ユダを通じて学べる教訓。

創世記38章12-26節(旧66頁) マタイによる福音書1章1-6節(新1頁) 前置き 1.前回の説教のあらすじ 今日は、前回の創世記38章の説教で、全て話せなかったユダの物語について、考えてみたいと思います。前回の本文の内容に手短に触れてみましょう。ヤコブの息子であるユダと彼の兄弟たちは、目の敵のようだった弟ヨセフをエジプトに売り渡した後、父親にはヨセフが獣に殺されたと偽りを告げました。ヤコブはその話しを聞いて嘆き悲しみました。その後、ユダは兄弟たちと別れてカナン地域に移住し、そこで異邦人たちと付き合い、その地域の女と結婚しました。そしてユダは3人の息子を儲けました。一番目はエルでしたが、彼は神の意に反する者でした。彼はタマルという異邦の女と結婚しましたが、自分の罪のため、子供も儲けず、若死にしました。そこで、ユダはエルの子供を持たない嫁タマルに、次男のオナンの子種によって妊娠させようとしました。しかし、オナンは兄嫁に子供が生まれれば、自分の財産が少なくなることを懸念し、子種を与えずにそれを地面に流しました。神はそれを悪く思われ、オナンも罰して殺されました。それを見たユダは三男のシェラが成人するまで嫁タマルを実家に戻し、待たせました。しかし、ユダは三男のシェラもエルとオナンのように殺されるのではないかと恐れ、彼が成人したにもかかわらず、タマルを呼び寄せず、放置しておきました。 なぜ、次男のオナンは兄嫁に子種を与えなければならなかったのでしょうか?オナンはなぜ、兄嫁に子種を与えないことで罰せられ、殺されたのでしょうか?私たちは前回の説教で旧約のレビラト婚について語り、それがヨベル(角笛の音)の年の精神に基づいた制度であることを学びました。ヨベルの年とは、旧約時代、神がご自分の民イスラエルにお与えになった土地を、50年ごとに元の地主に返す回復の年のことです。ヨベルの年の贖罪の日に角笛を吹くと、経済的な事情で土地を失った人、他人の奴隷となった人、他郷暮らしをする人たちが皆解放され、帰郷して自分の土地を返してもらうことができました。すべての土地の真の主人は、神おひとりですので、神がその土地を再びご自分の民にお返しになり、皆が平等に神の祝福のもとに帰ってくるという意味を持っていました。それは一度滅びた存在を立ち直らせる主の恵みを象徴しました。ユダの長男であるエルが亡くなり、ユダの次男であるオナンが兄嫁に子種を与え、兄の跡継ぎにすることは、このヨベルの年の精神に基づいたエルの家庭の回復を意味します。たとえエルが自分の罪によって罰せられ、死ななければならなかったとしても、神は弟のオナンの子種をその兄嫁に与え、息子を産ませることで、エルの家庭が再出発するように配慮してくださったのです。なのに、オナンはそのような神の御心を無視し、自分の私利私欲のために子種を与えず、流したわけです。それがオナンの罪となって、彼は殺されたのです。 2.ユダという人の本質 しかし、その父ユダもまた、ヨベルの年の精神に対する認識が薄かったようです。それゆえか彼は、三男シェラをタマルに与えませんでした。漠然と残りの独り息子だけでも生かさなければならないという極めて人間的な思いが彼を愚かにしたのです。これを通じて、私たちはあの偉大なダビデ王と主イエス•キリストの先祖であるにもかかわらず、ユダ自身は、そんなに信仰的な人物ではなかったことが分かります。結局、今日の本文では、タマルが自分の夫の跡を継ぐという一念で、義父ユダが認識していなかったことを遂行する場面を目撃することになります。「かなりの年月がたって、シュアの娘であったユダの妻が死んだ。ユダは喪に服した後、友人のアドラム人ヒラと一緒に、ティムナの羊の毛を刈る者のところへ上って行った。」(38:12) ユダの二人の息子が亡くなり、タマルが実家に帰ってから、かなりの年月が経ち、ユダの妻が亡くなりました。ここで「ユダが喪に服した後」という表現は、原文的に訳すると「ユダが慰められた後」という表現になりますが、ヨセフを失ったヤコブが「慰められることを拒んだ。」(37:35)と比較されます。また、タマルが「やもめの着物」(38:14)を着ていたこととも比較されます。つまり、ユダは他人の悲しみに無感覚で、自分自身だけを大事にする自己中心的な人間だったということが分かります。さて、ユダがティムナに行った理由は「羊の毛を刈る」ためでしたが、この「羊毛刈り」ということは、単に羊の毛を刈る作業という意味ではなく、当時の盛大な祭りを意味する表現です。数年の間、育てた羊の群れの毛を刈るということは、まるで穀物の収穫のような豊かさを意味したからです。そして彼は、そこで娼婦を探し求めました。おそらく、祭りで酔っ払い(何人かの学者たちの解釈)、自分の性的欲求を考えたということでしょう。妻が亡くなって間もないのに情けない人間です。 ユダは実に霊的に暗い人でした。彼は本質的に罪人だったのです。死んだ夫エルの後を継がせる計画を立てたタマルは、祭りの真っ最中のティムナの近くに行って娼婦に変装し、自分の愚かな義父ユダに接近しました。おそらく、ユダは羊毛刈り祭りで酔っ払い、欲情に燃えていたでしょう。そして自分の嫁とも気づかず、関係を結んでしまったのでしょう。私たちは聖書に登場する人々が、私たちより高い信仰のレベルと道徳性を持っていると誤解しやすいです。しかし、聖書は登場人物の愚かさと不様を加減なく見せてくれます。あの有名なダビデ王さえも、聖書は絶対に美化しません。聖書は人間の罪についてことごとく告発しているものです。ユダは嫁を娼婦(レゾーナ、語源はザナ-姦淫する。-)と勘違いしました。それはあくまでも自分の欲情を晴らすためでした。39章で弟ヨセフがポティファルの妻の誘惑から最後まで自分を守ったことと、比較される場面です。「ひもの付いた印章と杖」そして、ユダはあまりにも簡単に自分のアイデンティティを意味する物を娼婦に手渡ししました。その後、ユダは自分のものを取り返すために知人を通して、子山羊一匹を送り届けようとしました。この時もユダは自分が「神殿娼婦(ケデシャ-古代神殿で崇拝行為として売春をしていた女司祭)」と関係を結んだと知人をだましました。欲望で娼婦を買った彼が、異邦の基準として聖なる神殿娼婦に会ったと嘘をついたというわけです。 3。人の善悪とは関係ない神の計画。 また、ユダは自分も欲情に目が暗んで姦淫を犯したのに、嫁が妊娠すると、自分の罪は顧みず、是非も正さず、盲目的に嫁を焼き殺そうとしました。彼はこのように自分のことしか知らず、罪に無感覚で、無慈悲な人だったのです。ユダは神が愛された族長たち、すなわちアブラハム、イサク、ヤコブの子孫であり、また神が愛された偉大なダビデ、そして、救い主イエス・キリストの先祖であります。しかし、彼の人生の一歩一歩を見ると、あまりにも情けない人だったということが分かります。神の御心には関心もなく、神の御心に従うこともなく、子供たちは信仰とは遠く育て、他人の心や立場には興味がなく、自分の欲望に目がくらみ、自己中心的に生きる罪人の中の罪人でした。単に聖書に登場する偉大な人物の祖先だからといって、その人まで偉大な信仰者として扱えないということです。しかし、私たちはこのような愚かなユダであったにもかかわらず、彼を用いられる神の恵みを憶えなければなりません。神のご計画は人間の善と知恵、悪と愚かさと何の関わりもありません。ある人が高い道徳性と信仰を持っていても、根深い罪と不信心を持っていても、神の計画の成就には、いかなる影響も及ぼすことができないことを憶えておくべきです。神はどんなことがあっても、他の存在に左右されず、神の御心に従って、その計画を必ず成し遂げていかれる方だからです。 ユダはヨベルの年の精神への認識が薄すぎる人間でした。子供たちを立派に育てることもできませんでした。不信仰で、人間味もない人でした。それでも、神はその嫁タマルを通して、ユダがヨベルの年の精神に気づくようにしてくださり、後を継がせてくださり、(現代的な観点からしては不適切に見えるかもしれませんが、)何とかペレツという息子を産ませてくださいました。そして、そのペレツを通じて神は旧約の代表的な人物であるダビデ(旧約のメシア的な人物)と真の救い主であるキリストが生まれるようにしてくださいました。主の恵みによって罪人から正しい人が生まれるようになったということでしょう。ここに私たちの希望があります。今、私たちの信仰が立派でなくても、私たち自身が罪人として生まれたとしても、到底、自分の力では救われることが出来ない、絶望的な状況であっても、神の御心の中にいれば、私たちはキリストを通じて神の計画(救い)が成し遂げられることを見つけるでしょう。信仰者にとって最も大事なことは「自分が立派な人であり、自分が何かを成し遂げる。」ではありません。「自分が信じる主なる神が偉大な方であり、その方が自分のことを導いてくださる。」が大事なのです。これがまさにキリスト教が語る「信仰」なのです。神は罪人のユダが自分の過ちについて悟るように導いてくださいました。ユダは立派な信仰者ではありませんでしたが、神はどうにか彼を見捨てることなく、変えていかれたのです。それを通じて、最終的にユダは自分の過ちを認め、後には父親ヤコブに盛大な祝福を受け、キリストの先祖となる信仰の人物に変わっていくのです。 締め括り ユダは、実にどうしようもない罪人でした。アブラハム、イサク、ヤコブの子孫だったにもかかわらず、彼の人生は全く信仰者の姿ではありませんでした。しかし、神は最後まで彼を見捨てられず、少しずつ変えていかれました。もちろん彼の2人の息子は死んでしまいましたが、タマルを通じて、また新しい息子2人を与え、そのうち1人をメシアの系図に乗せてくださいました。神は罪を憎まれる方ですが、罪人まで憎まれる方ではありません。罪人を新たにされ、正しい人に生まれ変わらせることを望んでおられる方です。人にはできないが、神にはお出来になるので、神はユダのような罪人も少しずつ変えていかれるのです。ユダの罪から私たちの姿を見出します。しかし、神は私たちに罪があるにも関わらず、必ずユダのように私たちを見捨てられず、主イエスの贖いによって救ってくださる方でしょう。私たちもまた、そのように罪人をあきらめない神の御恵に留まっていることを憶えつつ生きるべきでしょう。ユダの物語に鑑み、私たち自身を顧みることを願います。主の豊かな恵みを祈ります。

