ヨセフの夢

創世記37章1-11節(旧63頁) テモテへの手紙第二2章15節(新393頁) 前置き 前回の創世記の説教では35章の言葉を通じてベテルという場所について話しました。なぜ、ヤコブはベテルに行かなければならなかったのか、現在の私たちにとってベテルとはどういう意味を持つのかについて学びました。ヤコブがベテルに行かなければならなかった理由は、そこが神とヤコブの約束の場所だったからです。また私たちがベテルを大事にすべき理由は、イエス•キリストによる神との和解、罪への悔い改めを象徴する場所だからです。キリスト者である私たちは、常に神との関係の中に生きるべき存在です。キリストの救いを通じて、神の所有となった私たちは、もはや「私自身」が主ではなく「神」が主となった存在だからです。私たちは毎日の自分の生活を振り返り、今、自分の中心となった存在が自分自身であるか、それとも神であるかを考えつつ生きる必要があります。私たちは常に神が中心にいらっしゃる神の家、つまり「ベテル」を憶え、追い求めて生きるべきです。そこに私たちの主である神が私たちを待っておられるからです。 1.35章の後半と36章について。 もともと今日の説教は、引き続き35章の残りの箇所について取り上げる予定でした。しかし、ベテルに立ち戻ったヤコブの物語を最後にヤコブの話を一段落したいと思います。そこで、35章の後半は手短に触れることで終わりたいと思います。また、36章の内容はエサウの系図の話であるため、別に言及せずに進みたいと思います。「こうして一同は出発したが、神が周囲の町々を恐れさせたので、ヤコブの息子たちを追跡する者はなかった。」(創世記35:5) ヤコブは神の一方的なお助けによって無事にベテルに到着しました。神を憶え、立ち戻ることを望む者、神の御前に出て悔い改めることを願う者には、誰も邪魔することができません。神はご自分に帰り、悔い改める主の民を憐れんでお迎えくださる方だからです。私たちが悔い改めて神に帰ろうとする時、神は誰にも邪魔されないように私たちを守ってくださいます。そして、そのような私たちを祝福してくださるでしょう。神は主の民の悔い改めを何よりも喜ばれる方だからです。「神は、また彼に言われた。わたしは全能の神である。産めよ、増えよ。あなたから一つの国民、いや多くの国民の群れが起こり、あなたの腰から王たちが出る。わたしは、アブラハムとイサクに与えた土地をあなたに与える。また、あなたに続く子孫にこの土地を与える。」(創世記35:11-12) そして神は主の下に帰ってきたヤコブに祖父と父に与えた約束と祝福をもう一度確かめてくださいました。 神はご自分の民との約束を絶対に忘れずに守ってくださる方です。神はアダム(創世記1:28)、ノア(創世記8:17)、そして、アブラハム(創世記15:5)にくださった祝福の約束の宣言を、ベテルの神の下に帰ってきたヤコブにもしてくださいました。今後、神はヤコブとその子孫を通して神の約束を成し遂げていかれるでしょう。新約時代を生きる私たちは、神がヤコブとお結びになった約束の成就であるイエス•キリストの民として生きていく存在です。また神はキリストを通じて、私たちに救いの約束をくださいました。イエスの救いの中に生きる新約時代の民である私たちは、移り変わりのない主イエスの約束によって、神の愛と導きの中に生きているのです。35章には3人の死が記録されています。ヤコブの母であるリベカの乳母デボラの死(8節)、ヤコブの妻ラケルの死(19節)、ヤコブの父イサクの死(29節)であります。ヤコブは野望と欲望で生きる人でした。自分の目標のために父と兄をだましたり、しつこく欲を張ったりする存在だったのです。しかし、そんなしつこい生き方にも関わらず、結局、身内の死を防ぐことはできませんでした。死を目の前にして人間の欲望は、どういう意味を持つでしょうか。私たちはいつか私たちを訪れてくる死の前で、人生の真の意味について考えてみるべきです。「ヤコブは、キルヤト・アルバ、すなわちヘブロンのマムレにいる父イサクのところへ行った。そこは、イサクだけでなく、アブラハムも滞在していた所である。」(創世記35:27)最後にヤコブはいよいよ父イサクの地、主が約束された土地にたどり着きました。 2。御言葉をくださる神。 では、37章の言葉を見てみましょう。「ヤコブは、父がかつて滞在していたカナン地方に住んでいた。」(創世記37:1) ヤコブはついに自分の居場所に住むことになりました。 1節にはヤコブの父イサクが、カナン地方に「滞在」していたと記されています。しかし、ヤコブはそこに「住んで」いたと記されています。「滞在」と「住む」は大きな違いを持つ表現です。辞書的な意味も全然違います。滞在は「よそに行って一定の期間そこに留まること。」住むは「居所を定めて、そこで生活する。」と説明しています。原文はどうでしょうか?イサクの「滞在」は「マグル」という表現で「宿泊」の意味を持っています。ヤコブの「住む」は「ヤシャブ」という表現で「安定的に居住する」という意味を持っています。父のイサクにとっては滞在の地であったカナンが、息子のヤコブにとっては住いとなったということです。神は約束をお忘れにならない方です。かつて主は滞在者だったアブラハムとイサクにその土地を与えると約束されました。そして神はその孫であるヤコブをアブラハムに約束された土地に住ませてくださいました。つまり、神はその約束に基づいて必ずヤコブの人生への責任を負ってくださるという意味です。なのに、ヤコブは約束を信じず自ら自分の人生を守ろうとしました。そんな理由で神の御心からはずれたりする時もありました。