悔い改めとは。

エレミヤ書3章22節 (旧1179頁) マルコによる福音書1章14-15 節 (新61頁) 前置き マルコによる福音書は、イエスを信じているという理由だけで、ローマ帝国の迫害を受けて絶望していた、当時のキリスト者に、神は変わらない方でおられ、その独り子イエスも、これまで通り信徒たちと一緒におられるという希望のメッセージとして記録された書です。そのため、マルコによる福音書は一切の美辞麗句をそぎ落とし、最も重要な神の愛とキリストの福音について、力強く証ししています。マルコによる福音書の冒頭では、イエス様が、ご自分の民キリスト者と共にいてくださるために、メシアでいらっしゃるにも拘わらず、罪人が受けるべき洗礼と試練とを御受けになることによって、信じる者と一緒におられることを語りました。イエスは今日もまた、主の体なる教会と共におられ、教会の試練と苦しみを同じように体験しておられます。私たちは、マルコによる福音書の言葉を通して、ともにおられるイエスの御心を感じることが出来ます。このような愛と恵みの主を覚え、変わることなく、生ける主を仰ぎ見て、生きていきましょう。今日は、イエスを信じる者に促された福音と神の国、そして、悔い改めについて話してみたいと思います。 1.福音 – ユーアンゲリオン 皆さん、オリンピックといえば、どの競技を最初に思い浮べられますか?いくつかの種目があるでしょうが、私はオリンピックの花と​​呼ばれるマラソンが一番に初めに思い起こされます。マラソンという言葉は、地名に由来したもので、ギリシャの首都アテネから40キロメートルくらい、離れている人口9000人ほどの小さな町の名前です。約2500年前、アテネを侵攻したペルシャ帝国はマラソン市の周辺の野原でアテネの兵士たちと戦いました。アテネから11000人、ペルシャから15000人の大規模な戦でした。アテネは勝利に向かって真剣に戦いました。アテネの市民も心から勝利を願っていたはずでしょう。その願いが聞き届けられたのか、最終的には数的劣勢にも拘わらず、アテネ軍がペルシャ軍に大勝利を収めました。勝報を伝えるメッセンジャーはアテネの勝利を伝えるために、喜びをもってアテネに走り出しました。彼は一度も休まず、40キロメートルも離れているアテネにひた走りしました。結局、彼はアテネに到着して勝利のニュースを伝えて、倒れ息を引き取ったそうです。これに由来した陸上競技が、まさにマラソンなのです。マラソン競技では、そのメッセンジャーを記念して、メッセンジャーが走り抜いた距離と推定される42.195 キロメートルをマラソンの正式距離と定めています。 ここで息を引き取ったメッセンジャーが持って行った勝報のことをユーアンゲリオンと呼んだそうです。あまりにも良いニュース、言わば福音なのです。私たちが福音と呼んでいる言葉のギリシャ語が、まさに、このユーアンゲリオンです。福音はつまり、勝利のニュースなのです。このユーアンゲリオンという概念は、時間が経って、ローマ帝国の時代になっても、相変わらず続いていました。なので、ユーアンゲリオンは、帝国の勝報や、皇帝の勅令などを意味する言葉でした。この地上は、力の原理で支配される世界です。古代エジプト帝国、ローマ帝国、モンゴル帝国、近代のイギリス帝国、旧日本帝国、現代のアメリカや中国のように、世界は力の原理に基づいて、弱い者は苦しみを受け、強い者は威張って生きる、理不尽な世界です。過去から、これらの地上の原理は、一度も変わったことがなく、世界を支配する原理だったわけです。支配者たちは、自分らの勝利を良いニュースと呼んで、弱い者の屈従を当たり前に思っていたのです。強い者のために、弱い者たちが犠牲になっても、彼らには何の問題にもなりませんでした。どうせ、彼らにとって世界は強い者のための舞台だったからです。果たして、そのような強い者の福音が、弱い者にも同じく福音だったのでしょうか?強い者のユーアンゲリオンが、弱い者にも同様に適用されたのでしょうか? 2.イエスのユーアンゲリオン。 今日の本文で、イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。ユーアンゲリオン、つまり福音という言葉が強い者であったローマ皇帝により、強い者のための概念として用いられていた時に、イエス様も福音という言葉を言い出されたわけです。それは、イエス様も世間の強い者らのような帝国主義者だったからでしょうか?そうではないでしょう。イエスは「神の国」の予告として福音を仰ったのです。強い者が弱い者を踏みにじる、帝国のための福音ではなく、天地万物を創造なさり、愛を持って、世界を治めておられる神の福音なのです。 「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えた。」洗礼者ヨハネは旧約時代の最後の預言者です。洗礼者ヨハネが捕らえられて殺されたというのは、旧約時代が終わり、新しいイエスの時代が臨んだとの意味です。神は過去からの権力と暴力が支配していた時代に終焉を告げられ、神が手ずから治められる神の国を予告させ、その神の国の支配をイエスにお任せになるために、イエス・キリストを遣わしてくださったのです。イエス様が告げ知らせた福音とは、神の民らを暴力にまみれた、この世の支配から脱出させて、愛と恵みの神の国にお移しになる、神の支配の宣言だったのです。 アダムの息子カインが、神を離れて最初にしたのは、自分を守るための城を築くことでした。以来、彼の子孫は、自分のために他国を苦しめる残酷な古代の王たちになりました。彼らは自分自身のために、他人を踏みつけ、殺しました。帝国主義は、そのような暴力に基づく支配方式です。しかし、イエスは他人のために、自らを犠牲になさり、彼らを御自分の民とさせ、愛してくださいました。イエス様が支配なさる、神の国とは、そのような所です。力の原理ではなく、愛の原理で統治される所なのです。弱い者が守られ、強い者が仕える国です。なので、神の国で最も献身的に民に仕える方は、王であられる神、すなわち、イエス・キリストなのです。「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えた。」イエス様が初めて福音を宣べ伝えたところは、聖なる都であるエルサレムでも、帝国の首都ローマでもなく、差別と憎しみに傷付いていたガリラヤでした。主はガリラヤのナザレで育ち、いつもガリラヤ地域を中心として御働きになり、そこで弱い人々に御仕えになりました。主イエスは、愛と恵みに満ちた神の国を建てるために、みずから低いところに臨まれました。そして、主御自分の血潮で、弱い者のための愛の国、神の国を成し遂げられました。そのような主が、御自分の民を、直接治められるのが、福音が持つ真の意味なのです。したがって、福音は、弱い者(自分の罪を悟り、悔い改める罪人)がイエスを通して神の愛の中に入り込むことを意味するものです。 3.神の国の民の在り方? – 悔い改め ところで、イエス様は、このような神の国と、その福音を享受するためには、必ず行うべきことがあると言われています。 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」イエスが公生涯に踏み出された時、すでに神の国は近づいてきていました。イエスの到来自体が神の国の到来を知らせる出発点だったからです。そして、キリストの十字架上での犠牲と復活を通して、神の国は、さらに完全に打ち立てられました。だから、イエス・キリストを信じる私たちは、すでに神の国に生きている存在です。神の国の王でいらっしゃるイエス様が、私たちと一緒におられ、私たちも主の支配の中で生きているからです。ここで、私たちは神の国という概念が場所というよりは、神の支配そのものであることが分かります。神の国を既に生きている存在として、私たちは、どのような生き方を貫くべきでしょうか?それは正に「悔い改めて福音を信じる。」ことです。福音を信じるということは、神が弱い者を召され、罪人を赦され、神の愛の中で、神の国の民として生きさせてくださることを信じるという意味ですので、そんなに説明が難しくありません。ならば、悔い改めとは何でしょうか?皆さんは悔い改めを、如何に理解しておられるでしょうか?過去の罪を悔み、自分のことを改善することを意味するのでしょうか? 過去の罪を悔い、自分のことを改めるという意味も、悔い改めの一部であることは、紛れもない事実です。しかし、悔い改めとは、単純に悔みだけに止まる(とどまる)レベルとしての概念ではありません。今日の説教の初めにマラソンの戦いの話をしました。また、ユーアンゲリオン、すなわち福音は、その戦いで勝利を勝ち取った時の勝報を意味する表現であると申し上げました。聖書に記されている悔い改めには、戦闘に勝利した凱旋将軍が、敵の捕囚となっていた人々を救い、解放させて、故郷に戻らせるという意味が含まれています。捕囚だった者が、凱旋将軍によって、自由人となり、その身分が変わったというのが、悔い改めの具体的なイメージであると言えるでしょう。つまり、イエスが十字架で罪に勝ち抜き、罪の影響下にあった罪人を神の国の民とならせたということから、悔い改めの基本的な概念が始まるのです。したがって、悔い改めは、キリストの勝利に基づくものです。主の勝利によって、御自分の民を過去の罪の生き方から立ち帰らせ、神の民としての生き方を追い求めさせるという意味です。過去の罪にまみれ、神を知らない人生から逃れ、絶えず凱旋将軍イエスに倣って、神に向かってUターンするということを意味します。もうこれ以上、罪の捕囚として、身勝手に生きるのではなく、神の側に立って、キリストの御心に服従して神を追求して生きるということです。だから、悔い改めとは、絶え間なくイエスに倣っていく、我らの心構えなのです。つまり、悔い改めは主イエスに解放された罪人が、全生涯を通して、諦めずイエスに付き従う生き方そのものなのです。 多くのキリスト者は回心し、決断して、イエスを信じるようになったら、二度と罪を犯さないようになると漠然と考えたりします。それは、回心直後の何日かの間は可能であるかも知れませんが、結局、人間の罪の性質は、再び現れます。その時、キリスト者は、自分自身に失望したりします。実際に罪の性質から完全に自由になるのは、不可能だと言っても過言ではないでしょう。そのため、正しい信仰を持つキリスト者は、自分に残っている罪のために、常に悩みます。そのたびに、本当に回心をしたのか、自分のことを疑います。しかし、このような悩みは極めて自然で、望ましい悩みです。むしろ、何も心配せず、自分の過ちも分からない人の方が問題です。なぜ、主はキリスト者に過去の罪の性質を残され、悔い改めさせるのでしょうか?これは絶え間ない悔い改めを介して、私たちを主イエスと共に生きさせ、日々新たになるようにするためです。キリストの恵みによって、最初に悔い改めた私たちは、その後も絶え間ない悔い改めを通して少しずつ、正しく変わっていきます。神の召しを受けて、この世から去る時まで、我々は悔い改め続けて、変わっていくということです。神学ではそれを聖化と言います。過去の生き方から何度も何度も立ち返って、神の民らしく生き、引き続き、自分の人生を神に向けさせること、それが、まさに悔い改めなのです。したがって、悔い改めとは神の国を生きるための、キリスト者の呼吸のようなものです。常に呼吸して生きるように、常に悔い改めて生きるということです。それが、キリスト者の悔い改めが持つ本義なのです。 締め括り 私たちは、キリストの御名によって神の民となったキリスト者です。しかし、私たちに残っている罪のため、残念なことに一気に完全に聖化されることはありませんでした。そのために必要なものが悔い改めなのです。私たちは、依然として罪に対して弱い姿で生きていきます。しかし、常に悔い改めることにより、私たち自身を神に捧げるときに、キリストは主の聖霊を通して、私たちを守り、導いてくださるのです。 「背信の子らよ、立ち帰れ。わたしは背いたお前たちをいやす。我々はあなたのもとに参ります。あなたこそ我々の主なる神です。」(エレミヤ3:22)主は旧約時代から堕落した民をお招きになる方でした。そして、我々はキリストを通して、神の国を生きる民となりました。主が私たちに悔い改めをお促しになり、悔い改めにお導きくださるからです。したがって、もし、罪を犯したと気づいたら、ありのままに罪を認め、神に助けを求めましょう。まるで、呼吸をするかのように、どんなに小さな罪でも、へりくだって絶えず悔い改めて生きていきましょう。神がキリストの御名を通して私たちを赦してくださり、神の国の民として受け入れてくださるでしょう。神の国を生きる民として悔い改め、毎日、神の御前で新たになる志免教会になることを祈り願います。