子ろばに乗ってこられる方。

ゼカリヤ書9章9節(旧1489頁) マルコによる福音書11章1-11節(新83頁) 前置き 今日のマルコによる福音書の本文には、いよいよエルサレムに、お入りになるイエスの物語が描かれます。イエス•キリストはこの世のすべての罪を背負い、自らを十字架のいけにえとして捧げ、罪人を救われる、神によって遣わされた唯一のメシアです。旧約の律法には人が神の御前で、自分の罪を償うために傷のない獣のいけにえを捧げなければならないという規定がありますが、その旧約のいけにえは一度で終わらず毎年行わなければならない不完全なものでした。獣の血では人の罪を完全に償うことができないからです。しかし、神がお遣わしくださった唯一のメシアであるイエスは、完全な神であり、完全な人であるゆえに、罪のないご自分の肉体を十字架で捧げることにより、罪人の救いをたった一度で完成する完全ないけにえになられました。イエスがエルサレムに向かわれる理由は、まさにその完全な救いのためにご自分の肉体を生贄になさるためでした。これまでイエスは病んでいる者、悪霊に取り付かれた者、貧しい者たちの世話をしてくださり、弟子たちに福音の秘密を教えてくださいました。しかし、もはや主は癒され、宣教され、教えられる御業に終止符を打ち、これからは自ら罪人のための身代金になられるために、犠牲と贖罪の十字架の道に進まれるのです。今日の本文からは、十字架に向かって進まれる、主イエスの最後の一週間の物語が描かれます。 1.子ろばに乗ってこられた方。 「一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。」(1-2)弟子たちと一緒にエルサレムの近所に来られた主は、すぐエルサレムにお入りにならず、その前にエルサレムの東側、オリーブ山のふもとのベタニアという小さな村に行かれました。そして、主はそこから子ろばを連れてきなさいと、向こうのベトファゲに二人の弟子を送られました。その後、主はオリーブ山の道を通ってエルサレムの方へお向かいになりました。オリーブ山はエルサレム神殿が見下ろせる低い丘ですが、神殿の入口が見える場所です。主がエルサレムの東側にあるベトファゲとベタニア、オリーブ山を通ってエルサレムに行かれた理由は、おそらく「メシアは東から臨まれる」という当時のユダヤ人の信仰と関わりがあると思います。「主の栄光は、東の方に向いている門から神殿の中に入った。」(エゼキエル43:4)そして実際に、東側のオリーブ山からエルサレムに目を向けると神殿の東側(神殿の入口)が丸見えなので、メシアの到来を意味するのかもしれません。ところで、ここで少しおかしいことがありますが。なぜ、主イエスは立派な白馬(馬は帝王の出現を意味)に乗ってこられず、みすぼらしい子ろばに乗ってエルサレムに来られたのでしょうか? 「見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、誠実および真実と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。」(黙示録19:1)黙示録を見ても、再臨のキリストが悪をお裁きになる時に、白い馬に乗っていらっしゃると書いてありますが、今日の本文のキリストはあまりにもみすぼらしい姿の子ろばに乗っておられました。何か間違ったのではないでしょうか。しかし、次の箇所を読むと考えが変わるかもしれません。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。」(ゼカリヤ9:9) 今日の旧約本文であるゼカリヤ書は、メシアの出現について、このように話しているからです。旧約では、メシアの出現について2つの姿を描写しています。一つは、先日、説教で取り上げられたダニエル書の「天の雲に乗った姿」です。「見よ、人の子のような者が天の雲に乗り、日の老いたる者の前に来て、そのもとに進んだ。」(ダニエル7:13) そして残りの一つは、今日のゼカリヤ書のように「子ろばに乗った姿」です。ゼカリヤ書はメシアは謙遜な方なので、雌ろばの子に乗ってくると表現しています。実際にイエスは自らを低くされ、罪人の贖いのために代わりに死んでくださる謙遜の王です。しかし、私たちはここで「子ろば」に目を奪われてはいけません。「まだだれも乗ったことのない」という表現に目を注ぐ必要があります。 主イエスが子ろばに乗られた理由は、旧約の預言の成就という意味でしょう。ところで「まだだれも乗ったことのない」という言葉は、イエスの本質につい教えてくれるヒントなのです。ミシュナーサンヘドリンというユダヤ人のタルムードには「王が乗る獣には誰も乗ってはならない。」という解説があると言われます。つまり、イエスは単純に子ろばというみすぼらしい獣に乗られたのではなく、誰も乗ったことのない預言に登場する特別な獣に乗られたということです。誰も乗ったことのない子ろばという表現がイエス•キリストのメシアとして、また王としてのアイデンティティを表しているわけです。また、普通の人々はエルサレムに入る時に獣から降りて歩いて入ったと言われますが、イエスが獣に乗ったまま、入城されたということ自体が特別な意味を持っているのです。そして、子ろばに大人のイエスが乗ったということで動物虐待と誤解する人もいますが、これは私たちが考える幼いろばではなく、元気な若いろばの意味として解釈できるということを見逃してはならないでしょう。現代を生きている私たちの目には、子ろばに乗られたイエスが滑稽に見えたり、不自然に感じられたり、するかもしれません。しかし、イエス当時のユダヤ人にとって、子ろばに乗ってエルサレムにお入りになったイエスのイメージは、旧約の預言に登場した真のメシアと重なって見えたということを理解したうえで、今日の本文を読む必要があります。 2.ホサナ:主よ、どうか私たちを救ってください。 イエスが、エルサレムに入ろうとされた時、多くの人々は子ろばに乗って来られた、このイエスというラビを見て、旧約の預言を思い起こしたでしょう。それで、人々はついにローマ帝国の圧制から自民族を救い上げる指導者が臨んだと考えたのでしょう。人々はイエスという若いラビがいきなり登場し、病人を癒し、悪霊を追い出し、多くの人々に食べものを与え、今までなかった権威ある講説をするといううわさを聞いてきました。そういうわけで、もしかしたら、この人こそがイスラエルを救い出すメシアであるかもしれないと思ったわけでしょう。「多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。」(8-10) 今日の本文にはホサナという表現が出てきていますが、これは「主よ、どうか私たちを救ってください。」という意味のヘブライ語です。「どうか主よ、わたしたちに救いを。」(詩篇118:25) そして、その出所は詩篇118編です。ところで、ホサナの実際の発音は「ホシュアナ」です。「ホシュア」は救いを意味する「ヤシャ」という表現が文法的に変形したもので、「ナ」という表現は「どうか、ぜひ」などを意味します。この「ヤシャ」から旧約の「ヨシュア」新約の「イエス」という名前が派生しました。 さて、人々はどういう思いをもって、イエスに「ホサナ」と叫びながら喜んだのでしょうか? 彼らはイエスがこの世のすべての存在を惨めにする罪の問題を解決するために来られた霊的なメシアであるということを分かっていたでしょうか。実に残念なことは、主の弟子たちも、群衆もイエスをただ政治、軍事的なメシアとして理解していたということです。彼らが考えてきた救いは、ただ自分の国と民族が、ローマ帝国から解放され、自分たちの思い通りに生きることでした。神は創世記のアダムの堕落以来、この世を汚し乱す罪の問題を解決するために休まず働いてこられました。神は贖いの御業を成し遂げられるために、イスラエルという主の民を打ち立てられ、祭司の国にしてくださいました。イスラエルの使命は神の救いを、全世界に表す神の国になることでした。そのため、主は巨大な国々からイスラエルを守り、保たせてくださったのです。しかし、イスラエルは自分の使命を忘れ、世俗的な道を進み、数多くの罪を犯しました。そこで、神はイスラエルを滅ぼされ、帝国の植民地にされたのです。なぜ、神はご自分の民さえも滅ぼされるのでしょうか。神は巨視的にこの世をご覧になる方です。一国の興亡盛衰ももちろんつかさどる方ですが、それより、もっと大きな問題、すなわちこの世の全てを苦しめる罪の問題を解決するために、より広く世を見ておられる方なのです。神にとって最も重要なのはイスラエルという一国の復興ではなく、人類を罪から救われることでした。 しかし、当時のイスラエルの人々は、そうではありませんでした。彼らはあまりにも微視的な観点からメシアを理解しました。自分の祖国を解放する政治的な人、自分たちの欲求を聞いてくれる世俗的な指導者だけを求めていたのです。イスラエルの群衆は子ろばに乗っておられるイエスを眺めながら、どのような意味の「ホサナ」を叫んだのでしょうか。彼らは罪の問題を解決しようとされた神の巨視的な観点とは全く関係のない、自己欲望の解決というあまりにも微視的な観点からイエスを理解しようとしたのです。これは私たちの信仰とも関係があります。 私たちは毎週教会に出席し「ホサナ」を唱えます。もちろんホサナという表現は直接言いませんが、私たちの礼拝、讃美、教会生活が結局は「主よ、どうか私を救ってください」という無言のホサナではないでしょうか。ところで私たちは自分の罪を贖われるイエスへの愛と感謝としてホサナを呼んでいるのか、それとも自分の有益と必要だけのためにホサナを呼んでいるのかを、はっきり確かめなければなりません。ひょっとしたらイエスの贖いと救いの御業は、当時のイスラエル人においては、別に必要ないものだったかもしれません。 なぜなら、彼らが望んだ救いは罪の問題を解決する根本的な救いではなく、直ちに自分の願いが叶うという世俗的な救いだったからです。そして、彼らは自分の世俗的な欲望を聞き入れてくださらなかったイエスを自分たちの手によって十字架につけてしまいました。私たちはどのような意味としてホサナを呼んでいるのでしょうか? どんな心で信仰生活を続けているのでしょうか。 締め括り 今日はイエスが子ろばに乗って来られた出来事の意味について、そしてホサナの意味と理解し方について分かち合いました。昔、ユダヤ人のあるラビがこのような話をしたと言われます。「神の民がまともに備えていれば、メシアは天の雲に乗ってこられるだろう、しかし、神の民がまともに備えていなければ、メシアは子ろばに乗ってこられるだろう。」もちろん、これは一介のユダヤ教のラビの解釈ですので、キリスト者はこの言葉を真摯に受け入れる必要はないでしょう。しかし、私たちは彼の言葉を通じて、私たちがキリスト者として、どのような心構えで生きているのか、振り返ることはできると思います。主への純粋な信仰によってホサナを唱えているのか、自分の必要と欲望によってメシアを利用するために、ホサナを唱えているのか、私たちは常に私たちの信仰の純粋性について疑い、点検しつつ生きるべきです。これからマルコによる福音書で現れるキリストの十字架の道を通じて、より一層私たちの現在の信仰を顧み、主に正しく聞き従うために力を尽くす私たちになることを願います。今週も主の豊かな恵みにあって平安に過ごされますよう祈ります。

