謙遜と信仰

詩編22編23-29節(旧853頁)  マルコによる福音書7章24-30節(新75頁) 今日はマルコによる福音書7章24-30節の言葉を通して、主が我々に求められる謙遜と信仰について考えてみたいと思います。その前にマルコによる福音書5章の内容について手短に触れてみましょう。5章でイエスはガリラヤ湖の向こう岸のゲラサ地方に行かれました。ゲラサとはデカポリスに属する地域で、ローマ帝国が立ち上がる前に、ギリシャ帝国によって立てられた10の都市国家の一つであり、ユダヤ人には異邦の地と呼ばれるところでした。イエスは、そこで「レギオン(軍隊)」という名の悪霊に取り付かれた人に出会われました。主はその人を癒してくださった後、彼を遣わされつつ、ゲラサ地域で神の福音を宣べ伝えよとされました。この出来事から得られる重要な教訓は、イエスはユダヤ人と異邦人を差別なさらず、世のすべての民族が救われることを望んでおられるということでした。さて、今日の物語も、このような異邦人への宣教と係わる内容です。本文でイエスは、もう一度異邦の地域(ティルス)を訪れられます。そして、偶然シリア・フェニキアの女に出会い、彼女の信仰を試みられることになります。主は彼女の信仰をご覧になり、ユダヤ人ではなく異邦人であるにもかかわらず、その願いを成し遂げてくださいます。今日はイエスとシリア・フェニキアの女をめぐる物語を通して、望ましい信仰の姿勢である謙遜について考えてみたいと思います。 1.シリアのフェニキア人。 今日、主に出会った女はフェニキア出身のギリシャ人でした。シリア・フェニキア人は、シリア地域のフェニキア民族の人という意味で、イスラエルの北の海岸にある、とても古い民族でした。一説によるとフェニキア文明は紀元前40世紀前も存在していたと言われます。フェニキアはアルファベットで有名ですが、大昔からフェニキア人は地中海全域を掌握し、貿易を通して令名をはせてきました。そのため、早くから文字、数学、航海術が発達したと言われます。フェニキア文字の影響で西のギリシャ語も発展し、またそのギリシャ語によってラテン語、ヨーロッパの諸言語、英語も発展していきました。東南部のヘブライ語やアラビア語もフェニキア文字の影響下にあります。つまり、シリア・フェニキア文明は、地中海地域の文化全体に大きな影響を及ぼした中東・西洋文化の起源の一つといっても過言ではないほどです。またフェニキアは軍事的にも強い民族でした。紀元前3世紀から2世紀頃、ローマが本格的に大帝国になる前、ローマの海の向こうにはカルタゴといった海洋民族がありました。彼らは地中海の支配権をめぐってローマと雌雄を争いました。西洋史で有名なポエニ戦争が、このカルタゴとローマの戦争です。ここでカルタゴはフェニキア民族に由来した国です。このようにフェニキアは、文化的、経済的、軍事的に非常に由緒ある民族だったのです。 というのは、フェニキア人には文化的、経済的にユダヤ人より優れたという自負があったということでしょう。たとえば、中国には、日本や韓国、ベトナム、あらゆるアジア諸国より歴史的、文化的にすぐれたという中華思想があるようです。中国がアジアの中心だということでしょう。もちろん他国からは認められないようですが、彼らは今でも、そういう文化的な優越感を持っています。このように、シリア・フェニキア人はユダヤ人を自分たちより劣等な民族だと見なしていた可能性が高かったと思われます。これが当時のシリア・フェニキア人、つまり本文で、主が訪れたティルスの人々の認識だったということです。「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。」(24)そういった歴史と文化に自負を持っているフェニキア人でしたが、その中にも貧しくて弱い人々が存在し、藁にも縋る思いでイエスのところに来る人たちがいました。彼らはどんな病気でも治し、どんな悪霊でも追い出し、5000人でも腹一杯食べさせる「奇跡の男」イエスに会うために押し寄せて来ました。今日、登場するシリア・フェニキアの女も、そういう人たちの一人でした。「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。」(25) 2.イエスの試み。 しかし、イエスを訪ねてきたからといって、イエスの近場にいるからといって、皆がイエスに対して真の信仰を持っているとは言えませんでした。ある者たちは本当の信仰で、ある者たちは好奇心で、またある者たちは別の欲望で、各々の意図をもってやって来ました。代表的な人物が12弟子の1人であったイスカリオテのユダでした。彼はイエスを政治的なメシアだと思って従ったのですが、自分の思い通りにうまくいかず、結局、裏切ってしまいました。ここで一つ考えてみたいことがあります。私たちは、なぜイエスを信じているのでしょうか? 去年もいくつかの説教で、同様な質問をした記憶があります。私たちは、なぜキリスト者と名乗り、教会に通っているのでしょうか? 主に対する本当の愛のためか、それとも他の理由があるためか、我々の信仰について自らを顧みる必要があると思います。「わたしに向かって、主よ、主よと言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ7:21)我々はこの言葉に耳を傾けなければなりません。多くの群衆の中でイエスを訪れた女は、果たしてどんな気持ちでイエスを訪れたのでしょうか? 「女はギリシャ人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。」(26) シリア・フェニキアの女の娘は、悪霊に取り付かれていました。新約聖書で「悪霊に取り付かれた。」という言葉は、実際に悪霊に取り付かれて狂ってしまったという意味でもありますが、「神に逆らう、汚れた世の邪悪な支配のもとで苦しんでいる。」という意味にも解釈できます。おそらく、この女性は占い師、医師、宗教家など、多くの人々に頼んだはずです。しかし、誰ひとり、この世の支配から娘を自由にすることが出来ませんでした。結局、彼らもこの世の支配に属していたからです。ひとえにこの世の支配の外で、その支配を退けられるイエスだけが、その苦しみから娘を自由にすることが出来るものです。ユダヤ人も、ギリシャ人も、如何なる存在もイエスによってのみ世の邪悪な支配から自由になることが出来ます。ところで、女がイエスに声をかけた時、イエスのお答えは、私たちの予想とは全然違うものでした。「イエスは言われた。まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」(27)イエスが女性を小犬に比喩されたからです。当時ユダヤ人は自分たちは神の子どもであり、異邦人たちは「犬」と呼んでいました。滅ぼされるべき無益な存在だという意味で、非常に侮辱的な悪口だったのです。つまり、イエスがこの異邦の女を侮辱したも同然の状況でした。 先ほど、私はフェニキア民族の由来について説明しました。彼らは長い歴史、由緒ある伝統、優越な文化を持っていました。フェニキアはローマ帝国の植民地の一つでしたが、そのローマの文化がフェニキアから大きく影響を受けたことは否定できない事実でした。また、女はギリシャ人、つまり文化人でした。当時のギリシャ人とは野蛮人でない人という意味であったため、女の民族的、文化的なプライドは高かったはずです。しかし、主は彼女を「犬のような人間」と扱われました。数多くの人々がイエスを訪れましたが、その中に真の信仰を持っている人は何人だったでしょうか。イエスの弟子たちさえも、不信心に陥る時もあるほどでした。つまり、イエスはこの女の信仰を試みられたのです。本当に信仰を持ってきたのか、それとも他の人たちと同じように好奇心や欲望だけのために訪れたのかを計り知るためでしょう。しかし、彼女は驚くべき水準の信仰で、イエスにお答えしました。「女は答えて言った。主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」(28) つまり、言い換えれば、こういう意味でしょう。「もし、あなたが私を犬と呼ばれるなら、私は犬のように扱われても良いです。しかし、犬のような私でも、ひとえにあなただけが私を助けてくださる方であることを信じています。」彼女はまるでこのような返事をするかのように、主に反応したわけです。 3.謙遜と信仰 「そこで、イエスは言われた。それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。」(29-30)もちろん、イエスは心から彼女を犬だとは思っておられなかったでしょう。主はすべての存在の主であり, その愛は人種を選り分けません。主は彼女の信仰を試そうとされたことでしょう。そして彼女は見事にその試みを乗り越えました。民族、文化、歴史的な優越感ではなく、イエスという存在と自分という一人の人間の間にある、あらゆる妨げを乗り越えて、主との関係にのみ集中する、その立派な信心を、シリア・フェニキアの女は証明したのです。そして、その証明の根源は彼女の謙遜にありました。「貧しい人は食べて満ち足り、主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。」(詩編22:27)今日の旧約本文の27節には「貧しい者」という表現が出てきます。この「貧しい」の原文は「アナブ」というヘブライ語で、解釈次第で「謙遜である」という意味にもなり得ます。つまり、27節は「謙遜な心を持って主を追い求める者は豊かに恵まれるという意味でしょう。」優れた文化と伝統のフェニキア人、しかもギリシャ人と呼ばれていたシリア・フェニキアの女。彼女はみすぼらしい人間の姿でおいでになった、真の神を謙遜な心によって見つけたのでした。主は謙遜を通してご自分の姿を表されます。今日の本文は、その点を非常に重要に語っています。 締め括り 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(マタイ5:3)今日、本文の原文に照らすと、あの有名な山上の垂訓のこの言葉も再解釈できると思います。つまり、「謙遜な者は幸いである、御国は彼らのものである。」とのことでしょう。我々の信仰の基礎は謙遜にあります。「自分ではなく、主のお手柄によってのみ救われる。私ではなく、神の力によってのみ祝福を受ける。」という我々の信仰自体が、謙遜に基づくものでしょう。このようにキリスト者の信仰において謙遜とは、美徳ではなく、必要不可欠な本質です。志免教会に赴任した時は、本当に心配でした。「志免教会の皆さんが、韓国からの牧師をどのように思われるだろうか?」ということでした。志免教会の何人かの方がお生まれになった時は、まだ、韓国は日本の植民地状態でしたので、私の心の中に言い知れぬ負担があったのです。しかし、志免の兄弟姉妹たちは謙遜に韓国の牧師を受け入れてくださり、今では日本人でも韓国人でもない、ただ、主イエスとキリスト者の群れがいるだけです。きっとキムという人間ではなく、神の御心にへりくだって聞き従ったからでしょう。私は志免教会の、その謙遜を主が喜んでおられると信じます。また、その謙遜を貫いて生きる時、主はますます私たちを祝福してくださるでしょう。謙遜に生きていきましょう。 その謙遜の中で、主は我々一人一人と交わってくださり、導いてくださるでしょう。