洪水Ⅲ‐ 永遠の虹の契約。

創世記9章1‐17節 (旧11頁)テモテへの手紙Ⅰ2章4節(新385頁) 前置き 創世記で、イスラエルの先祖、アブラハムが登場する箇所まで、最も多くの部分を占める物語は、断然、ノアの箱舟と洪水の裁きに関する話だと思います。アダムの堕落後、その10代目のノアが登場するまで、長い時間をかけて、神は人間の罪と悪を忍耐なさり、人間に悔い改めを要求してこられました。しかし、義人は極めて少数であり、殆どの人間は罪に罪を重ねて、神から離れるばかりでした。結局、神は、そのような罪にまみれた人間をお造りになったことに、御心を痛められ、結局、裁きをくだされましたが、まさにそれが洪水だったのです。神が真心を込められて、創造なさった世界が裁かれるということなので、洪水の物語は、決して軽視すべき話ではありません。人間の罪は、神が喜びをもって造られた、被造世界を打ちこわし、裁きに追いこむ、恐ろしい結果をもたらします。創世記6章から9章にわたって、長い紙面が割かれるほど、そして神の厳しい裁きをもたらすほどに、罪の結果は悲惨なものです。今日は人間の罪と神の裁きとしての洪水について話し、それにもかかわらず、正しい人を通して、新しい御業をお始めになった、神の愛と恵みについて、分かち合いたいと思います。 1.人間の罪の性質と箱舟の意味。 洪水については、前の2回の説教にわたって分かち合いました。少し時間が経ちましたので、記憶を辿るために再び話してみましょう。「地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。 神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。」(創世記6:1-2)洪水の物語は、神の御言葉から離れ、神を無視し、身勝手に振舞おうとした人間の罪から始まります。初めのアダムとエバは、神の御座を貪り、神のようになろうとしました。それは人間の堕落と呪いを招きました。しかも、長い歳月が経っても、人間のそのような罪の性質は、全く変わりませんでした。神の御言葉とは関係なく、自分の意志にこだわり、神の御命令よりも、自分の考えを優先しました。ノアの当時の人々の罪の性質は、依然として変わらず、世の中に蔓延っていたのです。神は彼らが悔い改め、神に帰ってくることを、長い間、忍耐されつつ、待って来られましたが、人間は日増しにあくどい罪を犯していったのです。神は長く忍耐なさる方でしたが、その忍耐は永遠ではありませんでした。結局、神は人間を造ったことを悔やみ、洪水で裁く計画を立てられたのです。しかし、そのような罪人の間にも、神を愛し、仕える正しい人がいました。その人はノアでした。 「その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。」「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。」ノアは、自分の考えではなく、神の御言葉に聞き従い、神と隣人を愛する正しい人でした。神は罪に満ちた世の中で、このような義人を愛し、探しておられる方です。世界のすべてのものが滅ぼされる状況でも、神は義人を生かそうとなさる方です。そのために作られたのが「ノアの箱舟」なのです。神は正しい人ノアを通して、ノアだけでなく、その家族と他の被造物をも、箱舟に乗り込ませ、救われる機会を与えてくださいました。つまり、1人の義人への救いが、他者にも救いの機会をもたらしたということです。一人の義人の存在と従順が、他者を生かす、大きな結果になったのです。私たちは、このノアと箱舟を通して、我々を救ってくださる主イエスと、箱舟のような教会の在り方についても学ぶことが出来ました。神の裁きは、人間の罪のために下されたものです。そして、義人は、その裁きの中で新しい希望を作り出しました。その希望は箱舟という名前で、多くの命を救い出しました。私たちの間におられるイエス様は、今日も教会という箱舟を用いて、救われるべき者を探しておられます。このように、私たちは、ノアと洪水と箱舟の話を通して、罪の恐ろしい結果と、真の義人キリストの救いを聞くことが出来ました。 2.御裁きになる神様。 かといって、裁きが取り消されるわけではありません。ノアによって多く存在が箱舟に乗り込み、救われたにも拘わらず、神の洪水の裁きは変わらず、やって来ました。神は御自分が与えてくださった箱舟という救いの機会を捕らえなかった、すべての存在に計画どおり、裁きを下されました。神はノアと、その家族、他の被造物を箱舟に乗り込ませ、手ずから箱舟の戸を閉ざされました。また、大いなる深淵の源をことごとく裂けさせ、天の窓を御開けになり、四十日四十夜、雨を降り続けさせられました。洪水の水位は山頂を上回る膨大な量で、罪にまみれていた世のすべての生命は、それによって最後を迎えることになったのです。生き残ったものは、ノアと箱舟に乗り込んでいた存在だけでした。 「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた。」(創世記8:1)膨大な雨で全世界が裁かれた後、神は義人ノアと、彼によって生き残った命を御心に留め、彼らのために洪水をお止めになりました。箱舟はアララト山の上に止まりました。時間が流れ、洪水は徐々に減り、神は箱舟から生き残った命を再び世界に戻してくださいました。箱舟から降りたノアは、神に焼き尽くす献げ物をささげ、神はそれをお受け入れになりました。 神はこの世に救い主、イエスを送ってくださいました。イエスが来られてから、2000年以上の間、神は引き続き、救われるべき者を呼んでおられます。まるで、480歳で神の召しを受けて、120年の間に箱舟を作成しつつ、裁きを予告したノアのように、神は今日も御言葉を通して裁きを予告しておられます。しかし、そのような予告は永遠に与えられるものではありません。神はいつか、その予告を終わらせるはずであり、それからは、すべての存在は、恐ろしい裁きを受けるようになります。 「主は来られる、地を裁くために来られる。主は世界を正しく裁き、真実をもって諸国の民を裁かれる。」(詩篇96:13)神の裁きは、御自分の御旨による結果です。義と真実の神様は、神に従った者と逆らった者を、確実にお分けになるに違いないのです。だから、私たち教会の使命は重いものです。ノアが自分の箱舟を通して、多くの命を救いに導いたように、キリストの体なる教会は、数が多くても、少なくても、神の救いを伝えて生きるべきです。キリストは救い主であり、神の御裁きが、明らかに来るということを、隣人に伝えて生きるべきです。それが伝道なのです。命の道を伝えることです。私たちの伝道は、ただ、神の救いと愛だけを伝えることではありません。明らかに近づいてくる、神の恐ろしい裁きをも、必ず伝えなければなりません。主の体なる教会は、そのような裁きを伝える、箱舟の使命を持っている存在なのです。 3.神と被造物の永遠の契約 – 虹 人間の罪で満ちていた世界は、神の裁きによって、新たになりました。神の裁きは、人からすれば滅びと終わりを意味するものですが、神と世界から見れば、新たなることと始まりを意味します。私たちは、過去、何回かの説教を通して、聖書で水が持つ意味について取り上げてきました。聖書で水は死を意味することと共に、清めを意味する2つの側面を持っていました。そのため、水をもって授ける洗礼は、罪への死と義への復活を、そして、罪を清めることを意味すると学びました。神の洪水は、罪人を滅ぼす、裁きとしての手立てでありますが、世を新たにさせる、清めの手立てでもあります。なので、洪水は、罪の裁きだけでなく、新天新地をもたらす神の強力な御業としての意味をも持っているのです。つまり、私たちは人間の視点から裁きを眺めるだけではなく、神の視点からも裁きを考える必要があるということです。洪水が終わった地上にノアの家族と被造物を送られた神は、こう言われました。 「産めよ、増えよ、地に満ちよ。 地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。」(創世記9:1-2)神は、悪が消えて新たになった世界で、新しい始まりを許してくださり、義人ノアに、全ての被造物をお任せになりました。 神は、ノアに新世界をお委ねになり、また、このように言われました。 「肉は命である血を含んだまま食べてはならない。…人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。」(9:4,6)ここで「血を含んだまま食べてはならない」という言葉は何を意味するのでしょうか?ちょっと、変な例かも知れませんが、ステーキを食べるとき、レアが好きな人はステーキの赤身から血が流れ出ることを知っています。神は血を含んだまま食べてはならないと仰いましたが、それでは、レアが好きな人は、神の御言葉に逆らう罪人なのでしょうか?もちろん、そうじゃないと思います。 「血を含んだまま食べてはならない」という言葉の意味は、他者の命を尊重し、愛しなさいという意味です。創世記が記された当時の中東の文化で、血は命を意味するものでした。 「焼き尽くす献げ物の場合は、肉も血もあなたの神、主の祭壇にささげる。その他のいけにえは血をあなたの神、主の祭壇の側面に注ぎ、肉は食べることができる。」(申命記12:27)旧約聖書には、「献げ物の血を祭壇の側面に注ぎなさい」という言葉が何度も記録されています。命の取扱いは神の権限であるため、神の権限である命を人間が勝手に扱ってはならないということを意味する言葉なのです。つまり、過去の罪人のように、身勝手に振舞わないで、神の御言葉を尊重し、神に従って生きなさいということです。 裁きが終わり、新たに始まった世界では、人が独断的に自分自身の意志で生きることではなく、神に従って歩み、神と隣人への愛を持って生きることを願われたのです。神はそのような、正しい生き方で、新しい世界を作っていくことをお望みになったのです。神はそのような罪から自由になった新しい世界を望まれながら、「あなたたちは産めよ、増えよ、地に群がり、地に増えよ。」と、今回は全被造物に御命令なさいました。再びエデンのような条件を許してくださるかのように、人間と被造物に新しい機会を与えてくださったのです。そのような新時代の契約の証拠として、神は虹を与えてくださいました。それは、神と全被造物の新しい契約でした。その契約を通して、「二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」と約束なさいました。 「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」(9:16)神と被造物の永遠の契約の証拠として虹を造られ、この虹を見て、神に聞き従い、神を最優先にして、生きて生きなさいと、被造物と新しい契約を結ばれたのです。このように、神の洪水の裁きは、ノアを初め、すべての被造物に、もう一度機会を与えてくださるという、神の御憐みと愛で終結しました。 締め括り 洪水の裁きについて語りながら、我々は、人間の罪の性質と、神の恐ろしい裁き、それでも義人を愛してくださる神の御心、裁きの中でもそれを逃れる道をくださる恵みについて学ぶことが出来ました。現在、地球の全人口は70億を上回ります。そして、その人類の歴史は、1万年も超えるほど長いのです。つまり、計り知れないほどの多くの人間が、この地上の生を経て行ったということです。そのすべての人間が罪によって、神を苦しめていたはずでしょう。しかし、その中でも、神は神に従う義人をお探しになっておられました。時には忍耐なさり、時には裁かれつつ、義人を待っておられたのです。恐ろしい洪水の中でも、一人の義人と彼による被造物を守ってくださった、神を見て、何としても人間と被造物を救おうとなさった神の愛が感じられます。多くの罪人の罪のために、御心を痛めながらも、一人の義人を通して喜ばれる神の愛を感じます。今日も神様はキリストを通して、救われるべき者を召しておられます。いつか、もう一度、洪水よりも恐ろしい火の裁きが、必ず臨むでしょう。その日がやってくる前に、神は、更に多くの者が救われることを望んでおられます。 「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(Ⅰテモテ2:4)裁きの中で希望をくださり、御救いへと召してくださる神の愛を覚えつつ、その救いに属する者として、神の喜びとなる志免教会になることを祈り願います。

