カナでの婚礼とイエスの最初のしるし。

カナでの婚礼とイエスの最初のしるし。 前置き 水が葡萄酒に変わったことを、偉大なしるしだと言えるのか? 皆さんはどんなお酒がお好きですか?私は鰻丼と楽しむエビスビールが一番好きです。恐らく多くの社会人が仕事の後、自分の好きな摘みと、お酒1杯でストレスをほぐすでしょう。酒は人間が造った最高の発明品の一つかも知れません。酒は人間の歴史と共に、古代から続いてきた、非常に重要な飲み物です。創世記では、箱舟に乗って命を取り留めたノアが地面に降りて、最初にしたのが、葡萄栽培だったと記されています。そして、ノアはその葡萄で葡萄酒を作って飲んだそうです。バビロン、ペルシャ等の古代帝国には、ワインを管理する高位役人があるほど、酒の価値は重要だったそうです。古代エジプトでは、労働者の給料としてビールを払ったという記録が残っているそうです。日本でも新しい天皇の即位のための大嘗祭の時、供え物として白酒と黒酒とがあると知っています。韓国でも先祖を祭る時、新米で作った酒を差し上げます。このようにお酒は、古代から現在まで、人間の文化と深い関係を結んでいる飲み物です。 そうかといって、飲酒を勧めるわけにはいかないでしょう。お酒には、副作用も多いからです。飲みすぎで病気にかかったり、慢性アルコール中毒で家庭が壊されたり、酒による犯罪などが起こったりする場合もあり、お酒が原因である事件事故が少なくないと思います。ところで、今日の本文を見ると、イエス様が水を葡萄酒に変えるしるしを行われたと記されています。そして、水を葡萄酒に変えたしるしを通して、イエス様が、ご自分の栄光を現されたと語っています。水が葡萄酒に変わるのは確かに驚くべきことですが、酒に悪いところもあるのに、なぜ、これに対して素晴らしいしるしを行い、栄光を受けるべきだと褒めているのでしょうか?イエス様が主人公だといって聖書が肩を持っているのでしょうか?決して、そうではありません。今日はカナでのしるしを通して、聖書が何を示そうとしているのか、この出来事が、私たちにどんな益を与えるのか、皆さんと話してみたいと思います。 1.聖書での結婚とは? 今日の話を通して、まず、この出来事の背景である結婚式について考えてみたいと思います。まず知っておくべきことは、聖書に出てくる、ほぼ全ての物語にかけて当時の文化に対する基本的な知識を知っておく必要があるということです。そして何よりも聖書に記された言葉の一つ一つに何の意味が隠れているかを認識すべきだということです。聖書に記されている結婚というものは、一体何の意味を持っているでしょうか?結婚式は新しい始まりを意味します。結婚式は花嫁が花婿によって新たに生まれることを意味します。日本の殆どの場合、妻が夫の名字に従っています。もはや父の名字を使わないようになります。離婚しない限り、最後まで夫の名字を使うのです。聖書が記された時代も、これに似ていたようです。結婚によって、妻は夫に従属し、妻の生活は父中心から夫中心に変えられたのです。もちろん、今はフェミニズムなどの思想により、だいぶん変わったと思いますが、聖書が記された時期には、そうだったということです。 聖書は、この結婚式という言葉を象徴的に用い、神に背いた民が、神のもとに戻ってくることを喩(たと)えたりします。『恐れるな、もはや恥を受けることはないから。うろたえるな、もはや辱められることはないから。若いときの恥を忘れよ。やもめのときの屈辱を再び思い出すな。 5あなたの造り主があなたの夫となられる。その御名は万軍の主。あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神/全地の神と呼ばれる方。』(イザヤ54:4-5)『それから天使はわたしに、「書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」と言い、また、「これは、神の真実の言葉である」とも言った。』(黙示録19:9)聖書での結婚式はこのように、罪人への赦し、死者の蘇り、弱い者が強まること、神の恵みと愛などとして解釈される場合があります。神様がイエス・キリストを直に遣わされ、罪人の夫となるようにしてくださり、罪人を赦してくださり、この地上に神の愛と恵みを施してくださるという意味として、この結婚式が使われたということです。 