ベトザタのイエス。

自由への人間の渇望。 1973年作の映画パピヨンをご存知ですか?無実の殺人の濡れ衣を着せられた主人公は、南米のフランス領ギアナの刑務所に連行されます。そして、そこから万死を冒して何度も脱出を敢行します。脱出する途中捕らえられ、日の当たらない独房に2年間も閉じ込められたり、めためたに殴られたり、あまりにも飢えて蜚蠊(ごきぶり)を捕って食べたりします。やっと脱出したのに、信じていた人の密告により再び捕らえられるなど、とても、辛い時間を過ごすことになりました。主人公は最終的にサメの群れに囲まれた、ある島の刑務所に移送されたりして、もろもろの苦難を嘗めました。それにも拘わらず、主人公は最後まで自由を求め、脱出しようとします。結局、映画は主人公が脱出に成功したシーンで終わります。この映画のテーマは自由でした。最後まで主人公が望んでいたのは、解放でした。そして彼を常に動かした原動力は、自由と解放への希望でした。 人間は老若男女を問わず自由と解放を追い求めます。この自由を得るために誰かは絶え間ない挑戦をしたり、誰かは命をかけたりします。しかし、自由は簡単に得ることが出来ません。大抵の現代人は、自分が自由に生きていると思うかも知れませんが、富の束縛、権力の束縛、名誉の束縛により、自分も気付かないうちに、現実の奴隷のように生きていると思います。 1位、或いは権力者でない限り、尊敬されることがない現代社会で『皆と異なったら、どうしよう?皆のようにお金を儲けることができなかったら、どうしよう?社会で独り負けになったら、どうしよう?』と怯えるあまり、最終的には安定した今の生活に満足し、これが正常だと思って、自ら自由を諦めてしまう場合もあります。結局、自分のことだけを考え、隣人への関心を持たないようになる場合もあると思います。このような現代を生きて行く私達にとって真の自由とは何でしょうか?今日の新約本文の物語を通して、真の自由とは何か?その自由を束縛するものは何か?そして、その自由への解放者としてのイエス・キリストは誰かについて考えてみたいと思います。 1.慈しみの家 – ベトザタ。 ベトザタはイエスの時代、当時のユダヤ人たちが使っていた池です。その意味は、「慈しみの家」でした。この場所は、実際に池というより水の貯蔵庫の方に近かったです。その大きさが神殿の貯蔵庫の次だったと言われます。何故かと言うと、このベトザタには、病人を治療する病院があったからです。手術と治療に用いるための綺麗な水が必要だったので、大きい貯蔵庫があったということです。ところで、ここには数多くの病人が集まっていました。なぜなら、そのベトザタに不思議な噂があったからです。今日の本文を読むと3節の次に、4節がありません。そして、そのまま5節に進みます。なぜでしょうか?まず、欠けた言葉をお読みいたします。『彼らは、水が動くのを待っていた。それは主の使いが時々、池に降りてきて、水が動くことがあり、水が動いた時、真っ先に水に入る者はどんな病気にかかっていても、癒されたからである。』これは、初めに書かれたヨハネによる福音書ではなかった箇所ですが、後、誰かによって加えられたものです。後といっても、古代の話ですので、現代になって操作されたものではありません。この内容は、日本語版のヨハネによる福音書の最後の部分に追加されています。 この言葉によると、ベトザタには主の使いが、時々天から降りてきて、水を動かすという噂があり、その水が動いた後、真っ先に入って行く人には、どのような病気でも癒される奇跡があったそうです。これが事実なのか、ただの噂なのかは分かりませんが、多くの人々が、自分の病気を癒すために、そこに集まっていたのは事実でした。その中には、今日の本文に登場する38年も病気で苦しんでいる人もいました。皆さん、この話を聞きながら、欠けた箇所の中にある『主の使い』という表現が気にならないでしょうか?愛の神様がなぜ、こんなにケチンボウのようになさったのでしょうか。私はベトザタが慈しみの家と言われているのに、皆を治さないで、1位だけを治す神、人々に虚しい希望ばかり、与える神が、本当に主イエスの父なる神様なのかと考えるようになりました。それでギリシャ語聖書5冊、英語聖書3冊を比べてみました。ギリシャ語の聖書では、『主の』の部分が一冊も無くて、英語聖書では、書かれたのもあるし、無いのもありました。たぶん、その『主の』は原文を翻訳するとき、追加されたかも知れないと結論を下しました。 イエスの時代のエルサレムはユダヤ教のみ、存在したわけではありません。エルサレムはローマ帝国の植民地としてギリシャ、ローマの宗教と文化も混ざっている所でした。イエスの当時のミシュナーというユダヤ文献から見ると、このべトザタは、ローマ神のための場所だったそうです。アスクレピオスはギリシャ、ローマの医術の神でした。杖にヘビが巻き付いている絵をご覧になったことありますか?今日、週報にも乗せられている絵です。これはアスクレピオスの杖です。考古学者たちによって、このアスクレピオスと思われる神像がべトザタで見つかったと伝わっています。