信仰者の人生

創世記26章1-25節(旧40頁)  ローマの信徒への手紙8章28節(新285頁) 前置き 今日からは、また創世記とマルコによる福音書の言葉に戻り、神の御言葉について学んでいきたいと思います。前の25章の主な内容は、アブラハムが神に召されたこと、イサクの妻リベカが双子の息子たちを産んだこと、イサクの息子、エサウとヤコブの間に起こった長子の特権をめぐっての物語などでした。今日は26章に記されたイサクの歩みから、いくつかの教訓を得たいと思います。26章で見られるイサクの人生は、まるで過去のアブラハムの人生のように、失敗と間違いの歩みでした。しかし、神は変わらずイサクの人生を導いていかれました。今日はイサクの歩みの様々な側面から、信仰者の人生について探ってみたいと思います。 1. アブラハムと同様な間違いを犯すイサク – エジプト 私たちは今日の本文を通じて、過去、アブラハムが犯した間違いを、イサクも同じく犯していることを見つけることになります。1つ目は、イサクも生前のアブラハムのように、エジプトに行こうとしていたということです。「アブラハムの時代にあった飢饉とは別に、この地方にまた飢饉があったので、イサクはゲラルにいるペリシテ人の王アビメレクのところへ行った。そのとき、主がイサクに現れて言われた。エジプトへ下って行ってはならない。わたしが命じる土地に滞在しなさい。」(創世記26:1-2)「エジプトに行く」という言葉は、どういう意味でしょうか。1節では、イサクが飢饉のゆえにゲラルに行ったと記してあります。おそらくイサクが住んでいたベエル・ラハイ・ロイ(24:62)は岩石砂漠の地域だったため、飢饉がさらに酷かったはずです。だから、イサクはその地域で最も栄えた町であった、ゲラルに行ったわけでしょう。ゲラルは、ベエル・ラハイ・ロイに比べて食糧が得やすい場所であり、何よりもエジプトに行きやすい地域だったからです。おそらくイサクはゲラルを経由してエジプトに向かおうとしていたはずです。イサクの時代において飢饉とは、現代の飢饉とは比べ物にならないほどの深刻な災いでした。現代は、比較的に飢饉への備えがしっかりされており、また、ことがうまくいかなかったら、同盟国からの援助などで持ちこたえることが出来るでしょう。しかし、イサクの時代の飢饉は、一つの国や民族が滅びることもあり得る恐ろしい災厄でした。 そのようなイサクの時代に、飢饉から比較的に自由な地域があったのですが、それがまさにエジプトでした。エジプトをつらぬくナイル川は、乾いたエジプトの砂漠地域を流れていますが、その水源は、アフリカ中南部の熱帯雨林地域です。ナイル川の長さは6700キロメートルで、3300キロメートルの日本列島より2倍の長さを誇ります。そういうわけで、エジプト地域がどんなに乾いても、ナイル川の上流には継続的に雨が降るため、ナイル川が渇くことは、ほとんどなかったのです。ということは、エジプトには多くの食糧があったという意味でしょう。エジプトは物質的に豊かで、宗教的にも偶像崇拝が盛んな地域でした。アブラハムとイサクがエジプトに下って行こうとした理由も、この豊かさと関係があるでしょう。目に見えず予測できない神のお助けよりは、顕かに目に見えるエジプトの豊かさの方が、より明確な正解だと考えたからです。神はご自分の民であるアブラハムとイサクが艱難の時に、何よりも神の助けを求めて生きることを望んでおられました。人間の予測可能な環境で神無しに暮すのではなく、困難な状況に直面しても、神と共に乗り越えて生きることを望んでおられたのです。アブラハムとイサクが、エジプトへ行こうとした理由は、つまり「神がなくても生きられる。」という無神論的な思想に基づいた発想があったからでしょう。それが人間の本能だからです。 2. アブラハムと同様な間違いを犯すイサク – 妻を妹だと騙す。 二つ目のイサクの間違いは、アブラハムと同じように妻を妹だと言ったことでした。「そこで、イサクはゲラルに住んだ。その土地の人たちがイサクの妻のことを尋ねたとき、彼は、自分の妻だと言うのを恐れて、「わたしの妹です」と答えた。リベカが美しかったので、土地の者たちがリベカのゆえに自分を殺すのではないかと思ったからである。」(創世記26:6-7)創世記12章と20章でアブラハムは、すでに2度も妻を妹だと言うことで、当時の権力者たちを騙そうとしました。アブラハムは自分が殺されないために、神によって結ばれた妻との関係を大事にしなかったのです。ところで、これはサラにとって大きな裏切りでしたが、神に対しても大きな罪でした。神はアブラハムとサラの間に生まれる子だけを相続人にしようとなさいました。つまり、アブラハムに限らず、サラも神の約束の対象だったということです。なのに、アブラハムは身勝手にサラを他人に渡してしまいました。そして、残念ながら、息子イサクもそのような悪いことを犯してしまったのです。すでにエサウとヤコブといった息子たちがいたのに、イサクは結婚関係を騙そうとしていました。それは妻のリベカにも裏切りであり、リベカの息子ヤコブを相続人に立てようとなさった神のご計画を無視するイサクの深刻な罪でもありました。 結婚は神からの賜物です。人間にとっては、「自分が好きだったから、今の配偶者を選んだ。」と思うかもしれませんが、神にしてみれば「創世の前からお定めくださった大切な絆」なのです。なのに、この愚かなイサクは自分の命のために、その結婚の関係を破ろうとしていたのです。イサクの結婚は彼の意志によるものではなく、あくまでも神のご計画によるものです。それにもかかわらず、イサクはリベカとの大切な結婚関係を、あまりにも軽んじていたのです。イサクの父アブラハムは一生、間違いを繰り返して生きました。主がいらっしゃったからこそアブラハムは信仰者として生きることが出来たのです。ところで、息子のイサクも父と同じく間違いを繰り返していました。ここから私たちは人間が持っている罪の本性を見つけることが出来ます。人間は決して罪から自由になることが出来ない存在です。キリスト者もそれから自由ではありません。親が立派な信仰者だからといって、子どもも同じく立派な信仰者になるわけではありません。親も子どもも根本的には、罪を持って生まれる罪人なのです。クリスチャンホーム生まれだからといって、未信者の家庭で生まれた人にまさるとは言えません。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(ローマ書3:10-12)実にパウロの言葉通りです。それが人間の本性だからです。 3.信仰者の人生 「わたしはあなたの子孫を天の星のように増やし、これらの土地をすべてあなたの子孫に与える。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。」(創世記26:4)それでも、神はイサクを祝福してくださいました。いくら子どもたちが親に逆らい、好き勝手に振舞うといっても、子どもと縁を切る親はいません。もし、そういう人がいるとしたら、親としての資格がない者でしょう。神もご自分の民を絶対に諦められません。主の民が過去、いかなる罪や間違いを犯したとしても、偽りのない真実な悔い改めさえあれば、神は、それを聞き入れ、赦し、正しい道を示し、助けて、民が人生の道を走り抜けるように最後まで力を与えてくださいます。神は真の父だからです。したがって神の民は過度な罪悪感を抱いて生きてはなりません。適度な罪悪感は必要でしょうが、悔い改めと罪悪感は別のものです。悔い改めは自分の生き方を省み、神と隣人に赦しを求め、過去の間違いから向き直って再び正しい道に進むことです。しかし、過度な罪悪感は神のお赦しを信じずに、自分の判断で自らを裁くことです。判断と裁きは、ひとえに神の事柄なのに、罪悪感は神の事柄を奪おうとする行為なのです。罪悪感も一種の偶像崇拝なのです。「自分自身という神を作り、神より上に置く。」それが過度な罪悪感の根源です。 26章の記録上に、罪悪感で止まっているイサクの姿は見当たりません。ただ神の導きに従って黙々と生きていくだけです。 イサクの人生に失敗と間違いがありましたが、それでも彼は信仰者として生きつづけました。12節から25節の内容で、イサクはゲラルの人々と井戸をめぐって対立しました。ゲラルの人たちは、イサクの井戸を土で埋めました。 砂漠のようなパレスチナの南部地域で、しかも飢饉によって苦しんでいた時に、他人の井戸を埋めるということは、その人の命綱を断ち切ろうという意味です。しかし、イサクは彼らと闘いませんでした。彼はその井戸から離れ、黙々とまた別の井戸を掘りました。「イサクはそこから移って、更にもう一つの井戸を掘り当てた。それについては、もはや争いは起こらなかった。イサクは、その井戸をレホボト(広い場所)と名付け、今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった」と言った。イサクは更に、そこからベエル・シェバに上った。」(創世記26:22-23)エジプトに行こうとした間違い、妻を妹だと騙した間違いがあったにもかかわらず、神はイサクを赦し、祝福してくださいました。そして、神のお導きのもとでイサクは諦めずに信仰者として生き続けました。敵の妨げに退かず、黙々と自分の人生を進めたのです。彼はそうした人生を経て、最終的に父アブラハムが神への祭壇を立てた地、ベエル・シェバに帰郷することになりました。 締め括り 「その夜、主が現れて言われた。わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす。わが僕アブラハムのゆえに。」」(創世記26:24) イサクは、なぜベエル・ラハイ・ロイに住んでいたのでしょうか? そこはイサクの土地ではありませんでした。イサクは、なぜゲラルに行ったのでしょうか。そこは他民族の地でした。もともとイサクのいるべき場所は、アブラハムの地、ベエル・シェバでした。もしかしたら、イサクは信仰と人生を彷徨っていたのではないでしょうか。イサクの人生に紆余曲折と罪と間違いがあったにもかかわらず、神は彼を本来の居場所に導き、そこで祝福してくださいました。信仰者の人生にも紆余曲折があり得るでしょう。間違ったり、失敗したり、つまづいたりします。しかし、そういう人生の辛さの中でも共におられる神様は、絶対に変わらない方です。ご自分の民が自分の居場所に着くまで、神は変わらず民と共に歩んでくださいます。なぜ創世記に3度も、アブラハムとイサクの同じ間違いが記してあるのでしょうか? それは人間の罪と限界を見せると同時に、そんな人間と変わらず同行してくださる神の恵みを示すためではないでしょうか?「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ書8:28)信仰者の人生のあらゆる出来事は、神の導きによって、万事が益となるように共に働くでしょう。一度選ばれた民を絶対に諦められない神の愛のおかげです。イサクは今後も、また罪や間違いを犯すでしょう。しかし、それでもイサクは、神の民として生きるでしょう。ですので、聖書は語ります。「アブラハムとイサクとヤコブの神」と。私たちも、この変わらない神が、共におられることを信じ、信仰者として生きて行きましょう。神が喜んで一緒に歩んでくださるでしょう。