わたしよりも彼女の方が正しい

創世記38章1-11節(旧66頁) マタイによる福音書1章3-6節(新1頁) 前置き 前回の創世記の説教では兄たちに憎まれ、エジプトに売られてしまうヨセフについて話しました。ヨセフは夢を見る人でした。神はヨセフに夢を通して、将来のことを教えてくださったのです。ヨセフの時代には、新旧約聖書が完成していなかったため、神は夢を通して主の御言葉を啓示してくださいました。しかし、ヨセフは、その夢を自分のことを誇るために誤って使いました。父も、兄弟たちも、自分にひれ伏すようになるだろうと偉そうにしゃべり続けたのです。主の御言葉を託された者は、謙遜であるべきだったのに、ヨセフはそうではなかったのです。その結果、ヨセフは兄たちに憎まれ、奴隷として売られることになってしまいました。しかし、神はそのようなヤコブ家の悲劇さえも主の道具として用いられ、ご自分の計画を成し遂げられる方です。主の民と呼ばれるキリスト者にも困難と苦難は起こり得ます。しかし、神は民の困難と苦難さえも主の道具として用いられ、最後には喜びに変えてくださる方です。主はヨセフに困難と苦難を許されましたが、それによって、ヨセフはエジプトの総理になり、結局は自分の家族と隣の数多くの他民族とを救うことになりました。いかなる困難と苦難さえも、喜びに変えることがお出来になる神に私たちの希望を置き、信仰によって生きることを望みます。主への信仰と希望は決して私たちを裏切らないからです。 1.なぜ、ユダなのか? 今日の本文は、ヨセフではなくヤコブの四男であるユダに目を移しています。実際、38章でユダの物語が出てこなくても創世記の全体的な内容には何の差支えもないのに、なぜ聖書は、あえてユダを登場させるのでしょうか?その理由は、神がヨセフだけでなく、ユダというまた別の男にも深い関心を持っておられるからです。実際に神はユダという罪深い人を通じて、また別の救いの歴史を造っていかれます。彼の子孫から新旧約を代表する人物が生まれるからです。メシアを象徴する、旧約の代表的な人物であるダビデ王、そして、真のメシアである新約の主イエス•キリストが、まさに彼の子孫です。しかし、ユダという人そのものは、最初から神に認められた人ではありませんでした。彼は兄弟たちを煽り立てて、銀二十枚で弟ヨセフをエジプトに売ってしまい、父親には弟ヨセフが死んだと、偽りを告げた不義の人間でした。今日の本文でも、彼は決して正しい姿を見せません。ユダの本質は罪人でした。しかし、それでも、彼は44章で末弟のベニヤミンと父親ヤコブのために、代わりに自分の命をかけ、49章では父親ヤコブの心からの祝福を受けるようになります。彼は罪人でしたが、聖書は彼を正しい人と認めているのです。旧約学者たちによると、罪に満ちていた彼が正しい人に変わる決定的なきっかけが、今日の本文にあるかもしれないと言われます。罪深い人だった彼はどのようにして変わるようになったのでしょうか。 2. レビラト婚 (レビラトは夫の兄弟を意味するラテン語) 今日の本文によると、ユダはヨセフをエジプトに売った出来事以後、自分の住いをアドラム地域に移したそうです。ユダは父の家を離れてカナン人の地域に移ったのです。そして、そこでシュアという人の娘と結婚しました。つまり、ユダは異邦人と付き合い、異邦人の娘と結婚したということです。それは、主が禁じられたことでした。聖書にはシュアの娘と「結婚」したと記されていますが、その表現には性的欲望によって彼女をめとったという否定的なニュアンスが含まれています。ユダの子孫の中には、偉大な人物が数多くいましたが、ユダ本人は信仰の人物であるとは言えなかったのです。以後、ユダはシュアの娘を通して、エル、オナン、シェラという3人の息子をもうけ、長男エルが成年になった時、タマルという異邦人の女と結婚させました。しかし、エルは主の御前に正しくない人生を送ったからか、主に殺されました。残念なことにタマルは子供なしで寡婦になってしまいました。そこで、ユダは次男のオナンが兄嫁に対して義務を果たすようにしました。ここで義務を果たすということは、子供なしに兄が死んだので、その兄に代わって兄嫁に子種を与えるという意味でした。しかし、オナンは兄嫁に子供ができれば、自分の財産が減るだろうと懸念し、子種を地面に流しました。すると、主はオナンも悪く思われ、彼をも殺されました。一体、オナンの罪は何だったのでしょうか。 古代の聖書の世界にはレビラト婚という仕来りがあったと言われます。「兄が死ぬと兄嫁に兄の財産が受け次がれ、そのまま兄嫁が他の血族の人と再婚すると、血族の財産が外に流出する可能性があるため、それを防ぐために作られた制度」だったのです。しかし、それは極めて世俗的な解釈であるので、私たちはレビ記25章を通じて、聖書においてのレビラト婚の意味について探ってみる必要があります。旧約にはヨベルの年(ヨベルは角笛の音を意味)という概念があります。 「この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る。」(レビ記25:10) ヨベルの年とは、神がご自分の民イスラエルに与えられたすべての土地を、50年ごとに元の所有者に返す回復の年でした。ヨベルの年の第七の月の十日の贖罪日に、角笛を鳴り響かせれば、経済的な困窮で土地を奪われた人、他人の奴隷となった人、故郷から遠く離れた人たちが、皆解放され、故郷に帰り、自分の土地を返してもらえる恵みの年だったのです。すべての土地の真の主は神おひとりであり、神がその土地を再びご自分の民に返され、皆が平等に神の祝福の下にいるようにしてくださるという意味の日だったのです。それは、一度滅びたような存在を、再び助け起こしてくださる主の恵みでした。 主が、現代人には多少変に感じられがちな、このレビラト婚をお許しになったことには、あのヨベルの年の精神と深い関わりがあります。たとえ、ユダの長男エルが自分の罪によって神に罰せられ、子供なしに死んだとしても、レビラト婚によって彼の子と認められた者が生まれれば、ヨベルの年の精神に基づき、彼の財産を引き継ぎ、エルの罪とは関係なく、再びエルの家を立てることが出来るという意味なのです。つまり、次男のオナンが兄嫁のタマルと関係を結ぶのは、このようなヨベルの年の精神を果たす大事な義務でした。 しかし、オナンは兄の相続人が生まれれば、自分の財産が少なくなることを懸念し、ヨベルの年の精神を無視して自分の子種を与えませんでした。それが主の御前に大きな罪になってしまったということです。オナンの死はヨベルの年の精神を無視した結果なのです。この世のすべてのものは神の所有です。そして、すべてのものの主である神は、それぞれの人と民族と国に土地の境を与えてくださいました。そして神はすべての人が神のご支配のもとで、公平で幸せに生きることを望んでおられます。しかし、この世の現実はそうではありません。誰かは他者より、強く豊かになることを望んで、弱い者を踏みにじって苦しめ、奪い取ります。そのような精神から戦争と帝国が生まれるのです。オナンの思いはそのような世の現実に似ていたのです。オナンは兄の分を欲しました。彼の思いは神のヨベルの年の精神に対立しました。それが彼の死んだ理由でした。 3.タマルの努力が持つ意味。 「ユダは嫁のタマルに言った。『わたしの息子のシェラが成人するまで、あなたは父上の家で、やもめのまま暮らしていなさい。』それは、シェラもまた兄たちのように死んではいけないと思ったからであった。タマルは自分の父の家に帰って暮らした。」(38:11) ユダには3人の息子がいましたが、一番目のエルも、二番目のオナンも、自分の罪によって神に殺されました。もうユダは末っ子のシェラを通して嫁のタマルに子種を与えなければなりませんでした。それがヨベルの年の精神に合致する対応でした。しかし、ユダはタマルを実家に帰らせ、末っ子シェラが成人するのを待たせるだけでした。ユダはシェラが成人になったにもかかわらず、タマルを呼びませんでした。実はユダはタマルに末っ子を与えるつもりではなかったからです。彼も死ぬかと恐れたからでしょう。考えてみれば、エルとオナンの死は、彼らだけの間違いによることではなかったかもしれません。父のユダが信仰者としての真実な人生を生きることが出来なかったから、彼らも父の姿を踏襲したのではないでしょうか。普段、ユダが主の御言葉を軽んじてきたので、彼らも主の御前で悪い姿を見せてきたのではないでしょうか。もし、ユダにヨベルの年の精神を重んじる心があったら、彼は末っ子シェラが成人するやいなやタマルを呼んでシェラの子種を与えるようにしたでしょう。しかし、ユダは、末っ子の命も奪われるかと恐れるだけでした。末っ子が死ぬかもしれないという不信心が、主のヨベルの精神を大切にする心よりも強かったのです。 今日の一度の説教で、ユダとタマルの物語を済ませようとしましたが、時間の関係で無理だと思います。ですので、次の創世記の説教で、ユダとタマルの物語をもう一度取り上げたいと思います。あらかじめお話しますと、タマルはユダを騙して直接ユダの子種をもらい双子の息子を身ごもることになります。ユダは彼女が不浄を犯したと判断し、彼女を殺そうとします。しかし、タマルはユダの保証の品を見せ、身ごもった子供たちがユダの子であることを証明します。彼女はしつこくエルの相続人を得るために努力しました。そして、それは人間の目には不適切なことに見えるかもしれませんが、神の御目には、ヨベルの年の精神を成し遂げるための彼女の努力と見られました。なぜなら、ユダとタマルの間で生まれたペレツが、あの偉大なダビデ王と主イエス•キリストの先祖になるからです。現代人の目には望ましくないと思われることでしたが、少なくとも創世記が記録された古代にはタマルの努力は、非常に崇高なことでした。タマルが意図したかどうかは分かりませんが、少なくとも聖書では、人間の考えを越えて神の御心を成し遂げるために努力する姿として描かれているからです。もちろん神はユダとタマルのような不適切な関係を擁護する方ではありません。現代を生きる私たちは絶対にそうしてはいけません。しかし、神の救いの歴史という観点から見ると、タマルの努力がなかったら、ダビデ王もキリストも生まれなかったかもしれません。そのため、結論的にタマルの行為は神の御心に合致すると評価されるのです。 締め括り ヨベルの年の精神は、私たちの信仰において、大事な意味を持ちます。滅びるべき人を、赦して再び活かされる、主の御心が含まれているからです。イエス•キリストが罪人を赦し、生まれ変わらせてくださることも、ヨベルの年の精神と相通じます。タマルは現代の道徳観念から見ると不適切な行為の人かもしれません。しかし、何があっても死んだ夫の家を継がせるという彼女の努力は、ヨベルの年の精神と合致し、イエス•キリストの系図を守る手段となりました。そのため、彼女はイエス•キリストの系図に名を載せる偉大な異邦の女性になったのです。「ユダはタマルによってペレツとゼラを(もうけた)」(マタイ1:3) ユダがタマルが自分より正しいと言った理由は、彼女の行為がユダの行為より神の御心に合うことだったからです。ユダは残りの末っ子を死なせたくないという考えで神の御心に従いませんでしたが、タマルは死んだ夫の家を継がせるために、自分の命をかけてまで子供を持とうとしました。そして、タマルの行為の結果は、ヨベルの年の精神に合致する正しい行為となったのです。そして、ユダはそのような嫁の努力を通じて、自分の過ちを反省し、正しい生き方について自覚するようになったのではないでしょうか。今日の本文を通じて聖書が語るヨベルの年の精神について考えてほしいです。そして、そのようなヨベルの年の精神を成就されたキリストの救いと愛を覚えたいと思います。

目が見えるようになりたいのです。

列王記上19章11-13節(旧566頁) マルコによる福音書10章46-52節(新83頁) 前置き 前回のマルコによる福音書の説教では、聖書が語る「栄光」について話しました。「栄光」は非常に抽象的な表現ですので、定型表現として定義づけしにくい概念です。しかし、新旧約聖書に記された原文から、私たちは栄光が持つイメージについて、ある程度知ることができました。「ある存在が自分らしくあること」「ある存在について正しく知り、正しく言い表すこと」が栄光のイメージであると話しました。「強くて、輝いていて、栄えた何か」が栄光ではなく「神が神らしくいらっしゃること」が神の栄光であり「神を正しく知り、正しく告白すること」が信者の栄光であると言いました。そういう意味で、主イエスの救いと聖霊の導きを通じて、主のことを正しく知り、正しく告白するようになったことは、主を信じる私たちにとって、掛け替えのない栄光だと言いました。前回の説教で学んだ栄光の意味について、もう一度思い出してください。さて、今日の本文もある意味で、主の栄光に関わる話になると思います。 1.盲人バルティマイと出会われたイエス。 今日の本文は、エリコの町で主イエスと盲人「バルティマイ」の出会いから始まります。「一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と言い始めた。」(10:46-47) バルティマイは、ただの個人の名前というより「息子」を意味するアラム語「バル」にギリシャ語「ティマイオス」という人名がくっついた合成語です。つまり「ティマイオスの子」を意味します。それでは、ティマイオスはどういう意味でしょうか? 新約のギリシャ語で「ティマイオス」は「尊敬する」という意味の単語ですが、子を意味する「バル」がギリシャ語ではなくアラム語であるだけに、ギリシャ語の「ティマイオス」も実はギリシャ語ではなく、アラム語の当て字である可能性が非常に高いです。そこで、いくつかの解説書を引いてみると、この「ティマイオス」が、アラム語の「タメ—」に由来したことが分かりました。その意味は 「不浄である、汚い」などでした。これにより、バルティマイは「汚れた者、罪人」のイメージを持つ存在であることが推測できました。つまり、バルティマイは自らでは到底、自分自身を救うことができない「罪人」を象徴する存在であり、そのような罪人は、比喩的に盲人のような存在であるということです。ところで、主イエスは、この「汚れた者、罪人」を象徴する盲人バルティマイの目が見えるように癒してくださったわけです。 今日のイエスと盲人の出来事を見ながら、前にもあった盲人の物語が思い起されました。「一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。」(8:22) 8章にもイエスが盲人を癒された物語があるからです。ところで、なぜ、同様な物語が再び出てくるのでしょうか? 同様な話しを二度するのは、紙面の無駄づかいではないでしょうか? しかし、今日の盲人の物語は、必然的な話しです。その理由は、8章の盲人の物語と今日の盲人の物語がつながっているからです。けっこう時間差のある物語なのに、いったいどういう意味でしょうか。実は8章22節から、10章52節までは、一つの長いエピソードなのです。そして、その2つの物語は、道(ギリシャ語ホドス)という表現によって繋がっています。「イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中(ホドス)、弟子たちに、人々は、わたしのことを何者だと言っているかと言われた。」(8:27)「一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、途中(ホドス)で何を議論していたのかとお尋ねになった。」(9:33)「イエスが旅(ホドス)に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」(10:17)「一行がエルサレムへ上って行く途中(ホドス)、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。」(10:32) 「バルティマイという盲人が道端(ホドス)に座って物乞いをしていた。」(10:46) つまり、二つの盲人の物語の間には、このようにホドス(道)という言葉が架け橋のように何度も登場しています。 2。道の上のイエスと弟子たち なぜ、道(ホドス)という表現が、繰り返し登場しているのでしょうか? 道はどこかに至るために存在するものです。そして主はその道に沿ってどこかに進んでおられます。前回の説教で、私たちはイエス•キリストの栄光について学びました。「救い主として来られたイエス•キリストが救い主らしくいらっしゃること」が主イエスの栄光であると話しました。その言葉の意味は「滅ぼされるべき罪人の贖いのために十字架で死に、復活して御救いを成し遂げること」が、すなわち救い主イエスの救い主らしい状態であり、イエスの栄光であるということです。主イエスはそのご自分の栄光のために十字架に向かう道を進んでいかれるのです。主は御父がご自分に与えられた罪人の贖いのための死と復活という、栄光の杯をお受けになるために道を進んでいかれます。そういうわけで、主は8章、9章、10章で3度もご自分の苦難と死と復活に言及されたのです。主イエスの道は罪を贖うための死の道であり、真の命のため復活の道であり、その目的地は苦難の十字架なのでした。そして、その十字架での死と復活が成就する時、主イエスは、御父から真の栄光をお受けになるのです。ところで、その道の上に弟子たちもいました。しかし、弟子たちは、その道が持つ真の意味が分かりませんでした。彼らは世俗的な思いで、メシアの権力と輝かしい栄光だけを望んでいたのです。彼らはイエスと同じ路上にいたにもかかわらず、主の御心がまったく分からない状態でした。 今日の本文で盲人バルティマイは、実は主人公ではないかもしれません。もしかしたら、癒しが必要な真の盲人は弟子たちだったのかもしれません。8章の盲人と10章のバルティマイという、目が見えない二人の物語を通じて、マルコによる福音書は、私たちに「目が見えない」ということの本当の意味について、何か特別なメッセージを投げているのかもしれません。そのメッセージとは、主と一緒に主の道の上にいるにもかかわらず、主の存在理由を見ることができず、気が付くことも出来ない、この情けない弟子たちこそが本当の盲人であると暴いているのではないでしょうか。 8、9、10章で主と一緒に路上にいた弟子たちは、どんな姿だったでしょうか。主は3度もご自分の苦難、死、復活について言われましたが、その度に弟子たちの反応は、恐れ、否定するだけでした。主が山の上で輝かしく変容された時、一緒に山に登った3人の弟子たちは、それを主の栄光と勘違いして、そこに安住しようとしました。主が山の下にお降りになった時、残りの弟子たちは、汚れた霊を追い出すことが出来ず、律法学者たちと論争する無力な姿を見せるだけでした。イエスの道を歩きながらも、権力に目がくらんで互いに争いました。イエスに会うために子供を連れてきた人たちを叱りました。ヤコブとヨハネは、主の栄光まで欲したのです。主イエスに最も身近な弟子たちが、主を一番理解していない状態だったのです。 3.目が見えるようになるということ。 恐ろしいことは、これがイエスの弟子だけに限った問題ではないということです。今日のこの物語は、講壇で説教する私自身をはじめ、この説教を聞いておられる、すべての方々にも適用される事柄です。私たちは果たして目が見える状態だと自負できますか? 私たちは本当に主の道の上で、主イエスに正しく従っているのでしょうか。習慣的に説教し、習慣的に説教を聞き、習慣的に祈り、習慣的に礼拝に出席しているのではないでしょうか? 私たちの信仰は、主の御心に適ったものなのでしょうか、それとも、私たち自身の欲望のための信仰なのでしょうか。常に自分自身のことを振り返るべきだと思います。そうでなければ、私たちは自分も気づかないうちに、8,9,10章の弟子たちのように目を開けてはいるけど、目が見えない盲人のような存在になってしまうかもしれません。「バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と言い始めた。」(10:46-47) しかし、私たちに希望はあります。主イエスが私たちの目が見えるように導いてくださるからです。今日、バルティマイの目が見えるようになったのは、主イエスのことを正しく知り、正しく告白した、彼の信仰に基づきます。主イエスが誰なのか、正しく知り、正しく告白したバルティマイは、その信仰によって癒されました。私たちに主イエスによる正しい信仰さえあれば、私たちも主によってバルティマイのように目が見えるように癒されるということです。 「多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫び続けた。」(10:48) 他の人たちが何と言おうとも、彼は意に介さなかったのです。彼はイエスが誰なのか正しく知り、ひたすら告白しました。「イエスは、『何をしてほしいのか』と言われた。盲人は、『先生、目が見えるようになりたいのです』と言った。そこで、イエスは言われた。『行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」(10:51-52) 主は、ご自身へのバルティマイの告白を彼の信仰と認めてくださいました。 そして彼はその信仰を認めてくださったイエスによって目が見えるようになりました。罪人たちはバルティマイの名前のように、罪によって汚され、どうしても自らを清められない惨めな存在です。 しかし、主イエスへの正しい信仰は、罪人を赦してくださり、目が見えるように癒してくださる主イエスへと導いてくれます。そして主イエスはその信仰をご覧になって、罪人を救ってくださいます。弟子たちのように、自分の欲望のために信仰を利用しないようにしましょう。バルティマイのように惨めな状況にあっても、主への信仰と希望とで生きられるように祈りましょう。主イエスの御心に適う信仰者になることを追い求めていきましょう。真の信仰によってこそ、私たちの目は見えるようになるからです。 締め括り 説教を書きながら、ふと、今日の旧約本文が思い起こされました。「主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」(列王記上19:11-12) 旧約の預言者エリヤは、アハブとイゼベルという悪い指導者たちに脅かされ、神の山に身を避けました。主はいつも彼と一緒におられましたが、信仰が弱くなったエリヤが恐怖に陥ったからです。神は、彼を呼ばれ、激しい風と地震と火を見せてくださいました。主の権能でした。しかし、主はそこにおられませんでした。むしろ主はささやく声、つまり御言葉を通して彼と共におられました。目に見える現象だけを追求するのは霊的な盲人のような姿です。主の栄光は目に見えるものではありません。主を真の主として仕え、主を正しく知り、告白し、信じること、それらに真の栄光があり、主は私たちを霊的な盲人の姿から救ってくださるのです。目が見えるということはどういう意味でしょうか。その質問を持って過ごす一週間になることを願います。

