団体ではなく全体を。

  聖書朗読 民数記11章24-30節(旧232頁) マルコによる福音書9章38-50節(新80頁) 前置き 前回の説教の主題は、イエスの弟子たちの議論から始まりました。「誰がいちばん偉いか?」という極めて世俗的な議論でした。それで、イエスは「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」と、主の民が取るべき生き方を教えてくださいました。この世のやり方は強い者によって左右されます。弱い者は無視され、疎外されます。しかし、イエスが追求する世界は、高い者が低い者に仕え、強い者が弱い者を助けるところです。イエスご自身がいちばん高くて偉い方でしたが、最も低いところの弱い者たちに仕えるためにこの世に来られ、十字架で死んでくださったからです。そういうわけで、主イエスの民において、誰かに仕えることは基本的な生き方なのです。主イエスの御心を承り、自分のことを低くし、他者を高めて仕えることが主イエスの民の生き方なのです。主はそのような者を真の「偉い者」とされ、必ず祝福してくださるでしょう。主の民の中で最も偉い者は低い所の弱い者に仕える人です。それがまさに主イエスの方式なのです。 1。イエスを信じる他の共同体を排除しようとしたヨハネ。 イエスが低いところの弱い者に仕える人こそが、真に「偉い者だ。」と言われるやいなや、弟子ヨハネが言いました。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」(38) 先ほど、主が弱い人に仕えることこそが、キリスト者の在り方であると言われたにもかかわらず、ヨハネはすぐに他人に仕えるどころか排除するようなニュアンスで話し出したのです。このヨハネという人は、どんな者だったでしょうか。私たちはヨハネによる福音書、ヨハネの手紙、ヨハネが記した啓示録などを通じて「愛の使徒ヨハネ、敬虔な人ヨハネ、啓示の人ヨハネ」などで、彼を思い起しがちかもしれませんが、主の生前のヨハネはかなり偏向的な人だったようです。ルカによる福音書の9章には、このような出来事が記してあります。「弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、『主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか』と言った。」(ルカ9:54) イエスが十字架を背負われるためにエルサレムに足を運ぼうとされた時、主は先に使いの者をサマリア人の村に送られました。当時、ユダヤ人とサマリア人はそんなに仲が良くない状態でした。ユダヤ人はサマリア人が異邦人との混血民族だからと嫌がり、サマリア人はユダヤ人に差別されていたので、好きになれなかったのです。そういうわけで、サマリア人はユダヤ人の団体だったイエスと弟子たちを受け入れなかったのです。 そこで、憤ったヨハネと彼の兄ヤコブは「私たちが天からの火で彼らを焼き滅ぼしましょうか?」と大胆な発言をしたのです。その時、主は彼らを厳しく戒められました。また、マルコによる福音書の3章17節によると、主はヨハネとヤコブに「雷の子ら」というあだ名を付けてくださいました。それだけにヨハネは非常にタフで、自分と異なる思いの人を排除しようとする性格の人だったのかもしれません。そんな彼がヨハネの手紙Ⅰでは、愛を唱えているので、主の恵みの偉大さがしみじみと感じられてきます。おそらく、ヨハネはイエスのかたわらで一緒にいる自分が偉い人間だと勘違いしていたでしょう。メシアである主イエスがイスラエルの王様になってご支配なさると、自分たちもその左と右とで権力者になるだろうと考え、うぬぼれていたかもしれません。つまり、ヨハネは、自分が正しい者だと思っていたということでしょう。イエスが正しい方だから、自分も正しいと根拠のない自信に満ちていたかもしれません。その結果、彼は自分と違う人を差別し、排除する人物になっていたのかもしれません。以前、他教会で、たくさんの祈りと聖書の学びによって、そうでない人を軽蔑し、差別し、排除しようとする人を目撃したことがありますが、彼は紛れもなく主の御言葉を完全に誤解していたでしょう。低くて弱い者に主のように仕えることこそが、真に正しいキリスト者の生き方であるという主の御言葉を忘れてはならないでしょう。 2.低い者に仕えるということ= 他人を排除しないということ。 そんなヨハネに主は言われました。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」(39-40) 偏見と排除のヨハネをなだめるかのように、主は主の御名で悪霊を追い出している者たちを許して良いと言われました。それを聞いてヨハネは恥ずかしかったかもしれません。「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」(41)イエスは一人の存在、一つの団体だけのために来られた方ではありません。時々、キリスト者の中にも、知らず知らず、我が主、我が教会の主、我が教派の主、我が民族と国の主と勘違いをしつつ生きる人もいます。しかし、主はある存在に束縛される方ではありません。むしろ世の万物が主に属しており、誰も主を独り占めすることはできません。また、我が教会だけが真理にあずかっているわけでもありません。主なる神の御言葉を聞いて行うすべての教派が主の真理にあずかっているのです。しかし、あまりにも数多くの教会が自分たちだけが主の真理を持っているかのように振る舞い、他教派は排除しようとする場合があります。結局、同じ三位一体なる神を信じているにもかかわらず、互いに対立しあってしまうのです。   例えば、プロテスタント教会とカトリック教会は、互いに相手を警戒する傾向があります。