主の御言葉はわたしの道の光。

詩編 119編105-112節 (旧964頁) テモテへの手紙二3章10-17節(新394頁) 前置き 2022年の主題聖句は「主の御言葉は私の道の光、私の歩みの灯」(詩編119:105)です。神が旧約のイスラエルの民を、エジプト帝国から導き出してくださった後、優先的になさったことは、主の御言葉である律法をくださることでした。また神が新約の民のための御救いの業を行われた時、一番先にしてくださったことは、神の御言葉そのものであるイエス・キリストを、この世にお遣わしくださることでした。(ヨハネ福音 1章) 現代を生きる私たちも、一週間を始める時に教会に出席し、礼拝を通して、主の御言葉を朗読し、説教を聞きます。神の御言葉は古今を問わず、キリスト者の生活を導く最も重要な価値であります。この一年も、この神の御言葉と共に生きていく私たちになることを祈り願います。 神の御言葉を大事にし、常に口ずさみ、黙想し、実践して生きる志免教会になりますように願います。 1.神の御言葉の特徴。 神は仰せになる方です。神は御言葉を通して世界を創り、御言葉を通してご自分の民を導き、神の御言葉であるキリストを通してご自分の民を救い、御言葉であるキリストを通して、この世に終わりの日をもたらされる方です。神の御言葉とは何でしょうか?神の言葉とは、私たちの耳に聞こえる単なる言語だけを意味するものではありません。神の御言葉とは、神の御心と御旨とご意志を含みます。神の御言葉とは、この世の始まりと終わりとその間のすべてを司る秩序であり、永遠に変わらない神のご計画でもあります。聖書に記された御言葉は、神のすべての御言葉の中で、人間の救いを中心とする、人間が理解できるように記された、ごく一部の記録に過ぎません。この地上の誰が神の御心(御言葉)をことごとく理解し、計り知れるでしょうか?もし聖書の言葉が神のすべての言葉だとしても、罪と限界を持っている人間には、神の御言葉を完全に理解する能力がありません。しかし、神はキリストによる聖霊のお導きを通して、ご自分の民に神の御言葉が聞ける耳を与えてくださいます。私たちは主の御言葉を100%理解することが出来ません。しかし、聖霊なる神のお助けによって部分的にでも、御言葉を理解するようになります。しかし、私たちがキリストを通して、神の御前に立つ終わりの日になれば、主の御言葉を完全に理解し、真の喜びを享受するようになるでしょう。私たちが神の御言葉を完全に理解できないと言っても、 神は御言葉を通して働き、絶えず言葉を通して、私たちと共に歩んでくださるでしょう。 神の御言葉は、どのような特徴を持っているでしょうか。詩篇119篇を通して、いくつかの神の御言葉の特徴をかいまみることが出来ると思います。詩編119編では、神の御言葉について、次の8つの主な表現を繰り返して語っています。それらは「言葉、裁き、定め、掟、律法、戒め、命令、道」です。「言葉」とは人が聖書を通じて学び、理解できる神の御言葉を意味します。私たちは聖書に記された主の御言葉を通して、はじめて神が人に何を仰せになったのかが分かるようになります。次は「裁き、定め」です。私たちは、これらの二つを通じて正しい裁きを行い、全てをお定めになる神を知ることが出来ます。また、「掟」という表現を通じて神の言葉の不変さと完全さを知ることが出来ます。ちなみに「掟」を意味するヘブライ語は「石に刻む」という意味を持っています。我々は、「律法」という表現を通じて、ご自分の民の正しい生き方を教えてくださる主の御心を知ることができます。我々は「戒め、命令、道」という表現を通じて、神が民に人生の基準を与え、命令して、どのように生きるべきかを教えてくださることが分かります。以上の8つの表現はヘブライ語と日本語の違いのため、互いに100%当てはまるとは言えないかも知れませんが、少なくとも、神の御言葉が持つ多様性については知ることが出来ると思います。神はご自分の御言葉を通して、主の民の人生を導いてくださいます。我々は、聖書を読むこと、説教を聞くこと、また、我々が聖書と説教を通して学んだ言葉を、聖霊なる神が悟らせてくださることによって、神の御心を悟り、その方の御言葉に従順に聞き従って生きるようになります。つまり、神の御言葉が私たちの人生の道しるべになってくれるという意味でしょう。 2.民を正しい道に導く神の御言葉。 このように神の御言葉は、様々な形で我々の人生と共にあり、我々に知恵と知識と正しい生き方を教えてくれます。神の言葉はどのように私たちの生に影響を及ぼすでしょうか。代表的な律法である十戒を例にあげて考えてみましょう。十戒の第一戒である「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」という言葉が我々の心に刻まれると、キリスト教が極端に少ない日本の社会でも「私を助け、導いてくださる方は、他のいかなる神でもなく、ただ唯一の主なる神だけである。」という信仰が出来、偶像崇拝を遠ざけるようになります。第五戒の「あなたの父と母を敬え。」という言葉が我々の心に刻まれると、神をはじめ、両親だけでなく、権威者、兄弟姉妹などを尊重すべきという認識が出来、謙遜に生きるようになります。第十戒の「隣人の家を欲してはならない。」という言葉が我々の心に刻まれると、他人のものを欲しがらず、かえってもっと守ってあげようとする生き方を追求し、正しい人生を送るようになります。私たちの思想と人生に神の御言葉が刻まれると、私たちは、もはや自分の欲望の奴隷ではなく、神のしもべとしての聖なる生き方を追い求めるようになるのです。三つの戒めを簡略に取り上げたのですが、このように主のみ言葉は明らかに我々の人生の道しるべになってくれるでしょう。我々の知らないうちに、神の御言葉が身につき、我々を正しい道に導くのです。文字通りに、主の御言葉が我が道の光、我が歩みの灯となるということです。 歴史上、神の御言葉が教会と信徒とを正しく導いた実話を話してみましょう。第二次世界大戦の時、ナチス・ドイツによって虐殺されそうになったユダヤ人たちを積極的に救い生かしたキリスト者たちの物語です。フランス南部にはリヨンという都市があります。そして、そこから南西に100kmほど進むと、ル・シャンボンという小さな村があります。宗教改革期のフランスはカトリック教会の教勢が強かったのですが、ル・シャンボンは、そうしたカトリック教会の迫害から逃れたフランスの改革派教会、いわゆるユグノーたちが集まって建てられた村でした。 時が経ち、第二次世界大戦当時、フランス領土の半分以上がナチス・ドイツに占領され、フランスにはナチス・ドイツを支持する傀儡政権が打ち立てられました。そのため、ドイツで人種弾圧を受けていたユダヤ人は、フランスでも命の脅威にさらされることになりました。その時、あるユダヤ人の女性が改革派教会の都市ル・シャンボンを訪れ、助けを求めました。当時、ル・シャンボン教会の主任牧師だったアンドレ・トロクメとその夫人は、喜んでその女性を家に招き休ませて、避難が出来るように手助けしてあげました。その後、女性の噂を聞いた数多くのユダヤ人たちがル・シャンボンの村に助けを求めて訪れました。昔からカトリック教会が強かったフランスにおいて、少数者として生きてきたル・シャンボンの教会は、自分たちも少数者でしたが、自分たちよりも、さらに少数者であったユダヤ人たちから目をそらさず、喜んで助けてあげたのです。自分たちにも命の脅威が迫ってきたにもかかわらず、死をも辞さずユダヤ人を助けたのでした。 ル・シャンボン教会の主任牧師アンドレ・トロクメの従弟ダニエルの場合、ナチスの収容所に連行されるユダヤ人たちと最後まで一緒に行動したあげく、ユダヤ人でもないのに、結局、収容所で殺されてしまったほどでした。当時、ル・シャンボンの人口は3000人余りでしたが、この時、ル·シャンボンのキリスト者たちが救出したユダヤ人の数は5000人を超えたと言われます(子どもだけ3000人余り)。ル·シャンボンのキリスト者たちは、世の権力を恐れていませんでした。彼らは自分たちの業について「正しいことをしただけ」だと思っていました。その正しいこととは、人の良心や人道主義的な発想によるものではなく、神の御言葉に聞き従うことでした。神の御言葉を黙想し、牧師の説教を通して御言葉について学び、その学んだ言葉を実践して生きることが、彼らにとって正しいことだったのでした。 過去、宗教改革期にも数多くのカトリック迫害者たちを避け、数多くのプロテスタントの信者たちがル·シャンボンに逃げました。そしてル·シャンボンの教会は彼らを受け入れました。そうした歴史的なアイデンティティーに基づいて、ル·シャンボンの教会はユダヤ人たちをも受け入れ、彼らが生き残れるように手助けしたのでした。神の御言葉が彼らの身につき、代々正しいことを追い求めるように導いたのです。戦争が終わり、ホロコースト祈念館に寄付されたアンドレ·トロクメ牧師の聖書には、このような自筆サインが書いてあります。「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」 締め括り 私たちは、年に52回の説教を聞いています。水曜祈祷会の奨励まで加えれば、100回を超えます。家庭礼拝暦による毎日の黙想や、キリスト教系のラジオを聴いている方もおられます。私たちは「神の御言葉の中に生きている」と言っても過言ではないでしょう。このような私たちに与えられる神の御言葉が、私たちの身に付き、主の御言葉に従順に聞き従い、実践して生きる志免教会として、この一年を過ごしていきたいと思います。「だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、 また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」(テモテⅡ3:14-17)神の御言葉を聞くだけでなく、我々の生活の中で実践しながら生きていく1年になることを願います。私たちは弱い者で、当たり前に神のすべての御言葉を守り抜けない存在です。しかし、せめて一つの言葉でも守るために努力する一年を過ごしたいです。主の御言葉が、私たちの努力を導く光となり、私たちに応えてくれるでしょう。 2022年度も神の御言葉にあって勝利する志免教会になりましょう。

終わる時に覚えるべきこと。

マラキ書 3章19-24節 (旧1501頁)        ヨハネの黙示録22章16-21節(新480頁) 前置き 2021年ももうじき終わりです。昨年から始まったコロナ禍の影響で今年も本当に恐ろしい一年だったと思います。しかし神は、その恐ろしさの中でも、私たちを見捨てず、守ってくださり、また、共に歩んでくださいました。コロナ禍の中でも神は志免教会を力強く導いてくださり、特に、新しい兄弟姉妹たちを送ってくださいました。本当に感謝せざるを得ない一年でした。しかし、志免教会が成長した喜びだけにとどまってはならないでしょう。来年は日本にある全てのキリストの教会が神の恵みにあって成長していきますように祈りましょう。願わくは、2022年の一年は、志免教会をはじめ、日本にある全ての主イエスの教会がますます祝福されますように、なによりも主の民が、主の恵みと御言葉のもとで忠実なしもべとして生きていけますように祈りましょう。今日は新旧約聖書の最後の箇所を通して、今年を締めくくる時間を持ちたいと思います。今年、最後の主日を送りながら、私たちが覚えるべきことについて、話してみましょう。 1.マラキの言葉 – 忠実な主の民として生きなさい。 旧約の時代、神の御言葉に聞き従わず、偶像を崇め、神に逆らって生きていたイスラエル民族は、イスラエルの神によって滅ぼされてしまいました。当時の強大国であったアッシリアとバビロンをムチのように用いられた神の御裁きによってイスラエルは滅びてしまったのです。イスラエルの指導者たちは捕囚となり、イスラエルはもはや国と呼べない様になってしまいました。それでも、神はイスラエルを完全には見捨てず、彼らを見守ってくださいました。以後、神はエゼキエルのような予言者たちを通して、絶えず希望の御言葉を与え、神の計画どおりに70年後にイスラエルを帰還させてくださいました。神がご自分の民に下される裁きは、絶滅のための懲らしめとしての裁きではありません。むしろ、回復と更生のための戒めとしての裁きなのです。まるで父が過ちを犯した息子を戒めるように、主は罪によって汚れたご自分の民を叱られるのです。神は決してご自分の民の滅びを望んでおられません。父のように民の悔い改めと回復を促すために、愛のムチを振るわれるのです。そのため、たまに、神はご自分の民に苦難を与えられる時もあります。実際、苦難はとても辛く苦しいものです。しかし、神から与えられる苦難の中には「必ず回復させよう」とする神のご意志が隠れています。信仰を持っている私たちはそれを見過ごしてはなりません。 神の恵みによって故郷に帰ることになったイスラエルは、最初は誠実に神に仕えるように見えました。神が再びイスラエルを立派に立ててくださると期待していたからです。しかし彼らは、いくらもせずに神に背を向けてしまいました。神が望んでおられるイスラエルの回復が、彼らが考えていた世俗的な回復ではなかったからです。神が望んでおられた回復は間違った信仰を正す霊的な回復でした。イスラエルはあまりにも世俗的な存在だったわけです。残念なことに、70年間の捕囚生活の中でも、彼らの本質は結局変わりませんでした。彼らは依然として神の御心より自分たちの欲望を大事にし、自分たちの欲望のために神を利用しようとしていたのです。マラキはそうした変わらないイスラエルに、主の警告を伝えて、悔い改めを呼びかけています。「見よ、その日が来る。炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者はすべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように躍り出て跳び回る。」(マラキ3:19-20)国と民族が滅ぼされたにもかかわらず、相変わらず愚かに振舞ったイスラエル。神への信仰より、ただ再び立派な国になりたいとの世俗的な思いで満ちていたイスラエルは、実質的な変化が起こらないのを見ると、あまりにも簡単に神に背いてしまったのです。 そのようなマラキの時代のイスラエルを見つめながら、我々自身を顧みることになります。私たちにとって神はどんな存在でしょうか。私たちはなぜ、わざわざキリスト教の神を信じているのでしょうか?ただ自分の願いを叶え、自分の生活を助けてくれる誰かが必要だから、神への信仰を持って生きるのでしょうか? それとも、たとえ自分の願いを聞いてくださらないといっても、神が我々のたったお独りの唯一の神だから、その方だけを愛するから、信仰を持って生きているのでしょうか? 神はご自分を無視する高慢な者には裁きを、ご自分を畏れ敬う謙遜な者には恵みを与えてくださると、今日の本文は警告しています。今日の旧約の言葉を通して、私たちにとって神はどんな存在なのかを考えてみましょう。「私のための神」ではなく、「神のための私」という純粋な信仰を持って生きて行きましょう。「わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため、ホレブで掟と定めを命じておいた。」(マラキ3:22)マラキは神の御言葉を記憶し、その方の御心に従って生きることを訴えています。 2022年は「私のために」ではなく「神のために」生きる成熟した信仰の一年になりますように望みます。 2.黙示録の言葉 – 主を信頼し、その方の御心の中に生きなさい。 次は黙示録について考えてみましょう。世間の多くの人々が、ヨハネの黙示録を、いわゆる世紀末のファンタジーみたいに理解したりします。この世に恐ろしい終末が臨み、おびただしい苦難と災いが、地上に襲ってくるということでしょう。アメリカでは、このような黙示録の物語を素材としたファンタジードラマや映画が流行した時もありました。しかし、黙示録は無慈悲な神の恐ろしい裁きと終末の悲惨さを描いた書ではありません。世の中にいかなる苦難と災いがやって来ても、神が必ずご自分の民と一緒にいてくださることを証しする慰めと愛の書なのです。使徒ヨハネが、この黙示録の言葉を書き残した理由は、この言葉がキリスト教へのローマ帝国の迫害が極みに達した時、苦しんでいるご自分の民のために、神がくださった慰めと愛の言葉だったからです。ですので我々は、黙示録を読むとき、神の裁きではなく、神の恵みを見つけなければなりません。私の大好きな黙示録の言葉を一ヶ所読ませていただきます。 「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3-4)神の御心とは何でしょうか。私は、主の民が神を知り、その御言葉のもとで、その方と一緒に生きることこそが神が望んでおられる御心だと思います。そのような人生に、神によるまことの慰めと恵みと愛があるからです。神が民に与えようとしていた幸せとは、そのようなものではないでしょうか? 死とともに消え去ってしまう財物、名誉、権力といった世俗の価値ではなく、この世での生命が終わるといっても永遠に続く私たちに与えられる神の同道と愛。主の民がそれを得ることこそが、神のまことの御心ではないでしょうか。「わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。“霊”と花嫁とが言う。来てください。これを聞く者も言うがよい、来てくださいと。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」(黙示録22:16-17) そのような主の御心の成就のために、主は絶えず、ご自分の民を主のもとに呼び出してくださり、御言葉と御恵みとを与えてくださるのです。我々に伝道を命じられた理由も、そのような意味があるからでしょう。今日の礼拝が2021年の最後の礼拝であるように、いつかこの世にも終わりが来るでしょう。また、私たちの人生にも終わりがあるはずでしょう。しかし、神はその終りとは関係なく、主の民と共におられ、彼らに永遠の慰めと安らぎと愛を与えてくださるでしょう。 今日の新約本文である黙示録の最後の箇所は、主の御言葉を大事にし、主を拠り所とし、主を待ち望んで生きることを促しています。 神の御言葉をありのままに純粋に守り、神の御旨に適う人生を生き、いつか再びおいでになる主のご到来を待ち望み、神の喜ばしい民として生きることを呼び掛けているのです。 締め括り 2021年の我々の人生を守ってくださった主に感謝しましょう。また、主への信頼を持って、2022年も生きていきましょう。2022年にも私たちの人生には喜怒哀楽が存在するでしょう。すべてがうまくいく人もいれば、何事においても、うまくいかない人もいるでしょう。しかし、うまくいくにせよ、うまくいかないにせよ、神はすべての主の民と共におられ、ご自分の民の歩みを見守ってくださるでしょう。また、主が我々の進むべき道を教えてくださり、慰めと恵みをもって導いてくださるでしょう。そのような主なる神への変わらない信頼を持って、その方の御心のもとで生きていく私たちになることを願います。皆さん、今年もお疲れ様でした。一年の締め括りと来年の準備に主の恵みがありますように祈り願います。 神の御導きが2022度も志免教会のお一人おひとりと共にありますように。