エジプトに売られたヨセフ

創世記37章12-36節(旧64頁) ヨハネの手紙第一4章9節(新445頁) 前置き 前回の創世記の説教の主なテーマは、ヨセフの夢でした。旧約時代、また新約聖書が整う前の時代には、神が夢を通じて啓示を与えられる場合が多々ありました。つまり、神は主の計画の一部をヨセフの夢を通して示してくださったのです。しかし、まだ物心がついていなかったヨセフは、神がくださった啓示の夢を、自分勝手に解釈し、好きなように家族にしゃべってしまいました。これによってヨセフの兄たちはヨセフを、さらに憎むようになり、神がくださった啓示の夢も、ただ嘲弄の種になるだけでした。しかし、神がくださった夢の通り、ヨセフは将来、大きな国エジプトの総理になる人でした。主はヨセフをエジプトの総理に出世させ、ヤコブの家族はもとより、当時の周辺地域の人々を飢饉から救われる計画だったのです。そのように重要な神の啓示の夢だったのに、まだ分別のない愚かなヨセフは、その夢を通して家族を傷つけるだけだったのです。御言葉を託された者は、謙遜であるべきです。神の御言葉は、私たち一人だけのためのものではありません。私たちに託された御言葉は、私たちを通じて、周りの人々にまで伝わるのです。いくら大切な主の御言葉と言っても、憎らしい人が語る御言葉は耳に入りません。したがって、神の御言葉そのものであるキリストの体なる、私たち教会員は、神の御言葉のためにも謙遜に生きるべきです。そのために常に自らをわきまえて生きるべきです。 1.差別がもたらした破綻 今日は父ヤコブの愛のもとで、何不自由なく生きてきたヨセフが、兄たちによってエジプトに売られてしまう物語について話してみたいと思います。ヨセフは、ヤコブの最愛の妻であるラケルが、長年、神に求め続けてもうけた息子です。しかし、残念なことにもラケルは長生きできず、35章で、ヤコブの末っ子であるベニヤミンの出産中に、世を去ることになりました。そういうわけで、ヤコブはラケルの長男ヨセフを他の息子たちより、格別に愛したでしょう。「イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。」(37:3) この前回の本文では、ヨセフの晴れ着について記されていますが、これは原文的に色とりどりの糸で織った裾の長い服とも解釈できます。実は今のような産業化時代には、色とりどりの服が特別ではないかもしれませんが、ヤコブがいた古代には、王族や貴族でないと着られない高価で貴重なものでした。色とりどりの晴れ着を作るためには、さまざまな色の染料が必要でしたが、赤い染料にはザクロが、青い染料には海の貝類が、黄色い染料にはサフランのような天然材料が必要でした。ヤコブはヨセフをあまりにも愛したあげく、当時の偉い人たちが着る裾の長い晴れ着をヨセフのために作ったというわけでした。しかし、その愛がむしろヨセフには毒となりました。「兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。」(37:4) ことわざの中に「可愛い子には旅をさせよ」という言葉がありますが、今日のヤコブとヨセフには、このことわざが必要ではなかったでしょうか。もし、ヤコブがヨセフを特別扱いしなかったら、兄たちを差別しなかったら、このような悲劇はなかったでしょう。私には変わってはならないと思っている牧会哲学があります。それは教会員一人一人を差別しないことです。ただし、各々の状況に合わせて関心の強弱はあるかもしれません。しかし全体的に同じように愛し、同じように関心を持とうとしています。なぜなら、差別から共同体の分裂が起こり、互いに憎しみあうようになるからです。私たちの主イエスは世のすべての人々を公平に愛される方です。誰でも主の御前に出て、自分の罪を悔い改め、主に立ち返るなら、公平に受け入れてくださり、喜んでくださるのです。金持ちだから大喜びし、貧乏人だから適当に喜ぶというわけではありません。主のご招待は常に開かれていますが、それを受け入れるか否かに従って、主の扱いが異なるように感じられるだけです。むしろ主は主を受け入れた信者たちに、主を信じない者たちより、激しい苦難をお許しになる時もあります。キリスト者は差別をしてはなりません。差別は分裂と破綻の種になるからです。この言葉を覚えてほしいです。「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。」(ヤコブ2:1) 2.だます者ヤコブをだます息子たち。 ヤコブという名前の原文的な意味は「かかとをつかむ」という意味です。そして彼のあだ名は「だます者」でした。「かかとをつかむ者、だます者」と呼ばれたヤコブであったにもかかわらず、神はご自分の民イスラエルと名付けてくださいました。彼の罪とは関係なく、アブラハムとの約束に基づいて、彼を一方的に受け入れてくださったのです。ヤコブが、正しい人だからではなく、アブラハムと神の約束によるものだったのです。ヤコブは生まれる前から兄のかかとをつかみ、若い頃には長子の祝福を横取りするために自分の父親のイサクをだましました。ヤコブには貪欲とごまかし、偽りがあり、そのような罪の姿はイスラエルという名前をいただいても残っていました。ところが、今日の本文では、この「だます者」ヤコブが、他のだれでもない自分の息子たちに騙される場面を目撃することができます。「兄弟たちはヨセフの着物を拾い上げ、雄山羊を殺してその血に着物を浸した。彼らはそれから、裾の長い晴れ着を父のもとへ送り届け、これを見つけましたが、あなたの息子の着物かどうか、お調べになってください。と言わせた。」(37:31-32) ヤコブの息子たち、すなわちヨセフの兄たちは目の敵のようだったヨセフが、自分たちを探しにきた時、彼を捕らえて、晴れ着を脱がし、穴に投げ込みました。そして彼を殺そうとしました。しかし、ユダの説得によって彼らはヨセフをイシュマエルの商人たちに売ってしまい、彼が着ていた着物を雄山羊の血に浸し、父親ヤコブに送り届けました。自分たちの憤りを晴らすために弟を売って父をだましたのです。 かかとをつかむ者、だます者だったヤコブは、一生、人をだまそうとする生き方をとって生きており、主の恵みによって、やっと主に立ち返ったのです。しかし、彼の過去の生き方は息子たちによって、再び繰り返されます。創世記の物語を見ながら私たちはアダム、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブを通じて、いくら神に呼ばれた存在だといっても、彼らの子供たちは再び、主の御前で罪を犯してしまうことが分かります。アダムの息子カイン、ノアの息子ハム、アブラハムの孫ヤコブも、自分の罪から自由ではありませんでした。そして結局、ヤコブの息子たちも、過去の先祖たちがしたように、愚かさと罪の中に生きていきました。これは単純に今日の登場人物だけの問題ではありません。これは、今を生きている私たちの問題でもあります。罪はしつこいです。絶対に消えません。消そう消そうとしても、またよみがえってしまう、恐ろしい怪物のようなものです。罪は主イエスが最後の裁きのために再臨される日まで存在し続けるでしょう。キリスト者である私たちにも、罪は残っており、私たちが死んでも、その罪は再び私たちの子孫を通じてよみがえるでしょう。神が主イエス•キリストを遣わされた理由は、この恐ろしい罪の影響力を無力にするためです。主イエスが再び来られるまで、人間はいつも罪と共にいるでしょう。しかし、神は主イエスの十字架の恵みを通じて、その方を信じる者たちの罪をお赦しになり、まるで罪がないように見なしてくださるのです。 3。悲劇から希望を造り出される神。 しかし、神は、このような罪深い人間の状態にも関わらず、ちっとも動揺なさらず、ご自分の計画通りに歴史を導いていかれる方です。兄たちの罪によってエジプトに売られたヨセフが、結局、ヤコブの家族と、当時のカナン地域の数多くの命を救うエジプトの偉い総理になるからです。近くから見れば悲劇のような今日の出来事ですが、遠くから見れば数多くの命を生かす神のご計画の一部だったからです。実際に多くの聖書の解釈者たちが、ヨセフという人物を旧約で見られる「メシアのモデル」だと考えました。父の命令によってシケム(34章でヤコブの息子たちが原住民を略奪した所、罪の場所)にいる兄弟たちを探しに出たヨセフ、兄弟たちをあきらめず、最後まで探し回るヨセフ、ドダン(ドタンの意味は穴)で兄たちに会ったが、むしろ苦難を受けてエジプト(象徴的に死)に売られるヨセフ、しかし、神の恵みによりエジプトとカナン地域を圧倒する権力者になるヨセフ、そして自分の家族と共に数多くの人々を飢饉から救うヨセフ。このようにヨセフの物語は、まるで、父なる神によってこの地上に遣わされ、罪人を探し、苦難を受けて死に、復活してこの世を治めるというキリストの物語と非常に似ています。 キリストの死が滅亡の虚しい死ではなく、真の命を造り出す救いのための死だったように、ヨセフが売られてしまう出来事も、ただの虚しい悲劇ではなく、より大きな神の御心の成就のための準備段階だったのです。創世記49章でヤコブは実際にヨセフをメシアのように描写しています。「彼の弓はたるむことなく、彼の腕と手は素早く動く。ヤコブの勇者の御手により、それによって、イスラエルの石となり牧者となった。どうか、あなたの父の神があなたを助け、全能者によってあなたは祝福を受けるように。」(49:24-25)神は悲劇の中で希望を創り出される方です。いや、悲劇さえも神の徹底した計画と摂理の中にある神の道具に過ぎないのです。私たちはこのような神の全能さに希望をかけて生きるべきです。今の全世界は軍事的、経済的、衛生的、自然気候的に非常に危険な状況に置かれています。少しだけ私たちの日常から目を逸らして世の中を眺めると恐怖を感じるしかありません。しかし、このすべては結局は神の計画と摂理、統治のもとにあることを忘れないようにしましょう。すべては神の御手のうちにあります。そこから慰めを得る私たちになることを願います。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(Ⅰヨハネ4:9) 締め括り 今日は3つの点について話しました。一つ目、差別は分裂を生む。キリスト者は差別してはならない。二つ目、罪は絶えずよみがえり、人間を惨めにする。しかし、神はその罪を無力にするためにキリストを遣わされた。三つ目、ヨセフの物語は旧約に現れるキリストのモデルである。神はいかなる悲劇の中でも、その悲劇まで計画の一部にされ、希望を創り出される方である。ヨセフは本格的にエジプトでの歩みを始めます。今後、神は彼をどのように導いてくださるでしょうか。ヨセフの物語を通じて神の導きと愛を憶える私たちになることを願います。今週も神の愛と恵みにあって安らぎの一週間を過ごされますように祈ります。

