初めであり、終わりである神様。

イザヤ書40章27-31節 (旧1125頁)ヨハネの黙示録22章12-13節(新479頁) 前置き 明けましておめでとうございます。いよいよ2021年の新しい年が明けました。今年も神の恵みの中で平和と喜びに満ちた一年になることを祈ります。皆さんは、今年、どのような願いを持っておられますが?私はコロナ禍が終結することに加えて、志免教会を通して働かれる神の御手を、皆さんと一緒に見ることを願います。その御手による御業が何なのかについては、今、私が詳細に言うのは難しいと思います。神がどのようなことをなさるかは、私も知ることが出来ないからです。ただし、私個人の願いは、どうか志免教会の周りの隣人が教会に向かって、心の扉をいっそう大きく開くこと、そして、皆さんのご家族の神を知らない方々、神との関係が遠ざかっている方々が、神の御前に来ることを通して、神が私たちの間に働いておられることを発見したいと思います。もちろん、そうでなくとも、神はすべての物事の主でいらっしゃり、ほめたたえられるべき神様です。しかし、少なくとも、これらの願いを持って、新しい一年を祈りを持って生きていきたいと思います。 2021年は、神の偉大さが志免教会の歩みの中で、そして、皆さんの生活の中で、明かるく輝くことを望みます。 1.初めであり、終わりである神様。 皆さんはヨハネの黙示録を好んでお読みになりますか?黙示録はかなり難しい本でしょう?黙示録は、その内容が難解で意味も不明確な部分が多くあるため、神学を専攻した人々にも、難しい聖書だと言われています。しかし、この難しい黙示録も、割と明確にテーマを持っています。私はそれが、まさに今日の新約本文の語句だと思います。 「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。 わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」(12-13)黙示録が、非常に難しい聖書であることは明らかですが、黙示録は、私たちの主であるイエスが、この世界を治めておられることと、いつの日か、この世界をことごとく御裁きになることと、それまで信仰を堅く守る者に報いてくださることについては、明確に語っています。」そういうわけで、黙示録の冒頭と末尾に「 わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」という言葉が出て来るのです。これはキリストがすべての物事の主でいらっしゃることを強調するわけです。神は、最初から最後までを司られる方です。神によって、この世界が造られ、神によって私たちが生まれ、神によって私たちは、この教会堂に集って、すべての初めであり、終わりである神様を礼拝することが出来るのです。 先週の説教で、私は永遠という言葉についてお話しました。キリスト教にとって永遠とは、「神が最初から最後まで、全てを司ること。」であり、永遠の命とは、その「すべてを司る神と共に歩み、生きていくこと」だと話しました。今日の本文の「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」という言葉も、この永遠と深い関係を持っているのです。神様が最初から最後までの全てのことを司られ、すべてのものを治める永遠の御方でおられること、その方がお遣わしになったキリストが、その支配を自らなさっておられることを黙示録は力強く告白しているのです。過ぎし1年を振り返ってみると、全世界でコロナによって180万人が亡くなりました。米国と中国、日本と韓国が対立しました。北朝鮮は相変わらず、核兵器で世界を脅かしています。私たち人間の生活の中で、昨年の様々な問題は、命が脅かされるほどの恐ろしいことでした。いくら強力な権力者であっても、戦争と疫病の猛威の前では、手が付けられないからです。しかし、この全ての出来事はアルファであり、オメガである神様のご計画の中の、ほんの微かなことにすぎません。もちろん、戦争や疫病で人が死ぬことを神のご計画だとは言えないでしょう。もし、神が無分別な死をあおぎ立てる方であれば、彼はすでに神ではなく、悪魔であるでしょう。 すべてが神のご計画の中にあるということは、神が、この混乱した世界の中でも、神の御心に基づいて、世界を正しく導いていかれるという意味です。創造の時、初めの人間が犯した罪の結果は、この世の中に混乱をもたらすことでした。神が初めに造られた完全な世界は、人間の罪によって崩されました。対立も、戦争も、疫病も、そのような人間の罪の故に生まれた悪の副産物なのです。しかし、神はそのような混沌の世界の中でも、相変わらず、キリストを通して慰めと救いとを与えてくださる方です。 「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」(Ⅱペトロ3:8)現在、私たちの人生の中で起こる、すべての危機は、人間のみに適用されるものです。神様の立場においては、この世界の千年が、私たちがお茶を分かち合うほどの短い時間にすぎないかも知れません。つまり、この地の危機が神の危機になることは有り得ないということです。