そういう意味で、カナでの婚礼は非常に深い意味を持っているのです。花婿、イエス・キリストが来られたのは、聖書を読む、全ての読み手をキリストの花嫁として招くという意味だからです。ヨハネによる福音書の婚礼が、誰の結婚だったか、明らかには分かりません。しかし、確かなことは、この物語の中では、私たちは婚礼に現れられたイエス・キリストを見つけられるということであり、イエス様の最初のしるしが、この婚礼で起こったということがわかるということです。この婚礼のしるしを通して、今後ヨハネによる福音書で活躍されるイエス様は、罪人の花婿として贖いと愛を宣べ伝えられるでしょう。この婚礼の物語を読む私たちは花嫁の席に招かれた存在です。イエス様は、婚礼の真の花婿として、私たちを御迎えくださるでしょう。果たして私たちが、このイエス・キリストの花嫁に相応しく生きているのか?この婚礼の話を読みながら、花婿イエス様をしっかりと迎えているかどうか考えてみる時間にしたいと思います。 2.聖書での葡萄酒とは? 花婿として来られたイエス・キリストの物語を通して、私たち、教会を花嫁に召された主の恵みについて考えてみました。本当に感謝と賛美をすべきお招きだと思います。ところで、その結婚式と水を葡萄酒に変えることは、何の関係があるでしょうか?パレスチナで葡萄はとても重要な作物です。葡萄はパレスチナの高温乾燥した気候に良く適合する植物です。葡萄栽培は古代イスラエルの経済に大きい比重を占めるものでした。葡萄はイスラエル民族の繁栄の象徴だったのです。日本で豊作を象徴するものは何でしょうか?おそらく、お米ではないかと思います。パレスチナでは、その豊作の象徴が葡萄だと言っても過言ではないでしょう。そのため、聖書で葡萄が持っている重要さは、私たちが考えているデザート用くらいの果物のレベルとは違うと思います。葡萄は、イスラエル人の生活であり、喜びであり、豊かさであります。つまり、この葡萄に含まれていた意味は、神からの至福と愛だったのです。葡萄酒は、まさにこのような葡萄を持って作り上げた神様が与えられる喜びの象徴でした。 イエスの時代のパレスチナでの結婚式の葡萄酒は非常に重要なものだったそうです。葡萄酒はお客を手厚くもてなす道具だったからです。婚宴で葡萄酒が足りないということは、お客に対する侮辱とされることで、ひどい場合は法律的な問題になり、訴えられる場合もあったそうです。それほど結婚式での葡萄酒は意味のあるものでした。聖書で葡萄酒が持っている意味は、多いです。特に重要なのは、メシアの到来、神様から与えられる祝福と恵み、喜びなどです。イエスの時代、イスラエルで葡萄酒は、先にお話しました葡萄以上の喜びの象徴でした。二人の人生が一つになる、最も嬉しい儀式である結婚式は、それ自体で、目出度いことであり、周りの人も一緒に喜ぶべき良いものです。このような目出度い結婚式に喜び、祝福、豊かさを象徴する葡萄酒が加わることは、この上無い喜びを象徴するのではないでしょうか? ところが、このような結婚式で葡萄酒が無くなってしまうということは、そのような極めて喜ぶ状態に冷や水を浴びせる残念なことになるでしょう。ですが、このような状況で、イエス様は、水を葡萄酒に変えるしるしを行われました。イエス様はこの世には、全く存在しない豊かさをくださるために来られたかたです。水のように何の味もないこの世に葡萄酒のような神様の豊かさと喜びをくださるために来られたのです。聖書での水は、時々死を象徴したりします。主はこれらの死が満ちた世界を喜びの葡萄酒のように変えるために来られたのです。罪によって神から離れたこの世で、孤児のように生きる人のために父になってくださる御父、寡婦のように生きる人のために花婿になってくださるイエス・キリスト、連れ合いのない人のために友達になってくださる聖霊。イエス・キリスを通して罪人と共に歩んでくださる三位一体なる神様は水のように何の味もない世界に葡萄酒のような喜びと豊かさを与えてくださいます。今日のカナでの婚礼のしるしは、単に水が酒に変わったという不思議な話しを聞かせるためのものではありません。単に水を酒に変えることは、ギリシャ神話にもある話しです。この物語が持っている、より重要な意味は、罪によって何の希望もない世界にイエス・キリストが来られ、神様だけがお与えになることができる喜びと豊かさを許してくださったということです。