洗礼と試練を受けるイエス。-試練

申命記8章2‐3節 (旧294頁) マルコによる福音書1章9-13節(新61頁) 前置き 先々週のマルコ書の説教では、メシア、イエスが、罪人の受けるべき洗礼を進んで受けられたとの話を分かち合いました。洗礼は罪人が水で洗われて、清くなるという意味を持つ儀式で、もっぱら罪人だけが受ける儀式だったのです。しかし、前の本文では、何の罪もないイエスが洗礼者ヨハネに、敢えて洗礼を受ける場面が出てきました。これは、イエスご自身には罪はありませんが、これから罪人の側にお立ちになり、彼らと一緒に歩み、救ってくださることを象徴することだとお話しました。つまり、主の洗礼はメシア、イエスが罪人の側に立つという崇高な愛の表現だったのです。洗礼は御言葉の説教、聖餐に加えて、改革教会の印を表す重要な儀式です。イエスはご自分を信じる者たちを教会に召され、教会の頭になってくださるために、自ら罪人の立場にお降りになり、洗礼を受け、進んで罪人の代表になってくださったのです。今日は、その洗礼に続く荒野でお受けになる試練について話してみたいと思います。神でいらっしゃるイエスは、なぜ、試練を受けなければならなかったのでしょうか?今日の言葉を通して、私たちを助けられ、愛され、導いてくださるイエスについて、そして、受けられた試練について分かち合いたいと思います。 1.試練 – 神の試み。 今日の本文に出てくる「誘惑を受けられた。」という言葉の原文は「フェイラゾ」というギリシャ語です。これは「試みる。試す。耐える。調べる。惑わす。鍛える。証する。」等、多くの意味を持っています。本文では、「イエスはサタンに誘惑を受けられた。」と出てきていますが、厳密に言うと、サタンがイエスを誘惑したわけではなく、神がサタンを用いられ、イエスにメシアとしての試みを課されたとの解釈が、より正しいと思います。したがって、今日の試練は、試みとも呼ぶことができるでしょう。私たちは試練について話す時、辛くて苦しい苦難などを思い浮かべがちですが、オックスフォード国語辞典では「実力・決心・信仰の程度をきびしくためすこと。また、その時の苦難。」だと書いてありました。つまり、神様から与えられる試練は、誰かを苦しめる刑罰ではなく、試練を許され、信仰を成長させる、養育の方法なのです。私たちは、自分が苦難に遭った時、「私は罪が多くので試練を受ける。」あるいは「神に見捨てられて試練を受ける。」などと心配したりする傾向があります。しかし、我々は、変わることの無い、イエス・キリストの血潮によって救われた存在なのです。ですから、私たちの試練は、神様が私たちを養ってくださるための、父親の養いだという心構えを持たなければなりません。神はキリストを通して、すでに私たちを受け入れ、愛してくださる方だからです。 しかし、聖書は試練のもう一つの側面を示してくれたりもします。 「誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。 むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。」(ヤコブの手紙1:13-14)歴史上、キリスト教が迫害を受けたことが少なからずありました。帝国主義により、共産主義により、試練を受け、数々の殉教者が出たりしました。そのような場合には、明らかに試練として迫害されたと言えるでしょう。しかし、時には教会が神の御言葉から離れ、独善的になり、世の塩と光にならず、嫌われる立場になって、人々の信頼を失った時もありました。恥ずかしいことですが、現代の韓国の教会がそうです。今、韓国の教会は、未信者に歓迎されているとは言えない状態です。いくつかの教会は、建物だけ大きく築く、その教会の有名な牧師が自分の子供に教会を受け継がせ、自分たちの利益のために信者を騙し、他者を蔑む、そのような自己中心的な姿によって、未信者の憎しみを買うようになったのです。 すべての教会が、そうであるわけではないでしょうが、権力と財力のある教会の中で、そんな場合がしばしば生じ、それによってプロテスタント教会全体が嫌われるようになったということです。しかし、そのいくつかの教会は愚かにも、そのような未信者の反応が自分たちを迫害しようとするサタンの仕業だと思って、自らを正当化しようとしたりしました。しかし、そのような迫害と憎しみは、サタンの仕業というより、教会が自ら招いた結果なのです。そのような場合の試練は、神から来るものではありません。ヤコブの手紙の言葉のように、神から離れた教​​会が自分の欲望のために、嫌われるようになったわけです。したがって、我々は、試練が神の訓練であるという心構えを持っている必要はあるでしょうが、まず自分の姿を弁えて、自らを振り返る姿勢を持つことが重要だと思います。私たちの試練が神から来る養いとしての試練なのか、それとも、教会の利己主義と間違いによる結果なのか、それら2つの側面に対する視点を持ち、はっきり自分のことを分別してみる必要があると思います。 2.イエスの受けた試練。 しかし、イエスの試練は、これら二つの側面とは別の意味を持っています。旧約のイスラエルは、神の御助けによって、エジプトの奴隷生活から解放され、荒野に脱出しました。彼らは神の言葉のように、すぐに乳と蜜の流れるカナンに入るだろうと期待していたでしょう。紅海を渡った後、彼らは明るい将来だけが繰り広げられるだろうと考えたのかもしれません。しかし、現実は違いました。食べ物も、水も足りなく、炎の蛇のような危険な生き物も多かったのです。神はわざわざ地中海沿いの近道ではなく、遠回りの長い道のりで、彼らを導かれました。 「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。 」(申命記8:2)神は、彼らが、果たして神を追い求め、頼るかどうか、お試みになるために試練を与えられました。しかし、出エジプトしたイスラエルの民は、感謝より恨みで神を責めました。神の救いと同行よりも、目の前の飢えと不便さに目が向いていたわけです。 最終的に彼らは神の御救いさえ否定し、エジプトに帰ろうとしました。結局、神は40年間、彼らを彷徨わせました。しかし、神は彼らの試練の中で共におられる方でした。 「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(8 :3)神は、ご自分を頼らず、むしろ恨んだイスラエルに試練を与えられました。その試練の中で最後まで一緒におられる神様について、悟らせるためでした。結局、神を恨み、信じなかった最初の世代は、40年を経て、ほとんど亡くなってしまいました。新しい世代だけがカナンに入るようになったのです。旧世代の中では、最後まで神を信頼していた何人かの人だけが、カナンに入ることが出来ました。神への不信仰で一貫していた世代は、カナン入りを許されず、新世代、すなわち神との同行の中で生まれた世代だけが乳と蜜の流れるカナンに入るようになったわけです。 イエスの試練は、これと関連があります。神の国を来たらせるイエスは、人々が自分らの罪によって昔の出エジプト時代の旧世代のように、神に完全に従えないということを知っておられました。マラキ以降400年の間、啓示が切れていた時代を生きてきながら、イエス当時の人々が望んでいたのは、共におられる神そのものというよりは、周辺国と権力者から自分らを救ってくださる神のその力でした。まるで出エジプト世代のように、神ではなく、神の力を用いて強い者からの解放だけを望んでいたことと同様です。しかし、イエスは御自分が、自ら罪人の代表となられ、神の力だけを求める民ではなく、神と共に歩む民にならせるように、人々の代わりに自ら試練を受けられました。そのため、神は人間の行為ではなく、このイエスの御功績により、イエスの名の下にいる者らを認め、赦してくださるのです。イエス様が御自分で試練を乗り越えたため、イエスを信じる者が失敗をしても、神はその人ではなく、その背後のイエスを見て、彼の罪をお赦しくださいます。イエスの試練は、信者に代わって受けられた試練です。そして主イエスは、その試練を、私たちのために乗り切ってくださいました。 3.罪人の代わりに試練を受けられたイエス。 イエスは神様でいらっしゃいますが、人間であるとを自任されました。なので、イエスにこの地上での神としての特権は全くありませんでした。女の体を通して、飼い葉桶で生まれ、財産も権力もないナザレの大工として育ちました。メシアにも拘わらず、洗礼者ヨハネに罪人が受けるべき洗礼を御受けになり、聖霊に送り出されて、荒野で試練を御受けになりました。誰が彼をメシアだと、神様だと思えたのでしょうか?主はお生まれになった瞬間から、神様としての全ての特権と力をしばらく止められて、すべてのことを、罪人の立場から臨まれました。「“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。」(マルコ1:12-13)つまり、イエスは罪人が受けるべき扱いを御受けになったのです。洗礼によって鳩のように臨まれた聖霊は、イエスに神としての力を許される前に、激しい試練に追い出しました。マタイは、イエスがお受けになった試練について詳しく説明しています。 試練については、マタイ書を通して詳細に探ってみたいと思います。まず、四十日間の断食の後、石をパンにしてみなさいとの、サタンの誘惑でした。そのサタンは、致命的な条件をつけました。 「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」(マタイ4:3)サタンは、イエスの最も根本的なアイデンティティである「あなたが本当に神なら」という条件をつけたのです。しかし驚くべきことに、神であるイエスは、自らを否定なさり、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイ4:4)という神の御言葉を引用して、退けられました。自分のアイデンティティと思いを投げ捨てて、ひとえに神の御言葉だけに従ったものです。そのあと神殿の屋根の端にイエスを連れて行ったサタンは、そこで、「神の子なら、飛び降りたらどうだ。」と言いました。その時は、サタンも神の言葉を持ちだして、イエスを誘惑しました。 「神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」(マタイ4:6)しかし、主は神の御言葉を誤って用いるサタンに、神の御言葉を歪めることで神を試してはならないと叱られました。 最後に、サタンは非常に高い山にイエスを連れて行って、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、自分にひれ伏して拝むなら、財産、名誉、権力の全てをあげると誘惑しました。するとイエスは、自分の崇拝の対象は、唯一の神様だけだという最も根本的な真理をもってサタンを追い出されました。イエスは神を中心になさることで、サタンの誘惑を追い払われたのです。イエス御自身が神であり、世の所有者であり、権力の中心であり、比類できない栄光に満ちた方でいらっしゃるのに、そのすべてを否定して、ただ神様の御心に従うことを自ら御誓いになったのです。イエス・キリストは養われるための試練を受ける必要のない神であり、自分の欲望のために試練を受けるべき、弱い罪人でもありませんでした。イエスの試練は、自分の民を完全に立たせるための試練であり、そのすべての試練を乗り切ったイエスは、罪人を救う資格を持つに値する完全な方でした。だから、そのイエスを信じる者はキリストの名の下で完全な者と認められるようになります。これにより、イエス・キリストは完全な神であり、完全な人間であると神に認められるようになりました。イエスはこのように私たち、罪人のために試練を乗り越えた真のメシアとして公生涯をお始めになりました。 締め括り 今日、イエスがお受けになった誘惑、すなわち試練は、もともと、罪人が受けるべき試練でした。しかし、主は神でいらっしゃるにも拘わらず、自ら人間になり、罪人に代わって輝かしい勝利を収めてくださいました。ローマ帝国の迫害のため、苦しみと恐怖の中に生きていた初期キリスト者達に、イエスが既に勝利なさったという言葉は、恵みの雨のようなニュース、すなわち福音でした。マルコ書は迫害されるキリスト者に、すでに勝利なさったイエスが相変わらず共におられることを証した書です。これは現代の日本に住んでいる私たちにも適用されることです。私たちは、イエスを信じて、キリストの体なる教会として認められたというのは、かつてイエスが勝利なさった、その試練を私たちも勝利したということを意味します。主が受けられた試練は、私たちの試練でもあったからです。罪人ではないにも拘わらず、罪人の位置に立たれ、試練を受ける必要がないにも拘わらず、試練を受けられたイエスは、今日、私たちが希望を持って生きることが出来るように、すでに勝利してくださった方なのです。そのような私たちの主イエスを覚えつつ、常に感謝をもって生きていきましょう。私たちも、人生に迫ってくる試練をキリストの御名をもって勝利していくことを誓って行きましょう。来たる一週間、志免教会の皆さんに神の祝福がありますように。

キリストによる幸いな人生。

詩編1編1‐6節 (旧835頁)マタイによる福音書5章3‐12節 (新6頁) 前置き 先日、竹内結子さんという俳優が自ら命を絶ったとのニュースがありました。彼女は2004年から4年間、連続して日本アカデミー賞で最優秀主演女優賞を受けており、米国の企業との合作ドラマ「ミスシャーロック」で熱演、西欧圏でも認知度を高めたそうです。今年1月には息子も出産し、一見、何の不自由もなく裕福に見える人でした。しかし、彼女は他人の知らない理由で、極端な選択をしてしまいました。彼女の悲報を聞きながら、人生とは、幸せとは何だろうと考えざるを得ませんでした。遺族に深い慰めの気持ちを伝えたいと思います。果たして幸せとは何でしょうか?人間は皆、幸いな人生を夢見ます。ひょっとしたら人々は幸せになるために、勉強し、働いて一生懸命生きていくものなのかも知れません。しかし、そのすべてを達成しても、依然として満足できずに渇望してやまないのが、人間の姿ではないでしょうか?このように財力と名誉を持っている人々の残念な選択を見るたびに、私たちは真の幸いな人生とは何か、もう一度考えてみるべきだと思います。クリスチャンである私たちは、本当に、幸せを感じつつ生活しているでしょうか?今日はキリスト者が追求すべき、幸せとは何かについて分かち合いたいと思います。 1.アジア人にとって、福とは? 冗談半分ですが、私たちは祝福の中に住んでいると思います。私たちが住んでいる地域が福岡県だからです。福の岡、本当に良い地名だと思います。来福して2年間、福岡県について調べて見る機会が何度もありました。玄界灘の綺麗な海、背振山地の緑色、筑紫平野の原野、清い空気、美味しい食べ物、美しい夕焼けなどなど魅力的なものが数えきれないほどありました。このような自然に恵まれた昔の人たちが、祝福されていると感じて、その中心部に福岡という町を建てたのかもしれないと思いました。「福」は日本でよく使われる漢字ですね。ところで、この「福」という文字は日本だけでなく、アジアの国々でも多く使われているようです。 中国には「福」の字が逆さまになった看板がたくさんあります。 「逆さ」という意味の「タオ」が、「来る」という意味の「タオ」と同じ発音で、逆さまになった福は、「福が来る」という意味になるからだそうです。韓国でも「福」という字をしばしば使います。元旦になると、「あけましておめでとうございます」というかわりに、「新しい年に、福がたくさんありますように。」という挨拶をします。このようにアジアの日本、中国、韓国はすべて「福」への特別な願いを持っているようです。 それでは、アジア人にとって、福とはどんな意味を持っているのでしょうか? 2014年、韓国の「改革主義説教学会」というキリスト教系の学術集会で「アジアの宗教においての福」というテーマでセミナーが持たれました。その時、ある発題者が、このような発表をしました。 「アジアの宗教が追求する最高の福は三つあります。第一は、自力で究極の実在と合一すること、第二は、人間のうちにある本質を回復して社会に役立つ存在になること、第三は、自分の限界を乗り越え、大我に至る宇宙的な歴史観を持つこと。」 これを簡単に表現すると、「自力で自らを救うこと、自らを発展させて社会を導くこと、超越した宇宙的な存在になること。」だと言えるでしょう。つまり、福とは「自ら努力して願いをかなえること」という意味に理解することが出来ると思います。このような思想は、仏教や道教などでも、たやすく見つかる概念です。これらの福の精神をもとにして、自ら努力して得る誉れ、権力、富などの立身出世も、結局、福の一部として位置付けられたことでしょう。アジア人にとって福とは、この「自ら努力して願いをかなえること」を意味するのではないでしょうか? それでは、世俗的な福に関する話は、ここまでして、私たちが神の御言葉だと信じている聖書では、この福について、どのように説明しているか、今日の本文を通して話してみたいと思います。 2.旧約が示している「幸いな人生」とは? 詩篇の第1篇はヘブライ語の「アシュレイ」という言葉で始まります。 「アシュレイ」は「幸いだ、幸せだ、福を得る、幸福だ。」との意味を持っています。詩篇1篇は150編の詩編を始める、前置きに当たる詩です。前置きとは、ある本の全体的な内容を述べる文章で、その本の序文だと言えるでしょう。つまり、「幸いだ、幸せだ、 福を得る、幸福だ。」を意味する「アシュレイ」で始まった詩編は、その後、150編という数多くの詩を通して、「真に祝福された幸いな人は、どのように生きるべきか」について教える書なのです。 「いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。」(1-2 )先にアジアの宗教においての「福、つまり幸いな人生」が、自ら努力して願いをかなえることを意味するものであったならば、旧約が示している幸いな人生とは、主の教え、すなわち、神の御言葉を愛し、その御言葉に従う人生であることが分かります。 旧約のイザヤ書には、このような言葉があります。「イスラエルの王である主、イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。私は初めであり、終わりである。私をおいて神はない。」(イザヤ44:6) 神は創造の初めであり、世の終末を成し遂げられる全能なる方です。本当に幸いな人は、神から離れ、自分の志のままに生きる者ではなく、初めと終わりである神の御旨を受けとめ、その御心に従って生きる者であるということです。初めの人は、なぜ神に呪われ、楽園から追い払われたのでしょうか?まさに自分が神のようになり、神を排除して身勝手に生きようとしていたからです。しかし、神はご自分が創造なさった人間が、神に従って生きることを望んでおられる方です。 「その人は流れのほとりに植えられた木。時が巡り来れば実を結び、葉も萎れることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(3)神様と共に歩み、御言葉に聞き従う人は神に祝福されます。まるで、流れのほとりに植えられた木が、萎れることのないように、主と同行する者は、神の御助けのもとで生きていくのです。そして彼の人生は、神のもとで繁栄するようになるのです。私たちは自ら努力して願いをかなえるというアジアの宗教的な「福あるいは幸い」を追求して生きるわけにはいきません。なぜなら、私たちはキリスト者だからです。自ら努力して願いをかなえるということは、自分が神のようになる人生です。本当に幸いな人生は全能なる神を覚え、彼と共に歩み、その御言葉に聞き従うこと、つまり、神と同行する生き方であることを忘れてはならないと思います。 3.新約が示している「幸いな人生」とは? 今日の新約の本文にも「幸いな人生」についての言葉があります。先に詩篇1編では、神の言葉に聞き従い、彼と同行すれば、すべてのことに繁栄がもたらされるとの言葉がありました。私たちは、その言葉を読む時、知らず知らずに「神に聞き従い、同行すれば、栄え、成功し、出世し、楽に生きられるようになるだろう」と思うかもしれません。実際に、成功し、出世し、気楽に生きることも、ある意味で幸いな人生の一つだと言えるでしょう。そのような幸せも確かに必要です。しかし、神への従順から始め、自分の成功で終わる幸いなら、結局、最初、お話しましたアジアの宗教で語られる「幸いな人生」のために神を用いる冒涜になるのではないでしょうか?つまり、自分の幸いのために、神と共におり、従うことではなく、神と共に歩むこと、そのものが幸いな人生であるということを明らかにする必要があるということです。今日の新約の本文の最初の3節と最後の10節に共通に登場する語句があります。「〜人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」という言葉です。今日の新約の言葉が示しているのは、「幸いな人は、天の国を所有する人である。」ということです。「心の貧しい、悲しむ、柔和な、義に飢え渇く、憐れみ深い、心の清い、平和を実現する、義のために迫害される人々」これらの人たちは皆、神に天の国を与えられる幸いな人たちであるということです。 ここでの天の国とは何でしょうか?死後に入る楽園なのでしょうか?もちろん、そのような意味でもあるでしょうが、マタイ書が語る天の国とは、もっと深い意味を持っています。イエスの当時のユダヤ人たちには、神の御名をみだりに呼んだり書きしるしたりすることが許されていませんでした。そのため、ユダヤ人たちを対象にして、記されたマタイ書は「神」という呼称を「天」という言葉に振り替えて使ったのです。東アジア平和センターの黄南徳牧師は天の国についてこう説教しました。 「マタイ書に出て来る天の国とは、人間に基づいた、如何なる政治制度、経済体制、イデオロギーなどを示すものではありません。天の国とは、神様の御旨によって治められる全ての領域を意味するものです。政治、経済、社会、文化など、神の正義と平和が働かれる場所なら、どこでも、天の国となるのです。」つまり、今日の新約の本文は、天の国すなわち神の支配を積極的に受け入れ、待ち望む人々に関する話なのです。自分ではなく、神を中心とする人、主の言葉を自分の思考よりも大事にする人こそが、本当に「幸せな人」だということです。しかし、これは地上での「成功、出世、幸いな人生」とは、異なります。 「私のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。」(11)天の国、すなわち神が支配しておられる神の国を求め、その御旨に従うためには、この世が語る幸いと立ち向かわなければならないからです。 この世で成功するためには、他者を引きずりおろしたり、他者に損害を強要したりしなければならない場合もあります。しかし、天の国を追い求めるキリスト者なら、それを拒むべきです。また、キリストの福音を伝えるために、この世が大切に扱っている社会、経済、宗教的な価値を否定しなければならない場合もあります。もしかしたら、そんなときに社会的なイジメに直面するかもしれません。もし、そうなれば、私たちは本当に幸いになったと認めることが出来るでしょうか?聖書はキリストと神の御心のために、そのような辛い目に遭う時があり、むしろ、キリスト者なら、そのような生活を「幸いな人生」として受け入れなければならない時もあることを明らかにしています。その難しくて大変な人生が幸いな人生であるなんて、如何に皮肉なことなのでしょうか? 「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(12)しかし、聖書はそのような生活の中でも、神は私たちをお忘れにならず、共におられ、天に私たちのための大きな報いを備えてくださると語っています。私たちの幸いは、どんな状況でも、私たちを見捨てられず、助けてくださる神様そのものです。キリスト教の幸いは、世のそれとは、全く違うものです。世のすべてに棄てられても、神のみには棄てられず、永遠に一緒に歩んでいただくこと、それこそがキリスト教の真の幸いなのではないでしょうか。 締め括り 私たちが信じているイエス・キリストは神様に棄てられた、この世の人類を神様に帰らせるために、苦しみと悲しみの十字架に、喜んで付けられました。この世の代わりにご自分が、神様に棄てられたのです。その全ては、この世の人々を神様と和解させるための主の自己犠牲だったのです。だから、このイエスを信じる私たちにとって、最大の幸せは、キリストによって我らをお召し出しくださった神様ご自身ではないでしょうか。聖書が語る「幸いな人」は、如何なる苦難と逆境の中でも、神様が共におられる人なのです。神が共にいらっしゃらなければ、どんなに豊かになったとしても、名誉を得たとしても、お金持ちになったとしても「幸いな者」になったとは言えません。苦難と逆境の中にいながらも、神を愛する人こそが、聖書が示している、真の「幸いな者」なのです。でも、神は単に苦しみだけをお与えになる方ではありません。神様も私たちがこの世で栄えて安らかに生きることを望んでおられる方なのです。したがって、一日一日を守ってくださり、共にいてくださる神様に感謝し、今の生活で喜びを持って生きていきましょう。私たちの幸せは、ひとえに神様にだけあります。その神と常に同行する「幸せなキリスト者」になることを願います。

