主は既に世に勝っておられる。

民数記14章9節 (旧235頁) ヨハネによる福音書 16章25-33節(新201頁) 前置き 今日はアドベントの1番目の主日です。今から約3週間後は神の子イエスが天の玉座を捨てられ、この地上に来られて、人の子としてお生まれになるクリスマスです。イエスはなぜ、この世に来られたのでしょうか?まさにこの罪深い世に生きているご自分の民、すなわちイエスを信じる者を救ってくださるためです。そのために主は私たちの代わりに死んでくださり、我々はイエス・キリストを通して救われました。アドベントは私たちのために喜んで死に、復活された主イエスのご生誕を記念する期間です。この期間を通して、私たちは主のご生誕と死について深く感謝し、思い入れるべきでしょう。 人々は、自分の死後に備えて、残される者たちに遺言を残します。遺言を通して、残された者たちが自分の遺志を受け継いで、この世に自分がもはや居なくなっても、代わりに自分の人生を引き継いでくれると願うからです。今日の本文は、民に与えてくださる、イエス様のご遺言です。「私はあなたがたから離れる。しかし、私は永遠にあなたがたと一緒にいる。私によって私の父があなたがたの父となる。私を通して私がいなくても、助け主、聖霊が、あなたがたの内におられる。」という遺言を通して、主を信じる者たちに平和と勇気を与えてくださいます。今日の御言葉は、今、この時代に生きていく私たちにも有効な言葉です。今、主イエスは、私たちの目に見える形ではおられません。しかし、主はご遺言のように、御父と聖霊を通して今日も私たちと一緒におられます。 1.神様を完全に信じることが出来ない人間の弱い信仰。 哲学では、生まれたばかりの人を自然人と言います。自然人とは、如何なる思想、文化にも影響を受けない、自然そのままの人のことです。自然人は割と良い語感を持っていると思いますが、信仰的には物足りない状態だと思います。まだ、神を知らない状態であるからです。誰も生まれる前から信仰を持つことは出来ません。今、キリストを信じている私たちも、初めは自然人でした。神様がそのような私たちをお選びくださり、信仰を与えてくださったのです。つまり、たとえ、今私達がキリスト者だと言っても、我々は元々自然人でした。そして、今も私たちの本能の中には自然人としての性質が残っています。私たちが神を信じ始めて、その信仰が深まるまで、多くの疑いや挫折を経験したことにはそのような理由があったのです。自然人として生まれた人間は本能的に、神を信じない存在です。神を知らずに生まれたからです。たとえ、信じると言っても100%信じることは不可能に近いと思います。自然人としての本能が残っているからです。本能的に神を100%信じることが出来ない人間。ですから、人間は生まれつき罪人なのです。 今日、イエス様はご自分を通して主の民が御父に愛され、助け主である聖霊も、民の生の中で常に共におられることを教えてくださいました。主イエスを通して人間が天の御父の赦しを得るものであり、その神の聖霊が人間を永遠に守ってくださることを教えてくださったのです。なぜ主はこのような遺言を残されたのでしょうか?イエス様が十字架で死に、復活され、昇天された後、地上に残される人々に自然人が持つ恐れと不信仰を乗り越える勇気と平和をくださるためでした。自然人として生まれ、ユダヤ人として生きて、キリストを通して信仰を得るようになった弟子たちが現実に屈せず、大胆にキリスト者として生きていくことが出来るように助けてくださるためでした。イエス・キリストによって、三位一体なる神が弟子たちと共に歩んでくださることを教えてくださるためだったのです。 しかし、残念ながら、イエス様が苦しみを受けるとき、主の弟子たちは恐怖によって、みんな逃げてしまいました。彼らの信仰があまりにも弱かったからです。もともと自然人として生まれた人間は、ある事実の証拠が目の前で消えると、その事実への信念を撤回したりします。人間は目に見えるまま、信じて生きようとする傾向が強いからです。民数記の10人の偵察者たちも、同じでした。神様がエジプトを滅ぼされ、エジプトの荒れ野を通過させ、カナンの入口まで無事に自分たちを連れて来られたことにも拘わらず、目に見えない神、触れることが出来ない神を信頼しませんでした。むしろ彼らは目に見えるカナンの先住民をそれ以上に恐れていたのです。結局、イスラエルの民は、神への不信仰によって罰せられ、40年という長い間を荒れ野で過ごすことになりました。このような人間の本能のような弱さのため、人間は神様への完全無欠な信仰を守りがたい存在です。多分私たちもそうかも知れません。表面的には、イエスを信じていますが、迫害と苦難が来たとき、信仰を諦めるかも知れません。人間は、このような弱い信仰を持って生きていく存在であるからです。 2.民の弱い信仰を守ってくださる神。 しかし、絶対変わらない事実があります。そのような人間の弱さと神との間には何ら関係がないということです。人間の弱さは、人間の弱さであるだけで、私たちが信じる神様の弱さではないということです。民数記の民がカナンの先住民を恐れていたとき、主はヨシュアとカレブの口を通して、今日の言葉をくださいました。 『主に背いてはならない。あなたたちは、そこの住民を恐れてはならない。彼らは我々の餌食にすぎない。彼らを守るものは離れ去り、主が我々と共におられる。』(民数記14:9)いくら人間が畏れに震えていても、神にとって、カナンの先住民は、ただイスラエルの餌食のような存在でした。そして主はいつまでも民と共におられると約束されました。神の民が、どんなに弱くても、神は民の弱さに影響を受けない方です。むしろ民が神の強さに影響を受けるだけです。 なぜなら、神はいつも変わらず、どんなことがあっても揺れたり屈したりしない方だからです。今日の新約の本文でも、イエス様は言われました。『あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。』(ヨハネ16:32)イエス様は、人間は弱いので、主を捨てることを既に知っておられました。むしろ、イエス様は、ただ、変わらない神様だけを信じられました。人は変わっても、神は変わらない方であるからです。人は弱くても、神は強い方であるからです。イエス・キリストは、その神を信じ、苦難を克服し、ご自分のお務めを果たされました。神はこのイエス・キリストを通して主を信じる民にも揺るがない信仰を許してくださいます。私たちが信じる神様はこのように強くて、変わらない方です。 したがって、私たちの信仰が弱くなり、底を打つようなときも、私たちの信仰を守ってくださる神様だけは、絶対に変わらないことを信じましょう。どんなに私たちの信仰が弱まってきても、神だけはその信仰をしっかりと掴んでおられることを信じていましょう。私たちの信仰の状態とは関係なく、神様が私たちの信仰を守っておられるからです。私たちの信仰の弱さとは関係なく、私たちの信仰を守ってくださる、強い神を信頼することこそ、私たちの真の信仰なのです。人間は神を信じているにも拘わらず、時々失敗を経験します。意外と主の言葉に従って過ごしていない時が少なくないのです。しかし、たとえ、そのような失敗があっても、私たちの信仰を掴んでおられる主を信頼し、主の言葉に聞き従って、生きていきましょう。主が絶対変わらない神様として、私たちの内におられ、私たちの信仰を守ってくださるからです。主が世に勝っておられると仰った理由は、まさにこのためです。人間は弱く、世に屈し、信仰が弱まるかも知れませんが、神であるイエス・キリストは父なる神と聖霊を通して変わらず、堅固な信仰の保護者となり、民の信仰を守り、保たせてくださるからです。 3.すでに世に勝っておられる主。 したがって、私たちは、自分の信仰で世に勝つのではありません。この世の圧力や変化にも、変わらない神だけがこの世に勝つことが出来ます。私たちは、ひたすら神様の御守りのもとでのみ、世に勝つことが出来るのです。私たちが失敗して、世に屈する際にも、神様はその世に常に勝利しておられます。勝利者、神様は弱い私たちを助け起こしてくださいます。『わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。』(ヨハネ16:28)イエス・キリストは、このように世から何の影響も受けない神様だけを信じておられたのです。それによって、主イエスは、世からの恐怖を乗り越え、御父から与えられた使命を果たすことが出来ました。空中の勢力を持つ者、悪い霊に治められている、この世がいくら吠え哮る獅子のように、誰かを食い尽くそうと探し回り、身悶えしていても、神様はただ嘲られるだけで、何の影響も受けられないのです。世はただ、神の手のひらの上で蠢いている小さな虫のような存在です。 このように世に勝たれた主の中で生きていく私たちは、この世を恐れる必要がありません。もちろん、この世に生きていく時、迫害を受け、殺され、嫌われることは覚悟しなければならないでしょう。この世が神を憎み、神に属している私たちは、依然として弱いからです。しかし、聖書は強く語っています。『体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。』(マタイ10:28)この世は、確かに恐ろしい存在でしょう。しかし、我々の最後を決める方は、この世ではなく、神様なんです。この世は、私たちの肉体は殺すことが出来るかも知れませんが、私たちの魂まで殺すことは出来ません。肉体も魂も裁かれる方は、神お一人だけだからです。世に勝たれた神は、世が犯せない、高い所におられる方です。 イエス・キリストはこのように遥かに高い所にいる神の玉座を私たちに引き下ろしてくださる方です。世があえて触れることが出来ない勝利の神様を私たちの内に招かれる方です。『今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。』(ヨハネ16:24)神様から来られたイエス・キリストは、ご自分の御名をかけて、神と人との間に繋がりを結んでくださいました。それを通して自然人として生まれ、罪の中に彷徨っている弱い民が御父の子供として覚醒し、自分の信仰を持つことが出来るようにしてくださいました。自分の力だけでは信仰が守れない弱い民のために、助け主、聖霊という信仰の先生をも遣わしてくださいました。それによって、イエス・キリストはご自分の勝利を民も享受出来るようにしてくださいました。強力な主の勝利を弱い民も分かち合えるように導いてくださったのです。 締め括り 復活して昇天されたイエスは、ご自分の民を孤児と寡婦のように見捨てられず、最後まで責任を負ってくださる方です。そしてこの世から勝ち取った勝利をその民にも分けてくださいます。この世は、主を憎んでいます。そして、神を信じる民も嫌っています。世はいつも神の民を脅かしています。しかし、世に勝たれたイエスは変わらず、自分の民を愛しておられます。また、民にもご自分の中で、世に勝って行けるように平和と勇気とを与えてくださいます。今日の言葉は、今の時代を生きていく私たちにも有効な主の遺言です。今、主イエスは、私たちの目に見えません。しかし、主は今日も私たちと一緒におられます。ご自分の御名を通して、神の子どもと呼ばれるアイデンティティと助け主、聖霊による力を与えておられます。私たちは、このイエス・キリストを通した三位一体の神と繋がり、今後も世に勝利するでしょう。イエス・キリストが私たちを守り、父なる神様が私たちを愛し、聖霊なる神様が私たちを導いてくださるからです。