宗教改革以来、プロテスタント教会とカトリック教会の間には、あまりにも多くの誤解と偏見が積もってきました。それゆえ、今でもカトリック教会に挨拶でもしようと行くと、神父さんが「この人なんで来たんだろう?」と訝しげに見つめます。考えてみれば、こっちからもカトリックの神父さんが来れば「ええ、なんで?」と怪しく思うかもしれません。しかし、教理は少し違っても、結局プロテスタントもカトリックもイエスを救い主として信じることはあまり違いありません。マリア崇拝や煉獄など、理解できない教理ももちろんあるでしょうが、深く掘り下げてみると、彼らなりの理由があるかもしれません。何よりも彼らが救われるかどうかは、私たちではなく、神がご判断なさるべき問題なのです。重要なのは、彼らも教理でイエスを認め、イエスの救いを最も重要視しているということです。(皆さん、誤解はしないでください。カトリック教会のために弁明しているわけではありませんので。)今日の本文の物語が、前回の本文につながっている理由は何でしょうか?ひょっとしたら、低くて弱い者に仕えるという意味は、貧しくて弱い人に仕えることだけでなく、自分と違う存在への配慮と尊重という意味でもあるのではないでしょうか?私たちは自分も知らないうちに、主の御心とは違う排除と偏見とを抱いて生きているかもしれません。しかし、主から私たちに許されたのは排除と偏見ではなく、ひたすら愛と奉仕であるだけなのです。 3. 団体ではなく全体を。 内村鑑三の朝鮮人の弟子に咸錫憲(ハム・ソクホン1901-1989)という神学者がいました。内村の弟子であるだけに、彼も「韓国的無教会主義」を唱えた人です。余談ですが、ここで「無教会主義」を誤解してはいけません。「教会なんていらない」という意味ではなく「信仰の唯一の根本は、教会とその仕来りではなく、聖書の御言葉からのみ」というのが無教会主義の本来の意味です。無教会主義についてはいつかもう一度話す機会があると思います。ところで、この咸という人は自身の著書で「全体と団体」ということについて語りました。「全体は宇宙の根本、すなわち神の意思そのままを反映することであり、団体は利己的な自分という存在たちの集まりに過ぎない。」つまり、彼の主張は「全体」というのは、「神の御心に従う完全な被造物としての共同体的な存在」を意味することであり、「団体」というのは「利己的な自分たちという存在の欲望によって造られた共同体的な存在」ということです。これはあくまでも、咸という人の思想であって、聖書の教えでないので、参考だけにしてください。彼は「全体」を大事に考えました。私たちは時々「全体主義」あるいは「ファシズム」等の表現により「全体」へのネガティブなニュアンスを感じがちだと思いますが、咸が言った「全体」はそれとは距離が遠く、神の御心が成し遂げられる共同体という意味です。 私は、今日の本文を通じて、神学者 咸が語った「全体」について考えてみました。彼の思想を借りて、果たして我が教会は「全体」を目指す共同体であるでしょうか?もし、教会のすべての人々が今日の本文のヨハネのように行動するならば、教会はただの「団体」に過ぎないでしょう。それは主に従う共同体ではなく、利己的な「自分」たちの集まりであるだけです。しかし、私たちが他者を排除せず、むしろ、彼らに仕え、主の御言葉に聞き従って生きていけば、我が教会は神の御心に従うという意味の「全体」としての教会になるでしょう。今日の本文で主は恐ろしい警告をされました。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」(42)また、主は地獄まで言及されます。(地獄を文字通りに仏教的な地獄として理解するより、主の厳しい裁きとして理解する必要がある。)自分と違う者を排除する者はすなわち他者をつまずかせる者であり、このような者たちは地獄の炎のような恐ろしい裁きを受けるという厳重なご警告をなさったわけです。43-50節が単純に悪い者たちの死後処分を意味するのではなく、前の言葉とつながった内容であるということを憶えておくべきです。私たちが、ただ利己的で、他者を排除し、偏見を持つ「団体」のような存在になってしまったら、主に地獄と表現されるほど恐ろしく叱られるでしょう。また、そうでなく、他者を尊重し、仕える時、私たちは世の塩のような者になるでしょう。 締め括り 最後に今日の旧約の本文に触れて終わりましょう。全部話すと長くなるので手短に触れてみましょう。本文を読めばすぐ理解できると思います。モーセの後継ぎであるヨシュアが、長老の集まりに出かけていないエルダドとメダドにも、神の霊がとどまって預言状態になったのを見て、文句を言うと、モーセは言いました。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」(29)ヨシュアは排除を望みましたが、主は皆に主の霊を許してくださったのです。主はすべての者の神です。そして、主に属している者同士は、互いに認めあい、理解しあい、受け入れつつ生きる必要があります。主の民が主の民を愛しあうことが出来なければ、いかにして教会の外の存在を愛することが出来るでしょうか。もちろん、私たちは我が教会、すなわち日本キリスト教会の伝統と教えを大切にしなければなりません。しかし、私たちのものをしっかり守るべきであるだけに、他者のものも尊重して生きていく必要があります。「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」この言葉を憶え、他教会、そして、教会内でも兄弟、姉妹への理解と愛を持って生きるとき、真の平和があり、主もそれを喜ばれるでしょう。志免教会が団体ではなく、全体を追い求める教会として、教会内外で愛を成し遂げて生きること祈り願います。