私の羊の世話をしなさい。

詩編 23編1-3節 (旧854頁) ヨハネによる福音書 21章15-19節(新211頁) 前置き 私は小学校5年生頃から教会に通ってまいりましたが、約30年間、去るイースター礼拝のような静かな礼拝は初めてでした。主の体なる教会が一つとなって一緒にパンを裂き、賛美をし、み言葉にあずかり、神様を崇める礼拝が、どれだけ、大切なことだったのかを改めて感じられる時間でした。教会をこのように一つにならせてくださったキリストの愛と犠牲、復活についても、もう一度覚え、感謝する時間でした。この状況が過ぎ去り、恐れることなく、礼拝を守り、お交わりできる日が一日も早く来ることを心から願います。思ったより長くなるかも知れない、今のウイルス騒ぎのために祈っていく私たち教会になることをお願いしたいと思います。 1.主の復活が私たちに及ぼす影響。 イエスは復活されました。罪の支払う代償は死であるというローマ書の言葉のように、人間の罪によって死んでいく、この世の中に本当の命を与えてくださるために、主は復活なさいました。人間の罪、それは自分自身だけのために、すべてのものを排除、差別し、憎み、最終的には自分自身まで打ち砕く破滅そのものです。そして、その破滅の終わりは、神との関係が切れてしまう永遠の死なのです。私たち、人間はこのような罪から決して自由になることが出来ません。私たちは、常に神のご命令に完全に聞き従わず、隣人を自分の体のように愛しておらず、いつも自分の欲望の中に生きる傾向のある存在だからです。あるキリスト者はこう言いました。 『罪がすなわち自分であり、自分はすなわち罪そのものである。』それだけに私たちは罪の誘惑と力を振り払うことが難しいです。私たち、キリスト者が主イエスを救い主と信じて、従う理由は主が、このようにあまりにも罪に近くにいる私たちのために、そのすべての罪を背負い、代わりに死んで、罪の力を完全に打ち破り、復活されたからです。 主が、このように罪の力に勝ち、復活なさったことと同時に、罪と、その支払う代償である死は、その力を完全に失ってしまいました。もちろん、人間の心と生に、まだ罪が存在することは確かです。しかし、今の罪は過去の罪とは、根本的に異なる状態です。主が人間の罪を清める救いの道を与えてくださったからです。主が来られる前に、ほとんどの人類が罪によって、神に捨てられ死ぬしかなかったのが、主が来られた今では、罪人がキリストの名によって罪を告白し、神様に赦されることが出来るようになりました。罪と死に勝利した主は、弱い人間の能力ではなく、強力なご自分の力を保証とし、罪人を赦してくださるのです。そのお赦しには死も対抗できないのです。主が成し遂げられた最大の御業は、まさに、そのいかなる罪人をもお赦しくださる資格と力を持って、罪人を救ってくださったということでしょう。主はご自分のその力を通して罪人を召され、罪を告白させ、新しい道に進ませてくださいます。 私たちは、これを悔い改めと言います。悔い改めとは、自分の罪を神の御前でことごとく告白し、その罪の道から完全に向き直ることを意味します。しかし、これは自分の力、意志で、簡単に達成できるものではありません。主が送ってくださる聖霊の御助けによって成し遂げられるものです。だから、いくら悔い改めをしても、なかなか直らないからといって、自分を、あまりに咎める必要はないと思います。もし、繰り返し罪を犯しても、諦めず続けて、キリストに頼り、罪を告白し、少しずつ正しい方向に変わっていこうとすれば、主が喜んで助けてくださるのでしょう。主は旧約と新約の御言葉を通して、このような悔い改めのある人生を促されました。『論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても、羊の毛のようになることができる。』(イザヤ1:18)『自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清めてくださいます。』(ヨハネ1:9)主はこのように、自分の復活を通して、罪人を召され、悔い改めさせることを望んでおられる方なのです。 2.悔い改めさせる主。 先に、この悔い改めについてお話した理由は、今日の本文の主な内容が、ペトロの悔い改めであるからです。よく知っておられるように、主の一番弟子だと自他が認めていたペトロは、主を三度も否定しました。『あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。』(マタイ16:18)イエスは生前ペトロに、イエス自身が教会をお建てになり、その教会を通して陰府の力に勝利すると宣言なさいました。もちろん、私たちはこのペトロがカトリック教会のように法王だとは思いません。しかし、主が彼を信頼されたのは否めない事実であります。ペトロは教会を成す弟子たちの象徴でした。つまり、主はペトロと呼ばれる一人の人物を通して、ペトロのように主を信じるすべての弟子たちに教会の成立を宣言なさったのです。そうした彼が主を裏切ってしまいました。信頼される弟子、弟子たちの象徴だった彼が、事実上、ユダのような裏切り者になったということです。 そんなペトロが、再び主に用いられるためには、何をすべきだったのでしょうか?それは『悔い改め』でした。ペトロとユダの同じ点は、両方、主を裏切ったということでした。しかし、両方の違いは、ペトロは悔い改めをしたということです。彼は主を否定した罪のために非常にいじけており、再び許されないという恐れに怯えていたかもしれません。しかし、イエスは彼を訪れてくださいました。そして、悔い改めさせ、もう一度彼に機会を与えてくださいました。『ヨハネの子シモン、この人たち以上に私を愛しているか』(15)、このような主の御質問にペトロは、自分の心を告白しました。 『はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。』その時、主のお答えは、『私の小羊を飼いなさい』でした。そして、主は同じ質問を2回繰り返し、ペトロもそれに対して『私はあなたを愛しております。』