華やかさと真面目さの間で。

サムエル記下 6章1-15節 (旧488頁) / 使徒言行録 5章29節(新222頁) 11月の初め、韓国の釜山で、年ごとに催される花火大会があります。釜山告白教会のある広安里という海水浴場で行ないますが、その周辺は路上に人が多すぎて通り抜けられないほど、大混雑になってしまいます。どれだけ盛大なのかというと、天気が良い日は対馬北部の海岸からでも花火が見えるほどです。この大会に参加するために、日本からも多くの方々が見に行くそうです。人々は大会当日に良い席を占めるために午前から急いで動きだします。広安里の見晴らしの良いカフェは一年前から予約が決まっており、借りる費用も1万-3万円を上回るとか聞いています。広安里花火大会は一晩で一時間くらいの短い行事ですが、5億円以上の大金を火薬の準備に払うと言われます。一時間に5億円、想像も出来ない程の大金でしょう。 場所を移して、米国カリフォルニア州に行ってみましょう。リバモアという都市の消防署には110年以上も使われている電球があるそうです。それは、少なくとも明治40年以前に作られたものです。この電球は、これまで3回の停電を除き、ずっと使われていることになります。この素朴な電球は、わざわざ訪ねるほどの大したものではありませんが、まだ、その寿命を保ち、その消防署の片隅で相変わらず、光を照らしているようです。そのためいつからか地域の名物になったといいます。皆さんは1時間の華やかな5億円の花火と110年の小さな電球のうちで、どっちの方がお好きでしょうか?派手な火薬の寿命は僅か5分も超えないでしょう?リバモアの電球は非常に古くて、安い物でしたが、それでも110年以上、変わらず一堂を照らしてきました。本当に人のために大切に用いられた火はどちらでしょうか?しばらく楽しんで消えてしまう空の花火と長い間、消防署を明るく照らし、消防士たちと一緒に働いてきた小さな電球。皆さんはどっちの方が、より大切に感じられますか?私たちは、このような華やかさと真面目さの中での、選択の岐路に立つことがあります。 1.この世のやり方を憎まれる神様。 今日、私たちは本文を通して華やかさに憧れる人々と派手ではありませんでしたが変わらない一人の人を見ることが出来ます。イスラエルの王となり、周辺国との戦争で連戦連勝していたダビデ王。彼の統治により、イスラエルの民は自信満々となりました。イスラエルを強い国に成長させたダビデ王は、数十年前にペリシテとの戦争で奪われて、やっと取り戻した神の箱、すなわち契約の箱が聖なる幕屋ではなく、他の場所に保管されていることを悲しく思い、自分の王宮に移そうとしました。ダビデは精鋭兵士3万と一緒に神の箱が保管されていたアビナダブという人の家に行きました。ダビデは神の箱を受け取って派手な新しい車に載せました。ダビデは凱旋将軍のように神の箱とともにエルサレムに向かいました。その行列は非常に華やかでした。様々な楽器、竪琴、琴、太鼓、鈴、シンバルが奏でられました。民は歓声を上げました。武器を持っている兵士たちと、数え切れないほどの人々が、神の箱を迎えました。これを見て、ダビデは調子に乗っていたことでしょう。長い間、幕屋ではなく、別の場所にあった神の箱を華やかな行列で、さらに素晴らしい自分の宮殿に運んで行くのですから、どれほど胸がいっぱいになったことでしょうか?神様もきっと、このパレードを喜ばれると考えたことでしょう。ところが、その時、思いも寄らない出来事が起こりました。 エルサレムに行く途中、牛のよろめきにより、神の箱が倒れないようにと、神の箱の方に手を伸ばし、押さえたウザが神に罰せられ、即死した出来事でした。瞬く間にパレードは、水を打ったように静まり返りました。その時、ダビデは何か間違っていると気づきました。彼は思いがけない状況に怒りました。ダビデは一体なぜ、腹が立ったのでしょうか?その怒りは神様への怒りでしょうか?それとも、ウザあるいは自分への怒りでしょうか?ここで使われているヘブライ語の動詞は『腹が立つ。怒る。』という意味の他に『気が揉める。気が焦る。』という意味としても使える表現です。怒ったというよりは、気が揉めるに近い意味だと思っても構わないでしょう。なぜなら次の節では、ダビデが神様への『畏れ』を感じたからです。一体何が間違ってたんでしょうか?ウザはただ、その箱を守ろうとしていただけなのに、なぜ、神はそのように厳しく罰を与えられたんでしょうか? 『ヨルダン川を渡るため、民が天幕を後にしたとき、契約の箱を担いだ祭司たちは、民の先頭に立ち、ヨルダン川に達した。』(ヨシュア3:14)神と民の契約の言葉、掟の板が入っていた神の箱は、車で運べるものではありません。必ず、聖なる祭具は祭司たちが肩に担いで運ばなければならないと旧約聖書は証言しています。民数記によると、ケハトの子孫の祭司だけが運ぶことが出来ると定まっています。神様が、その移動方法をそのようにお定めになったからです。正直、人間がしたければ、神の箱は、車でも運ぶことが出来るでしょう。しかし、可能なことと絶対的なことは異なります。神様は御言葉を通して、ご自分の契約の箱を絶対にケハトの子孫の祭司が担って運ぶように指定されました。ケハトの子孫でも、祭司でもなかったウザが死んだことには、そういう理由があったのです。ダビデは、派手な車とパレードは準備しましたが、基本的な神の御言葉への理解が足りませんでした。神様が望まれたことは、華やかな行事ではなく、神の御言葉に忠実に聞き従うことでした。初めは良い意志で神の箱を移そうとしたダビデでしたが、彼の無知のゆえに、結局、ウザは不幸にも死んでしまいました。神様は主の御言葉に心を向けず、見えを張ったやり方を好んでいたイスラエルにお怒りになったのです。 2.世の方式とは違う神の方式。 自分のやり方に問題があると気づくことになったダビデは、その足でオベド・エドムの家に神の箱をしばらく置いておこうとしました。歴代誌上を読んでみると、オベド・エドムが幕屋の門衛であることが分かります。 『祭司たちシェバンヤ、ヨシャファト、ネタンエル、アマサイ、ゼカルヤ、ベナヤ、エリエゼルは、神の箱の前でラッパを鳴らした。オベド・エドムとエヒヤも門衛として神の箱を守った。』(歴代誌上15:24)門衛とは、そんなに派手な役割ではありません。聖なる幕屋の門を守ったり、開けたり閉めたりする人だったでしょう。一生をその幕屋のために奉仕する者だったでしょう。王、大祭司、預言者のような者に比べれば、その影響力が大きい人ではなかったでしょう。しかし、門衛は一生変わらず神の幕屋の門を守る務めでした。認めてくれる人がいなくても、神から与えられた務めを黙々と行う者でした。誰かに認められなくても、オベド・エドムは、ダビデとは違って、神様が定めた通り契約の箱を守ったんでしょう。『あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりは私の神の家の門口に立っているのを選びます。』(詩編84:11) 神の箱がオベド・エドムの家に行った後、三ヶ月が経ったある日、誰かがダビデに『神の箱のゆえに、オベド・エドムの一家とその財産のすべてを主は祝福しておられる。』と告げました。ダビデはその時やっと、神様が前の過ちを赦してくださったと考え、律法に記されているようにケハトの子孫の祭司たちに契約の箱を移させました。『アロンとその子らが、宿営の移動に当たって、聖所とそのすべての聖なる祭具を覆い終わった後、ケハトの子らが来て運搬に取りかかる。』(民数記4:15)いくら名望のあるアーロン家の祭司であっても、聖なる箱を移すことは不可能でした。ただケハト家の祭司だけが、それを遂行することが出来ました。神の御命令だからです。ようやくダビデは華やかな姿を捨てて、律法に記された方式で、純粋な礼拝者の姿で契約の箱を迎えることが出来ました。神様はそのように改めたダビデの方式を認めてくださいました。神様は、御言葉を無視したダビデと3万人の華やかな兵士たちより、黙々と静かに自分の任務を果たしたオベド・エドムを喜んで祝福されました。神様はダビデがオベド・エドムを通して学び、神の言葉に聞き従うことを望まれたのです。 世の多くの人々は、基本を忠実に守らず、自分に相応しくない欲を張ったりします。他人の前で体面を保つために、他人に強がりを言うために、大切なことを忘れ、派手なものに心を奪われたりします。みすぼらしいものは強く拒み、華々しいものに憧れたりします。ある人達は抜きん出た学力により、他人とは違う特別な利益を享受したいという欲望があるでしょう。ある人達には既得権者になって、他人を抑えたいという野望もあるでしょう。教会にも、そのような例はあります。日本の教会の信者たちの中で、米国や韓国の大きな教会を経験した一部の人々は、メガチャーチを望んだあげく、日本の教会を小さいと無視する場合もあるそうです。このように目に見える華やかさだけを追い求める思いが人を可笑しくして行きます。しかし、神様は常に表に見える派手なものより、人と教会の心をご覧になる方です。神様は派手で大きなことよりは、小さくても、正しいことを、もっと愛される方です。 『主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」』(サムエル記上16:7) 3.イエスを通して見られる神のご関心。 聖書は、神がどのような人を愛しておられるのか、主イエスの生涯を通して詳しく示しています。再臨の日、イエスは王の王として、被造物があえて触れることが出来ない権威と力を持って再び来られる方です。しかし、イエスが初めて来られた際は、わざわざ大工の息子として、しかも、飼い葉桶に来られました。彼は公生涯の始めに神ご自身として、華やかに悪魔の3度の試練に勝つことが出来ましたが、神の御心に従い、真面目に御言葉に頼って退けられました。 『イエスは言われた。狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。』(マタイ8:20)彼は神殿や王宮ではなく、むしろ決まったお住まいもなく、民を助けてくださりながら、生活されました。高慢な皇帝と総督など数多くの権力者ではなく、救いを切に望んでいる徴税人や娼婦などの罪人の友達となってくださいました。イエスのご関心は権力者、義人ではなく、弱い者や罪人を招くことにありました。力を持っておられるにも拘わらず、その権力を使わず、おとなしく従って十字架につけられたのです。 『神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。』(ローマ14:17)飲み食いというのは物理的な満足、肉的なやり方を意味します。使徒パウロは神様の方式によって治められている神の国が、どのように成されているのかを説明しました。神様の方式は、物理的、肉的な満足にとどまりません。イエス・キリストはこの言葉のように、神の方式を自ら実践されたのです。イエスは肉的な華やかさより、神が望んでおられるご自分の役割に真面目さをもって取り組まれました。そして、神の御心に聞き従い、十字架でみすぼらしく死んでくださいました。『だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。』(使徒言行録2:36)華やかさを捨てて、真面目に神の御言葉に従ったイエス・キリストは、神の御手によって主キリストとなり、この世界のすべてのものを治める王の王になりました。神のご関心は大きくて派手なところにありません。神のご関心は小さくても真面目で正しいところにあります。非常に小さな神のご命令でも、神の言葉に従おうとする人に神の愛と関心があります。 締め括り 意気揚々として神の命令も正しく守らず、鼻が高くなった帝王ダビデになるより、誰にも認められなくても黙々と命令に従った幕屋の門衛オベド・エドムになりたいと思います。今日のこの言葉を通して、私たちも自分についてもう一度、省みましょう。私たちは、ダビデに近いでしょうか?それとも、オベド・エドムに近いでしょうか?私達はどちらを追い求めて、この世を生きていますか?ただ派手な人生ですか?派手ではないけれど、神のご命令に聞き従う真面目な人生ですか?今日、神様が私たちに望んでおられるのは、果たして、どれでしょうか?安らかさと華やかさを追求している、この時代、この世に生きていく私たちは、世の華やかさにより、神様の小さなお声を聞き逃して生きているのではないでしょうか?華やかで良い物に覆われ、神の御心とは何かについて忘れて生きるよりは、不便であるにも関わらず、神の言葉に真面目に耳を傾ける志免教会になってまいりましょう。この言葉を通して神様の御心をもう一度、顧みることができますように祈り願います。

