正しい者はいない。一人もいない。

詩編14:1-3 ローマの信徒への手紙 3:1-20 前置き パウロは、ローマ書1章を通して、人類が持っている罪と不義に対する神の裁きを語りました。その後2章では、『神の民』が、その罪人を判断することについて、彼らも同じく大きな違いのない罪人であることを力説しました。パウロは『神の民』のモデルとして、ユダヤ人を例として挙げ、彼らが『特権であり誇りである』と思っていた律法についての誤解を批判しました。律法を持っているので、自らを義人だと思っていたユダヤ人たちが、結局は神の前で同じ罪人であることを話したものです。パウロは『律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。』(2:13)という言葉で、真の義とは律法の所有によるのではない、律法の精神を守ることによって生じると話しました。そして、これは単にユダヤ人だけでなく、『神の民であるため、罪人とは異なるという特権意識』を持っている、すべてのキリスト者も同様であることを示しています。結局、ローマ書2章のユダヤ人への批判は、一次的にユダヤ人に、二次的には今日を生きていく私たちにも、同じく適用されるパウロの警告なのです。 1.律法の所有が救いを保証することではない。 2章で、想定モデルとしてのユダヤ人に訓戒するような姿勢を取りながら、信じる者の特権意識を指摘したパウロは、3章では、本格的に論争をしつつ、話を続けていきます。3章8節に『わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、』という言葉を通して、3章の会話がパウロの教えに反対する人たちとの論争であることが分かります。つまり、3章で、パウロは、ユダヤ人批判者と論争しながら、もう一度、ユダヤ人が誤解している律法について言い及ぶのです。2章がユダヤ人という仮想の象徴的人物を通して、ユダヤ人はもとより、すべての信じる者にした訓戒であれば、3章では、本格的にユダヤ人との論争を用いて、ユダヤ人が持つ特権意識に反論するという意味です。 1節『では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。』これは『神がユダヤ人の祖先であるアブラハムを選び、ご自分の民にしてくださり、割礼という意識を通して、他の民族と区別してくださったのに、これが何の意味もないという意味か?』という質問です。ユダヤ人の特権意識が、どこから来たのかが分かる部分です。『それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉を委ねられたのです。』パウロはこのような答えを通して、ユダヤ人が律法を所有したこと、そのものが大事なことではなく、ユダヤ人に与えられた言葉、すなわち、律法の精神の重要性を強調しています。新約で神の御言葉を意味するロゴスが持つ意味は、ただ言語という意味のほかに精神あるいは関係という意味を持っています。ユダヤ人に言葉が委ねられたという意味は、神が要求しておられるところ、神の御心を把握し、それをこの世で実践して生きることを意味します。これは言葉を所有するというのは特権になることではなく、神の御心を実践するための義務となるということです。ここで、私達は律法を所有していることだけで、ユダヤ人は特別であるという特権意識の無意味さが分かります。 3節『それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでも言うのですか。』新共同訳では、不誠実な者だと書かれていますが、これを直訳すると「信頼しない者」となります。ここで突然、信頼という言葉が出てくる理由は、ギリシャ語原語との関係があるためです。 2節で『言葉をゆだねられた。』という言葉が出て来ますが、原語の直訳では『誰かに信頼された。』という言葉となります。つまり、2節での『神の言葉をゆだねられた。』 という言葉は、『彼らは神に信頼された。』と解釈することが出来ます。先に私は神のロゴスには関係という意味も含まれているとお話ししました。神は民との信頼関係の中で、律法を任せられました。神の言葉を委ねられたということは、神との信頼関係の中にあるという意味です。しかし、ユダヤ人は、何度も信頼関係の律法の精神を破り、異邦の神々を拝んだのです。私たちは、旧約聖書を通して、旧約の民がどのように神との関係を破っていったのか明確に知ることが出来ます。そういうわけで、3節の質問は、このように解釈することが出来ると思います。 『ユダヤ人が神を信頼しないからと言って、誠実な神がイスラエル民族との契約を破られ、自分の民を異邦の罪人のように見捨てられるということか?』この質問にも、まだユダヤ人の特権意識が感じられます。パウロは4節を通して人は不誠実つまり、不義でありますが、神様は決してそのような方ではないという答えで、神の完全無欠さを守りつつ、3節の論争を一段落させます。 2.自らを正しいと思ったユダヤ人の罪。 ローマ書は、パウロの殉教の約10年前に記された文書だそうです。つまり、ローマ書はパウロがイエスを信じてから、数々の経験をした後、ローマ教会に送った手紙なんです。そういうわけで、ユダヤ人との仮想対話にはパウロ個人の経験が多く含まれています。パウロは、ユダヤ人の会堂でイエス・キリストの福音を紹介しながら、ユダヤ人と多くの論争をしたでしょう。神が自分らだけに律法を与えられたと信じていたユダヤ人たちは、律法の所有が神の特権ではなく、ユダヤ人も、神に見捨てられ得るというパウロの言葉に大きな衝撃を受け、多くの反論を申し立てたでしょう。そのうちの一つが今日の本文の5節-8節の話です。ユダヤ人たちは、『ユダヤ人が神様を信頼しなかったからといって、誠実な神様がユダヤ人を捨てられるのか? 律法を通してユダヤ人の救いを契約した神様が契約を守らないというのは、神様が”不誠実な方”ということではないか。』と反問したものです。これに対し、パウロは『ユダヤ人が、いかに不誠実で罪を犯しても、 神様が誠実な方だということは決して変わらない。』と答えたのです。むしろ、誠実な神様だからこそ、ユダヤ人の不誠実を赦し、キリストを通して救ってくださると語ったのでしょう。パウロはユダヤ人の不義のため、むしろ、主の義が現れると語ったのでしょう。これらのパウロの教えにユダヤ人たちは、自分たちにではなく、キリストに義があるという話に皮肉を言い、『善が生じるために悪をしよう。』と言ったのです。 このような背景をもって5-8節を読めば、割と容易に内容が分かるようになると思います。『しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。』この言葉を、より理解しやすく翻訳してみましょう。『ユダヤ人が契約を破ったからと言って、神様も契約を破る不義な神になるわけではない。これは、人間の視点でしかない。あなたの不義に対して怒りを発する神は正しくないのか』これは、ユダヤ人が過去、神との信頼関係を壊す罪を犯しましたが、神は依然として、その信頼関係を保っておられることを意味します。ただ、神様は律法ではなくイエス・キリストを通して、ユダヤ人との関係を保たれ、彼らの罪を赦し、救ってくださることを望んでおられるのです。しかし、ユダヤ人は、自分らが不義であるという言葉を納得できず、自分らが不義であれば、不義に放って置かれた神様も同じように不義の神になるだろうと頑なに意地を張っているのです。彼らは決して自分が正しいという考えを諦めないということです。これは、神を下げ、自分を高める大きな不敬になります。 『わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。』ユダヤ人たちは、続けて不敬な話を吐き出します。『パウロよ、あなたの言葉のように私たちの不義によって神の義が明らかになり、栄光を得られるとしたら、むしろ私たちは神様の裁きを受けてはならないだろう。 ならば、神様の善が生じるために悪をしなければならない。』キリストを露わに否定し、むしろ、自分たちに正当性を与えようとしたユダヤ人は、頑固にパウロの教えに真っ向から反論しました。ここで、人間が持っている致命的な罪が明らかに現れます。自らを正しく思い、自らの考えを最後まで正しいと主張する彼らを見て、私たちは、創世記で自分の判断に従って、神の言葉に聞き従わなかったアダムのような姿を見ることが出来ます。結局、ユダヤ人たちは、自分は選ばれたという勘違いの中で、アダムが犯した罪を、同じく犯しているのです。パウロは、これによって、ユダヤ人が持っている罪の性質を告発し、最終的にユダヤ人も、神の御前で罪人であることを現わしてくれます。この話は、すでに2章5節にも現れていました。『あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。』 3.人は罪から自由になれない。 これらの1-8節の物語を通して、パウロは、結局『ユダヤ人はそこまでだ。』という限界を示しています。そして自分自身を弁護するために、パウロが伝えた福音を歪め、拒んだ彼らに『こういう者たちが罰を受けるのは当然です。』と評価しています。だからといって、パウロが、キリスト者がユダヤ人にまさると話しているとは言えません。むしろ、同じように扱っています。 『では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。』(9)パウロは、すべての人が罪人であるだけだと話しているのです。ここで、パウロがした、これまでのユダヤ人への教えと対話が、最終的にはキリスト者にも適用されるものであることが分かります。私たちは、これにより、ユダヤ人、キリスト者、未信者を問わず、すべての人が罪の下におり、神の裁きの下にあるということが分かります。 『正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。』(10-12)パウロは、詩編14編を引用して、ユダヤ人たちが大切にした律法も、人間の本質についてこう評価したということを示し、確証します。 ここまで聞いたら、ローマ書の読み手は一つ悩むようになると思います。 『それなら、人間には全く希望がないということか?人間はただ生きていきながら、罪を犯すことしかないのか?』 残念なことに、聖書はそうであると話しています。『彼らの喉は開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。』パウロは13-18節を通して、旧約聖書に記された多数の罪を数え立てながら、人間は正しくないと話しています。実に人間には惨めさしかないということです。『さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。』(ローマ書3章19-10)さらに悲惨なことは、その罪の中にいる人間は、神に与えられた律法さえも、到底、守ることが出来ないということです。 パウロは今までの教えを通して『律法は聞くものではなく、実行するものである』と話しましたが、実は人間というものは、そのような法律の精神を守ることさえ出来ない無力な存在であり、罪だらけの存在であると再び話しています。神を知らない未信者も、旧約の民も、新約のキリスト者も、皆が自力では、神に認められない罪人であり、弱い存在であり、悪の存在だということです。実にパウロは、人間という存在へのポジティブな眼差しを諦めています。ただ人間には絶望だけがあるというのがパウロの教えの中身です。しかし、今日、聖書がここまで人間を必死に否んだ理由は、逆に、その人間という存在を救う希望の存在があるということを強調するためでした。私たちは、すでに御子イエス・キリストがユダヤ人、キリスト者、未信者を問わず、すべての人類のために、代わりに神の律法を満足させ、罪の力を打ち破り、救い主になってくださったことを知っています。人間という存在の中に絶望だけで、希望はないという事実で終わるのではなく、神様はそのような人間を見捨てられず、イエス・キリストという希望の存在を備えてくださったということ、それが今日の説教の一番大事な内容なんです。 締め括り、私たちの外から来る神の義。 今日ローマ書の言葉は、あまりにも人間の無力さを強調したあまり、聞き手が疲れを感じるほどの絶望的な話しだったと思います。しかし、パウロはすこし後の箇所で、そのような絶望的な人間に神様の愛と希望が来ると教えてくれます。今日の御言葉を通して、私たちは、私たち自身が、どれほど罪のため、弱い存在になっているのか悟らなければなりません。悟る時に、私たちの救いと力になってくださるイエス・キリストへの大きな信頼と希望を持つことが出来ます。『わたしは罪をあなたに示し咎を隠しませんでした。わたしは言いました。主にわたしの背きを告白しようと。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。』(詩篇32:5)人が自分の罪を告白するということは難しいことです。神を知らない、この世の人々は、自ら罪人であることを認める人を不思議に思います。しかし、神はそうではありません。神様は自分の罪を告白し、神様に助けを求める者に赦しと愛とを与えてくださいます。神はイエス・キリストの贖いを通して、罪人をお赦しくださるとお定めになりました。キリストに完全な神の義があるからです。結局、完全な義は私たち人間の心や行いからではなく、神に認められたイエス・キリストから来るのです。私たちは、そのイエス・キリストへの信仰によって義とされるでしょう。ユダヤ人の失敗を他山の石とし、私たちは、ひたすら主イエスに希望を置いて、生きていきましょう。来たる一週間、神様の平和を祈ります。