洗礼と試練とをお受けになったイエス。(1)

詩編2編7-9節 (旧835頁)マルコによる福音書1章9-13節(新61頁) 前置き ローマ帝国の激しい迫害により、甚だしい試練に苦しんでいた初期キリスト者たちには絶対的な慰めが必要でした。迫害のために苦しんでいる神の民に、彼らを罪からお救いになり、永遠の命を約束なさったキリストが、迫害の中でも、相変わらず彼らと一緒におられることを思い出させる必要があったのです。そういうわけで記された本が、まさにマルコ書なのです。そのため、マルコ書は、4つの福音書の中でも最も簡潔かつ力強くイエス・キリストと彼の御業について述べています。私たちは苦難に遭った時、神はあの高い天の上で楽にしておられ、地上の私たちは苦難の中に瀕していると考えがちだと思います。世の中には、依然として不条理があふれ、善人より悪人が頭を擡げているかのような印象を受けやすいからです。しかし、マルコ書は絶えず私たちと一緒におられるイエス・キリストを証しし、主が苦難の中で私たちと共におられるということを訴えています。今日はマルコ書の、その二つ目の話を通して、罪人のために謙虚さと愛とをもって犠牲になってくださるイエス・キリストと、彼が受けられた洗礼について話してみたいと思います。 1.荒野の意味。 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」(マルコ1:3)神は旧約の預言者イザヤを通して、神のメシアが臨むという啓示を与えてくださいました。神はイザヤの預言を通して、そのメシアが来る前に、神の民が荒れ野で、あのメシアの道を整え、彼の到来に備えることを命じられたのです。そのため、イスラエルの民は、荒れ野に特別な印象を持っていました。ローマ帝国の弾圧とイスラエル社会の不条理に苦しんでいた、貧しいイスラエルの民衆は、荒れ野の主の道を通して臨まれる神のメシアと、その支配を待ち望んでいました。荒れ野はイスラエルの民にとって希望の所でした。荒れ野からメシアが来られれば、苦しんでいるイスラエルを救ってくださり、神の国をうち立ててくださるはずだったからです。なので、荒れ野はイスラエルの民衆にとって、神の御裁きの象徴であり、解放の象徴でもありました。そんな荒れ野に洗礼者ヨハネと呼ばれる預言者が登場したという噂は、まるで「荒れ野で叫ぶ者の声」が現れたことと同様な一大事でした。洗礼者ヨハネの登場は、間もなくメシアが臨まれるという希望の前触れだったからです。 そういうわけで、メシアの到来を待ち望んでいたイスラエルの民衆は、洗礼者ヨハネのいる荒野に来て、洗礼を進んで受けました。洗礼者ヨハネの後から来られるメシアに大きな希望をかけて、待ち望んでいたからです。彼らはメシアが来られると不条理に満ちたイスラエルは新たになり、自分たちの苦痛も終わるだろうと信じていました。彼らはメシアが来られれば、暴政を事とする邪悪な王が追い出され、財力と権力しか知らない大祭司たちは罰せられ、見せ掛けばかりの知識人たちも誤りを問い詰められると思いました。とりわけ、神の強い力によって、ローマ帝国が没落、イスラエルの地に神の国が到来し、自分たちが、あんなにも待っていた解放が成し遂げられると信じていたのです。 「お前は鉄の杖で彼らを打ち、陶工が器を砕くように砕く。」(詩篇2:9)まるで有名なメシア詩である詩篇2篇のように、世の悪い権力が、恐ろしい裁きを受けるだろうと信じていたのです。それだけに荒れ野は、イスラエルの民衆にあって特別な所であり、そこで悔い改めの洗礼を授けるヨハネは解放の象徴的な人物でした。そして、その荒れ野から来られるメシアは、この世を揺るがす存在でした。 2.洗礼を受けられたイエス。 「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。」(9)そんなある日、一人の青年が洗礼者ヨハネのところに来ました。彼はナザレの若い大工でした。彼はあまりにも素朴な姿でした。しかし、彼はあの荒れ野からのメシアでした。そのためか、メシアを待ち望んでいた人々は、彼がメシアであることを見分けられませんでした。それにも関わらず、洗礼者ヨハネは彼がメシアであることを一目で気付きました。その青年はイエスでした。今日のマルコ書の本文には出て来ませんが、マタイ書では洗礼者ヨハネの反応が出てきます。 「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」(マタイ3:14)神のメシアが自分の目の前に来て、受洗を請うた(こうた)のです。 400年以上を待ち望んでいたメシア、何よりも輝いて強力でなければならない神のメシアが、突然素朴な姿で現れたものです。洗礼者ヨハネは、罪人に聖霊と火の洗礼をお授けになるはずのメシアに、むしろ洗礼を授けることになり、少なからず戸惑いを感じました。しかも、罪人である自分に洗礼を請うているメシアです。迷っている彼にメシアはこう話しました。 「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々に相応しいことです。」(マタイ3:15) イエスは全能なる神であり、荒れ野からのメシアであり、全世界の主である方でいらっしゃるのに、なぜ一介の人間である洗礼者ヨハネに洗礼を受けることを望んでおられたのでしょうか?そして、なぜイエスは、神の権能を持っておられたにも拘わらず、荒れ野の主の道で凱旋将軍の姿ではなく、素朴なナザレの大工の姿で来られたのでしょうか?メシアに関する有名な記録であるイザヤ53章には、メシアについて、このように記されています。 「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。」(53:2)私たちは、この箇所を通して、当初からメシアという存在が、軍事力による征服者や武力を伴う解放者ではないことが分かります。ひょっとしたら、荒れ野での主の道は、メシアの凱旋道路ではなかったかも知れません。イエスは強力な支配者ではなく、素朴な大工の姿で来られ、ヨハネの洗礼を受け、罪人を救うための公生涯をお始めになりました。しかし、人間の考えとは異なり、それでも、父なる神様は、その姿にとても満足なさったかのように言われました。 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。」(11) 洗礼とは、罪への死と清さを意味する儀式です。今日もバプテスト教派では、水の中に沈む洗礼を行なっていますが、イエス様当時の洗礼も水の中に完全に沈んで出る形でした。罪人が水の中に入る行為は、罪に対して完全に死ぬことを意味することであり、水から出る行為は義に対して蘇ることを意味します。これは出エジプト記に出てくる紅海を渡る出来事に由来したもので、パウロは洗礼についてこのように話しています。 「わたしたちの先祖は皆…海を通り抜け、 皆…海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられた。」(コリント第一10:1-2から)パウロはイスラエルが紅海を渡る出来事が、罪のエジプトから抜け出し、救いのカナンに入る清めの礼であると理解しました。つまり、洗礼は罪を洗う清めの礼の意味を持っているという意味です。だから、洗礼はひとえに罪人だけが受ける儀式なのです。ところが素朴な姿のメシアが、突然現れ、洗礼者ヨハネに洗礼を求めたのです。イスラエルの民衆も、洗礼者ヨハネも、白馬に乗った強力な王のようなメシアを待っていたのかもしれません。しかし、荒れ野のメシアは全く別の姿で現れ、しかも罪人が受けるべき洗礼を受けたのです。これは、人々が期待していたメシアの姿とは、あまりにも異なる失望すべき様子ではなかったのでしょうか。そのような理由なのか、時間が流れ、洗礼者ヨハネは、イエスにこのような質問をします。 「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」(マタイ11:2-3) 3.仕えるために来られたメシア。 イスラエルの民衆が念願していた荒れ野からのメシア、イエスは、征服者の姿ではなく、素朴な大工の姿で来られました。そして、この地上での御働きをお始めになる前に、罪人と共に洗礼を受けられました。これは、すべての人々が予想していたメシアの姿とは、全く違うものでした。神でいらっしゃるイエスは、自らみすぼらしい人間の立場に降りられました。罪のない神様でしたが、罪人の立場に進んで行かれたのです。そして、その全てのことは「正しいこと」を成し遂げるためでした。ローマ書を説教したとき、このような言葉がありました。「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。」(ローマ10:4)イエス様が自ら罪人の立場に御降りになり、水で洗礼を御受けになった理由は、御自分を信じる者たちに神の義を与えてくださるために、イエス様が律法の目標になるためでした。ただの人間としては決して達成できない、律法の目標をイエス様が人間の立場にこられ、代わりに成し遂げてくださいました。イエスは罪のない神様でいらっしゃるので、罪を贖う権限があり、同時に人間でいらっしゃるので、その罪を代わりに背負うことも御出来になる方です。したがって、今日の本文に出てくるイエスが受けられた洗礼は、イエスが世のすべての罪人の代表者になると共に、すべての人間の弱さを代わりに背負う崇高な自己否定を意味するものです。 このような自己否定が、メシア、イエス・キリストの最大の特徴です。人々は強力なメシアを願っていたかも知れません。洗礼者ヨハネも自分に洗礼を授けてくださる強力なメシアを望んでいたかも知れません。ひょっとしたら、私たちもメシア・イエスが、強い力を持って、この世を御裁きになることを願っているかも知れません。しかし、初めて来られたイエスは、罪人への裁きではなく、罪人への赦しを持って来られました。主は自ら十字架での死に進み、罪人であるこの世の誰も達成することが出来なかった贖いと恵みをくださるために、強力な征服者ではなく、苦難のしもべとして来られたのです。イエスが受けられた洗礼は、ご自分が無慈悲な審判者になるためではなく、むしろ、無慈悲な裁きを受ける者になるための象徴的な出来事です。ここに今日のマルコ書の説教の主題が含まれています。いくら、強力な者が来て、世界を裁くと言っても、人々に罪の影響が残っている限り、世界は再び堕落してしまいます。罪の影響がはっきり解決されなければ、世界は、しばらくは清くなっても、間もなく罪によって汚されるはずだからです。したがって、真の救いは、罪の解決から始まります。罪が、その力を失うときに初めて、世界は本当に変わることが出来るからです。イエス・キリストは、素朴で低い姿で来られました。そして、自ら罪人に代わって、苦しみを受けるメシアとして来られました。イエスが洗礼を御受けになった理由は、独りで強力な審判者になるためではなく、一緒に罪から逃れるための、民と共におられる救い主であることを証しするためでした。 締め括り。 日本でキリスト教会は全人口の0.5%にも至らない微々たる規模の共同体です。どこから見ても、日本社会に大きな影響は及ぼせない存在です。そのため、為政者が靖国神社などを参拝したり、信教の自由に反する政策を広げたりするたびに、どんなにキリスト教系から声明を出しても、目立つ反応はありませんでした。そのたびに、教会の誰かはイエスが再臨なさって、この国を支配なさり、イエス・キリストの父なる神のみに仕える国になることを夢見るかもしれません。私たちは、そのように強力なキリストを願っているかも知れません。しかし、神はいつも人間の考えとは異なる方法で働かれる方です。神はむしろ微々たる力でも、日本の教会が一つになって、神の愛と福音を伝え、少しずつ、この国を変えて行くことを、より望んでおられるのではないでしょうか。まだ、神を信じていない99.5%以上の日本の人々を愛しておられる神様は、0.5%の教会を通して、日本社会に神の愛を伝え、残酷な裁きではなく、暖かい救いを伝えるのを願っておられると思います。罪人が受ける洗礼を、共に受けられたメシア、イエス・キリストは、今日も日本の人々のための代表者になられ、裁きではなく、救いを与えることを願っておられる方です。ご自分は無垢な方にも拘わらず、喜んで洗礼を受けられ、罪人の立場に降りられたイエスを覚え、この日本社会のために私たちの教会が何をしていくべきか考えてみる1週間になること望みます。

