主イエスの苦難

イザヤ書53章3~6節 (旧1149頁) ヨハネによる福音書12章23~26節 (新192頁) 前置き 今日は2023年度の四旬節第5週間目の主日です。先週は四旬節の意味について、そして、それにかかわる灰の水曜日、四旬節の日数の意味などについても学びました。今日は私たちが四旬節を通して記念しなければならない、主の苦難について考えてみたいと思います。今日は主の苦難の意味について、そして来週は主の苦難のハイライトである十字架について話したいと思います。なぜ、完全な方であるイエスは苦難をお受けになることになったでしょうか? そして、キリスト者にとって、主の苦難はどういう意味を持つでしょうか? 一緒に考えてみましょう。 1. なぜメシアは苦難のしもべと呼ばれるのか? 旧約のイザヤ書には、4つの「しもべの歌」が記されています。(42:1-9、49:1-7、50:4-9、52:13-53:12)「しもべの歌」には将来、神のしもべ、すなわちメシアが来て行う務めについて、書いてあります。すでに新約を知っている私たちは、このしもべの歌が、メシア、イエスキリストについての預言であることを知っていますが、その昔、キリスト以前の人々は、この神のしもべが誰なのか分からなかったのです。そういうわけで、漠然と誰かが神の偉大なメシアとして来るだろうと推測するだけでした。ところで、人々はこのしもべの歌から、とうてい理解できない点を 1 つ見つけました。それは神のしもべ、メシアが苦難を受けるということでした。メシアとはヘブライ語の「油注がれた者」という意味です。旧約のイスラエルでは「王、祭司、預言者」が油に注がれて任命されましたが、油注がれた者は、この地上で神の手と足のように主の民に仕え導くリーダーのような存在でした。そのため、人々は油注がれた者、つまりメシアを尊敬し、栄光の存在として認識していたのです。それなのに、イザヤ書の神のしもべ、メシアが苦難を受けるようになるなんて、メシアを栄光の存在と認識してきたイスラエル人は大きな衝撃を受けたに間違いないでしょう。「栄光の存在は苦難の存在だ。」という逆説が「しもべの歌」に現れていたからです。 なぜ、栄光を受けてしかるべき存在が苦難を受けなければならないのでしょうか? その理由は律法の贖いの方式のためです。旧約、イスラエルの民は、神殿にて、傷のない獣を贖罪の献げ物とすることで赦されました。民の罪を傷のない獣に渡し、民の代わりに獣を屠ることで、民の罪 民の罪が償われたと見なしたわけです。ここで大事なのが「傷のない」という表現です。すべての獣が、民の贖いのための献げ物として捧げされるわけではありません。傷のないきれいな獣だけが献げ物になれるのです。ところで、神はいつも繰り返される獣によるいけにえの代わりに、一人の主の聖別されたしもべを犠牲にして、ただ一度で罪を取り去る方法を計画されました。(ヘブライ9:26) したがって、ただ一度の贖いのための存在、すなわち神のしもべメシアは、傷のない獣のように、罪から自由な存在でなければなりません。旧約のいけにえのように、主のしもべは、罪なく完全で光栄の存在でなければなりません。なぜなら、この栄光の存在を犠牲にして罪に満ちた民を贖うからです。イザヤ書の「しもべの歌」に登場する神のしもべメシアはそのような存在です。いかなる罪もない、誰よりも光栄で欠点のない存在ですが、神はその栄光のしもべを、ご自分の民への唯一無二の真の贖罪のために、献げ物として苦難の中に投げ入れられたのです。 神のしもべとして来られたイエスは、罪も傷もない完全な栄光のメシアです。しかし、そのような理由で、イエスは苦難を受けるしもべになりました。イエスは罪人の命のために十字架で死に、罪人の赦しのために呪いを受け、罪人の喜びのために悲しみを受けました。イザヤ書の「しもべの歌」は、このような逆説を示しています。今日の旧約本文も「しもべの歌」の一部ですが、読んでみましょう。 「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53:5) 救いのためには「代わり」という言葉が前提とならなければなりません。主は私の代わりに罰せられ、私の代わりに苦難を受け、私の代わりに呪いを受け、私の代わりに死を経験されました。それらによって、私は主の代わりに平和を得、主の代わりに祝福を受け、主の代わりに命をもらい、主の代わりに光の中にいるようになったのです。主イエスの苦難は私たちの苦難に代わるものです。私たちが受けるべき苦難を代わりに受けてくださった主がいらっしゃるから、私たちは主の代わりに栄光を受けることになったのです。聖書が語る救いには償いが必要なのです。私たちが死を恐れず、生きることが出来る理由も、栄光の主イエスが私たちの代わりに苦難を受け、私たちの救いを固く約束したためです。苦難のしもべイエスは私たちの苦難を代わりに担当してくださるために来られた方です。 そして、私たちはその苦難のしもべイエスによって、主の栄光の中で救われた存在なのです。 2. 一粒の麦のような神のしもべ 「イエスはこうお答えになった。