平和をもたらす神の子

イザヤ書11章1-10節(旧1078頁)           ルカによる福音書2章8-14節(新103頁) 前置き 平和という単語ほど、切なる言葉があるでしょうか。私たちはみんな平和を望みます。家庭の平和、職場の平和、政治経済の平和、心の平和、社会の平和。人間は自分でも知らないうちに、平和を口にし、また心にいだいて生きています。しかし、平和は、そう簡単に手にはいるものではありません。また手に入れたとしても、いつ消えるか分からない不安定なものです。正直、人生にあっては平和より不安や恐れの方が多いかもしれません。「会社が潰れたら、家族が患ったら、戦争が起きてしまったら」など、今の平和が永遠に続くと、私たちは断言できません。そういうわけで、人はいつも平和への渇きを感じて生きています。始まりがあれば終わりもあるように、私たちが営むすべての生には終わりというものがあります。永遠の喜びも、永遠の満足も、永遠の安らぎもありません。このように終わりがある世の中で、果たして永遠な平和は成し遂げられるのでしょうか。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ2:14)しかし、聖書は神の栄光と人間の平和を永遠に保たせる、まことの王が来ると語っています。そして、我々はその王が我々の主イエスであると信じています。今日は、まことの平和の王、イエスについて話してみましょう。 1.聖書が語る平和。 シャロームという言葉をお聞きになったことがあると思います。4年前に一人旅でイスラエルに行ったことがあります。イスラエルの最南端のエイラトから最北端のヘルモン山までレンタカーで旅行をしました。全国の広さが九州くらいですので、一週間で、たくさんのところを訪れることが出来ました。ところで、行く先々で、多くの人々が私に手をあげて「シャローム」と挨拶してくれました。イスラエルにはイスラム地域(エリコ、ベツレヘム、シェケム、ヘブロン、死海北部)もあり、そこでは「アッサラーム・アライクム」と挨拶していました。面白いのは、イスラエル内のイスラム地域は言語の違いがあるにもかかわらず、サラームというシャロームに似た表現を使っていたということです。後で調べてみたら、シャロームもサラームも、同じ語源を持ち、いずれも「平和を祈る」という意味を持っていました。つまり「シャローム」は平和を意味する表現です。この「シャローム」はヘブライ語の「シャラム」という動詞から派生した言葉ですが、もともと「シャラム」は平和を意味する表現ではありません。その意味は「安全である。 完全になる。完成する。支払う。償う。いっぱいになる。補う」などで、つまり「欠落なく、完全な状態。」という意味なのです。従って、聖書が語る平和とは、単にお金への心配、子供への心配、国への心配が無く、気楽でのんびりしている状態という意味ではありません。人間に欠けていた何かが、完全に満たされている様だと言えるでしょう。この世が語る平和と聖書が語る平和には、このような違いがあるのです。 信仰生活を長く営んでこられた方は、おそらく、このように考えられた経験があるかも知れません。「キリスト教が極めて少ない、この日本で、思い切って信仰者になったのに、なぜ神は私の苦しみを取り除いてくださらないのだろうか?」あるいは「なぜ、イエスを信じているのに、私の人生には悩みと悲しみが依然としてあるのだろうか?」いつもそうではないとおっしゃるでしょうが、一度くらいは、そのような思いを抱き、神を疑ったことがありませんか? 本当に申し訳ありませんが、私は牧師であるのに、何度もそういった疑いの経験があります。結局、牧師も罪人だからでしょう。しかし、その都度、主は聖書の言葉、あるいは心の内面への働きかけによって教えてくださいました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。 わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」イエスは私たちに「まことの平和とは神を知らず、信じず、従わずに生きる者が、神のもとに立ち戻り、神によって生きること」だと教えてくださいます。いつか私たちが神に召され、この世から立ち去る時まで、そして、その後までも、神は私たちと共に歩んでくださるでしょう。苦しい時は一緒に苦しみ、悲しい時は一緒に悲しみ、嬉しい時は一緒に喜んでくださるでしょう。神は私たちの父になってくださり、私たちの友になってくださり、私たちの救いと助けになってくださるでしょう。聖書が語るまことの平和とは、こういうものなのです。神がキリストを通して永遠に私たちと共に歩んでくださることです。 2.平和をもたらしてくださるイエス。 今日の新約本文をもう一度、読んでみしょう。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」 (ルカ2:14) イエスがベツレヘムの馬小屋、しかも飼い葉桶にてお生まれになった時、天の天使の大軍が貧しくてみすぼらしい羊飼いたちの前に現われ、イエスの出生が神には栄光であり、人間には平和であると神をほめたたえました。私たちが信じる神は、すでに完全な方ですので、一欠けらの欠乏も無い方でいらっしゃいます。従って、神は、すでに平和を成し遂げられた存在、いや平和の源そのものでいらっしゃいます。しかし、自分の罪のために死ぬしかない人間は、完全さや平和とは程遠い存在です。人間は数え切れない欠乏の中にあり、神のような完全さから外れている存在です。人間は有限なもので、いつか必ず死ぬ、一分後の未来も分からない存在です。そんな欠乏があるからこそ、果てしなく欲望を持ち、互いに対立し合い、戦争して結局は殺し合うのでしょう。だから人間には、その欠乏を満たす、まことの平和が必ず与えられるべきです。聖書はイエス•キリストが、その欠乏を満たしてくれる、まことの平和の持ち主として来られたことを、力強く教えています。イエスはまことの平和の源でいらっしゃる、神の御心の成就をこの地にもたらされることで、神に栄光を帰されました。 また、イエスは人間の欠乏を癒してくださる平和の成就者として、人間に平和を与えてくださったのです。 この地上で生きていく間、私たちは常に欠乏感を覚えて生きていくでしょう。すでにイエスに出会い、イエスの民となったとしても、罪がある限り、私たちは欠乏から、完全には自由になれないでしょう。しかし、少なくとも我々は我々の欠乏を知り、満たしてくださるイエス・キリストを信じています。私たちの力では到底解決できないものですが、主イエスはいつも私たちと一緒におられ、私たちの問題を助けてくださるでしょう。旧約時代には、こういった平和の存在がまったくありませんでした。ただ、メシアという名の誰かがいつか来るだろうと漠然と信じていただけです。しかし、新約の時代を生きる私たちはすでに平和の存在であるイエスにあって生きています。ですから、今、完全ではなくても、がっかりする必要はありません。イエスが私たちの満足になってくださり、完全な存在として私たちのために執り成してくださるからです。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように大地は主を知る知識で満たされる。」(イザヤ11:6-9) 締め括り 私たちは終わりの日、キリスト・イエスを通して主なる神の前に堂々と立つでしょう。そしてイエス・キリストの父なる神を、誇らしく私たちの父だと声を限りに張り上げるでしょう。その日が来れば、主のもとでは狼のような人も、小羊のような人も、子供のような人も和やかに生きるでしょう。まことの完全さと平和が我々の中に成し遂げられるでしょう。主イエスのご降臨は、まさにそのような終わりの日のための神の深い恵みなのです。最後に私の短い証しを分かち合って説教を終わりたいと思います。もうすでにご存知の方もおられるしょうが、今の私の父は義父です。実父は私が生まれる数ヶ月前に不慮の事故で亡くなりました。成長過程を通して父の不在は、私にとって大きな傷と欠乏を残しました。12年前、私が本当に神に出会った30歳まで、私の性格は今とは全く反対で、いつも不安定でした。私の心の中に大きな欠乏感の穴が空いていたからです。それは私の実存を脅かす虚しさそのものでした。しかし、神に出会った日、私はついに悟りました。神はその欠乏をすでに知り、見守り、私と出会う時を切に待っておられました。そして私が神に出会った当日、キリストを通して私の心の傷と欠乏を完全に癒してくださいました。そして心の中に神の声が聞えるかのように感じられました。「私がイエスを通して君の平和になる。」「私がイエスを通して君のまことの父となる。」イエス•キリストは罪人のあらゆる欠乏を満たし、真の平和を与えるためにおいでになりました。我々が毎年記念するクリスマスは、まさにその完全な平和の道をもたらしてくださったキリストのご降臨を記念する日なのです。平和の主が主を記念する皆さんを、限りなく祝福してくださるように。クリスマスまでの残りの期間を喜びと平和で過ごせますように祈り願います。