迫 害

エレミヤ書 15章15節 (旧1206頁) ヨハネによる福音書 15章18-27節(新199頁) 日本の自然はとても美しいと思います。私が世界のあちこちに旅行した結果、アジアでは日本が最も美しい自然を持っていました。私はその中でも、糟屋郡の景色が一番好きです。ボタ山から佐谷に至る志免と須恵の風景、教会の庭で楽しむ星空、若杉山の森と青空、米の山の天辺で眺める玄界灘(げんかいなだ)の夕焼け、何一つも美しくないものはありませんでした。私たちは、このようにあまりにも美しい日本で生きています。しかし、この美しい日本は、実際には戦場であります。目に見えない霊的な戦いが絶えない戦場なのです。神様を知る少数の人々が、神様を知らない空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊と激しく戦っている、恐ろしい戦場であります。しかし、普通の人々は、それを知りません。ひたすらイエス・キリストを信じ、彼を通して神様を知っている私たち、キリスト者だけが、この美しい日本という戦場で苦闘して生きているのです。 神様は千年を一日のように、一日を千年のように、生きておられる方です。千年が一日のような方ですので、百年も生きない人間は、神様の御業を見ることが出来ません。だから、神という存在は全くないと言い、神の存在自体を否定したりします。そのような人間は、自分の力では神を知ることも、見ることも出来ません。そういうわけで、人間は自分らの思想、民族、理念だけが正しいと思いつつ、生きていきます。空中に勢力を持つ者、悪魔はそのような人間の思想、民族、理念を用い、分裂させ、苦しみをもたらします。そのような悪魔に支配されている、この世で、神様を知ることも、見ることも出来ない人たちと一緒に生きていくキリスト者は、必然的に迫害を受けることになっています。彼らとは違う価値観を持って生きていくからです。今日は、イエスを信じる私たちが絶対に避けることが出来ない生き方、迫害を受ける生について皆さんと一緒に分かち合いたいと思います。 1.主の御言葉に従う人は迫害を受ける。 旧約聖書に登場する人物の中で、迫害を受けた者として一番有名な人は多分、エレミヤでしょう。神は生まれる前から彼を選ばれ、彼に預言者としての人生を命じられました。しかし、エレミヤはマイナーな祭司の家柄出身でしたので、彼の社会的な影響力は非常に微々たるものでした。そして当時のイスラエルの民は非常に堕落していましたので、主の御言葉に背く一方でした。彼が宣べ伝えたメッセージは、常に人々に退けられました。エレミヤは自分の故郷でさえ、憎まれた人であり、神の御言葉を宣言する際すら、酷い迫害を受けなければなりませんでした。エレミヤは神様に正式に召され、神のご命令に聞き従い、『イスラエルの民が悔い改めなければ、神の罰によって滅ぼされる。』と絶えず伝えました。しかし、皆、彼の警告を無視する一方でした。結局、エレミヤは、自分の国と民族が滅ぼされることを悲しみと涙で目撃しなければなりませんでした。そのためか、ある人はエレミヤを涙の預言者と呼んだりします。 『主の名を口にすまい、もう、その名によって語るまいと思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。』(エレミヤ20:9)神様がエレミヤに与えられた使命は、むしろ、彼にとって呪いのような苦しみとなりました。いくら伝えても変わらないイスラエルの民を見て、エレミヤは数多くの虚しさと悲しみを感じたでしょう。しかし、その後も、イスラエルは全く変わらなかったのです。しかし、神の命令は厳重で、エレミヤの使命の炎は消えませんでした。『エレミヤが、民のすべての者に語るように主に命じられたことを語り終えると、祭司と預言者たちと民のすべては、彼を捕らえて言った。あなたは死刑に処せられねばならない。』(エレミヤ26:8)彼はその使命に従い、神の言葉を加減なしに伝えたのに、むしろ民は彼を殺そうとしました。 神はエレミヤに、常に正しい御言葉を伝えさせました。民が悔い改めて神に戻ってくるように絶えず伝えさせたのです。しかし、民は自分勝手に振舞い、自分たちの耳に聞きやすい言葉だけを聞こうとしました。そのため、偽預言者たちが偽りの予言を伝え、民を誘惑し、人々は彼らの言葉を好んで聞きました。神様の言葉をそのまま伝えたエレミヤは、むしろ、そのような人々によって甚だしい迫害を受けなければなりませんでした。彼は毎日泣き、苦しみ、悲しみました。正しい道を告げ知らせたエレミヤでしたが、彼に戻ってきたのは、批判と憎しみだけでした。なぜ善良で誠実なエレミヤは迫害を受けたのでしょうか?その理由は、まさに神の御言葉を、ありのままに宣べ伝えたからです。 イスラエルの民が神の言葉より、自分たちの耳に楽しい言葉だけを聞こうとしたため、神の言葉に従おうとしたエレミヤは、激しい迫害と苦しみに生きなければならなかったということです。 2.真剣に主に従おうとするなら迫害は避けられない。 『歴史は繰り返される。』という言葉があります。聖書でも、そのような例を見つけることができます。エレミヤが伝えた警告の言葉に背く一方だったイスラエルは、最終的に滅びました。ユダ王国のゼデキヤ王はバビロンに捕えられ、拷問されて両眼を失いました。王子たちも残酷に殺されました。彼は死ぬまで捕囚として生きなければなりませんでした。神様に聞き従わなかったイスラエルは、そのように滅ぼされたのです。約70年後、バビロンの捕囚から解き放され、再び故郷に帰ってきたイスラエルの民は、祭司エズラを中心とし、過去の罪を悔い改めて真面目に神様に仕えようと誓いました。ところが、数百年の時間が経ち、イエスの時代になると、過去、切に悔い改めたイスラエルの子孫が、しかもエレミヤを尊敬すると言う人々が、神から直接遣わされた者を、もう一度、激しく迫害します。まさにイエス・キリストのことです。 『世はわたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。』(ヨハネ7:7)迫害の理由はエレミヤと同じです。神の言葉に従い、間違ったことを間違っていると話されたのに、人々はその言葉のため、イエスを憎んだのです。主イエスが神の御言葉を加減無く、ありのままに伝えられたからです。 エレミヤとイエスの出来事を通して、私たちは、変わらない真理が分かります。『世の人々にありのままの神の言葉を伝えると憎しみ、すなわち迫害を受ける。』ということです。先ほど、申し上げましたが、この世界は空中に勢力を持つ者に支配されています。空中に勢力を持つ者とは、神様を憎んで反抗する悪魔と呼ばれる悪い霊を意味します。この邪悪な霊は、人間の思想、民族、理念を用い、分裂を起こし、苦しみをもたらします。ところで、そのような悪魔の支配による人間の悪行を、神の言葉を持って、間違っていると指摘すれば、この世は全力で神の言葉に跳ね返ります。その際、神様に属している人は、彼らに迫害を受けます。彼らが神様を憎んでいるから、イエス・キリストを憎んでいるからです。『あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。』(ヨハネ15:19) ヨハネは、イエス・キリストが肉となって来られた神の言葉であると語りました。いつか、私は説教を通して神の言葉、ロゴスの意味は、神の御心、意志、精神だと申し上げました。私は聖書が示している神の御心とは、『すべての人がイエスを信じて救われ、神に戻ってきて、神の下で皆がお互いに愛し合い、イエス・キリストの再臨の時まで、この世界から悪を取り除き、善を成し遂げること。』だと理解しております。神様が御言葉であるイエスを遣わされた理由は、そのイエス・キリストが、その神の御心を成し遂げるための親石となるからです。しかし、先にお話しましたように、神の言葉が、ありのままに伝わって世が変わると、空中の権力を持つ悪い霊が居場所を失ってしまいます。つまり、悪魔は自分たちが生き残るために、神様に正面から反発し、絶えず悪を行うということです。そして、その悪の中、イエスを通して神様に属している者たちを苦しめるのです。そこから来るのが、まさに迫害であります。空中の権力を持つ者と彼らに支配される世が、神様とイエスを憎んでいるので、そのイエスの体である教会と、その教会員も憎まれます。そういうわけで、キリスト者は迫害を避けることが出来ないのです。 3.迫害を恐れてはいけない! もし、私達が本当にイエス・キリストを正しく信じているなら、完全に神に属しているならば、私たちは必然的に迫害を受けつつ、生きていくしかありません。もし、周りの人々に、キリスト者としてのアイデンティティをも見せず、彼らに『キリスト者のあの人は、私たちとは何か違うところがある。』というような評価を全く受けられないほど、キリスト者としての在り方とは関わりのない生活をしているならば、私たちは、自分自身を一度、反省してみる必要があるでしょう。もし、迫害を恐れ、人々の目を恐れ、キリスト者であることを隠すなら、自分自身の評判のために教会を否定するなら、隣人の魂への憐みのために、キリストの福音を伝道しないならば、我々は、自分が本当にイエス・キリストに属しているのかどうか、真剣に省みるべきでしょう。キリスト者に対する迫害は、すでに定まっている事実であり、避けられない道であります。なぜならば、私たちは、この世が憎むイエスに属しているキリスト者だからです。 17世紀、徳川幕府の下で、多くのカトリック信者は迫害を受け、殺されました。キリストへの信仰を守るために、多くの信者が命を掛けました。イエスの顔が描かれている銅板を足で踏むことにより、自分の信仰を諦める踏み絵を拒否し、消えて行った大勢の信者の血が、今も九州のあちこちで叫んでいます。しかし、それとは違って、軍国主義の迫害を恐れ、教会を守るという口実で帝国に屈した日本のプロテスタント教会ではたった一人の殉教者も出さなかったそうです。むしろ、日本の教会は、朝鮮を始め、アジアの植民地の諸教会に神社参拝を強要し、その中で、朝鮮の教会も、その強要に屈して、一緒に神社参拝を行いました。日本キリスト教会は、後日、それを徹底的に反省し、謝罪しましたが、まだ日本にはそんな過去の罪を悔い改めていない教会が、たくさん残っています。また、韓国でも、その偶像崇拝の罪を悔い改めていない教会がたくさんあります。迫害を恐れていた旧日本のプロテスタント教会は日本カトリック教会の殉教の歴史に泥を塗ってしまいました。戦後、韓国の教会は神社参拝の歴史により、四分五裂してしまいました。私たちは、このような迫害に負ける歴史を二度と繰り返してはならないでしょう。 締め括り 『狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。』(マタイ7:13-14)『人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。』(マタイ10:33)私たちが住んでいる美しい日本は霊的な戦場です。そのため、私たちはいつも迫害に晒されています。イエス・キリストは今日も御言葉を通して、キリスト者が受ける迫害について語っておられます。迫害の道は狭いです。しかし、命に至る道です。迫害を避ける道は広いです。しかし、その道は滅びの道です。今日の自分の安らぎために、イエス様が予告された迫害を避けようとする人は、それより恐ろしい神の裁きが待っていることを心に留める必要があります。ヨハネ10章には、『羊は飼い主の声を知っている。』と記されています。私たちが、イエスの守りの下で生きていく喜ばれる民になるためには、イエス様から得る安らぎの道だけではなく、イエスのために得る迫害の道をも進むべきでしょう。主の御言葉を知っているからです。なにとぞ、主の聖霊が私達と一緒におられ、イエスを主と信じている我々、志免教会に迫害に屈しない勇気と信仰をくださるように心から願い、祈ります。

助け主聖霊の予告。

詩編20編7-9節 ヨハネによる福音書14章15-21節 前置き キリスト教が他の宗教に比べて特別なところは、我々が信じる神という存在が、ただ崇拝されるだけで、かけ離れた存在ではなく、私たちと同じ立場で、私たちの弱さと痛みを一緒に背負っておられる方であるということです。もっと詳しく言うと、神と人間の仲介者、イエス・キリストが神側の代表であると同時に、人間側の代表でもあり、神と人間の間に堅固な架橋になってくださるということです。世界のどの宗教も、神と信者の間にそのような関係を結んでいません。神は誰よりも大いなる方、強い方でいらっしゃいますが、自分の子供である信徒たちのためには、自ら小さくなり、弱くなってくださる方であります。それにより口先だけの慰めと愛ではなく、ご自分の体で直接信徒たちの苦痛を背負ってくださる方であります。 もし、神がただ崇拝されることだけを求める存在だったら、神の息子、神ご自身であるイエス・キリストは十字架で死ななかったでしょう。キリスト教の特徴は、まさにそこにあります。キリストが私たちと共におられること、私たちの苦しみを知っておられること、そして私たちの弱さを知っておられること、これにより、私たちは神と繋げられ、もはや一人ではないようになること、私たちの痛みが癒されること、私たちが主によって強くなるということでしょう。主は今日も私たちを愛しておられ、喜んで私たちのために損害を甘受してくださる、私たちの家族、父、兄弟、助けてくださる方になってくださいます。それでは、主はどのような方法で、人間と一つになり、私たちの痛みを感じられ、私たちの助けになってくださるでしょうか? 1.聖霊を送って私たちと一つになってくださる主。 聖書で、聖霊は、しばしば油に例えられます。特に、使徒言行録では油注がれたという表現で、聖霊の臨在を示すこともあります。『ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。』(使徒言行録10:38)ここで『によって』として翻訳されたギリシャ語は、もともと、『何かを塗る。』という意味として使われる表現です。『聖霊と力が、まるで油のように主イエスに塗られた。』という意味でしょう。もちろん、聖霊は油ではありません。ここでの油は、神が旧約時代の王、祭司、預言者を選ばれる際に、行われた特定の行為に用いられた材料に基づいた言葉です。『油の壺を取って彼の頭に注いで言いなさい。主はこう言われる。わたしはあなたに油を注ぎ、あなたをイスラエルの王とすると。』(列王記下9:3) 先ほど読んだ言葉には、イスラエルの王だけが登場していますが、旧約聖書をよく読んでみると、王だけでなく、祭司、預言者まで、皆が神が命じられたように、油を注がれて、自分の役割を果たしたことが分かります。王、祭司、預言者はめいめい自分の場所で、神に代わって、神の統治を示す仕事をしていた者です。王は自分の権力と名誉のために働いていた者ではなく、真の王である神の統治を代理に行うメッセンジャーだったというわけです。祭司は神と民の間で民の代表となって、神に生け贄をささげた者でした。預言者は王と祭司、民に生きておられる神の厳重な言葉を伝える者でした。彼らが、その務めを上手く行う際に、神は民を惜しげもなく助けてくださり、油そそがれた者とその民に平安と幸福を許されたのです。  彼らが神に油注がれた理由は、自分のためではなく、民への神の統治を示すために、神と民のお交わりのために、神の御言葉を民に伝えるために、ひたすら神の手と足となるためでした。つまり、神は王、祭司、預言者のような油注がれた者たちの務めを通して民の中におられることを示され、油注がれた者たちは、自分らの務めを通して人々に神の臨在と統治を示したということです。その中で、神はご自分の民を祝福されたのです。民に聖霊が臨まれるということは、このような油注ぎと似ています。聖霊が民に臨まれるというのは、神ご自身の統治を現わし、民に崇められ、民に御言葉を伝えられることを意味します。つまり、聖霊が私たちの中にいらっしゃること、聖霊の臨在は民と一つになられ、その民を助けてくださる神の存在をリアルタイムで民に見せてくださり、祝福してくださることを意味するものです。 2.聖霊を通して主が我らの間に、我らが主の中に。 旧約の油注ぎは象徴性を持った行為です。神ご自身の僕に油を注いでくださることは、神の聖霊が彼に臨まれ、その僕が神の力を持って神の御働きをするようになるということです。あの有名なモーセも、ダビデも、士師も、最終的にイエス・キリストも油注ぎという象徴性を持つ聖霊の存在により、自分たちの務めをし、それを成し遂げたのです。そして、かれらを通して民は祝福を受けたのです。つまり、油注がれるということは、聖霊が神のメッセンジャーに強く臨まれ、豊かな神の力の中で、神の御業をするために選ばれること、そして、それを通して人々に神の祝福を流すことを意味するものです。 今日の旧約本文は油注がれた者への神のお助けについて、こう描いています。『今、わたしは知った、主は油注がれた方に勝利を授け、聖なる天から彼に答えて、右の御手による救いの力を示されることを。』(詩篇20:7)詩篇20篇は、神が立てられた帝王、メシアが神のお助けのもと、勝利を勝ち取ることを褒め称える帝王詩であります。神はご自分が立てられた油注がれた者をお助けくださり、勝利を与えてくださるでしょう。これは新約まで繋がり、神から遣わされたキリスト、イエスに成し遂げられる予言でもあります。神のメッセンジャー、油注がれた者は、自分の力と考えに従っては、務めません。神の聖霊のお導きのもとで、神の御心に聞き従うことによって、自分に委ねられたことを行うだけです。そして、その行ないの中心には、聖霊の主権的なお助けがあります。 先週の説教を通して、我々は、イエス・キリストによって歴史の外におられる神を歴史の中で知ることになると学びました。その神と人間の間に入ってこられ、お互いを取り結んででくださったイエス・キリストは、神の油注がれた者であって、聖霊の臨在の中で働いておられる方です。このイエス様によって来られた聖霊を通して、私たちは神を悟るようになり、神の中にいるようになり、神の祝福を受けるようになります。また、このイエスを通して来られた聖霊によって父なる神は、私たちの間にとどまってくださいます。神とイエス・キリストから送られた、この聖霊は、イエス・キリストを通して、私たちの中にとどまってくださるようになり、まるで私たちが旧約の油注がれた者のように、神のメッセンジャーとして生きることができるように私たちを導いてくださいます。聖霊が私たちに臨まれたということは、もはや自分のために、私一人だけのために生きるのではなく、私たちの生活を通して神様の偉大な御業が行われるということを意味するものです。 3.聖霊の御働き。 『わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。』(ヨハネ14:16)旧約の王、祭司、預言者たちに注がれた油は、メシア、イエス・キリストにも注がれ、今ではそのイエス・キリストを通して、彼を信じる新約の信徒たちにも注がれています。今や油という象徴ではなく、本物の聖霊が私たちの内に臨んでおられるのです。これに対してイエスは、「イエス・キリスト、ご自身ではなく、別の助け主、聖霊が来られる。」と言われました。『この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。』(ヨハネ14:17)この聖霊は、誰にも臨まれる方ではありません。ただ、イエスを通して、イエスを信じる者だけに来られる方です。これは聖霊が歴史の外に戻り、玉座に行かれたイエスの霊として来られ、この世界の終わりまで、イエス・キリストを信じる者達に臨まれ、共に歩んで行かれることを意味します。 『はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。』(ヨハネ14:12)肉体を持ったイエスは、もはや私たちの隣におられなくなりましたけれども、そのイエスを通して助け主である聖霊が私たちの内に来られるようになったということです。イエス・キリストは肉体を持った方ですので、お疲れを感じ、痛みを感じる弱さを持っておられましたが、霊である聖霊は、それとは違います。聖霊はイエスの御心を持っていますが、肉体ではなく霊でいらっしゃいますので強力な神の力を持って、私たちの内にいらっしゃる方です。その聖霊が私たちの内に、イエスの心をくださり、イエスの力をくださり、イエスの手と足として、主の御業を代わりにさせてくださり、それより大きな業が出来るようにしてくださるのです。私たちの心に聖霊がおられますので、私達はイエスを信じるようになり、隣人のために善を行なうようになり、神を愛するようになり、神が感じられるようになるのです。 『わたしは、あなたがたを孤児にはして置かない。あなた方のところに戻って来る。』(ヨハネ12:18)イエスの代わりに、私たちの内におられる聖霊は、また御父の御心をも、私たちに教えてくださいます。私たちは、私たちの願いによってはこの世に生まれてはいません。ある人は、生まれてから今まで事欠くことなく、安らかに生きてきたかも知れません。しかし、ある人は肉体的にも、精神的にもあまりにも苦しく生きてきたかも知れません。時には死にたいほど絶望した時もあるでしょう。しかし、聖霊が私たちの内におられれば、その聖霊を通して御父の愛と慰めが私たちのところに来ます。この世の中に、私たちが一人ぼっちのように残されたと感じられる時、御父は私たちを息子よ!娘よ!と聖霊を通して呼び掛けてくださいます。私たちは、孤児ではありません。父なる神の御心を持っておられる聖霊が今も私たちの間に一緒におられるからです。 締め括り イエス・キリストはこのように聖霊という助け主が来られるということの予告を通して弟子たちを慰めてくださいました。これは、今の私達においては、すでに聖霊が私たちの内におられるということを意味します。実際に使徒言行録では、聖霊が臨在されたことを証言しています。旧約聖書の聖霊は、特別に選ばれた油注がれた者に許されましたが、しかし、今ではイエスを通して、イエスを信じるすべての人に許される方であります。今日も聖霊は、私たちがイエスを信じるように導いてくださり、御言葉が分かるように教えてくださり、神と隣人を愛するようにさせてくださり、私たちが福音を伝えることが出来るように助けてくださいます。 先週、私たちは『お互いに愛すること』を通して歴史の外におられる神に会えると学びました。聖霊も同じだと思います。私たちが『互いに愛し合うこと』によって、イエス・キリストの新しい戒めを守る時、その愛の中で聖霊はお働きになるでしょう。その愛の中で、父なる神の御心を示してくださり、その愛の中で、イエスの愛を示してくださり、その愛の中で、私たちが主の御業をすることが出来るよう助けてくださるでしょう。私たちの生活の中に聖霊がおられます。この聖霊を通して私たちは、今日も神の御業を代わりに行うことが出来ます。聖霊を通して私たちの内におられ、私たちを祝福してくださるイエスに頼ってまいりましょう。私たちは決して一人ではありません。いつまでも聖霊が私たちと一緒におられるからです。

