香油に注がれたイエス

出エジプト記12章12-13節 (旧111頁) マルコによる福音書14章1-11節 (新90頁) 前置き 前回の説教でお話しましたマルコ福音書13章は、神の御心を離れ、裁きをもたらしたエルサレム神殿とユダヤ社会へのイエスの警告でした。私たちは本文を通じて、私たちにとっての神殿の意味と日常生活に適用できる点について話しました。実は今日も神殿への裁きと世の終末について説教する予定でしたが、似たような内容を2度も繰り返せば、説教する私にも、聞いてくださる皆さんにも、疲れがあるかと思い、今度マタイによる福音書の説教の時に、この部分について、また分かち合いたいと思います。しかし、主が13章で教えてくださった最も大事な教えは言及して次に入りたいと思います。今日の本文ではありませんが「気をつけて、目を覚ましていなさい。」(13:33)という言葉です。13章の最後に、イエスは主の再臨についてお話になりました。それが西暦70年のローマ帝国を用いられ、神殿をお裁きになることを象徴的に示されたことなのか、それとも世の終末の時にあるイエスの実際的な再臨を示されたことなのかは分かりませんが、主はご自分の民たちが「主の再臨に備えて、常に気をつけて、目を覚まして生きる」ことを命じられたのです。主の神殿は、主なる神の御手によって崩壊しました。私たちの教会も、もし当時の神殿やユダヤ社会のように、主の御心と御言葉に適わず、この世の風潮に流されて生きていくなら、私たちの思いがけない時に裁き(戒め)の主の御前に立つことになるかもしれません。私たちは常に自分が目を覚ましているかどうか、主の御心にふさわしく生きているかどうか、深く考え、注意と自覚の中で生きていく必要があります。 1.過越祭と除酵祭 13章の主の厳重な警告の言葉に続く14章では、イエスが本格的に死に向かって進んでいかれる姿が描かれます。マルコ1章で「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」という言葉で地上での公生涯を始められたイエスは、3年の間、ユダヤ人、異邦人を問わず、貧しくて弱い人々を癒し、教えつつ、宣教をされました。そして11章で十字架のいけにえとして、ご自分の命を捧げるためにエルサレムに行かれたイエスは、歪んだ神殿とユダヤの社会を叱られ、裁きを警告されました。以上がマルコの福音書1章から13章までのあらすじです。そして、主は14章で、本格的に十字架の道を進み始められたのです。「さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。彼らは『民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう』と言っていた。」(14:1-2) 現在、説教している創世記が終われば、次は出エジプト記に入る予定ですが、出エジプト記12章には過越祭と除酵祭の起源について記してあります。過越祭は「神の災い(死)が過ぎ越す。」という意味の日で、出エジプトを妨げるエジプトへの主なる神の強力な裁きの日でした。しかし、家の入口の二本の柱と鴨居(以下、入口)に小羊の血を塗ったイスラエルの民は、神の裁きを免れ、生き残ることができました。ユダヤ人が過越祭を記念する理由は、小羊の血を用いられ、イスラエルを死から守ってくださった主の恵の日だからです。 出エジプト記12章には、除酵祭についても記してありますが、最初の過越祭の夕方、イスラエルの民は酵母を入れないパンと苦菜、そして小羊の肉を食べました。この時、神は一週間、酵母を入れないパンを食べることを命じられましたが、それから始まったのが除酵祭だったのです。そのため、過越祭は除酵祭期間の1週間を始める日だったわけです。そして、この期間は出エジプト記のように、神が死からイスラエルを守られ、エジプトの束縛から解放してくださったことを記念する期間でした。ここで大事なのが小羊の血なのです。出エジプト記12章13節を読んでみましょう。「あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。」小羊の血を入口に塗った家は、神の裁きを免れることができました。ユダヤの宗教指導者たちは憎しみでイエスを殺そうとしました。自分たちを戒める主イエスのことを我慢できなかったからです。しかし、彼らの憎しみと復讐心の中でも、神はご自分の御業を着々と準備して行かれました。宗教指導者たちは自分たちがイエスを殺すと思ったでしょうが、実はイエスの死は人間のたくらみではなく、神ご自身が直接ご計画なさったことだったからです。神はまるで出エジプト記の小羊の血のように、神の小羊であるイエスを十字架につけられ、その血潮によって主に選ばれた、ご自分の民を死から救い出してくださったのです。 2.イエスを記念する。 主イエスの十字架での血は、まるで過越祭の小羊の血のようなものでした。入口の小羊の血が、死の災いからイスラエルを守ってくれたように、イエス·キリストの十字架での血は、その方を信じるすべての者たちに、神の裁きと死から主の民を守るしるしになります。私たちがイエス·キリストを信じる理由は、このお方だけが、神の怒りと裁き、そして呪いと死から私たちを守ってくださることが出来るからです。しかし、イエスの弟子たちも、主に従う人々も、このようなイエスの真の使命について、まともに理解していなかったようです。皆が主の癒しだけを願い、政治的なメシアだけを望み、自分の利益のために主を利用することだけを求めていたようです。そのような主の歩みの中に、今日は特別な人が登場します。それはナルドの香油を注ぐ女です。「イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。」(14:3) この女が誰なのか、私たちには分かりません。その日も、主はベタニアの重い皮膚病(ハンセン病)の人の家におられました。「11番洞窟神殿文書(11Q Temple Scroll)」という故文書には、神殿の東側3キロ地点にハンセン病人の隔離区域があったと記録されていますが、おそらくベタニア近くではないかと思います。