待降節の意味‐新しい天と新しい地。

イザヤ書65章17-25節(旧1168頁) ペトロの手紙二3章8-13節(新439頁) 前置き アドベント即ち待降節の時になると、多くの教会がクリスマス・ツリー、4本のロウソク、屋外での電飾、赤ん坊イエスと馬小屋の飾りなどをつけて、外面的にイエスのご誕生を祝います。また、クリスマスまでの約1ヶ月の間、高い天の玉座から低い地上の飼い葉桶までおいでになった赤ん坊イエスを待ち望みつつ、聖書の黙想と祈り、教派によっては断食などを通して、内面的にもイエスのご誕生を記念します。それゆえに、多くの人がこの待降節の時をイエスのご誕生だけのための準備期間として理解しがちだと思います。しかし、待降節が持つ真の意味は、単に受肉してお生まれになった初臨(初めて臨む)のイエスだけでなく、いつか再び臨まれる再臨のイエスをも、共に記念するところにあります。したがって、待降節は過去のイエスのご誕生とともに、未来に再臨されるイエスを記念する期間でもあります。過去のイエスは、なぜこの地上にお生まれになり、未来のイエスは、なぜこの地上にまたおいでになるのでしょうか? 今日は待降節の意味を通して、おいでになったイエスと、おいでになるイエスについて話してみたいと思います。 1.待降節の起源と意味 現代はいわゆるグレゴリオ暦と言われる太陽暦を使用して1年を数えています。しかし、古代と中世の教会はキリストの生涯、特にクリスマスとイースターを中心として作成した教会暦を使用して1年を数えたりしたと言われます。この教会暦によると、待降節が始まる主日は、1年が始まる日だったそうです。 教会暦は主イエスのご誕生を期して1年間を数え始めたということです。日本の教会では待降節をよくアドベントとも呼んでいます。待降節、つまり「主のご到来を待つ期間」という良い漢字語の表現があるのに、なぜ人々はあえて「アドベント」という外来語を使用しているのでしょうか? 待降節を意味する「アドベント」とは「到来」を意味するラテン語Adventus(アドベントス)に由来するものです。主イエスのご到来を記念しようという意味で、外来語をそのまま借用したので、今でもアドベントという表現を使っているのです。そういうわけで、アドベントの意味が分からずに、漠然と皆が使っているから使用する場合も多いと思います。しかし、大丈夫です。アドベントは外来語ですが、その意味だけは待降節とまったく変わりありません。大事なことは、救いと平和の主イエス・キリストが、この地上にご到来なさったこと、それを覚えることにあるのではないでしょうか? もともと待降節は、キリストの神性が、公に現れたことを記念する公現祭を準備する期間だったと言われます。公現祭とは、貧しい大工の子として、お生まれになった赤ん坊イエスのところに、東の方の占星術の学者たちが訪れ、実はイエスの出生が、いと高き神の子の顕現(表れ出る)であることを、この世に公に示したことを記念する日として知られています。つまり、待降節は、この公現祭を記念するための期間だったということです。そんな待降節が時の流れによってクリスマスを記念する日と変わったのです。教会は、最初はキリストのご誕生だけを記念して待降節を過ごしていましたが、西暦6-7世紀頃に再臨なさるイエスへの待ち望みの意味も付け加えて、今の待降節はイエスの初臨と再臨を共に記念する意味を持つようになったと言われます。とにかく、待降節はイエスのご到来を記念する重要な期間です。日本ではクリスマスがハロウィンのように外国からのフェスティバルとして、軽く取り扱われているようです。しかし、主の教会に属する私たちは、待降節の期間を通して、御救いのために初めて臨まれた主、また御裁きのために再び臨まれる主を覚えつつ慎んで過ごすべきでしょう。かつて、この地上に来られ、罪によって苦しんでいる人間を愛し、赦してくださった主の御救いと平和を覚え、また、やがて、再び来られる主の公平な御裁きを待ち望みつつ、この期間を過ごしてまいりましょう。 2.キリストの初臨 – 約束のメシアがおいでになる。 キリストのご誕生が大事な理由は、そこに旧約のイスラエルのメシア信仰の成就という大きな意味があるからです。旧約のイスラエルには、神のメシアが、いつか到来し、この世を立て直して、救ってくれるという信仰がありました。つまりメシア信仰には、神から特別な使命を与えられた神聖な存在が、この地にやって来て神の御心を成し遂げるという希望が含まれていたということです。旧約のイスラエル人たちは、メシアが来て、人間では成就できない真の癒しと慰めを与えくれると信じていました。つまり、貧しい者、病んでいる者、縛られている者、閉じ込められている者、絶望に陥った者に、力を与え、導き、立ててくれる存在が、まさにこのメシアだと信じていたのでした。「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。」(イサヤ61:1)このようにメシア信仰は、神がこの世での民を見捨てられず、いつか必ず救ってくださるという、神への信頼と、この世の悪への抵抗という意味を持っていました。 教会がイエスのご誕生を何よりも大切に扱っている理由は、この旧約のメシア信仰がイエス・キリストによって成就されたと信じているからです。 イエスは永遠な神ご自身が、人間になって来られた存在です。元々神は人間と全く別の存在で、神学的には絶対他者と呼ばれる方です。創り主の神が、被造物である人間になることは有り得ないことであり、神と人間の間には絶対に共有できない、神性と人性という雲泥の差があります。しかし、神は人間を赦し、救われるために神性とともに、人性を持って自ら人間になってくださいました。これはご自分の創造の秩序を自ら覆(くつがえ)された神の特別な恵みです。このような例えはどうでしょうか?(神の受肉とは比較できませんが、あえて例えれば) 人間が虫になることは有り得ないことです。もし誰かが虫を助けるために、自ら虫のような存在になれば、それは映画に出てきそうなことでしょう。ところで、神は罪によって堕落した虫のような人間のために、自ら人間になって来られたのです。まるで映画のような出来事がイエス·キリストのご誕生によって、この地に起こったわけです。自ら人間になって来られた神であるイエスは、ご自分の命を捨てて、人間に代わって死に、復活して罪を赦してくださいました。そして、この世を裁かれる終わりの日まで、主イエスはご自分を信じる人間のために執り成してくださるでしょう。 真のメシア主イエス·キリストは人間を愛し、被造の世界を神に導いてくださる、たったお独りの方です。 キリストのご誕生は、そのメシアであるイエスの最初の歩みなのです。 3.キリストの再臨 – 最も完全かつ新しい創造 それでは、待降節はなぜ、このようなイエスのご誕生だけでなく、イエスの再臨をも記念するのでしょうか? 今日の旧約の本文を読んでみましょう。「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして、その民を喜び楽しむものとして、創造する。わたしはエルサレムを喜びとし、わたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。」(イサヤ65:17-19)私たちは、神が永遠な方であることを聖書を通して学んで、すでに知っています。ここで永遠とは何でしょうか? 哲学では「永遠」と「不滅」という概念があります。我々は知らず知らず、永遠の意味をこの不滅の意味と混同したりします。 永遠とは「限りなく長く存在する。」という「不滅」とは異なる概念です。永遠とは、「最初から最後まですべての物事を司る。」という意味を持っています。 私たちは創世記を通して、神がこの世をお造りになったことを学びました。ところで、聖書は、その神が終わりの日に、この世を再び新たに創造されることを示唆しています。つまり、昔の創造と新しい創造の間のすべてを、神は司っておられるのです。その中には空間、時間の全ても含まれているのです。それがまさに聖書が語る永遠の本当の意味なのです。 イエスの再臨とは、この新しい創造が完成する日のことです。神の初ての創造は、人間の罪によって汚されてしまいました。神は人間を被造物の頭としてくださいました。ところが、その頭である人間という存在が堕落し、神の被造の世界も堕落してしまったのです。イエス·キリストは初臨して、ご自分の犠牲を通して人間と被造の世界を救う手立てを備えてくださいました。そして、その象徴として主の教会を建ててくださったのです。教会の頭なるイエスは再臨、すなわち再び来られて、必ず救いを叶えてくださるでしょう。その時、主に逆らう邪悪な者は裁かれ、主に従う正しい者は救われるでしょう。「神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。」(ペトロ二3:12-13)すなわち、御裁きと御救いは、キリストによる新しい創造の一面に過ぎないものです。再び来られる主は、神がご計画なさった最も完全な創造を成し遂げられるでしょう。そして、その新しく創造された世で、主の民である私たちは、至高の喜びと愛とを持って主と永遠の中に、一緒に生きるでしょう。私たちが待降節を通して、主の再臨を待ち望む理由は、主の再臨に新しい創造という意味が隠れているからです。 締め括り 待降節を通して、初臨と再臨のイエス·キリストを覚えたいです。この世での人生が、常に幸せだとは言えません。人は、いつか必ず死ぬことに決まっており、喜びより悲しみの方がより多いのが、この世の有様です。しかし、イエスは、悲しみと死を圧倒する真の喜びと生命が、ご自分の中にあると教えてくださるために、高い天から低い地上に来られました。そして、いつか父なる神の右から、ご自分の中にある真の喜びと生命を完全に成し遂げてくださるために、まさに新しい創造のために必ず再び来られるでしょう。このような、かつて臨まれたイエスと、また臨まれるイエスを記念し、待降節とクリスマスを過ごしたいと思います。愛と救い、平和と新しい創造の主イエス·キリストが、皆さんと共におられ、限りのない祝福を与えてくださることを祈り願います。

