主の十字架。

申命記21章22~23節 (旧314頁) ガラテヤの信徒への手紙3章10~13節 (新345頁) 前置き 今日はイエス·キリストの受難主日です。前回の説教で、私たちはキリストの苦難について学びました。それを通して私たちはイエスが苦難を受けなければならなかった理由について、そして私たちにとって主の苦難とは何かについて話しました。イエスの苦難は、罪によって神に呪われた罪人たちのために、罪のないイエスが代わりに受けてくださった贖いの苦難でした。主イエスがお受けになった苦難と死によって、罪人への神の呪いは解決され、イエスを信じる者たちはみな、苦難の代わりに希望を、死の代わりに命を得ることになりました。また、主の苦難は十字架の上で受けた肉体的な痛みだけを意味するものではありませんでした。神であるキリストがしもべの姿、すなわち人の子の姿となって来られたこと自体が苦難の始まりでした。このすべてのキリストの苦難は、ご自分の命を神への献げ物としてささげ、罪によって汚されたご自分の民を罪から救い、父なる神と和解させるための崇高な苦難でした。そういう意味として、イエスの苦難は罪人である私たちが受けるべき苦難だったのです。主の苦難を憶える時、私たちはそれを絶対に憶えなければなりません。今日は、その苦難の極みである十字架の出来事について話してみましょう。 1. 旧約の木と新約の十字架。 すでにご存知であると思いますが、十字架はローマ時代の刑罰道具です。イエスは弟子たちと一緒に最後の晩餐をとられ、オリーブ山に行かれ、そこでイスカリオテのユダの裏切りによって、ローマの兵隊たちに逮捕されました。以後、主はユダヤの宗教指導者たちとヘロデ、そしてローマの総督であったポンテオ・ピラトに次々と尋問され、苦難を受けられた後、この十字架で壮絶に亡くなられました。前回の説教で学んだように、神であるイエスがしもべの姿で来られたのが苦難の始まりだったと言えば、この十字架で血を流して亡くなられたのは、その苦難の極みであり、完成だったのです。ところで、イエスの時代のローマでは、すべての囚人が十字架刑にされたわけではありませんでした。十字架刑はローマ帝国にとって最も危険な政治犯が受けるべき、恥と残酷の死刑だったのです。つまり、ローマ帝国の滅びを企んだり、反逆を図ったりした者たちにくだされる死刑だったわけです。そういう意味として、イエスはまったく政治犯ではありませんでした。罪人への真の悔い改めと神との和解の福音を宣べ伝えられただけです。しかし、ユダヤの指導者たちは霊的なユダヤ人の王として来られたイエスを誤解し、中傷して、ユダヤ人の王という表現を政治的に歪めて、罪のない主イエスを最も残酷な十字架刑に処したのです。まるで大罪を犯した凶悪犯であるかのように十字架で殺されました。ところで、なぜ主イエスは政治犯でもないのに、十字架で死ななければならなかったでしょうか? 私たちはその理由を新約聖書ガラテヤ書を通して知ることができます。 「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。木にかけられた者は皆呪われていると書いてあるからです。」(ガラテヤ3:13) ガラテヤ書は律法と福音の関係について説明した使徒パウロの大事な手紙です。律法と十字架の関係については後で話すことにして、ここでは「木にかけられる」という表現について考えてみましょう。旧約の律法には、神の御裁きの一つとして、自分の罪によって死刑にされた罪人を木にかけろとの命令がありました。木にかけられた者は、神に呪われた者であり、神の民から排除された惨めな存在でした。これについては、今日の旧約本文にも記されています。「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、 死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた者は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない。」(申命記21:22-23)つまり、旧約の「木にかける」という神の裁きが、新約にあって目に見えるように実現されたのが、まさにこの十字架の出来事だったということです。もちろん、十字架刑はローマ時代の死刑制度でしたが、ある意味で「木にかける」という律法の命令とも重なっているということです。これによって、ユダヤ人は木にかけられたイエスを神に呪われた者、神の民から排除された者と認識したはずです。つまり、イエスの十字架の出来事は、イエスが神に完全に御捨てられたことを律法的に示す出来事になったのです。 2. 律法は束縛を、十字架は自由を。 しかし、それはイエスの罪のために起こった出来事ではありませんでした。イエスはご自分の罪によって木にかけられたわけではないからです。かえって、イエスは何の罪もない方であり、しかも神ご自身であります。それなのに、なぜ主は木にかけられて悲惨に死ななければならなかったのでしょうか? それは神であるイエスが、呪いを受けるべき誰かのために、父なる神の呪いを代わりにお受けになって死に、復活して、ご自分の功績によって、その呪いを断ち切ってくださるためでした。イエスの時代のユダヤ人たちは、「自力で律法の要求を完全に果たして神の祝福(救い)に至る」という思想を持っていたようです。何度もお話しましたが、ユダヤ人の律法には、すべて613種類の数多くの掟がありました。そして、そのすべての掟を完全に行い保つ時、律法は完璧に守られるものでした。しかし、そのうちの一つでも守り保つことが出来なかったら、律法全体を完璧に守ったとは言えなかったのです。