洪水Ⅱ‐世の希望、神の箱舟 。

聖書 創世記7章1-16節 (旧9頁) ローマの信徒への手紙8章19-22節(新284頁) 前置き 神が世界を造られた理由は、被造物に崇められるためでした。神は被造世界を造り、神に象った人間をも造って、その被造世界を支配させ、被造物に対する人間の導きを通して、被造物に礼拝される世界を望んでおられたのです。被造物の中で人間が重要な理由は、まさに、この世界を神に導かれ、崇めさせる祭司の役割を持っていたからです。しかし残念なことに、祭司として創造された、その人間の堕落のため、この世に罪が侵してくるようになり、世界は罪の影響下に置かれることになってしまいました。そのような人間の罪は神の御前に、さらに大きい不義をもたらし、最終的には神を崇めるために造られた、この世界は、罪によって堕落してしまいました。人間の堕落が、この世界の堕落につながったというわけです。結局、ノアの時に至って、神は堕落した、この世を水でお裁きになることを決断なさいました。しかし、神は、そのような堕落した世界の中でも、神に従っていたノアを哀れんでくださり、彼を通して再び機会を許してくださいました。そのために与えられたのが、ノアの箱舟です。今日はこの箱舟が、今の私たちにとって、どのような意味を持つのか、話してみたいと思います。 1.義人を救ってくださる神。 先々週の創世記の説教では、ノアが神にどのような評価を受けたのかを知ることが出来ました。 「ノアは主の好意を得た。」(6:8)私たちは、ノアがどのような人生を送ってきたのか、詳細には知ることが出来ません。彼の仕事、思想、信仰などについて、聖書は詳しく述べていません。しかし、ノアという名前を通して、彼の人生を間接的に推し量ることは出来ると思います。旧約聖書は、多くの場合、登場人物の名前をもって、その人の性格や生き方について説明したりするからです。 「ノア」の語源は、「ヌアフ」というヘブライ語ですが、その意味は「慰める。休ませる。」などの意味を持っています。 「レメクは、主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろうと言って、その子をノア(慰め)と名付けた。」(5:29)ノアの父レメクはノアを儲けた時、ノアが自分の慰めになるだろうと告白しました。また、 6:9では、このノアを義人と称しています。「その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。」日本語の聖書で、「神に従う人」と翻訳されている部分は、原文では「義人」と記録されています。ノアは隣人にだけでなく、人間の罪によって、心を痛めておられた神にも、神に従うことを通して慰めになっていたでしょう。 「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。」(6:22)ノアは、おそらく、自分の名前のように隣人を愛し、慰め、罪に満ちた世に対抗して、神に聞き従う義人だったはずでしょう。 神に従い、隣人を慰めたノアは、すべての生命が滅びる状況にもかかわらず、神に好意を得た唯一の人でした。そして、聖書は、そのような好意を得たノアが義人であり、無垢な人であったと証ししています。私たちは、義人という言葉を頻繁に使います。日本では「義人」という言葉を日常生活で、そのまま使うかどうか分かりませんが、明らかにそれに相応する「善良な人、正義の人」などの単語があるでしょう。聖書でも「義人」について少なからず言及されています。それでは、この義人は一体どんな人なのでしょうか?今日の説教ではっきり分かるのは、聖書で語られる「義人」は、単に「正義の人や、善良な人」だけを意味するものではないということです。聖書が語る「義人」とは、神の御心に従って、従順する人です。ノアは「神を愛し、隣人を愛する。」という、神の御心に完全に従い、神の前で無垢な者でした。そのため、彼は神に義人だと認められて、神の好意を得たのでしょう。とにかく、確かなことは、神に義と認められた彼に与えられた報いは、世界の何ものも避ることが出来ない洪水の裁きから避けられる恵み、つまり箱舟を得たということでした。神は全世界を滅ぼそうと決断なさったにも拘わらず、一人の義人、ノアを大切に扱ってくださり、生き残る手立てをくださいました。まさに今日の箱舟のことです。 2.義人に委ねられた被造物の救い。 ところで、今日の本文によると、神に義と認められた人が、たった、ノア一人であったにも拘わらず、神はノアだけでなく、他の存在をも救ってくださったということが分かります。 「雨が四十日四十夜地上に降り続いたが、 まさにこの日、ノアも、息子のセム、ハム、ヤフェト、ノアの妻、この三人の息子の嫁たちも、箱舟に入った。 彼らと共にそれぞれの獣、それぞれの家畜、それぞれの地を這うもの、それぞれの鳥、小鳥や翼のあるものすべて、 命の霊をもつ肉なるものは、二つずつノアのもとに来て箱舟に入った。 」(12-15)神はノアだけでなく、ノアの家族、また、すべての動物をも、それぞれに救ってくださいました。特に動物に関しては清い動物も清くない動物も連れ、彼らさえも救ってくださいました。神に義と認められた1人によって、彼の家族だけでなく、聖俗を問わず、すべての肉なるものが、神から与えられた箱舟に乗られたのです。何年前か、「ノア – 約束の舟」というハリウッド映画がありました。内容は聖書に基づきましたが、 世俗映画だったので、神学的な価値は非常に低いと思いますが、それでも、記憶に残る場面がありました。蛇たちが集まってきて、箱舟に乗る場面でした。聖書の代表的な清くない動物である蛇さえ、箱舟に乗る場面は、かなり深い印象を残しました。ノアという義人のために、不正な動物さえ、救いを得ることを見て、私たちは、この義人という存在が持っている重要性が、どれだけ大きなものか再び感じることが出来るでしょう。 義人は自分一人だけ、幸せに生きる者ではありません。義人は、自分だけでなく、他者にも、神の救いの影響を与える大事な存在です。創世記の他の箇所で、神に義と認められたアブラハムに神はこう言われました。 「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し…地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」(12:2-3)神はアブラハムと契約を結ばれ、イサク、ヤコブ、ダビデなどを通じて義人の系図を引き継がせてくださり、最も完全な義人であるイエス・キリストをお許しくださいました。そして、そのイエス・キリストを通して、罪の影響を断ち切られる大いなる御業を行なってくださいました。このように、神は義人を通して、呪いに満ちた、この世に祝福を与えてくださる方です。義人が特別だからではなく、神が、その義人を特別に用いられるからです。(イエスはただの義人ではなく、神そのもの。)神は初めにアダムと結ばれた、被造物の支配という失敗した契約を、別の義人を通して継続なさる方です。神はアダムの失敗のため、罪で汚された世界を裁かれつつ、別の義人であるノアに新しい世界を任せ、御自分の御業を成し遂げられました。私たちが生きている、今の時代にも、神は義人を通して御自分の業を続けていかれる方です。したがって、義人として召されたキリスト者は、常に自分を用いて御働きになる神への信仰を持って、常に神の御心を弁え、へりくだって生きるべきでしょう。ノアを通して、家族と動物たちが救われたように、キリストを通して義人に認められた私たちは、私たちの家族や隣人、この世界の被造物に仕えていくべきでしょう。神は義人を通して被造世界の救いを果たしていかれる方だからです。 3.世の希望、神の箱舟。 改革派教会では、この箱舟を教会のモデルとして扱ったりします。改革派神学によれば、神は義人ノアをお召しになったように、完全な義人であるキリストをお立てになり、彼を通して、この世の新しい箱舟である教会を造られました。イエス・キリストだけが、真の義人であり、彼を信じる人々は、罪の赦しを受け、義と認められ、神の箱舟である教会に属されます。いつか神が世をお裁きになる終わりの日が来るまで、新しい箱舟である教会は、キリストを中心として、世に神の祝福を伝えていくのです。キリスト者は、この教会に属する救われた者です。教会という箱舟に乗り込んだキリスト者は主の福音を宣べ伝え、祈りと御言葉に努め、神の御裁きとキリストの再臨を待ち望んで生きる存在です。しかし、我々はこのような伝統的な改革派神学のみに留まって満足すべきでしょうか。私たちは、ノアの家族だけが船に乗られたわけではないということを確かめる必要があります。神は聖俗を問わず、動物、つまりノアの家族以外の存在をも箱舟に乗らせてくださいました。そして、ノアと一緒に再び世界で生きていくことを許されました。この話は、現代を生きている私たちにどのような教えを与えてるのでしょうか?神の箱舟はノアだけでなく、全ての被造物のためにも与えられたということでしょう。 箱舟の話はこのようにも適用できると思います。まずは、環境的な側面からです。今年、全世界はコロナをはじめ、様々な災いを経験しました。特にその中に産業化による災いが多かったそうです。今年の地球の温度は18世紀より1.1度も上がったそうです。そのため豪雨、猛暑、山火事などが起こったりしました。それは過去のキリスト教の間違った認識によって自然を征服の対象だと思っていた欧米諸国の誤った自然認識が、世界中に広がった結果ではないかと思います。こんな状況下で、我が教会は、自然と環境を愛し、面倒を見、守るべきです。次は、社会的な側面からですが、産業革命を通して、素早く発展した国々は、自国の利益のために他国を侵略しました。また、各国内でも、富裕層が貧困層を苦しめる理不尽が生じ始めました。そのような過去の歴史が国々や人々同師の隔たりをもたらし、依然として世界のあちこちでは、国々と人々の間の傷が残っています。教会は、このような傷を癒し、平和に満ちた世界を作っていく義務を持っています。比喩的な話ですが、自分だけが箱舟に乗っていると思っていた欧米キリスト教の誤った教えのため、「他者は箱舟に乗れなかったと見なし、他者を征服し、弾圧しようとする傾向」が蔓延るようになったのではないでしょうか。ノアだけでなく、他の被造物にも該当される神の救いと箱舟の意味を誤って理解し、教えた教会の過ちの結果が、こんなに大きな問題点をもたらしたのではないかと思います。 箱舟はノアだけのために与えられたものではありません。義人ノアは神の祝福を他の被造物とも分け持つ義務を持っていました。自分の大切な家族だけでなく、他の被造物をも神の救いに招く義務を持っていたわけです。人間を含む、世界のすべての被造物は、神の所有です。神は義人を愛しておられますが、他の被造物をも大切になさる方です。キリストを通して義人として召されたキリスト者は、そのような神の御心に倣い、神と隣人はもちろん、被造世界にも仕える使命を持っています。神がノアに与えてくださった箱舟は義人を通して世界を祝福なさる、神の愛を象徴するものです。新しい箱舟と呼ばれる教会も同様です。教会は自分の利益だけを企んではいけません。隣人、自然、社会等、あらゆる場で、神の救いが伝わるように、仕え、愛して生きるのが教会の在り方ではないでしょうか。洪水によって、すべての肉なるものが裁きを受けましたが、箱舟の中にあった被造物は再び命を続けることが出来ました。キリストの体なる教会は、この時代の箱舟として、被造物を神の御救いへ導く希望にならなければなりません。神はすべての被造物に祝福を与えるために、神の箱舟、つまり教会を許されたのです。 締め括り 「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。」(8:19,21)人間の罪のゆえに、被造物も罪の支配に置かれています。被造物の待ち望むことは、神の子たち、すなわち主の教会を通して、神の子らの栄光に輝く自由を得ることです。神は、この時代の箱舟である教会に天地万物を罪の影響から解放させる使命を与えてくださいました。ノアだけのための箱舟ではなく、他者と被造世界のための箱舟でもあることを覚え、この時代の箱舟である教会の役割をもう一度考えてみる機会になることを願います。私たちは、キリストによって義と認められた義人の集まりです。私たちには義人としての役割が託されています。隣人を愛すると共に、自然と社会の隅々まで関心を持って祈り、仕える志免教会になることを願います。私たち志免教会を通して、志免と須恵そして、福岡に神の祝福が臨まれるように祈ります。神の恵みに満ちる一週間になることをお祈りします。

