バベルの塔

創世記11章1-9節 (旧13頁)使徒言行録2章1-4節(新214頁) 前置き 創世記6章で、神様は、初めの人間の罪を御覧になり、彼らの世界を罪と一緒に地上から拭い去ろうと計画なさいました。そのため、人間が治めていた世界のすべての被造物も、神の裁きの下で、共に滅ぼされる危機に置かれてしまいました。しかし、神はその中から一人の正しい人、ノアのために、この世に再び機会を与えようとなさいました。神はノアに箱舟をくださり、ノアの家族と一部の被造物を生き残らせてくださいました。そして洪水で綺麗になった地上で、再び正しい世界を作る機会を与えてくださいました。しかし、残念なことに、ノアの次男であったハムの罪のため、世界はまた罪に満ちてしまいました。私たちは、この物語を通して、神は正しい人に機会を与える方でいらっしゃいますが、いくら正しい者だといっても、罪から完全に自由になりえないことが分かります。私たちは、聖書を読むたびに、常に人間の罪と向かい合うことになります。聖書は、過度に感じられるほど、人間の罪について指摘しています。しかし、それが人間の弱点であることは、まぎれもない事実なのです。そのような人間の罪が巨大に形象化されて、創世記11章で頂点をとりますが、それが、まさにバベルの塔でした。今日はバベルの塔の物語を通じ、人間の罪と神の恵みについて話してみたいと思います。 1.バベルとは何か? 私たちは、聖書を読みながら、バベルという言葉をよく聞きます。創世記のバベルの塔、イスラエル民族を滅亡させたバビロン、ローマ帝国の首都であったローマを比喩的にバベルと呼び、黙示録は神に逆らう、悪の勢力と、その支配を比喩的にバビロンだと称しました。 (バビロンとバベルは語源が同じ。)バベルは、古代アッカド語で「神々の家」という意味です。おそらく神々の家という意味のように、古代人は、強力な神々の加護の下で繁栄することを願い、バベルという言葉を好んで使用していたのかもしれません。ところで、このバベルという言葉はヘブライ語では「神々の家」ではなく「混沌」を意味します。バベル、全く極端な2つの意味を持つ名前です。さて、アッカド語では「神々の家」という意味のバベルは、なぜ、ヘブライ語では「混沌」という意味に移り変わったのでしょうか?私たちは、今日の本文を通じ、その理由について覗き見ることができます。 「この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。」(創11:9)バベルが混沌と呼ばれるようになった理由は、神様がバベルでの人間の罪を御覧になり、彼らの集まりと言葉を混沌とさせ、処断し散らされたからです。 遥かな昔、イスラエルの先祖アブラハムが生まれる前に、中東の諸国には、神々に仕えるための神殿がありました。彼らはその神殿を中心に町を築き、国家を作りました。彼らは神様の「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」という御命令を無視し、神殿を中心に集まり、自分たちだけの世界を作ろうとしました。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」という言葉は、ただの人間の繁栄だけを意味するものではありません。世界中に広がって、神の御心に従って生きなさいという意味だったのです。しかし彼らは、むしろ一所に集まって、神様に背き、自分たちが中心となり、他人を支配する巨大な帝国を作ろうとしたのです。彼らはバベルという名前のように、神の家という意味の神殿に、異邦の神々を閉じ込めて置き、自分たちの必要に応じて、神々を利用することを望んでいたのです。神々を利用するために神殿を作った彼らは、存在もしていない神々を拝み、偶像崇拝を自然に行いました。また、それを通して自らが神のような存在になることを企んでいたのです。つまり、バベルとは、神様から積極的に離れて、自らが神のようになろうとする、過去のアダムとエバのように、神に反逆する人間の本性を意味するものです。結局、神は今日の本文のように、彼らに混沌を下され、彼らをバラバラに散らされました。このようにバベルは、今でも神に逆らう代名詞、神の反対側にある悪の代名詞として聖書で使われています。 2.なぜ、塔なのか? バベルの塔のバベルは、その塔の名前ではなく、バベルという町に建てられていた、ある塔を意味するものです。多くの人がこれを古代の建築物の一つであるジッグラトと推定しています。ジッグラトとは、先にお話しました、神々の家、すなわち神殿で古代中東人の文化の中心であるものでした。彼らはなぜ神殿という美名の下に、高い塔を築こうとしたのでしょうか? 「彼らは、さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしようと言った。」(創11:4)彼らは、高い塔を築き、その塔を天に届くようにして、自分たちの名前を高めるために、レンガを積みました。創世記4章を見ると、このような言葉があります。 「セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。」(創4:26)アダムの息子セトが、息子を儲けた時はじめて、人々は主の御名を呼び始めました。覚えていらっしゃると思いますが、私は創世記4章の説教で、神の名を呼ぶということが、「神に礼拝を捧げる。」という意味だと話しました。この言葉から推し量ってみると、今日の本文で「有名になる」ということは、自分たちも礼拝される存在になることを望んでいたとの意味であることが分かります。つまり、バベルの人々は、互いに力を合わせ、塔を作って、自分たちも神のように崇拝される、神のような存在になることを望んでいたということです。彼らは神を仕えるべき対象と考えず、ただ、自分らが礼拝の対象として、神のようになることを望んでいたのです。 