぎなかったということでしょう。アブラハムが住んでいたウルはメソポタミア文明の中心地のような町でした。ウルは多くの神​​々を信じる多神教社会であり、アブラハムはそこで偶像を作る偶像崇拝者だったのです。つまり、彼は自分自身が神を訪れて行ったわけではなく、神が彼にお訪れになり、選ばれて、神の民にしてくださったわけです。神はこのように、義のない者に義をお与えになり、ご自分で保証してくださる方です。そして、新約聖書の時代には、その役割がキリストに受け継がれました。クリスチャンは正しいから救われた存在ではありません。誰かを憎んだり、悪い心を持ったりします。しかし、神は信徒の行為ではなく、キリストのお執り成しを介して、ご自分の民をお受け入れくださいます。だから、神のお召しは、主イエスによる、無償の贈り物であることを忘れてはなりません。 2.主の民を、お先に知っておられる神様。 創世記には、神がアブラハムを「ハラン」から呼び出されたと記されています。聖書によると、ハランはアブラハムの死んだ兄弟の名前だったと言われます。テラの家族はウルに住んでいたが、なぜ当時の文明と文化の中心地であったウルを離れて、ハランに移ったのでしょうか?息子ハランの死を悲しんでいたテラが痛い記憶を振るい落とすために引っ越ししたわけでしょうか?あるいは、神がウルで、その家族に現れて、移住を命じられたのでしょうか?使徒言行録の7章でステファノの説教では、このように取り上げられています。 「わたしたちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかったとき、栄光の神が現れ、 あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行けと言われました。」ステファノはテラの家族の移住が神のお召しによるものだというニュアンスで話しました。ところがこのように見れば、創世記と使徒言行録の言葉に矛盾が生じるということが分かります。神がアブラハムをお召し出しになった場所が、創世記ではハランであり、使徒言行録ではウルであるからです。一体、神がアブラハムをお召しになった、正確な場所はどこなのでしょうか? 様々な解釈があるでしょうが、確かなことは、神はアブラハムがウルにいる時から、すでに彼をお選びになったということです。ひょっとしたら、アブラハムはウルで神に出会ったかも知れないし、あるいは、後にハランで出会った可能性もあります。しかし、明らかことは、アブラハムが神に出会う前に、神はすでにアブラハムを知っておられ、選んでくださったということです。おそらくステファノは、すでにお選びになった、その神の偉大さを示すために、ウルでアブラハムに現れたと言ったのかもしれません。聖書外的な話ですが、アブラハムが生きていた時代と推定されている、紀元前2000年ごろ、ウルには、強力な王国があったと言われます。人々はそれをウル第3王朝と呼びます。ところで、このウル第3王朝は、強力な国だったにも拘わらず、その歴史は100年強にしか至らかったと知られています。考古学者たちが、その理由を知るために研究をした結果、当時ウルの地層から強い塩分が発見されたそうです。数千年の農業の故に、土地が荒れてしまい、塩分が多くなって農業が難しくなり、それによって飢饉が生じたわけです。おそらくウル第3王朝は、そのような飢饉による国力の低下と異民族の侵略によって滅びてしまったかも知れません。その頃、全人口の4割くらいが故郷を捨てて、ハランなどの新しい場所に移っていったそうです。日本の状況に言い替えれば、割合的に九州地方の4倍の人口が他国に行ってしまったという意味です。 私たちは、テラの家族が、なぜウルを離れてしまったのか、なぜハランに定着したのか詳しくは知ることができません。上記のような歴史的な理由か、本当に神が現れて導かれたからか、聖書だけでは分かりません。しかし、重要な事実は、飢饉と移住、神のお召しを問わず、そのすべてが神のご計画の中にあったということです。神はすでにアダムとセト、ノア、セムを通じてアブラハムの人生をきちんきちんと準備なさいました。そして創世記12章に至って、最終的に神は彼の人生に介入なさいました。