人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:23-24) 今日の新約本文で、イエスはご自身の苦難と死について「栄光を受ける」と言われました。メシアであるイエスご自身が、ご自分の苦難を栄光の行為として認識しておられたということです。 罪に汚された民を救うためのイエスの苦難は、昔から神によって定められた救いの手立てでした。イエスが神に服従してその救いを成し遂げられる時、すなわちイエスが苦難の中で死んで、ご自分の民をお救いになった時、はじめて神のご計画は成就されるからです。イエスは神の計画が成し遂げられること自体が、すなわちご自分の栄光であることを知っておられたでしょう。主イエスの苦難と栄光は、まるでコインの両面のようなものです。世の中の価値観では到底理解できない逆説的な神秘です。死から命を生み出し、苦難から栄光を造り、みすぼらしさから貴さをもたらされる神の逆説的な神秘なのです。したがって、私たちはこの四旬節の期間、主の苦難を憶える時、神の栄光と私たちの栄光のために、苦難をご自分の栄光となさったキリストの崇高なお志を記念しなければならないでしょう。一粒の麦の死のようなキリストの苦難と死は、主を信じるキリスト者という数多くのもう一つの麦を生みだし、神に栄光を帰しました。そして、それはまた主イエスの栄光となったのです。 3. 主の苦難を憶えつつ。 ところで、主の苦難とは具体的にどういう意味なのでしょうか? 十字架にかけられる時の痛みのことなのでしょうか? 数多くのユダヤ人の指導者たちに受けた迫害のことなのでしょうか?枕する所もないほど、貧しかった主の生涯のことなのでしょうか? 寒い冬の飼い葉桶に生まれたことなのでしょうか? 多くの人々が、主イエスの苦難を「十字架刑」や「人々からの迫害」のような肉体的なことだと考える傾向があると思います。しかし、主の苦難は、ただ地上での肉体的な苦難だけを意味するものではありません。最も大きな苦難は、主が「しもべ」になったということです。私たちはイエス·キリストが「御子」であることを知っています。神は御父、御子、聖霊の三位一体ですが、その中の御子の位格が肉となってこられた方が、イエス・キリストです。つまり、イエスは御子なる神です。キリスト教の大事な信仰告白であるニケア・コンスタンチノープル信条には、こういう表現があります。「造られることなく生まれ、父と一体」ここで「生まれ」という言葉は、漢字語では出生を意味しますが、原文では、その意味は違います。それは「御子は御父から派生(この表現も不十分だと思いますが)した。」というふうの意味で、御子が被造物ではなく父と同等の神としての存在であるという表現です。つまり、御父と御子は同一本質の同等な神です。ところが、そのような神である御子が自らしもべになられたわけです。ここから御子の苦難は始まったのです。永遠で無限の存在である子なる神が、自ら制限と有限の世界に、人となって行かれたということです。 単に、「十字架の処刑が痛くて苦しかった。」あるいは、「地上での生涯が貧乏だった。」などのレベルではありません。それを主の苦難だと考えてはなりません。神が人となって、この世に来られるそのものが、主の苦難の始まりだったのです。主イエスは私と皆さんのどうしようもない罪を赦し、救ってくださるために自ら神の特権を捨てられるほど、罪人を愛されたのです。そして無限の存在が、有限の中に入ってこられたのです。したがって、人間の視座から主の苦難を理解してはなりません。私と皆さんのためにイエスはすべてを捨てて、この死の世界に来られたわけです。そして、死によってご自分のすべてを捧げられました。もちろん、父なる神がイエスを復活させ、再び永遠と無限の主として格上げさせてくださいましたが、私たちの救いのためにすべてを捨てられたキリストの救いは永遠に記念するべき御業なのでしょう。主の苦難はただの感動的な愛の物語ではありません。子なる神がご自分の実存をひっくり返された凄絶な霊的な戦いだったのです。そのため、神学ではイエスの苦難と救いの出来事を、特別恩寵と呼んでいるのです。絶対に忘れないようにしましょう。主は私たちを救うためにご自分のすべてを捨てて苦難の真ん中に入っていかれた方です。そしてご自分のすべてを捨てられる苦難によって、私たちを救ってくださったのです。 締め括り ひょっとしたら、私たちは主の苦難を、あまりにも軽んじて話しているかもしれません。毎年、四旬節になると主の苦難を感謝し、讃美しますが、私たちは主の苦難をどれくらいに理解しているでしょうか。もちろん、人間である私たちが主の苦難を理解するなんてとんでもないかもしれませんが、少なくとも主の苦難をもっと知りたいとの熱情は必要なのでしょう。自分の苦難、自分の痛みは大きく考えながらも、主の苦難についてはあんまり興味がなければ困るでしょう。主の苦難がなかったら、私たちの救いもありません。私たちは主の苦難を憶える時、いつも真剣に考えるべきです。そのように、残りの四旬節を過ごしたいと思います。父と子と聖霊の名によって。 アーメン。