べトザタは慈しみの家でした。しかし、その慈しみは、私たちが信じる、イエスの父なる神様の慈しみではなく、ギリシャの神の慈しみだったかも知れません。病人たちは、このギリシャの神像を見て、その神の天使が天から降りてきて、水を動かしてくれることだけを切に待っていたのでしょう。慈しみの家という名の場所で、僅か、一人のみに施されるケチな慈しみを眺めながら、一生を捧げた病人たち。実際にアスクレピオスの天使が降りてきて、水を動かしたのか、どうかは分かりませんが、人々は病気からの自由という希望を持って、生涯、偽りの神を待っていました。その偽りの神を通して得る自由は、非常に限定的であり、競争的でした。ただ1位のみ得ることが出来る慈しみでした。ベトザタの慈しみは、果たして真の自由と慈しみだったのでしょうか? 2.ベトザタの束縛された者。 ベトザタの病人はたぶん、イエスの時代の最もどん底に束縛されている弱者だったかも知れません。その時代、イスラエルの政治は純粋ではありませんでした。ダビデの子孫、ユダ系列の人ではなく、異民族出身のヘロデ王に統治されており、彼の力でさえも、ローマ帝国に許されたものでした。当時、ヘロデは神殿をより大きくて華やかに改築しましたが、実際には、イスラエルのためでなく自分の政治的権力と人気のためのものでした。宗教も純粋さを失っていました。イスラエルの神様から与えられる託宣は現れず、ユダヤ教の宗教指導者たちの富と権力と名誉のためのものとなってしまいました。社会的な状況も、純粋ではなかったです。富む者はさらに富み、貧しい者はますます貧しくなりました。貧しい者たちの反乱もよく起こりました。イスラエルは、親のない孤児のようであり、夫のない寡婦のようであり、住まいのない旅人のようだったのです。そのような状況、病人や障碍者は更に疎外され、自分たちの罪によって、神に呪われたという蔑視も受ける存在でした。そんな彼らには真の慰めと自由と慈しみが必要でした。権力者たちは、彼らに興味がありませんでした。極めて弱い彼らに何の助けの手もありませんでした。彼らがそのような状況から抜け出すことが出来る何の救いもありませんでした。彼らは死ぬまで病人、弱者として生きることが定まっていました。  彼らは二つの束縛の中にいました。まずは、1位でない限り、抜け出せない政治的、社会的な束縛でした。 『彼らは、水が動くのを待っていた。それは主の使いが時々、池に降りてきて、水が動くことがあり、水が動いた時、真っ先に水に入る者はどんな病気にかかっていても、癒されたからである。』の病気によって苦しむ者が病気から自由になるためには、まず水に入らなければならないという前提を持っていました。スリを働く途中、指を痛めた人が足早に水に入ると治されたということです。他者に暴力を振るいながら、怪我をした人も、先に入ると癒されたということです。しかし、生まれながら足を使えなくなった人や、残念な事故によって目の見えない本当の弱者は、治されなかったということです。いくら悪い人でも1位なら、治されるシステムでした。公平ではありませんでした。社会は彼らのために何もしてくれませんでした。ただ、確証のない噂を信じろという傍観。しかも偽りの神への信仰の強要だけで、何の希望も与えませんでした。 また、宗教的、文化的な束縛がありました。 罹って38年になった病人が、イエスによって癒された後、ユダヤ人たちは、彼の回復を祝いませんでした。神に感謝もしなかったのです。彼らは自分らの教義を突きつけ、『今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。』と無慈悲な話しかしませんでした。彼らにとっては、病人の回復、希望、幸せは何の意味もなかったのです。苦しむ病人の回復なんかは大事ではなく、ただ彼らに重要なのは、自分たちの考えに合わない現実に対する否定的な判断だけでした。そもそも病人の痛みに関心がなかったので、彼らの癒しにも関心がありませんでした。そして、却って、このような弱者を助け、治した者を罪人として扱い、迫害しました。正しくない世界で、何の慰めも得られなかった弱者の命を、誰も大切に扱っていなかったということです。ベトザタの束縛は、単なる個人の問題ではありませんでした。それは社会が持っていた問題であり、社会が作っていた束縛でした。ベトザタの病人は、そのような束縛から絶対に逃れることが出来なかったでしょう。 3.ベトザタの解放者。 こんなに地獄のような現実、1位だけが逃れることが出来たべトザタの池、そして、そのべトザタの池の不条理に知らないふりをしていた指導者たち、そこから抜け出しても、情けの無い基準を挙げて判断し、非難した宗教人たち。もはやベトザタは慈しみの家ではなく、イスラエルの政治、社会、宗教、文化の便所のような所だったかも知れません。誰にも歓迎されない弱者をゴミのように脇に置き、神話みたいな噂を希望とさせ、死ぬまで閉じ込めておく下水道だったかも知れません。そこは慈しみも、公平さも、希望でさえも無い墓のような所ではなかったでしょうか。