律法の本義 -愛の命令。

出エジプト記20章1-17節(旧126頁) マタイによる福音書5章17-18節(新7頁) 律法の本義 -愛の命令 志免教会は来年から月一回、十戒の朗読をしようとしています。旧約の律法も神にいただいた大事な御言葉ですが、今まで志免教会は新約の福音に比べて、旧約の律法を比較的におろそかに扱ってきたのではないかと顧み、反省することになりました。今日は来年からの十戒の導入を控えて、律法の本当の意味、そして、福音との関係について話してみたいと思います。 皆さんは旧約の律法について、どう理解しておられますか? 旧約聖書に出てくるユダヤ人の古い指針、人間の信仰より行いをあおり立てる、福音に反するもの、イエス·キリストの到来後に廃止された昔の仕来り。もしかして、このように律法を理解しておられないでしょうか。ヨーロッパの宗教改革者たちと代々のプロテスタントの神学者たちは、十戒を福音と比べて劣るものだとは考えていませんでした。むしろ、律法と福音が適切に調和するとき、教会がより正しく立てられると信じていました。新約聖書はイエス・キリストを律法の目標であると証言しています。律法がキリストに出会う時、つまり福音と調和する時、その意味がより完全になるという意味です。それだけに律法はキリスト以来の新約時代にも有効な神のご命令なのです。ですので、旧約の律法と新約の福音の調和は、キリスト者なら誰でも大事にするべき課題であります。キリストの福音にあって、律法の精神である「神への愛と隣人への愛」を実践する我々になってほしいと思います。 十戒とは、神がイスラエルの代表的な預言者モーセを通してご自分の民に授けてくださった、全ての律法を代表する最も重要な掟です。出エジプト記19章でイスラエルをエジプトから導き出された神は、彼らをシナイ山という聖なる山に集わせてくださいました。そして、イスラエルに仰せになりました。「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」(出エジプト記、19:5-6)神はエジプトという神を知らない罪に満ちた地から、アブラハムとの契約の実であるイスラエルを解放させ、シナイ山という神のご臨在の場で彼らをご自分の民にされました。そして、イスラエルをご自分の民にふさわしく導かれるために、出エジプト記の20章から、神の律法を教えてくださいました。その時、最初に登場する律法の教えが、この十戒なのです。十戒に代表される律法は、イスラエルを神の民に招く、神の神聖な掟でした。そして、これから彼らが大切に守り、聞き従っていくべき、神の民の生活の指針でした。 十戒は、その構成が「神への愛」と「隣人への愛」という二つの部分として明確に分けられています。 1-4の掟は神への愛、5-10の掟は隣人への愛を示しています。 旧約本文は長すぎますので、原文に照らして要約したものを読んでみたいと思います。週報の裏側の志免教会のための十戒の交読をご参照ください。 志免教会の交読十戒 ※太字は司式者が、細字は会衆が朗読する。   わたしは主、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した、   あなたの唯一のまことの神である。 1. あなたには、唯一のまことの神、主のほかに神々があってはならない。 2. あなたは、自分のために、いかなる像も造り拝んではならない。 3. あなたは、唯一のまことの神、主の御名をみだりに唱えてはならない。 4. あなたは、安息日を覚え、その日を聖別して守れ。 5. あなたは、父と母を敬え。これは、主が賜る地で長生きするためである。 6. あなたは、殺してはならない。 7. あなたは、姦淫してはならない。 8. あなたは、盗んではならない。 9. あなたは、隣人に対して偽証してはならない。 10. あなたは、隣人の家の全てのものを一切貪ってはならない。   わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。   廃止するためではなく、完成するためである (翻訳 金東佑、監修 九州中会教師 富樫史朗、澤正幸、崔(チェ)炳(ビョン)一(イル)、金(キム)山(サン)徳(ドク)) このように十戒は、神がイスラエルの民にお求めになった、神への愛、隣人への愛といったキリスト者の望むべき生き方を示しています。 ある意味で律法は言葉どおりに、旧約の民の生活のための、宗教法、刑法、民法、憲法など数多くの法を記した、いわゆる法典だとも言えるでしょう。しかし、律法にはそれ以上の意味があります。律法は単なる法律を超える神と隣人への愛の実践を促す、旧約の信仰者の生活の基準です。しかし、時間が経ち、ユダヤ人たちは律法の精神を誤解し、自力で律法を完全に守ることで、すなわち行いを通して、義とされ、救われると間違って考えるようになりました。このような律法への誤解は、神の恵みではなく人間の行いを大事にさせ、弱い信仰や事情によって行いがうまく守れない隣人を卑しめさせ、律法の外の異邦人を憎ませる副作用を生み出すようになりました。そのため、現代のキリスト者の中には「キリストの福音によってのみ、救われるものだから、行いを強調する旧約の律法なんかは、もう要らない。」と主張する人もいます。 しかし、新約聖書ローマの信徒への手紙は、明らかに示しています。「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。」(ローマ10:4)主イエス・キリストは律法の目標として、すでに律法を成し遂げてくださいました。「主イエスが自分の代わりに律法のすべてを成し遂げてくださった。」と信じる者は、そのイエス・キリストによって救われると新約聖書は力強く証ししているのです。しかし、だからといって律法を無視しても良いという意味ではありません。「わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」(ローマ3:31)キリストは律法を完全に成し遂げられ、キリストの中で完成された律法を、主の民である私たちが生活の中で行い、実践していくことを願っておられます。 つまり、キリスト者の生活を通して、神と隣人を愛する律法の精神を受け継いで生きていくことを望んでおられるということです。新約のキリスト者にとって、律法は救われるための義務や条件ではありません。すでに救われたから、神への感謝と隣人への愛のしるしとして、律法の精神を受け継ぎ、善を行って生きるのです。 そういう意味で、新約のキリスト者は、救われた者にふさわしい生き方として、律法を大事にして生きるべきでしょう。新約時代の今でも十戒の朗読を大事にすべき理由は、そのような意味があるからです。 宗教改革以来、改革教会では十戒をプロテスタントの重要な教理として認めました。使徒信条などの信仰告白によって「私たちが、どの方を信じているのか」を悟り、十戒によって「その方を信じている私たちは、どのように生きるべきか」を悟り、主の祈りによって「誰を信じ、どのように生きるべきか知る者は、何を祈るべきか」を悟るのです。ある文献によると、近代のヨーロッパの改革教会では、主日に午前、午後の二度の礼拝を行いましたが、午前には十戒を朗読し、午後には使徒信条を朗読する場合もあったと言われます。そして礼拝ごとに主の祈りを朗読したと言われます。志免教会は使徒信条や主の祈りは、常に大切に扱って朗読していますが、十戒は比較的に、おろそかにしているのではないかと、ここに来て反省しました。来年からの十戒朗読を通して、律法を完成してくださったイエス・キリストを記憶し、我々の生活を顧みるきっかけになればと願います。 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(マタイによる福音書5章17-18節)イエス・キリストは律法の文字(律法の精神)から一点一画も消え去ることはないとおっしゃいました。これは昔のユダヤ人の誤解から生まれた「行いのために作られた掟(例えば、先週の昔の人の言い伝え)」を意味するものではありません。キリストを通して、「神や隣人を愛せよ」という律法の真の精神が、絶対に変わることなく固く守られるという意味です。2022年は、イエス·キリストにあって福音と律法をつり合いよく追い求める志免教会になることを願います。

主が本当に望まれること。

イザヤ書1章11-17節(旧1061頁)           マルコによる福音書7章1-23節(新74頁) 前置き 先々週の説教では「五つのパンと二匹の魚の奇跡の後、逆風に恐れていた弟子たちと、湖の上を歩いて彼らのところにおいでになったイエス」の物語について語りました。その物語を通して、キリストの教会が追い求めるべき目標は「単に規模が大きくなることではなく、主の御心を正しく知り、それに従うこと」であり、キリスト者が追い求めるべき価値は「この世での成功ではなく、神の御心に聞き従う生き方」であることが分かりました。神を知らない未信者と、神の民であるキリスト者の違いは、その点にありました。キリスト者の人生の中にも苦難と試練があり得るものです。しかし、神はその苦難と試練の中でも、いつもご自分の民を見守っておられ、主がお定めになった時に民を助けてくださる方です。その神を忘れず、心を尽くし、み旨を求めて生きることが、キリスト者に与えられた真の人生の意味なのです。我々の人生の中には、財物、名誉、権力などが必要な時もあるでしょうが、それが我々の人生の目標になってはならないでしょう。神がキリストを通して私たちを召され、聖霊を通して私たちと共に歩んでくださる理由は、私たちの世俗の成功のためではありません。神とその御心を知り、その御旨のままに生きるためであることを忘れてはなりません。 1.昔の人の言い伝えとは? 「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。」(マルコ7:1-2)イエスの御業を妨げるために血眼になっていた、当時のユダヤ人の指導者たち(ファリサイ派の人々と数人の律法学者たち)が、イエスの所に訪ねて来ました。ファリサイ派とは、ユダヤ教の純粋性を守ろうとする根本主義ユダヤ人の集団であり、律法学者とは、旧約聖書を研究し、その律法を大事にしていた、いわば神学者でした。ファリサイ派の人々をあえて現在に照らしてみれば、祈り、黙想、礼拝、献金、聖餐式、宗教記念日などを徹底して守る、信心深い宗教者と言えるでしょう。また、律法学者は神学の専攻者、神学校の教授、牧師と言えるでしょう。しかし、彼らの問題点は、そのすべての宗教的な儀式と知識には精通しているものの、神に遣わされた真のメシアを見分ける目がないということでした。これを通して、ひとつはっきりさせておきたいことは、私たちが、いくら礼拝と宗教生活と聖書の研究に情熱的に取り組んでいると言っても、神の御心とは何か、何をやるべきかが分からなければ、私たちも、ファリサイ派や律法学者と、そんなに違いのない存在として、神に判断されるかも知れないということです。ただ、表だけの宗教的な情熱は、人の目を欺くことは出来るでしょうが、人の心を見ておられる神の御目には、すべてがばれてしまうだけでしょう。 「そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」(5)彼らはイエスに「なぜ、あなたの弟子たちは神の律法を固く守らないのですか?」と言いませんでした。「なぜ、昔の人の言い伝えに従って歩まないのですか?」と言ったのです。その時、イエスは「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」(6-8)と責められました。ここでの昔の人の言い伝えとは、旧約の律法そのものを意味するものではありません。皆さん、タルムードというユダヤ人の書物についてお聞きになったことがございますか。このタルムードとは「ミシュナー」と「ゲマラ」というモーセ五書についての、ユダヤのラビたちの解釈と討論を収録した本です。今日の本文に出てくる「昔の人の言い伝え」はミシュナーである可能性が高いです。牧師は聖書の解説書を参考にして説教を準備したりします。しかし、解説書は聖書そのものではありません。聖書についての神学者たちの解釈にすぎず、時代や状況の移り変わりによって変わりがちなものです。ひとえに変わらないものは、聖書の中の神の御言葉だけです。ところが、今日の本文のユダヤ人たちは、神の御言葉である律法の精神は無視しながら、昔の人の言い伝えであるミシュナーを大切に扱い、なぜ主の弟子たちが、それを守らないのかを問い詰めていたのでした。 2.律法の精神 それでは、ここでユダヤ人たちが無視していた律法の精神とは、何でしょうか? イエスは彼らに「あなたたちは偽善者だ。」という表現で咎められました。ここで「偽善者」は、ギリシャ語で「俳優」を意味する「ヒュポクリテース」という言葉で表現されています。つまり、「あなたたちの信仰の行いは、真心の籠もっていない演技にすぎない」という意味なのでしょう。数年前にハリウッド映画の「ラストサムライ」を印象深く観たことがあります。その時、有名な日本の俳優である渡辺謙さんにはまって、ファンになりました。明治維新後、新時代になっても、侍の伝統と精神を守ろうとする仁義に厚い武士、彼の演技は印象的でした。しかし、私は渡辺さんが本当の侍ではないことを知っています。いくら外見と演技が現実のようだと言っても、彼は現代の俳優であるだけです。その後、彼は他の映画に日本帝国の士官として、また、現代の教授としても出演しました。イエスが言われた、偽善者を意味する「ヒュポクリテース(俳優)」という表現も、そんなものでしょう。ファリサイ派の人々と律法学者たちが律法を固く守るという名目で、昔の人の言い伝えを力強く取り上げていますが、実際、そこには律法の教えから示されるべき、何かが欠けているということです。彼らは律法が語る神の御心が分からず、ただ律法の解釈のために人為的に作られた人間の教えだけを、まるで俳優が演技をするかように偽善的に守ろうとしていたということです。彼らはそのような偽善的な姿勢でイエスと弟子たちを批判していたわけです。 主イエスは、福音書のいくつかの箇所を通して、律法の精神について教えてくださいました。「第一の掟は、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。第二の掟は、隣人を自分のように愛しなさい。この二つにまさる掟はほかにない。」(マタイ22、マガ12、ヌガ10) 律法は神と隣人を愛することこそを、最も重要なものだと教えています。我々は、時々今日の本文に出てくる「昔の人の言い伝え」と「旧約の律法」を間違って受け取ってしまい、「律法は行いだけを煽り、神の愛とは関連なく、望ましくないもの。」と誤解しがちだと思います。しかし、そうした間違った理解は、おそらく、当時のユダヤ人の間違った律法遵守、つまり昔の人の言い伝えを律法の精神だと勘違いしていた人たちによって生じた誤解ではないかと思います。今日の本文で、イエスはこの点を叩き直そうとしておられるのです。当時の多くのユダヤ人たちは律法が持っている本当の意味、つまり神と隣人への愛を行って守ることには消極的で、ただ自分が追求する「伝統に従って何かを守る」という拘りに陥り、神がくださった律法の本質を歪曲してしまいました。そういうわけで、イエスは「コルバン(神への供え物)」という間違った昔の人の言い伝えを取り上げて、そのため、十戒の大事な第5の戒である両親への敬いが守られていないと教えてくださったわけです。主は、ユダヤ人の間違った伝統の矛盾と罪について教えてくださったのです。 3. 主が本当に望まれること。 ユダヤ人たちは、自民族が神に選ばれた唯一の民だと信じていました。自分たち以外は、皆が呪われるべきだという間違った優越主義を持っていたのです。彼らは自分たちと違う存在に対して無慈悲な判断と呪いをかけました。しかし、それゆえに彼らは結局、自分たちが崇めようとする神ご自身であるキリストさえも、呪われた存在として烙印を押す愚行を犯してしまいました。自分たちが大事に扱う昔の人の言い伝えに目が眩み、真の神を見分けられず、不浄な存在にしてしまったのです。自分たちの神であるイエスさえも見分けられない彼らが、隣人を蔑視することは、当然のことでした。イエスは真の律法の精神と真の清さについて教えてくださることによって、人々が律法の真の精神について悟ることをお望みになりました。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」(15)主がご自分の民に本当に望まれることは、律法の最も重要な教えである「神と隣人への愛」なのです。人を汚すのは手を洗わなかったり、汚れた物に触れたりすることではありません。神の御言葉である律法の精神を歪め、自分の考えや拘りに神を合わせようとすること、それこそがまさに本当の汚れたものなのです。 「お前たちのささげる多くのいけにえが、わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に、わたしは飽いた。洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ、善を行うことを学び、裁きをどこまでも実行して搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ。」(イサヤ1:11,16,17)イサヤは、ユダヤ王国で活躍した予言者でした。(元々、イスラエルは一つの国でしたが、ダビデ王の息子ソロモンの死後、北のイスラエルと南のユダヤに分裂することになりました。)彼は、神の御前に何の誠実な信心もなく、ただ習慣的に出てきて宗教儀式を行っていたユダヤ人たちに、このような神の御言葉を宣べ伝えたのでした。ユダヤの民が、いくら熱心に神殿に集まり、献げ物を捧げ、神を祭ると言っても、神は愛の実践のない民から礼拝をお受けになりませんでした。むしろ、そんな華麗な礼拝をやめて、生活の中で愛を実践することを望まれたのです。しかし、そうした主の仰せに最後まで従わなかったユダヤ人は、結局、紀元前586年ごろにバビロン帝国に滅ぼされてしまいました。律法の真の精神である愛を実践し、律法の教えを固く守って生きることを望んでおられる神でしたが、民はその神の御心に従わず、その結果は滅びだったのです。 締め括り。 何十年が経ち、バビロンがペルシャに滅ぼされた後、皇帝キュロスはユダヤ人の文化や宗教に配慮してくれました。ネヘミヤとエズラといった立派な指導者によって、ユダヤ人は自らを改革するようになりました。しかし、時間が経ってイエスの時代になった時、その子孫たちは再び律法の精神を損ねる過ちを犯してしまいました。神が望まれるキリスト者の生き方は、外見だけ見事な宗教生活ではありません。そのような側面も時には必要ではありますが、何よりも大事なことは、世の中で神の言葉を実践しつつ生きることです。イエスは、その神の御言葉に聞き従い、御言葉(律法)の精神である愛の実践のために人間になってくださり、人間への愛のために、人間の代わりに十字架につけられて死に、人間の罪を赦してくださいました。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」(ヨハネ15:12-14) 主イエスは私たちへの愛の極み、つまり赦しと救いのために、十字架にかけられ、また、私たちを友、民、神の子としてくださるために復活なさったのです。神が本当に望まれることは、愛の実践です。我々がこの福岡に生きる主の民であることを示すしるしも、愛の実践にあります。私たちの愛が実践される時に、私たちの礼拝も真の礼拝として一層輝くことでしょう。神は私たちの愛の実践をご覧になって祝福してくださるでしょう。そのような我々になりますように祈ります。