ユダヤ人と律法

詩編119編174-176節 (旧968頁) ローマの信徒への手紙 2章12‐29節(新273頁) 前置き 前々週、私達は裁きは神様だけがなさる事がらであり、『人は他人を裁いてはならない』というローマ書の教えについて分かち合いました。新約聖書で神の裁きと人間の判断は『クリノー』という同じ言葉を使っていました。これは裁く人が裁かれる人の処分を定めるときに使用する言葉でした。なので、人が他の誰かを判断するのは、まるで、神のように誰かを裁こうとする行為になり、神の権限を奪う罪になると学びました。ローマ書は、この人間の『判断しやすい傾向』が、罪に基づいていることなので、神を知らない罪人と同じく罪を犯すことになると語っています。また、神様は表に現れる姿だけをご覧になって裁かれる方ではなく、人の心中に隠れている意図まで把握し、裁かれる方であることを教えています。そのため表を見るだけで、隠れているものについては、全く分からない人間は、正しい判断が出来ないことが分かりました。結局、罪人も罪人を判断する人も皆、神の御前では同じく罪人であり、両方、神の裁きの下にあるということが、ローマ書2章1-11節の教えでした。そのような事実の前でキリスト者は、ただ謙虚に神に判断を任せ、『神の御心に聞き従うべきである。』というのが先々週の説教の主な内容でした。 1.パウロが突然ユダヤ人に声をかける理由。 ローマ書は2章に入ってから、その雰囲気が全く変わります。 1章で、人間の不義と罪、神の裁きについて、複数の聞き手に説明文のように語っていたパウロは、なぜ突然、話し方を変えて2章からは、一人に向かって叱責するような姿を示すのでしょうか?これは新約聖書で、しばしば用いられるディアトリベーという文学形式で記されているからです。このディアトリベーを日本語に翻訳すると(辞書的意味は『論文』になりますが、)『論理的な仮想対話』と言えるでしょう。このディアトリベーは仮想の人物と語り合いつつ、自分の主張を繰り広げるものですが、教師が生徒に論理的な叙述を通して、叱責するような方法で、相手が持っている誤った情報や偏見を矯正し、教訓を与えようとするときに使う教え方です。 パウロはそのディアトリベーの対象を神を知らない異邦人ではなく、自らが神に選ばれたと信じているユダヤ人に定めています。 最初はユダヤ人という名称は出ず、人を裁く者という言葉だけが出てきますが、17節に行けば、その裁く人がユダヤ人であるということが明らかになります。ローマ教会はユダヤ人と異邦人のキリスト者が一緒に仕えていたのに、なぜ、ユダヤ人だけを特定して語るのでしょうか?先々週、私はパウロが、自分は『ユダヤ人だから、またはキリスト者だから』と思い、世の罪人とは違うと信じている全ての『神を信じる者』に『君らも同じく罪人である』ということを強調しているとお話しました。つまり、これは単にユダヤ人だけへの教えではなく、自分が神の民であるため、他の罪人とは違うという勘違いに陥りやすい、すべての信者の偽善をユダヤ人という代表的な例を挙げて指摘しているのです。 『すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、 すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。』(ローマ2:9-10)という言葉のように使徒パウロは、ユダヤ人という仮想の存在を立てましたが、その教えは、ただユダヤ人だけでなく、 異邦のキリスト者を含む、すべての信者たちにも、適用されるという意味です。 ユダヤ人たちは、自分らが神の特別な民であり、子供だと思っていました。アブラハムの子孫であるユダヤ人たちは、自分らが神に選ばれた者であり、神が自分らだけに律法を与えてくださったので、自分らだけが特別な存在だと思っていたのです。当時のローマの異邦人キリスト者たちも罪が蔓延っていたローマ帝国で、キリストに救われた自分らが普通の罪人とは異なると考え、自分らを特別な存在だと思っていたでしょう。パウロは、このような全ての信者たちを仮想のユダヤ人と想定し、これらの信じる者が持ちやすい偏見や頑なな心を咎め、論理的に告発しているのです。このような理由から、ローマ書の読み手は、たとえ神を信じる信者であっても、誰でもユダヤ人のように偏見と片意地に惑わされ、罪を犯しやすいと悟るのです。このように、今日ローマ書が取り上げているユダヤ人は、一次的には本当のユダヤ人であり、二次的には神を信じるすべての信者であるということが分かります。従って、これは、ある名の無いユダヤ人へのメッセージではなく、志免教会で信仰生活をしている私たちにも適用できる内容でしょう。 2.パウロが突然、律法を登場させる理由。 ところで、2章12節から急に律法が登場します。今まで罪と不義について話し、罪人を裁く者の罪をも話していたパウロは、なぜ、いきなり飛躍的に、話題を律法に変えるでしょうか?実は当時のユダヤ人と律法は密接な関係でしたし、ユダヤ人が自分を義人とし、平気で罪人を裁いた根拠が、彼らは神に律法を委ねられたからという当時のユダヤ人社会の背景を考えると、突然な律法の登場は、別に不自然ではないかも知れません。当時のユダヤ人といえば、律法を思い浮かべるのが当たり前なことだったからです。ここでの律法とは、モーセが残したモーセ五書を指すことです。ユダヤ人たちは、このモーセ五書を受けた唯一な存在が、自分の民族であることを誇りに考えていました。自分たちが、このモーセ五書を持っているだけでも、異邦人たちとは違う大きな恵みを得、この律法があるため、自分らにとって神の救いは当然のことだと思っていました。彼らは律法のない全ての異邦人は滅びるだろうと思っていました。ユダヤ人に於いて、律法は誇りであり、全部でした。 しかし、パウロは彼らに律法を持っていることだけでは、何の役にも立たないと強調しています。 『律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。』(ローマ2:13)律法は、ただ持っているだけでは、何の効果ももたらしません。律法に記された言葉を心に留め、それに聞き従う際に、律法の価値は輝きます。しかし、ユダヤ人たちは律法を持っているだけで満足したのです。自分たちは、律法を持っているため、神の裁きから自由だと信じていました。しかし、パウロは、むしろユダヤ人が律法によって裁かれると警告しました。新共同訳では省略されていますが、元々原文では11節と12節の間に「なぜなら」という単語があります。これを通して2章の1-11節の言葉を、このように解釈することが出来ると思います。『神に律法を委ねられたと高ぶり、他の罪人を裁き、自分を正しく思うユダヤ人たちよ。君らは異邦の罪人と全く違わない。ただ神様は君に対して忍耐しておられる。ユダヤ人にしろ、ギリシャ人にしろ、悪を行うと苦しみと悩みが、善を行うと栄光と誉れと平和がある。』その後、省略された『なぜなら』が入り、次の第12-13章に繋がります。『律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。 律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。』 では、これを私たちキリスト者は、どのように自分に適用することが出来るでしょうか?ユダヤ人に律法があれば、キリスト者には、主の福音があります。ユダヤ人たちは、神の言葉である律法を通して、神の救いが、既に臨んでいたと思いました。キリスト者も、イエス・キリストの十字架の御救いを通して、既に救われ、天国を許されたと信じながら生きていきます。しかし、キリスト者が、既に救われたから善行は要らないという考え、もう天国が自分のものになったかのような安易な思い、隣人の魂への哀れみもなく、自分だけは地獄に行かないだろうと満足し、主の御言葉への不従順、神と隣人への愛も、キリストが福音を通して教えてくださった奉仕も無く、ただ福音を天国行きのチケットくらいに思っているなら、キリスト者は自分の救いについて、真剣に考えてみるべきだと思います。『ただ福音を持つ者が救われた者ではなく、福音の精神を生活の中で現わしている者が、本当に救われた者』であるからです。 3.律法は、形ではなく精神である。 ローマ書は2章17節以降、具体的にユダヤ人の勘違いと律法について話しを繋いでいきます。当時のユダヤ人たちは、自らが律法に頼り、神を誇りとし、神の御心を知り、律法の教えによる在り方を弁えていると思いました。 また、律法に具体的な知識と真理があると考え、自らが盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師だと自負していました。彼らは見掛けだけでは実際にそのような人々だったのかも知れません。しかし、彼らは律法をしる知識にふさわしくない悪い意図や振る舞いも持っていました。神と隣人を愛せよという律法の精神は破り、偽善的に行い、貧しい人々を無視し、異邦人を憎んだりしました。律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮ってしまいました。この手紙を書いたパウロさえも、神のためにという名目で、使徒言行録でステパノの迫害に加わった人殺しでした。ユダヤ人たちは、律法への知識と行為が一致しませんでした。表だけは立派に見えましたが、中身は腐った墓のように裏と表が違ったのです。ところで、突然ですが、恐ろしい事実があります。それはこのユダヤ人への叱責がユダヤ人だけでなく、私達にも同じく適用されるということです。私たちはこの言葉を通して、ユダヤ人ではなく、自分自身を顧みなければならないと思います。 ユダヤ人が残したタルムードのような文書には、ユダヤ人に3つの誇りがあったと記されています。律法、神殿、割礼です。このすべてのものは、ただ表だけに見える表示です。律法とは、神と隣人を愛せよという具体的な命令であり、神殿とは、その神殿を通して神様がユダヤ人だけでなく、すべての人類と共におられることを示す象徴でした。割礼とは、生命の根元になる男性性器の一部をきり、人間ではなく神だけが命の源であるということを認める謙虚と従順の象徴でした。しかし、ユダヤ人たちは、この3つのものが持っている真の精神は抜かして、ただ律法、神殿、割礼という目に見える形だけを取り、自分たちだけが神に救われ、選ばれた民族だと信じていたのです。 パウロはこのようなユダヤ人という象徴を通して、本当に選ばれた存在は、律法やその他の何かを通して証明できるものではなく、神の律法が持つ精神を生活の中で実践する時こそ証明出来ると、絶えず力説しています。『だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。』(フィリピ 2:12)パウロは、フィリピ書の言葉のように、常に恐れおののきながら、自分の救いについて反省し、自分が救われた者であるか、証明する生活を生きて行くように勧めています。 これは、行いによる救いという意味ではありません、救われた人の証としての行いを求めているのです。『外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。』(ローマ2:28-29)このように今日の本文は目に見えるものではなく、目に見えない律法の精神を強調しました。 締め括り 今日パウロは、神を信じる者の象徴としてユダヤ人を選びました。また、そのユダヤ人の必ず守るべき精神としての律法を取り上げました。そしてユダヤ人と律法について、ディアトリベーという方式をもって話しました。この言葉は、単にユダヤ人だけへの話しではありません。パウロがユダヤ人にした話は、実は自分が神を信じていると思っている者なら、誰でも注意しなければならない内容です。律法のことも同じです。これは旧約の律法だけを意味することではなく、神を信じる者なら、当たり前に守るべき、神の言葉としての意味を持っています。私たちは、新約と旧約の律法と福音の言葉を、ただ知識として受け入れ、それだけで喜んでいるのではないでしょうか?私たちは本当に律法と福音が絶えず語りかけてくる、神と隣人への愛を誠実に守っているのでしょうか? 今日のユダヤ人と律法の話を通して、神を信じている自分自身と自分が理解している神の律法と福音について、もう一度、顧みる時間になることを願います。