歴史を超える神の恵み。

イザヤ55章6-9節 ヨハネによる福音書 13章31-35節 すべての人は、歴史の中に生きていきます。すべての生き物や物事には歴史が潜んでいます。庭の草一本にも、この志免教会にも、皆さんお一人お一人にも歴史があります。すべての個人の歴史が集まり、九州の歴史、日本の歴史、地球の歴史、最終的に1つの巨大な歴史が成り立ちます。先日、インターネットで『歴史とは、すべての科学の基である。』という言葉を見ました。誰の言葉かは分かりませんが、確かにそうだと思いました。私たちは、科学を考える際に、ロボット、宇宙船などを思い浮かべる傾向があります。しかし、科学という言葉は、より広い意味で『原因と結果が明らかな何か。』を意味します。数学、物理学、生物学のように一定の対象を客観的に研究するというのが科学なんです。なので科学は、主に人々の予測範囲の内で行われるものであります。だから、科学の基となる歴史というのも、原因と結果が明らかであると思います。つまり歴史というものも、結局ある程度、人間の予測の内にあるということです。 その反面、神様は歴史の外におられる方です。人々が同じ題名で一緒に祈っても、ある人は一日で祈りが叶う一方で、ある人は、10年間祈っても叶わない場合があります。また、人間が精一杯、神の御心を知ろうとしても全く知ることが出来ないこともあります。なぜなら神様は定められた予測の中に、つまり歴史の中におられる方ではないからです。いくら、全世界の70億の人口が頭を寄せ合って工夫をしても、主の深い御心を知ることは出来ません。なので、神様は、イザヤ書を通してこう言われます。『天が地を高く超えているようにわたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。』神様は歴史の外におられる方です。神のお考えを人間が知り抜くことは不可能です。ヨハネによる福音書の後半を飾る十字架の福音も同じです。歴史の外にありますので、人間が全く理解できない神秘的なものです。今日はこの歴史の外におられる神様が歴史の中に、イエスを遣わされ、何をなさったのかについて考えてみたいと思います。 1.人の手で触れることが出来ない全能の神様。 神様はこの世界を創造し、秩序をくださった方でいらっしゃいます。世界を創造された主は、この世界のすべてをご存知でいらっしゃる方です。彼はいつも世界の外から、全世界を一目で眺めておられる創り主であるからです。被造物は、歴史という領域の中で生きていますが、この歴史というのは、時間と空間によって構成されています。時間と空間を創造された神様は、歴史をも造られ、その中にすべての被造物を置かれました。ですので、被造物は、その時間と空間によって成り立つ歴史に逆らうことが出来ません。さらに、人間は歴史の外におられる全能の神様を知ることも出来ず、探すことも出来ません。偉大な神様は、時間と空間を超越する方、私達の畏れるべき方であります。 つまり、これは人間が先に神様を見つけることが決して出来ないということを意味します。人間の科学が発達して遠い宇宙に飛んで行っても、そこで神様を見出だすことは出来ません。人間が地球の中心部まで掘り下げて行っても、そこに神を見つけることは出来ません。人間の手の届くところは、時空の歴史の中だけに存在するからです。 『全能者を見いだすことはわたしたちにはできない。神は優れた力をもって治めておられる。』(ヨブ37:23)ですから、人は神様の御心を知ることが出来ません。個人的な話ですが、昨年の今頃、私は夜のお祈りをする際に神様に問い質したことがあります。私は当時、非常に怒っていました。 『神様!日本のキリスト教会は、欲張らず、政治との癒着もなく、誠実に神に信頼していると思います。なのに、なぜこのように牧師が足りないのですか?なぜ、このように未来が危うくならなければならないのですか?神様は、日本の教会のために何をしておられるんですか?あなたは本当に働いておられるんですか?』 私は、全く理解できませんでした。全能者と呼ばれる神様は、ご自分の民と共におられると聖書は常に証言しているのに、神様は、日本のキリスト教会のために、一体何をしておられるのか分かりませんでした。恥ずかしい話ですが、韓国ではカトリックとプロテスタントを含め、全人口の三割に近いかなりの人々が神を信じていますが、日本の教会と比べれば、政治、社会的な不条理が本当に多いと思います。それに比べて、日本の教会は、とても綺麗で真面目であると思います。それにも拘わらず、日本の教会を1%未満の小さな群れに放って置かれる理由が分かりませんでした。その翌日、聖書を読んでいる時、神様は御言葉を通して私にお答えくださいました。 『どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩』(イザヤ26:4)その日、私はやっと気づきました。 『私が考えている現実は、おそらく神様が考えておられる現実とは異なるかも知れないな。神のお考えは、私たちの考えとは全く違うだろうな』と。その御言葉をいただき、悔い改めた記憶があります 。 2.歴史の外で栄光を収められる神様。 今日の新約本文はエルサレムに入城されたイエス・キリストが亡くなる前に、弟子たちの足を洗ってくださり、一緒に聖晩餐を施される箇所の最後の場面であります。 3年間、一緒に生活した弟子の1人イスカリオテのユダがイエスを売り渡すために席を蹴っていく場面です。私達は、すでにイエスがご自分の民を救われるために、死ぬために来られた方であることを学んで知っています。イエス様が必ず十字架につけられるということ、そのためにユダが必ずイエスを裏切らなければならないということをも、よく知っています。しかし、私たちと違ってそれを知らなかった、当時の弟子たちにとって、イエスの死とユダの裏切りは、想像も出来ないほどの心苦しいことだったでしょう。たとえば、今、一緒に礼拝している志免教会員の一人が突然、立ち上がって外に出て、信仰を捨てれば、私たちの心はどうなるでしょうか?しかし、主は、すでにユダの裏切り、ご自分の犠牲をすべて知っておられました。 主はまるで、すべてをご存知であったように不思議なお話をなさいました。『ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。』(ヨハネ13:31)3年間、一緒にいた人が突然、走って出て行ったのに、しかもイエスを売り渡すために出て行ったのに、歴史の外の神様、全てを知っておられるイエス様は、なぜご自分が栄光を受けたと仰るのでしょうか?そして、なぜ、このイエス様によって、神様が栄光を受けられたと仰るのでしょうか?まず、栄光という言葉を取り上げてみましょう。私たちは、栄光という言葉を聞くとき、輝かしくて素敵な何かを思い浮かべたりします。もちろん栄光という言葉は、その意味をも持っています。しかし、別の意味も持っています。栄光とはギリシャ語で「ドクサ」と言いますが、この言葉は「ドケオー」に基づいた言葉です。 「ドケオー」は、『 – に見える。』 『- と思われる』という意味です。つまり、栄光というのは、その栄光の持ち主が – に見えるとき、 – と思われるとき、完全に輝けるという意味です。 神様が神様のお働きをされ、神らしく見えるとき、なので、神様が神様として思われる時、神の栄光は一番明るく輝くのです。すべてのことを計画される父なる神様の、そのご計画が成し遂げられた時、父なる神様の栄光は、光るのです。世の罪と罪責を解決するために、御父のご計画通り来られた御子が、罪と罪責を完全に解決するために十字架につけられ、ご自分の役割を果たされる時、御子の栄光は、明るく輝くでしょう。つまり、イエス様がイスカリオテのユダによって売られてしまったのは、人間の目には、惨めな最後のように見えましたが、神様とイエス様の目には、ご計画の達成として見えたということです。その計画によって行われたイエスの十字架の死は、人間には終わりでしたが、神様には終わりではなく、栄光の新しい歴史の始まりだったというわけです。そのすべては、人間が理解できない、神様の偉大なご計画でした。人間のための神様のご計画、イエスの死が、結局イエスの栄光となる逆説性、イエスの死によって御父の御心が成し遂げられ、神様の栄光が輝くようになったという逆説性、それは時空間の歴史の中に生きていく人間には絶対に理解できない、神の意義深い計画でした。 3.愛を通してご自分の民と会ってくださる愛の神。 『子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。わたしが行く所にあなたたちは来ることができないとユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。 』(ヨハネ13:33)ユダの裏切り、イエスの死はややもすれば、すべてが終わるように見えたかも知れませんが、歴史の外から歴史を眺めておられる神様には、より大きな栄光と成功のための一歩前進でした。その一歩、十字架の死によって人間を救われたイエス様は、もはや貧しくて弱く見えた最初のイエスではなく、再臨される王の中の王として栄光を受けられることでしょう。そうすれば、彼は歴史の外に、神の玉座にある元の場所に戻って行かれ、世界を治められるでしょう。時空間を超越する全能の神になられるでしょう。その歴史の外に弟子たちは、出て行くことが出来ません。そこは神の場所だからです。その代わりに、イエス・キリストは歴史の外におられるご自身と歴史の中にいる弟子たちが交わることが出来る方法を教えてくださいました。それは正にお互いに愛しあうことなんです。 『あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。』(ヨハネ13:34)イエス・キリストは、十字架での死と復活の後、弟子たちが来ることが出来ない場所に行かれるでしょう。そこは時空間と歴史を超越した神様の場所であるからです。しかし、主はそこで弟子たちと新しい掟、愛を持って弟子たちとお交わりなさるでしょう。ここで、新しい掟とは何でしょうか?ギリシャ語には、二つの新しいという言葉があります。 「ネオス」と「カイノス」です。 「ネオス」は『ニュース』の語源ですが、順序的な新しさ、日本語では言葉通り『新しい』を意味するものです。「カイノス」は、過去から存在していたが、まだ実現できなかったものが、最終的に実現されて質的に更新するという、日本語では『新たな』に近い意味を持っている言葉です。そのため、Ⅱコリントでは『だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。』(Ⅱコリント5:17)とあります。過去からあったものが、何かによって新たになったという意味で使われます。もともと存在していたものが、イエス・キリストを通して、新たに更新されるという意味です。これが「カイノス」、新しいという意味です。 このように完全に新しくなった掟、主が与えられた新しい掟が、正に『イエス・キリストの中でお互いに愛すること』であります。新しい掟というのは過去からずっと続いてきた神様の掟、律法が更新されたということです。それが正に「互いに愛しあいなさい。」ということです。イエス・キリストを信じる主の弟子たちが、このような愛を持ってお互いに仕え、愛する時、主は主の弟子、教会とお交わりくださるのです。それによって世界はイエスの弟子たちを通して、歴史の外から世界を見ておられるイエスを、歴史の中でも見出すことが出来るようになります。『あのキリスト者、素晴らしくない?あの人を見てたら、イエス・キリストは本当に存在すると思うわ。』というように。イエス・キリストは神のご計画に聞き従って、十字架で自分を捧げました。そして、そのイエスを通して彼を信じる者は、神の赦しを受けました。歴史の外におられる神様は、そのようなイエスの死と罪の赦しを通して、歴史の中の神の子らを再び呼んでくださったのです。これが神様の栄光になりました。人間は歴史の中で、歴史の外におられる神を見ることが出来ません。しかしイエス・キリストから得た、互いに愛しあうという新しい掟を通して、人間は歴史の外におられる全能の神に会うことが出来るようになったのです。 歴史を超える神の恵み。 今日の旧約本文では『主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。』(イザヤ55:6)という言葉が出てきます。私たちが、主を尋ね求めるべき時はいつでしょうか?彼が私たちの近くにおられるうちはいつでしょうか?イエス・キリストが歴史の外から歴史を引き裂かれ、私たちにこられ、主の言葉を通して、私たちを召される時です。主の御言葉を通して福音が宣べ伝えられている、今です。私たちは、決して歴史の外におられる神様に行くことが出来ませんが、イエス・キリストが歴史を引き裂かれ、歴史に入って、私たちを召されるとき、私たちはそのイエスを通して神に会うことが出来ます。神のお考えは、私たちの考えとは異なります。ですから、私たちは、神の御心を到底理解できない時もあるでしょう。 しかし、神様は、イエス・キリストを通して、私たちが神様を知り、彼の御心を悟ることが出来る道を与えてくださいました。歴史を引き裂かれて、私たちに来られたイエス・キリストは、神様と人間をつなぐ唯一の架け橋になってくださいます。この日本で、地球でイエスを信じるということは、掛け替えのない祝福であります。誰が歴史の外におられる全能の神と繋がることが出来るでしょうか?私たちを神様につないでくださったイエス様を信頼し、最後まで神様を信頼してまいりましょう。そして、このイエスを志免と須恵に住んでいる近所の人々に伝えて生きて行きましょう。来たる一週間、神様を信頼して生きる志免教会になりますように祈り、願います。

