洪水Ⅲ‐ 永遠の虹の契約。

創世記9章1‐17節 (旧11頁)テモテへの手紙Ⅰ2章4節(新385頁) 前置き 創世記で、イスラエルの先祖、アブラハムが登場する箇所まで、最も多くの部分を占める物語は、断然、ノアの箱舟と洪水の裁きに関する話だと思います。アダムの堕落後、その10代目のノアが登場するまで、長い時間をかけて、神は人間の罪と悪を忍耐なさり、人間に悔い改めを要求してこられました。しかし、義人は極めて少数であり、殆どの人間は罪に罪を重ねて、神から離れるばかりでした。結局、神は、そのような罪にまみれた人間をお造りになったことに、御心を痛められ、結局、裁きをくだされましたが、まさにそれが洪水だったのです。神が真心を込められて、創造なさった世界が裁かれるということなので、洪水の物語は、決して軽視すべき話ではありません。人間の罪は、神が喜びをもって造られた、被造世界を打ちこわし、裁きに追いこむ、恐ろしい結果をもたらします。創世記6章から9章にわたって、長い紙面が割かれるほど、そして神の厳しい裁きをもたらすほどに、罪の結果は悲惨なものです。今日は人間の罪と神の裁きとしての洪水について話し、それにもかかわらず、正しい人を通して、新しい御業をお始めになった、神の愛と恵みについて、分かち合いたいと思います。 1.人間の罪の性質と箱舟の意味。 洪水については、前の2回の説教にわたって分かち合いました。少し時間が経ちましたので、記憶を辿るために再び話してみましょう。「地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。 神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。」(創世記6:1-2)洪水の物語は、神の御言葉から離れ、神を無視し、身勝手に振舞おうとした人間の罪から始まります。初めのアダムとエバは、神の御座を貪り、神のようになろうとしました。それは人間の堕落と呪いを招きました。しかも、長い歳月が経っても、人間のそのような罪の性質は、全く変わりませんでした。神の御言葉とは関係なく、自分の意志にこだわり、神の御命令よりも、自分の考えを優先しました。ノアの当時の人々の罪の性質は、依然として変わらず、世の中に蔓延っていたのです。神は彼らが悔い改め、神に帰ってくることを、長い間、忍耐されつつ、待って来られましたが、人間は日増しにあくどい罪を犯していったのです。神は長く忍耐なさる方でしたが、その忍耐は永遠ではありませんでした。結局、神は人間を造ったことを悔やみ、洪水で裁く計画を立てられたのです。しかし、そのような罪人の間にも、神を愛し、仕える正しい人がいました。その人はノアでした。 「その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。」「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。」ノアは、自分の考えではなく、神の御言葉に聞き従い、神と隣人を愛する正しい人でした。神は罪に満ちた世の中で、このような義人を愛し、探しておられる方です。世界のすべてのものが滅ぼされる状況でも、神は義人を生かそうとなさる方です。そのために作られたのが「ノアの箱舟」なのです。神は正しい人ノアを通して、ノアだけでなく、その家族と他の被造物をも、箱舟に乗り込ませ、救われる機会を与えてくださいました。つまり、1人の義人への救いが、他者にも救いの機会をもたらしたということです。一人の義人の存在と従順が、他者を生かす、大きな結果になったのです。私たちは、このノアと箱舟を通して、我々を救ってくださる主イエスと、箱舟のような教会の在り方についても学ぶことが出来ました。神の裁きは、人間の罪のために下されたものです。そして、義人は、その裁きの中で新しい希望を作り出しました。その希望は箱舟という名前で、多くの命を救い出しました。私たちの間におられるイエス様は、今日も教会という箱舟を用いて、救われるべき者を探しておられます。このように、私たちは、ノアと洪水と箱舟の話を通して、罪の恐ろしい結果と、真の義人キリストの救いを聞くことが出来ました。 2.御裁きになる神様。 かといって、裁きが取り消されるわけではありません。ノアによって多く存在が箱舟に乗り込み、救われたにも拘わらず、神の洪水の裁きは変わらず、やって来ました。神は御自分が与えてくださった箱舟という救いの機会を捕らえなかった、すべての存在に計画どおり、裁きを下されました。神はノアと、その家族、他の被造物を箱舟に乗り込ませ、手ずから箱舟の戸を閉ざされました。また、大いなる深淵の源をことごとく裂けさせ、天の窓を御開けになり、四十日四十夜、雨を降り続けさせられました。洪水の水位は山頂を上回る膨大な量で、罪にまみれていた世のすべての生命は、それによって最後を迎えることになったのです。生き残ったものは、ノアと箱舟に乗り込んでいた存在だけでした。 「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた。」(創世記8:1)膨大な雨で全世界が裁かれた後、神は義人ノアと、彼によって生き残った命を御心に留め、彼らのために洪水をお止めになりました。箱舟はアララト山の上に止まりました。時間が流れ、洪水は徐々に減り、神は箱舟から生き残った命を再び世界に戻してくださいました。箱舟から降りたノアは、神に焼き尽くす献げ物をささげ、神はそれをお受け入れになりました。 神はこの世に救い主、イエスを送ってくださいました。イエスが来られてから、2000年以上の間、神は引き続き、救われるべき者を呼んでおられます。まるで、480歳で神の召しを受けて、120年の間に箱舟を作成しつつ、裁きを予告したノアのように、神は今日も御言葉を通して裁きを予告しておられます。しかし、そのような予告は永遠に与えられるものではありません。神はいつか、その予告を終わらせるはずであり、それからは、すべての存在は、恐ろしい裁きを受けるようになります。 「主は来られる、地を裁くために来られる。主は世界を正しく裁き、真実をもって諸国の民を裁かれる。」(詩篇96:13)神の裁きは、御自分の御旨による結果です。義と真実の神様は、神に従った者と逆らった者を、確実にお分けになるに違いないのです。