信仰による従順。

ローマ 1 章 1 節-7 節  小倉教会  金泰仁 伝道師 「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから」と記されていま す。 パウロは、キリスト・イエスの僕として、身も心も全てキリストのものとされている、そしてそのことのゆえ に、召されて使徒となったと言っています。 「使徒」とは「遣わされた者」という意味です。パウロは、身も心も徹底的にキリストに所有される僕となり、 キリストから全権を委任されて派遣される使徒となったのです。 パウロが召されて使徒となったのは、「神の福音のために」です。福音とは、良い知らせ、救いの知らせとい う言葉です。しかし人間の感覚における良い知らせではありません。神により神からの「神の」福音です。 2 節に「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので」と記されています。 神は既に聖書の中で、預言者を通して救いを約束しておられます。その神の救いの約束が実現したという良い 知らせをパウロは告げ知らせているのです。良い知らせ Good News それが福音です。 その福音は「御子に関するものです」と 3 節に記されています。「御子」とは神の子である、イエス・キリスト のことです。 神が預言者を通して約束していた福音は、神の子であるイエス・キリストにおいて実現しました。ですから「神 の福音」とは、「御子イエス・キリストによる救いの知らせ」なのです。 3-4 節に、「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力 ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです」と記されています。 ここには、神の御子である主イエスの誕生と復活とが示されています。「肉によればダビデの子孫から生まれ」 とは、主イエスが私たちと同じ人間として、肉体をもってこの世に生まれて下さったことを現します。 そしてその御子は、「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められ」ました。十字 架の死を経た主イエスの復活のことをパウロはここに示します。 「力ある神の子と定められ」と記されています。定められたとは、定めた方がおられることを意味します。 定めた方とは、主イエスを死の力から解放して復活させ、新しい命、永遠の命を与えてくださったのは神さま です。 救い主として私たちを救う神の力が主イエスの復活によって示されたのです。それは死に勝利する力、死の力 に捕えられ支配されている私たちを解放して、新しい命を与えて下さる力です。 私たちの人生を脅かしている最大の敵である死を、神の恵みの力が打ち破り、私たちに新しい命を与えて下さ る、その救いが、御子イエスの復活において実現したのです。これが福音です。 パウロはこの「神の福音」のために選ばれ、召されて使徒としての務めが与えられました。 5 節に「わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵 みを受けて使徒とされました」と記されています。 原文の前半を語順通り直訳する、「わたしたちはこの方により、恵みを受けて使徒とされました」となります。 「この方」とは主イエス・キリストです。パウロはイエス・キリストにより、恵みを受けて使徒とされました。 「恵みを受けて」と記されています。ここも原文により忠実に訳すと「この方によって、恵みと使徒の務めと 2 を受けた」となります。「恵み」と「使徒の務め」とが、キリストによって与えられたものとして並べられていま す。パウロにとって、使徒とされたことは神の恵みを受けたことであり、恵みによってこそ使徒とされたのです。 パウロがそのように断言できたのは、彼がキリストを信じる者となり、使徒となった時の体験に基づいていま…

主の裁き。

詩編119編137-144節 (旧966頁) ローマの信徒への手紙 2章1節-16節(新274頁) 前置き 先週、私たちは、人間の罪がもたらす惨めさについてお話しました。人間を代表するアダムが神の御言葉に聞き従わない、最初の罪を犯した後、すべての人は、神の要求を満たすことが出来ない不義の存在となりました。ここでの不義とは、神様の要求に応えることが出来ないということ、すなわち、神を信じないということです。人間のこの不義は神に完全に聞き従うことが出来ない不完全さをもたらしました。また、人は、そのような不義により、引き続き神に逆らう罪を犯して生きて行くことになりました。ローマの信徒への手紙は、神がこのような人間の不義に対して怒りを現わされると証言しています。そこで神は、不義のため神に仕えず、むしろ逆らう罪人をその心の情欲のまま、放っておかれ、更に罪の中にとどまるようになさいました。捨てられた人間は、続けて罪を犯し、神の怒りを積み重ねて行くことになりました。 残念なことは、神が創造される時、被造物に神を知る知識を明らかに示されましたが、被造物である人間は、不義により、そのような神に対する微かな認識さえ歪めて、被造物を神として拝む偶像崇拝という更に大きな罪を作ってしまいました。結局、人は自力では罪を犯すだけで、その罪を解決することが出来ないことを、偶像崇拝を通して示したのです。自分の罪を清めることが出来ない人間は、神の怒りの中で、ただ恐ろしい裁きに向かって行くしかない惨めな存在です。したがって、神はこのように、神の怒りの中で、自らの罪を解決できない人間を救われるために、彼らの代わりに、神の要求を満足させるイエス・キリストを遣わしてくださったのです。罪と不義は恐ろしいものです。初めの罪が不義を呼び出し、不義によって新しい罪が生じるのです。これらの不義と罪の連鎖作用のため、人は神の裁きから決して切り抜けることが出来ない悲惨な人生を生きるしかありません。 1.神はすべての被造物を裁かれる。 それでは、神の裁きとは、果たして何でしょうか?私たちは、神の裁きについて漠然と地獄での甚だしい悲しみや苦しみを思い浮かべたりします。もちろん聖書にも、そのように記されています。『彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。 その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。』(黙示録20:13-15)しかし、聖書が語る裁きの、ただ文字的な意味を超えて、調べてみる必要があると思います。新約聖書が語る裁きという言葉は、ギリシャ語「クリノー」です。この『クリノー』は『定める、裁く、裁判する、判断する、批判する、告発する、治める。』等の様々な意味を持っています。ところで、このクリノーの最も基本的な意味は「定める。」です。つまり、裁きとは裁く人が裁かれる人の処分を定めるということです。裁判官が法律を持って被告人の処分を定めるように、神様は御言葉を持って被造物の処分を定められます。神の言葉によって造られた、すべての被造物は、終わりの日に厳重な神の御言葉によって処分が定められるでしょう。これは善と悪とを問わず、神によって造られた、すべての被造物に摘用される神の裁きです。 だから、この裁きというのは、単に罪人向きのものではありません。すべての被造物が神の定めとしての裁きを待たなければならないからです。これはキリスト者さえも、神の裁きについて『既に神の赦しを得、救われた。』という名目で、自分は神の裁きとは関係ないと思ってはいけないという意味です。世のすべてのものは終わりの日、キリストを通して神の裁きを受けるからです。もちろん、キリスト者は、キリストによって、神の御前で弁護されるでしょう。しかし、だからと言って、神が私たちの過去の行いと業について沈黙されるだろうとは言えません。その日、私たちは、必ず神に私たちの生涯について自供をしなければなりません。ウェストミンスター信仰告白33章では、これを明らかにしています。 『地上に生きたことのある全ての人が、彼らの思いと言葉と行いについて申し述べ、善であれ悪であれ、彼らが体をもってなしたことに応じて、報いを受けるためにキリストの法廷に立つことになる。』神は裁かれるお方です。神はすべてのものを造られた創り主でいらっしゃいますので、終わりの日、全ての被造物に対する権威を持って裁かれるでしょう。 2.ローマ教会へのパウロの警告。 東洋文化圏に生きる私たちは、基本的に仏教の世界観の影響を受けます。なので、裁きを考えるとき、地獄について漠然と考えたりします。ところが、仏教で語られる極楽と地獄のイメージは、仏教が生じる、ずっと前に古代近東で栄えたゾロアスター教という宗教の教義から渡って来たものです。ギリシャの王アレキサンダーがペルシャを征服した後、東西が融合したヘレニズム文化が生まれ、地中海全域には、これら善悪と天国、地獄の概念が広がり始めました。これらの思想は、インドにも伝えられ、仏教に影響を与えました。しかし、旧約聖書は、天国と地獄を語っていません。死後、すべての人は陰府に降り、すなわち死後の世界に入るということです。その後は神の領域ですので、人間としてははっきり知ることはできないというのが、旧約の来世観です。新約聖書が天国の喜びと地獄の裁きを話す理由は、その時代の人々がそのような善悪、天国地獄の概念の中に住んでいたからです。神の裁きは地獄のように恐ろしいということを教えるためでした。ここで確実に知れることが二つあります。すべての人は、死んで、神の御前に行かなければならないということと、天国と地獄よりも重要なことは、私たちが必ず神に裁きを受けるということです。 しかし、多くの人々が、特にすでに神を信じると考えているユダヤ人やキリスト者は、勘違いしやすいです。『私は神の民だから・私はキリストに既に救われたから、彼らとは違う。』しかし、今日の聖書は言います。『すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。 』(ローマ2:1)この言葉は、ローマの信徒への手紙を受けたローマ教会の人々だけでなく、現代を生きる私たちにも訴えています。ひょっとしたら「私は神を信じているので、私はキリストの中にいるので、罪のために惨めになった彼らとは違う。」という思いが私たちの心の中に少しはあるんじゃないでしょうか?このような思いの根本には、罪人を判断する姿が隠れています。彼らと自分を分けて、自分は違うと思うからです。 パウロがローマの信徒への手紙を書いた当時、ローマ教会は、ユダヤ人とギリシャ人が一緒に仕える教会でした。自らが神の選ばれた民族だという自負心を持っているユダヤ人と、ユダヤ人ではないけれど、キリストによって救いを受け、信仰を持っていたローマのギリシャ人のキリスト者は、ローマ人の堕落を眺め、彼らは簡単に判断したりしたかも知れません。しかし、彼らに使徒パウロは、神の裁きの本質を教えてくれます。 『全ての人は、神の裁きの下にある。罪人を見て判断するならば、それは結局あなたがたの中にも同じ罪が潜んでいるという証拠である。あなたがたは、神の裁きから自由ではない。キリスト者であるあなたがたも安心せず、更に主の御心を察して、謙遜しなさい。』これがパウロが今日の言葉を通して、ローマのキリスト者、そして今日、この言葉にあずかる私たちに訴える教えであります。 3.神は正しくお裁きになる。 ローマ2章2節でパウロはこう語ります。『神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。 このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。 』(ローマ2:2-3)パウロは信徒たちに『罪人を裁きながら、同じことをしている者よ』と話しています。ローマ教会の信徒たちが堕落して不義の生活をしていたから、このように責めたのでしょうか?そうではないと思います。ローマ1章8節は、ローマ教会の信仰が全世界に言い伝えられていると証言しているからです。それでは、一体なぜパウロは『君らも同じものだ。』という風に話したのでしょうか?これは、2節の『正しく。』という言葉から意味を見つけることが出来ます。 まず、2節の『正しく』という表現は直訳すれば、『真理通り』という意味です。古代ローマで真理という言葉は、東洋人が理解する真理とは、かなり異なる意味深い表現です。私たちは、真理を話す際に、主に偽りの反対語だと思う傾向があります。日本語の辞書にも『本当の事。間違いでない道理。正当な知識内容。』と書かれていました。ところが、ギリシャの思想では、この真理の反対語を「現象」と言いました。現象とは表に現れるものであり、真理は表に出なく隠れている実在を示すものだというです。難しい言葉だと思いますので、聖書から例え話を引いて見ましょう。 『わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。』(マタイ5:28)人々は女性を見て淫らな思いを持っても、実際に犯していなければ、罪ではないと思います。この世の法律のことです。しかし、イエスは淫らな思いを持つ時、既に淫らな罪を犯していると語られました。表に現れる『女を犯す。』というのが現像であれば、心の中にある『淫らな思い』は真理だという意味です。人間は現象だけをみることが出来ます。しかし、神は真理までご覧になります。そして真理について裁かれ、それに応じて現像をも裁かれるでしょう。そのため、ローマ書は、神の裁きが真理通り、厳正になされると話しているわけです。 1節に「裁き」という言葉が3度も出てきます。ここでの裁きは、先に申し上げましたギリシャ語「クリノー」と同じ言葉です。ところで、私はその「クリノー」が神の裁きの原語だとお話しました。裁きは神だけの権限です。人が敢えて侵すことが出来ないものです。つまり人が人を裁くということは、神の領域を奪おうとする仕業と同じです。それは1章で、パウロが話した数々の不義を産んだ罪に基づくものです。人が裁いてはならないのは、人は真理と現像の間で何が真理であり、何が現象なのか分からないからです。人は表だけ見て中身を見ることが出来ないからです。真理と現像への完全な理解は、神だけがなさることです。ですから、私たちは人を裁いてはいけません。私たちが、イエスを信じているから、既に赦されたからといって誰かを裁けば、我々は最終的に神の御前で他の罪人と同じような罪を犯すことになると、パウロは語っています。神の裁きは、私たちの心の中の思いから表の行いまで一つ一つつまびらかにするからです。 締め括り 『あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。』(ローマ2:4)神は御哀れみをもって、私たちを赦しておられます。神様が私たちに対して何もなさらないからといって、私たちに罪がないわけではありません。神のお赦しを知っているにも拘わらず、引き続き、他人を裁き、自分自身は違うという考えを持っていれば、神はそれを、私たちの頑なな思い、悔い改めようとしない思いだと判断され、怒りの正しい裁きを下されるでしょう。『律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。』(ローマ2:13)ですから、私たちは他人への裁きを止めて、ただ神の御言葉に聞き従うことによって、御言葉通り実践する人生を生きるべきでしょう。 19世紀のアメリカ、身なりが非常にみすぼらしい老人がハーバード大学長を訪れました。人々は彼がお金を乞うために来たと思いました。学長は彼を門前払いし、職員たちも、彼に冷たい態度を取りました。結局、老人は追い出されてしまいました。彼は帰っていくとき、職員にこのような質問をしました。『こんな大学を立てるには、どのくらいのお金が必要ですか?』 その後アメリカ大陸の反対側に良い大学が出来たという便りが伝わってきました。追い出された、みすぼらしい老人の名前はリーランドスタンフォードでした。ハーバードに肩を並べる有名なスタンフォード大学の創設者です。ハーバードは奨学金寄贈のために来た彼を、見かけだけを見て、追い出してしまったのです。人は真理を知ることが出来ません。神だけが真理を御存じです。したがって、我々は表だけ見て判断する前に、自分自身を顧み、神にその判断を委ねるべきです。誰かを裁くことなく、私たち自身の罪や悪いところを反省し、へりくだって主の道に従って生きましょう。