神は、その危機よりも大きい方であるからです。むしろ、神にとって、そのような微かな危機の中でも、人間をお覚えくださり、愛してくださる主の偉大さに感謝したいと思います。神がお造りになった、この世界が罪と悪の故に混乱しているけれども、神はいつか、この罪と悪を終わらせられることでしょう。その神を堅く信じ、世の危機に怯えず、神の偉大さに畏れおののく私たちになることを望みます。初めであり、終わりである神様が、この一年も私たちと共におられることを願います。 2.慰めと力を与えてくださる神様。 神は慰めてくださる方です。ヨハネの黙示録の審判者、神様は、神を憎み、逆らう者らに向かって裁きを下される方です。しかし、神を愛し、主の子供として生きようとする者には、喜んで父になってくださる方です。皆さんにとって父という存在は、どのような記憶として残っていますか?私は10歳になるまで、父がいませんでした。私が生まれる前に父は船舶事故によって亡くなったからです。そんななか10歳の冬ごろに、母の再婚を控え、今の父に出会いました。背が高く、声も太く、心が暖かいおじさんが、生まれてから一度も父がいなかった私に、父となってくれました。父がいなかったので、友達の前で父の話を持ち出すことが出来なかった私が、自然に父の話を持ち出すことになりました。それ以来30年間、私の父は私の一人だけの父となったのです。神もそのような方です。過去、肉体の父がどのような人であったかとは関係なく、父なる神様は、完全な愛と慰めと救いの父になってくださる方です。神がキリストを通して私たちをご自分の子供として召された理由は、私たちが天の父なる神様から愛と慰めと救いをいただくためだったのです。 今日の旧約本文は、神を捨て去って、罪と悪の道に進んでいたイスラエルの民が、神の御裁きを受け、バビロンの捕囚として連行された後、神によって解放され、故郷に帰ってくる時、記された慰めの言葉です。 70年間バビロンとペルシャの捕囚として生きてきて、神様が自分たちを憎んでおられると誤解していたイスラエルの民に、神は、愛の神であり、慰める方であり、力をくださる父であることを知らせるためにこの言葉が与えられたわけです。 「ヤコブよ、なぜ言うのか?イスラエルよ、なぜ断言するのか?わたしの道は主に隠されていると、わたしの裁きは神に忘れられたと。」(イザヤ40:27)神様がご自分の民に罰を与えられる理由は、彼らを滅ぼすためではありませんでした。神は、主の民が間違った道に行くときに、懲らしめを下されて、神に帰ってくるようになさる方です。親が愛する子供に戒めを与えるように、先生が大切に思う学生に罰を与えるように、神の民に与えられる苦難は、神の御裁きではなく、愛の懲らしめであるのです。神はご自分の民が幸せと喜びを持って、世を生きて行くことを願っておられる方です。しかし、幸せと喜びを口実に我が儘に生きることは望んでおられません。神はその民が信仰を堅く守り、隣人への愛を持って、主と一緒に同行する生活の中で真の幸せと喜びを見つけることを願っておられる方なのです。そのような生活を促すために、神は私たち、信徒に苦難を与えられるのです。 きっと2021年度も、コロナ禍は完全には終息しないと思います。一部の人々は、神が世界を御裁きになるために、コロナを下されたと言うでしょう。しかし、神が神の被造物である人類を呪われるためにコロナをくださったわけではないでしょう。神はこのような困難な状況を通して、人類が自ら反省し、顧みるためにコロナを与えられたかも知れません。教会も同様です。様々な困難な状況に直面している場合でも、神は私達を厳しく叱られるためではなく、私たち自身に悔い改めを促され、神様を仰ぎ見させるために困難な状況を許しておられるのだろうと信じています。神は今日も主の民を慰めてくださる方です。神は私たちを愛しておられる慰めの神様だからです。 「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(28-31) 締め括り イスラエル王国があったパレスチナ地域には、イヌワシという大きい種のワシが生息していると言われます。翼を伸ばすと、2メートルに達し、体重も7キロに達するほどの大きい鷲です。この7キロもなるイヌワシが空に飛んで上がるためには、自分の翼の筋肉だけでは無理なようです。そのため、イヌワシは風を利用して空に飛んで上がるそうです。今日の旧約本文の言葉も、それに関連があると思います。神はワシを飛び上がらせる風のように、その民に力を与えてくださる方です。アルファとオメガ、初めと終わりであられる神様は、疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる方でいらっしゃいます。今年もこの神様に依り頼んで、一日一日を生きていく私たちになることを願います。私たちの目の前に暗闇と障壁が遮っていても、神様が与えられる聖霊の風に私たちの全てを委ね力強く生きていく志免教会になることを望みます。イエス・キリストを中心に一つになって、神と隣人を愛し、お互いのために祈り合い、慰め合う生き生きとした志免教会になってまいりましょう。主が喜びを持って、この一年も私たちと一緒に歩んでくださるでしょう。