必生即死、必死即生。

ダニエル書4章1-15節(旧1385頁) ヨハネによる福音書 12章20-26節(新192頁) 前置き 今日の説教の題は、日本ではあまり使っていない言葉だと思っています。「必生即死、生きようとする者は必ず死ぬものであり、必死即生、死のうとする者は必ず生きるものである。」という意味で、韓国では、頻繁に使われる漢字語です。世の中に死ぬために生まれる人はいないでしょう。寿命が尽きるまで、生きていく途中、神に召され、世を去ることは当たり前なことだと思いますが、世の誰も早く死のうと思う人はいないでしょう。しかし、時には人が死を覚悟する時もあると思います。戦時中に親が子供を守るために代わって死ぬこと、愛する友人や恋人を生かすために代わって命を投げ出すこと、あるいはイエス・キリストのように、罪人を愛し、救うために自ら十字架の道を選ぶことなどがそのような場合でしょう。 神の国で認められる高い価値の一つは、人が自分だけのために生きることではなく、他人も愛して生きることだと思います。自分だけのために生きていく人は、自分の利益のために他人を死に至らしめることもありますが、他人も愛して生きる人は、他人のために自分を犠牲にすることもあるからです。神様は自分だけのために他人を犠牲にする者を決して赦されない方であり、他人のために自分を犠牲にする人の犠牲を非常に大切にされる方であります。イエス・キリストの犠牲と愛によって建てられた神の国は、今日もキリストの体なる教会の、他者への愛と犠牲によって広げられていきます。自分だけのために生きようとする者は、神様に憎まれるでしょう。隣人のために犠牲を覚悟する者は、神に褒められるでしょう。なぜならば、主イエス・キリストが、そのような御教えと足跡を残されたからです。そのような犠牲と愛はヨハネによる福音書の12章以降に示されるイエス・キリストの十字架の死で、さらに明らかに現れるからです。 1.世に逆らうイエスの御教え。 ラザロを生き返らせたイエスの噂は、エルサレムとイスラエルを越えて遠い地域まで伝えられます。そのためか、今日の新約本文ではギリシア人たちがイエスに会うために来たと記されています。『ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。』(コリント1:22-24)哲学が発達し、知恵を追い求めていたギリシアの文化圏から、ギリシア人がイエスを訪ねてきたというのは、驚くべきことでした。イエス・キリストの福音、「主を信じる者は神様に赦される。主を信じる者は神様に永遠の命を与えられる。主を信じる者は死んでも生きる。」という話は、哲学的な思考を持っていたギリシア人には話にならない愚かな言葉だったからです。しかし、ラザロが生き返ったという噂を聞いた何人かのギリシア人は、哲学と知恵に対する自分らの常識を超えることが、イエス・キリストによって起きたことを悟り、イエス様を訪ねてきたのでしょう。 古代ギリシアの神々は、道徳的ではなく、人間のように罪を犯す存在として描かれました。つまり、完全性が期待できない存在でした。あの有名なゼウスは、他人の妻を寝取り、他の神々も互いに騙し合い、殺し合おうとしました。道徳的にも、能力的にも完璧ではないギリシアの神々には限りがありました。このような完全に失敗した神々への懐疑感により、ギリシアでは、神への探究が活発に起こり、そのような神への懐疑と反感によって、人間への研究が活発に起きたのです。そのため、ギリシアの文化では、神への盲目的な崇拝より、人間を研究する哲学が発達したというわけです。そんなギリシア人にとって、完全無欠なイスラエルの神認識は愚かなものでした。ところが、そのような愚かな神認識のイスラエルで誰かが人を蘇らせたという噂は、彼らに新鮮な衝撃として迫ってきたことでしょう。そういう理由で、ギリシア人は、イエスに会いに来たのかもしれません。 古代の神話で神々は、自分らだけのために、人間を使いました。人間の命は大事にしませんでした。神々は人間を愛さず、ただ用いただけです。しかし、イエス・キリストの父なる神様は、彼らと違いました。弱い者を愛しておられ、命を与えてくださる方でした。そのような神の御心は、イエス・キリストの一言を通して伝わりました。『自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。』(ヨハネ12:25)この言葉を実践でもするかのように、神は自らご自分の命を憎んでまで、人間を愛されました。そのため、神は、最愛の御子イエス・キリストを人間のために死なせたのです。古代の神々とは違い、人間を愛した神、その神の御子イエスはご自分の命を捧げて人間を愛されました。イエスの他者のための死は、自分だけを大切にする、この世の教えに逆らう革命でした。 2.神の力。 旧約聖書の時代は、戦争と帝国の歴史でした。エジプト、アッシリヤ、バビロン、ギリシア、ペルシア、ローマ等の帝国が軍事力で他の国を征服し、被害を負わせながら、自分らの領土を広げていった暴力と戦争の歴史でした。古代帝国は、自分たちが仕える神々が強ければ他の国との戦争に勝利し、その神々が弱ければ、他の国との戦争に敗北すると思いました。また、その神々の息子、あるいはその神々が人間になった者が皇帝だと思っていました。そのため、自分たちの神々と自国の強さを証明するために古代人は多くの戦争を起こし、領土を広げていこうとしたのです。今日、旧約聖書に登場するネブカドネツァルも、そのような皇帝の1人でした。ネブカドネツァルはバビロンの皇帝でした。彼は今のサウジアラビア、イラク一帯を支配していた強力な皇帝でした。 ところで、ある日、このネブカドネツァルが不思議な夢を見ることになります。彼の夢に、一本の大きな木が登場します。葉っぱは美しく茂り、実は豊かに実り、すべてを養うに足るほどの木でした。その木の陰に野の獣が宿り、枝には鳥が巣を作り、生き物はみな、この木によって食べ物を得ていました。しかし、空から聖なる見張りの天使が降って来て、『この木を切り倒し、枝を払い葉を散らし、実を落とせ。その木陰から獣を、その枝から鳥を追い払え。』(ダニエル4: 11)と叫んだのです。つまり、その大きな木が滅ぼされるという意味でした。ダニエルは、その木がネブカドネツァル、本人だと解釈し、高慢なネブカドネツァルが神様に裁かれると予告しました。一年後、ダニエルの解釈のように高慢な言動を発したネブカドネツァルは、神に裁かれ、彼の権威は瞬く間に潰れてしまいました。そして、数年後には、バビロン帝国自体がペルシアによって滅ぼされてしまいました。ダニエル書は、その強大な帝国バビロンと皇帝ネブカドネツァルに罰を与えられた神様の力について、こう語っています。『その支配は永遠に続き、その国は代々に及ぶ。すべて地に住む者は無に等しい。天の軍勢をも地に住む者をも御旨のままにされる。その手を押さえて何をするのかと言いうる者はだれもいない。』(ダニエル4:31-32) 預言者イザヤは、人間について『草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。』(イザヤ40:7)と話しました。人間の力がいくら強くても、その力は永遠ではありません。そして、その権威は神様のご判断とご処分に従って、たやすく壊れてしまいます。だから、この世のすべては神の御前で謙虚であるべきです。しかし、まだ、世の国は、自分の栄光のために、弱い国を踏みにじり、弱い国の血を用いて、自国を大きくしようとしています。世の人々の中にも、そんな動きがあると思います。自分の利益のために、弱者の物を奪い、自分の権力、名誉、富を大きくしようとする人が多いと思います。しかし、このような高慢な国と人間に、神様は威圧するように言われます。『他国、他人を軽蔑し、困らせる高ぶる者よ、私にとってお前は無に等しい。天の軍勢をも、地に住む者をも、私は私の旨のままに裁く。私の手を押さえて何をするのかと言いうる者は誰もいない。』神様は誰よりも大いなる方、強力な方であります。世の誰も神様の御心を妨げることは、決して出来ないでしょう。 3.ご自分を犠牲にして他人を生かす神の恵み。 このように、神様は人間が想像も出来ないほどの力を持って、今日も全世界を支配しておられる方です。主はすべてを成し遂げることが出来る力を持っておられます。しかし、この神様は、ご自分の強大な力で弱い者を抑圧される方ではありません。高慢で自分のことしか知らない強い者には、はるかに強い方であられますが、弱くて苦しんでいる者には愛を持って訪れる方です。神様は人が強い力によって屈服することではなく、神の言葉と恵みによって、変わることをより喜ばれる方です。だから、神様は財物と権力を持って身勝手に振舞う大きな教会より、小さくても謙虚に主を信じ、善を行う教会を、さらに愛されます。この神様の代表として来られた主イエス・キリストは、あまりにも弱い姿でこの地に来られました。そして他人のために犠牲になられました。強大な力があるにも拘わらず、弱い者のため、病んでいる者を生かすため、自ら一番小さな者の姿をして来られました。主は自ら一粒の麦になって来られました。『はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。』(ヨハネ12:24)主イエスは死ぬまで、ご自分の利益ではなく、神と隣人の利益のために、自ら一粒の麦になってご自分の命を捨てられたのです。 イエス・キリストは神のご計画の前に、自分の主張を強調しませんでした。イエス・キリストは生きようと足掻きませんでした。イエス・キリストは死を控えて、父なる神のご計画に聞き従いました。他人を生き返らせ、ご自分のように従順に従う民を生まれさせるために一粒の麦になり、ご自分の命を捧げました。すなわち、主イエスは死ぬために来られたということです。自ら自己を否むために来られたのです。命を捧げたイエス・キリストの犠牲によって、多くの人々が赦されました。『彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。』(イザヤ53:5)神様は、強い民を必要としておられない方です。神様、ご自身が一番強い方であるからです。ただし、神様は自ら一粒の麦のようになり、犠牲になって多くの実を結ぶ民、神に自分を捧げる民を望んでおられます。だから、神の民、教会は力ではなく、従順に生きる共同体です。教会の頭なるイエス・キリストがなさったように、主イエスの教会は自らを犠牲にし、神と隣人に仕える共同体です。 自分だけのために生きようとする者は、神様に裁かれるでしょう。他人のために死のうとする者は、神の恵みによって生きるでしょう。自分が一粒の麦となり、自分の利益だけでなく、近所の人々のことも一緒に考え、仕えて生きる時、神様は喜んで祝福してくださるでしょう。今日、私たちが落ちて、主に私達を捧げるべき所はどこでしょうか?私たちが自分を犠牲にし、他人を生かそうとする時に、神様は多くの実りを持って、私たちを祝福してくださるでしょう。『わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。』(ヨハネ12:26)イエス・キリストが行かれた道、自ら一粒の麦になり、ご自分を犠牲にされた道、その道の上にイエス・キリストを信じ、仕える者も立っているでしょう。その道で、イエスに従って生きていく時、イエス・キリストの父なる神様は、私たちを大切にしてくださるでしょう。今日、私たちは、果たしてどこに立っているでしょうか?めいめい自分を顧みる時間になることを願います。 締め括り キリスト者の生活は、イエス・キリストが行かれた道に従って生きることです。イエスの道には数多くの苦難が伴います。その道は、幸せばかりの道ではありません。その道は安らぎばかりの道でもありません。しかし、その道には必ず神様の祝福があり、その道には必ず神様の慰めがあるでしょう。イエス・キリストは、直接、ご自分の命を捧げられましたが、いまのところ、私たちは命を捧げることまでは難しいでしょう。しかし、少なくとも、心だけは、命を捧げる覚悟を持って、自分の被害と苦痛に耐え、他人のために生きる人生、キリストを伝える人生にすべく取り組むべきでしょう。必生即死、自分のために生きようとする者は必ず死に、必死即生、主と他人のために死のうとする者は必ず生きるでしょう。自分自身を神様に捧げる人生、私の命を捧げ、他人に仕える人生、私たちの人生を通して、イエス・キリストの香りが、その十字架の愛が、私たちの志免町に広まることを願います。

