人の子の栄光

ダニエル7章1-14節(旧1393頁) マルコによる福音書10章32-45節(新82頁) 前置き これまでの私の説教には、私たち自身の現実の生活を振り返り、「どうすればキリスト者らしく生きることができるだろうか」という質問が多かったと思います。そのため、私たちの人生の在り方。すなわち、「しなければならないこと」と「してはならないこと」に関する言及が多かったと思います。もちろん聖書を通じて生活の教訓を得ること、実践を追い求める教えを得ることは、とても重要なことだと思います。これからも私の説教では、そのような趣旨の内容が続いて伝えられるでしょう。しかし、今日の説教だけは、徹底的にキリストだけについて学ぶ時間になってほしいと思います。私たちが何をして、どのように生きるべきかについての実践的な説明よりは、キリストがなぜご自分のことを「人の子」と呼ばれたのか、「人の子」とは、どういう存在なのか、その「人の子」の「栄光」とは何であるか、私たちが「人の子」であるキリストの「栄光」に加わるということは、どういう意味なのか、そのような多少キリスト論的な内容を中心に話したいと思います。 1.人の子とは誰なのか? 今日の本文の始めには、イエスの死についての予告が出てきています。主は8章、9章、10章を通じて、ご自分の死について3回にわたって言われました。ところが、その度に弟子たちは戸惑いを覚えたように見えます。彼らが考えてきたメシアは政治的、軍事的にローマ帝国を圧倒する強力な存在であるべきだったのに、イエスは繰り返し自ら死ぬと断言されるからです。イエスを強力なメシアだと期待していた弟子たちにとって、イエスの死はあり得ず、あってはならないことだったからです。それにもかかわらず、イエスはご自分の死をますます強調し続けられたのです。マルコによる福音書8章でペトロは言いました。「あなたは、メシアです。」(8:29) マルコによる福音書には記録されていませんが、マタイによる福音書でイエスはその言葉を肯定されました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」(マタイ16:17)すなわち、福音書全体から見れば、主イエスはご自身がメシアであることを知っておられたに違いありません。それにもかかわらず、なぜイエスはメシアらしくなく、自らの死を認められたのでしょうか。それはまさにイエスが死ぬために来られたメシアだったからです。主はおっしゃいました。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10:45) 私たちはこの本文を通じて、主の奉仕について目を注ぎがちです。そして、それを根拠に私たちの他人への奉仕と善行の実践について強調しがちです。もちろん、そのような解釈をしても問題ないでしょう。確かに主は人類に仕えるために来られたからです。しかし、本文の場面は十字架の苦難を受けるためにエルサレムに上っている状況であることを見逃してはなりません。主は他者への奉仕とともに、その仕えの極みである贖いの死のために来られたからです。ところで、この本文で目立つ表現があります。それは「人の子」という表現です。主は福音書のあちこちで自らを「人の子」と呼んでおられます。それでは、この人の子はどういう意味を持っているでしょうか?そのために私たちは、まずダニエル書を確かめる必要があります。「夜の幻をなお見ていると、見よ、人の子のような者が天の雲に乗り、日の老いたる者の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない。」(ダニエル7:13-14)ダニエル書は、世界を治めるメシアの出現を「人の子のような者」と表現しているからです。人の子とは、ダニエル書7章に先立って登場する「四頭の大きな獣」と対比される存在です。獣がどんなに強力であっても、万物の霊長である人間を越えることは出来ないように、人の子は恐ろしい獣たちを圧倒する神的な存在なのです。「天の雲に乗り」という表現がこれを裏付けています。 聖書で「天、雲」は神の栄光と臨在を意味する表現であるためです。イエスが自らを人の子と呼ばれた理由には、まさにこのようなメシア的な意味が含まれているからです。普通、今日の本文の「四頭の大きな獣」は、当時のアッシリア、バビロン、ペルシャ、ギリシャ帝国を意味するものとして知られています。しかし、人の子であるメシアはその全てを圧倒する強力な存在として、神の御前に立つのです。しかし、人の子の働き方は人間の漠然とした望みである「すべてを圧倒する強力なメシア」そのままではありません。なぜなら、聖書で言う人の子は「人間の息子」という意味としても使われるからです。「そのあなたが御心に留めてくださるとは。人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。」(詩編8編4節)この詩篇の言葉の他にも、聖書で「人の子」という表現は、メシアの意味ではなく、ある一人の人間を意味する場合もあります。つまり、「人の子」には両面性があるということです。イエスは自らを「人の子」と呼ばれました。しかし、イエスは強いメシアとしての「人の子」であると共に、殺されうる弱い人間としての「人の子」でもある方なのです。ここで、私たちは神の働き方を見つけることができます。神は主イエスの弱さと強さ両方とも用いられ、神の御業を成し遂げていかれるのです。主イエスの弱さと死で、ご自分の民の強さと命を造り出していかれるのです。 「人の子」イエス•キリストは、そのような存在です。