罪がもたらす惨めさ。

イザヤ書59章1-2節 (旧1158頁) ローマ信徒への手紙 1章18節‐32節(新274頁) 前置き 中世後期のヨーロッパに、現在、チェコ共和国と呼ばれるボヘミアで生まれたモラビアン教会という宗派がありました。彼らは非常に情熱的な宣教で有名な団体でした。彼らは主にアフリカ、中国、極地などに入って、その国の文化、言語などを熱心に学び、服装もその文化に合わせて着るなどして、宣教を行う人々でした。そのモラビアン教会の、ある宣教師が北極に近いグリーンランドに派遣されました。彼はそこに入って地元の人々と積極的に交わり、高いレベルの言語を話し、深い文化理解を持って、伝道に力を尽くしました。後日、彼の評判は非常によくなり、多くの先住民が、彼と親しい交わりを持つことになりました。ところで、その宣教師には一つ悩みがありました。 17年も宣教に尽力しましたが、誰一人もイエス・キリストを信じないということでした。その宣教師と友達になり、隣人になりましたが、彼らは依然として神を信じていませんでした。 そんなある日、近所の先住民が宣教師を訪れたことがありました。親しかった二人は、お茶を楽しみ、色んな話を分かち合いました。そうするうちに、ふとイエスの生涯に話題が変わりました。彼らは人の罪と、イエス・キリストの死と罪の赦しと栄光の復活について話をするようになりました。その日、宣教師を訪れた先住民は、自分の罪を悟り、衝撃を受け、真にイエスを信じ、悔い改めることになりました。それにより、その地域の本当の宣教が始まり、多くの先住民が、神を信じ、イエス・キリストを救い主として認めることになったと言われます。罪への警告と罪の赦しの恵みを教えることは、福音の最も大事なメッセージであります。それを教える説教が宣べ伝えられる時こそ、福音は本当にその力を現わすことが出来るのでしょう。今の例え話は、そんな事実を明らかに示していると思います。 1.罪の影響 キリスト教は幸せな来世のための宗教ではありません。この世での富と名誉のための宗教でもありません。瞑想や自己省察のための宗教でもありません。キリスト教は、キリスト・イエスを通して天地を創造された造り主と再会、和解し、彼と一緒に生きていくための宗教であります。例えば、父に逸れた孤児が父と再会して、父と一緒に父の家に少しずつ歩いて行く様子。そのように神と同行する宗教であります。そのような創り主である神と歩んで行く途中、神によって時には幸せを経験したり、時には不幸を乗り越えたりしながら、最後まで神様と共に進む宗教であります。その同行の結果の一つが、正に、死後天の国に行くということです。それは目標ではなく、ただ、神の贈り物の中の一つに過ぎないのです。造り主、神と共に行くこと、そのものが既に私達の天国が始まったということであり、私たちの救いが成し遂げられはじめたという意味です。 ところが、この神に出会うことを妨げる深刻なものがあります。それはまさに人の罪であります。今日の旧約聖書の言葉を見てみましょう。『主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろ、お前たちの悪が神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。』(イザヤ59:1-2)罪により、造り主から離れた人間が本当に救いを得るためには、必ず造り主、神様の御前に居なければなりません。御前に居るということは、神と共に歩むという意味です。しかし、罪というものがある限り、我々は神の御前に居ることが出来ません。いや、許されません。罪が神と我々の間を隔てているからです。 実に神様は、どんな状況にあっても、私たちを救える充分な力を持っておられます。しかし、人が罪を持っている限り、主は人をお救いになることが出来ません。主の手が短いわけでもなく、主の耳が鈍いわけでもありません。にも拘らず、神は人に罪がある限り、その人をお救いになりません。お出来になれないわけではなく、救ってくださいません。なぜなら、罪は神の性質に正反対のものだからです。罪は神と人間の間の巨大な隔てをもたらします。罪は人間に向けて恵みと哀れみをくださる神の御顔を隠すものです。罪は神の怒りと裁きをもたらす恐ろしいものです。罪の影響は、人間が神に救われることが出来ないようにする結果、人間が神に見捨てられるしかない悲惨な結果をもたらします。人が自分の罪を解決していない以上、その人は絶対に救いを得ることも、神と共に歩んで行くことも許されません。 2.罪の悲惨さについて。 ギリシャの哲学者、ソクラテスは「無知は罪なり。」と言いました。ソクラテスはキリスト者ではないですが、彼のこの言葉には真理が隠れているように思えます。罪から生じる惨めさの一つは無知です。罪を持っている人は、自分にどのような罪があるのか、何が問題なのかを絶対分からないということです。分からないので解決が不可能であり、解決が不可能であるため、救いに至ることが出来ません。今日新約本文であるローマの信徒への手紙は罪人がどれだけ悲惨さの中にいるのかを詳しく説明しています。『世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることが出来ます。従って、彼らには弁解の余地がありません。 』(ローマ1:20)世界を創造される時、神様はすべての被造物が神について悟ることが出来るように、神の神性を被造物の間に示してくださいました。だから、罪のない状態の被造物は、何であっても神の存在を感じ、知ることが出来ます。しかし、罪によって神のその神性を見つけられないようにされた人間は、自らの力では、神様の存在を悟ることが出来なくなってしまいました。 「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」(ローマ1:23)人は本能的に、神の神性が感じられます。人間の本能がそれを証明します。『誰なのか詳しくは分からないけど、きっと全能者はいるかも。』という人々の漠然とした予想は、よくあるものでしょう。そのため、宗教が生まれたのです。しかし、歪んだ人間の罪のため、人間は、自分が願うものを神だと思います。木を、石を、獣を、人を神にしたりします。日本は国の名前からも分かるように、古くから太陽を神と崇めて来たそうです。それによって生まれた存在が天照大神、太陽の女神です。太陽をお天道様と呼ぶことにも、そのような文化が溶け込んでいるからではないかと思っています。しかし、創世記1章は、きっぱりと太陽を含むすべてのものが、ただ神の創造物にすぎないと話しています。人間の罪は罪を悟れないようにするだけでなく、とんでもないものを神として仕える心を与え、真の神様を冒瀆する偶像崇拝の罪までもたらします。 『彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。』(ローマ1:28)罪の中に生きている人間への最も致命的で、悲惨な神の裁きは、神が彼らを自分らの罪の中に放って置き、救いの道を許されないということです。本文の『渡す。』という表現はギリシャ語『パラディドーミ』の翻訳ですが、『見捨てる。』という意味です。『してはならないことをするように。』すなわち、神様がどのような形の憐みも下さらず、引き続き罪を犯すように放っておかれ、赦されずに、裁きを下されるということです。これを神学的な用語で、神の遺棄と言います。『捨てるために残す。』という意味です。そのような人たちからは29-31節までの数多くの罪が現れます。罪が罪を産み、罪が罪を増やし、罪によって人間が神から永遠に捨てられるという意味です。これが罪の持っている恐ろしさであり、私たちが神に赦しを請うべき最も悲惨な呪いであります。 3.罪を赦してくださるイエス・キリスト。 未信者がキリスト教信仰を持とうとするとき、最も難しいことの一つは、自分自身に罪があることを認めなければならないということです。もちろん犯罪者は、比較的、容易に納得するかもしれませんが、盗んだことも、人を殴ったことも、嘘をついたこともない善良な人々は、自分が罪人であることを納得することが、あまりにも難しいでしょう。しかし、聖書はこのように語っています。『人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。』(ローマ3:23)旧約聖書の創世記で人類を代表するアダムとエバが神を裏切って離れた後、人々は罪の中に生きることになりました。アダムとエバの話は時空間の超え、私たちに教えを垂れています。神を裏切って離れ、罪の中に生きるようになるという最も基本的な罪を私達も犯すかも知れないということを示しています。 罪とは矢と的との関係と似ています。矢が的に当たらない場合、スコアが出ないように、罪は罪人が神が定められた基準を満たせない場合に生じます。したがって、神が定められた法則、律法に従って『神の御心に聞き従うこと、神と一緒に歩むこと』を満足させないとき、私たちの人生で、引き続き新しい罪が生じるようになります。しかし、人は皆、すでに罪を持っているので、自分の力では、神の御心に適うことが出来ません。そして、赦してくださる神を知ることも出来ません。つまり、人間は自ら罪を解決することが出来ないということです。だから、人は自然に罪の中に生きるしかありません。そして、その罪は続けて別の罪をもたらします。最終的に罪人は罪によって神に見捨てられ、永遠の死を迎えるしかありません。 イエス・キリストが私たちのところに来られた理由は、まさにこの罪の問題を解決するためです。私たちが福音を福音と言う理由はこのためです。自力で解決できない罪を、解決する御方がいらっしゃるという良いニュースだからです。神から来られたイエス・キリストは、罪を赦してくださる方です。そして人が満たせない神の要求に代わって、満足させる方です。私たちは、このイエス・キリストの罪を赦す力、神の要求を満たす力を、私たちを救ってくださるキリストの贈り物として信じるとき、神に赦しを得ることができます。私たちの果たせないことを、キリストが代わりにお果たしくださり、自分の赦しのため、何も出来なかった私たちが、キリストによって赦されたということを信じるとき、私たちは神様に赦されることが出来ます。イエス・キリストは私たちの過去、現在、未来の全ての罪を解決するために、私たちに代わって十字架につけられ、死なれ、死から私たちを救い、私たちのために神から新しい命を受けてくださいました。イエス・キリストだけが私たちの罪を赦してくださる、神から遣わされた唯一の救い主でいらっしゃいます。罪の結果は甚だしい惨めさですが、その悲惨さの中、私たちを救ってくださるキリストの存在のため、私たちは希望を持つことが出来ます。 締め括り パウロは今日の本文を通して私たちにも罪があることを教えています。私たちは、すでに救われ、主の中にとどまっていると思いますが、罪ある人間ですので、誰かを憎み、悪いことを行い、神の御心に適わない時が、時々あるでしょう。しかし、私たちが悔い改める時、主は私たちの罪を赦してくださいます。私たちがイエス・キリストを知り、信じているからです。私たちは、キリストの罪の許しによって日々新たにされる者でしょう。そして、主を信じる我らは、主のお導きにより、その罪から立ち戻り、神に喜ばれる善を行う生活の方向に進むことが出来ます。私たちの罪は私たちを惨めにし、神に見捨てられるように働きますが、イエス・キリストは私たちが悔い改めるとき、その罪をいつも赦してくださり、私たちが神と一緒に同行することが出来るよう導いてくださいます。志免教会の皆さんが、このようなキリストの恵みに感謝し、毎日の罪を告白し、悔い改め、罪を遠くして、罪の惨めさから自由な民、キリストに聞き従う良い民として生きて行くことを願っています。