栄光とは何か

詩編62編8-9節(旧895頁) ルカによる福音書23章39-43節(新158頁) 前置き 前回の説教の時は、本当に残念な気持ちでした。非常に大事な栄光の意味についての内容でしたのに、まともな説明が出来なかったからです。到底、満足が出来ない説教だったと思います。前回の説教での「人の子」に関しては、皆さんがほとんどお分かりだったと思います。一方では強力なメシアとして来られた人の子、また他方では弱い人間として来られた人の子、人の子であるイエスのその両面性を通して、私たちの救いを成し遂げてくださった主について学んだのです。その次はその人の子の栄光に関する内容でしたが、私はその「栄光」という概念を、聞き取りやすく説明することが出来なかったと思います。そこで、今日は、予定されていた創世記の説教を来週に延ばして、聖書が語る「栄光」の意味についてもう一度詳しく話してみようとしています。できる限り、分かりやすく説教を準備しようと自分なり努力しましたが、多少、抽象的な内容でもありますので、難しく感じられる方がおられるかもしれません。しかし、明らかなことは聖書が語る「栄光」は、世間が漠然と考えている「ただの栄えた光」ではないということです。栄光の意味を正しく理解する時に、私たちは、なぜキリストが十字架につけられなければならなかったのかが分かるようになり、人の子であるイエスの栄光とは何かについて正しく理解することができるようになると思います。どうか主が悟りを与えてくださいますように祈ります。 1。誤解しがちな栄光の概念。 ルカによる福音書23章には、イエスと共に十字架につけられた、二人の犯罪人の物語が登場しています。二人の犯罪人のうち一人は、イエスをののしりつつ「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」と叫びました。彼は本当のメシアなら強い権力があるはずだと思っていたようです。すると、もう一人の犯罪人が、彼をたしなめて言いました。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」彼はメシアの権力ではなくイエスというメシアの存在自体に注目したわけです。私たちは、これを通じてメシアに対する2種類の人間像を見ることが出来ます。一人は「メシアという存在ではなく、その権力」を追求する者、もう一人は「権力とは関係なくメシアの存在自体」を追求する者です。おそらく、世の多くの人々はイエスをののしり叫んだ、前の犯罪人のような見方でメシアを理解しているかもしれません。そして、そのような「強くて圧倒的な権力」がメシアの栄光だと思うかもしれません。しかし、聖書はもう一人の犯罪人の見方からメシアの栄光について語っています。「権力の有無とは関係なく、もっぱら神の御心に服従し、何の罪もなく十字架にかけられたメシア」の存在そのものを栄光だと語っているのです。この二人の犯罪人の中で、果たして誰がメシアの栄光を正しく理解しているのでしょうか? 話を変えて、中世のカトリック教会はイエスをののしった犯罪人のような見方から神の栄光を理解しようとしていました。 権力、名誉、財物を神の祝福であり、栄光だと思いました。まるで、メシアの権力を望んだ、今日の犯罪人が持った見方のように、神の栄光を間違って理解したのです。その結果、中世カトリック教会は権力、名誉、財物のために数多くの不正と犯罪、戦争をもたらしてしまいました。そういうわけで、堕落したカトリック教会から抜け出して宗教改革を打ち立てた信仰者たちは、権力としての栄光を追求していた中世カトリックの神学を「栄光の神学」と名付け、中世カトリック教会の「栄光への誤解」を批判しました。宗教改革者たちは、神の御心に従順に聞き従い、十字架の上で死ぬまで服従されたイエスそのものから真の栄光を見つけようとしたのです。神は十字架のいけにえとして、数多くの人類を救ってくださるためにイエスを遣わされました。そして、イエスは十分な力があったにもかかわらず、神の御心に服従し、自ら死んでくださいました。その結果、神はキリストの死を通して、罪人の救いという御心を成就されたのです。宗教改革者たちは、死ぬまで従順に行われたイエスの生き方を追い求め、自らの神学を「十字架の神学」と名付けました。十字架で死んでくださったイエスと、その存在自体から、神の栄光を見つけようとしたわけです。私たちは、栄光についてどんなイメージを持っているでしょうか。「圧倒的で強力で輝かしい何か」を思い起こしているのではないでしょうか? しかし、神の御心への服従と十字架上でのみすぼらしい死から、はじめてキリストの栄光が現れたことを忘れてはならないと思います。 2.栄光の真の意味について。 以上の話を聞いて、聖書が語る栄光は漠然とした「圧倒的で強力で輝かしい何か」のイメージではないということがお分かりになったと思います。それでは、栄光とは何でしょうか。内容が複雑で難しくなると思いますので、単刀直入に結論から話して説明に移りましょう。「ある存在が自分らしく存在する状態。その存在について正しく知り、正しく言い表す(告白)こと」が聖書が語る栄光のイメージです。つまり「神が神らしくいらっしゃること。」が神の栄光であり、「その神について正しく知り告白すること」が神を信じる者の栄光という意味です。父なる神においては、その存在自体が神らしい状態です。創り主ですから存在なさる自体がすでに栄光であるのです。(神が存在しなければ、世界も存在できない)  救い主イエスにおいては、十字架で死んで復活し、民を救われることが救い主らしい状態です。主イエスはすでに死に、復活され、民を救われましたので、栄光の中におられます。助け主、聖霊においては、神の民を助けて導かれるのが助け主らしい状態です。聖霊はすでにその民を助け導いていらっしゃいますので、もう栄光の中におられます。そして、以上の三位一体なる神の栄光について正しく知り、信じ、告白することこそが、まさに神にかたどって創造された人間がとうぜん取るべき人間らしい状態、つまり人間の栄光なのです。 もう少し詳しく説明してみましょう。聖書の原文には栄光を意味する二つの表現があります。一つはヘブライ語の「カーボード」で、もう一つは先週も取り上げましたギリシャ語の「ドクサ」です。「カーボード」は語源的に「重い」という意味です。私たちは「慎重な人」という表現をよく使います。それは「重みがあり、忠実である」というイメージでしょう。カーボードもそれと似たイメージです。「ある存在が自分の存在理由にふさわしく重みと忠実さを持っているさま」なのです。旧約聖書が語る「栄光」は、ある存在が自分の存在理由に重みを持って忠実である状態を意味します。ある存在の強い力や輝かしい光ではなく、もしそれらのものがなくても、その存在自体が持つ存在理由に忠実な状態がまさに光栄なのです。言い換えれば「ある存在が自分らしく存在すること」という意味です。それでは新約聖書は何と語っているでしょうか。先週の取り上げましたギリシャ語の「ドクサ」がそれです。新約聖書で栄光を意味するギリシャ語「ドクサ」は「~に対して正しい見解を持つ。~に対して正しい見解を持たせる)を意味します。言い換えれば「~について正しく知る。~について正しく知らせる)」という意味です。「ある存在について正しく知っていること。 正しく言い表すこと。」とも言えるでしょう。それがまさに新約が語る栄光の意味なのです。 したがって「誰かが自分の存在に重みを持って忠実であること 」「ある存在について正しく知り、正しく言い表すこと」が、聖書が語る栄光のイメージなのです。そのような意味として、先週の本文に出たヤコボとヨハネ兄弟は、イエスに大変な失礼を犯してしまいました。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」(マルコ 10:35,37) 私たちは先ほど、救い主イエスの栄光とは「十字架で死んで復活し、主の民を救われる救い主らしい状態」を意味すると言いました。つまり主イエスの栄光は、他人とまったく共有出来ない、十字架での犠牲と復活から生まれるものです。弟子たちが主イエスの栄光を分け与えられるためには、まずは死ななければならなりません。しかし、死んだと言っても罪のある二人は他人を救えません。主の栄光は他人と分かち合えないものです。なのに、弟子たちは主の栄光の意味を正しく知らずに、ただ欲しがったわけです。それで、イエスは言われました。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」(マルコ10:38) それでもヤコボとヨハネは「できます」と、せんえつな言動をしました。キリストの栄光は「キリストがキリストらしくおられること」すなわち、「十字架の死と復活による民の救い」を意味します。それらは誰とも共有できないキリストだけに託された栄光なのです。それに対する人間が受けるべき栄光は、ただただ「キリストの存在理由を正しく知り、正しく告白することだけです。 3.現在を生きている私たちにとって栄光とは? したがって、私たちは栄光に対して、誤解しないようにしましょう。栄光とは太陽のように輝き、台風のように強い、波のように激しい何かを意味するものではありません。神の栄光は「神が神らしく存在なさること」であり、そのような「神のことを正しく知り、正しく言い表す(告白)こと。」が信者の栄光なのです。もちろん聖書には神の栄光を「圧倒的で強力で輝く何か」のように描くときもあります。しかし、それは全能なる神であるゆえに当然に現れる、権能なのです。それ自体が栄光ではないということです。神の栄光が持つ最も重要な意味は「神が神らしくいらっしゃることと、それを正しく知り、告白すること。」です。ここで私たち自身に適用したいことがあります。「正しく知り、告白すること」という表現です。大信仰問答10問には、このような言葉があります。「まことの神を知り、そして、信ずることは、神を崇め、神の国と神の義とを求めて生きることである。」正しく知るということは、正しく信じることを伴います。そして正しく信じる者は、正しく神を崇め、神の国と神の義とを求めて生きるために、自分の信仰を公に告白する者です。私たちが礼拝の時、信仰を告白する理由も、私たちの知識と信仰を神と人の前に公に告白するためです。そのような意味として、「正しく知り、正しく告白する、私たちの信仰」は、私たちキリスト者にとって「栄光」になるのです。神を知り、信じて、告白することこそが、私たちが私たちらしく生きる存在理由、まさに私たちの栄光であるのです。 締め括り 今日の説教は先週よりは聞きやすかったでしょうか。もしかしたら依然として難しく感じられる方がおられるかもしれません。私にも神学が難しいです。しかし、大丈夫です。 皆さん、お忘れになっても問題ありません。いつか、また聞く機会があるでしょう。そもそも聖書も、説教も、何度も読み、何度も聞いて学び続けるべきものだからです。ただし、これ一つだけは覚えてほしいです。神の栄光とは、漠然とした「圧倒的で強力で輝く何か」ではなく、「神が神らしくいらっしゃること。」であり、キリスト者の栄光とは「その神のことを正しく知り、正しく告白すること」であるということです。この二つだけを覚えてくださっても、今日の説教は成功だと思います。最後に詩篇の言葉を一節読んで説教を終えたいと思います。「わたしの救いと栄え(栄光、カーボード)は神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。」(詩編62:8) 神の栄光と私たちの栄光への正しい理解を持って信仰生活を続けていきたいと思います。今週も主の栄光にあって生きていく志免教会になりますように祈ります。