そして、その喜びと豊かさに満たされた新しい世界を造って行かれることを予告する出来事だと考えることができるでしょう。葡萄酒は、神様が与えてくださる喜びと豊かさの象徴です。 3.イエス・キリストの最初のしるしが持つ意味。 まず結婚式と葡萄酒を通して、今日の話しをまとめたいと思います。今日ヨハネによる福音書の本文には、このような言葉が出てきます。 『イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた』(ヨハネ2:11)『最初のしるし』という言葉の『最初』とはギリシャ原文の『アルケ』という言葉です。創世記1章やヨハネによる福音書1章に出てくる『初めに』が、まさにこの「アルケ」であります。これは、一番、二番のような順序を意味することもありますが、また、『最も根源的だ。』という意味でも使えます。カナ婚宴のしるしは、水のような世界を葡萄酒のように変えていかれるイエス・キリストの栄光を示す、最も根源的なしるしであるという意味です。イエス様の公生涯を力強く始めさせた出来事なのです。罪人の救い主であられるイエス・キリストが、この世の歴史に登場されたという意味です。主がおられるところには、他の存在から与えられない豊かな喜びがあるでしょう。葡萄酒が無くなって失敗直前の結婚式のような世界が、再び元気を得、豊かになるでしょう。イエス様が水を葡萄酒に変えられたしるしはまさにそれを象徴するものでありす。 今日の旧約本文である創世記の言葉です。『王笏はユダから離れず、統治の杖は足の間から離れない。ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う。彼は驢馬をぶどうの木に、雌驢馬の子を良い葡萄の木につなぐ。彼は自分の衣を葡萄酒で、着物を葡萄の汁で洗う。』(創49:10-11)、イスラエルの先祖ヤコブが自分の息子ユダに遺言を残しました。ユダの子孫からシロ、即ちメシヤが臨むという内容です。ところで、この遺言でも葡萄の木と葡萄酒が出て来ます。葡萄の木の枝は割と弱い方です。家畜を繋げば、木が壊されるかも知れません。それでも、驢馬を繋ぐというのは、葡萄の木が豊かにある同時に非常に強く育って驢馬でさえ、折ることが出来ないほど豊作であることを意味するでしょう。また、葡萄の栽培が豊作なので、貴重な葡萄の汁に服を洗濯しても、残るほど、葡萄があふれているということを意味します。メシアが来られれば世が、変わるという意味でしょう。神様が与えられる喜びと豊かさが、この世にいっぱいになるでしょう。この創世記の預言に呼応して、真のメシアであられるイエス・キリストが来られ、カナの婚宴を通して、その始まりを示してくださったのです。 締め括り 我らの人生の葡萄酒は何ですか? ところで、説教を作成している途中、一つの悩みが生じました。私がいくらイエス様は、我らの花婿、葡萄酒だと声を限りに叫んでも、この世の中には、結婚式とか葡萄酒のような喜びと豊かさを享受出来ない人が、あまりにも多いということです。果たして私たちの人生の中で、この葡萄酒として象徴される喜びとは何でしょうか?毎日繰り返される生活、そんなに特別ではない人生、時には安らかではない状況を見て、果たして葡萄酒のようなキリストの恵みというのは、存在するのだろうかと疑うかも知れません。しかし、私はそのような状況の中でも、私たちを諦められず、常に共におられる神様の存在自体が葡萄酒のような豊かさではないかと思います。 私たちは、私たちがどこから来たのか、どこに行くのかということ、誰も知らない自分の苦しみと痛みを、神様だけは知ってくださること、いつも慰めてくださり、愛してくださることを知っています。まさに私たちに神様という喜びと豊かさの葡萄酒を与えてくださったイエス・キリストを通してですね。今、私の人生が輝いていなくても、その暗い挫折と痛みの場で、いつも私と一緒におられる、揺るがない神様を覚えてください。私たちの人生の葡萄酒は、まさに私たちと永遠におられる神様です。神様は、ご自分のご計画に従って、葡萄酒のような豊かな恵みを、ご自分の民の上に注いでくださると信じます。そして、これらの神様の愛は、私たちがこの世を去った、その後も絶えずに続くでしょう。その神様を信じて生きていきましょう。来たる一週間、花婿イエス・キリストから送られる豊かな恵みと愛がありますように祈ります。