主と共に歩む1年。

詩編119 編105-112節 (旧964頁) ヨハネによる福音書 17章3節(新202頁) 新しい一年が明けました。私達は、去る2019年、色々なことを経験してきました。時には楽しく、時には悲しく生きてきました。しかし、神様が我々の1年を守ってくださり、共に歩んでくださって、私たちは再び、ここで神様に礼拝と感謝をささげることが出来ます。このすべてが、神の恵みであり、愛であることを信じます。主なる神様は2020年度も志免教会と教会員の生活を守られ、責任を負ってくださり、主の御心に従って導いてくださるでしょう。これらの神の御心に沿って、神様に喜ばれる皆さんになりますように、心から望みます。 1.永遠の命を得る最も大事なカギ – 御言葉。 今年の志免教会の主題聖句は、ヨハネによる福音書17章3節『永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。』を選定しようとしております。キリスト教の主人公は、信徒ではなく、キリスト・イエスです。ちょっと変だと思いますが、韓国の教会で働いた時、子供会で、よく使った分かりやすい例え話を挙げてみたいと思います。『肉まんに肉がなければ、肉まんではないように、アンパンに餡が無ければ、アンパンではないように、キリストの無いキリスト教はキリスト教ではありません。』だから、キリスト教の教えには、必ずキリストが中心とならなければなりません。ところで、神様はこのキリストという役割を主イエスに与えてくださいました。したがって、このキリスト・イエスを知ることは、最も大事なキリスト者の条件であり、このキリストを知ることから永遠の命は始まります。私はこのキリスト・イエスを徹底的に主人公にしつつ、今年を生きていく志免教会になることを願います。 今日の新約本文は永遠の命について話しています。皆さん、永遠の命とは、単に死なず、永遠に生きることを意味しません。聖書が語る永遠の命とは、「永遠におられる方と共に生きること」です。私たちの目標は、永遠に生きることではなく、永遠におられる神と一緒に歩んでいくことです。そして、その贈り物として得るのが、まさに永遠の命です。つまり、私たちが永遠の神と一緒に生きはじめる、その時から、私たちは既に永遠の命の道に入ったということを意味します。今日の聖書は、この永遠の命を得るためには「唯一のまことの神と、その神が遣わされたイエス・キリストを知るべきだ。」と言います。私たちは、いったいどうすれば、まことの神とイエス・キリストを知ることが出来るでしょうか? 『実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。』(ローマ10:17)我々の信仰の対象は神様です。この神様は、父と子と聖霊である三位一体なる神様です。この三位一体の神は、罪によって、神から遠ざかった人を再び、お呼びくださり、一緒に歩むために、神と人の仲保者を遣わしてくださいました。その方がまさにイエス・キリストです。しかし、イエス・キリストが、この地に来られたからと言って、すべての人がイエス・キリストに従うわけではありません。日本の1億3千万の人口の中、イエス・キリストと一緒に歩む信徒は、50万人にも至らないでしょう。イエス・キリストを通して神と一緒に歩む者は、イエスの御言葉を聞き、信じる者です。このイエスを信じるようになる信仰は、ひたすらキリストの御言葉を通してのみ得ることが出来ます。だからこそ、我々は、説教を聞いたり、聖書を読んだりするのです。永遠の命を得るための第一歩は、主の御言葉を聞くことから始まります。だから、主の御言葉は、私たちに永遠の命をもたらす最も大事なカギです。 2.神が私たちに御言葉をくださった理由。 今日の旧約聖書、詩篇119篇を読みつつ、読み手は民への神様の御心を悟ることが出来ます。それは主の御言葉にあずかる人が、ただ、言葉を読んで何もしないことではなく、主の御言葉が教える善を実践して生きなければならないということです。この詩編119は、神と民の契約、あるいは約束としての御言葉を、いくつかの単語で表現します。特に1-6節に出て来る律法、定め、命令、掟、戒め等、この全ては神の御言葉を指すものであり、これらの多くの表現を用いて、神は御自分の御心を示してくださいます。また、それを通して、民に神の性質を示してくださいます。民の倫理的、道徳的な生活のための律法、神の力ある御業を示す定め、神の秩序を教えてくれる命令、罪への民の在り方を教えてくれる掟、神の民の正しい生き方のための戒め、このすべてが一つになり、主の御言葉と呼ばれます。私たちは、この御言葉を通して民が正しい方向に進めるように祝福の道を教えてくださり、祝福してくださる神の愛と恵みを見つけることが出来ます。 ですから、民が神の御言葉に聞き従って生きるということは、神様の必要のためではなく、民のためのものであり、民が神のこの御言葉に従って生きていくときに、神は豊かな祝福と愛を注いでくださるのです。神の御言葉には、神の御心が隠れています。ヨハネ1章では、イエス・キリスト、そのものが神の御言葉であると証言しています。神様がイエス・キリストをお遣わしになり、貧しい者、病んでいる者、悪霊に取り付かれた者、死んだ者を哀れんで、癒して、生かしてくださった理由は、神様の貧しい民を愛する御心が、イエス・キリストという人の姿で現れ、神様が今も変わらず人々を愛しておられることを目に見える形で示してくださったということです。神の御言葉は、決して神のためのものではありません。神の御言葉は、それを通して主が人々に幸せと祝福を与えてくださるための神様のお贈り物であります。 今日の旧約の本文は、『あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。』(詩篇119:105)と告白しています。これは詩人が自分の人生の物差しを神の御言葉に置くという強い意志を表す告白です。それに続いて、その言葉に対する詩人の誓いも見ることが出来ます。詩人は御言葉を守るため、甚だしい苦難を経験しました。また、詩人は、切な祈りの中で、主の裁きを教えていただきました。詩人は自分の命の危険な時も、主の律法を決して忘れませんでした。また、敵による死の危機と苦難の中でも、主の御命令を守りました。神の定めを自分の永久の嗣業としました。主の掟を行うことに心を傾け、永遠に神様に聞き従うことを誓いました。主の御言葉に従おうとした詩人は色々な危険と苦難の道を通らなければなりませんでしたが、神様は喜びと希望をくださり、詩人の歩むべき道を教えてくださいました。 3.主と共に歩む1年。 今年はちょうどお正月に水曜祈祷会を守ることが出来ました。おかげで今年の初日から主の御言葉を分かち合う喜びを味わうことが許され、感謝でした。現代を生きていく私たちが、主と共に歩むということは、神の御言葉を心に留め、実践して生きることを意味します。父なる神は目に見えず、イエス・キリストも父の右におられます。とはいえ、神様が私たちから遠いところにおられるわけではありません。御父と御子は、私たちに聖霊をお遣わしになり、その聖霊の御働きを通して、いつも私たちと一緒におられます。ところで、この聖霊は、他のものではなく、御言葉の中で、私たちと一緒におられます。神は聖霊を通して、聖霊はいつも、神の御言葉を通して私たちの行くべき道を示してくださり、私たちの生きるべき在り方を教えてくださいます。 個人的な話ですので、大変申し訳ございませんが、私の証を話してみたいと思います。2010年、私は子供の時から、再婚した両親に誘われ教会に通いましたが、まだ真剣な信仰がありませんでした。そんなある日、私に神様が臨まれました。生まれてから初めて、神という存在に目覚めました。神は、以前は聞いたこともない、大きな声で私の心にお声をかけてくださいました。その時、私は私が罪人であることを認識し、神の御言葉への畏敬の念を感じることが出来るようになりました。当時、神様との出会いがあったにも拘わらず、私は父との仲があまり良くなかったです。再婚家庭の母側の息子だったため、名字も違いますし、血縁も感じられなかったからです。父は私にとって何者でもないくせに口出しをすると思ったわけです。父の小言(今では訓戒だったと思う。)一言だけでも、私は非常に腹が立って父と論争をしたりしました。そんなある日、再び父との論争が始まりそうな時、聖霊が私の心に強力なお声を聴かせてくださいました。『あなたの父母を敬え。』(出エジプト20章12節)聖霊は、御言葉を通して私に正しい道を示してくださいました。常に父にたくさんの不満を持っていた私は、その日、聖霊によって、父に言い返しもできず、聞くだけでしたので、悔しくて堪らず、涙が出るほど辛かったですが、聖霊に聞き従って父との論争をあきらめました。 10年が経った今、私と父の関係は、父の実の息子である兄よりも良いと思います。父がじかに私に話してくれました。『お前のほうが彼より、霊的に通じる』(もちろん、父と兄は仲良いです。) 父と私はお互い信頼し合い、尊重し、愛する関係になっています。今は父が何を言っても、全てを良い意味として受け入れます。神の御言葉に聞き従った結果は、仲直りと愛と平和と喜びでした。 締め括り 『主と共に歩む1年』とは、すなわち、『主の御言葉と一緒に行く1年』という意味です。私たちが、『唯一のまことの神と、イエス・キリストを知ること』も神の御言葉に従い、服従する時、可能です。今年、志免教会が主の御言葉で豊かになることを望みます。御言葉から喜びを得、御言葉によって悔い改め、お言葉を通して愛し合い、御言葉に従って私たちの道を歩んで行きましょう。神様が御言葉を通して悟らせ、御言葉の中で、私たちの将来を備えてくださるでしょう。主の御言葉と一緒に歩む1年こそが主と共に歩む1年であることを信じます。皆さんの2020年に、神の御言葉による大きな恵みと愛が、豊かにあることを祈り願います。