人の子の栄光

ダニエル7章1-14節(旧1393頁) マルコによる福音書10章32-45節(新82頁) 前置き これまでの私の説教には、私たち自身の現実の生活を振り返り、「どうすればキリスト者らしく生きることができるだろうか」という質問が多かったと思います。そのため、私たちの人生の在り方。すなわち、「しなければならないこと」と「してはならないこと」に関する言及が多かったと思います。もちろん聖書を通じて生活の教訓を得ること、実践を追い求める教えを得ることは、とても重要なことだと思います。これからも私の説教では、そのような趣旨の内容が続いて伝えられるでしょう。しかし、今日の説教だけは、徹底的にキリストだけについて学ぶ時間になってほしいと思います。私たちが何をして、どのように生きるべきかについての実践的な説明よりは、キリストがなぜご自分のことを「人の子」と呼ばれたのか、「人の子」とは、どういう存在なのか、その「人の子」の「栄光」とは何であるか、私たちが「人の子」であるキリストの「栄光」に加わるということは、どういう意味なのか、そのような多少キリスト論的な内容を中心に話したいと思います。 1.人の子とは誰なのか? 今日の本文の始めには、イエスの死についての予告が出てきています。主は8章、9章、10章を通じて、ご自分の死について3回にわたって言われました。ところが、その度に弟子たちは戸惑いを覚えたように見えます。彼らが考えてきたメシアは政治的、軍事的にローマ帝国を圧倒する強力な存在であるべきだったのに、イエスは繰り返し自ら死ぬと断言されるからです。イエスを強力なメシアだと期待していた弟子たちにとって、イエスの死はあり得ず、あってはならないことだったからです。それにもかかわらず、イエスはご自分の死をますます強調し続けられたのです。マルコによる福音書8章でペトロは言いました。「あなたは、メシアです。」(8:29) マルコによる福音書には記録されていませんが、マタイによる福音書でイエスはその言葉を肯定されました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」(マタイ16:17)すなわち、福音書全体から見れば、主イエスはご自身がメシアであることを知っておられたに違いありません。それにもかかわらず、なぜイエスはメシアらしくなく、自らの死を認められたのでしょうか。それはまさにイエスが死ぬために来られたメシアだったからです。主はおっしゃいました。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10:45) 私たちはこの本文を通じて、主の奉仕について目を注ぎがちです。そして、それを根拠に私たちの他人への奉仕と善行の実践について強調しがちです。もちろん、そのような解釈をしても問題ないでしょう。確かに主は人類に仕えるために来られたからです。しかし、本文の場面は十字架の苦難を受けるためにエルサレムに上っている状況であることを見逃してはなりません。主は他者への奉仕とともに、その仕えの極みである贖いの死のために来られたからです。ところで、この本文で目立つ表現があります。それは「人の子」という表現です。主は福音書のあちこちで自らを「人の子」と呼んでおられます。それでは、この人の子はどういう意味を持っているでしょうか?そのために私たちは、まずダニエル書を確かめる必要があります。「夜の幻をなお見ていると、見よ、人の子のような者が天の雲に乗り、日の老いたる者の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない。」(ダニエル7:13-14)ダニエル書は、世界を治めるメシアの出現を「人の子のような者」と表現しているからです。人の子とは、ダニエル書7章に先立って登場する「四頭の大きな獣」と対比される存在です。獣がどんなに強力であっても、万物の霊長である人間を越えることは出来ないように、人の子は恐ろしい獣たちを圧倒する神的な存在なのです。「天の雲に乗り」という表現がこれを裏付けています。 聖書で「天、雲」は神の栄光と臨在を意味する表現であるためです。イエスが自らを人の子と呼ばれた理由には、まさにこのようなメシア的な意味が含まれているからです。普通、今日の本文の「四頭の大きな獣」は、当時のアッシリア、バビロン、ペルシャ、ギリシャ帝国を意味するものとして知られています。しかし、人の子であるメシアはその全てを圧倒する強力な存在として、神の御前に立つのです。しかし、人の子の働き方は人間の漠然とした望みである「すべてを圧倒する強力なメシア」そのままではありません。なぜなら、聖書で言う人の子は「人間の息子」という意味としても使われるからです。「そのあなたが御心に留めてくださるとは。人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。」(詩編8編4節)この詩篇の言葉の他にも、聖書で「人の子」という表現は、メシアの意味ではなく、ある一人の人間を意味する場合もあります。つまり、「人の子」には両面性があるということです。イエスは自らを「人の子」と呼ばれました。しかし、イエスは強いメシアとしての「人の子」であると共に、殺されうる弱い人間としての「人の子」でもある方なのです。ここで、私たちは神の働き方を見つけることができます。神は主イエスの弱さと強さ両方とも用いられ、神の御業を成し遂げていかれるのです。主イエスの弱さと死で、ご自分の民の強さと命を造り出していかれるのです。 「人の子」イエス•キリストは、そのような存在です。もともと誰も近づくことの出来ない神そのものである方でしたが、弱い人間の体を持ってお生まれになったので、死にうるようになった方です。もし、イエスが強いばかりの方なら、どのように人間の罪を償うために死ぬことが出来、もし、イエスが弱いばかりの方なら、どのように人間を死のくびきから救い出すことが出来るのでしょうか。神はこの「人の子」という表現の中にある、弱さと強さを適切に用いられ、ご自分の御業を完璧に成し遂げていかれるのです。神である主イエスは自ら「人の子」になり、罪人の側にあって弱くなられました。そして罪人に代わって死んでくださいました。また、主は自ら「人の子」になり、神の側にあって強くなられました。そして罪人を救い出し、命を与えてくださいました。したがって聖書で、この「人の子」という表現を見る度に自ら弱くなって罪人の傍らに立ったイエス、自ら強くなって神の傍らに立ったイエス、そして、それらの弱さと強さの間で神と人を執り成されたイエス・キリストを覚えてください。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10:45)この言葉を必ず覚えておきたいです。 2.栄光とは何か? 今日の本文で「人の子」と共にもう一つ考えてみたい表現がありますが、それは「栄光」です。本文で、ヤコブとヨハネ兄弟はイエスに大きな無礼を犯してしまいました。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」(10:35-37) 主イエスに、主の栄光の時に権力をくださいとわがままに要求したのです。主はご自分の死を語っておられましたが、なぜ、この二人の兄弟は自分たちの未来の権力に執着したのでしょうか。「イエスはこうお答えになった。人の子が栄光を受ける時が来た。」(ヨハネ12:23) このように、主はご自分の死を栄光と表現されました。おそらく彼らは今まで主イエスと同道しながら、主の死と復活の時に栄光をお受けになるという話を何度も聞いてきたでしょう。つまり、彼らは主が栄光の中で死んで復活し、また、この世を支配する真の栄光のメシアになり、ローマ帝国を倒すだろうと思ったでしょう。もし、そうだったら、彼らは主の栄光を完全に誤解していたと言えます。もしかしたら私たちも「主の栄光」を誤解しているかもしれません。栄光の漢字語自体が私たちを誤解させます。「栄の光」のような意味に感じられるからです。しかし、聖書が語る栄光は、そんな意味とは異なります。「栄光」のギリシャ語は「ドクサ」と言います。「ドクサ」は「意見、見解、考え、思い」などの意味の名詞ですが、その語源である動詞「トケオ—」は「ーについて考える。–と見なされる。」という意味です。 そして、聖書で使われる文法は「-について考える。-と見なされる。」という意味を超えて、「-に対する正しい見方を持つ。-という見方に影響を及ぼす。」という意味にまで展開されます。つまり、聖書が語る「主の栄光」とは、「主への正しい見方を持つ」という意味です。ただ、主の栄えた光を意味するのではなく「主イエスの存在理由を正しく知る」という意味です。先ほど「人の子」イエスは死ぬために来られたと話しました。イエスが人間の体を持って来られた理由は、罪人の代わりに死ぬためです。死んでこそ救うことが出来るようになるからです。イエスの復活も栄光ですが、復活のために死ぬこともイエスの栄光、すなわち「人の子」イエスが存在する理由なのです。それを正しく知ることから、はじめて主に栄光を捧げることが出来るようになるのです。聖書が語る栄光とは、ある存在が自分の存在理由に合わせて確実に生きていく時に成し遂げられるものです。御父は神として存在される時に栄光をお受けになります。つまり、父なる神は常に神であるため、神の栄光はすでに存在し、存在しており、これからも存在するでしょう。イエスは十字架で死に、復活して民をお救いになる時に栄光をお受けになります。主イエスはすでに民のために死に、再び生き返って栄光の中におられる方です。聖霊はキリストの教会を導かれる時に栄光をお受けになります。変わることなく教会を導いていかれる聖霊は、すでに栄光の中におられる方です。それなら人間の栄光は何でしょうか。造り主であり、救い主である主なる神を正しく知り、信じて、従う生き方、つまり創造摂理に忠実なことこそがまさに人間にとっては栄光なのです。 締め括り 今日の説教を通して、人の子についてはある程度説明が出来たと思いますが、時間の関係で、栄光については説明が少し足りなかったと思います。しかし、いつか、また「栄光」について話す機会があるでしょう。今日、私たちは「人の子」について、そして「栄光」について学びました。栄光の主イエス•キリストは、主の栄光のために、私たちのために、私たちの罪と共に死んでくださった弱い「人の子」であります。そして、その弱い主は、私たちの救いのために死から私たちの命と共に復活された、強い「人の子」でもあります。私たちはこのような弱いが強く、強いが弱い、そしてそのすべてを用いられて私たちの救いを確証してくださるイエス•キリストの民です。このイエスを正しく知り、その方の存在理由を常に心に留めて生きることこそが、まさに私たちキリスト者の栄光なのです。もし、今日の説教が難しく感じられたら、ホームページの説教文をもう一度確認してください。そして、もし説教原稿が必要でしたら教えてください。イエス•キリストについてより深く学び、悟っていく私たち志免教会になることを願います。この一週間も栄光の人の子であるイエス•キリストの恵みにあって生きていくことを祈ります。

