祈りを教えてください。

歴代誌下7章14節(旧679頁) マタイによる福音書6章5-8節(新9頁)  祈りを教えてください。 前置き 祈る人の例え話し。 ディートリッヒ・ボンヘッファーは、ドイツの有名な神学者です。彼はナチスが支配していた、ドイツ教会のルーテル教会の牧師でした。 21歳で神学博士になるほどの素晴らしい人材でした。このボンヘッファー牧師は、いくらでも楽な道を選ぶことが出来る人でした。第2次世界大戦の当時、アメリカの市民権を得て、帰化することも出来る状況でした。しかし、彼は神の御前で正しい道を行くべきだと思いました。ですので、彼はナチスドイツに戻って行くことを選んだのです。当時、ドイツはナチスによって暴力の道を歩んで行きました。数多くの命を虐殺しました。また、殆どのドイツ教会がナチスの下にありました。その時、ボンヘッファーはこう思いました。 『気違いの運転手がバスを運転している時、牧師は車に轢かれて死んでいく人を葬ることだけに満足すべきだろうか?それとも、その運転者を引き下ろすべきだろうか。』そして、彼はヒトラーの失脚のために、ある作戦に協力します。しかし、作戦は失敗してしまい、ボンヘッファーは逮捕され、2年後、刑場の露と消えました。 このボンヘッファーは夜明けごとに神様に祈ったそうです。祈りを通して、どっちが正しい道なのか、いつも悩んで生きたそうです。なので、今も彼を尊敬する人が非常に多いそうです。私も尊敬せざるを得ません。そんな彼が祈りについて、このような話を残したと言われます。 『私たちが虚しく費やした時間、堪えられなかった誘惑、弱さと落胆の中で生きること。私たちの生活の中で示される放縦は、多くの場合、朝の祈りを疎かにすることにあるかも知れない。』自分の安泰と出世よりも、どの道が正義の道なのか、悩み、自ら厳しい道を選び、結局、殉教して人生を終えたボンヘッファーは、祈ることにより、自分自身を叱咤しながら生き続けました。そして、その祈りの生のために殉教して生を終わります。祈りというのは願いを叶えるための打ち出の小槌ではありません。祈りとは、神様と信徒の連結の輪です。時には命をかけて守るべき、神の真理の追求です。私たちの祈りはどうでしょうか?今の私たちの祈りが、果たして神様に喜ばれる祈りなのかどうか、考えて見るべきだと思います。 1.我々の祈りは、イエス・キリストを通して、天に上げられます。 「あなたは天からその祈りと願いに耳を傾け、彼らを助けてください。(歴代誌下6:35)」ソロモン王はエルサレムに神殿を建て、民を代表して祈りました。歴代誌下6章を読むと、ソロモンの祈りを読むことが出来ます。今週は、歴代誌下6章と7章を丁寧に読んでいただくことをお勧めします。神殿を完成したソロモン王は、神殿を眺めながら、その神殿で祈る時、神様がご自分の民を哀れんで、助けられ、最後まで導いてくださることを願いました。ソロモン王はイスラエルの神様だけがイスラエルの主であり、助けてくださる全能者だと認めて祈りました。すると、神様はその夜にソロモン王に現れ、今日の旧約本文に記されているように言われたのです。 『もし、私の名をもって呼ばれている私の民が、跪いて祈り、私の顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、私は天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地を癒す。』(歴代誌下7:14) 神様はソロモン王が捧げた神殿をご自分の民の祈りを聞かれる場所、特別な場所にされました。 「今後この所で捧げられる祈りに、私の目を向け、耳を傾ける。 今後、私はこの神殿を選んで聖別し、そこに私の名をいつまでも留める。私は絶えずこれに目を向け、心を寄せる。」(歴代誌下7:15-16)、イスラエルの神殿は、特別な所です。実際、神殿という概念は、出エジプト記の時代にもありました。その時は、幕屋と呼ばれる小さな一時的な建物でしたが、そこには、神がじかに刻んでくださった十戒の石板が入った契約の箱を置いた聖なる場所でした。