主はアルファであり、オメガである。

イザヤ書 44章6-8節 (旧1133頁) / ヨハネの黙示録 1章3-8節(新452頁) 今日は2019年の最後の聖日礼拝です。2019年には色々な出来事がありました。そのたびに私達は心配の中で生きなければなりませんでした。それにもかかわらず、すべての教会員がお互いに愛し合い、謙虚に教会に仕えました。確かに恐ろしいことも沢山ありましたが、それでも、喜びの中で今年の終わりを迎えています。今まで私たちを守ってくださり、共に歩んでくださった神様に感謝と賛美をお捧げいたします。このすべての恵みが神から来たことを信じます。 1.苦難の中でも、神の御言葉が共にあります。 ヨハネの黙示録は確かに解釈が難しい聖書の一つです。殆どの言葉が象徴的に記されており、それが何を意味するのかは牧師にも難しいほどです。しかし、黙示録の中心的な内容はとても簡単です。『この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。』(黙示録1:3)神の言葉を知ろうとする者、その言葉を守ろうとする者は、幸いな者、つまり神に祝福を受けるという意味です。ここでの祝福とは、お金持ちになったり、名誉を得たりすることとは、違う祝福です。これは、神様に選ばれ、神のお守りと愛を受けて生きていく霊的な祝福を意味します。神の民が主の言葉に聞き従い、その御言葉通り生きるとき、神はその民を守ってくださるのです。 ヨハネの黙示録が記録された時期は、西暦.95年頃です。当時、ローマの皇帝はドミティアヌスでした。彼は有名な独裁者でした。暴政をしきながら、自分を主であり、神であると呼ばせた者です。ただイエス・キリストだけを主と、また神として認め、仕えたキリスト者たちを残虐に殺した者です。その時、苦難を受けたキリスト者に慰めと希望を与えるために使徒ヨハネを通してくださった言葉が、まさにこの黙示録であります。イエス・キリストが復活され、父なる神様の右に座し、助け主、聖霊もキリスト者と共におられましたが、キリスト者は依然として迫害と軽蔑から自由ではありませんでした。むしろ神を深く信じれば信じるほどキリスト者は、さらに苦しくて辛い生活をしなければなりませんでした。大勢の人々が信仰を告白したため、円形闘技場で剣闘士や獅子に引き裂かれ死ななければなりませんでした。しかし、キリスト者は、主の御言葉に頼り、そのような世に立ち向かって生きました。主の御言葉は死と恐怖を圧倒する力を持っていたからです。 私たちがこの世に生まれ、生きていく間、肉体を持っている間、苦難はいつも私たちと共にあります。時々大きな罪を犯さなかったにも拘わらず、神の呪いのような苦難を経験したり、真面目に生きて来たにも拘わらず、大きな事故に遭ったりすることもあります。時には他の人を苦しめて、自分自身だけのために生きる人々が、より豊かに生きることもあります。理不尽なことが盛んであり、世の中に不法が蔓延っています。しかし、今日、聖書を通して主は言われました。 『記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。』現在の状況と、世の理不尽への心配と不安に挫折するより、それにも拘わらず、変わらない神の言葉を守り、主を信頼する者は幸いです。永遠にあるような不条理の終わりには、神様の恐ろしい裁きがあるからです。その時は、すぐ到来します。終わりの日、悪は裁かれますが、キリスト者は生の中で感じたすべての苦難と辛さを、神様に報いていただくでしょう。私たちは、その日が来るまで、信仰を守って生きていくでしょう。神の言葉が私たちの中にあり、常に力と勇気と希望を与えるからです。 2.恵みと平安の神が私たちを導いてくださいます。 新しい一年を考えると、期待されると共に恐れが生じることもあります。来年の今ごろ、私はどのように生きているか?果たして来年の今頃、私はこの地上にいるか?韓国では、こんな言葉があります。 『来る順番はあるけれど、行く順番はない。』 たぶん、日本にも類語があると思います。明日、何が起こるか、一週間の間に何が起こるか、到底分からない人生の漠然さを言う慣用語です。明日、急に神様が私たちを召されれば、私たちは、主の御前に行かなければなりません。私たちが、一日一日を生きていくことは、私たちの生命力が強いからではありません。神様が毎日毎日、私たちの命の延長を許してくださるからです。果たして来年のクリスマス、私はどのようになっているでしょうか?生きてはいるでしょうか?死を考えると、本当に怖いです。もちろん、神のみもとに行くという信仰はありますが、残された人々の悲しみがさらに恐ろしいからです。 12月15日、事故当時、私の車は10メートルくらい押され、車はだめになってしまいました。その日は、皆さんに心配かけないように冗談で『車が衝突する際に一番先に思い起こされたのが、修理費の心配でした。』と言いましたが、実際には『ああ、これが事故か?このまま死ぬのか?』という思いでした。もし私が神様に召されれば、どうなるでしょうか?志免教会は再び無牧教会に立ち戻り、昨年結婚した妻は、寡婦になり、両親は悲しみで一日一日を過ごすでしょう。皆さんも悲しい心でお過ごしになるでしょう。しかし、神様はまだ私を召されませんでした。幸いなことに、事故は膝の打撲傷で終わり、他には僅かな痛みは残っていますが、ほとんど治ってきているようです。当日は事故現場から教会まで歩いて戻り、冗談まで話すことが出来ましたので、神様にどれだけ感謝すべきでしょうか。私はまだ日本で果たすべき使命が残っているので、神様が私を生かしてくださったと思います。 神は主から頂いた使命を果たさせるために、ご自分の民を生かしてくださり、一日一日を導いてくださいます。ですので、私たちは一歩一歩を導かれる神の愛と恵みに感謝せざるを得ません。黙示録が記された時代、多くのキリスト者は死んで行きましたが、それにも拘わらず、主の教会は生き残って迫害と苦難とを逞しく乗り越えて福音を宣べ伝えました。神様は苦難の中でも恵みと平安を持って、主の教会を導いてくださったのです。『今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。』(黙示録1:4-5)この世は恐ろしい所です。しかし、私たちは使命を達成することが出来るように命を保たせてくださる主と共に輝かしい勝利を収めることが出来ます。永遠におられる父なる神様と、完全数、七つとして表現された完全な聖霊と、世の王たちを治めるイエス・キリストが私たちを見捨てられず、永遠に一緒に歩んでくださるからです。 3.神はアルファであり、オメガであるからです。 なぜ、キリスト者が苦難の中に、また死の中に生きていくときにも、神は私たちの命を守り、最後まで生き残らせ、使命を果たすことが出来るように導いてくださるでしょうか?それは、主がアルファであり、オメガであるからです。つまり、主は万物の始まりであり、すべてのものの最後であられるからです。 『神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。私はアルファであり、オメガである。』(黙示録1:8)ギリシャ語で『初め』という言葉、『アルケー』は『開始』という意味と同時に『起源、根本』という意味をも持っています。ですので、ギリシャ語に翻訳された旧約聖書の創世記1章1節では『初め』を『アルケー』と記しています。また、ギリシャ語で『終わり』という言葉は、『テロス』と言いますが、これは『終わり』という意味と同時に、『すべての目標を完成する。』という意味をも持っています。つまり、アルファとオメガという言葉は、創造から終末までを意味するものであり、創造と終末が持っている永遠さと無限さの主が神様であることを古代ギリシャ風に示したものです。 聖書はこれを旧約でも強調しています。 『イスラエルの王である主、イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。私は初めであり、終わりである。私をおいて神はない。』(イザヤ44章6節)イザヤ書は1-39章、40-55章、56 -66章の三つの部分に分けられています。三つは記録された時期が、それぞれ異なります。特に40-55章の部分は偶像崇拝、悪行などにより神に捨てられ、バビロンに捕えられたイスラエル民族が、神様によって70年ぶりに解き放され、神様に再び機会を頂いた時、宣言された希望の託宣です。当時、バビロンは強い国でしたが、さらに強力なペルシャに滅ぼされました。しかし、あの強力なペルシャさえ、神の御手に操られました。 『ペルシアの王キュロスはこう言う。天にいます神、主は、地上のすべての国を私に賜った。この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることを私に命じられた。あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、上って行くがよい。 』 (歴代誌下36:23) 天地万物の始まりと終わりである神は、どんな強力な存在でも逆らうことが出来ない偉大な方です。巨大なペルシャの皇帝キュロスさえも、神のご命令の前では、取るに足らない被造物に過ぎませんでした。神は王の中の王であり、神の中の神でいらっしゃるからです。ところで、この大いなる神は今日の御言葉で、イエス・キリストを通して小さくて力のない民を選ばれ、罪から解き放し、彼らを王として、父である神に仕える祭司として生きさせてくださると約束されました。これは大いなる神が小さな民をお選びくださり、彼らのアルファとオメガになられ、最後まで一緒におられるという意味です。キリスト者が出会う苦難と死は、キリスト者自らの力では勝つことの出来ない恐ろしい存在です。しかし、その苦難と死さえも、神の御手の中にあることを信じれば、我々はそれらをもう恐れる必要がないでしょう。むしろ私たちが苦難と死の間にいても、主はその苦難と死の道で、私たちと共におられるからです。 締め括り 今年の終わりが近づいています。今年、本当にたくさんの出来事がありました。しかし、私たちは無事に年末を迎えることが出来ました。このことについて考えてみると、神の恵みではなかったことが何かあっただろうかと、感謝せざるを得ません。我らの心配と不安の中で一緒にいてくださった主が私たちを助けてくださり、無事な終わりを許してくださいました。もちろん、まだ我々の中に未解決の苦難と心配が残っているかも知れません。しかし、アルファであり、オメガである主は、依然として皆さんの苦難と心配の中におられます。 『私は、あなたがたを孤児にはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。』(ヨハネ14:18)イエスは明らかに私たちを孤児のようには捨てておかないと約束されました。この約束は、私たちが神に召される、その日まで続くものでしょう。今年の終わりを迎え、今まで私たちをお助けくださった神に感謝しましょう。そして、2020年、新しい年も、共にいてくださる主を喜びましょう。年越しも健康に過ごされ、来年も幸せな夢を抱いて、神様と一緒に歩いていきましょう。皆さんに父なる神、主イエス・キリスト、聖霊の愛と平安が常に共にあることを祈り願います。