ヨセフの夢

創世記37章1-11節(旧63頁) テモテへの手紙第二2章15節(新393頁) 前置き 前回の創世記の説教では35章の言葉を通じてベテルという場所について話しました。なぜ、ヤコブはベテルに行かなければならなかったのか、現在の私たちにとってベテルとはどういう意味を持つのかについて学びました。ヤコブがベテルに行かなければならなかった理由は、そこが神とヤコブの約束の場所だったからです。また私たちがベテルを大事にすべき理由は、イエス•キリストによる神との和解、罪への悔い改めを象徴する場所だからです。キリスト者である私たちは、常に神との関係の中に生きるべき存在です。キリストの救いを通じて、神の所有となった私たちは、もはや「私自身」が主ではなく「神」が主となった存在だからです。私たちは毎日の自分の生活を振り返り、今、自分の中心となった存在が自分自身であるか、それとも神であるかを考えつつ生きる必要があります。私たちは常に神が中心にいらっしゃる神の家、つまり「ベテル」を憶え、追い求めて生きるべきです。そこに私たちの主である神が私たちを待っておられるからです。 1.35章の後半と36章について。 もともと今日の説教は、引き続き35章の残りの箇所について取り上げる予定でした。しかし、ベテルに立ち戻ったヤコブの物語を最後にヤコブの話を一段落したいと思います。そこで、35章の後半は手短に触れることで終わりたいと思います。また、36章の内容はエサウの系図の話であるため、別に言及せずに進みたいと思います。「こうして一同は出発したが、神が周囲の町々を恐れさせたので、ヤコブの息子たちを追跡する者はなかった。」(創世記35:5) ヤコブは神の一方的なお助けによって無事にベテルに到着しました。神を憶え、立ち戻ることを望む者、神の御前に出て悔い改めることを願う者には、誰も邪魔することができません。神はご自分に帰り、悔い改める主の民を憐れんでお迎えくださる方だからです。私たちが悔い改めて神に帰ろうとする時、神は誰にも邪魔されないように私たちを守ってくださいます。そして、そのような私たちを祝福してくださるでしょう。神は主の民の悔い改めを何よりも喜ばれる方だからです。「神は、また彼に言われた。わたしは全能の神である。産めよ、増えよ。あなたから一つの国民、いや多くの国民の群れが起こり、あなたの腰から王たちが出る。わたしは、アブラハムとイサクに与えた土地をあなたに与える。また、あなたに続く子孫にこの土地を与える。」(創世記35:11-12) そして神は主の下に帰ってきたヤコブに祖父と父に与えた約束と祝福をもう一度確かめてくださいました。 神はご自分の民との約束を絶対に忘れずに守ってくださる方です。神はアダム(創世記1:28)、ノア(創世記8:17)、そして、アブラハム(創世記15:5)にくださった祝福の約束の宣言を、ベテルの神の下に帰ってきたヤコブにもしてくださいました。今後、神はヤコブとその子孫を通して神の約束を成し遂げていかれるでしょう。新約時代を生きる私たちは、神がヤコブとお結びになった約束の成就であるイエス•キリストの民として生きていく存在です。また神はキリストを通じて、私たちに救いの約束をくださいました。イエスの救いの中に生きる新約時代の民である私たちは、移り変わりのない主イエスの約束によって、神の愛と導きの中に生きているのです。35章には3人の死が記録されています。ヤコブの母であるリベカの乳母デボラの死(8節)、ヤコブの妻ラケルの死(19節)、ヤコブの父イサクの死(29節)であります。ヤコブは野望と欲望で生きる人でした。自分の目標のために父と兄をだましたり、しつこく欲を張ったりする存在だったのです。しかし、そんなしつこい生き方にも関わらず、結局、身内の死を防ぐことはできませんでした。死を目の前にして人間の欲望は、どういう意味を持つでしょうか。私たちはいつか私たちを訪れてくる死の前で、人生の真の意味について考えてみるべきです。「ヤコブは、キルヤト・アルバ、すなわちヘブロンのマムレにいる父イサクのところへ行った。そこは、イサクだけでなく、アブラハムも滞在していた所である。」(創世記35:27)最後にヤコブはいよいよ父イサクの地、主が約束された土地にたどり着きました。 2。御言葉をくださる神。 では、37章の言葉を見てみましょう。「ヤコブは、父がかつて滞在していたカナン地方に住んでいた。」(創世記37:1) ヤコブはついに自分の居場所に住むことになりました。 1節にはヤコブの父イサクが、カナン地方に「滞在」していたと記されています。しかし、ヤコブはそこに「住んで」いたと記されています。「滞在」と「住む」は大きな違いを持つ表現です。辞書的な意味も全然違います。滞在は「よそに行って一定の期間そこに留まること。」住むは「居所を定めて、そこで生活する。」と説明しています。原文はどうでしょうか?イサクの「滞在」は「マグル」という表現で「宿泊」の意味を持っています。ヤコブの「住む」は「ヤシャブ」という表現で「安定的に居住する」という意味を持っています。父のイサクにとっては滞在の地であったカナンが、息子のヤコブにとっては住いとなったということです。神は約束をお忘れにならない方です。かつて主は滞在者だったアブラハムとイサクにその土地を与えると約束されました。そして神はその孫であるヤコブをアブラハムに約束された土地に住ませてくださいました。つまり、神はその約束に基づいて必ずヤコブの人生への責任を負ってくださるという意味です。なのに、ヤコブは約束を信じず自ら自分の人生を守ろうとしました。そんな理由で神の御心からはずれたりする時もありました。結局、彼はシケムでひどい目に遭ってしまいました。悔い改めてベテルに立ち戻ったヤコブに与えられたのは、祖父、父にとっては滞在の地であったカナンが、ヤコブ自身にとっては住いの地となっていたという事実でした。 確かに、しばらくしてヤコブは大飢饉を避けてエジプトに向かうことになります。しかし、神はその400年後にヤコブの住いだったカナンの地に、彼の子孫イスラエルをまた呼び集めてくださったのです。そこは神がアブラハム、イサク、ヤコブと約束された契約の地であるからです。神のご計画は一点一画も誤りなく完全です。そして神の民はそのご計画にあって生きるべきです。この言葉を誤解してはいけません。神の計画にあって生きなければならないから、自分は何もやらなくても良いという意味ではありません。私たちは変らず熱心に自分の人生を生きていかなければなりません。しかし、その人生の歩みが神の計画と御心において進んでいるかどうかを点検し、常に主の御言葉を通じて私たちがいるべき場所を確認しつつ生きるべきであるという意味です。私たちの居場所は神の計画、御心、そして約束の中でなければなりません。ヤコブが神の御心に従ってベテルに向かい、結局約束の地にたどり着いて住み始めた時、主はその息子ヨセフを通して主の御言葉を示す夢を見せてくださいました。主の民が主の御心にしたがって生きる時、神は御言葉をくださいます。主の民が主の御言葉を通じてより正しい道を歩んでいけるように主は御言葉をくださるのです。神の御言葉をいただきたいですか。それなら神の約束の中にお住まいください。神の御心を常に求め、「どのように生きれば、神の約束の中に住むことが出来るか」を考え抜きつつ生きていきましょう。そのような民に主は必ず答えてくださるでしょう。 3.言葉を預かった者は謙虚に生きなければならない。 「ヨセフは言った。聞いてください。わたしはこんな夢を見ました。畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました。」(創世記37:6-7)今日の本文を通して、私たちはヨセフがまだ分別がなく、未熟な人だったということが分かります。兄たちの過ちを父親に告げ口して兄たちの気に障る姿が見られます。そして自分の夢を偉そうに言いふらして親兄弟に失礼な言動をすることが分かります。しかし、彼の夢は数十年後に実際に起きることをあらかじめ見せてくれる一種の神の啓示(言葉)でした。なぜなら、ヨセフは実際に当時の巨大な帝国エジプトの宮廷の責任者(総理)になり、人々にひれ伏されるからです。神は未来に起きる実際のことをヨセフの夢を通して啓示(言葉)されたのです。しかし、分別なく未熟だったヨセフはそれを配慮なく言い表してしまい、他人の心を傷つけてしまいました。つまり、ヨセフは神の御言葉を預かった者でした。しかし、彼の愚かな言動によって、大切な神の御言葉は周りの人々に伝わりませんでした。神の御言葉を預かった者は謙遜でなければなりません。牧師、教師はもとより長老、執事、そして私たち皆が神の御言葉を預かった者です。私たちは神の御言葉の源であるイエス•キリストの体なる教会だからです。私たちには生ける神の、生き生きとした御言葉が共にあります。私たちの謙虚によって神の御言葉が広く伝えられることもあり、私たちの高慢によって神の御言葉が妨げられることもあります。 使徒パウロは、自分の愛弟子であるテモテにこう言いました。「あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい。」(Ⅱテモテ2:15) 私たちは若いヨセフのように軽んじて神の御言葉を取り扱ってはなりません。御言葉を預かった私たちは、御言葉を大事にし、自らをわきまえて、恥じるところのない働き手と認められた者らしく、神の御前に生きるべき存在です。私たちキリスト者の一歩一歩が、神を知らない隣人への神の御言葉であることを憶え、謙虚に生きていくべきです。最後に「夢による啓示」についての一言で説教を終えたいと思います。新約時代を生きる私たちは、新旧約聖書が唯一の神の啓示(言葉)であると信じています。しかし、聖書の記録される前、例えば創世紀の時代やイスラエルが堕落した時代、新約聖書の完成前などの時は、夢や幻などで神の啓示が伝えられたりもしました。しかし、今は違います。教会が立っているところであれば、どこでも神の御言葉である新旧約聖書を読み、その言葉による説教を聞くことができます。従って、今の時代の日本には夢による啓示がほとんどないと言っても過言ではないでしょう。神の啓示は個人に密かに伝えられるものではありません。誰か自分の夢を通して神が啓示されたという人がいたら、まずは疑いましょう。そして牧師に問い合わせてください。「真理の言葉を正しく分別」して啓示を私的に使おうとする者に注意してください。 締め括り これから創世記はヨセフが主人公として登場するようになります。ヨセフも曽祖父、祖父、父のように間違いの中で彼の歩みを始めました。しかし、主はこの未熟で取るに足らないヨセフを通して、偉大な主の歴史を作っていかれます。今日の説教で大切なこととして取り上げたのは、「一つ、神は悔い改める者を必ず守ってくださる。」「二つ、神の約束に従ってヤコブはカナンの滞在者ではなく、住人になった。」「三つ、御言葉を預かった者は謙虚に生きるべきである。」でした。いろいろありましたが、この三つが最も大事だと思います。これから繰り広げられるヨセフの物語を通じて神のご恩寵と御愛を味わっていくことを願います。創世記ももう後半です。残りの箇所も頑張りましょう。今週一週間も主の約束の中に、謙虚に生きる志免教会になりますように祈り願います。

まことの富とは何か。

詩編49編7-9節 (旧882頁) マルコによる福音書10章13-22節 (新81頁) 前置き マルコによる福音書の説教を始めてから、もう1年半が経ちました。最初、マルコによる福音書の説教を始めた時、私はローマ帝国の迫害の下で苦しんでいたキリスト者たちを慰め励ますために、この福音書が記録されたと話しました。マルコによる福音書1章でイエスが最初におっしゃった言葉は「時は満ち、神の国は近づいた。」でした。つまり、マルコによる福音書は、苦難と迫害にさらされているキリスト者たちに「神の国」という理想的な世界が、キリストによってまもなく到来することを宣言する、希望のメッセージだったのです。そのためかイエスはマルコによる福音書の所々で神の国について言われるのです。今日の本文も例外ではありません。したがって、今日の本文も、その「神の国」という観点から取り上げる必要があります。特に、今日は「富」と「神の国」とを結びつけて話しています。人間の一生において、富とはとても大事な事柄です。適切な富がなければ、私たちは飢えるか他人に迷惑をかけることになるでしょう。しかし、私たちがキリスト者である限り、この世が追い求める貪欲に染まった富の価値観に、そのままついていくわけにはいきません。私たちキリスト者にとって、真の「富」とは何でしょうか。今日の本文を通じて富について考えてみたいと思います。 1.子供のような者–神の国を所有する者。 10章1節では、イエスがユダヤ地方に行かれたと記されています。当時のユダヤ地方といえば、エルサレムを中心とするイスラエルの中心部を意味します。比喩で言うと東京23区のような所だったでしょうか。つまり、イスラエルの宗教、政治、経済、社会の中心部であり、物質的にも、精神的にも最も豊かな地域だったということでしょう。ところが、そこに行かれたイエスが初めて体験されたことは、前回の説教でも取り上げた間違った結婚観によるファリサイ派の人々の質問攻めでした。当時ユダヤ人は結婚と離婚をあまりにも軽んじているだけでなく、宗教指導者たちさえも結婚に関する律法の教えを誤って理解していました。ユダヤ地方は物質的だけでなく、精神的にも最も豊かであるべきユダヤ教の中心地だったのに、むしろ宗教の中心地という華やかな表だけで、精神的な貧困によって聖書の本来の意味さえも、まともに理解できずにいたのです。表向きは裕福そうな地域でしたが、心の中は貧弱極まりない状況だったということです。そして今日の本文は、そのようなユダヤ地方の状況を改めて想起させる物語なのです。「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。」(13) ところで、今日の本文を通じて、私たちはイエスの弟子たちも当時のファリサイ派の人々と大差ない姿を見せることが分かります。彼らもまた、ファリサイ派の人々のように目に見えることだけを見て、本当に重要な価値に気付かずにいたのです。 なぜかというと、弟子たちが「イエスに触れていただく」ことを願って子供たちを連れてきた人々を叱ったからです。ここで「触れる」を意味するギリシャ語「ハプトマイ」は「所属する、関わる」という基本的な意味を持っています。自ら主に帰属するために来た存在を、主の弟子たちが外見だけを見て叱り、追い出したわけです。その時、主は弟子たちに「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」とおっしゃいました。当時、子供たちは大人の思いに左右される存在でした。大人たちの言葉をそのままに受け入れ、従順に従わなければならない存在だったのです。しかし、それだけに子供たちは、ずる賢くなく純粋でした。イエスはそのような子供たちを貴いとされました。単純に弱い者であるからだけでなく、純粋で謙虚に大人に従う彼らの生き方を愛されたからです。主は子供たちの中に神に従順に聞き従うべきキリスト者の在り方を見つけられたでしょう。そして、主はそのような子供たちのように主に従う者たちこそが、神の国を所有することができると教えたのです。表では裕福そうでしたが、裏では神の言葉である律法を、まともに理解できなかったユダヤのファリサイ派の人々より、表面的には弱いが、そのままに主の御言葉に聞き従う子供のような者たちが、真に神に愛される存在であることを、子供たちを受け入れることで見せてくださったのです。ここで、私たちは神の国を所有することができる、真の裕福な者とは子供のように神の御言葉に純粋に聞き従う者であることが分かります。 2.永遠な命とは何か? 子供たちが去った後、イエスの所に、ある金持ちの男が訪ねてきました。「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」(17) そして彼はイエスにどうすれば永遠の命を得ることができるかについて質問しました。ところで、ここで永遠の命とは何でしょうか。ただ長生きすることでしょうか。もし、人が死なずに数千年、数万年も生きるとしたら果たして幸せでしょうか?もしかして退屈にならないでしょうか。私たちはキリスト教が語る永遠の命について、正しい理解を持たなければなりません。今日の本文の永遠の命のギリシャ語は「ゾエン・アイオニオン」という表現で、「アイオニオン」は「常に、いつも」を、また「ゾエン(ゾエ)」は「命」を意味する表現です。つまり、常に命にあって生きることを意味します。しかし「ゾエ」は単純に生物学的な命を意味する表現ではありません。英語には「バイオ(BIO)」という単語があります。バイオは生物学的な命、つまり肉体の命を意味します。そういうわけで、生物学をバイオロジーといいます。ところが、このバイオという表現はギリシャ語の「ビオス」に由来します。ギリシャ語には生物学的で物理的な命を意味する「ビオス」と、根源的な(霊的な)命を意味する「ゾエ」が区別されています。今日の本文で永遠の命には「ビオス」ではなく「ゾエ」という表現が使われました。つまり、聖書が語る永遠の命とは、肉体の命を超え、それより深い意味を持つ根源的な命を意味するのです。 言い換えれば「ゾエ」は、根本的で霊的な命を意味します。そして神に由来する命をも意味します。聖書はその「ゾエ」の源が神であると証ししています。「命の泉はあなたにあり、あなたの光に、わたしたちは光を見る。」(詩編36:10) 神がこの世の中を創造されたのも、この神の「命(ゾエ)」を世の中に表したものです。キリスト者が、主によって救われ、真の命を得たという表現も、単純に「ビオス」的な表現ではなく、真の「ゾエ」を得たという意味です。したがって、聖書が語る永遠の命とは、神に「命(ゾエ)」を得て限りなく根源的な命を享受することになったという意味です。つまり、命の源である神と、いつも、常に一緒に生きるようになったという意味です。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3) そしてさらに聖書はこの永遠の命はイエス•キリストを通じて得ることになると証言しています。そのような意味として、今日の、イエスの前に出てきて「触れていただく」ことを願った子供たちは、真の永遠の命を見つけた存在であったかもしれません。そして、彼らこそが神と一緒に生きる、真の裕福な者だったのかもしれません。永遠の命とはいつも神と一緒に生きることです。永遠の命は神を信じ、その御言葉に従順に生きる人々に与えられる神の贈り物なのです。今日の御言葉は、その永遠の命を持った者こそが、まさに真の裕福な者であることを私たちに教えてくれるのです。 3.真の富とは何か? 今日の17節に登場するイエスのところにやってきた金持ちの男は、一見、永遠の命を探求する者と見られます。最初の質問が永遠の命についての問いだったからです。またイエスを善い先生と告白し、律法もよく守る者です。どこから見ても理想的な信仰者です。そして金持ちです。もし、このように信仰を追求し、御言葉に真剣であり、イエスに友好な金持ちの人が、志免教会に来たら、私たちは皆その人を疑わずに大歓迎するでしょう。彼は教会に活気を与え、毎週の献金も目立って増えるでしょう。しかし、イエスもそう考えられたでしょうか。イエスは人の外見だけをご覧になる方ではありません。もちろん主は本文の金持ちの男の情熱を慈しんでおられます。しかし、イエスはそこで留まらず、彼の最も弱い部分を見抜かれて鋭く掘り下げられました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(21) 主にこう指摘された金持ちの男は、自分の多くの財物のため、悲しみながら主のもとを立ち去りました。何も持っておらず、力の弱い子供たちが主の御前に無邪気に出てきたのとは反対に、彼は自分の力でイエスの前に出てきて、自分の思い通り信仰にも熱心に生きてきましたが、彼の財物を標的とした主の鋭い指摘の前で崩れてしまったのです。彼は自分の持ち物を諦めることができず、真の富であり、永遠の命であるキリストとの歩みを逃してしまいました。 聖書が語る富は、非常に霊的な事柄です。これは単純な財物の多寡の問題ではありません。イエス•キリストに人生の希望を置いて神の国を待望する者は、貧富を問わず、実際には裕福な者です。財物、名誉、権力など、神以外のものを追求するために神の国への待望も、期待もない者は、いくら富裕と言っても実際には貧しい者です。イエスの前に出てきた子供たちは低くて貧しい存在だったかもしれません。けれども、彼らは主の祝福を限りなく享受する真の富を持った存在でした。主と歩むことが出来る永遠の命が彼らにはあったかもしれません。しかし、多くの財物を持っている金持ちの男は、もしかしたら自分の財物を守るために主との歩みを諦めてしまった霊的に貧しい者だったのかもしれません。聖書が語る富の基準は、神に属することを望むか否かの問題です。人間は貪欲に満ち、満足を知らない存在です。今日、主イエスがおっしゃった「天に富を積む」という言葉の意味は貪欲を捨て、神の完全なご支配に自身のすべてを委ねるという意味です。(多くの献金をしなさいという意味ではない。) もし神を最も大事な方とし、すべてを神に委ねることが出来るならば、その人は真の裕福な者であり、永遠の命を享受する者であるでしょう。しかし、神以外の自分の物事のために神の御心に聞き従えない者は、真の貧しい者であり、永遠の命から遠い者であるでしょう。今日の物語は私たちに、富に対する霊的かつ根源的な基準について教えているのです。 締め括り 「どうして恐れることがあろうか、財宝を頼みとし、富の力を誇る者を。神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない。」(詩編49:7-8) 詩編は富の虚しさについてこう話しています。いくら多くの財物を持っていると言っても、人は皆死んで神のところに戻らなければなりません。いくら多くの財物があると言っても、一人の魂を救うには、とても足りません。真の富とは私たちが持っている財物ではなく、主への私たちの信仰にかかっています。主への信仰こそが私たちの魂を救いに至らせる唯一の道だからです。神の国では財物の多少ではなく、神への純粋な信仰だけが真の富と認められます。確かに私たちに、ある程度の富は必要です。家庭を守るために、子供を育てるために、老後の生活のために、私たちは富を積まなければなりません。つまり、富そのものは悪ではありません。しかし、それが私たちにとって真の富ではないことを常に念頭に置いて生きるべきでしょう。私たちの真の富は主なる神への私たちの信仰と従順に従う人生そのものです。私たちの心があるところに私たちの富もあるのです。この世の富ではなく、神の国で認められる富が、私たちが追求すべき真の富であることを憶え、この世の財物より、神への信仰をより大切にする私たちになることを願います。そのような生き方に主は真の富を豊かに与えてくださるでしょう。