つまり、不完全な存在である人間が自力で律法を守り、神に認められ、救われるということは、まったくあり得ないという意味です。そのため、自分の力で神に認められる救いを得ることが出来ない人間は、何をしても呪いから自由になることが出来ません。しかし、イエスは正しい方で神ご自身であるゆえに、律法の要求をすべて果たすことが出来る方です。とういうわけで、律法を完成されたイエスがご自分の命をかけて、民の呪いを償い、ご自分の完全さによって民の救いを守り保たせてくださるのです。 だから、イエスを信じる者たちはみな、「イエスの功績によって律法を完成した者」と神に見なされ、認められるのです。私たちはこれを救いと言うのです。そのような意味として、旧約の律法は、どうしても罪人が罪から自由になれないことを明らかに示す束縛の道具なのです。誰も律法の行いを完全に守り保つことができないからです。しかし、罪のない完全な主イエスは罪人を罪に定める律法の束縛から自由な方です。主ご自身が律法を造られた方であり、律法の上にいらっしゃる正しい方であるからです。十字架は、律法を完全に成し遂げられたイエスが、律法の束縛を断ち切られたのを示す、主イエスの祝福の象徴なのです。イエスは、罪人の代わりに神の呪いを受けて木にかけられてしまったのですが、それによってすべての呪いの対価を支払ってくださったのです。そのため、イエス·キリストを主と信じる者はみな、呪いから自由な主の子供として生まれ変わったのです。明らかに新約聖書の十字架と旧約聖書の木は呪いの象徴です。しかし、呪いを圧倒する主なる神の恵みはキリストの贖いの血によって、呪いの十字架という木から呪いを消し去り、その代わりに祝福を入れ替えてくれました。そういうわけで、主の十字架は呪いが過ぎ去ったのを象徴する救いの道具となりました。誰でも、十字架で成し遂げられたキリストの贖いを信じるなら、呪いから自由になり、主の御救いに入ることができるのです。これによってイエスの十字架は、主の救いによる自由と救いを象徴するものとなったのです。 3. 十字架そのものではなく、十字架の出来事を憶えましょう。 ここで、一つ注意しなければならないことがあります。それは十字架そのものは聖なるものではないということです。ひと時、ハリウッドのホラー映画の中にドラキュラが登場する映画が多かったです。映画を観るとドラキュラには弱点がありましたが、日差し、銀、聖水、ニンニク、十字架などでした。このような映画の影響のためか、キリスト者でない人々においては、十字架に不思議な聖なる力が宿っていると誤解する場合が多いと思います。しかし、それは映画的な楽しみのために作られた現代人の想像に過ぎません。十字架そのものには何の力もありません。というわけで、宗教改革期のプロテスタント教会では、会堂に十字架もつけないケースが多かったと言われます。十字架をもう一つの偶像にする恐れがあったからです。実際にローマ帝国の処刑道具として使われる前、古代フェニキアやバビロン、エジプトなどでは、この十字架が、異邦の神々を象徴する偶像崇拝の道具として使われていたとも言われます。また、このような道具が時間の経過とともにカルタゴやペルシアなどで処刑道具として使われ(おそらく、神々の呪いとして)、その後ローマ帝国にも導入されたと言われます。そのため、信仰が弱い人々は、いつでも十字架を神やイエスの化身と誤解して偶像のように受け入れる可能性があるということです。 ですので、私たちは先ほど語り合ったように、十字架の意味を正しく知り、使わなければなりません。十字架そのものではなく、十字架での主イエスの贖いの出来事を、より一層大切に憶えるべきです。十字架を眺める時、キリスト教の聖なる象徴と思うより、私たちのためのキリストの苦難と恥の証拠と思うべきです。何のためにキリストが、この十字架の上で苦しめられたのかをよく考えましょう。そして、自分にとって十字架とは何かについて顧みましょう。使徒パウロはこう言いました。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラディア2:19-20) 十字架を憶える時、私たちは十字架にて成し遂げられたキリストの救いと共に、今後私たち自身が十字架にあってどう生きるべきなのかを悩まなければなりません。主イエスがご自分の民の救いのために、自ら命をささげて救ってくださったように、今や私たちは救い主イエスの栄光のために、私たち自身の十字架を負って生きていかなければなりません。私たちはキリストの十字架にあって、私たちのために身を献げられた神の子に対する信仰によって生きて行かなければなりません。そのような十字架の意味を心に留めて生きていきたいと思います。 締め括り 今日は、主の十字架について考えてみました。志免教会に赴任してから、5回目のレントを過ごしていますが、そのたびに十字架について説教をしてきました。しかし、振り返ってみると、いつ聞いても新しく感じられるのが、この十字架の話しではないかと思います。十字架は私たちの代わりに主イエスが苦難を受けてくださった愛の証拠です。十字架は私たちが受けるべき呪いを主イエスが断ち切ってくださった自由の証拠です。十字架は私たちの命のために、ご自分の命を捨てられた主イエスの犠牲の証拠です。十字架は私たちを救ってくださったキリストのために、私たちも主に自分を捧げる献身の証拠です。そのような十字架の意味を憶え、今週を過ごしていきたいと思います。十字架の主が志免教会の上に豊かな恵みを与えてくださいますように。 父と子と聖霊の名によって。アーメン。