全能なる神の確実なお選び。

新共同訳聖書 創世記25章19-34節(旧39頁) ローマの信徒への手紙9章11-13節(新286頁) 前置き アブラハムの死後、彼の相続人であったイサクは、もはや父によってではなく、自分ひとりで神の御前に立つことになりました。神はアブラハムとの契約を覚えられ、喜んでイサクの神になってくださいました。アブラハムはカナンという広い地域(九州ぐらい)で神と契約を結んだ唯一の存在でした。今やイサクはそのアブラハムの後を継いで神と契約を結んだカナン唯一の存在になったわけです。事実、アブラハムは特別な人ではありませんでした。しかし、神は平凡な彼を一方的に選び、彼と結んだ契約を通して、彼をご自分の民としてくださいました。イサクは、このアブラハムと神が結んだ契約の相続人であることから、神に選ばれたのです。つまり、イサクは自分の能力ではなく、神の約束によって選ばれた存在なのです。神は人の能力や行為で救いを与えられる方ではありません。ひたすら、主のお選びと約束に基づいて、救いを成し遂げられる方です。今日の本文を通して、その点について話してみたいと思います。 1.選ばれた民の生活 「イサクは、妻に子供ができなかったので、妻のために主に祈った。その祈りは主に聞き入れられ、妻リベカは身ごもった。」(21)イサクは、神の選ばれた民でしたが、彼の人生が、何事においても栄えたとは言えませんでした。25章にはイサクを除く、他のアブラハムの息子たちが息子を儲け、栄えたとの系譜が記されていますが、イサクはそうではありませんでした。聖書には、その始終が詳しくは記されていませんが、アブラハムが25年間、相続人を得られなかったように、イサクも20年間、子どもを儲けられなかったのでした。常識的に考えてみても、神に選ばれなかった兄弟たちより、神に選ばれたイサクのほうがもっと祝福されるべきでしたが、現実は違いました。しかし、考えてみるべきことがあります。キリスト者が抱きやすい誤解の一つは、神に選ばれた存在は、無条件、何事において、うまくいかなければならないということです。「他人より成功すべき、より栄えるべき、うまく行くべき」ということです。しかし、聖書において、そのように生きた人物は、ごくわずかです。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、旧約の預言者たちも、イエス·キリストと、その弟子たちも、歴史上の数多くのキリスト者たちも、神を信じることで、幸福どころか苦難を受ける場合が多かったのです。 しかし、今日の本文を通して私たちは一つの事実を知ることが出来ます。それは神が「選ばれた民」の祈りを聞いておられるということです。アブラハムの他の息子たちとイサクの違いは、神との関係にあります。アブラハムの他の息子たちが、いくら多くの子どもを儲け、権力、財物を得たと言っても、彼らにはイサクに対するくらいの神からの愛と関心がなかったということです。旧約の他の書から見ると、アブラハムの他の息子たちの子孫の多数が、異邦の神々を信じる民族になったことが分かります。主が彼らと最後まで一緒に歩んでくださらなかったということでしょう。主はイサクの祈りを受け入れられ、息子を儲けさせてくださることで、彼の祈りに答えてくださいました。神に選ばれた人への主の祝福とは、目に見える財物、幸福、物事の有無で定まることではありません。ひとえに神が一緒に歩んでおられること、祈りを聞いておられること、主なる神になってくださること、そこに神に選ばれた者の、真の幸いがあるのです。私たちキリスト者にとって、最高の祝福とは、キリストが我らの救い主になってくださり、神の子どもとして認めてくださることです。豊かな財産、かっこいい車、社会的な名誉も良いですが、それらが無くても、神がキリストを通して私たちと共にいてくださり、私たちの祈りを聞いてくださること、それこそが我々キリスト者の掛け替えのない祝福なのです。そして、その神の祝福は永遠に続くことでしょう。 2. 神の自由なお選び。 それでは、神の御選びとは何でしょうか? 今日の本文には、そのお選びに関する物語が出てきています。「ところが、胎内で子供たちが押し合うので…主は彼女に言われた。… 一つの民が、他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる。」(22-23)イサクの祈りどおりに、妻リベカは妊娠しました。20年間、子供が無かったイサク夫婦に、めでたいことでした。ところで、胎児は双子でした。神はまるで、もう全てが定まっているかのように言われました。「兄が弟に仕えるようになる。」古代カナンでは、長子がすべての主導権を握り、弟たちは兄に従うべきでした。それなのに兄が弟に仕えるなんて、有り得ない事でした。しかし、神は「兄が弟に仕えるようになる。」とはっきり言われました。すでに2人の息子の将来についてお話になったのです。新約のローマの信徒への手紙には、次のような言葉があります。「その子供たちが、まだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、兄は弟に仕えるであろうとリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだと書いてあるとおりです。」(ローマ9:11-13)神がイサクの息子の中で弟ヤコブを予め選んで定められ、彼をイサクの相続人にすると宣言されたのでした。 ここで「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」という表現は、文字どおりに神が誰かを愛し、誰かを憎まれたという意味ではないでしょう。言い換えれば、「神はヤコブを選び、エサウは選ばれなかった。」ということでしょう。神がアブラハムを選ばれたことも、彼が最初から正しい者だったからではありません。神は一方的にアブラハムを導き出されました。イサクが選ばれたことも、彼が偉い人物だったからではありません。先ほど申し上げましたように、イサクは神とアブラハムの契約によって選ばれた者です。エサウは選ばれず、ヤコブが選ばれたことも、ヤコブがエサウより倫理道徳的に優れたわけではありませんでした。そのすべての選びは、ひたすら神のご意思による自由なお選びの結果だったのです。私たちはここで、神は、ご自身がお定めになったことを、成し遂げられる選択権を持っておられる方であることが分かります。改革派教会では、これを「神の予定」と言います。「神が予め定められた。」という意味です。 神は、世のすべての物事を前もって知り、定めて、御心のままに成就なさる方です。神はすべてを計画し、成し遂げられる方ですので、世の始まりから終わりまで、万事を知っておられる方です。神は、私たちが生まれるも前から、私たちをすでに知っておられ、私たちの救いを定めておられる方です。そして神はキリストを通して、予め決まっていた私たちの救いを遂に完成してくださった方なのです。 3.予定説について。 こうした神の自由なお選びについての神学理論を「予定説」と言います。ところで、この理論を聞いていると、なんだか心が窮屈になります。「ということは、救われる者と捨てられる者が定められているということか?」あるいは「どんなに熱心に神を信じても、もし救われる予定がなければ、最終的には見捨てられるということなのか?」という質問が自動的に心の底から浮かんでくるでしょう。これに対して改革派神学の代表的な神学者であるジャン・カルヴァンは、こう語っています。「誰でも知覚のない確信を持って、神の御選びを探ってみようとすれば、自分の好奇心も満足させず、むしろ迷宮に陥り、到底抜け出せないようになってしまうだろう。」(キリスト教綱要 3篇21章) 私たちは全てのことを予め定めておられるという神の予定について、私たちが持っている貧弱な知識や漠然とした認識で、身勝手に想像してはいけません。「神が全てのことを予め定めて行われる。」という言葉は、「神の我がままな判断によって誰かは救われ、誰かは見捨てられる。」というふうの1次元的な意味ではありません。それよりもっと大事な「すべてのことを知り、ご計画なさる。」という神の全知全能についての意味として受け止めるべきです。もしかして、神が全てのことを知り、予めご計画なさる方ではないなら、私たちは神を絶対者、全能なる方だと呼べるでしょうか。人間の救いという一部の事柄ではなく、神の全能さという全体的な脈絡を理解すべきでしょう。 「正しい者はいない。一人もいない。… 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(ローマ3:10-12)そもそも罪を持って生まれる、すべての人類は不浄な存在です。もしかしたら、すべての人類が滅びることが、神の秩序にふさわしいかもしれません。しかし、神は滅ぼされるべき人類から救われる者をわざわざお選びになります。皆が見捨てられるのが原則なのに、神はその中から、わざわざ救いを与えてくださるのです。「救う義務のない神が、救われる権利のない人間をわざわざ選び、救われる。」ということです。 従って、神の予定は差別ではなく恩寵です。そして神は、誰かに「君は救われる。君は滅びる。」と強いて言われません。主は、「すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んで」おられます。(テモテ一2:4)救い主イエスを遣わされ、福音を宣べ伝えさせた理由も、その福音を聞き、救われる者を呼ばれるためです。今日の本文で、エサウは自ら長子の特権を軽んじ、簡単にヤコブに譲ってしまいました。神は前もって機会を与えてくださったのに、エサウは自らそれを捨てたのです。神は全能であり、すべてのことを知っておられる方です。しかし、神は残酷な暴君のように人間の運命を勝手に定めることはなさいません。神は常に機会をくださり、人の自由な意志を尊重してくださいます。しかし、機会をくださるにも拘らず、その機会を無視する人がいることを、神はすでに知っておられるのです。神はそのように救われる者と、救われない者を予め知り、定められるのです。 締め括り 今日も聖書ははっきりと語っています。世のすべての人が救いを得ることは出来ないと。ただ主の福音に反応し、悔い改め、信仰を持って生きる人だけが、キリストの義によって赦され、救いを得ることでしょう。いくら牧師だと言っても、キリストによる神の救いと福音を軽んじ、従わなければ決して救いは得られないでしょう。神はエサウに長子の権利(相続権ー神のお選びと約束)得る機会をくださいましたが、彼が自ら捨てることを知っておられました。そして今現在ヤコブに貪欲な本性があるものの、結局、長子の権利を大切にし、神の御前に立派な信仰者として立つことをすでに知っておられたのです。神はいつも人間に機会をくださる方です。福音を与え、信仰にお招きになります。ですが、それに応じるか否かは、その福音を聞く人次第です。従って、私たちはすべてを予め知り、選んで定められる神の予定を、神の暴政ではなく、神の全能さを説明する概念として受け入れるべきでしょう。もし、皆さんが、神から遣わされたキリストを、唯一の救い主として信じ、その方を通じてのみ、義を得、神の子となることを信じておられるならば、皆さんはすでに神に選ばれた存在だと私は確信します。そして神はご自分が確実にお選びくださった皆さんを世の終わりまで守り導かれるでしょう。神の確実なお選びによって、この世を生きる志免教会の上に神の豊かな恵みと愛があることを祈り願います。