天から地上へ、教会から隣人へ。

詩編73編23-25節 (旧908頁) / ヨハネによる福音書 6章37-40節(新175頁) メリークリスマス!主イエス・キリストの父なる神様を賛美します。今日は主イエスの御降誕を記念するクリスマス礼拝です。クリスマスを迎え、皆さまのご家庭と日々の生活の上に神様の深い愛と恵みが豊かに溢れますようにお祈りいたします。皆さん、クリスマスの意味とは何か?お考えになったことがありますか?クリスマス、おそらく、キリストと繋がりがあると感じられませんか?ひょっとして、そう思われたなら、正解です。ギリシャ語、キリストから出たクリスに、ラテン語のミサがマスとなり、一つになった表現がこのクリスマスなんです。私は特に、ミサの方が気になりました。ミサ、良く聴いたことのある言葉ではないでしょうか?ミサは、カトリック教会で、感謝の祭事、感謝の礼拝という意味として使われる言葉です。ミサには、もう一つの意味があります。言語学的な意味として、英語のミッション(宣教)と語源が同じです。両方ラテン語のミッシオから来ましたが。ミッシオとは英語のミッションと同じく、宣教という意味の言葉です。 これらを総合して考えれば、感謝と宣教がクリスマスの主な意味だと言えるでしょう。一つ目に、クリスマスとは主イエスへの感謝を捧げる日です。何のための感謝でしょうか?私達を救ってくださった主の宣教への感謝でしょう。そして、二つ目に、神様に頂いた宣教の使命、この世に遣わされた私達、教会が持っている宣教の使命への感謝でもあるでしょう。クリスマスは感謝の日です。救い主、主イエスと神様への感謝、救い主の手と足として、遣わされた我らの宣教の使命への感謝の日です。このクリスマスが主の宣教、我らの宣教を誓う素晴らしい一日になることを願います。今日は感謝の心を込め、主の宣教、そして我らの宣教について話してみたいと思います。 天から、地上へ。 主イエスは天から地に来られました。聖書に於ける天とは、粕屋郡の美しい青空を意味することもありますが、人の手が触れる事が出来ない無限と永遠との神の力を示す表現でもあります。人間が認識している全ての物事、時間、空間、宇宙すらも、神様の永遠に比べれば、たった一つの点に過ぎない、小さな被造物でしょう。永遠とは、私達が生きていく、この世を超越するものです。ところで、この永遠を造り、司る御方が、主イエスの父、神様であると聖書は証言しています。 一方、地というのは、今私達が踏んでいる福岡の地という意味もありますけれど、さらに深く考えると、喜び、微笑み、生、怒り、涙、争い、死など、人間の喜怒哀楽のあるすべての所だとも、言えるでしょう。人が永遠に生きることが出来ないように、この地というのも永遠な存在ではありません。この地は、時間、空間、宇宙のような被造物に属しているからです。永遠ではない地、いつか終わらざるを得ない地、この地は真冬のように寒くて冷たい所です。この地の果てには死が潜んでいるからです。さて、昔のある冬の日、永遠の神様が人間になって無限の天から、この寒い地に降って来られる奇跡が起きました。 なぜ、永遠の神様が、限りある人間となり、この喜怒哀楽の地にいらっしゃったのでしょうか?ヨハネによる福音書では、このように記されています。『主をお遣わしになった方の御心を行うためである。』。では、神様の御心とはいったい何でしょうか?これを人間の言葉に直すと、お願いに言い替える事が出来ると思います。では、全能の父なる神様にも、願いがあるという意味でしょうか?はい、神様にも願いがあります。それは、御子を見て、信じる者が、皆、永遠の命を得ることであり、主がその人を終わりの日に復活させることです。主イエス・キリストは終わりの日に御父から、与えられた人々をご自身が復活させると仰ったのです。主はその人々に永遠の命を与えられるお方であるからです。 それでは、永遠の命とは何でしょうか?死なず、限りなく生きること?はい、その通りです。ですが、もう一つの意味があります。それは永遠の神様と共に生きることです。ヘブライ人への手紙は、人は肉体的には一度死ぬことが決まっていると話しています。でも、主イエスによって、神様に選ばれた人は、この地上でも神様と共に生き、神様の愛を感じ、お助けと御恵みを頂きながら、過ごすことが出来ます。このような人は、死んでも神様が備えてくださった天の国で、永遠に生きる事が出来ます。 永遠の命を得るというのは、こういうことです。永遠の神が共におられる地上での生活。単に地上で、何とか辛うじて生き残り、死んでから、パラダイスに入り、幸せに生きることではありません。毎日の疲れ切った人生、いくら、友達がいても、結局一人ぼっちの寂しい人生、明日の悩みで、寝付かれない人生。このような悲劇に満ちた人生に永遠の神様から、遣わされた主イエスが、ほかの誰かでなく、あなたと私を探しにお出でになったということです。聖書は主イエスが共にいる所を神の国、天国であると言いました。クリスマスの主イエス・キリストは私達にこの神の国を与えてくださるために生まれたのです。なぜならば、主イエスの父なる神様が、主を通してあなたのことを愛し、あなたと共に、この世から永遠に歩んで行かれることを切に望んでおられるからです。 教会から隣人へ。 ですが、きっとある人は私達に、このように尋ねるかもしれません。神様が私のことを愛し、探しに来られたですって? 信じられない!ならば、今、神様はどこにいるの?全然、見えないよ。地上で神様と一緒に生きるなんて嘘でしょう?今の生活もヘトヘトで、体も心も疲れすぎているのに、神の国って、いったい、どこにあるっていうの? そうですね。神様は目に見えませんね。神の国というのは、いくら手を伸ばしてみても、触れられませんね。永遠の命が約束されたからと言って、死が無くなるはずもないですね。神様は見えないし、天の国も感じられないし、永遠の命は嘘みたいだし。もしかして、神様は嘘つきではないでしょうか? 『あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。』マタイによる福音書を読むと、イエス様は5000人の群衆に食べさせる前、弟子たちに『あなた達が食べ物を彼らに上げなさい』と仰いました。弟子達は、誰1人としてイエスの命令を果たせませんでした。彼らには、始めから、そんな力なんてありませんでした。しかし、彼らは少なくとも大麦のパン五つと2匹の魚だけを得ることは出来ました。しかも、それは幼い少年の物だったのです。このわずかな食べ物を通して、主イエスは男だけでも、5000人が満腹するほどまで、食べさせてくださいました。女性と子供まで、数えれば、凡そ2万をも上回る人数が食べたと予想が出来ます。聖書にはその後、食べた残りが12籠にいっぱいになったと記されています。その日は食べ物が途方もなく足りない状況でしたが、誰も思いつかなかった方法によって、主は偉大な奇跡を見せてくださったのです。 確かに神様は人の目に見えません。しかも、神の国を肌で感じる事も、 たやすくないです。ですが、この地上には、目に見える主イエスの身体、教会があります。この日本に日本キリスト教会が、九州に九州中会が、粕屋郡に志免教会があります。神様は目に見えませんが、主の教会は目にはっきり見えます。なぜ、今、私が何度も教会が目に見えると話しているのでしょうか?それは、目に見えない神様が、目に見える教会を通して、お働きになるからです。主イエスはこの教会を今も変わらず、ご自身の体として守っておられます。神から遣わされ、貧しい人、病んでいる人、死んだ人を助けてくださった主イエスは、今、ご自分の教会が主イエスのように隣の人々を助けることを望んでおられます。 私達、教会はイエス様のように、偉大な奇跡を施す力はありません。けれども、弟子達が命令に従って何とか動いたように、私達も小さなことから試みる事は出来ます。隣の一人暮らしのお年寄りの方々の面倒を見ることから、正しくない政治家に抗議をすること、心の病んでいる人々を慰めること、理不尽な社会に小さな声であっても、警告することなどの行いは出来ます。私達、教会は主イエスの手足、口、体であるからです。主イエスが仰った通り、『私に与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させること。』復活は、明らかにイエス・キリストに限ったお働きです。でも、人を失わないように働くことは主の体、教会に委ねられた役割です。その時、隣人は、私達を通して、主イエスを見、信じ、主のもとに来て、永遠の命を得ることが出来るでしょう! ルカによる福音書の17章21節に、こういう言葉があります。『ここにある、あそこにあると言える物ではない。実は神の国はあなた方の間にあるのだ。』聖書は神の国と同じ意味として、天の国という言葉を使っています。永遠の天の国はもう、私達の間にあります。主イエス・キリストが、2000年前、お出でになった時、天の国も共に来たからです。教会は既に天の国の中にあります。いや、教会こそが天の国の一部です。一部でなければなりません。傷付いて、倒れている弱い者、隣人を癒し、助ける天の国の民が、この主の教会、私達です。主イエスが、この地上にお出でになった結果は実に、私達教会員の手足の働きにあります。地上での神の国を実現していく主人公は、正に私達、教会員です。主から、救われた私達を通して、主イエスは、今日も人を生かしてくださいます。永遠の主、父なる神様の御心、神のお願いを主イエスの体である私達教会が成し遂げられるように仕えて行きましょう。そこに、この世への主イエスの救いと御父の神の国があります。 締め括り 今日の説教の前置きではクリスマスの意味について考えてみました。クリスマスは主への感謝の日であり、その感謝の理由は主が神の宣教のために生まれたということと、その主の宣教によって、選ばれた私達にも宣教の使命が与えられたということでした。クリスマスは、この世の救いのために父なる神様から、遣わされた主イエスの降臨を記念し、喜び、そして、私達が主に遣わされ、神様と隣人を愛し、仕える大事な意味を持つ日です。今の日本のクリスマス文化は如何ですか?世のクリスマスと、私達、教会のクリスマスは何が違うのか、考えてみることが出来れば幸いです。主イエスの手と足と口になり、遣わされる志免教会になりますようにお祈りいたします。今度のクリスマスは、主イエスの救いへの感謝と、主の宣教を受け継ぐ伝道のクリスマスになることを切に望みます。

あなたの神、主を愛しなさい。

李相珌(イサンピル) 牧師 申命記6章4-5、マルコによる福音書12章28-31 前置き 今日、わたしたちが読みました本文である申命記 6 章4節 5 節は非常によく知らされております御言葉であります。この御言葉は神様を信じるすべての人々にとって一番大事な御言葉の一つであります。この御言葉を通して神様に対する私たちの愛をもう一度点検して見たいと思います。 本論 申命記はモーセが荒野の生活をおえてカナアンに入っていこうとするイスラエルの民に与える神様の戒めの御言葉であります。その御言葉の中でも今日の本文が一番核心的な御 言葉であると言われるほど、イスラエル民族だけではなく、神様を信じるすべての人々が 深く黙想しなければならない御言葉であります。 本文は「聞け」と言う御言葉から始まります。これは聞いてくださいと言う言葉では ありません。「聞け」という命令であります。単純に聞こえる通りに聞くという意味では ないのであります。これは注意を集中して耳を傾けてきくという意味であります。そして 聞いた御言葉を心に刻むことであります。では、モーセがイスラエルの民に心に刻みなさ いといわれたこの御言葉はどんな内容でしょうか。 そこには核心的な内容が二つあります。一つは、神、主は唯一の主であるということで あります。もう一つは、神、主を愛しなさいということであります。私たちが信じる神様 は唯一の神様であります。唯一という意味はいくつの中の一つという相対的な意味ではあ りません。これは絶対的な唯一という意味であります。私たちの神様はいくつの神々の中 の神ではなく唯一無二の神様であります。人間たちはこの世の中に生きる時に自分のために多様な神々を作っていきます。たとえ ば自然から神々を作ることもあります。自分の前に広がる広大な自然を見た時、また、そ の力を経験した時にそれらに恐れを感じそれらを神にして仕えて行こうとします。つまり、それら作られたものに神性を与えて、それを神として崇めるのであります。 しかし、私たちの神様はそれらの神々とまったく違う神様であります。つまり、神々は 作られたものであるが、私たちが信じる神様はあってあるお方であります。存在そのもの であります。時間の概念と空間の概念がなかった時にも神様は存在していたのであります。その神様がこの世を創造されました。その創造はすでに存在していた物質からの創造では なく、無から有を創造されました。時間と空間も存在しなかったその時に神様はそこにお られ、この世を創造られました。その神様がまさに私たちの神様、主であられます。また、4節の御言葉に強調されているのは主であります。ヘブライ語でヤハウェ、英語 ではエホバであります。4節を元文からもうしますともっと明確にこうなっております。 「主は我らの神、主は唯一の神」つまり、主を 2 回連続で語ることによってそれを特別に 強調していることであります。では、なぜモ-セは主を強調しようとしたのでしょうか。 結論からもうしますと実はこの文章から言えるのは、強い主権的イメージの神様よりは 信実な主である神様が強調されているのであります。 主はイスラエルの民との契約のもとで、エジプトから導きだし、そして、40 年の荒野 を導いてこられました。その荒野の時代において、主は常に信実であられました。それを モ-セは身をもって経験したのであります。だから、モ-セが主と告白する時そこには信 実という意味が強調され含まれているのであります。さらに、主との契約は 進行中であ ります。その契約というものは一体何でしょうか。それはエジプトの圧制の中であった ヘブライ人をエジプトから導き出し、乳と蜜の流れるカナアンに導き入れるという契約で あります。だから、モーセは主とのその契約をすこしも疑わないことを強調しているので あります。さらに、モーセは唯一の主を強調しながら「あなたの神、主を愛しなさい」と 命じます。モーセが語ろうとしていた最も重要な核心はまさにここにあります。 人は誰でも 自分が愛しているものを 一番大事にします。それを すべての物事の 判断の基準にします。自分がやりたいことがあっても、愛する人に 少しでも不便を か…