アブラハムは神を知りませんでしたが、神はこの世界の創造、人間の堕落、人類の興亡盛衰の中で、アブラハムという存在の登場を備えておられたのです。神のご計画は、私たちの考えとは全く異なる方法で近づいてきます。私たちが神を知るにも前に、神は、すでに私たちのことを知っておられ、私たちと出会う日を待ち望んでくださり、私たちに訪れて来られたのです。日本の1億3000万人の中で、たった1人である私に来てくださったわけです。それぞれ生きてきた人生も、記憶と経験も異なりますが、神は私たちの苦難の中と、喜びの中で、私たちとの出会いを準備なさり、神がお定めになった時に、私たちに来てくださいました。神は、私たちが生まれる前から私たちを知っておられました。その神が御子の血を通して、私たちを救い、お召しくださったのです。それだけにあなたは神にとって大切な存在なのです。 3.神に召された者たちの在り方。 「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」神はアブラハムが祝福の源になると言われました。しかし、彼は長い間祝福どころか、心配の中で生きなければなりませんでした。神の計画により、召されたアブラハムでしたが、彼は後を継ぐ子供もなく、老いていく一方でした。彼は故郷のウルを離れなければならない困難を経験し、ハランでも辛うじて落ち着いたようなものでした。しかし、神は彼に現われて、自分のすべてを捨てて、神に従いなさいと命じられました。しかし、その結果は絶え間ない苦難の連続でした。神に付き従うということは、ただ幸せになるだけの道ではありません。 ローマ時代には「皇帝が上か、キリストが上か」という質問によって、16世紀の日本では踏み絵を拒否したというわけで、また植民地信徒たちの中には、主イエスを唱えて特高によって拷問を受け、死んだ人もいました。共産主義者たちがイエスを信じる人を残酷に銃殺した場合もあり、今も中東では、福音のためにイスラムの原理主義者たちに殺されるクリスチャンも存在しています。 ヘブライ書には、このような言葉があるほどです。 「彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。」(ヘブライ11 )数多くの聖書の人物たちは、もし神を知らなかったら経験しなくても構わない苦難を、神の民であった故に経験して生きました。それにもかかわらず、神は常に神の民を召しておられます。なぜならば、神はその民を通して、この世界に祝福をもたらされる方だからです。神はアブラハムがまだ神を知らなかった時から、彼を選ばれ、彼が世のための祝福の源となるように導いてくださいました。そして、その結果は、キリストの到来に繋がりました。神様が私たちを召される理由も、私たちを通して、祝福をくださるためです。私たちの口と生活を通して伝わる、主の福音を通して救われる者をお召しになるためです。ですから、私たちが神に召された者であれば、私たち自身がそれを認めて頷くことができれば、どのような苦難と迫害があっても、打ち勝つ強力な信仰を持って生きるべきです。そのような生き方に、神はきっと避ける道をくださり、満ち溢れた祝福をくださるでしょう。 「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハネ12:24-26)キリストは、主のその苦難をご自分の栄光になさいました。そして、主イエスは、苦難の十字架を栄光の十字架に変えられました。皆さん、今日は、少し心が重くなる説教をしました。しかし、「苦難なくして、栄光は果たせない。」という言葉もあるでしょう。私たちが、この世を生きていきながら、幸せと喜びだけを追い求める信仰生活をするなら、神が望んでおられる福音の前進は成し遂げられないでしょう。私たちの全生涯が苦難のみに満たされてはいけないでしょうが、それでも、私たちを召された父なる神、私たちを救われた主イエス・キリスト、私たちを導かれる聖霊と共に歩んで、他人に福音を伝える者として苦難を恐れず、生きて行きましょう。神の召しは苦難と栄光の二つの顔を持って来ます。そのような召しに忠実に適う時に、神は「忠実な良い僕だ。よくやった。主人と一緒に喜んでくれ。」と褒めてくださると信じます。