永遠の命の水が湧き出る。

ゼカリヤ書14章6-9節, ヨハネによる福音書 4章3‐14節 三浦綾子の改心。 戦後、結婚を控えていた三浦綾子は思いも寄らなかった肺結核の診断を受けることになりました。そして、それから十数年の長い長い闘病生活を始めることになります。長い間の病魔の痛みと虚無主義により、生きる理由を見失った彼女は、死にたいと思うほど精神的に衰えていきました。そのような時、一緒に闘病生活を見守った幼なじみの前川は献身的に彼女に仕えてくれました。彼はキリスト者でした。三浦綾子は、彼の支えにより、ただの恋ではなく、本当の愛を発見しました。しかし、前川は長い闘病生活のあげく、結局、先に神様に召されることになりました。三浦綾子はこのように彼を追憶しました。『わたしはその時、彼のわたしへの愛が、全身を刺しつらぬくのを感じた。そしてその愛が、単なる男と女の愛ではないのを感じた。私はかつて知らなかった光を見たような気がした。彼の背後にある不思議な光は何だろうと思った。私を女としてではなく、人間として、人格として愛してくれた、この人の信ずるキリストを私は私なりに尋ね求めたいと思った。』三浦綾子は前川の信仰と生涯を記念し、受け継ぐために病床で文章を書きました。そして、困難な状況にある人に希望とキリストの愛を伝えようと誓いました。後日、病気が全快した彼女は、一生の間に多くの小説を通して日本だけでなく、全世界に福音を伝える偉大な作家として生きるようになりました。 1.疎外された者を探しておられるイエス。 私は話を聞いただけですが、皆さんは私より遥かに戦後日本の状況について詳しく知っておられると思います。何年か前、「力道山」という映画を見たことがあります。その映画では終戦当時の日本が、戦争により、肉体的にも精神的にも疲弊した状態で描かれていました。このような時期に病気にかかっていた三浦綾子は、まるで戦争によって弱くなっていた戦後の日本のように、病気の痛みを経験していたのです。ところで、日本のキリスト教の歴史書では、この時期、日本に爆発的な教会の成長があったと記されています。慰めと癒しが必要だった時に、ちょうど良くアメリカから多くの宣教師が入って来て、また日本の教会によって、多くの人々がキリスト教の信仰を持つようになったと記されていました。三浦綾子もその時、1人のキリスト者の献身を通して、キリストに出会い、偉大なキリスト者の小説家になったのです。そのためか、三浦綾子の人生と戦後の日本がオーバーラップされて見えました。虚しさと悲しみに苦しめられた三浦綾子は自分の友人が与えた愛により、イエスに出会い、イエスは疎外された彼女に光を照らしてくださいました。戦後の痛みと虚しさに陥った日本でも、福音を通して多くの人々がイエスを信じるようになりました。 このように、イエスの関心はいつも最も疎外されたところ、低いところにあります。イエスはそのような関心を持って三浦綾子を訪ね、彼女に信仰を与えられたのです。戦争という悲劇の後に、日本に信仰者が多くなったのもそのような主の愛のためではないでしょうか?今日ヨハネによる福音書には、そのような疎外されて苦しんでいる女が登場します。彼女は当時のユダヤ人に不浄な場所として受けとめられていたサマリア出身で、5人の夫とつぎつぎ 離婚し、今では夫ではない人と暮らしていました。彼女は不浄な村に住んでいる不浄な女だったのです。サマリアは北イスラエルが滅ぼされた時、アッシリヤ人の政策によって有力なイスラエル人は捕囚として捕らわれ、他の地域の異邦人が入ってきて、残されたイスラエルの貧困層と結婚し、産んだ混血民族が住んでいるところでした。異邦人を極度に嫌っていたユダヤ人の立場から見ると、サマリアは正統性も純粋性もない不浄な場所だったのです。ところで、その中でも5回も離婚を経験し、最終的には婚姻関係ではなく同棲をしていた彼女だったため、どれほど不浄な女だと批判されたことでしょうか? ところが、ダビデの子孫、ユダヤ人の中のユダヤ人だったイエス・キリストは、わざわざ彼女を訪れてくださいました。イエス様が不浄なサマリアに行かれたというのは一般のユダヤ人としては想像も出来ないことであり、その中でも不浄な女だと知られている彼女に手を差し伸べられたということは、常識を破ることでした。『そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。』(ヨハネ4:6)近東の正午ごろと言えば40度を上回る暑さで、誰も外に出ない時です。不浄な女だと近所の人に嫌われたその女は他人の目を避け、その暑い時、密かに水がめを持って出てきたのです。水を汲むために出てきたその女は、井戸のそばに座っておられるイエスを発見しました。そのイエスは、最も暑い時に、誰も訪れない、その疎外された女性に出会い、不浄を清めてくださり、神の御言葉を伝えるために来られた神の子でした​​。 2.不浄な者を探しておられるイエス。 今日の旧約本文は偶像崇拝と不従順のため裁かれ、バビロンの捕囚として捕らわれたイスラエルの民が主の赦しと恵みにより帰還した後、主から頂いた御言葉です。罪によって神様に裁かれたイスラエルですが、神様は彼らに裁きを免れる道をくださり、御恵みを与えてくださるという言葉であり、『その日、エルサレムから命の水が湧き出で半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい夏も冬も流れ続ける。主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ、その御名は唯一の御名となる。』(ゼカリヤ14:8-9)という祝福と約束により、ご自分の民を慰めてくださる言葉であります。イスラエルが罪を犯したけれど、神様は決して彼らを見捨てられず、彼らが神様に真の悔い改めと愛をもって来れば、神様も彼らを赦し助けてくださるという約束の言葉です。 神様は、旧約聖書の多くの箇所で、常にご自分の民に悔い改めを促されました。『もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地を癒す。』(歴代誌下7:14)神様は、ご自分の民の不正を決して赦されない方ですが、その不正を謙虚に悔い改め、神に聞き従い、帰ってくれば、必ず癒し赦してくださる方です。そして彼らに裁きを免れる道と命の水とをくださり、彼らを守り、慰めてくださる方です。主はユダヤ人に軽蔑されたサマリア人に、特にそのサマリア人にも軽蔑された井戸の女を訪れてくださいました。神は王宮ではなく、神殿ではなく、権力者ではなく、不浄な地の最も不浄な女に来られたのです。そして彼女に『婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で父を礼拝する時が来る。まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。』という言葉を通して、その女を礼拝者として神様に招かれました。 神は不浄な者を拒まれる方ではありません。自分の罪を認め、悔い改める者、神に希望を求める者、神様の権威を認める者に、いつでも喜んで新しい機会を与えてくださる方です。すべての人に嫌われたサマリアの女は、不浄な出身という人種的差別、不浄な女という社会的差別、自ら自分を批判する罪悪感に苦しめられましたが、だからこそイエス様は彼女を訪れられたのです。エルサレムからガリラヤに行く時、通常ユダヤ人たちは地中海側の道、或いは東側のヨルダン川端に沿って北に上がっていきました。つまり、わざわざサマリアを避けて行ったということです。しかし、主イエスはわざわざサマリアに行かれました。なぜでしょうか?まさにこの女に出会うためでした。イエス様はわざわざ最も疎外されたところ、最も不浄な場所を探し訪れる方です。不浄を清める神様の力を通して、自らどうしようもない罪人を赦され、彼らが疎外から切り抜け、神様を礼拝することが出来るよう新たに生まれさせてくださるためです。主イエスは不浄を清め、新たに生きさせてくださる命の水そのものでした。 3.神と和解させてくださる主イエス。 父なる神様がイエス・キリストを私たちに遣わされた理由は、主イエスにより人間の中から湧き出る命の水を通して、神から遠ざかった存在が霊的な渇きを癒し、罪を洗い、イエス・キリストを通して御父のところに出て来ることが出来るよう、道をくださり力をくださるためです。そのイエス・キリストを通して、人間を招かれる理由は、我々が神様に礼拝出来るようにするためです。礼拝という言葉はπροσκυνέω(プロスクィネオ)というギリシャ語を翻訳した言葉です。プロスは「 – に向かって」という意味であり、クィネオは「口付ける」という意味だそうです。 「誰かに口付ける、誰かにひれ伏す」という意味を持っているそうです。ところで、面白いのは、クィネオの語源である「クィオン」の意味です。このクィオンは犬という意味ですが、クィネオという言葉は主人の手を舐める犬の姿から来たそうです。 この原語の意味を研究しながら考えたことですが、イエス様が来られ命の水をもって私たちを清めてくださったのは、神様の手に口付けることが出来る清い存在として生まれ変わらせてくださったことではないかということです。お宅で犬や猫を育てておられる方もいらっしゃると思います。もし、主人のない野良犬が皆さんの手を嘗めたとしたらいかがでしょうか?噛まれるんじゃないかと心配されるでしょう?しかし、ご自宅で育てておられる愛犬が手を嘗めればいかがでしょうか?頭を撫でて可愛がられるでしょう?イエス・キリストを信じるということ、命の水である彼に清められたというのは、いつ神に近づいても神様に拒まれない者、そのような存在になるということではないしょうか?私たちが礼拝することが出来るというのは、正にこの神との関係に壁がなくなるということではないでしょうか?イエス・キリストは、疎外される者、不浄な者を召され、新たにされ、御父と和解させてくださる命の主でいらっしゃいます。私たちが過去どんな人生を生きてきたにせよ、どんな罪を犯したにせよ、どんな疎外を受けたにせよ、主は私たちと一緒におられ、私たちを清めてくださる方です。今日の本文が私たちに教えてくれる、明らかな事実は、過去私たちがどんな人生を生きてきたとしても、今は主イエスを通して父なる神様に堂々と礼拝することが出来るということです。  締め括り 今日も主イエスは疎外された者、不浄な者、罪人を探しておられます。そして、キリストの中にある命の水を惜しげもなく注いでくださる方です。主の命の水を通して霊的な渇きが癒され、主の命の水を通して霊的な清めが可能です。そのような新たになることにより、罪人は天の御父の御前に堂々と進むことが出来ます。イエス・キリストがいつも私たちの罪を洗い流し、新たにしてくださるからです。サマリアの女は今日、自分に訪れて来て、最も疎外され、不浄な自分に礼拝の機会を与えられた人が、まさにメシアであることを悟りました。その時、彼女は自分がなぜ井戸に来たのかも忘れてしまったように、水がめを置いといて、人々にイエスを伝えるために行きました。自分が、いつも求めてきた水を汲む水がめさえ捨てたのは、ひたすら真の命の水であるイエス様を伝えるためでした。主が彼女に永遠の命の水を与えてくださったからです。皆さん、サマリアの女を助けてくださったイエス・キリストは、今日も私たちと一緒におられます。疎外感を感じるとき、自分が汚れていると思われるとき、誰も自分の味方ではないと考えるとき、私たちと喜んで一緒におられる主イエスを覚え、主の慰めと愛に寄り掛かり、主と共に歩む私達、志免教会になりますように、祈ります。