福音の初め。

イザヤ書40章3-5節 (旧1123頁) マルコによる福音書1章1-8節(新61 頁) 前置き 今週からはマルコの福音書をもって新約の御言葉を学んでいこうと思います。新約聖書には、4つの福音書があります。その中でも、マルコの福音書は、最も簡潔な文体と主題で、イエス・キリストの福音を急進的に伝える書です。そのため、古代のキリスト教の指導者たちは、マルコの福音書を獅子(ライオン)の福音書と呼んだそうです。まるで勇ましい獅子のように、力強く福音とイエスについて証言する聖書だからです。 4つの福音書は、それぞれの特徴を持っており、各福音書は、イエスについて、いくつかの側面から説明しています。マタイは、アブラハムの子孫、ユダヤの王であるイエスを、ルカは人間イエスの生涯を順々に、ヨハネはイエスが、ただの人間ではなく、神そのものであるという観点から述べています。しかし、マルコは、そのすべての視点を省略して、最も重要な福音の真理である「イエスは救い主である。」を宣言することによって始まります。 「神の子イエス・キリストの福音の初め。」今から数ヶ月間、私たちは、この強力な福音の書について学んでいきます。マルコの福音書の説教を通して、神様の豊かな御恵みと御教えに触れることを切に望みます。 1.マルコの福音書はどのような書か? マルコ書は、福音書の中で一番最初に記されたものです。あの有名なローマ帝国の暴君、ネロが皇帝だった西暦64年に、帝国の首都ローマでは大きな火災がありました。火災はローマの3分の2を灰燼に帰し、甚大な被害をもたらしました。ローマ市民の心は怒りに沸き立って、物狂いネロがローマに火をつけたという噂が流れ始めました。政治的なリスクの中に置かれたネロは、市民の怒りを鎮めるために、当時の新興宗教であったキリスト教徒が放火したというデマを飛ばしました。キリスト教は神と隣人を愛し、イエスを伝える善良な共同体でしたが、そのようなデマにより、一瞬にして邪教の烙印を押されてしまいました。そのため、ローマ帝国の内部ではキリスト者への迫害が始まりました。そして、その邪教という汚名と迫害は200年以上の長い間、キリスト教についてまわりました。イエスを信じているという理由だけで信徒たちは闘技場で猛獣の餌にされ、信仰を保つためには、命をかけなければならない、恐ろしい時代を送らなければなりませんでした。キリスト者は生きるために身を隠したり、時には疲れて信仰を捨てたりしました。彼らはただ、キリストへの信仰を告白しただけだったのに、その報いはあまりにも残酷だったのです。 彼らは自然に、こんな問いをするようになりました。 「神様、どこにおられるのですか?」「イエスよ、あなたはどなたですか?」信徒たちの信仰が弱まり、神とキリストへの信仰が崩れていった時、主の民には希望が必要でした。神の子が一緒におられることを、もう一度悟らせなければなりませんでした。マルコ書は、そのような絶体絶命の時、絶望の中に陥れられている信者のために記録された書です。死の恐怖の前で神を探している者らに、すべてを投げ出したいと思う者らに希望と慰めを与えるために、マルコの福音書は記録されたのです。そのため、マルコ書は西暦65年から70年の間に記録されたそうです。マルコ書の頭部には、華麗な述語はありません。むしろ、信仰の源、イエスについて簡潔かつ率直に伝えているだけです。 「神の子イエス・キリストの福音の初め。」このマルコ書は今日を生きている我々にとって、どのような意味を持っているのでしょう?日本という特有の文化、キリスト教の伝道が、あまりにも難しい環境、あの有名な小説家、遠藤周作の小説「沈黙」に書かれているように、「まるでキリスト教という木を根から腐らせる沼」と言われる日本でも、マルコ書は諦めずにそして変わることなく、主イエスの福音を宣言しています。 「神の子イエス・キリストの福音の初め。」主は今日もマルコ書の言葉を通して、神が依然として日本の教会を愛しておられ、その御子はちっともに変わらずに私たちの間におられることを証言しているのです。 2.神の使者、洗礼者ヨハネ。 1節で、御子イエス・キリストの御健在を宣言したマルコ書は、すぐに旧約聖書の啓示を紹介します。 「預言者イザヤの書にこう書いてある。見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」(2-3)マルコ書は、これが旧約聖書の有名な預言者であるイザヤの書での記録だと証言していますが、実際に、この部分はイザヤ書だけでなく、 旧約聖書の最後の預言者であるマラキの言葉が合わせられた部分です。 「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」(イザヤ40:3)「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。」(マラキ3:1)マルコはこの二つの文章を引用し、神の子イエスが、すでに古くから準備され、旧約を通して預言された神のメシアであり、彼が臨む前に、ある使者を遣わして、その道筋を準備させると証言しているのです。マルコ書はその使者が洗礼者ヨハネであり、彼の登場の後、真のメシアであるイエスが来られることを告白しています。使者の登場は、即ちメシアの登場を意味するものだからです。だから、マルコは神の子イエスの福音の宣言の後、すぐに洗礼者ヨハネを登場させます。つまり、救い主の到来が迫ってきたということです。 ところで、イエス当時、「神の使者」というものには、どのような意味があったのでしょうか?これを探ってみるためには、過去の歴史を振り返ってみる必要があります。洗礼者ヨハネが来る約600年前、不従順と偶像崇拝で綴られていたイスラエル民族は、結局、神の厳重な裁きを受けて、バビロン帝国に滅ぼされました。神殿は崩れ、民は捕囚となって異邦の地に連行されました。時が流れ、神はイスラエルを哀れんでくださり、捕囚の身から解き放たせ、再び故郷に帰還させてくださいました。イスラエルは指導者ネヘミヤとエズラを通じ、過去の罪を悔い改め、新たに生まれ変わることを約束しました。しかし、その情熱は長続きしませんでした。彼らは依然として神を信頼しておらず、また、神に従わない愚かな過ちを犯してしまったのです。その時、神様は預言者マラキを遣わされ、旧約聖書の最後の言葉をくださいました。 「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に子の心を父に向けさせる。」そして、400年以上の間に、神は啓示をお止めになりました。神の時をお待ちになり、沈黙なさったのです。神の啓示が消えた時代に、イスラエル民は、ペルシャ、ギリシャ、いくつかの戦争、ローマ帝国の支配を経験し、イスラエルの神ではなく、邪悪な権力に支配されなければなりませんでした。 神の言葉が消えた世界で、イスラエル民族は苦しみを体験しなければなりませんでした。彼らは再び神が共におられることを待ち望みました。民が苦しみの下にいる時、異民族の悪人が彼らの王になって暴政を敷き、祭司たちは祭礼ではなく、権力と富に興味を持ちました。民を教える学者たちは、自分の知識をもって民を蔑みました。徴税人のような売国奴はローマ帝国の側に立って、同胞の血を絞りました。あちこちで強盗が暴れ、イスラエルの過激団体は、ローマ軍との衝突し、社会の雰囲気は荒れに荒れていたのです。イスラエルは、まるで牧者を失った羊の群れように飢え、彷徨いました。そんな彼らにとって、唯一の希望は400年前、神が残された御言葉でした。 「神は預言者マラキの啓示のように、主の使者をお遣わしになるだろう。彼が来ると、やがてメシアがお臨みになり、必ず我らを解放してくださるだろう。」イスラエルの民が、洗礼者ヨハネを歓迎した理由は、このためです。神の使者、洗礼者ヨハネが来れば、もうすぐメシアが来られるはずだったからです。マルコはそんな理由で、洗礼者ヨハネを他の福音書に比べ、いきなり登場させます。洗礼者ヨハネの登場は、即ち神のメシアの登場を意味するものだったからです。 3.イエス・キリストの福音の初め。 イエス・キリストの到来は、希望のない所に希望が、神の支配のない所に神の支配が、御言葉のない所に御言葉が、慰めのない所に慰めが戻ってくるのを意味します。過去に罪のために神から見捨てられ、忘れられた者らが、神の御前に召し出され、神は父になり、見捨てられた者らは子供となる、新しい時代の始まりを意味するのです。イエス・キリストの到来は、神と人間の関係を根本的に新たに確立する空前絶後の新しい歴史の始まりです。イエスはこのようなグッドニュース、即ち福音の初めになる御方です。 「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。」(イザヤ40:3,5)神の使者が先立って来、主の道を備える際に、神はメシアを通してご自分の民に来られ、主の栄光をお現わしくださり、すべての肉なる者が、共にその栄光を見るように導いてくださるでしょう。イエスを通して、人間は一緒に共におられる神の栄光を悟ることになるのでしょう。それは古代帝国に支配されていたイスラエルが、ネロの迫害にうめき声を吐いていた初代キリスト教会が、切実に求めていた主の恵みなのです。今、その恵みはキリストの福音を通して、主を追い求めている、すべての者に許されています。マルコは、そのような神の恵みが、ただイエス・キリストを通してのみ、行われることを強く証言することにより、既に来ておられるイエス・キリストに私達の希望を置くことを促しています。 神の使者として、先立って遣わされた洗礼者ヨハネは、すぐに到来するメシアについて証言し始めました。 「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」(マルコ1:7-8)イエス・キリストは、権能の主です。彼は私たちと一緒におられ、私たちを神のもとへ導かれる方です。彼は私たちの希望なのです。しかし、主につき従うためには、主の福音と力を認めるべきです。過去、イスラエルが犯した不従順の罪を捨てなければなりません。主への堅い信仰が必要です。そのために私達は自分の中にある罪を主イエスの御前に置き、常に御赦しの恵みを求めるべきです。 今日の最後の節では、洗礼者ヨハネは水で洗礼を授け、主イエスは聖霊で洗礼をお授けになると記されています。聖書で水は死あるいは清さを意味します。その二つは全く違う異質のイメージを持っていますが、罪に対しては共通点を持ちます。死者は罪を犯しません。死者は罪に対して清いです。水の洗礼は罪に対して死ぬことを意味します。洗礼者ヨハネは主の到来の前に,まるで罪に対して死んだ者のように罪を捨て、来たる主を待ち望もうという意味で水の洗礼を授けたのです。しかし、主が来られると、単なる罪への死を越えて、義とされた者として蘇り、主と共に歩むことが出来る聖霊の洗礼をお授けくださいます。主イエスを通して、私たちに来られる聖霊は、私たちの中に清い心を造り、私たちを義の道にお導きくださいます。今日の洗礼者ヨハネの物語は、私たちを、そのような悔い改めの場に招きます。そして、福音の初めであり、福音の源である主に私たちを進ませます。私たちの間におられる主イエスを期待し、自分の罪を悔い改め、主の聖霊のお導きを求めていきましょう。私たちを神に導かれる主に、私たちの罪を悔い改めることによって、主の福音に答えて行きましょう。 締め括り 私は時々自分自身にがっかりしたりします。幼い頃から聞かせてもらったイエスの話、神学を勉強しながら、常に接してきたイエスの話、あまりにもたびたび取り上げてきたイエスの話ですので、感謝をもって反応することが出来ない時が少なからずあるからです。しかし、このイエスの福音は絶対に軽んじられてはならない大事なものです。神様は、はるかな昔から、計り知れない長い時間を通して、このイエスを準備され、時をお待ちになり、私たちに与えてくださいました。旧約聖書の民と預言者たちが、命をかけてまで、切に待ち望んだ神のメシアが、このイエス・キリストなのです。この大事な方が、我らのために来られるという予告が、福音が持っている掛け替えのない価値なのです。マルコの福音書を説教しながら、そのイエスの福音を再び心に留める私たちになることを願います。主の共同体である志免教会がマルコ書を通して、その福音に敏感に反応する共同体になることを祈ります。福音の主が我らと共にお歩みになることを願います。