もともと誰も近づくことの出来ない神そのものである方でしたが、弱い人間の体を持ってお生まれになったので、死にうるようになった方です。もし、イエスが強いばかりの方なら、どのように人間の罪を償うために死ぬことが出来、もし、イエスが弱いばかりの方なら、どのように人間を死のくびきから救い出すことが出来るのでしょうか。神はこの「人の子」という表現の中にある、弱さと強さを適切に用いられ、ご自分の御業を完璧に成し遂げていかれるのです。神である主イエスは自ら「人の子」になり、罪人の側にあって弱くなられました。そして罪人に代わって死んでくださいました。また、主は自ら「人の子」になり、神の側にあって強くなられました。そして罪人を救い出し、命を与えてくださいました。したがって聖書で、この「人の子」という表現を見る度に自ら弱くなって罪人の傍らに立ったイエス、自ら強くなって神の傍らに立ったイエス、そして、それらの弱さと強さの間で神と人を執り成されたイエス・キリストを覚えてください。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10:45)この言葉を必ず覚えておきたいです。 2.栄光とは何か? 今日の本文で「人の子」と共にもう一つ考えてみたい表現がありますが、それは「栄光」です。本文で、ヤコブとヨハネ兄弟はイエスに大きな無礼を犯してしまいました。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」(10:35-37) 主イエスに、主の栄光の時に権力をくださいとわがままに要求したのです。主はご自分の死を語っておられましたが、なぜ、この二人の兄弟は自分たちの未来の権力に執着したのでしょうか。「イエスはこうお答えになった。人の子が栄光を受ける時が来た。」(ヨハネ12:23) このように、主はご自分の死を栄光と表現されました。おそらく彼らは今まで主イエスと同道しながら、主の死と復活の時に栄光をお受けになるという話を何度も聞いてきたでしょう。つまり、彼らは主が栄光の中で死んで復活し、また、この世を支配する真の栄光のメシアになり、ローマ帝国を倒すだろうと思ったでしょう。もし、そうだったら、彼らは主の栄光を完全に誤解していたと言えます。もしかしたら私たちも「主の栄光」を誤解しているかもしれません。栄光の漢字語自体が私たちを誤解させます。「栄の光」のような意味に感じられるからです。しかし、聖書が語る栄光は、そんな意味とは異なります。「栄光」のギリシャ語は「ドクサ」と言います。「ドクサ」は「意見、見解、考え、思い」などの意味の名詞ですが、その語源である動詞「トケオ—」は「ーについて考える。–と見なされる。」という意味です。 そして、聖書で使われる文法は「-について考える。-と見なされる。」という意味を超えて、「-に対する正しい見方を持つ。-という見方に影響を及ぼす。」という意味にまで展開されます。つまり、聖書が語る「主の栄光」とは、「主への正しい見方を持つ」という意味です。ただ、主の栄えた光を意味するのではなく「主イエスの存在理由を正しく知る」という意味です。先ほど「人の子」イエスは死ぬために来られたと話しました。イエスが人間の体を持って来られた理由は、罪人の代わりに死ぬためです。死んでこそ救うことが出来るようになるからです。イエスの復活も栄光ですが、復活のために死ぬこともイエスの栄光、すなわち「人の子」イエスが存在する理由なのです。それを正しく知ることから、はじめて主に栄光を捧げることが出来るようになるのです。聖書が語る栄光とは、ある存在が自分の存在理由に合わせて確実に生きていく時に成し遂げられるものです。御父は神として存在される時に栄光をお受けになります。つまり、父なる神は常に神であるため、神の栄光はすでに存在し、存在しており、これからも存在するでしょう。イエスは十字架で死に、復活して民をお救いになる時に栄光をお受けになります。主イエスはすでに民のために死に、再び生き返って栄光の中におられる方です。聖霊はキリストの教会を導かれる時に栄光をお受けになります。変わることなく教会を導いていかれる聖霊は、すでに栄光の中におられる方です。それなら人間の栄光は何でしょうか。造り主であり、救い主である主なる神を正しく知り、信じて、従う生き方、つまり創造摂理に忠実なことこそがまさに人間にとっては栄光なのです。 締め括り 今日の説教を通して、人の子についてはある程度説明が出来たと思いますが、時間の関係で、栄光については説明が少し足りなかったと思います。しかし、いつか、また「栄光」について話す機会があるでしょう。今日、私たちは「人の子」について、そして「栄光」について学びました。栄光の主イエス•キリストは、主の栄光のために、私たちのために、私たちの罪と共に死んでくださった弱い「人の子」であります。そして、その弱い主は、私たちの救いのために死から私たちの命と共に復活された、強い「人の子」でもあります。私たちはこのような弱いが強く、強いが弱い、そしてそのすべてを用いられて私たちの救いを確証してくださるイエス•キリストの民です。このイエスを正しく知り、その方の存在理由を常に心に留めて生きることこそが、まさに私たちキリスト者の栄光なのです。もし、今日の説教が難しく感じられたら、ホームページの説教文をもう一度確認してください。そして、もし説教原稿が必要でしたら教えてください。イエス•キリストについてより深く学び、悟っていく私たち志免教会になることを願います。この一週間も栄光の人の子であるイエス•キリストの恵みにあって生きていくことを祈ります。