イエスは命と復活の主。

詩編16編8-11節 ヨハネによる福音書 11章17‐27節 前置き イエス・キリストが罪人を救い、彼らに新しい命を与えるためには、必ずエルサレムに上られ、ご自分の命を捧げる十字架での死が必要でした。『私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。』(ローマ6:4)ローマ書の言葉のように、イエスの死と共に罪人が死に、イエスの復活と共に罪人も新しい命を得て復活するからです。そのため、イエスの死は、すでに定められた死であり、この死は逆説的にも、死に勝利するための第一歩でした。 人間にとって、死というのは、すべての終わりに等しいです。人間は死を克服する何の力もないからです。人間が死に至れば、肉体は土になって消え、魂は神に呼び出され裁かれます。しかし、イエスの死は、それとは異なります。その死は必ず復活を前提としている死であり、その復活が前提された死は命が終わる死ではなく、死を終えるための死であります。そういうわけで、イエス・キリストに於いて、死というのは終わりではなく、新たな始まりを意味します。ここに私たち、信者の希望があります。今日のラザロの死も、このような視点から見なければならないでしょう。死により、悲しみに満ちたところから、むしろ、その死を通して、復活の希望を見せてくださるキリストの恵み。私たちが、死に接する姿勢も漠然とした恐怖ではなく、死に打ち勝つキリストへの希望であるべきではないでしょうか? 1.復活は知識ではありません。 ラザロを蘇らせたしるしは、イエス様のエルサレム入城前の最後の奇跡でした。イエスは、ヨハネによる福音書の10章までの御教えとしるしを通して、民と共におられる神、民を赦してくださる神、民を愛しておられる神を示されました。しかし、このラザロを蘇らせたしるしからは、単なる教えとしるしではなく、イエス様ご自身が、ご自分の命を捧げ、神と民との間の壊された関係を治し、ご自分の死を通して民の罪を赦し、ご自分の復活と民の復活を成し遂げる真の救いの始まりを示してくださいます。イエス・キリストは思想家ではありません。革命家でもありません。単に知識を伝える理論家でもありません。イエスは、これまでの教えを網羅する完全な実践のためにエルサレムにいらっしゃって、自ら十字架にかかり、『救いを教える神』を超え『救いを行動する神』としての姿を見せてくださったのです。 大勢の人々が御救いについて知識としてだけ知り、復活を信仰の問題として考えています。しかし、イエスは、より実践的で、現実的な復活を示すことを望んでおられたのです。イエス様がラザロが病気にかかったという便りに接せられた時、彼の死についてこう語られました。『この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。』(ヨハネ11:4)そして、しばらくして『私たちの友ラザロが眠っている。しかし、私は彼を起こしに行く。』(ヨハネ11:11)と言われます。弟子たちはこれまで、イエスの多くのしるしを見てきたにも関わらず、イエスの言葉に懐疑的な態度をとります。『主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう。』(ヨハネ11:12)この言葉を通して、類推してみると、弟子たちは、いくらイエス様だといっても、死者についてはどうしようもないという考えを持っていたようです。イエスは、他の福音書を通して何度も、ご自分の死と復活を教えられました。イエス様こそが死に打ち勝つ方であるという事実を教えられました。しかし、ラザロの死の前で人々は、イエス様が命の持ち主であることを信じていませんでした。死ねば終わりだと思っていたのです。ただ知識としての教義については、主の言葉として喜んで頂きましたが、実際に死に勝利する主イエスの権威は信じていなかったということです。 そのような教義的な知識は、ラザロの妹であるマルタからも、そのまま示されます。『イエス様がここにいてくださいましたら、兄は死ななかったでしょう。私は今でも、イエス様が神に願ってくだされば、何でも神はかなえてくださると、知っています。しかし、私は終わりの日、復活の時に兄が復活することを知っています。』イエスは今や彼を蘇らせようとされたのに、むしろ彼の妹マルタは、イエスの力を信じているように言いながらも、現実を否むような姿をとっています。『将来、私たちがまだ知らない、いつか兄が復活するでしょう?私はそれを信じています。』 一見、マルタの信仰はとても成熟して合理的に見えます。イエス様を苦しめることもなく、自分の信仰も守ります。しかし、彼女は間違っていました。自分の前に、実際に人を蘇らせる方がおられることを見落としたのです。彼女はイエスを固く信じていました。しかし、彼女は自分の宗教的な知識に限って、イエスを信じていたのです。 2.復活とは何でしょう? そのような彼女の知識を破る出来事が起こります。イエス様が実際にラザロを蘇らせたことです。『イエスはラザロ、出て来なさいと大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。』(ヨハネ11:43-44)そのラザロの復活を見て、多くのユダヤ人がイエスを信じるようになりました。おそらく、マルタもイエス・キリストが、単に教義的な救い主、知識的な先生ではなく、実際に死に勝ち、生命を与えてくださる復活であり、命の主であることを信じるようになったのでしょう。神様がラザロを蘇らせるために主イエスをお遣わしになった理由は周りにいる群衆のためであり、彼らに信じさせるためでした。単に知識としてイエスを信じるのではなく、本当にそのイエスがご自分の言葉を成し遂げる力を持っておられることを教えてくださるためでした。そして、その御言葉のように、イエス様が十字架につけられて死に、実際に復活されることによって、主を信じる全ての人に永遠の命を与えてくださるということを予告されるためにラザロを蘇らせたのです。イエス・キリストがラザロを蘇らせたしるしは、教義的な知識に、実質的な体験を与えてくださる、知識と経験が一つになる本当の信仰を与えてくださる出来事になりました。 私たちは、人が復活するということについて、どういう考えを持っているでしょうか?もちろん、 キリスト者なら誰でも最後の日、イエスが再臨されると、自分も復活するという信仰を持っているのでしょう。しかし、今まさに、誰かが復活するということには簡単に頷けないでしょう。死んだ人が蘇ることは有り得ないことだからです。頭では信じるとしても、実際に起こるとは信じられないからです。しかし、主イエスは言われました。『私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。』(ヨハネ11:25-26)イエスは、復活について、実際に存在しているものであり、私たちの中でも起こると言われました。しかし、イエス様が語られた復活はラザロのしるしとは別の概念です。それは永遠に再び死ぬことのない、復活を意味します。ラザロは永遠に生きることになったでしょうか?もし、そうだったら、今でもイスラエルには2000何歳のラザロが生きているはずでしょう。おそらくラザロは再び死んだでしょう。彼が再び蘇ったのは、永遠の命を与えてくださるイエス・キリストの復活の予告でした。彼を通して人間に復活と命をくださる方が、正に主イエスであるという教えを示すためだったのです。ですので、ラザロの復活は不完全でした。本当の復活は永遠に生きることであるからです。おそらく最後の日には、ラザロも完全に復活し、永遠に神と生き、二度と死を経験しないでしょう。 それでは、我々は、果たして復活について、どう考えるべきでしょうか?しばらく、原文を参照して言葉について勉強してみましょう。 25節に出てくる『私を信じる者』の「信じる」は、継続的に信じることを意味します。一度だけ信じて、やがて信仰を止めることではなく、主イエスへの絶え間ない信仰、どうなっても信じ込む信仰、ただ主イエスだけが唯一の拠り所であり、神様であるという信仰、そのような信仰を意味します。そんな者こそが『死んでも生きる。』者です。そして、その『死んでも生きる。』という文章での死はたった一度だけ死ぬことを意味します。物理的に一度死んでも、神は彼を永遠に覚えられ、死に置かず蘇らせてくださることを意味します。これは、イエスが再臨される時に起こる、体の復活だと考えてもいいでしょう。ところで、26節の言葉がちょっと気になります。 26節では、 26節では、生きている時イエスを信じた者が、継続的にその信仰を守れば、永遠に死ぬことはないという意味として記されています。 人は一度死ぬことが決まっている存在であり、最後の日に復活するというのは信じているのに、永遠に死なないというのは一体何の意味でしょうか?イエスを信じれば、1000年も生きるという意味でしょうか?それについて、ある神学者は、25節の言葉は、伝統的な復活を示す終末論的な復活を意味すると語りました。そして、26節の言葉は、イエスを信じる人は、その魂が神様から切られてしまう霊的な死から自由になり、永遠に神から見捨てられず、永遠な魂の命を得るという意味です。死んでも神様に守っていただくという意味です。そして、25節と26節の内容が一つになり、最後の日には体も、魂も新しく生きるようになるという意味です。 3.復活とは、神と連れあって歩むこと。 今日の旧約本文を詳しく見てみたいと思います。『私は絶えず主に相対しています。主は右にいまし、私は揺らぐことがありません。』(詩篇16:8)『あなたは私の魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます。』(詩篇16:10)ダビデは、生前、何度も死に瀕する経験をしました。しかし、そのたびに主がダビデを助けてくださり、結局、彼を王にしてくださいました。ダビデは、死ぬほどの恐れと苦しみの中でも、彼を助け、愛してくださる神様を信じました。神はそのような彼を陰府に捨てられず、最後まで守ってくださり、ダビデはその神を信頼し、自分に「命の道」を教えてくださると喜び、褒め称えました。私たちが主イエスを信じ、彼からいただく永遠の命は、このようなものじゃないかと思います。常に死が私たちを脅かし、いつ私たちが消えてしまうかも知れない状況で、唯一の主イエスだけは、私たちの魂をご存知で、私たちと共に歩んでくださり、私たちを守ってくださる方だと信頼すること。もし、主イエスがいらっしゃらなければ、私たちの死後に何の希望もないはずだったけれど、イエス・キリストを通して神が私の命を召され、最後の日の復活の時まで、私たちの魂を大切に守ってくださるということ。復活は、このように神から離れないように、主イエスによる神の御守りが私達と共にあるということではないでしょうか? いくら蘇るといっても、再び死ぬなら、それは完全な復活ではないでしょう。また、死に決まっている復活ならば、真の復活ではないからです。むしろ主は、イエス・キリストを信じる信仰を通して得る希望、つまり神様がくださる永遠の命の希望を持って、誰でも経験しなければならない一度の肉体の死から、しばらく蘇らせられることにより、神から完全に見捨てられる魂の死、完全な死から自由になることこそが、真の復活であり、命であると言われているのではないでしょうか? 聖書は語ります。主イエスを信じて、主と共にいる私たちは、すでに復活を得た存在で​​あると。今日、イエスは言われました。 『私は復活であり、命である。』イエス・キリストは、私たちの復活のために死なれた方です。彼の死は、死に勝つための死でした。彼はすでに死に勝利され、彼と一緒にいる人は、その死の影響圏の外で生きていきます。私たちは、日増しに老いていくでしょう。死に近づいていくでしょう。しかし、私たちの魂は、日増しに右にも左にも揺るがず、神様に向かって進んでいくでしょう。そして死に会う日、死を乗り越え、神様に一歩近付く喜びと感動をもって神様と対面するでしょう。その日まで、私たちと絶えずおられる神の恵み、私たちを守ってくださるイエス・キリストの恵みが私たちと共に歩むでしょう。これが私たちの真の復活であり、命ではないでしょうか?  締め括り 母親の胎内にいる、胎児は何を考えているでしょうか?『ここを離れるとどうなるか?』という漠然とした不安を感じていることではないでしょうか?しかし、生まれてみると青空があり、広々とした海があり、暖かい日差しがあり、何よりも愛する人たちがいます。多分、私たちも、そんな胎児のように、死後に対する漠然とした不安を持って生きていくかも知れません。しかし、私達の長い生が終わり、神様に召される日、それ以来、むしろ今よりも遥かに美しく、幸せな主との歩みが繰り広げられると聖書は証言しています。ラザロが生き返った事件は、イエス・キリストの真の復活の予告でした。そしてラザロの復活を通して、私たちは、ただ知識的な信仰を経験的な信仰に変えてくださるイエス・キリストに会うことが出来ます。そして、ラザロを蘇らせた後、ご自分の民の復活のために自ら死に向かって行かれるイエス様に会うことも出来ます。明らかなことは、このイエス様がすでに復活され、死を征服されたということです。だから、イエスを信じる私たちは、死への永遠の恐怖から自由になることが出来ます。イエスが再び来られるその日、私たちは最も美しく、完全な姿で復活するでしょう。それからは、死は無くなり、神様は御自分の民とご一緒に永遠におられるでしょう。今日のラザロのしるしを通して、イエス様が私たちに示してくださった、この復活について深く考えてみる時間になることを願います。

