洗礼と試練を受けるイエス。-試練

申命記8章2‐3節 (旧294頁) マルコによる福音書1章9-13節(新61頁) 前置き 先々週のマルコ書の説教では、メシア、イエスが、罪人の受けるべき洗礼を進んで受けられたとの話を分かち合いました。洗礼は罪人が水で洗われて、清くなるという意味を持つ儀式で、もっぱら罪人だけが受ける儀式だったのです。しかし、前の本文では、何の罪もないイエスが洗礼者ヨハネに、敢えて洗礼を受ける場面が出てきました。これは、イエスご自身には罪はありませんが、これから罪人の側にお立ちになり、彼らと一緒に歩み、救ってくださることを象徴することだとお話しました。つまり、主の洗礼はメシア、イエスが罪人の側に立つという崇高な愛の表現だったのです。洗礼は御言葉の説教、聖餐に加えて、改革教会の印を表す重要な儀式です。イエスはご自分を信じる者たちを教会に召され、教会の頭になってくださるために、自ら罪人の立場にお降りになり、洗礼を受け、進んで罪人の代表になってくださったのです。今日は、その洗礼に続く荒野でお受けになる試練について話してみたいと思います。神でいらっしゃるイエスは、なぜ、試練を受けなければならなかったのでしょうか?今日の言葉を通して、私たちを助けられ、愛され、導いてくださるイエスについて、そして、受けられた試練について分かち合いたいと思います。 1.試練 – 神の試み。 今日の本文に出てくる「誘惑を受けられた。」という言葉の原文は「フェイラゾ」というギリシャ語です。これは「試みる。試す。耐える。調べる。惑わす。鍛える。証する。」等、多くの意味を持っています。本文では、「イエスはサタンに誘惑を受けられた。」と出てきていますが、厳密に言うと、サタンがイエスを誘惑したわけではなく、神がサタンを用いられ、イエスにメシアとしての試みを課されたとの解釈が、より正しいと思います。したがって、今日の試練は、試みとも呼ぶことができるでしょう。私たちは試練について話す時、辛くて苦しい苦難などを思い浮かべがちですが、オックスフォード国語辞典では「実力・決心・信仰の程度をきびしくためすこと。また、その時の苦難。」だと書いてありました。つまり、神様から与えられる試練は、誰かを苦しめる刑罰ではなく、試練を許され、信仰を成長させる、養育の方法なのです。私たちは、自分が苦難に遭った時、「私は罪が多くので試練を受ける。」あるいは「神に見捨てられて試練を受ける。」などと心配したりする傾向があります。しかし、我々は、変わることの無い、イエス・キリストの血潮によって救われた存在なのです。ですから、私たちの試練は、神様が私たちを養ってくださるための、父親の養いだという心構えを持たなければなりません。神はキリストを通して、すでに私たちを受け入れ、愛してくださる方だからです。 しかし、聖書は試練のもう一つの側面を示してくれたりもします。 「誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。 むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。」(ヤコブの手紙1:13-14)歴史上、キリスト教が迫害を受けたことが少なからずありました。帝国主義により、共産主義により、試練を受け、数々の殉教者が出たりしました。そのような場合には、明らかに試練として迫害されたと言えるでしょう。しかし、時には教会が神の御言葉から離れ、独善的になり、世の塩と光にならず、嫌われる立場になって、人々の信頼を失った時もありました。恥ずかしいことですが、現代の韓国の教会がそうです。今、韓国の教会は、未信者に歓迎されているとは言えない状態です。いくつかの教会は、建物だけ大きく築く、その教会の有名な牧師が自分の子供に教会を受け継がせ、自分たちの利益のために信者を騙し、他者を蔑む、そのような自己中心的な姿によって、未信者の憎しみを買うようになったのです。 すべての教会が、そうであるわけではないでしょうが、権力と財力のある教会の中で、そんな場合がしばしば生じ、それによってプロテスタント教会全体が嫌われるようになったということです。しかし、そのいくつかの教会は愚かにも、そのような未信者の反応が自分たちを迫害しようとするサタンの仕業だと思って、自らを正当化しようとしたりしました。しかし、そのような迫害と憎しみは、サタンの仕業というより、教会が自ら招いた結果なのです。