契約の箱は神の足台とよばれましたが、これは神様がこの地上に直接、関わっておられるということを意味します。人間の罪のゆえに、神様との関係が切れたこの世の中に、神様は積極的に関わられ、特に神様が選ばれた民と一緒におられることを意味する、神の臨在を象徴する建物でした。ところで、ソロモン王は、その幕屋を更に大きくアップグレードして、そこから神様が「神の名をもって呼ばれている神の民」と共におられることを望まれたということです。ですが、これは、単にイスラエルの民だけに限られることではありません。周りの他の民族が神殿に来て、神の御前にひれ伏し、主を認めて、へりくだって祈る時、彼らの祈りも聞かれ、癒してくださり、あの神殿を救いの象徴とされるという意味です。神様はこのように旧約時代から神殿を通して、主の民と、また主に戻ってくる異邦人たちを問わず、共におられる方でした。 神殿で祈るとき、神様は祈る者を助けてくださり、癒してくださると仰いました。それでは、この神殿というものが持っている意味を、現代のキリスト者は、どのように理解すべきでしょうか?私は前に他の説教を通して、旧約聖書に記されている神殿が新約のイエス・キリストを意味する重要な象徴であると強調しました。これは新約聖書からも知ることが出来ます。 『イエスは答えて言われた。この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。』(ヨハネ2:19-21)旧約聖書の神殿は、神様がご自分の民に会ってくださる所でした。神様の民も、神様を認める異邦人も、この神殿に来て、神の御前で祈ることが出来たのです。もちろん、イエス・キリストは、建物ではありません。しかし、象徴的に見ると、イエス様を通して、私たちの祈りが神様に届きます。神殿は祈りの家でした。祈りを通して神様に会う所でした。そして、私たちが生きている今、現代は、神様が神殿だと認められたイエス・キリストを通して祈ることが出来るようになりました。私たちが祈りを終える時、いつも「主イエス・キリストの御名によって祈ります。」と唱えることには、このような意味が隠れているのです。昔の神の民は、神殿で祈りました。つまり、私たちはイエス・キリストの御名によって祈るべきです。別の名を介しては、私たちの祈りが父なる神様に至ることが出来ません。神様が「私の名をもって呼ばれている私の民」と言われた部分を思い起こして頂きたいと思います。私たちが神様が許された、その名前、イエス・キリストの名によって祈るとき、私たちの祈りは、神殿で捧げられた神の民の祈りとなるのです。 2.私たちの祈りは、神の御心に自分の心を合わせる調律です。 今日の新約本文は、イエス様が弟子たちに「主の祈り」を教えてくださる前に言われた言葉です。「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(マタイ6:6)イエス様の時代には、ラビや宗教指導者が広い街や、神殿の庭で他者に目立つように大声で祈る場合があったと言われます。そのような祈りを通して、「私はこんなに素敵な祈りをする。律法についてよく知らない、君たちより、私ははるかに義人である。私は君たちとは違う。」ということを見せて、自分の義を誇るためでした。しかし、イエス様はむしろ、小部屋に入って、ひそかに神様に祈ることを命じられました。祈りは他者に見せるために、あるいは自分自身の欲望を満たすためにすることではありません。 旧約時代、神殿では祭司が1日3回の祈りをささげたそうです。これは、ある種の目に見えない生け贄でした。まるで犠牲の獣を屠って、神様に祭事として捧げることのように、この祈りを通して、自分自身を神様に捧げたということです。獣を屠り、その血を祭壇に振り掛け、神様に生け贄を捧げることのように、祈りを通して自分の欲望、悪、罪を徹底的に棄てて、自分は神に捧げ、神様に相応しい新しい者として生きていくことを切に願うという行為でした。このような意味としての祈りは、むしろ義を誇るのではなく、自分の不正なことを神様に告げる行為であり、悔い改めの行為でした。