良い羊飼い、悪い羊飼い。

エゼキエル34章7-10節 ヨハネによる福音書 10章1‐21節 キリスト教は三位一体なる神のみ、創り主、救い主、助け主として認められ、その中で、ひたすらイエス・キリストが中心となって、神と世界を理解するキリスト中心的な宗教であります。この世界の誰も、神様から遣わされたキリストに取って代わることが出来ず、そのキリストだけが神様に認められた世界の支配者であることを認め、信じる宗教です。父なる神様が旧約とは違って、イエス・キリストだけを三位一体の代表にしてくださり、玉座を譲ってくださった宗教であります。イエス・キリストは勝利者です。終わりの日には新約聖書の弱くて穏やかなイメージではなく、戦争に勝利した凱旋将軍の姿で再び、この世に来られるでしょう。イエス様が再臨される終わりの日、主イエスは、この世界のすべての善と悪を裁かれ、その栄光の玉座を父なる神様に返されるでしょう。これがキリスト教の伝統的な終末論なんです。 それにもかかわらず、このような勝利者イエス・キリストは、相変わらず羊を愛し、守る穏やかな良い羊飼いのイメージを持って、常に私たちに慰めと愛を与えてくださいます。そして、自らご自分を良い牧者だと称され、ご自分を信じる者をご自分の羊として招かれます。そして、お赦しくださり、お助けくださいます。イエス・キリストは、良い羊飼いです。彼に従って生きる者たちに『主は羊飼い、私には何も欠けることがない。』という詩篇の言葉のように希望と喜びを与えてくださる方です。ところで、私たちは、このイエス・キリストに選ばれ、彼の体なる教会の一員として生きています。それは私達がただの羊であるだけでなく、主の務めを分け与えられた存在だという意味です。この世で大牧者である主イエスの小さな羊飼いとして良い羊飼いの任務を持って生きているという意味です。主の羊として主の体なる教会になったら、主の小さな羊飼いとしての人生をも生きなければならないからです。そういう意味で、キリスト者なら、自分が羊であるということと共に羊飼いでもあるというアイデンティティを持って、この世界を生きて行くべきです。世の中には良い羊飼いと悪い羊飼いがいます。私たちは、果たして、どちらでしょうか?今日は、私たちが、果たして、どのような羊飼いなのか、また、どのような羊なのか考えてみたいと思います。 1.良い大牧者イエスと小さな羊飼いキリスト者。 イエス・キリストは、良い大牧者です。神を知らず、信じてもいないこの世で、神に選ばれた者たちを導かれ、神の牧場に連れて行かれる愛に満ちた大牧者です。また、イエス様は、羊の門です。誰でも自由に入ることが出来ない、ただ、選ばれた羊だけが入ることが出来る、たった1つの羊の門です。愛のない、他者のためではなく、もっぱら自分のために生きていく、自分のためなら他者が死んでも構わない邪悪な世界で、自らの命を捧げながらも、羊を愛してくださる真の羊の保護者になってくださる方です。『私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。』(ヨハネ10:11)ところで、このイエス様は自らが大牧者になってくださることと、同時に主の共同体の指導者にも、主の御心に聞き従う小さな牧者としての務めを与えてくださいました。今日の旧約本文に羊飼いという言葉が出てきます。これは、イスラエルを治める王と貴族を示す意味です。彼らは民を愛さず、自分らの欲望だけを満たそうとした人々でした。主はそんな彼らに滅亡という恐ろしい裁きを下しました。 良い大牧者イエス様は、ご自分の命すら捨ててまで、民を生かされた愛の主でしたが、滅ぼされたイスラエルの牧者たち、つまり指導者たちは、自分らの名誉、権威、富だけを考え、貧しくて可哀相な民の事情には何の興味も持っていませんでした。もちろん、神様に褒められた王と貴族もいましたが、ほとんどの王族や貴族は民の幸せより、自分の欲望を満たすのに忙しかったのです。神はこの世の一挙一動を全部知っておられる方です。私たちの髪の毛さえも数えられる方です。そのため、苦しんでいる民の呻き声と涙にさらに深い共感と関心を持っておられる方です。そのような神の御心を理解ぜず、むしろ民を放っておいた牧者たちのせいで、イスラエルは神に呪われ、他国に滅ぼされてしまいました。羊を愛さず、打ち捨てた羊飼いたちは、心深く羊を愛される大牧者に裁かれ、滅ぼされたのです。 皆さん、私達、教会はイエス・キリストの体です。教会は、イエスの手と足、唇になって、イエス様が愛する人々に仕え、主の福音を宣べ伝える使命を持っています。私たち志免教会の一人一人が皆、主の手と足、唇としての人生を生きています。隣人に仕え、愛することは、イエスの体であるキリスト者において、当たり前なことであり、近所の人々に主の福音を伝えることは、私たちが召される日まで止まってはならない非常に重要な価値であります。牧師、宣教師、伝道師、教職者だけが羊飼いではありません。大牧者であるキリストの教会を成す全ての信徒は、イエス・キリストに羊飼いとしての任務を与えられた主の小さな羊飼いです。ですので、私たちは教会員どうし、お互いに自分の羊のように愛しなければなりません。また、まだ信じていない周りの隣人にも、失われた羊だと思い、福音を伝え、愛をもって仕える義務があります。ただイエスを信じ、祝福され、天の国に入り、自分だけのために信仰生活をするなら、それは神に呪われた、昔のイスラエルの王族と貴族の形と、別に違いがないでしょう。大牧者イエス・キリストによって遣わされた私たちは、主の小さな羊飼いです。今、私達の心に小さな羊飼いとしての自覚があるかどうか、考えて見るべきだと思います。 2.羊は羊飼いの声を聞き分ける。 教会の真の良い羊飼いはイエス・キリストです。韓国の教会では、たまにあることですが、教会に仕えるために召された牧師が、『自分は特別に選ばれた羊飼いである。』という考えを持っている場合が少なくないと思います。言葉では牧師ですが、まるで、自分が教会の所有者のように振舞うケースがあるということです。しかし、厳密に言えば牧師も、結局、羊の群れの中で、教える務めを与えられた、羊を教える羊に過ぎないです。つまり、牧師も、信徒も、皆が主の羊であり、皆、お互い助け合う主の小さな羊飼いとして選ばれた者であると考えるのが正しいではないかと思います。ただ、教職者は神学、聖書について専門的に勉強したので、講壇では権威を認められるべきだと思いますが、牧師も基本的には主の羊ですので、教職者も、主の羊として、神の声を謙虚に受け入れなければなりません。時々。神学博士の知識を超える本質的な神の言葉が幼稚園の子供の口から出るときもあるからです。主の羊といえば、謙虚に主の御言葉に与かるものです。それでは、果たして主の言葉とは何でしょうか? それはイエス・キリストを通して聞こえて来る聖書の御言葉を意味します。イエスを通さずに、聞こえてくる全ての愛の言葉、聖書の言葉、救いの言葉、宗教的な言葉は注意する必要があります。韓国から渡ってきた統一教会、アメリカから渡ってきエホバの証人など、イエスを認めない、全ての聖書の教えは、残念ながら、全部嘘ばかりです。彼らは盗人であり、強盗であります。これは私たちだけが真理だという独断ではありません。これは彼らが正しい救いの道ではなく、イエス・キリストを示さない間違った教えを伝えるからです。今日の本文はこう語っています。『はっきり言っておく。私は羊の門である。 私より前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。』(ヨハネ10:7-8)本当にイエス・キリストの民となった者は、ただイエス・キリストの言葉だけを聞くものです。 『盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。』(ヨハネ10:10)私達は主の羊として主の言葉を聞き分け、主イエスだけを通して神様に行かなければなりません。イエスのない言葉は、虚しさに過ぎないのです。  今の私たちは、大牧者である主イエス・キリストをちゃんと伝えている良い羊飼いとして生きているでしょうか?そして、主イエス・キリストの御言葉をきちんと聞き分ける本当の羊として生きているでしょうか?私たちは、主の言葉を、どのように受け入れ、生きていっていますか?聖書は良い大牧者イエスと悪い羊飼いについて明確に比較しています。この聖書の言葉を通して主の御言葉に与かった私たちは、その違いを通して自分自身を省みるべきだと思います。このような反省を通して、悔い改めが始まり、その悔い改めを通して神の恵みが臨むからです。今日の話を締め括る前に、二人の日本のキリスト者の話しを分かち合いたいと思います。この話を聞きながら、真の羊飼い、真の羊は果たして、どちらか?考えてみる時間にしたいと思います。 3.良い羊飼い、悪い羊飼い。 1941年、昭和16年6月、日本の34個のプロテスタント教派は強制的に統合されます。これは軍国主義による教会統制の一環でした。このような統合により、生まれたのが、まさに日本キリスト教団です。その日本キリスト教団の初代議長は富田満という神学者でした。愛知県春日井市出身の富田満は、旧日本キリスト教会の大会議長であり、東京神学校の理事長などを歴任するほど、影響力のある牧師でした。彼は正統的なキリスト信仰とは違う自由主義的な神学を用い、軍国主義に賛同し、最終的には神社参拝は偶像崇拝ではなく、国民儀礼であるという言い訳をしました。また、彼の導きにより、日本の教会は、神社参拝を行います。それだけではなく、彼の主張の下で、朝鮮の教会も神社参拝を強要されます。韓国のチュ・キチョル牧師は神社参拝を拒否したため、投獄され、殉教しました。大勢の信徒が信仰を守るために投獄されたり、殺されたりしました。一方、大勢の朝鮮の牧師たちは、富田の主張に負け、朝鮮神宮で参拝を行なってしまいます。そのような韓国の牧師たちが、今も韓国のキリスト教の偉大な指導者として尊敬される場合があり、遺憾を禁じ得ません。富田満は、戦後、ちゃんとした懺悔や謝罪もせず、日本キリスト教団の影響力のある牧師として活動し、1961年に亡くなります。 韓国のソウルには楊花津宣教師墓地という場所があります。世界各国から来た宣教師たちを記念するところです。そこには日本人宣教師の墓が一つあります。まさに曾田嘉伊智の墓です。山口県出身の曾田嘉伊智は、植民地朝鮮で朝鮮の孤児たちを自分の子供のように面倒を見た義人です。彼は朝鮮の植民地独立のために朝鮮人たちと協力しようとした人ですが、朝鮮人にはスパイとして、日本人には裏切り者として両方から嫌われた人です。しかし、彼は信仰の力を通して、忍耐し、全ての誤解を乗り越えました。そして真の平和を望み、朝鮮人を助け、日本人を宣教しよう、という一念で生きました。朝鮮人たちは、彼の心に感服し、同胞のように信じ従います。日本が敗戦し、戦争が終わった時、本国に帰ろうとしていた北朝鮮地域の日本人たちが、ロシア軍に無惨に攻撃されたことがありました。当時、近所の教会で伝道に携わっていた曾田嘉伊智は自分が仕えている教会堂に信者、未信者を問わず、日本人を集め、命をかけて守りました。彼は朝鮮の民衆、日本の難民、民族を問わず、主の愛をもって、人々の面倒を見ました。また、80歳頃、福音を伝えるために下関行きの船に乗ります。そして、日本全国を巡り、神の福音を宣べ伝えました。そして1961年に韓国に戻って来て、翌年神様に召されました。 締め括り 富田満と曾田嘉伊智。果たして彼らは神様の審判台で、どんな評価を受けたでしょうか?果たして誰が良い羊そして羊飼いとしての人生を生きたと褒められたんでしょうか?裁きは神様の領域ですので評価出来ないと思いますけれど、聖霊が皆さんの心にお答えをくださると信じ、皆さんのご判断に任せたいと思います。今日の旧約本文に出てくる『羊を養う。』の『養う。』の原文は『面倒を見る、愛をもって治める、付き合う、友達になる。』などの意味をも持っています。私たちは主の羊です。大牧者、主イエスは、私たちを養われます。だから、主は、私たちを守り、愛する友達になってくださいます。その主に愛された私達は、また、他者を愛するために小さな羊飼いとして遣わされました。主から愛を受けた私たちは、今や、他者を助け、愛する友達になる番です。主の羊であり、小さな羊飼いとなる私たちの生活を通して、主は喜ばれ、私たちを祝福してくださるでしょう。来たる一週間、良い羊、良い羊飼いとして、神様の喜びになりますように祈ります。そのような生活のために、主イエスの恵みと助けが、限りなくありますように切に願います。

神様の栄光、私達の栄光

創世記1章1-3節(旧1頁)・コリント人への手紙2 4章5‐6節(新329頁) 前置き いつか、栄光という言葉が、ふだん、日本で、どのように使われているのか、気になってきて、インターネットのGoogleジャパンと、yahooジャパンとに検索して見た事があります。すると、ハリウッド映画のタイトル、ある野球選手の人間勝利の物語、戦後日本の回復ストーリー等、色んな記事の中に栄光という言葉が書かれていました。私はこの切っ掛けによって、日本で使われている栄光という表現も韓国の使い方と、そんなに違わない事に気付いたのです。 この平凡な言葉、栄光。古今東西を問わず、人々はこの栄光という言葉をよく使います。 この栄光というのは、 特にキリスト者によって、 神様の栄光、主の栄光などの表現として、使われる場合が少なくないと思います。でも、神様の栄光という言葉が完璧に理解できる事は人間にとっては、中々、容易くないかもしれません。 日本語の辞書を引いて見ると栄光とは『 1.輝かしい 誉れ。2.幸先のよい光 。』 と記されていました。でも、聖書に記されている栄光とは、元々日本語の意味とは少し違います。単に人間が感じる栄光という意味ではなく、いっそう、神様中心的な表現です。栄光の原文『ドクサ』はギリシャ語の『ドケオー』に基づいた表現です。この『ドケオー』は『~に見える。』『~に思われる。』 などの意味を持っています。これを原文によって、考えて見れば、栄光とは人間が辿り着く事が出来ない神様という超越的な存在を『~に見える。』『~に思われる。』のように間接的に理解させる物である。という事が出来ます。 まるで、ヒマワリが、いくら花弁を伸ばしても、太陽に触れる事が出来ないように、私達は神様に自分の力では、捜し求める事が出来ません。人間は自ら、神様に触る事も、見る事も、感じる事さえも、出来る力がありません。神様は私達がご自身を、直接に理解する事を許されませんでした。それにも関わらず、神様の御業によって、私達が神様に理解できるように、ご自身を見せてくだいました。見る事が出来ない神が、自らご自身を見せてくださる。こういう訳で人間が神様に気付く事が出来る。これこそが正に神から人間に照らされる恵みの光、神の栄光ではないかと思います。そう言えば、神の栄光とは神様だけの物だという事が分かります。今日の本文は、そういう、神の栄光が、どう私達に知らせるようになるのかを教えてくれます。 1.人間と被造物とにとって、神の栄光とは。 神様はこの世を造られた時、『光、あれ。』と命じられました。この光は神様の本質に似ている物ました。最初の世界、闇の内、水で満たされていた状態。闇と水は 虚しさと死の象徴でした。この虚しさと死を打ち破った最初の被造物が、この光でした。光は神様の秩序の始まりでした。無秩序と死を追い出し、造り主の初被造物となり、始めの秩序の第一歩となったのが、この光でした。光は被造物への神様の栄光の象徴でした。『 良い贈り物、 完全な賜物は みな、上から、光の源である 御父から 来るのです。 御父には,移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません.(ヤコブ1章17節) 』ヤコブは神様が光の源であると告げました。父なる神様を光の源だと呼んだのはヤコブが悟った創造への意味深い告白だと思います。このヤコブが告げた光は、今日の本文にある程度、関係があります。今日の本文の6節の2ヶ所に光が出ています。『 闇から 光が 輝き 出よと 命じられた 神は、 私達 の 心の 内に 輝いて、 イエス • キリスト の 御顔に 輝く 神の 栄光を 悟る 光を 与えてくださいました.(コリント2 4:5-6)』原文を見ると、前の『闇から光が輝き出よと』の光と、後の『神の栄光を悟る光』の光との単語の形が両方違います。前の光はギリシャ語のフォースと呼ばれます。このフォースは自ら光を照らす、光源の事です。言葉通り、光の源です。後の光はフォースによって照らされた光、映し出された光のフォーティスモスと呼ばれます。このフォーティスモスは暫く後で、お話します。 今日の旧約聖書の創世記1章の光もフォースで、ヤコブ書の1章17節の光もフォースです。即ち、今日の本文の、前の光、フォースと、今日読みました、創世記、ヤコブ書の光は全部、同じ意味として、フォースと使われているのです。このフォースは自ら、輝く光です。神様は自ら、光を照らされるお方です。他の存在から、照らされる方ではありません。他者を照らされる神様は、輝かす光、フォースの源であられます。この光は神の本質、被造物が敢えて見る事が出来ない神の栄光の象徴です。神様のこのフォースによって照らされた存在は、映し出された光を現すものです。フォースにはフォーティスモスが、必ずついて来るためです。神様に造られた被造物は、このフォーティスモスを持って生きるものです。被造物は神のようには、決して、なる事が出来ませんが、神のフォースに伴うフォーティスモスによって、生きて行くべき存在です。神様のように他者、他の被造物を愛しながら、神様のお望みの事を従っていく、生き方が、全ての被造物の造られた理屈です。 この創造のルールは被造物の頭である人間にとっては、当たり前な話だと思います。このようにフォーティスモスを持っている初めの人は神様の形にそっくり、似ている存在でした。神様のフォースに照らされた初めの人は神様のように、他者を愛し、仕える者でした。他者を愛し、仕える事が出来る、この力が神の形にそっくり、似ている人間の本来の形でした。神様がお望みになった通り、生きる事が出来た人間、エデンの園で他の被造物を助けながら、神に礼拝する事が出来た人間。これが、神様が計画された人間の本当の姿です。この人間がご計画によって、造られた通り、生きるのが、人間が元々持っていたフォーティスモスの生き方、人間の真の栄光への道でした。神様から与えられた人間の栄光は、このフォースから生ずるフォーティスモスであったという事を、忘れない私達になりたいと思います。さて、ある日、この人間に問題が起こってしまいました。 2. 人間の問題を取り戻される主。 初めの人は神様に従って生きる事、この生き方に対して、心に疑いを差し挟む事になりました。神様からだけ、発される栄光を人間が奪おうとした訳です。これについては色々の神学的な見解がありますが、一つだけ、例えば、一番有名で、代表的な理論は、アウグスティヌスという神学者が主張した原罪論です。原罪というのは、原始から、祖先と子孫に繋がって来る罪の原因に関する理論です。祖先アダムが犯した最初の罪が今まで、人間を罪人として、生まれさせるという理論です。この罪への見解の真ん中にある事は、神の栄光を貪った最初の人間の話です。私はアウグスティヌスが、こういう原罪論という、主張を繰り広げた主な理由が、フォースとフォーティスモスとの繋がりのルールが破れてしまった訳だと思います。神様に頼って生きるべき人が、自ら自分の力に頼り、神の栄光を奪おうとし、神の下から、離れようとした、この野望がフォースのないフォーティスモス、源のない光、神の栄光のない人間、結局、死んでしまう者となった第一の原因だと思います。 人間は、このつまらなくて、虚しい野望のため、死の下に陥ってしまったのです。人間が栄光を得る事が出来る唯一の方法は、ただ、神の栄光の下に、ある事だけです。このように神様から、離れてしまった人間に、今日の本文は驚くべき事を教えてくれます。『闇から光が輝き出よと、命じられた神は、私達の心の内に輝いて、イエス • キリストの御顔に輝く、神の栄光を悟る光を与えてくださいました。(コリント人への手紙2 4:6) 』神様から、離れて死ぬ事になった人間、ロマ3:23のように『人は 皆、罪を犯して…