と明らかに答えました。それは、すなわち悔い改めの告白でした。主はそのようなペトロに『私の羊の世話をしなさい。』との答えを通して、ペトロに再び弟子としての人生を許してくださいました。 主が御自分の民を召されるときは、まず、悔い改めをお求めになります。その悔い改めは、キリスト自身が成し遂げられた救いと復活を通して、ご自分が、じかに保証してくださる完全な悔い改めです。主を3回も否定していたペトロは、主の御招きと愛とを通して悔い改めることが出来ました。まるで、3回の否定を、洗ってくださるかのように3回の告白を促され、悔い改めを許してくださるのです。キリストの救いの恵みの下にいる私たちは、いつでも主に悔い改めることが出来ます。誰でも、キリストの名を持って神に進めば、悔い改めることが許されます。新しい生活を始めることが出来るということです。主がペトロにお許しくださった悔い改めは、今を生きていく私たちにも適用されるものです。私たちの生活の中で悔い改めるべきことはありませんか?今でも自分の欲望のために、他人を憎み、神を軽蔑することはないでしょうか?主の赦しの招きに応じたペトロのように、今日も悔い改めと赦しを与えてくださる主の前で、自分の罪を告白する私たちになることを望みます。 3.教会に使命を与えてくださる主。 キリスト者にとって、悔い改めることが出来るようになったということ、主に赦されるようになったということは、ただ、私たちに与えられた救いの結果ではありません。むしろ、救いによって与えられた使命の始まりなのです。主はペトロに『私の羊を飼いなさい、私の羊の世話をしなさい。』と3回も強調されました。単に『主が私を愛してくださり、私も主を愛する。』ということだけで、終わることではありません。救われたキリスト者、つまり、私たちには『主の羊の世話をすること』という役割が残っています。それは、私たち、教会の使命なのです。つまり、主が許された悔い改めと救いは主に受けた私たちの使命のための第一歩にすぎません。私たちは、救われた者として、他人に仕える人生という使命を持っており、この使命は、私たちが主に召される終わりの日まで、私たちに託されている生き方なのです。 今日の本文に出てくる『飼いなさい。』とは、「ボスコ」というギリシャ語の言葉です。これは『餌をやる。飼う。』という意味です。また、『世話をする。』という言葉は、『フォイマイノ』で、『牧者として世話をする。治める。』という言葉です。これは両方、『主の羊を食わせ、養う。』という意味で、似ているニュアンスの表現です。主に赦された者、主に救われた者、主の弟子となった者。すなわち、教会は『主の羊を養い、飼う存在。』という意味です。私たちが、イースター礼拝を通して、主の復活を喜び、その復活による私たちの救いに感謝しているならば、我々は、この主の命令に聞き従う義務があるという意味です。主は大牧者であり、私たちは彼の羊飼いです。ここでの羊とは、被造物の代表である人間、すべての人類に適用される言葉です。私たちが本当に救われたクリスチャたちなら、自分の近所の人を、助け、食べさせ、守るべきです。すなわち愛して生きるべきだということでしょう。これは、主イエス・キリストが直接命じられた厳重な命令であります。しかし、残念なことに我々は主に与えられた、この命令を100%実行する能力がありません。実際に自分一人の人生を正しく保つことも難しいのが事実でしょう。しかし、幸いなことに、主は私たちに完璧を求めてはおられません。 主はペトロに『私を愛しているか。』とお聞きになりました。そのとき、主は『アガペー』というギリシャ語で愛を求められました。すると、ペトロは『アガペー』ではなく『フィロス』という言葉を使って、『私は主を愛しています。』と答えました。2番目も同じようにしました。すると、3番目の質問では、主も『フィロス』という言葉を使用して愛をお聞きになり、ペトロも『フィロス』を使用して答えました。『アガペー』も『フィロス』も愛という意味ですが、『アガペー』の方は神的な愛を意味する傾向があります。これに比べて『フィロス』は、もうちょっと人間的な愛の表現です。主が『アガペー』という言葉を用いられたとき、ペトロは、大胆に神的な愛で応答することが出来ませんでした。彼は神ではないし、背信の経験もあったからです。その時、主は『フィロス』を使用されることによって、弱いペトロに合わせて愛を求められました。私たちは、100%主と同じような完全な愛を実践することが出来ません。しかし、我々が愛しようとする際に、主は私たちの出来る範囲で、私たちのレベルに合わせて求めてくださるでしょう。したがって、我々は、救われた者として、私たちのできる小さなことから、近所の人を愛し、仕えつつ、生きていけばいいでしょう。主は決して私達のできないことをあえて強要なさいません。すでに主が成し遂げられた救いと愛なのです。我々は自分のレベルに合わせて愛して生きていけばいいのです。その時、主はさらに大きな恵みと力を私たちに与えてくださるでしょう。 締め括り 今日の本文はペトロの殉教を仄めかして話しを結びます。主に救われた弟子、主に聞き従う民には使命が与えられます。そして、その使命は、殉教を求めることもあるでしょう。ペトロは十字架に逆さにつけられて殉教したと言われます。しかし、主に赦された後、彼の人生は使命者の生であり、羊を飼い、世話をする生になりました。キリスト教の伝説によると、彼は二度と裏切らず、喜んで殉教に臨んだそうです。キリストの救いと聖霊の助けが彼を勇気のある弟子に導いてくれたのでしょう。私たちの人生も、このようになることを願います。主は昨日も今日も、明日も、私たちの大きな大牧者として、私たちを導いてくださる方です。私たちは、このような主に従って『主は私の羊飼い』と告白して生きていくことになります。このような大牧者キリストに従い、隣人の世話をし、愛する真の羊飼いとして生きていきたいと思います。主の復活と赦しによって、私たちの生活の中でも、そのような決意と勇気があふれますように祈り願います。