結局、彼はシケムでひどい目に遭ってしまいました。悔い改めてベテルに立ち戻ったヤコブに与えられたのは、祖父、父にとっては滞在の地であったカナンが、ヤコブ自身にとっては住いの地となっていたという事実でした。 確かに、しばらくしてヤコブは大飢饉を避けてエジプトに向かうことになります。しかし、神はその400年後にヤコブの住いだったカナンの地に、彼の子孫イスラエルをまた呼び集めてくださったのです。そこは神がアブラハム、イサク、ヤコブと約束された契約の地であるからです。神のご計画は一点一画も誤りなく完全です。そして神の民はそのご計画にあって生きるべきです。この言葉を誤解してはいけません。神の計画にあって生きなければならないから、自分は何もやらなくても良いという意味ではありません。私たちは変らず熱心に自分の人生を生きていかなければなりません。しかし、その人生の歩みが神の計画と御心において進んでいるかどうかを点検し、常に主の御言葉を通じて私たちがいるべき場所を確認しつつ生きるべきであるという意味です。私たちの居場所は神の計画、御心、そして約束の中でなければなりません。ヤコブが神の御心に従ってベテルに向かい、結局約束の地にたどり着いて住み始めた時、主はその息子ヨセフを通して主の御言葉を示す夢を見せてくださいました。主の民が主の御心にしたがって生きる時、神は御言葉をくださいます。主の民が主の御言葉を通じてより正しい道を歩んでいけるように主は御言葉をくださるのです。神の御言葉をいただきたいですか。それなら神の約束の中にお住まいください。神の御心を常に求め、「どのように生きれば、神の約束の中に住むことが出来るか」を考え抜きつつ生きていきましょう。そのような民に主は必ず答えてくださるでしょう。 3.言葉を預かった者は謙虚に生きなければならない。 「ヨセフは言った。聞いてください。わたしはこんな夢を見ました。畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました。」(創世記37:6-7)今日の本文を通して、私たちはヨセフがまだ分別がなく、未熟な人だったということが分かります。兄たちの過ちを父親に告げ口して兄たちの気に障る姿が見られます。そして自分の夢を偉そうに言いふらして親兄弟に失礼な言動をすることが分かります。しかし、彼の夢は数十年後に実際に起きることをあらかじめ見せてくれる一種の神の啓示(言葉)でした。なぜなら、ヨセフは実際に当時の巨大な帝国エジプトの宮廷の責任者(総理)になり、人々にひれ伏されるからです。神は未来に起きる実際のことをヨセフの夢を通して啓示(言葉)されたのです。しかし、分別なく未熟だったヨセフはそれを配慮なく言い表してしまい、他人の心を傷つけてしまいました。つまり、ヨセフは神の御言葉を預かった者でした。しかし、彼の愚かな言動によって、大切な神の御言葉は周りの人々に伝わりませんでした。神の御言葉を預かった者は謙遜でなければなりません。牧師、教師はもとより長老、執事、そして私たち皆が神の御言葉を預かった者です。私たちは神の御言葉の源であるイエス•キリストの体なる教会だからです。私たちには生ける神の、生き生きとした御言葉が共にあります。私たちの謙虚によって神の御言葉が広く伝えられることもあり、私たちの高慢によって神の御言葉が妨げられることもあります。 使徒パウロは、自分の愛弟子であるテモテにこう言いました。「あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい。」(Ⅱテモテ2:15) 私たちは若いヨセフのように軽んじて神の御言葉を取り扱ってはなりません。御言葉を預かった私たちは、御言葉を大事にし、自らをわきまえて、恥じるところのない働き手と認められた者らしく、神の御前に生きるべき存在です。私たちキリスト者の一歩一歩が、神を知らない隣人への神の御言葉であることを憶え、謙虚に生きていくべきです。最後に「夢による啓示」についての一言で説教を終えたいと思います。新約時代を生きる私たちは、新旧約聖書が唯一の神の啓示(言葉)であると信じています。しかし、聖書の記録される前、例えば創世紀の時代やイスラエルが堕落した時代、新約聖書の完成前などの時は、夢や幻などで神の啓示が伝えられたりもしました。しかし、今は違います。教会が立っているところであれば、どこでも神の御言葉である新旧約聖書を読み、その言葉による説教を聞くことができます。従って、今の時代の日本には夢による啓示がほとんどないと言っても過言ではないでしょう。神の啓示は個人に密かに伝えられるものではありません。誰か自分の夢を通して神が啓示されたという人がいたら、まずは疑いましょう。そして牧師に問い合わせてください。「真理の言葉を正しく分別」して啓示を私的に使おうとする者に注意してください。 締め括り これから創世記はヨセフが主人公として登場するようになります。ヨセフも曽祖父、祖父、父のように間違いの中で彼の歩みを始めました。しかし、主はこの未熟で取るに足らないヨセフを通して、偉大な主の歴史を作っていかれます。今日の説教で大切なこととして取り上げたのは、「一つ、神は悔い改める者を必ず守ってくださる。」「二つ、神の約束に従ってヤコブはカナンの滞在者ではなく、住人になった。」「三つ、御言葉を預かった者は謙虚に生きるべきである。」でした。いろいろありましたが、この三つが最も大事だと思います。これから繰り広げられるヨセフの物語を通じて神のご恩寵と御愛を味わっていくことを願います。創世記ももう後半です。残りの箇所も頑張りましょう。今週一週間も主の約束の中に、謙虚に生きる志免教会になりますように祈り願います。