つまり、十字架での死を目の前にしたその日も、主は貧しい病人の世話をしておられたということです。 皆が主の癒しだけを求め、皆が主に憐れみだけを望み、皆が主に必要だけを願った時、高価の香油を持った女は、主に油を注いだわけです。女が主に何かを差しあげたということです。(捧げるという表現より、わざわざ日常用語のあげるという表現を使います。)ナルドという植物はヒマラヤ山脈に育つ草で、非常に貴重なものでした。古代にインドからイスラエルまで来たものですから、どれだけ高かったでしょうか。300デナリオン以上、当時、丈夫な労働者の1年分の労賃以上の価値だったのです。2022年度、日本の平均賃金は400万円前後だったそうです。私たちは果たして400万円以上の油を主の頭に注ぎかけることができるでしょうか?正直、私は自信がないです。そのためか、ある人たちがイエスに油を注いだ女を厳しくとがめる場面も出てきます。新約の学者たちは、イエスに香油を注ぐ行為に 2 つの意味を与えました。第一、油に注がれた者、つまりイエスこそメシアであるという解釈です。イエスは、ただの貧しい者を助ける心優しい青年ではありません。主は香油に注がれた真のメシアとして、ご自分の民のために代わりに死に進んでいかれる方です。第二、イエスのお葬儀の記念という解釈です。イエスがマルコ福音書で3度も予告されたように、まもなく十字架のいけにえになることを記念するということです。古代イスラエルにおいては、遺体に香油を塗る場合もあったと言われますが、そういう意味として、香油を注いだとのことです。とにかく、無名のこの女はイエスを記念しました。 皆がイエスに「ください」と言った時、彼女は名もなく主にすべてを差し上げたのです。 私たちは祈る時、つい「ほしい、ください」とよく言います。神に私たちのものを差し上げるという祈りはあんまりしないと思います。実は「私たちのような罪人たちが主に何ができるの?」と思ってしまうかもしれません。しかし、私たちにも、神に差し上げることができるものがあります。それは「感謝」です。「主よ、私たちと一緒にいてくださって、ありがとうございます。主よ、私たちを選び、救ってくださって、感謝します。」また、讃美です。「主おひとりだけに栄光あれ。主よ、あなたの御名が高く崇められますように。」そして、献金もあります。もちろん献金の金額は重要ではありません。幼子の100円でも、喜んで捧げる心が大事です。「主よ、わずかなものを主に捧げます。」そして、献身もあります。「主よ、宝物はありませんが、私を主のものとしてください。主の栄光のために私を用いてください。」牧師、長老、執事でなくても、自分のありのままを主に捧げて生きるという人生、それが重要なのです。そして、最も重要なことは、私たちの隣人と兄弟、姉妹への愛、目に見える隣人への愛によって、目に見えない神へ愛を差し上げることです。ですから、私たちも主に差し上げることができます。私たちも主に香油のような感謝、讃美、献金、献身、そして愛を差し上げることができます。ですから、私たちは何を差し上げることが出来るだろうか考えてみましょう。いつもくださいと祈るばかりではなく、捧げの祈りもしましょう。それがまさに今日のその女の心ではないでしょうか。 3.倫理、道徳ではなく、福音としての愛。 最後に「そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。『なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。』そして、彼女を厳しくとがめた。」(14:4-5)の言葉について考えてみたいと思います。一見、憤慨した人々の言葉が、ともて理性的で合理的に聞こえるかもしれません。実際に400万円の香油をいっぺんに使いきるよりは、それを売ったお金でトルコの被害者や日本の欠食児童を助けるのが良いのではないでしょうか? それがまさに隣人愛ではないでしょうか。しかし、私たちの隣人への愛の根拠は、主への愛でなければなりません。 私たちは、隣人への愛を実践する前に、その愛の根拠はどこからなのかを憶える必要があります。私たちはまず主の愛を憶えなければなりません。主の愛、贖い、導きを憶えなければなりません。そして、主の御業を記念して生きなければなりません。もちろん、実際に300デナリオンの大金を使うのは無理かもしれません。しかし、少なくとも私たちは主の功績を忘れずに、常にその方の御業に感謝し、憶えながら生きるべきです。キリスト教は倫理と道徳だけの宗教ではありません。キリスト教はキリストの愛と救いの宗教です。キリストの愛と救いという大前提から倫理と道徳も生まれるのです。ですから、私たちは隣人への愛に先がけて、神への愛をまず心に刻みながら生きていかなければなりません。 締め括り 今日は、主が十字架にかけられる直前の出来事の中で、一番最初にあった香油に注がれたイエスの物語について考えてみました。主イエスは罪人を神の厳重な裁きと、それに伴う永遠の死から救ってくださるために来られたメシアです。主は出エジプト記の小羊の血のように、私たちから呪いと死が過ぎ越すように守ってくださる方です。また、私たちも主に自分のものを差し上げることができます。大金でなくても、大したものでなくても、私たちの小さなもの、私たちのありのままを、主に差し上げることができます。神は何よりも、私たちの献身を喜ばれる方だからです。最後にキリスト教は倫理と道徳だけの宗教ではありません。私たちが大事にする隣人への愛、倫理、道徳の根拠は、キリストの愛と救い、つまり福音から始まります。ですから、父なる神の愛、キリストの救い、聖霊の導きを憶え、感謝し、記念して、私たちの神を何よりも大事な方として生きていきましょう。今週も主に感謝し、私たち自身を捧げて生きる一週間になりますように祈ります。 父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。