そのような場合の試練は、神から来るものではありません。ヤコブの手紙の言葉のように、神から離れた教​​会が自分の欲望のために、嫌われるようになったわけです。したがって、我々は、試練が神の訓練であるという心構えを持っている必要はあるでしょうが、まず自分の姿を弁えて、自らを振り返る姿勢を持つことが重要だと思います。私たちの試練が神から来る養いとしての試練なのか、それとも、教会の利己主義と間違いによる結果なのか、それら2つの側面に対する視点を持ち、はっきり自分のことを分別してみる必要があると思います。 2.イエスの受けた試練。 しかし、イエスの試練は、これら二つの側面とは別の意味を持っています。旧約のイスラエルは、神の御助けによって、エジプトの奴隷生活から解放され、荒野に脱出しました。彼らは神の言葉のように、すぐに乳と蜜の流れるカナンに入るだろうと期待していたでしょう。紅海を渡った後、彼らは明るい将来だけが繰り広げられるだろうと考えたのかもしれません。しかし、現実は違いました。食べ物も、水も足りなく、炎の蛇のような危険な生き物も多かったのです。神はわざわざ地中海沿いの近道ではなく、遠回りの長い道のりで、彼らを導かれました。 「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。 」(申命記8:2)神は、彼らが、果たして神を追い求め、頼るかどうか、お試みになるために試練を与えられました。しかし、出エジプトしたイスラエルの民は、感謝より恨みで神を責めました。神の救いと同行よりも、目の前の飢えと不便さに目が向いていたわけです。 最終的に彼らは神の御救いさえ否定し、エジプトに帰ろうとしました。結局、神は40年間、彼らを彷徨わせました。しかし、神は彼らの試練の中で共におられる方でした。 「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(8 :3)神は、ご自分を頼らず、むしろ恨んだイスラエルに試練を与えられました。その試練の中で最後まで一緒におられる神様について、悟らせるためでした。結局、神を恨み、信じなかった最初の世代は、40年を経て、ほとんど亡くなってしまいました。新しい世代だけがカナンに入るようになったのです。旧世代の中では、最後まで神を信頼していた何人かの人だけが、カナンに入ることが出来ました。神への不信仰で一貫していた世代は、カナン入りを許されず、新世代、すなわち神との同行の中で生まれた世代だけが乳と蜜の流れるカナンに入るようになったわけです。 イエスの試練は、これと関連があります。神の国を来たらせるイエスは、人々が自分らの罪によって昔の出エジプト時代の旧世代のように、神に完全に従えないということを知っておられました。マラキ以降400年の間、啓示が切れていた時代を生きてきながら、イエス当時の人々が望んでいたのは、共におられる神そのものというよりは、周辺国と権力者から自分らを救ってくださる神のその力でした。まるで出エジプト世代のように、神ではなく、神の力を用いて強い者からの解放だけを望んでいたことと同様です。しかし、イエスは御自分が、自ら罪人の代表となられ、神の力だけを求める民ではなく、神と共に歩む民にならせるように、人々の代わりに自ら試練を受けられました。そのため、神は人間の行為ではなく、このイエスの御功績により、イエスの名の下にいる者らを認め、赦してくださるのです。イエス様が御自分で試練を乗り越えたため、イエスを信じる者が失敗をしても、神はその人ではなく、その背後のイエスを見て、彼の罪をお赦しくださいます。イエスの試練は、信者に代わって受けられた試練です。そして主イエスは、その試練を、私たちのために乗り切ってくださいました。 3.罪人の代わりに試練を受けられたイエス。 イエスは神様でいらっしゃいますが、人間であるとを自任されました。なので、イエスにこの地上での神としての特権は全くありませんでした。女の体を通して、飼い葉桶で生まれ、財産も権力もないナザレの大工として育ちました。メシアにも拘わらず、洗礼者ヨハネに罪人が受けるべき洗礼を御受けになり、聖霊に送り出されて、荒野で試練を御受けになりました。誰が彼をメシアだと、神様だと思えたのでしょうか?主はお生まれになった瞬間から、神様としての全ての特権と力をしばらく止められて、すべてのことを、罪人の立場から臨まれました。