説教 「洪水Ⅰ‐信仰による箱舟。」

創世記6章1-8節 (旧8頁) ヘブライ人への手紙11章6-7節(新414頁) 信仰による箱舟。 先々週の創世記の説教では、アダムの系図を通して、アダムの息子たちであるカインとセトの子孫を比べて話してみました。神を疎かに扱ったカインの子孫と、神を慕っていたアベルの信仰を受け継いだセトの子孫の、互いに対比される生き方について分かち合いました。また、私たち自身は、そのカインとセトの子孫の生き方の中で、どっちの方に近い生活をしているのか、反省する必要があるとも話しました。私たちは、カインの子孫に近く生きているのでしょうか?それとも、セトの子孫に近く生きているのでしょうか?常に自分のことを弁えて生きるべきだと思います。今日は、神が人間の不義をどのように考えておられるのか、また、それに対して、どのような結論を下されたのか、ノアの洪水物語を通して、取り上げてみたいと思います。今日の言葉を通して、罪への警戒心を持って、神に喜ばれ、神の御心に聞き従う志免教会になることを願います。 1.不義の力。 「地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。 神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。」(創世記6:1-2)創世記6章は多少昔話、あるいは伝説のような形式で始まります。神の子らと人の娘たちという表現で始まるからです。歴史的に、この語句には、多くの解釈がついてきました。神の子らが天使を意味するという解釈もあり、地の王たちを意味するという解釈もありました。改革派神学では、神の子らは「神を信じる者」であり、人の娘たちは「神を信じない者」との解釈もありました。諸々の解釈が存在しますが、重要なことは神の子らと人の娘たちが出会い、一つになったとき、神は心を痛められ、裁きを決断なさったということです。 「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」(3)1-3節の言葉を通して、神の子らにしろ、人の娘たちにしろ、両方の存在の遭遇は、善をもたらすどころか、さらに大きな罪をもたらしてしまったということが分かります。 これは「神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。」(2)との言葉から、その手掛かりを得ることが出来ます。神の子らは人の娘たちの美しさを見て、自分が欲しい女を妻としました。ここでの「美しい」という言葉はヘブライ語で「トブ」と言います。これは「良い。」という意味ですが、ここでは「自分の目に良い。」という意味で使われます。しばらく、エデンの園に背景を移してみましょう。アダムの妻、エバが「善悪の知識の実」を見たとき、ヘビに惑わされ、「いかにもおいしそうで、目を引き付ける」と感じました。ここでも、ヘブライ語「トブ」が遣わされています。善悪の実を禁じられた神の御言葉とは別に、自分の目には、その木の実が良いものと感じられたわけです。つまり、今日の本文の神の子らも、エバが犯した罪を同様に犯していたのではないでしょうか?神の御言葉とは関係なく、自分の意志に従うこと、神の御命令よりも、自分の考えが優先される罪を犯したということです。神の子らは、アダムとエバ、そしてカインの子孫のように、神を無視する罪を再び犯してしまったのです。 神は人間が罪を乗り越えていくことを望んでおられたかも知れません。しかし、かつてのカインのため、その希望は破れてしまいました。もし改革派神学の解釈のように、神の子らは、セトの子孫、すなわち信じる者であり、人の娘たちは、カインの子孫、すなわち未信者であれば、最終的にはセトの子孫もカインの子孫のように、神の御前で罪を犯してしまったとの意味として解釈されます。結局、人間は信者にせよ、未信者にせよ、皆が罪人であり、神に失望感だけを抱かせる存在だということです。だから、主を信じる神の民さえも、絶対に罪から自由になることは出来ません。すべての人が罪の影響下にあるという意味です。それは残念ながら現代を生きている私たちにも当たる事柄です。人間の不義は、こんなにも強いものです。 「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(ローマ3:10-12)実に使徒パウロの言葉のように、世の中に本当の義人はなく、皆が悪に向かって走っていく不義の者ばかりです。神の洪水は、このような理由に基づいたものです。神は義に満ちた世界をお望みになりましたが、皆が不義に向かって生きていたからです。 2.神のご堪忍にも終わりがある。 詳しくは説明しませんでしたが、創世記5章はアダムの子孫の系図です。4章はカインの系図であり、5章はアダムの子孫の中でも、セトの系図なのです。聖書に記されているアダムの創造当時を初年とすれば、洪水は1656年後の時点で発生します。(ホームページのお知らせメニューの20200927週報での画像をご参考ください。)これが本当の1656年なのか、象徴的な年数なのかは分かりませんが、大事なのはアダムの犯罪後から、長い長い歳月が流れてきたということは分かります。聖書にはセトの子孫が罪を犯したという直接的な言及はありません。むしろ主の御名を呼び始めたエノシュ、神と共に歩んだエノクのように義人もいました。しかし、我々が見逃してはならないのは、5章の系図に出てくる者らだけが、セトの子孫ではないということです。おそらく系図には、長男の名前だけが記されているのでしょう。つまり、セトの子孫の中にも、多くの人々がいて、彼らの中にも、罪を犯す者がいたと考える必要があるということです。ひょっとしたら系図に登場する人たちも罪を犯したかもしれません。しかし、神はノアの時代まで1000年以上の長い歳月をご堪忍くださいました。罪人が闊歩する時代にも、神は忍耐され、正しい者を探しておられたのです。神が罪人をお扱いになる方法は、まさにご堪忍なのです。神はすぐにお裁きにならず、常に忍耐なさることによって罪人を御覧になる方なのです。 しかし、それでも、神は盲目的に永遠に忍耐する方ではありません。 「主は言われた。わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。こうして、人の一生は百二十年となった。」(3)人の不義のために、御心を痛められた神は彼らから、聖霊を取り上げようとなさいました。アダムとエバが初めて犯罪した以来、多くの罪人が罪を犯してきましたが、神は絶えず忍耐して来られました。いつも彼らが悔い改めて戻って来るのをお待ちくださいました。しかし、決して人間が罪から立ち返ることはありませんでした。結局、神は彼らの限界をご確認なさることになりました。「神の霊が人の中に永久にとどまらない。」という意味は、これ以上、神がご堪忍なさらないということを意味する表現です。結局、神が罪に満ちた、この世を裁こうとご英断を下されたという意味です。懺悔のない人間の姿、創り主のご意志に逆らう人間の本質、神はそのような人間を滅ぼされ、すべてを新しく始めようとなさったのです。「人は肉にすぎないのだから。」という御言葉が、それを証言してくれます。 我らは知らず知らずに「肉にすぎない。」という語句を見ながら、霊は善、肉は悪という極端な思いを持つ恐れがあります。ですが、そのような見方は聖書に適う解釈ではありません。神は創造を終えて、被造物を御覧になり、極めて善かったと仰いました。つまり、霊も肉も神の被造物であるだけに創造の善を秘めているからです。ただ、それらは人間の罪によって歪んでいるだけです。3章で言う「人は肉にすぎないのだから。」とは、もうこれ以上、御霊が宿っていない存在、決して自分で正しくなる可能性のない、明らかな限界を持つ存在という意味として受け入れるべきだと思います。このように罪によって肉にすぎないようになった人間を見て神は心を痛められたのです。 「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、 地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」(5-6)実際に、神は全能者でいらっしゃいますので、心を痛めることも、後悔もされない方です。すべてのことを知っておられるので、人間の堕落をすでに予見しておられるからです。それにもかかわらず、聖書にあえて神が後悔なさった、心を痛めたと記されている理由は何でしょうか?これは神が人間の罪に対して、どれだけ真剣に考えておられるのか、人間に知らせるためではないでしょうか?神は人間の罪に敏感に反応する方でいらっしゃいます。結局、神はこのような人間の罪を御覧になり、裁きを決定なさいます。神の長い長いご堪忍が終わることになったのです。 3.ノアの信仰を通して救いをお許しくださった神。 しかし、神は、そんな罪の中でも、義人がいれば、避ける道を備えてくださる方です。神は義人のいるところに恵みを与えてくださる方です。お手元の別紙の画像を見ていただくと(ホームページのお知らせメニューの20200927週報での画像をご参考ください。)、セトの系図の神の民が全部死ぬ時まで、神は忍耐され、裁きを留保してくださったことが分かります。ノアの父レメクが死に、祖父メトシェラが死去してから、初めて神は洪水の裁きを下されました。セトの系図に出てくる子孫が全く罪を犯さなかったのか、あるいは罪を犯したのか、聖書では知ることが出来ませんが、少なくとも、神は彼らを義人と見なしてくださったのです。そして、彼ら皆が亡くなった時、初めて神はノアの家族だけを残し、世界をお裁きになりました。 「ノアは主の好意を得た。」(8)人間の罪によって世界が堕落し、神が心を痛めるようになったとしても、神は御自分が正しいと認める者に好意を施してくださる方です。しかし、彼らが完全無欠だから好意を保たせてくださるわけではありません。神が彼らをお選びくださり、義と認めてくださったから保たせてくださるのです。聖書はこの好意を恵みと言います。恵みは、神のみから来る主のお贈り物です。 今日の新約本文はノアについてこう述べています。 「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。」(ヘブライ11:7)旧約では出てきませんが、神がノアに好意を施された理由が、ノアの中にあった信仰に基づくことが分かります。堕落した世の中を生きるノアでしたが、それでも神の愛と御導きを信じた、その信仰が神がノアを選び、好意を示してくださる理由になったのです。ノアの信仰は、神に与えられた120年の間、神の御言葉に聞き従い、巨大な箱舟を造ったことを通して垣間見ることが出来るでしょう。 「正しい者は信仰によって生きる。」という言葉のように、ノアは信仰によって義人と認められ、生き残ったのです。世界は依然として罪に満ちています。人間による悪、罪、戦争などが絶えず起こっています。しかし、神はこの混乱な時代にもノアのような信仰者を探しておられます。神はその信仰のある義人を通して、世界をお救いくださるのでしょう。ここで一つ、私たちの大きな慰めがあります。そのような義人が今、私たちの間に、すでに来ておられるということです。神から遣わされた真の義人。まさにイエス・キリストのことです。ノアは不完全な者だったにも拘わらず、神への信仰によって義人と認められました。しかし、私たちの間におられるイエス・キリストは、神そのものであり、信仰と義の源であられます。そして、私たちは、このイエスを信じる群れです。私たちはキリストを信じる信仰によって、義人と認められ、完全無欠な神の恵みのもとにいるのです。 締め括り イエス・キリストは、この時代のノアです。我々は相変わらず罪を持っていますが、そのイエスの恵みによって義人と見なされます。主は箱舟のような主の教会を立てられ、救われる者を探しておられます。イエス・キリストが頭となる私達の教会は、この時代に主が許された箱舟です。そして、私たちは、イエス・キリストと共に、その箱舟に乗り込んだ主の家族なのです。だから、私たちもまた、そのイエス・キリストの心に倣い、信仰の外にいる者らに救いの主を伝えるべきでしょう。堕落したこの世でも義人を探し、長くご堪忍なさる神を仰ぎ見ましょう。やがて世は神の恐ろしい裁きを受けるでしょう。しかし、キリストに救われた群れは、神の国に入るでしょう。その日を待ち望み、キリストの救いと恵みを伝えて生きてまいりましょう。主の恵みが志免教会にありますように祈ります。

わたしの福音。

詩編33編8-15節 (旧863頁) ローマの信徒への手紙16章25-27節(新298頁) 前置き 今日は長い長いローマ書の最後の説教を分かち合う時間です。気軽に始めたローマ書の説教でしたが、説教し続けながら本当に難しい聖書だと考えることになりました。漠然と頭だけで知っている知識を、整理して説教に作ることが、どれだけ難しいのかに気付き、お粗末な自分の知識に反省する時間になりました。今度、機会が許されれば、より分かりやすくて深い説教が出来るように頑張りたいと思います。私たちは過去数ヶ月間のローマ書の説教を通して、私たちに訴えかけられる神の心を学ぶことが出来たと思います。人間の罪と、その破壊力に対する知識、それでも人間への変わらない神の御愛、その人間のために独り子を送って自らを犠牲になさった計画、そして、その独り子を通して、私たちに教えてくださった御救い、神様と共に生きる方法等。多くの部分において、私たちに福音の悟りが与えられる機会だったと思います。これからも皆さんが個人的にローマ書を読まれる時、一緒に分かち合った説教が役に立つことを望んでおります。今後もローマ書を黙想しつつ、私たちを愛しておられる、その神の恵みに感謝する生活を営んでいくことを願います。 1.私の福音 今日の本文は、ローマ書の掉尾を飾る部分です。パウロは、自分がなぜローマ書を書いたのか、この最後の文章を通じ、ローマ教会の信徒たちに話しているのです。 「神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。」 今日の本文で、パウロは福音に対して他の誰かの福音ではなくて、自分の福音、即ち私の福音だと語っています。福音は、この地上のものではありません。福音は人間への神のメッセージです。また、この福音はキリストのみを通して届くものです。福音とは、神がイエスというメシアを通して、この地上に自由と救いの恵みをくださることを伝える良いお知らせなのです。したがって、人間から福音が出てくることはなく、ただ神のみに基づくものです。誰かが自ら「私を通してのみ福音が臨む。」と言うならば、彼は偽者であり、異端であるでしょう。ところで、誰よりも、その福音の価値をよく理解しているパウロが、なぜ「わたしの福音」という言葉を使っていたのでしょうか?皆さんもすでに理解しておられると思いますが、これは、福音が自分から出てきたという意味ではなく、その福音が自分にとって非常に重要な価値であることを積極的に表す告白です。自分の人生の全てをかけて、世の人々に伝えても全く惜しくない、自分の大切な価値が、まさにこのキリストの福音であるという意味です。 「わたしの福音」それは、キリストの福音へのパウロの堅い信仰告白だったのです。 パウロは、ユダヤ民族の若い人材でした。彼は当時の有名なラビであるガマリエルの弟子であり、キリキア州タルソス生まれのローマ市民権者でもありました。今で言うとハーバード大学で、世界的な教授の下で修学し、米国の市民権まで持っている前途有望な青年だと表現できるでしょう。英語は流暢で、高級日本語をも使いこなす自国の文化や宗教への優れた知識を兼ね備えた、日本の素晴らしい人材。パウロがそのような人だったということです。そんな彼が自国と宗教を愛する心で、イエス異端の手下を処断するために、奮然と立ち上がりました。自分の民族に向けた彼の情熱は、純粋で熱かったのです。そんなある日、深い愛国心と信仰をもってイエス異端を捕まえるために出た旅で、パウロは自分の人生が変わる不思議な経験をしました。 「サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。 サウロは地に倒れ、’サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか’と呼びかける声を聞いた。」(使徒9:3-4)神と民族を愛していた青年パウロは、イエス異端を捕まえるために出た旅で、自分がそんなにも嫌悪していたイエスに出会ったのです。 「主よ、あなたはどなたですかと言うと、答えがあった。わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(使徒9:5) 嘘つき、異端、呪われた者と思っていたイエスが現れ、パウロの知識と信念を揺さ振りました。一瞬にして、この有望なユダヤ人青年の心の中に驚くべき変化が起こりました。彼が幼い頃から学んできた神の御言葉、ご自分の民への神の愛が持つ本当の意味、人間の堕落以来、絶えず繋がってきた神の深い御心を悟り始めました。神が長い長い旧約聖書をくださった理由、預言者たちが迫害と苦難の中でも、そんなに主の御言葉を宣べ伝えた理由、ユダヤ民族が存在する本当の理由。神に遣わされて世界を救うメシアが、自分があんなに嫌悪していたイエスだということを認識することになったのです。パウロは、その時初めて、神の福音が何なのかに気付きました。 「この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。」(25-26)キリストの福音は、とっくの昔から世界のすべての民族に示そうとしておられた神の御計画でした。そして、それはキリストを通して、この世のすべての異邦の民族が聞き従うべき御救いと恵みの御命令でもありました。 その日、パウロはキリストに出会って、自分の魂と体、全身で神の福音を悟りました。福音は知識だけで理解するものではありません。福音とは、神の御心が人の心の中で生き生きと働くものです。聖書の御言葉に詳しいのも、その教義をよく理解しているのも重要です。(そのために教師がいるわけでしょう。) しかし、そのすべてを知っているとしても、その中に隠れている神の心を知らなければ、それは殻に過ぎないのでしょう。(それは教師ではなく、神様のみが教えてくださるのでしょう。)教会で知識を通して学んだ神の御心に私たちの心を従わせ、その神の御心に従順に生きていくこと。その神の御心を隣人に伝えること。それこそが、私たちが追い求めるべき福音、キリストを通して私たちに託されている福音なのです。今、この福音は誰の福音なのでしょうか?それは今、私たちの福音となっているのでしょうか?単に預言者と使徒たちの福音ではないでしょうか?本当に私たちの人生の中で、私たちの人生を変え、隣人に良い影響を与えることが出来る、真の私たちの人生の原動力となっているのでしょうか?私たちは、今日の言葉に出てくる「私の福音」という言葉を疎かにしてはならないと思います。福音はもっぱら「私の福音」にならなければなりません。何ものとも変えることの出来ない、私の人生の原動力であるキリストの福音。その福音に示されている神の愛と恵みが、私の福音として私たちの中で熱く燃え上がることを願います。 2.イエス・キリストの福音。 しかし、「私の福音」というのは私のものではありません。私たちが追求している福音というのは、あくまでもイエス・キリストのみに基づくものです。「わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります…その計画は…信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました」(16:25-26から)私たちを強め、従順に導き、神の御心に従わせる、この福音というのは、ひたすらキリスト・イエスによってのみ生ずるものです。(ここでのキリストについての宣教とはギリシャ語であるケリュグマの翻訳、キリストによるキリストについての宣言を意味する。) これは、福音の力がキリストから出るということを意味します。上半期懇談会では、我々の力不足を身にしみるほど感じました。 「牧師を招聘するのは良い。ところが、今後安定した経済的支援は可能だろうか?これから数年後に志免教会はどうなるのだろうか?」あまりにも伝道が難しい日本という土壌で、その中でも小さな群れである志免教会を眺めながら、私たちはあまりにも現実的な壁に直面しなければなりませんでした。しかし、皆さん、それにも拘わらず福音は変わりません。福音の源でいらっしゃる主が変わることは、決して無いからです。聖書は一度も数字で、規模の大きさで、教会の在り方を求めたことがありません。聖書に出てくる数値や規模は、神の民の集まりを意味するものであって、その大きさを重要視するものではありません。 むしろ神様は神様に希望を置いて従う一人の真の信仰者をさらに喜ばれるのです。 大事なのは、イエス・キリストが「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイ28:18-19)と言われたということではないでしょうか?また、パウロはこう語りました。 「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」(テモテⅡ4:2)福音は「私のもの」である前にキリストによるものです。キリストは教会の大きさと規模に関係なく、御自分を担保に福音を伝えることを命じられました。大事なのはキリストの福音を伝えることです。なぜなら、福音の真の所有者であるイエス御自身が福音に対して責任を負ってくださるからです。歴史上に多くの教会が浮沈を繰り返してきました。ヨーロッパの多くの教会が酒場となり、中東の初代教会があった街には、モスクが建てられています。しかし、主の教会は、別の場所で別の方式で健在です。主の教会は、目に見える建物や団体ではありません。主の教会は、キリストの福音を告白する目に見えない巨大な、主の民の集まりなのです。これは神学的に非可視的教会、宇宙的教会と呼ばれています。したがって、主はその巨大な教会を通して絶えずに福音を伝えて行かれるでしょう。私たちは、そのイエスに従い、現状に絶望するよりは、折が良くても悪くても福音を伝えるべきでしょう。それこそが福音に対する私たちの在り方ではないでしょうか?だから、他の事柄は主にお委ねいたしましょう。 少し長めですが、今日の旧約本文を再びお読みいたします。 「全地は主を畏れ、世界に住むものは皆、主におののく。主が仰せになると、そのように成り、主が命じられると、そのように立つ。主は国々の計らいを砕き、諸国の民の企てを挫かれる。主の企てはとこしえに立ち、御心の計らいは代々に続く。いかに幸いなことか、主を神とする国、主が嗣業として選ばれた民は。主は天から見渡し、人の子らをひとりひとり御覧になり、御座を置かれた所から、地に住むすべての人に目を留められる。人の心をすべて造られた主は、彼らの業をことごとく見分けられる。」(詩篇33:8-15)今日の説教を準備しながら、私はこの詩編の言葉がしみじみと心に届きました。教会の存亡と将来について心配している私たちに、これ以上完全な説教があるでしょうか?恐れ戦くべき立場は、私たちではなく、教会の外の世です。教会が世に判断されるのではなく、神が世をご判断なさるのです。主の企てはとこしえに立ち、主を神とする民は幸いになるでしょう。したがって、目の前の状況に恐れず、イエスの福音の力を信じてまいりましょう。 「この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン」(27)キリストは、神に栄光を帰すために、御自分の福音を成し遂げて行かれるでしょう。 締め括り 今日は「私の福音」即ち「キリストの福音」についてお話しました。キリストの福音は決して変わりません。主を通して全世界は神の前でおののき、ひれ伏すことでしょう。その主が私たちの主であり、その主を通して私たちは赦され、御前に正しいとされるでしょう。その救いと恵みの良いお知らせが、まさに私たちの福音なのです。主は世の終わりまで、永遠に共におられると私たちに約束なさいました。イエスは終わりの日、万物を裁き、神に栄光をお帰しになるのでしょう。ですので、イエス・キリストを信じて、恐怖を振り払っていきましょう。神はキリストを通して、私たちを主の栄光に導いてくださるのです。福音の主であられるイエス・キリストの恵みが、皆さんの上に豊かにあることを願います。