大祭司の祈り。

民数記6章24-26節 (旧221頁) / ヨハネによる福音書 17章1-26節(新202頁) 前置き ヨハネによる福音書13章から16章までは、イエス・キリストが十字架で死ぬことを準備されながら、弟子たちにお別れの説教をされる部分です。イエスはお別れの説教を始める前に、弟子たちの足を洗ってくださり、晩餐を施してくださり、彼らを慰めてくださいました。そして、弟子たちが神様のものであることを力強く認めてくださいました。また、弟子たちを捨てて置かれず、助け主、聖霊を通して、この世の終わりまで共におられることを教えてくださいました。そして、そのお別れの説教を確証でもするかのように、17章では、父なる神様に切に祈ってくださいました。私たちは、過去数ヶ月間、ヨハネによる福音書の言葉を通して、弱い者を見守ってくださる主、死者を生き返らせる主、罪人のために代わりに死ぬことを予告されるイエス・キリストに会うことが出来ました。今、イエス・キリストは、そのような公生涯とお別れの説教を終え、それを父なる神に告白するお祈りを通して、その教えを実践すると誓っておられるのです。 多くの人々にヨハネによる福音書、第17章は大祭司の祈りと呼ばれます。祈っておられるイエス・キリストを通して、いと高き所におられる栄光の神様と、最も低いところの罪の中に生きている人間の間に立ち、人間を守り、神の怒りを静める祈りを通して、旧約の神と民の仲を和解させる大祭司の姿がオーバーラップされるからです。特に主は3つの部分に分かれている17章のお祈りを通して、1-5節イエスご自身のための祈り、6-19弟子たちのための祈り、20-26全人類のための祈りを神様に捧げておられます。今日は本文の言葉を通して、イエス・キリストが私たちを如何に愛しておられるのか、キリストが私たちにとって、どのような存在なのかを話してみたいと思います。 1.イエス・キリスト、ご自身のための祈り。 イエスは民と人類のために祈る前に、まずご自分のためにお祈りになりました。愛の主が、なぜ先に他人ではなく自分のために祈られたでしょうか?今日の本文では、イエスが神様に、ご自分に栄光を求める場面が出てきます。私たちは、ここでの栄光を誤解してはいけません。これは、自分の欲望を満たし、肉体の必要を求める意味としての栄光ではありません。ヨハネによる福音書に出てくる主の栄光とは、華やかな力や誉れではありません。イエス・キリストは、なぜ人間になって、この世に来られたのでしょう?それは、正に罪人のためにご自分の命を捧げるためでした。栄光を意味するギリシャ語のドケオーは『誰かが、本当に自分らしい状態』という意味です。罪人のためにご自分を犠牲にするために、生まれたイエス・キリストの栄光は、罪人のために犠牲になること、まさに十字架での死でした。栄光という言葉のイメージとは違って、あまりにも過酷で、屈辱的な苦難がキリストの栄光だったのです。 ところで、イエスは世界が造られる前に、すでにその栄光を持っておられたようです。『父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしが御もとで持っていた、あの栄光を。』(ヨハネ17:5)ここで、私たちは、御父が創造の前から民を罪から救うために、御子の犠牲を既に準備しておられたということが分かります。父なる神様が罪人のために御子イエスを死へと導かれたことが御父の栄光であり、御子イエスが十字架で罪人のために死ぬことが御子の栄光であるという意味です。したがって聖霊の栄光は、その御子イエスが死んで罪人を救えるように助けてくださることでした。結局、三位一体なる神の栄光というのは、自らを犠牲にする苦しみと悲しみの栄光であります。そのような神の苦痛を伴う栄光の結果は、罪人への赦しと死からの復活でした。旧約聖書での神は、ご自分の栄光を誰にも与えられない方でした。神が痛みを伴う栄光をキリストに許されたというのは、キリストこそが、神だという意味であり、神ご自身だけが罪人への赦しを施される方だという証拠です。 イエス・キリストは、今日、このような栄光という名の苦難に勝ち抜くために神に祈られたのです。 『あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。』(ヨハネ17:2)この苦難の終わりで、イエス・キリストは信じる者に与えられる永遠の命をくださるために、見える世界と見えない世界を治める真の王として復活されるでしょう。父なる神は、ご自分の死によって栄光を輝かせた、主イエスを復活させ、主イエスの栄光を完成されるでしょう。それにより、父なる神と聖霊も主イエスによって栄光を受けるものであり、最終的にこれは神を信じる、全ての民にも栄光となるでしょう。イエス・キリストのご自身のための祈りは、御父、御子、聖霊、そして神の民すべてに、輝かしい栄光を抱かせる十字架の死を誠実に行うためのイエス・キリストの切なる望みから始まるものでした。 2.弟子たちのための祈り 日本語辞書で弟子という言葉を引いてみると、『先生に教えを受ける人。』と記載されていました。教えを受けるということは、教育を意味します。教育とは、心と体の知識を得るための、すなわち知るために行う行為です。弟子はまさに『知るために。』先生に従う人です。また、聖書に戻りましょう。それでは、イエスの弟子は果たして何を知るべきでしょうか? 『永遠の命とは、唯一の真の神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。』(ヨハネ17:3)使徒ヨハネは真の神とイエス・キリストを知るべきだと語っています。ところで、その知ることを通して何を得ることが出来るでしょうか?まさに永遠の命を得ることが出来ます。イエス・キリストの御教えを受けた者は、神様とは何方なのか?イエス・キリストとは誰なのかを、確実に分かるようになります。そして、それを知ることの結果は、永遠の命を得るということです。これはキリストの弟子たちだけが得ることが出来る神の恵みです。だから、真剣に神とイエスを知りたがっている人は、使徒ペトロやヨハネのような当時の弟子ではなくても、誰もがキリストの弟子になることが出来ます。したがって、今、志免教会で神を知っている私達、知ろうとしている私たちは皆、既にイエスの弟子です。 ヨハネ17:3での『知ること』というのは、単純な知識のことではありません。この『知ること』という言葉は、聖書の中では、夫婦関係に使われる言葉です。夫婦が他人は、絶対知らない深いところまでお互いに知り、それによって信頼するように、イエス・キリストを通して密接に神との関係を結び、信頼するのが、まさに神を知るということです。そのような神を知る知識、すなわち神とキリストとの関係を通して神を知るようになり、信頼するようになることによって、弟子たちは、神様が与えてくださる永遠の命に進むことが出来るのです。したがって、『神を知ること』とは、すなわち『神を信頼する。神を信じている。』という言葉に言い換えることが出来ます。永遠の命とは、唯一の真の神であられる神様と、神のお遣わしになった者、イエス・キリストを信じることです。 そういうわけで、イエス様は2番目に弟子たちが神を知ること、すなわち彼らの信仰のために祈られたのです。『わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。』(ヨハネ17:8)主は、キリストに御言葉を教えて頂き神様とイエス・キリストが誰なのかを知り、信じるようになった弟子たちを、神様が最後まで守ってくださることを祈り願われたのです。『わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。』(ヨハネ17:11)イエス・キリストを通して神を信じるようになった弟子たちを守ってくださることと、三位一体なる神様が一つになるように、弟子たちもお互いに一つになって、真の神とイエスへの信仰をしっかり守っていくことが出来るように、主イエスは弟子たちのために祈ってくださったのです。 3.全人類のための祈り。 また、主は、単に今、神の中にいる人々だけのためではなく、すべての人類のためにも祈ってくださいました。『父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。』(ヨハネ17:21)イエスは、排他的な御方ではありません。主を信じていない人は、皆、地獄に投げられ、主を信じる人だけに哀れみを施される方ではありません。この世界のすべての人々が主を知り、神を信じることが、主の夢だといっても過言ではないほど、イエス・キリストは主を信じていない人たちをも愛しておられます。『神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。』(テモテ一2:4) なぜなら、世界のすべての人々は、イエスを信じることが出来る潜在性を持つ存在だからです。神がここに座っている私たちをお選びくださらなかったら、我々のうちの誰がキリスト者になることが出来たでしょうか?神様が私たちに信仰を与えてくださったため、私たちがイエスを信じるようになり、そのイエスを信じることによって、三位一体の神を知ることが出来るようになったことを忘れてはならないでしょう。主は、世界のすべての人々がイエスを信じることを願っておられます。そして、イエス・キリストの中で、お互いに愛し合い、神の御前に来ることを懇願しておられます。神の御心は信者と未信者を問わず、イエス・キリストを通して全ての人々に開かれています。主は今日も彼らのために教会の頭となり、教会を通して伝えられた福音を聞いて、彼らが主に立ち返ることを望んでおられます。主はこのように十字架を目の前に置いて、ご自分の犠牲のために、弟子たちの信仰のために、人類が福音によって神に出てくることのために祈ってくださいました。罪人に生まれた人間には、到底出来ない祈りを大祭司であるイエス・キリストご自身がしてくださったのです。 締め括り 今日の旧約本文には大祭司アロンが神様の代わりに神の祝福をイスラエルの民に伝える場面が出てきます。 『主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。』(民数記6:24 26)大祭司イエスは、私たちに代わって神様にお祈りを捧げられました。神と人間の両方の間を執り成す大祭司は、神の祝福を民に伝え、民の祈りを神に伝える非常に重要な存在であります。神様はアーロンを用いられたように、イエス・キリストを通して私たちに祝福をくださり、私たちを守られ、私たちに恵みを与えられ、私たちに平安を賜ることを望んでおられます。そのような神の御心をイエス・キリストが、予め見抜かれ、神様の御心が成し遂げられるように祈られたのです。また、民からの願いや祈りも主イエスを通して、神様に捧げられるでしょう。 イエス・キリストのご降臨を記念するアドベントの期間です。イエスが何のために来られたのか、今日の言葉を通して、もう一度考え、神と民を繋げてくださる大祭司イエス・キリストの愛を覚えて過ごしましょう。私たちが、キリストを通して神と一つになる時、キリストを通して神を正しく知り、信じる時、神様の祝福と恵みは、さらに明るく輝くでしょう。イエス・キリストのお祈りが、今日も大祭司の祈りとして、私たちの中にあることを信じて行きましょう。今日も主は、私たちの大祭司になって、今日のお祈りのように、私たちを守ってくださるでしょう。神の栄光が輝くアドベントの期間、私たちのために、全人類のために祈ってくださる主を覚えつつ、この主イエスを私たちの隣人や家族に伝えて生きていきましょう。主の愛に満ちる一週間になることを祈り願います。