ところが、当時のラビや宗教家が人々の前で自分の義を誇るというのは、祈りの精神を非常に損なう行為でした。イエス様は、そのような祈りは、間違っているものであり、正しくない行いであることを教えてくださったのです。 皆さん、祈りは調律です。演奏者は、演奏の前に基準音に合わせて調律をします。オーケストラの公演に行くと、公演を始める前に、オーボエ奏者が『ラ音』を出すそうです。この音に合わせて全ての楽器は調律します。これが基準音です。祈りは、神の基準音、すなわち、神の御心に、信徒が自分の基準を合わせる行為です。祈りを通して神様の御心を基準音として認め、それに従って生きていくということです。ですので、私たちは、調律の祈りをするべきです。自分自身の欲望と罪を神の御前で抑え切って、神の御心に沿って行くことを求める行為です。だから、自分の願いを叶えようとする意図だけでは、完全な祈りを捧げることは出来ません。もちろん、私たちは、経済、子供、健康、人間関係のために祈る必要があると思います。しかし、その祈りは私たちの弱さを告白する祈りとなる必要があります。自分が金持ちになり、権力者になって、欲を満たす祈りではなく、自分の祈りを通して、経済、子供、健康、人間関係への自分の弱さを告白するということです。叶えてくださるにせよ、拒まれるにせよ、神様に自分の事情を打ち明けることが大事だということです。そして、神様が与えられるお答えに応じて、願いが叶っても感謝し、叶わなくても感謝することが重要です。そして、そのような祈りの中で最も重要なことは、神様の御心が何かを悟り、それに自分の心を共に重ねていくことです。イエス様はこのような調律としての祈りを強調されたのです。 3.主に寄り掛かって祈りましょう。 皆さん、神様はイエス・キリストを現代の神殿にされました。私たちが主に頼って祈る時、その祈りを聞いてくださいます。皆さん、この教会堂は神殿ではありません。ただ建物に過ぎないのです。もし、この教会堂がなくても、我々は公園に集まって、礼拝することが出来ます。誰かの家に集まって祈ることも出来ます。会堂がなくても礼拝も、祈りも可能です。しかし、神様が私たちに与えられた真の神殿であるイエス・キリストがなければ、私たちの祈りは、一かけらも御父に届くことが出来ないのです。皆さん、また祈りは神の御心に自分の心を合わせる調律です。神が臨んでおられることを自分の基準にして、その基準に自分を合わせることです。その基準に合わせて、神様は私達の願いを叶えてくださったり、拒んだりするのです。しかし、その神様の御心に従って、叶っても感謝、叶わなくても感謝する成熟した信仰を持っている私たちになりますように心から願います。 皆さんの祈りましょう。イエス・キリストに頼って祈りましょう。そして、その祈りを自分の欲望と必要だけのためにせず、神様の御心が何なのか?自分がどのように神の御心を悟って行くべきだろうかについて祈りましょう。 『あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。』(マタイ6:8)神は、すでに私たちに何が必要なのかがご存じです。神の御心に合わせて、私たちに必要な祈りを聞かれ、その願いを叶えてくださると信じます。しかし、時には、自分の思いが神様の御心に合わない場合、拒まれるかも知れません。でも絶望せず、神様の正しさを信じて従って行きましょう。神は、あなたを愛しておられます。神は、あなたが最も良い道に行くことを望んでおられます。私たちに良いものを与えてくださる神様を信じて、私たちは何を祈って行くべきかについて、毎日、へりくだり、主に伺って行きましょう。その時、神様は私たちに最も必要なものを喜んで答えてくださるのでしょう。 締め括り 今後の祈りを通して、私達の人生を通して、神様が許されたイエス・キリストの御名によって、神様に自分を捧げて、神の御心に自分を合わせて、へりくだって真実な祈りを捧げたいと思います。私もこのような祈りの生活で皆さんと一緒に祈って行きたいと思います。常に神様の御心に集中し、その御心を私達の基準として生きて行きましょう。真実な祈りを持って神様に喜ばれる志免教会になりますように祈ります。