二つの系図。

創世記 4章16-26節、5章28-29節 (旧6-7頁) エフェソの信徒への手紙4章22-24節(新357頁) 前置き 初めの人は、神に象った存在として生まれました。初めの人は、神のように義を求め、神と和やかで、共に歩み、神の御心を示す存在として生まれたのです。使徒パウロは、エフェソ書4章24節を通して、このように語っています。 「神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」「新しい人を身に着ける。」という表現は、神が御計画なさった神に象られた、創造の時の人間像を回復せよという意味です。そして、その創造の時の人間像は「真理と正しさと清さ」を身に着けている義人を意味するものです。つまり、神に象ったということは、神様に由来する「真理と正しさと清さ」を持っている存在を意味します。ところで、この「真理と正しさと清さ」を破るものは人の罪です。初めにアダムが堕落して以来、今までに、神は「真理と正しさと清さ」を追い求める人を探して来られました。そして、今日の本文は、それを追求した者らと疎かにした者らの系図を示しています。今日は創世記4章に出て来る、神を追求する系図と神を求めていない系図について分かち合いたいと思います。 「私はどの系図に属する人なのか?」自分のことを省みながら、御言葉にあずかりたいと思います。 1.罪人をお捨てにならない神。 初めの人間、アダムは神のようになろうと、神との約束を破り、その結果、神から呪いを受けました。そのため、彼は神の御前から追い出されたのです。しかし、神は彼に怒りだけを発してはおられませんでした。彼が罪を犯したにもかかわらず、神はイチジクの葉でかろうじて体を覆っていた彼に皮の衣を着せてくださり、すぐに殺すことはなさ らず、代を継承する機会を与えてくださいました。確かに彼から永遠の命は御取りになりましたが、少なくとも彼の分身のような子供たちを儲ける余地は残してくださったのです。アダムはいつか死ぬのです。しかし、彼の子孫は、代を継いでアダムという先祖があったということを覚えるでしょう。愛の神は人間の滅びを望まれる方ではありません。アダムは、しばらくして、カインとアベルという二人の息子を儲けることになりました。成長したカインとアベルは、めいめい農業と牧畜を営み、エデンの周辺に住みつきました。神はアダムと同様、彼らをもお捨てになりませんでした。約束を壊し、神との関係が切れてしまったアダム、また、彼から生まれた息子たちでしたが、愛の神は、依然として彼らの人生の中に共におられたのです。 しかし、罪によって堕落した人は、神に完全な礼拝を捧げることができませんでした。アベルは純粋に信仰を守り、神の御心に相応しく生きようとする者でした。しかし、カインは神に完全な礼拝を捧げませんでした。同じ親から生まれ、一緒に神について学んだにも拘わらず、アベルは神を追い求めたのに対し、カインは神を疎かに扱ったのです。人の罪は人が完全に神に聞き従えないように、絶えず妨げるものです。ひょっとしたら、私達の中にもカインとアベルの生き方が存在しているかもしれません。時にはアベルのように完全な礼拝を夢見たりしますが、時には、カインのように神を疎かに扱ったりするという意味です。結局、カインはアベルへの憤りと妬みのため、一人だけの弟を殺してしまいました。人の罪の勢いが、神を追求する善い心を押さえ込んでしまったのです。このような出来事を通して、カインは、なおさら神から呪いを受けてしまいました。しかし、それでも、神はカインをお捨てになりませんでした。先々週の説教でも申し上げましたが、神はカインが「エデンの東」に落ち着くことを許されたのです。神はむしろカインが戻って来るのを望んでおられ、機会を与えてくださったのです。その証拠がまさに今日、登場するカインの系図なのです。たとい罪人だといっても、子孫を通してでも、彼らが戻ってくるのを望んでおられるのです。神は罪人に絶え間なく懺悔の機会を与えてくださいます。悔い改めて戻ってくることができるように、忍耐に忍耐を重ねられるのです。 2.なぜ神は罪人の存続を許しておられるのか? しかし、残念なことにカインの子孫が神に戻ってくるのは、今日の本文では現れていません。むしろ、カインの子孫レメクは自分の力を誇るために、小さな傷の報いとして、ある弱い男を無惨に殺す罪を犯しています。 「レメクは妻に言った。わたしは傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。」(23)それなのに、レメクは自分の殺人が正当であると居直りをしています。それだけでなく、神の言葉を引用して、このように告げてもいます。 「カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍。」(24)自分が神より11倍も大きい罰を下すと威張っているのです。このカインの子孫は、カインの悪をそのまま受け継ぎ、隣人を翻弄し、神をまで嘲弄しました。アダムの反逆から生まれた小さな罪の種が、アダムから永遠の命を奪い、カインが神に正しい礼拝を捧げることを妨げ、弟を殺す悪を作り、カインの子孫レメクが、神を嘲笑する絶え間ない不義をもたらしました。神は常に罪人に悔い改めの機会をくださいますが、もし罪人がその罪を悔い改めなければ、その罪はさらに大きくなり、一層あくどい罪を犯すように導きます。実に、罪というものは延々と人間を悪に追い込む厄災なのです。 レメクは神を嘲笑しつつ、まるで自分が神よりも強力な存在でもあるかのように、自分を高ぶっていました。しかし、それでも神は彼を、直ちに裁いてはおられませんでした。むしろ、彼の子供である、ヤバル、ユバル、トバル・カインが経済、文化、技術を掌握し、世界の先端を主導するように放って置かれました。神はなぜレメクと、その子供たち、すなわち罪人カインの子孫を直ちに裁かれなかったのでしょうか?カインはヘブライ語で「儲ける。生む。」という意味です。アダムが罪を犯し、永遠の命を奪われたにも拘わらず、神は死に値するアダムに息子をくださり、跡を継げるように、新しい命を与えてくださいました。これは神が罪人を許されたという意味ではありません。ただ、彼らが罪から離れ、神に戻ってくることを願っておられたからです。つまり、罪人から一縷の望みでも探そうとなさったからです。神は人殺しではありません。神は殺す方ではなく、生かす方なのです。したがって、神様も罪人をつれなく処断なさるよりは、彼が悔い改める機会を与えようとなさるのです。しかし、神は強制的に人間を操ることはなさりません。いつも人間に機会を与えてくださいます。罪に従うか?神様の御赦しの機会に応じるかは人間次第です。神は、そのためにアダムに与えられた自由意志を堕落したアダムの子孫たちにも残されたのです。もちろん、周知の事実のように罪人の自発的な懺悔はありませんでした。だからこそ、罪人を悔い改めに導かれる主イエスの恵みが輝くのでしょう。しかし、罪人への神の愛は私たちに神の御心を教える大事なものだと思います。 私たちは、偶にはこのように問い掛けたりします。 「なぜ神は不義な者をじっと置かれておられるのだろうか。」私は、今日の話を通して、こう答えたいと思います。 「愛の神は、彼らにも戻って来られる機会を与えてくださるのだ。人は誰もが、いつか死ぬに決まっているので、神の御裁きは定まっているのです。人間の目には、鈍く見えても、神の裁きは休まず進められているのです。命が尽きる、その日まで神様が与えられる、赦しの機会を捕まえられなければ、最終的には人間は死で裁かれます。そして肉体の死の後は、神に永遠に捨てられる真の死があるのでしょう。今、世の中はレメクの子たちのように、経済、文化、技術に大きな価値を置いて、肉の財力、権力、誉れに執着しています。いやひょっとしたらイエスを信じると告白している私たちも、それに捕らえられているのかもしれません。しかし、それらは神に逆らうカインの子孫も得ることが出来るものです。むしろ、カインの子孫が、そのようなものを掌握しているといっても過言ではないでしょう。しかし、そのような派手なものに対比される神への悔い改めと従順は、みすぼらしく見えます。神はいつも罪人にチャンスを与えてくださいます。罪人はいつも、そのような分れ目を前にして生きていくのです。私たちは、この華麗な世の文化の反対側にある、悔い改めと従順に集中しなければならないキリスト者たちです。キリスト者は、カインの道から外れ、神が与えてくださる赦しの機会を追い求めるべき存在なのです。 3.二人のレメクの物語。 アダムを通して生まれたカインとアベル、人類はこの二人の性質に沿って分かれます。神を疎かにするカインのような者と、神を大切にするアベルのような者。しかし、アベルはカインに殺されました、そのため、神はアベルの代わりにセトという息子を与えてくださいました。セトという名前はヘブライ語で「保存する。得る。」という意味を持っています。セトがアベルに代わる息子だという意味でしょう。アベルの純粋な信仰が、このセトを通して受け繋がれたということです。 「再び、アダムは妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けた。カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授けられたからである。セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。」(25-26)26節にセトがエノシュを生んだ時、人は初めて神の御名を呼び始めたと記されています。 「神の御名を呼ぶ。」という意味は、ヘブライ語の慣用句で神を礼拝し始めたという意味です。神はセトを通して、アベルが求めていた神への愛と仕えを回復させられたのです。しかしどういうわけかセトの子孫は、カインの子孫のように華麗で力強い印象は与えていません。有名なエノクを除けば、皆いるのかいないのか分からないほどの存在感で系図に名前が載っているだけです。このように、聖書では時々、義人が悪人より劣っているように描かれる場合もあります。しかし、神は人間の強さより、弱さの中でも、神を待ち望む、その謙虚な心をより大事に、評価なさいますので、神にとってセトの子孫の、その弱さは大きな問題にはなりませんでした。 面白いことにセトの子孫、すなわちアベルの精神的な子孫の中にもレメクという人がいました。カインの子孫の中にも、セトの子孫にもレメクという同じ名の人がいたのです。 「メトシェラは187歳になったとき、レメクをもうけた。」(5:25)(今日の本文は長すぎて、5章の一部だけを読みましたが、なるべく帰宅後に創世記5章全体をお読みいただくことをお勧めします。)セトの子孫レメクは、あのノアの箱舟を造った有名な人物ノアの父なのです。しかし、彼はカインの子孫レメクとは違い、神の御名を呼ぶ人、すなわち礼拝者でした。 「彼は、「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう」と言って、その子をノアと名付けた。」(5:29)彼は神の約束を信じていました。神が女の子孫がヘビの子孫を打ち砕くという約束の言葉を待ち望み、その子ノアを通して神の慰めを願ったのです。同じアダムの子孫で、同じレメクという名前でしたが、二人は全く別の眼差しを持って、神と世を見ていたのです。一人は自らが神よりも偉大な者だと思い上がって高慢に生き、他の一人は神様が自分のことを慰めてくださるという謙虚さをもって生きました。私たちもまた、このような高慢と謙虚の岐路に立っているのではないでしょうか。カインの子孫のように生きるべきか、それとも、セト即ちアベルの子孫のように生きるべきか、いつもそれは私たちに課題として与えられているのです。 締め括り 「以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、 神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(エフェソ4: 22-24)使徒パウロは、今日の新約本文の言葉を通してキリスト者なら、罪人の時の生き方を捨て、キリストによって与えられる、新たな心を持って、神に象って作られた者らしく生きることを促しています。私たちは、カインの子孫とアベル、即ちセトの子孫の話を通して、古い人と新たにされた人の生き方について、考えてみることが出来ました。新約時代を生きている私たちは、神の義を完全に成し遂げられたイエス・キリストに力づけられて生きている存在です。イエスは私たちの罪の償いを完全に支払ってくださり、また聖霊を送ってくださり、神の御心に相応しいキリスト者としてお召しくださいました。このような私たちが、旧約時代のカインの子孫ように神を疎かにして生きるということは、イエス・キリストを裏切る人生になるでしょう?まだ、イエスが受肉されなかった時代のアベルとセトの子孫も、神の前で義人になるために、一生懸命に神に仕えていきました。まして、キリストの体である私たちは、なおさら真実に生きるべきではないでしょうか。イエスがいつも私たちの力になってくださるからです。私たちの生をアベル、即ちセトの子孫の生のようにしてまいりましょう。主に召される日まで、その生き方を貫く志免教会になることを願います。