「“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。」(マルコ1:12-13)つまり、イエスは罪人が受けるべき扱いを御受けになったのです。洗礼によって鳩のように臨まれた聖霊は、イエスに神としての力を許される前に、激しい試練に追い出しました。マタイは、イエスがお受けになった試練について詳しく説明しています。 試練については、マタイ書を通して詳細に探ってみたいと思います。まず、四十日間の断食の後、石をパンにしてみなさいとの、サタンの誘惑でした。そのサタンは、致命的な条件をつけました。 「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」(マタイ4:3)サタンは、イエスの最も根本的なアイデンティティである「あなたが本当に神なら」という条件をつけたのです。しかし驚くべきことに、神であるイエスは、自らを否定なさり、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイ4:4)という神の御言葉を引用して、退けられました。自分のアイデンティティと思いを投げ捨てて、ひとえに神の御言葉だけに従ったものです。そのあと神殿の屋根の端にイエスを連れて行ったサタンは、そこで、「神の子なら、飛び降りたらどうだ。」と言いました。その時は、サタンも神の言葉を持ちだして、イエスを誘惑しました。 「神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」(マタイ4:6)しかし、主は神の御言葉を誤って用いるサタンに、神の御言葉を歪めることで神を試してはならないと叱られました。 最後に、サタンは非常に高い山にイエスを連れて行って、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、自分にひれ伏して拝むなら、財産、名誉、権力の全てをあげると誘惑しました。するとイエスは、自分の崇拝の対象は、唯一の神様だけだという最も根本的な真理をもってサタンを追い出されました。イエスは神を中心になさることで、サタンの誘惑を追い払われたのです。イエス御自身が神であり、世の所有者であり、権力の中心であり、比類できない栄光に満ちた方でいらっしゃるのに、そのすべてを否定して、ただ神様の御心に従うことを自ら御誓いになったのです。イエス・キリストは養われるための試練を受ける必要のない神であり、自分の欲望のために試練を受けるべき、弱い罪人でもありませんでした。イエスの試練は、自分の民を完全に立たせるための試練であり、そのすべての試練を乗り切ったイエスは、罪人を救う資格を持つに値する完全な方でした。だから、そのイエスを信じる者はキリストの名の下で完全な者と認められるようになります。これにより、イエス・キリストは完全な神であり、完全な人間であると神に認められるようになりました。イエスはこのように私たち、罪人のために試練を乗り越えた真のメシアとして公生涯をお始めになりました。 締め括り 今日、イエスがお受けになった誘惑、すなわち試練は、もともと、罪人が受けるべき試練でした。しかし、主は神でいらっしゃるにも拘わらず、自ら人間になり、罪人に代わって輝かしい勝利を収めてくださいました。ローマ帝国の迫害のため、苦しみと恐怖の中に生きていた初期キリスト者達に、イエスが既に勝利なさったという言葉は、恵みの雨のようなニュース、すなわち福音でした。マルコ書は迫害されるキリスト者に、すでに勝利なさったイエスが相変わらず共におられることを証した書です。これは現代の日本に住んでいる私たちにも適用されることです。私たちは、イエスを信じて、キリストの体なる教会として認められたというのは、かつてイエスが勝利なさった、その試練を私たちも勝利したということを意味します。主が受けられた試練は、私たちの試練でもあったからです。罪人ではないにも拘わらず、罪人の位置に立たれ、試練を受ける必要がないにも拘わらず、試練を受けられたイエスは、今日、私たちが希望を持って生きることが出来るように、すでに勝利してくださった方なのです。そのような私たちの主イエスを覚えつつ、常に感謝をもって生きていきましょう。私たちも、人生に迫ってくる試練をキリストの御名をもって勝利していくことを誓って行きましょう。来たる一週間、志免教会の皆さんに神の祝福がありますように。