湖の上を歩く。

イザヤ書66章1-2節(旧1169頁) マルコによる福音書6章45-56節(新73頁) 前置き 邪悪な王ヘロデの暴挙と、正しい王キリストの愛、過去の2回の説教は、ヘロデとキリストという2人の王を比べつつ、我々の王であるキリストの愛について分かち合う時間だったと思います。私たちは神に召される時まで、否でも応でも、この地上に生きていくしかありません。皆さんは日本の国民として生まれ、日本の社会、政治、経済の中で生きていく存在です。しかし、皆さんが神に召される、その瞬間、もはや日本に係わる全ての物事から自由になります。その時、皆さんは、神の民というアイデンティティだけを持つようになります。ですから、皆さんの唯一の王は、地上の王でも、政治家でも、財産でもありません。生きる時も死ぬ時もキリスト者の王は、ただ神がお選びくださった真の王であるキリストお一人だけです。その点に留意しつつ、主に召される日まで、誠実な主の民として生きていくべきです。 1.大きい教会ではなく、正しい教会を。 「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。」(45-46)イエスの弟子たちの出身成分は実に様々でした。ローマからの独立のために暴力的な闘争に加わっていたユダ、ローマにくっついて同胞を苦しめていた徴税人マタイ、荒仕事の漁業に携わっていた漁師ペトロなど。主の弟子の中には、主への信仰を持って追従していた者もいれば、他の意図で従っている者もいました。そんな彼らにとって、「五つのパンと二匹の魚」をもって男だけ5000人を食べさせた出来事は、強い衝撃となったはずでしょう。彼らは「少なくとも、この方さえいれば、飢えることは無いだろう。」と思ったかも知れません。さらには「この方こそローマ帝国からイスラエルを独立させる救世主である。」と判断する人もいたかも知れません。弟子たちは、主の偉大な奇跡の場を離れたくなかったことでしょう。すぐさま、ローマが滅びるとか、神の国がイエスによって成し遂げられるとかなど、何か大変なことが起こるだろうと思ったかも知れません。しかし、そのような弟子たちにイエスがされたことは「強いて舟に乗せ、行かせること」でした。 5000人を食べさせた出来事は、イエスの世俗的な権力を極大化する絶好の機会でした。ひょっとしたらイエスはローマ帝国に対抗する歴史的な英雄になれたのかもしれません。おそらく何人かの弟子たちには、そのような希望があったでしょう。しかし、主はそのような世の権力には、一抹の関心もお持ちになりませんでした。むしろ、群衆を解散され、弟子たちを次の地域に強いて行かせるだけでした。主のご関心は、世の権力ではなく、より崇高な神の御心に聞き従うことだったからです。時々、人は自分が追い求める何かを、信仰に投影させたりします。韓国には登録人数80万人の巨大な教会があります。植民地時代と朝鮮戦争の中で大きいのが最善という間違った認識が生じたからです。だからと言って、今の韓国の教会が正しいとは言えません。私は伝道師になってから数年間、韓国教会の問題点をいくつも目撃しました。今の韓国社会において教会への評価は最低です。規模だけ大きく、わがままばかりだからです。もちろん素晴らしい教会もあるでしょうが、ほとんどが小さい教会だと思います。大きい教会だからといって偉大なものだとは言えません。本当に偉大な教会、本当に大きな教会とは、主の御心とは何かを弁え、それに徹底する教会です。教会が大きくなり、教会員が増えたことに興奮する必要はありません。我々は一喜一憂せず、ただ主の御心に適う教会であるために最善を尽くして生きるべきです。 2.逆風の中の弟子たちに来られたキリスト。 「群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。」(46-47)、弟子たちを船に乗せて強いて送られた主は、祈るために山に行かれました。聖書で「山」という表現は、神に会う場所、神の権能などを象徴する場合が多いです。5000人を食べさせたイエスは、人気のために人の中に行かれませんでした。むしろお一人で神の御心を求めるために、祈りの場に行かれたのです。イエスは世の権力より、聖なる神とのお交わりをよりいっそう大事にされたのです。事がうまく行き、すぐにでも成功しそうな時、我々は何をするべきでしょうか? 何かがうまく行っているような時、我々は自惚れずに、神の前にひざまずくべきです。イエスは、それを実践することで手本になってくださいました。さて、主が山で祈っておられた時、弟子たちは湖を渡っていました。ところで、彼らに強い風が吹い出してきました。 「ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。」(48-49)主は弟子たちが苦境に立たされたことを知り、湖の上を歩いて彼らにおいでになりました。 聖書において海、湖は混沌や闇、世の風潮などを意味する場合もあります。 そこに風まで吹き始めたということは、象徴的に弟子たちが世の風潮の中で、大きく脅かされていたことと理解できます。主は神とお交わりになっていた山から、危機に瀕した弟子たちに下ってこられました。 つまり、これは聖なる神が混沌の地上に臨在なさったとのイメージです。ところで、面白いことは、主は弟子たちのそばを通り過ぎようとされたということです。せっかく弟子たちのそばに着かれた主は、なぜ彼らを通り過ぎようとされたしょうか。日本語で「通り過ぎる」と訳されたギリシャ語は「ファレルッコマイ」です。そして、この表現をヘブライ語に訳すると「アバル」になります。ところで、旧約聖書のいくつかの箇所では、この「アバル」が、神の顕現(現れ出る)を意味する表現として使われる時もあります。おそらく、マルコ書の著者は旧約の神の顕現のように、イエスが困難に直面した弟子たちに現れ出られたことを示すために、この表現を使用したと思います。つまり、主が弟子たちを無視して、通り過ぎたということではなく、助けてくださるために現れ出られたということでしょう。しかし、皮肉なことに弟子たちは主を見て、幽霊だと思ってしまいました。 権能の主イエスが共におられることを忘却してしまったわけです。神は御言葉と祈りの中で、私たちに現れ出てくださる方です。しかし、私たちは主の御心が理解できず、その方をまるで幽霊のように扱っているのではないでしょうか? 世の風潮に呑まれ、主のご臨在も感じられず、愚かに生きているのではないでしょうか。自分自身を省みる機会になればと思います。 3.再び世の中へ。 「皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。」(50-52)弟子たちは愚かでした。5000人も食べさせた奇跡を目撃しても、その権能に気付かず、風への恐怖で騒然でした。しかし、愚かな弟子たちが、主を見分けることができなくても、主から先に声をかけてくださったことに慰められます。主が船に乗り込まれると、湖は嘘のように静かになりました。弟子たちにとって、強い風は生命への脅威でしたが、創り主である神、主にとっては被造物の一つにすぎませんでした。我々も世を生きながら、何かに絶望、失望、悲しみ、恐怖をする時があるでしょう。しかし、主においては、それらすべては大したことではないでしょう。万物を支配され、導かれる主に恐ろしいことがあるものでしょうか。神はおっしゃいました。「天はわたしの王座、地はわが足台。これらはすべて、わたしの手が造った。」(イサヤ66:1-2)私たちが信じる主なる神は、天地万物を造り、また裁かれる、創り主であり、審判者であり、救い主である唯一の神です。その神に頼って祈り、その方にお委ねする私たちになることを願います。 「こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。」(53 – 56)イエスによって強い風から自由になった弟子たちは、五つのパンと二匹の魚の奇跡がもたらした興奮を後にして、ゲネサレト地域に着き、癒し、教え、宣教する、主のお働きの場に戻りました。ガリラヤの貧しい群衆は、イエスの偉大さを見分け、遠くから押し寄せてきました。イエスのそばで、大きな奇跡を目撃しても、湖の上でイエスを幽霊だと勘違いした弟子たちとは違って、群衆はイエスの船を見るだけで主と気づき、集まってきたのでした。時々、教会の内の人々よりも、教会の外の人々のほうが、いっそう神の御心通りに生きているかのような場合があります。教会は何もせずにじっとしているのに、世の中の社会運動家たちは、むしろ隣人と社会改革のために情熱的に働くことなどを例に挙げることができるでしょう。イエスは主を尋ねてきた人々のために癒し、教え、宣教してくださいました。その姿を見受けて、弟子たちは、まだ完全には悟れなかったかも知れませんが、少なくとも主イエスが、世の人気のために働かれる方ではないことは、かすかにでも感じたはずでしょう。キリストの弟子が追求すべき生き方についてです。 締め括り 我々の信仰の目標は、この世での大きな成功を追い求めることではありません。それよりも大切な神の御心に気づき、聞き従っていくことでしょう。 主イエスが望まれ、キリスト者が求めていくべき、主の弟子の在り方とは、まさにそのようなものではなかったでしょうか? 私の好きな賛美歌の中にこんな歌があります。「夜更けまで園で共におりたくとも『世に働きは多く』ゆけとの御声、主は日々共にまして我を友とせり、受けし、この喜びは誰も知らねど」主は、ご自分の民が今に安住せず、主と共に世に行き、主の福音を宣べ伝えることを望んでおられます。自分の安らぎだけを追求することでなく、神の御心を悟り、それに従って生きることを望んでおられます。主イエスは弟子たちのために、神とお交わりなさったお祈りの山から下り、湖の上を歩いて弟子たちに行かれました。主イエスはご自分の教会のために喜んで聖なる玉座を捨てて、この地上に降臨されました。そして、主の教会が神の御心を悟り、聞き従って生きることができるよう、御言葉と御救いを与えてくださいました。その主のご意志を承って生きる、我々志免教会になることを願います。主が望んでおられる、我々の在り方を記憶し、この一週間を過ごすことが出来ますように祈り願います。