祈り

歴代誌下7章14節(旧679頁) マタイによる福音書6章5-8節(新9頁) 前置き  祈りとは何でしょうか。私たちは、祈りによって礼拝を始め、祈りによって礼拝を終わります。また、祈りたけのために水曜祈祷会を守り、常に個人の祈りをし、中会、大会の時も祈りによって始まります。そして、聖書も祈りについて、非常に大事に扱い、主イエスも生前に祈りの歩みを歩かれました。このように祈りはとても大事なキリスト者の信仰の行為なのです。今日は、聖書の御言葉を通して、この祈りというものについて一緒に考えてみたいと思います。 1.旧約時代の祈りの場-神殿 「あなたは天からその祈りと願いに耳を傾け、彼らを助けてください。(歴代誌下6:35)」歴代誌下6章にはソロモンの祈りが記してあります。エルサレムの神殿が完成された日、ソロモンは神殿で祈りました。彼は神がご自分の民を哀れみ助け、最後まで導いてくださることを願いました。ソロモンはイスラエルの神だけがイスラエルの主であり、助けてくださる全能者であると祈りました。すると、神はその夜にソロモンの夢に現れ、今日の旧約本文のように言われました。 『もし、私の名をもって呼ばれている私の民が、跪いて祈り、私の顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、私は天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす。』(歴代誌下7:14)神はソロモンが捧げた神殿をご自分の民の祈りを聞かれる場所にしてくださいました。「今後この所で捧げられる祈りに、私の目を向け、耳を傾ける。今後、私はこの神殿を選んで聖別し、そこに私の名をいつまでも留める。私は絶えずこれに目を向け、心を寄せる。」(歴代誌下7:15-16)イスラエルの神殿は特別な場所でした。神殿に当たる概念は出エジプト記の時代にもありました。その時は幕屋と呼ばれる仮小屋でしたが、それは主がくださった十戒の石板が入った契約の箱が置かれる場所でした。契約の箱は神の足台とも呼ばれましたが、それは神がこの地上に直接関わっておられるという意味でした。幕屋は人間の罪のゆえに神との関係が崩れたこの世に、神が積極的に関わられ、特に神に選ばれた民と一緒におられることを示す、神のご臨在の象徴でした。ところで、ソロモンはその幕屋をいっそう大きくアップグレードして、神が「主の名をもって呼ばれている神の民」と共におられることを望んだのです。しかし、それは単にイスラエルの民だけに限られることではありませんでした。他民族が神殿に来て主を認め、謙遜に祈る時、彼らも受け入れてくださる、異邦への主の救いの象徴としてもしようとしたのです。 神殿で祈る時、神は祈る者を助け、癒してくださると約束されました。しかし、残念なことに現代のエルサレムに神殿はありません。西暦70年にローマ軍によって破壊されました。それでは、神殿の新約時代に、私たちはどうすれば良いでしょうか?単刀直入に 旧約聖書の神殿は、新約のイエス・キリストを意味する重要な象徴であります。これは新約聖書からも知ることが出来ます。『イエスは答えて言われた。この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。』(ヨハネ2:19-21)旧約の神殿は、神がご自分の民と会ってくださる場所でした。神の民も、神を認める異邦人も、この神殿で神の御前で祈ることが許されたのです。そして、新約時代はキリストにあって神に会い、祈ることが出来ます。もちろん、イエス・キリストは建物ではありません。しかし、この旧約の神殿のようにイエスを通じて、私たちの祈りが神に捧げられるのです。神殿は祈りの家でした。そして、 現代においては、神が神殿として認めてくださったイエス・キリストの、御名によって祈ることが出来るようになりました。私たちが祈りを終える時、いつも「主イエス・キリストの御名によって祈ります。」と唱えることには、このような意味があるからです。昔の神の民は神殿で祈りました。つまり、私たちは新約の真の神殿であるイエス・キリストにあって祈るべきということです。別の名を通じては、私たちの祈りが父なる神に届くことが出来ません。神が「私の名をもって呼ばれている私の民」と言われた部分を記憶したいと思います。私たちが神にいただいたその名、イエス・キリストの名によって祈るとき、私たちの祈りは、あの旧約の神殿での神の民の祈りのように神にささげられるのです。 2.祈りは調律。 今日の新約本文は、イエスが弟子たちに「主の祈り」を教えてくださる前の物語です。「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(マタイ6:6)イエスの時代には、ラビや宗教指導者が広場や神殿の庭で他者に目立つように大声で祈る場合があったと言われます。そのような祈りを通して、「私はこんなに素晴らしい祈りをする。律法についてよく知らない君たちより、私の方がはるかに正しい人である。私は君たちとは違う。」ということを見せて、自分の義を自慢するためでした。しかし、イエスは、むしろ小部屋に入ってひそかに祈ることを命じられました。祈りは他者に見せるために、あるいは自分自身の欲望を満たすためのものではありません。 祈りは調律です。演奏者は、演奏の前に基準音に合わせて調律をします。オーケストラの公演に行くと、公演を始める前に、オーボエ奏者が『ラ音』を出すそうです。この音に合わせて全ての楽器は調律します。これが基準音です。祈りは、神の基準音、すなわち、神の御心に信徒が自分の基準を合わせる行為です。祈りを通して神の御心を基準音とし、それに従って生きていくということです。ですので、私たちは、調律の祈りをするべきです。自分自身の欲望と罪を神の御前で抑え切って、神の御心に沿って行くことを求める行為です。だから、自分の願いを叶えようとする意図だけでは、完全な祈りを捧げることは出来ません。もちろん、私たちは、経済、子供、健康、人間関係のために祈る必要があると思います。しかし、その祈りは私たちの弱さを告白する祈りとなる必要があります。自分が金持ちになり、権力者になって、欲を満たす祈りではなく、自分の祈りを通して、経済、子供、健康、人間関係への自分の弱さを告白するということです。叶えてくださるにせよ、拒まれるにせよ、神に自分の事情を打ち明けることが大事だということです。そして、神が与えられるお答えに応じて、願いが叶っても感謝し、叶わなくても感謝することが重要です。そして、そのような祈りの中で最も重要なことは、神の御心とは何かを悟り、それに自分の心を共に重ねていくことです。イエスはこのような調律としての祈りを強調されたのです。 3.主イエスの御名によって祈る。 神はイエス・キリストを現代の神殿にしてくださいました。私たちが主イエスの名によって祈る時、その祈りを聞いてくださいます。この会堂は神殿ではありません。ただ建物に過ぎないのです。この会堂が無くても、私たちは公園で礼拝することが出来ます。志免教会の始まりは、この会堂ではなく、家庭礼拝からでした。誰かの家での集いも主イエスによって教会になるということでしょう。主の御名によって集まる所が教会そのものだからです。しかし、神がくださった真の神殿であるイエスの御名がなければ、私たちの祈りは、御父に届くことが出来ません。また祈りは神の御心に自分の心を合わせていく行動です。主イエスが父なる神の御心に合わせて、ご自分の命を捧げられたように、祈りは自分のことを神の御心に合わせる行為なのです。神が望んでおられることを自分の基準にし、それに合わせることです。その基準に合わせて、神は私たちの願いを叶えられるか拒まれるのです。しかし、その神の御心に従って叶っても感謝、叶わなくても感謝する成熟した信仰を持っている私たちになりましょう。 イエス・キリストの名によって祈りましょう。そして、その祈りを自分の欲望と必要だけのためにではなく、神の御心とは何か?自分がどのように神の御心に気づいて行くべきだろうかのために祈りましょう。『あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。』(マタイ6:8)神は、すでに私たちの必要を知っておられる方です。神の御心に合わせて、私たちに必要な祈りを聞かれ、その願いを叶えてくださると信じます。しかし、時には、自分の思いが神の御心に合わない場合、拒まれるかも知れません。それでも絶望せず、神の正しさを信じて従って行きましょう。神は、主の民を愛しておられます。神は、主の民が最も良い道に行くことを望んでおられます。私たちに良いものを与えてくださる神を信じて、何のために祈って行くべきかについて、毎日、主に伺って行きましょう。その時、神は私たちに最も必要なものを喜んで答えてくださるのでしょう。 締め括り 今後の祈りを通して、私たちの人生を通して、神が許されたイエス・キリストの御名によって、神に自分を捧げて、神の御心に自分を合わせて、へりくだって真実な祈りを捧げる志免教会になっていきましょう。常に神の御心に聞き従い、その御心を私たちの基準として生きていく志免教会になることを祈り願います。