しかし、このように最も低い所に神の御子が臨まれました。しかも、ユダヤ人の祭りの日でした。皆が高い所、明るい所、すっくと聳え立った神殿を憧れたとき、神殿の真の持ち主であるイエスは、誰も見ていない最も低い所、暗い所、ベトザタをご覧になったのです。 そして、到底1位になれない38年の間苦しんでいた病人に手を差し出されました。『イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、良くなりたいかと言われた。』(ヨハネ5:6)イスラエルの下水道のような低いところに臨まれたイエス様は、その中でも最下位に注目されたのです。そして、彼が最も望むことを語られました。「あなたは良くなりたいですか?」その時、病人は治されることを求めませんでした。ただ、自分の惨めさを告白するだけでした。誰も自分を助けてくれなかったことを話しています。すると、イエスは彼の話をお聞きになり、最も低いところで苦しんでいた彼に回復を許されました。その時、彼は38年という長い年月の間に自分を苦しめた病気から、自由になります。そして、ベトザタという1位だけを覚える地獄から解き放されました。政治、社会、宗教、文化から見捨てられた人が、イエス・キリストの慈しみによって新しい人生を始めるようになりました。  しかし、彼が治されたにも拘わらず、人々は喜んでいませんでした。帰って安息日に律法を犯したと叱りました。誰が彼を安息日に直したのかと迫ります。誰が安息日にそのようにしたのか、と問いただしてイエスを迫害し、殺そうとします。しかし、イエスは言われました。『わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。』(ヨハネ5:17)いくら世の不条理と悪が暴れても、イエスは淡々と言われました。「君たちがいくら暴れても、私は私の父が今もなお働かれるように、働く。」イエス・キリストは、束縛と抑圧の下で苦しんでいる人たちを、自分の名誉、権力、富とは関係なく、ただ治してくださいました。そして、自分の命までも投げ出されました。偽りの慈しみに束縛されている者を、喜んで回復させたイエス・キリストを通して、神の真の慈しみが、その日、エルサレムに臨んだのです。最も低いところで、いつも働いておられた神様の豊かな恵みが解放者イエス・キリストを通して、その地に臨んだのです。 解放者イエス・キリスト。 今日の旧約本文は第2イザヤ書に記されているメシアの働きを示す箇所です。第2イザヤ書はイザヤ書40-55章の言葉です。その前の第1イザヤ書の内容とは時代的な違いがあります。特に、バビロン捕囚の時と多くの関連があります。そういうわけで、解放者メシアへの歌が多く登場します。国を失って束縛の中で苦難を受けたイスラエルに神は言われました。 『彼らは飢えることなく、渇くこともない。太陽も熱風も彼らを打つことはない。憐れみ深い方が彼らを導き、湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。』(イザヤ49:10)神のメシアが臨まれれば、ご自分の民を正しい道、湧き出る水のほとりのような自由へ導かれるでしょう。そういう意味で、メシアとして来られるイエス・キリストは解放者です。イエス・キリストは、罪による差別と偏見と嫌悪に満ちている束縛の世界に自由を与えてくださる、真の解放者です。ですから、イエス・キリストのおられるところには自由があります。その自由は差別、偏見、嫌悪からの自由であり、誰もが人間らしく生きることが出来るようにする真の自由です。そのような人間らしい生活を施すために、イエス・キリストは、解放者として来られたのです。 このイエス・キリストを主と告白するキリスト者の在り方は、どうあるべきでしょうか?キリスト者である私たちは、もしかしたら1位ばかり、高いところばかり、明るいところばかり憧れているのではないでしょうか?冷暖房が完備された教会堂で礼拝したり、聖餐を分けたり、賛美したりしながら、満足しているではないでしょうか?世界3位の経済大国の一員という姿に満足しているのではないでしょうか?果たして私たちは、周りの困っている人々への配慮と愛を抱いているでしょうか?我が町の誰かが差別を受けているではないか、苦しんでいるではないか?政治家たちが善を行なっているか、悪を行なっているか?我が国、我が町が、どのような歩みをしているのか?キリスト者なら、悩むべきだと思います。もし、このような悩み抜きで信仰生活をしているならば、今もなお最も低い所から人を救っておられるイエス・キリストは私たちをどのように考えられるでしょうか?解放者イエス・キリストは、教会だけの解放者ではありません。彼は全世界の解放者です。主イエスの体なる教会である志免教会は、イエス・キリストの心に従って、正義と愛を持って隣人、政治、社会、文化、宗教など、全領域を省みるべきだと思います。イエス様が下さる真の自由と慈しみが志免教会を通して、ここ、日本、福岡、志免に現れることを切に望みます。