だから、私たち教会の使命は重いものです。ノアが自分の箱舟を通して、多くの命を救いに導いたように、キリストの体なる教会は、数が多くても、少なくても、神の救いを伝えて生きるべきです。キリストは救い主であり、神の御裁きが、明らかに来るということを、隣人に伝えて生きるべきです。それが伝道なのです。命の道を伝えることです。私たちの伝道は、ただ、神の救いと愛だけを伝えることではありません。明らかに近づいてくる、神の恐ろしい裁きをも、必ず伝えなければなりません。主の体なる教会は、そのような裁きを伝える、箱舟の使命を持っている存在なのです。 3.神と被造物の永遠の契約 – 虹 人間の罪で満ちていた世界は、神の裁きによって、新たになりました。神の裁きは、人からすれば滅びと終わりを意味するものですが、神と世界から見れば、新たなることと始まりを意味します。私たちは、過去、何回かの説教を通して、聖書で水が持つ意味について取り上げてきました。聖書で水は死を意味することと共に、清めを意味する2つの側面を持っていました。そのため、水をもって授ける洗礼は、罪への死と義への復活を、そして、罪を清めることを意味すると学びました。神の洪水は、罪人を滅ぼす、裁きとしての手立てでありますが、世を新たにさせる、清めの手立てでもあります。なので、洪水は、罪の裁きだけでなく、新天新地をもたらす神の強力な御業としての意味をも持っているのです。つまり、私たちは人間の視点から裁きを眺めるだけではなく、神の視点からも裁きを考える必要があるということです。洪水が終わった地上にノアの家族と被造物を送られた神は、こう言われました。 「産めよ、増えよ、地に満ちよ。 地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。」(創世記9:1-2)神は、悪が消えて新たになった世界で、新しい始まりを許してくださり、義人ノアに、全ての被造物をお任せになりました。 神は、ノアに新世界をお委ねになり、また、このように言われました。 「肉は命である血を含んだまま食べてはならない。…人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。」(9:4,6)ここで「血を含んだまま食べてはならない」という言葉は何を意味するのでしょうか?ちょっと、変な例かも知れませんが、ステーキを食べるとき、レアが好きな人はステーキの赤身から血が流れ出ることを知っています。神は血を含んだまま食べてはならないと仰いましたが、それでは、レアが好きな人は、神の御言葉に逆らう罪人なのでしょうか?もちろん、そうじゃないと思います。 「血を含んだまま食べてはならない」という言葉の意味は、他者の命を尊重し、愛しなさいという意味です。創世記が記された当時の中東の文化で、血は命を意味するものでした。 「焼き尽くす献げ物の場合は、肉も血もあなたの神、主の祭壇にささげる。その他のいけにえは血をあなたの神、主の祭壇の側面に注ぎ、肉は食べることができる。」(申命記12:27)旧約聖書には、「献げ物の血を祭壇の側面に注ぎなさい」という言葉が何度も記録されています。命の取扱いは神の権限であるため、神の権限である命を人間が勝手に扱ってはならないということを意味する言葉なのです。つまり、過去の罪人のように、身勝手に振舞わないで、神の御言葉を尊重し、神に従って生きなさいということです。 裁きが終わり、新たに始まった世界では、人が独断的に自分自身の意志で生きることではなく、神に従って歩み、神と隣人への愛を持って生きることを願われたのです。神はそのような、正しい生き方で、新しい世界を作っていくことをお望みになったのです。神はそのような罪から自由になった新しい世界を望まれながら、「あなたたちは産めよ、増えよ、地に群がり、地に増えよ。」と、今回は全被造物に御命令なさいました。再びエデンのような条件を許してくださるかのように、人間と被造物に新しい機会を与えてくださったのです。そのような新時代の契約の証拠として、神は虹を与えてくださいました。それは、神と全被造物の新しい契約でした。その契約を通して、「二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」と約束なさいました。 「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」(9:16)神と被造物の永遠の契約の証拠として虹を造られ、この虹を見て、神に聞き従い、神を最優先にして、生きて生きなさいと、被造物と新しい契約を結ばれたのです。このように、神の洪水の裁きは、ノアを初め、すべての被造物に、もう一度機会を与えてくださるという、神の御憐みと愛で終結しました。 締め括り 洪水の裁きについて語りながら、我々は、人間の罪の性質と、神の恐ろしい裁き、それでも義人を愛してくださる神の御心、裁きの中でもそれを逃れる道をくださる恵みについて学ぶことが出来ました。現在、地球の全人口は70億を上回ります。そして、その人類の歴史は、1万年も超えるほど長いのです。つまり、計り知れないほどの多くの人間が、この地上の生を経て行ったということです。そのすべての人間が罪によって、神を苦しめていたはずでしょう。しかし、その中でも、神は神に従う義人をお探しになっておられました。時には忍耐なさり、時には裁かれつつ、義人を待っておられたのです。恐ろしい洪水の中でも、一人の義人と彼による被造物を守ってくださった、神を見て、何としても人間と被造物を救おうとなさった神の愛が感じられます。多くの罪人の罪のために、御心を痛めながらも、一人の義人を通して喜ばれる神の愛を感じます。今日も神様はキリストを通して、救われるべき者を召しておられます。いつか、もう一度、洪水よりも恐ろしい火の裁きが、必ず臨むでしょう。その日がやってくる前に、神は、更に多くの者が救われることを望んでおられます。 「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(Ⅰテモテ2:4)裁きの中で希望をくださり、御救いへと召してくださる神の愛を覚えつつ、その救いに属する者として、神の喜びとなる志免教会になることを祈り願います。