それでは、神のようになるということと、塔を築くということの間には、どのような係わりがあるでしょうか?古代人は、この世界を、マリのような円形だと思いました。丸い世界の中間地帯に人間が住んでいる地上の世界があり、地下には死者が行くシェオルがあり(日本語、陰府)、空には太陽、月、星などがあり、その上に神々の世界である天があると信じていました。人々が高い塔を建てて、天に至ろうとしていた理由には、自分たちが、その天に上って行き、世界の外の神々の国に入ろうとした願いが隠れています。自分たちも神の世界に入り、神の支配から逃れ、神のように世界を支配する存在となることを望んでいたわけです。結局、私たちが、このバベルの出来事を通して分かることは、人間は神のように高くなることを願っており、これらの罪は善悪の実を貪ったアダムとエバの時から、全く変わっていないということです。人間には他人の上に君臨しようとする邪悪な性質があります。金持ちは貧しい者を、権力者は弱い者を、強い国は弱い国を力で抑圧し、支配しようとする本性を持っています。私たちの心には、そのような姿はないのでしょうか?自分より弱くて、力のない者らを貶めて、自分よりも強い者には何の抵抗もしない姿が、もしかしたら私たちの心にあるかもしれません。今日の本文は、このような人間の罪に満ちた本性を示してくれます。高い塔を築くということは、自分自身を極めて高め、他人は自分の足下に踏みつけ、支配しようとする、人間の傲慢な罪の性質を余すところなく示すものなのです。 3.バベルの塔の結果 – 散らされる。 神は人間が全世界に広がり、神を伝え、仕えて生きることをお望みになりました。神様が初めのアダムと洪水後のノアに、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」と命じられた理由は、全世界に神の御名を伝え、神を礼拝する存在として生きなさいとの意味だったからです。私たちは、この命令の根拠を、新約聖書で見つけることができます。 「イエスは、近寄って来て言われた。わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:18-20)十字架での死と墓からの復活の後、父なる神に世界を支配する権限を与えられたイエスは、弟子たちに全世界に進んで、神を伝えることを命じられました。過去の人間が罪によって成し遂げられなかった、全世界に広がって神を伝える生を、イエスご自身が「いつも一緒に歩んでくださる」ということを約束してくださることによって、はじめて成し遂げることができたのです。その結果、世界的に福音が宣べ伝えられ、今ここで日本人、ニュージーランド人、中国人と韓国人を問わず、みんなで集まり、民族や文化を乗り越えて一緒に神を礼拝することが出来るようになったわけです。しかし、バベルにいた人間たちは、広く、神を宣べ伝えるどころか、自分たちが神の座を奪おうとしていただけです。これは如何に大きな罪だったことでしょうか? 神を伝えるために全世界に広がっていくべきであったバベルの人々は、結局、神によって言葉が混乱させられ、民族が分かれさせられる呪いを受けて、散らされてしまいました。 「我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」(創世記11:7-8)神に逆らい背く者は神によって散らされてしまいます。人間がいくら巨大な国を打ち立て、他の民族を踏みつけ、自分を高めようとしても、神を仰ぎ見ず、自分を神のようにしようとする者たちは、遅かれ早かれ滅ぼされてしまいます。周辺国を踏み躙り、支配した古代のエジプト、ギリシャ、ローマ、ペルシャ帝国も、今では文化財として残っているだけです。私たちが生きていく、この世も古代の帝国と大きな違いはありません。強い者は弱い者を、強い国は弱い国を苦しめます。自分たちはさらに高め、他人は低くするためです。しかし、神は常に天から地のことを見下ろしておられます。自らを高めようと自己中心的に塔のレンガを積んでいる者は、過去のバベルの罪人のように崩れ、散らされてしまうでしょう。したがって、我々は自分を高めるエゴという塔を建てるより、神を高め、伝えるために地に広がり、謙遜に生きていくべきです。そのような生き方を主は祝福してくださるでしょう。 締め括り 低いところに臨まれたイエスを思い起こします。主は神そのものでいらっしゃいましたが、地の弱い者たちのために降り、神と隣人に仕えられました。聖書は、その結果をイエスの勝利として結論づけています。 (フィリピ2:6-11)バベルの罪人たちは塔を建て、天を貪った反面、神であるキリストは、むしろ地に降り、人々の間に来られました。主は自ら御自分のことを低め、誰よりも低いところから愛してくださいました。その結果は、最も高い王として神に認められることになったのです。また、使徒言行録では、このイエスが成し遂げられた、もう一つの恵みが記されています。 「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒2:2,4)自分を高めたバベルの人々は、言葉の混雑を経験したのとは反対に、自分たちを高めるためでなく、もっぱら神を高めるために集まった弟子たちは、キリストを通して聖霊を受け、それぞれ別の言語で、一つの福音を宣言する真の言語の一致を経験したわけです。バベルの塔は人間の高くなりたがる性質を示すものです。しかし、主イエスは御自分の犠牲を通して、神と隣人を高め、自らを低くする際にはじめて、神に高められるということを教えてくださいました。クリスマスを待ち望むアドベントの期間です。私たちの心の中に、傲慢なバベルの性質はないか、自分のことを顧みて、神の御前に謙虚に生きる民になることを望みます。主と隣人を高め、自分自身を低くする、謙虚な志免教会になることを祈り願います。